₩79」─1─中国共産党の「南京大虐殺関連資料」。世界記憶遺産認定と天皇に対する謝罪要求。No.365〜No.366No.367  *   

中国・韓国との新・歴史戦に勝つ!

中国・韓国との新・歴史戦に勝つ!


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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 日本の国體・政体対中国共産党の政体。
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 日本の対中配慮外交の惨敗。
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 中国共産党は、結党以来、反日が党是であった。
 2015年8月24日付けの中国共産党機関紙「光明日報」は、「昭和天皇侵略戦争の張本人」であると断定し、その子供である今上天王陛下に対して謝罪を要求し、現皇室の皇統が存続する限り謝罪を強要する姿勢を鮮明にした。
 中国共産党は、未来志向で、永久的戦争犯罪者の日本天皇と平和を愛する親中国派良心的日本人を切り離し、親中国派良心的日本人と手を携えて進む事を希望していた。
 反天皇反日的日本人は、中国共産党も呼び掛けに答え、天皇戦争犯罪や戦争責任を問い、日本皇室の廃絶を訴えている。
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 キッシンジャー国務長官「中国は伝統的に世界的な視野を持ち、日本は部族的な視野しか持っていない」
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 第九条の平和憲法日米安保条約が有る限り、日本はヤルタ・ポツダム体制に支配され、戦後は終わらない。
 護憲運動とは、ヤルタ・ポツダム体制を維持し、アメリカの従属国・保護国を存続させる為の運動である。
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 中国共産党政府は、紛れもない、反天皇反日である。
 反天皇反日こそが、中国共産党の結党以来の基本方針である。
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 軍国日本において。一般国民は、軍国主義者以上に戦争を熱狂して支持し、更なる進撃を求めていた。
 一般国民は、軍国主義者以上に靖国神社を信奉していた。
 戦争を後押ししていたのは、一般国民の不退転の意志であった。
 一般国民は、軍国主義者に踊らされていたわけでもなく、騙されていたわけでもなく、まして洗脳されていたわけでもない。
 例え戦場へと行きたくはなくても、一銭5厘の赤紙一枚で召集されれば逃げる事なく戦場に赴いた。
 それが、国民としての義務であったからである。
 一部に、兵役拒否として逃亡した日本人がいた。
 真っ当な一般国民は、、兵役逃れをせず、兵士として銃剣で敵兵(中国人兵士)を刺し殺した。
 一般国民は、勇敢に戦う日本兵士であった。
 一般国民と軍国主義者とを区別する事は、日本兵士に対する最も酷い侮辱である。
 同様に、正常な神経をした一般国民は靖国神社を死んでも守る。
 兵役逃れをした最低の卑怯者・日本人に賛同する反日的日本人は、一般国民の自由意志を踏みにじって靖国神社を廃絶しようとしている。
 日本に存在する二分論とは、万世一系の男系(直系長子相続)制度を命に代えても守ろうとした軍国主義者と一般国民に対して、中国共産党の意向に盲目的に従う反天皇反日的日本人である。
 戦争に勝って提灯行列を行ったのは、一般国民の意志であった、軍国主義者にイヤイヤ参加させられた分けではない。
 日本人は、中国人のように中国共産党の暴力的な官製デモに参加するほど意志薄弱ではない。
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 軍国日本で、中国共産党政府が行ったような官製デモは一度も起きてはいない。
 官製デモに参加して嬉しがるほど、日本人は馬鹿ではない。
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 軍国日本が戦ったのは、ヒトラーナチス・ドイツと友好関係を持っていたファシスト中国の国民党政権であった。
 中国共産党政権は、ソ連を通じて軍国日本とは友好関係にあった。
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 中国人の笑顔は真実の顔ではなく、別の顔を持ち、その真の顔を決して笑ってはいない。
 日本人に対する顔と日本人以外に見せる顔は、正反対である。
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 国際世論は、歴史的証拠資料を提出して説明する日本の言葉よりも、朝鮮の従軍慰安婦に関する思い込みの説明や中国の悪意に満ちた捏造・歪曲の説明を真実として聞く風潮が出来ている。
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 日本を貶める中国共産党政府・韓国に協力する反天皇反日的日本人達。
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 2014年12月12日【鼓動】 産経ニュース「米大学から締め出される中国「孔子学院」の現場…米が疑う中国政府“浸透目的”と“スパイ機能”
 ジョージ・メイソン大学の孔子学院で中国語の授業を受ける生徒
 米国の大学に中国政府系の文化機関「孔子学院」が浸透し、全米に100カ所近く設立されている。中国の語学と文化を教えるというのがうたい文句だ。しかし、中国の影響力を強めようという中国政府の戦略もちらつき、契約を打ち切る動きもある。何が問題なのか。ワシントン首都圏にある孔子学院の一つを訪ねた。(バージニア州フェアファクス郡 加納宏幸、写真も)
 ジョージ・メイソン大学(GMU)の孔子学院はフェアファクス郡の広大なキャンパスの中心にあった。
 「天冷了。我想買件毛衣」(寒くなってきた。セーターを買いたい)
 地域住民や大学職員を対象にした中国語教室で5人の生徒が日常会話を練習していた。どこにでもあるような語学学校の風景だ。
 「1980年代まではアジアの語学を学ぶとしたら日本語だったが、今はほとんどの米国人が中国語を選びます」
 GMU職員のデービッド・ハーヴィーさん(26)は北京に2年間滞在した経験があり、中国語を忘れないために通う。
 統計学を研究する大学院生(27)は「将来、中国人の同僚と仕事をすることになる」という理由で中国語の学習を続けている。
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 「中国関連の協力が必要な学部などと共同で作業し、関係を築いています」
 2009年に設立されたGMU孔子学院で米側の院長を務める高青氏(31)はこう強調した。その象徴がキャンパスにある4メートルほどの孔子像だ。
 中国語を専攻する約200人の学生に語学を教え、一般向けのコースも割安の授業料で提供する。8人の教師は中国教育省直属の北京語言大学の教授や大学院生が派遣され、運用資金や教材を同省傘下で全世界の孔子学院を運営する中国の機関「漢(ハン)弁(バン)」が提供する。
 こうした外国の機関による「学問の自由」への介入を嫌い、孔子学院を持っていたシカゴ大学ペンシルベニア州立大学が今年、相次いで漢弁との契約更改の打ち切りを決めた。
 「大学の教育や研究を、外国政府の下請けに出したくなかったのです」
 大学側に契約打ち切りを求めたシカゴ大学のマーシャル・サーリンズ名誉教授(83)は、請願活動を始めた動機をこう説明した。教授らの署名は110人分に上り、孔子学院は9月末、閉鎖に追い込まれた。
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 ワシントンのシンクタンクが並ぶ地区にある、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)ライシャワー東アジア研究所。所長のケント・カルダー教授は、近所に現れた「孔子学院米国センター」に注目してきた。
 昨年11月の開所式には中国の劉延東副首相が出席した。電話が通じないため日中に記者(加納)が2度訪ねてみたが、人の気配はない。
 「孔子学院の公式の活動は語学教育だが、中国への好ましい認識を持たせて人脈を作り、場所によっては情報収集活動に従事しているのではないか」
 カルダー氏は、中東での作戦を指揮する米中央軍が司令部を置くフロリダ州タンパに孔子学院があることを挙げ、こう指摘した。ワシントン首都圏にはGMUなど3カ所にある。
 米国センターも近隣のシンクタンクや大使館に対する活動拠点だと、カルダー氏はにらむ。カナダ放送協会(CBC)によると、同国の情報機関、安全情報局の元高官も、孔子学院が情報収集の役割を担っている疑いがあると指摘した。
 サーリンズ、カルダー両氏がともに問題視したのは、「中国共産党プロパガンダ組織のメンバーで構成される」(サーリンズ氏)という漢弁傘下の孔子学院で、チベット問題や中国の人権状況などを議論する自由がないことだ。
 GMU孔子学院の高氏は、学院でチベット問題を議論する機会はないといい、「語学プログラムの教師はそうした問題の専門家ではない。車屋で本を売っていないのと同じだ」と、理由を説明した。
 しかし、サーリンズ氏の調べでは、孔子学院の教師は、問題あるテーマの議論を授業で避ける方法を学んでから派遣されるという。
 「ある種の検閲といえます。思想、表現、研究の自由に関する米国の基準に反している」。サーリンズ氏はそう語った。
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 孔子学院 世界で展開する中国政府系の文化機関。言語や文化の普及を目的に、2004年から提携大学などへの設置が進み、14年11月現在で日本の14カ所を含めて約110カ国に430カ所ほどある。運営機関は中国教育省の傘下にある「漢弁」。資金、教員、教材は中国側から全面的に提供する。
 ただ大学教育への関与による「学問の自由」との軋(あつ)轢(れき)もあり、米国大学教授協会やカナダ大学教員協会が契約更改を見合わせるよう勧告した。孔子学院を閉鎖する動きも広がっている。」
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 12月12日 産経ニュース「【南京事件
 「国家哀悼日」の12月13日 初の国家主催追悼式典 習主席が出席へ 
 12日、南京市内の南京大虐殺記念館前で警戒する警備員(AP)
 【南京=河崎真澄】日中戦争当時の1937年に旧日本軍による南京占領で起きたとされる「南京事件」から77年となる13日、江蘇省南京市内の「南京大虐殺記念館」で追悼式典が行われる。昨年までは南京市が中心になり催されたが、今年は初めて国家が主催する式典に格上げされた。新華社電は「共産党と国家の指導者が出席する」と報じており、習近平国家主席ら最高指導部メンバーが出席する見通し。
 中国全国人民代表大会全人代=国会)常務委員会は今年2月、45年に日本が降伏文書に調印した翌日である9月3日の「抗日戦争勝利記念日」と、南京事件の12月13日をそれぞれ「国家哀悼日」と定めた。今年9月3日の式典には習氏ら指導部メンバーが出席。同日の座談会で習氏は、安倍晋三首相による昨年12月の靖国神社参拝などを非難した。
 今秋以降、南京市では市内の小中高校で新たな「読本」を使った南京事件に関する特別授業を義務づけ、「国家哀悼日」に向けた教育を強化している。中国中央テレビは事件に関連するとされる残忍なシーンを多数含んだニュースや番組を繰り返し放送。中国国営新華社通信も、日本での新たな証言の取材の結果とする記事を連日配信し、対外宣伝戦を本格化させている。
 ただ11月には、習氏の主席就任後初の日中首脳会談が北京で行われるなど、関係改善への兆しもある。13日の南京市での式典の前後に、習氏ら指導部が対日関係や歴史認識でどう発言するかが注目されている。」
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 12月13日 産経ニュース「習主席ら「国家哀悼日」式典に出席 「南京事件」77年、最高指導部は初
 南京大虐殺記念館で開かれた追悼式典に出席した習近平国家主席(左)ら=13日、中国江蘇省南京市(代表撮影・共同)
 【南京=河崎真澄】日中戦争時の1937年に旧日本軍による南京占領で起きたとされる「南京事件」から77年となった13日、江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」で追悼式典が国家主催で行われ、習近平国家主席(党総書記)ら中国共産党指導部が出席した。
 事件の追悼行事は94年から同記念館で行われてきたが、今年から「国家哀悼日」に指定されたことで、習氏のほか、党ナンバー3の張徳江全国人民代表大会全人代)常務委員長も出席した。
 式典には、事件の被害者や遺族とされる地元の住民や、小中学校の児童、生徒ら合わせて、過去最大規模の1万人以上が出席。午前10時(日本時間同11時)すぎに防空サイレンが鳴る中、黙祷(もくとう)した。
 習氏はこれまでも南京事件に関して、「30万人以上が無残に殺害された」などと主張。
 今年は盧溝橋事件77年の7月7日、中国が抗日戦争勝利記念日としている9月3日の2回、抗日戦争をめぐる式典で日本の歴史認識をめぐって厳しい批判を繰り返した。習指導部では、来年を「抗日戦争と反ファシズム戦争の勝利70年」と位置付けている。」
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 12月13日 産経ニュース「中国ミサイル駆逐艦など6隻、沖縄と宮古島の間通過 太平洋のヘリ発着訓練後か
 防衛省統合幕僚監部は13日、中国軍のミサイル駆逐艦など6隻が12日午後9時半ごろ、沖縄本島宮古島の間の海域を太平洋から東シナ海に向け通過したと発表した。領海への進入はなかった。
 中国が西太平洋で実施すると発表した海軍演習に参加していたとみられる。防衛省は、6隻が沖縄南方の西太平洋でヘリコプターの発着や洋上補給などの訓練を実施していたのを確認した。
 沖縄−宮古島間では、中国軍機の往復飛行も6日以降頻繁に確認されている。」
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 12月13日 産経ニュース「香港でも「南京事件」追悼式典 梁行政長官ら参加
 香港でも13日、旧日本軍による南京事件の犠牲者らを悼む式典が開かれ、梁振英行政長官や林鄭月娥政務官ら政府幹部、立法会(議会)議員らが出席した。初代行政長官で、中国人民政治協商会議(政協)副主席の董建華氏も参加した。
 中国特別行政区である香港では、南京事件の写真展が政府本部庁舎などで行われ、一部の大型書店では中国国内で出版される事件に関する書籍が平積みにされている。(共同)」
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 12月13日 産経ニュース「「30万人の同胞を殺戮した」「日本民族を恨むべきでない」 南京事件77年式典で習主席、硬軟両用の構えも
 中国江蘇省南京市の南京大虐殺記念館で開かれた犠牲者追悼式典=13日(新華社=共同)
 【南京=河崎真澄】日中戦争時の1937年に旧日本軍による南京占領で起きたとされる「南京事件」から77年が経過した13日、江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」で追悼式典が初めて国家主催で行われ、住民ら約1万人が参加した。
 式典で習近平国家主席は「30万人の同胞が痛ましく殺戮(さつりく)された。侵略戦争を美化する一切の言論は、平和と正義に危害を与える」などと警戒感を示し、南京事件日中戦争をめぐる歴史認識で日本を強く牽制(けんせい)した。
 一方、「少数の軍国主義者が引き起こした侵略戦争で、その民族(日本人)を恨むべきではない。戦争責任は人民にはなく、両国民は友好を続けるべきだ」などと述べた。11月に2年半ぶりの日中首脳会談が実現したことを受け、習氏は従来の強硬一辺倒から、対日関係改善も模索する硬軟両様の構えを見せ始めた。」
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 12月13日 産経ニュース「南京事件77年で習主席に“ジレンマ”対日改善模索も「歴史問題で安倍氏に妥協できず…」板挟み
 南京大虐殺記念館で開かれた追悼式典に出席した習近平国家主席(左)ら=13日、中国江蘇省南京市(代表撮影・共同)
 【南京=河崎真澄】中国の習近平国家主席江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」で行った13日の演説で、対日関係改善を求める意向もにじませる一方、「人類史上の暗黒の一ページで虐殺の事実の改竄(かいざん)は許されない。13億人の中国人民は事実の否定を受け入れない」などと、南京事件をめぐるかたくなな姿勢をみせ、安倍晋三首相の歴史認識を念頭に、警戒感をあらわにしている。
 習政権は来年を「抗日戦争と反ファシズム戦争の勝利70年」と位置付けており、反日感情が高まる恐れがある。経済成長の鈍化などで日本との関係改善の道も探りたいが、「共産党内部の権力闘争や国内の世論を考慮すると、安倍首相の靖国神社参拝など歴史問題では妥協できないジレンマ」(日中関係筋)に陥っているようだ。
 中国中央テレビは同日の番組で、「(日本の)右翼勢力が(南京事件日中戦争に関する)歴史の真相を隠そうとしている」などと主張し、歴史認識の差を一切認めないと強調した。
 習氏は演説で南京事件の犠牲者数を「30万人」と述べたが、事件に関する中国メディアの報道には「三十数万人」のほか「34万人」などとする根拠不明の記述も見られた。習氏はまた、8年間の日中戦争で中国に3500万人の死傷者が出たとも述べた。
 習氏は「少数の軍国主義者が侵略戦争を起こしたことを理由に、その民族を敵視すべきでなく、罪は国民にはない」と呼びかけた。1972年に日本との国交正常化を目指した毛沢東周恩来らが、「軍国主義者と一般国民」を区別する原則の「二分論」を改めて持ち出したとみられる。
 長期化も予想される安倍政権に改善姿勢を訴えるとともに、日本の一般国民を取り込みたい思惑も透けて見える。」
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 2015年1月18日 産経ニュース「安倍首相を「国粋主義者」米議会調査局の日米関係報告書  事実誤認も 
 【ワシントン=加納宏幸】米議会調査局は今月、日米関係に関する報告書を発表し、戦後70年に絡む安倍晋三首相の言動が日本と近隣諸国の関係を左右すると指摘した。しかし、報告書は首相を「強烈なナショナリスト国粋主義者)」「歴史修正主義的」と決めつけ、名前が明らかでない「評論家」の意見を記述の根拠とするなど、歴史認識をめぐる項目については問題点も少なくない。
 13日に公表された報告書は、戦後70年の首相談話を扱った項目で慰安婦問題に触れ、「複数の評論家」の主張として「安倍政権は日本が強制的に女性を性奴隷にしたとする、広く行き渡った理解を変えようとしている」と指摘した。
 しかし、首相は今月5日、戦後70年談話に関し「先の大戦への反省、戦後の平和国家としての歩み、アジア太平洋地域や世界にどのような貢献を果たしていくか、英知を結集して書き込みたい」と述べただけで、慰安婦問題については言及していない。
 同じ項目では、昨年12月の衆院選自民党が「(戦前の)日本による悪行に関する通説が『誤り』だったと国際社会に説明することを公約した」と記述し、首相が歴史修正主義者であるかのような認識を示した。
 自民党の公約集「重点政策集2014」には「虚偽に基づくいわれなき批判に対しては断固として反論し、国際社会への対外発信などを通じて日本の名誉・国益を回復するために行動する」としているものの、戦前の日本を正当化するとは書かれていない。
 報告書はまた、昭和天皇が昭和50年を最後に靖国神社を参拝しなくなったことに関し、「1978(昭和53)年にA級戦犯が合祀(ごうし)されてから天皇は参拝していない」とし、さらに、「複数の学者が、まさに戦犯の合祀が原因だったとしている」と記述した。
 しかし、昨年に内容が公表された「昭和天皇実録」では、昭和天皇が参拝しなくなったのは当時の野党各党などによる反対運動が影響していたことが明らかになっており、報告書の書き方は誤解を招きかねない。
 議会調査局の報告書は連邦議員の立法活動の資料として専門スタッフが編集しているもので、その内容は政府の公式見解ではない。ただ報告書には一定の影響力があるとされ、議員らが対日関連法案作成の参考にしたり、韓国メディアが日本批判の材料に使うなどして波紋が広がる恐れもある。」
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 3月 中国共産党政府は、日本を国際的に孤立させ窮地に追い込む為に南京虐殺資料のユネスコ記憶遺産登録申請した。
 日本外務省は、そうした中国共産党政府の反日的行動を黙認し、「中国の機嫌を損ねてはならない」という配慮を優先して日本の国益と民族の名誉を捨てた。
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 3月7日 産経ニュース「「アイリス・チャン記念公園」を造成、サンノゼ市議会が承認 『ザ・レイプ・オブ・南京』の著者
 【ロサンゼルス=中村将】日本の歴史家や学者らから、誇張表現や誤りを指摘された「ザ・レイプ・オブ・南京」の著者として知られる中国系米国人ジャーナリスト、アイリス・チャン氏の名を冠した公園が、米カリフォルニア州サンノゼ市に造成されることが分かった。
 市は公園を造成するに当たり、地域や国、国際社会で多大な貢献をするなどした人物の名前を付けると発表。昨年11月の市公園委員会の公聴会でチャン氏の名前が家族らから提案され、今年2月24日の市議会で名称を「アイリス・チャン記念公園」とすることが全会一致で承認された。チャン氏は生前、サンノゼ市民だった。
 1997年に出版された「ザ・レイプ・オブ・南京」では、南京事件について「日本軍は南京で30万の市民を虐殺、2万〜8万人の婦女子を乱暴した」などと記され、「日本軍の残虐さ」を印象づけたが、出版当初から事実誤認や無関係の写真の掲載がいくつも指摘された。
 それにもかかわらず、カリフォルニア州に拠点を置く中国系の反日団体「世界抗日戦争史実維護連合会(抗日連合会)」が大々的な宣伝、販売活動を展開し、米メディアから高い評価を受けた。
 チャン氏は2004年11月、自宅近くの路上に止めた乗用車の中で死亡しているのがみつかり、警察は拳銃自殺と断定。公園の命名が市議会公聴会で提案されたのは、ちょうど死後10年を迎えたころだった。抗日連合会や、中国系の州議員の市側への働きかけを指摘する声があがっている。
 公園の面積は約5エーカー(約2万235平方メートル)で、テニスコートやバスケットボールコート、遊戯スペースなどが設置される計画で、来年に着工される。」
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 6月10日 産経ニュース「中国、南京事件慰安婦資料を記憶遺産に ユネスコに登録申請
 【北京=川越一】中国政府は10日までに、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に対し、日中戦争時に旧日本軍の南京占領下で起きたとされる南京事件と、慰安婦問題に関する資料を記憶遺産に登録するよう申請した。中国外務省の華春瑩報道官が同日の定例会見で明らかにした。
 申請した時期や資料の詳細は不明だが、中国政府は4月、吉林省長春市に司令部があった関東軍憲兵隊などの資料を公表し、南京事件などに関する「日本による中国侵略の証拠」を新たに確認したと主張している。
 また、江蘇省南京市の公文書館が2月に公開した1937〜47年当時の文書にも、旧日本軍による「犯罪的行為」や「慰安婦」に関する資料が含まれているとされ、これらの資料が申請された可能性が高い。
 華報道官は申請の目的について、「歴史を心に刻み、非人道的かつ人権を侵害する犯罪行為が、繰り返されることを防ぐためだ」と強調した。
 これに対し、菅義偉官房長官は同日の記者会見で、「中国が政治的意図を持って申請したと判断されれば抗議の上、取り下げるよう(中国側に)申し入れる」と述べた。」
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 9月3日 習近平主席は、同じ反日派の国家首脳と国際機関代表を招待し、日本とアメリカに対する示威的軍事パレードを行い、その映像を世界中に発信した。
 習近平「日本の侵略戦争の当時、生まれていなかった世代の日本人もその責任を負い続けるべきである」
 抗日戦勝利の軍事パレード式典は、参加した全中国軍兵士の「抗日の狼煙を上げろ」と「日本を東方に駆逐せよ」の大合唱で始まった。
 参加者の中に、反日的な国連事務総長潘基文(パンギムン)とユネスコ事務局長のイリナ・ボコバがいた。
 潘基文は、国連とは第二次世界大戦における戦勝国が主催する国際機関であり、戦勝国の利害を優先するもので、必ずしも公正中立でなく、戦犯国・敗戦国の権利が守られない事を公式に認めた。
 その証拠が、今なを存在する国連の「敵国条項」である。
 潘基文「一部に、国際事務総長や国連組織が中立であるという誤解があるようだ」
 国際連合とは、意訳、誤訳である。
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 10月10日 産経ニュース 「【世界記憶遺産】「南京事件」登録…学校現場への「偏向教育」拍車懸念も
 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産に9日、中国が申請した日中戦争時の「南京大虐殺文書」が登録されたことを受け、学校関係者は「ユネスコのお墨付きで中国側の一方的な主張が一部教師によって広められる可能性がある」と「偏向教育」が広がることを警戒する。
 日本の小中高校の教科書では「南京事件」について、各社で記述の濃淡はあるものの、中国側の主張を一方的に記述することはない。ただ、ユネスコが記憶遺産と登録したことで、学校現場では一部教師が中国側の主張を強調するなど偏向教育に拍車がかかる懸念もある。
 現在使われている教科書では、「南京事件」は全社に記述がある。歴史的事実が固まっていないため「さまざまな見解がある」と抑制的に記述する教科書がある一方、いまだに「南京大虐殺」の用語を使うなど中国の主張に沿った教科書も残っている。
 小学校では「虐殺」の言葉は使われておらず、「全体像については、今なお議論が続けられている」といった記述もみられる。
 中学校では、事件については欄外で「さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」と補足する教科書があり、平成28年度から使われる教科書では、事件の記述そのものがなくなるケースもあり、正常化に向かう傾向にある。
 高校では本文で「南京大虐殺」を使った教科書が複数あるが、中国側が主張する「30万人の犠牲者」説については、学者の間では「30万人説は誇大な数字と考えられている」とする記述もみられる。
 学校現場ではユネスコ登録への懸念も広がる。
 福岡県立高校で日本史を教える男性教師(45)は「教師の中には、南京事件のように事実関係がはっきりしていない話を教える人もおり、そうした人たちが記憶遺産に登録されることで、ますます活発化する恐れがある」と指摘。その上で、「考え方が中立的な教師でも、ユネスコへの登録により、悪い方向に引っ張られることが懸念される」と強調した。
 教科書会社関係者は「ユネスコによる登録決定を根拠に、南京事件の記述を増やす教科書もあるのではないか」と話している。」
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 10月10日 産経ニュース「【世界記憶遺産】記憶遺産や文化遺産、「政治利用」「登録乱発」に批判も 国際摩擦の種に
 数カ国の言語で「30万人」という犠牲者数を記した南京大虐殺記念館の壁=5日、中国江蘇省南京市(共同)
 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は1970年代に開始した「世界遺産」の登録に加え、近年は「世界記憶遺産」「無形文化遺産」の登録事業も行ってきたが、国際的な認知度が高まるにつれ、加盟国間でいさかいが生じる例も出てきた。有識者からは「政治利用」「登録の乱発」と批判的な意見が上がっている。
 日本と韓国や中国の間では、7月に世界文化遺産への登録が決定した「明治日本の産業革命遺産」をめぐり摩擦が生じたのに続き、今回も南京事件慰安婦の記憶遺産への登録をめぐって反目が再燃した。
 フランスの歴史学者ユネスコ研究が専門のクロエ・モレル氏は「活発な議論を通じて異文化間の相互理解を目指すことが本来のユネスコの機能だ」と指摘。「日本や中国、韓国などでは近年、自国の政治的主張のみに固執する傾向が強まっている。歯止めをかけなければ、事業自体が早晩、価値を失う」と警鐘を鳴らしている。(共同)」
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 10月10日 産経ニュース「【世界記憶遺産】南京の犠牲者「30万人」を世界に認知 中国に新たな歴史カード
 30万人という犠牲者数を記した南京大虐殺記念館の壁=5日、中国江蘇省南京市(共同)
 国連教育科学文化機関(ユネスコ)が旧日本軍による南京事件に関する資料を世界記憶遺産に登録したことで、中国は新たな「歴史カード」を手に入れた。中国は歴史認識で国際世論に同調を求める構えとみられ、日本政府は対応を迫られそうだ。
 記憶遺産は、中国側が「30万人以上」とする南京事件犠牲者数を含め「日本軍国主義の罪」を世界に認知させるための格好の材料と言え、政治的に利用される可能性が高い。
 実際、習近平国家主席は最近「侵略戦争以後に生まれた人であっても正しい歴史観を持ち、歴史の教訓を心に刻まなければならない」と強調、歴史問題で対日攻勢を続ける姿勢を示している。
 中国が対日圧力を強めれば、歴史問題をめぐる日中の溝はさらに深まり、新たな対立の火種にもなりかねない。(共同)」
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 10月10日 産経ニュース「【世界記憶遺産】「既成事実化だ」「他にも広がる」元兵士の遺族らが登録に懸念
 南京大虐殺記念館を訪れ資料を見る人たち=8月、中国江蘇省南京市(新華社=共同)
 「南京大虐殺」の関係資料が登録されたことを受け、元日本兵の遺族らからは憤りや懸念の声が上がっている。
 「これが中国のやり方。捏造(ねつぞう)、事実のねじ曲げを繰り返し、“既成事実化”していく」。昭和12年の南京攻略戦に父が参加していた西山邦夫さん(78)=関東在住=は悔しさをにじませた。
 戦場での経験を語ることなく23年前に亡くなった元陸軍少尉の父、源次郎さんが南京攻略戦に参加したことを知ったのは8年ほど前。遺品の中から戦場でつけていた日記を見つけたことがきっかけだった。
 当時、すでに南京大虐殺に関する中国側の宣伝は盛んだったが、日記の文章に大虐殺があったことを示す形跡はなかった。逆に、源次郎さんの部隊は南京攻略後、迅速に次の任務地へ向かっており、元自衛官の邦夫さんからみれば、部隊が高い士気と規律を維持していると感じたという。
 邦夫さんは「中国が進める既成事実化を防ぐことは難しい。そのことを踏まえ、日本は対策を考えていく必要がある」と訴える。
 南京で「百人斬り」競争をしたとして処刑された野田毅少尉の妹、マサさん(86)=鹿児島県在住=も「世界記憶遺産に登録されるなどとんでもないことで、とても無念です」とショックを隠せない様子だ。「南京で日本軍がやったとされることはうそだと言ってくれる人がもう少しいたら良かった。日本政府には、中国の主張はつくりごとだと強く訴えてもらいたい」と話す。
 「日中間で話し合うべきことを国際舞台に引き上げただけでも、中国側の目的は達成されたはず。その時点で負けだった」。そう話すのはビルマ戦線の戦友会の窓口として発足し、今も戦没者の慰霊活動などを行う全ビルマ会(東京)の上原喜光会長(68)だ。
 叔父がビルマ戦線で戦死した上原会長は「南京にかかわらず、いろんな戦場で問題はあっただろう」とした上で、「一部分を拡大解釈されたから、その検証を求めただけなのに、まるで『敗戦国は謝り続ければいい』といわれているように感じる」とため息をつく。
 ビルマ戦線では、日本軍がタイとの国境間に人員や物資輸送用の泰緬鉄道を建設。その際、作業に従事した英国をはじめとする連合軍の捕虜ら約1万3千人が命を落としているが、現状では英国などに記憶遺産登録を目指す動きはない。
 上原会長は「今後、他にも同じような動きが続出するかもしれない。元兵士たちに汚名を着せることにならなければいいが」と懸念を示した。」
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 10月10日 ユネスコは、中国が申請していた「南京大虐殺」関連資料を世界記憶遺産に登録した。
 中国外務省報道官「これをきっかけにしていまや南京大虐殺は国際社会が公認する歴史的事実となった」
 日本人は、ユダヤ人のホロコーストを行ったナチス・ドイツと同じホロコーストを行ったと、国際機関から名指しされた。
 日本外務省は、先の「明治日本の産業革命遺産」登録に次ぐ大失態であり、外交交渉の無策振りを証明した。
 ユダヤホロコーストは、ヒトラーナチス党が行った残虐行為として、ドイツ国家とドイツ人とは切り離されている。
 ドイツが行った戦争の謝罪は、ドイツ国家とドイツ人を切り離したヒトラーナチスが行った戦争犯罪に対してである。
 よって。フランスやポーランドなど周辺諸国が戦後の新生ドイツと和解できたのは、当然である。
 さらに。フランスやポーランドなど周辺諸国は、ユダヤ人のホロコーストに間接的消極的に関与したという後ろめたさが和解を問題なく進めた。
 ゆえに。ドイツと周辺諸国との和解は、日本と中国や韓国・北朝鮮との和解には参考にはならない。
 中国共産党政府が申請した南京大虐殺関連資料は、「もう一つのホロコースト」は日本国家と日本人つまり日本民族がおこした残虐行為である、と名指ししたのである。
 そして。中国共産党は、日本人に対し日本民族が存在する限り「永遠の謝罪」を要求した。
 日本と中国や韓国などと分かり合えないのは、戦争責任が日本国家と日本民族つまり全ての日本人に求められているからである。
 戦前の日本人は、軍部に騙されて戦争を支持したのではなく、自ら積極的に戦争に加担し対中戦争拡大に消極的であった軍部を突き上げたのが、真実である。
 軍部のに騙されたと日本人とは、「正常な常識も知識も持てない思考力も判断力もなき無知無能な愚か者であった」という「日本人愚民論」である。
 日本人愚民論は、日本人への同情ではなく、軽蔑であり、嘲笑に過ぎない。
 「日本人は軍国主義者に騙された」と信じ日本人は、理性や知性を持った人間以下の人間の姿をした得体の知れない下等生物である。
 日本人の中には、日本人が「中国人にホロコーストを行った」極悪非道な人間と名指しされた事を狂喜し、その消える事なき罪過の烙印を子や孫に残し、この先数十年でも数百年でも、それこそ千年の先まで永久に謝罪すべきだと確信する正しき日本人が存在する。
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 10月15日  産経ニュース「【共産・志位委員長会見】(5)南京事件「虐殺があったのは歴史的事実だ」
 記者会見する共産党の志位委員長=15日午後、東京・有楽町の日本外国特派員協会
 --民主党岡田代表選挙協力は否定しないが、政権をともにすることは難しいという。共産党と政権をともにすることへの懸念があるようだが、志位氏はその懸念はなんだと思うか。国民連合政府は憲法の枠内でというが、政権に入ったら、有事が起きたら自衛隊在日米軍への出動要請をするか。共産党の民主集中性の問題については、連立を組む上でどのように対応するか
 「まず岡田代表との会談で、岡田さんから民主党内に政権を共産党とともにすることにはハードルが高い、難しいとの議論があるとの話があった。私からは、なぜ連立政権が必要なのか。安保法、戦争法を廃止し、立憲主義を取り戻すにはどうしても必要になるという話をした。その上で共産党と政権を組むことにどういう懸念があるかまで話し合ったわけではない。これは今後の話し合いの中で率直にその点についても話し合っていきたい」
 「一般に言えば、例えば天皇制をどうするのか、自衛隊をどうするのか、日米安保条約の問題をどう扱うのか。こういう問題への懸念はあるかもしれない。一つ一つ丁寧に考えを伝えれば、政権協力の障害にならないと理解いただけると思う」
 「いわゆる共産党アレルギーとよく言われる。私たちもアレルギーをなくしていくための努力をしていく。しかし、過去のいろいろな問題を乗り越えて、アレルギーを乗り越えて未来に向かって団結しようという立場で話し合っていきたい。国民連合政府が安保問題にどう対応するか。私たちは、日米安保条約の問題について言えば、政権の対応としては凍結という対応をとるべきだと考えている。戦争法は廃止した上で、残ってくる法律が当然ある。例えば自衛隊法が残っている。だから当然、急迫不正の主権侵害が起こった場合には、この政権は自衛隊を活用するのは当然のことだ」
 「わが党の民主集中性についての質問だが、私たちは特別のものではないと考えている。自由に民主的な討論を通じ、決まったことには従うという当たり前のことだ。この原則は近代政党として当然のことではないかと考えている。この問題はそれぞれの党の運営のあり方の問題で、党の内部事情に関する問題だ。連立政権をする際に障害にしてはならないし、障害にならないと思う。私たちも他の野党の内部的な意思決定に口を挟むようなことは一切しない。党のあり方は相互に尊重し合って、一点で結束することが大事ではないか」
 --中国がユネスコに「南京大虐殺文書」の登録を申請して話題になった。日本政府は拠出金の停止や削減などを検討しているが、共産党はどう評価するか。共産党南京事件の立場は
 「私は日本政府が自分たちの意見が入れられなかったからといってユネスコへの拠出金を減らす、あるいはなくしていくということは国際社会の理解を得ることはできないと考えている。ユネスコという大事な国連の機関に対して、自らの意見が通らないからと拠出金を減らすというのは強権的なやり方であり、とるべきではない」
 「南京虐殺については、私たちは虐殺の規模、数、さまざまな推計がされている。だから党として何人というふうに認識を持っているわけではないが、虐殺という事実があったことは動かしがたい歴史的事実だ。当時の日本軍関係者のさまざまな証言を見ても明らかだ。それを否定することは許されないと考えている」
 --参院選で32の1人区が重要というが、共産党が1人も出ないことになるかもしれない。それでも選挙協力をして自公と戦う必要があるという覚悟なのか
 「私たちが選挙協力と言っているのはまさに協力であり、相互的なものだ。ある選挙区では私たちが立てないで他の候補者を推す。ある選挙区では他の野党が立てないで私たちを推してくれる。あるいは、無所属の候補者を共同で推すということもあるだろう。いずれにせよ選挙協力だから相互的なものだ。相互の協力を本気になって追求してこそ一番力が出る」
 --TPPについて
 「私たちはTPPについては厳しく反対する立場で一貫している。この間の大筋合意の内容を見ても、日本側が一方的に譲歩に次ぐ譲歩をやっているという内容だ。とりわけ一連の重要な農産物について関税の撤廃、輸入枠の拡大がはかられようとしているのは日本の農業に破壊的な影響を及ぼすことになるだろう。TPPについては国会決議が、自民党も含めてあげられている。重要農産物の5項目は適用外にするというような内容になっている。今回の大筋合意の方向は国会決議にも明らかに反するのではないか」
 「他の野党も国会決議に照らして今回のような決着には賛成しかねるという方向で一致しているのではないか。米国内の状況を見ても、大統領選の過程で民主党のサンダース候補が全面反対、クリントン候補も反対を唱えている状況だ。TPPは日米を中心とする多国籍企業が各国を収奪する態勢だと考えている。関係各国でも反対の声が国内で起こるだろう。国際的連帯を強め、TPP交渉からの即時撤退、批准の阻止も含めて断固反対する立場で臨みたい。多国籍企業の利益を最大化する国際経済秩序ではなく、各国の経済主権と生活を最優先する新しい国際経済秩序が必要だと考えている」」
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 10月15日 産経ニュース「【中国「南京」でまた“いちゃもん”】対日「歴史戦」手を替え品を替え 新たなキーワード「略奪品」
 【「南京大虐殺文書」世界記憶遺産に登録】 .
 中国側が返還を求める「南京日本居留民会」と彫られた石材=13日午後、宮崎市(中村雅和撮影)
 今月13日、中国が申請していた「南京大虐殺文書」をユネスコが記憶遺産に登録し、中国側の反日プロパガンダが、国際的なお墨付きを得た形となった。こうしたプロパガンダで最近、目立ち始めたのが「略奪品」の返還要求だ。
 返還要求を主導する組織として「中国民間対日賠償請求連合会」がある。同連合会は今年7月、日露戦争後、旧日本軍が唐代の石碑「鴻臚井碑(こうろせいひ)」を遼東半島の旅順から略奪し、現在は宮内庁が保管しているとして、返還を求めて北京の高級人民法院(高裁)に提訴した。
 同連合会は、商船三井の船舶が日中戦争中の船舶賃借料をめぐって差し押さえを受けた裁判や、中国人労働者の「強制連行」に関する損害賠償訴訟などにも関与している。
 今回、宮崎県の「平和の塔」で、礎石の返還を求めているのは、南京民間抗日戦争博物館とされる。
 同博物館は「民間」の立場を強調するが、呉先斌館長は「鴻臚井碑」問題の提訴と同じ今年7月、「南京大虐殺」について「人類史上最も残虐で人道から外れた事件」などと発言した。中国共産党中央委員会の機関紙「人民日報」のインターネット版「人民網日本語版」が報じた。
 呉氏の発言は、習近平国家主席の発言とも符合する。習氏は2014年12月、南京大虐殺犠牲者国家追悼式で「日本軍が一手に作り出したこの非人間的な大虐殺事件」とした。
 そもそも、日中政府間の戦争賠償は決着済みだ。
 中国政府は昭和47年の日中共同声明で「日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」と宣言した。この条文をめぐって日本の最高裁は平成19年4月、「サンフランシスコ平和条約と同様に、個人の損害賠償などの請求権を含め、戦争の遂行中に生じたすべての請求権を放棄する旨を定めたと解される」との判決を下した。
 だが、国際社会で日本を貶めようという中国の「歴史戦」は、手を替え品を替え繰り返されてきた。ユネスコの世界記憶遺産登録もその一つだ。
 「中国側からすると、自分たちの国にあった石が、塔に組み込まれ、何の説明もされていないということは受け入れられない。中国人向け訪日ツアーに宮崎を組み入れる上で、『塔の現状が障害だ』と指摘する関係者もいる」
 今回の問題で日中の“仲介役”に名乗りを上げる来住新平氏は、産経新聞の取材にこう語った。
 中国側の主張を代弁し、石を返さなければ、日本全国の小売り業者を沸かす中国人の爆買いツアーが来ない、といっているようにも聞こえる。
 宮崎を新たな舞台とした歴史認識をめぐる中国側の“いちゃもん”を、いちいちまともに取り上げる必要はないが、日本側は「歴史戦」への備えを欠かさぬよう、注意深く検証しなければならない。(九州総局 中村雅和)」
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 10月22日 国連総会(第一委員会)。傅聡(ふそう)軍縮大使は、旧日本軍は侵略戦争を始め、残虐行為を行って多くの中国人を虐殺したと主張し、「戦後70年が経っても日本は歴史を隠蔽して逃げようとしている」と激しく非難した。
 日本の佐野利男軍縮大使は、「日本は深い反省に基づき、平和を愛する国家として歩んできた」と反論した。
 傅聡軍縮大使は、「平和憲法を変えようとする事は、通常、平和を愛する国家の振る舞いではない」と激高して再反論した。
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 2016年8月31日産経ニュース「【歴史戦】習近平氏が「日本の暴行暴いた」と称賛した英国人記者、「南京事件」の現場に居合せず 在職記録もなし
 【ロンドン=岡部伸】中国の習近平国家主席が昨年10月に訪英した際、第二次大戦で「侵略者日本の残虐行為を暴いた」と称賛した英国人記者が、所属していたとされる英新聞社に在職記録はなく、中国側が「日本の残虐行為だ」と主張する「南京事件」の現場にもいなかったことが30日までに明らかになった。
 習氏がエリザベス女王主催の公式晩餐(ばんさん)会で取り上げたのは英国人のジョージ・ホッグ氏。「第二次大戦の際、記者として侵略者日本の残虐行為を暴く記事を発表した」と紹介した。
 中国は2008年にドイツなどと合作で、ホッグ氏を主人公にした映画『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥(はる)かなる希望の道』を制作した。この中でホッグ氏は赤十字職員と偽って南京に入り、中国市民を殺害する日本兵を写真撮影。日本兵に見つかり処刑される寸前に中国共産党の軍人に助けられる。
 しかし、映画の原作となった『オーシャン・デビル』を執筆した英タイムズ紙記者のジェームズ・マクマナス氏は、「ホッグ氏の中国入りは1938年2月で、彼は南京に行っていない。映画は脚色され、事実ではない」と証言した。
 中国側が主張する「南京事件」は日本軍が南京を占領した37年12月13日から6週間程度。2月に上海入りしたホッグ氏が目撃するのは不可能だったというわけだ。
 ホッグ氏は大学卒業後、英紙マンチェスター・ガーディアンやAP通信の記者を務めたとされている。ところが、産経新聞が後継紙である英紙ガーディアンに問い合わせたところ、ホッグ氏の署名記事はもちろん、在職記録もなかった。
 AP通信やUPI通信には署名記事はあったが、紀行文などで、「日本軍の虐殺行為を暴いた」という署名記事は見つからなかった。
 マクマナス氏の著書などによると、ホッグ氏は上海入りした後、湖北省黄石市に移り、孤児施設で教師を務めた。中国の国民党政府軍が孤児たちを徴兵しようとしたため44年11月、孤児60人を連れてモンゴル国境に近い甘粛省山丹まで移動。戦火から子供たちを守った「中国版シンドラー」と評されている。
 45年8月24日付のマンチェスター・ガーディアンによると、ホッグ氏は同年7月に破傷風で病死した。
 ホッグ氏の両親からの依頼で死因を調べた在重慶英国領事館から英外務省に宛てた46年1月9日付公文書(英国立公文書館所蔵FO369/3426)は「ホッグ氏が校長を務めた山丹の学校教育が中国で最も素晴らしい教育の一つで、ホッグ氏が誠実に天職(教師)に尽くし、協同組合活動の指導者として修練を重ねる極めて良質な人物」と記している。」
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 2017年12月8日 産経ニュース「南京式典に習近平氏が3年ぶり出席へ 歴史問題めぐり対日強硬姿勢も
 【上海=河崎真澄】日中戦争時の1937年に旧日本軍による南京占領で起きたとされる「南京事件」から80年となる13日、江蘇省南京市内の「南京大虐殺記念館」で行われる追悼式典に、習近平国家主席が3年ぶりに出席する見通しとなった。複数の関係筋が8日までに明らかにした。
 10月の共産党大会を経て2期目が始動したタイミングを受け、抗日戦の歴史問題をめぐる姿勢を強調することで、改めて習指導部への国内からの求心力を高める狙いがありそうだ。
 中国は2014年に12月13日を「国家哀悼日」に格上げし、追悼式典の主催を従来の江蘇省当局や南京市当局から国家レベルに変更した。この年に初めて出席した習氏は演説で、対日関係の改善を模索する発言の一方、「30万人が殺戮(さつりく)された」などと強調した。
 関係筋によると今年の追悼式典は、中国のプロパガンダを取り仕切る「共産党中央宣伝部」が中心となって準備を進めている。80周年という“節目”の年にあたるとして、先月来、南京を中心にさまざまな宣伝行事も行ってきており、13日の式典を国際社会にアピールする考えのようだ。」
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 12月11日12:36 産経ニュース「中国、「南京大虐殺記念館」追悼式で被害強調、共産党独裁体制の正統性をアピールか
 2014年12月、中国江蘇省南京市の南京大虐殺記念館で行われた追悼式典に出席した習近平国家主席(左)=(共同)
 旧日本軍の南京占領から80年を迎える13日、中国政府は江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」で犠牲者の追悼式典を開く。習近平指導部は被害の大きさを強調した上で、抗日戦争を勝利に導いたとして共産党の功績を宣伝、一党独裁体制の正統性をアピールしたい考えだ。
 式典には習国家主席が出席する方向で最終調整している。出席すれば、式典を国家レベルの行事に制定した2014年以来2回目。日本を強く非難する姿勢を見せれば、関係改善の機運に冷や水を浴びせることになるだけに、中国側の対応が注目される。
 中国側は80年の節目の今年を絶好のアピールの機会と捉え、友好国の駐北京の大使らを式典へ招待している。習指導部は10月の共産党大会で打ち出した「強国」建設推進に向け、愛国心を鼓舞したい思惑もある。(共同)
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「中国の終わり」にいよいよ備え始めた世界

「中国の終わり」にいよいよ備え始めた世界

₩74」─6─第2回南京事件を事実と証明する一次史料。~No.338  *    

外国特派員協会重鎮が反日中韓の詐偽を暴いた

外国特派員協会重鎮が反日中韓の詐偽を暴いた


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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 第2回南京事件での日本軍の虐殺行為を糾弾する事は、軍国日本の復讐権及び報復権を否定し、日本軍の武力を用いた現地での自国民保護を認めず、日本軍の正当防衛を犯罪と決めつける事である。
 虐殺事件は、日本人・日本軍ではなく、中国共産党・中国人・ファシスト中国(中国国民党)が先に行っていた犯罪である。
 国際司法機関は、後で起こした日本軍の一度の中国人虐殺を有罪とし、先に行った中国共産党ファシスト中国(中国国民党)の度重なる日本人居留民虐殺を無罪とした。
 全ての日本人居留民虐殺事件を裏で煽っていたのは、中国共産党共産主義者である。
 中国、漢族とは古代の孫子以来謀略・計略に長け、虐殺を繰り返す残忍な民族ではなく種族である。
 中国共産党に指示を与えていたのが、スターリンソ連コミンテルン共産主義者である。
 ロシアには、そうした風土が存在する。
   ・   ・   ・   
 2017年2月17日号 週刊金曜日南京大虐殺
 懲りない『南京虐殺』否定派の常套手段  植松青児
 故意に無視される自説不利の一次史料
 1937年12月に、日本軍が中国・南京攻略時に引き起こした、無差別虐殺事件。これに対する否定派は、おしなべて事件を証明する一次史料を故意に無視するという、致命的欠陥を抱えている。
   *   
 『産経新聞』や『正論』で展開される南京事件否定派の手口は、①被害側(中国人)の証言や史料を『でっち上げ』だと否定する②当時南京に滞在し、事件の存在を伝えた欧米人を『中国国民党が仕掛けたプロパガンダへの協力者』と見なして証言信憑性を否定する③加害側(日本軍)の証言や史料で虐殺等の存在を示すものについては『これは虐殺ではなく正当な殺害である』など解釈論で正当化する、などの特徴がある。
 さらに、④日本軍側の証言や史料で虐殺等の存在を示すもののいくつかには反論すら用意せず、ひたすら『知らんふり』を決め込む、という特徴も挙げられる。この④こそ否定派の『アキレス腱』であり、この点を指摘されれば彼らの『歴史戦』は瞬時に混乱し、破綻をきたすはずだ。『産経新聞』や『正論』で繰り返し主張される南京事件否定論も、この『アキレス腱』を抱えている。
 それが典型的に表れたのが、2014年頃より展開された『産経』の『歴史戦』シリーズでの南京事件否定論だ。15年2月15日付1面トップ記事では、熊本の第6師団隷下の歩兵第47連隊に所属していた元・獣医務曹長の『城内はからっぽでした』『人がおらん以上、虐殺があるはずがなか』などの証言を前面に出して、南京事件否定論を展開した。
 しかしその第6師団は、1965年に元将官たちが編さん委員会を担って師団戦史を刊行しており(発行は熊本日日新聞)、そこでは以下のような記述を残しているのだ。
 『のみならず南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第6師団の目の前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、この一帯の沼沢は死屍で埋められたという。
 これは明らかに正規の戦闘行為によるものである。にもかかわらず中国側は虐殺として取り扱っている』(『熊本兵団戦史2 支那事変編』。熊本兵団戦史編さん員会編者)
 このように、同師団の戦史では、同師団は敗走する兵士のみならず、難民、すなわち民間人をも南京の『城外』で殺戮し、一帯の沼沢が埋まるほどの死屍が生じたことを記しているのだ。にもかかわず『産経』は、『城内』でそれを見なかったという元・獣医務曹長を前面に出して1面トップ記事を組んでしまったのだ。
 彼らのと『歴史戦』いうものはこのように実にお粗末きわまりない代物であるが、同師団戦史の記述が広く知られていない現在の日本社会では、残念ながらこのような稚拙な手口でも一定の効果をあげてしまっているのが現状だ。
 ハッタリの『実証主義
 ちなみに同戦史の執筆者は、この殺戮の正当性を訴えている。しかし、これはやはり無理がある。侵略者が、侵略された側の敗兵と難民を追って一緒くたんに殺したら、客観的には『虐殺』と判断せざるをえまい。この執筆者も、もし熊本が地上戦でどこかの軍隊に侵略されて日本側の敗兵と難民が一緒くたに殺されたら、それを『虐殺』と断じたのではないだろうか。
 これに懲りず、16年には『別冊正論26「南京」斬り』が刊行された。この別冊の記事目次で目についたのは、否定派こそが実証的であり、理知的であるかのような自己演出だ。
 〈日中共鳴の「南京大虐殺」虚構史 進展する日本側の実証研究〉(月刊『正論』編集部)、〈「南京大虐殺」論争の最新焦点〉(藤岡信勝)、〈左傾マスコミはなぜ「虐殺」を創るのか 中国のいいなりで日本側記録検証せず〉(柿谷勲夫)等々。しかし上達したのは『実証主義』を装ったハッタリだけで、前述の④については何ら変わりがない。
 とりわけ、06年春に刊行された『現代歴史学南京事件』(笠原十九司・古田祐編、柏書房)には、重要な日本軍史料や証言がいくつも提示され、文字通り『実証主義』的な議論がされているが、それらに言及し反論している記事は、この『正論』別冊にはなぜかまったく見られない。
 では、『現代歴史学南京事件』で提示された史料の一例を紹介しよう。日本陸軍中枢で当時行なわれた会議では、南京の日本軍に関して次のような報告がなされた(同書13頁)。
 『軍紀風紀の現状は皇軍の一大汚点なり。強姦、掠奪たえず、現に厳重に取締りに努力しあるも部下の掌握不十分、未教育補充兵等に問題なおたえず』
 これは田中新一・陸軍省軍事課長が記録した『支那事変記録 其の4』(防衛研究所戦史部所蔵)の中の、1938年1月12日の陸軍省局長会議における阿南惟幾陸軍省人事局長の報告だ。阿南は38年初頭、日本軍の南京占領後の軍功査定と不軍紀問題の調査のため、南京に赴き現地軍を視察・聴取し帰国した。そして陸軍局長会議で『強姦、掠奪たえず』と報告したのだ。
 これを受けて、田中自身も以下の所見を記している。
 『陸軍内部における多年の積弊が支那事変を通じて如実に露呈せられたものとみるべく、……深刻さには改めて驚かされる次第なり』──。陸軍が蓄積させてきた悪弊が如実に露呈したようだ、と述べている。
 『掠奪、強姦多数あり』
 さらに、同書から引用する。
 『一つは、1938年6月に第11軍司令官として中国戦線に赴いた岡村寧次の記録である。1954年6月に厚生相引上援護局が作成したこの記録、『岡村寧次大将陣中感想緑』(靖国偕行文庫所蔵)には、38年7月13日のこととして、次のような記述がある。
 中支戦線到着後先遣の宮崎参謀、中支那派遣軍特務部長原田少将、杭州機関長萩原中佐等より聴取する所に依れば従来派遣軍第一線は給養困難をなして俘虜の多くは之を殺すの悪弊あり、南京攻略時に於て約4、5万に上る大殺戮、市民に対する掠奪、強姦多数ありしたことは事実なるか如し。 
 なお、この記録の表紙には、「一切転載並公表を禁ず」とのただし書きが付されている』(12頁)
 少し説明を加えよう。当時中将の岡村寧次は武漢戦の総司令官として南京戦の約半年後に中国に向かい、先に現地にいた宮崎周一や原田熊吉ら陸軍高官から、軍の状況を内部聴取した。……
 この証言で重要なのは、原田少将(当時)から聴取している点だ。彼は南京戦を戦った『中支那派遣軍』の特務部長でもあり、占領後の南京市内に入り宣撫工作を総括し、当時の南京の実情を知る立場だった。その原田からも聴取した結果が『約4、5万に上る大殺戮、市民に対する多数の掠奪、強姦があったことは事実のようだ』『給養困難を名目に俘虜の多くを殺す悪弊があった』というのは、加害者の内部証言としては非常に重い意味を持っている。
 『南京事件論争』という言葉がある。ここでも先ほどまで『南京事件否定論』という言葉を使ってきたが、しかし、否定『論』と名乗るなら、最低限ここで紹介した史料や証言には言及したうえで、有効な反論を試みるべきだ。その姿勢がまったく見られない以上、『産経』が展開しているのは『論』ではなく、南京事件否定のプロパガンダと言わざるをえまい。
 プロパガンダをしかける側が自らを『実証的』とうそぶき、相手を『プロパガンダ』と侮る。そうした倒錯がある程度受け入れられているのが、南京事件をめぐる日本社会の状況なのだ。
 ここで紹介した証言や史料は、一例に過ぎない。もちろん、加害側の証言や史料だけでは南京虐殺の全体像を知ることは難しく、また加害側は規模を過小に述べる傾向がある。しかし、『産経』など否定派にこれ以上好き勝手させないためにも、ここで紹介した証言や史料はきわめて有効であるはずだ」

 

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「南京事件」を調査せよ

「南京事件」を調査せよ

₩74」─5─南京陥落前。ファシスト中国は売国奴(漢奸、親日派、知日派)を大虐殺していた。〜No.337 *   

漢奸裁判史 新版――1946-1948

漢奸裁判史 新版――1946-1948


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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 漢奸(かんかん、ハンジェン)とは、親日派知日派市民の事である。
 漢奸狩りとは、反日派市民による親日派市民の殺戮の事である。
 ファシスト中国(中国国民党)が支配する上海や南京や漢口などの都市では、平和ではなく虐殺が繰り返されていた。
   ・   ・   ・   
 中国では、親日派知日派は生きてはいけない。
 日本と中国には、古代から、深い信義ある友好関係は存在しなかった。
 中国にあるのは反日派だけである。
   ・   ・   ・   
 中国の歴史とは、中国人が中国人を大量虐殺する悲惨な歴史である。
   ・   ・   ・   
 ポスター
 「漢奸を働いた者は、許すことなく殺してしまえ!」
 「漢奸を検挙しろ 法令は守らなくてよい 騒乱を起こせ」
   ・   ・   ・   
 南京では、多い日には1日数千人が親日派知日派=漢奸として処刑されていた。
 日本軍は、南京市内での漢奸狩りの最中に総攻撃を開始した。
 戦争とは関係ない虐殺は、すでに中国人によって始まっていた。
   ・   ・   ・   
 数十万人の中国人を虐殺したのは、中国人なのか、日本軍あのか、犯人は分からない。
 殺したのが、中国人が何十万人で、日本軍が何十万人なのかも、分からない。
 確かに、中国人の数十万人の死体がそこにあった。
 国内の暴動・騒乱にともなう惨殺や強姦などの残虐行為や強奪や放火などの不法行為は、日本では起きないが、中国では条件反射的に例外なく発生していた。
   ・   ・   ・   
 日本人は、よほどの理由がない限り日本人を殺さない。
 中国人は、家畜を屠殺するように、いとも簡単に、嬉々として中国人を惨殺する。
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 ウィキペディア
 漢奸とは、漢民族の裏切者・背叛者のことを表す。転じて、現代中国社会においては中華民族の中で進んで異民族や外国の侵略者の手先となる者を指している。日中戦争の際には、漢奸狩りが実行され、多数が虐殺された。
 「漢奸」という言葉の誕生
 中国において売国奴を指す言葉だが、字義通り受け止めれば、「漢民族を裏切った奸物」と言う事になる。漢奸と呼ばれる有名人には秦檜、呂文煥、石敬瑭、呉三桂汪兆銘などがいるが、中国の歴史の中で「漢奸」という言葉が生れ、現在の意味となったのは清の時代においてである。清朝では支配の中心であった満州族を除く民族が漢として意識されるようになった。これが漢という言葉で明確に民族を括ることの始まりである。最初は漢と満州族は対立する概念であったが帝国主義列強の影響が増した19世紀から満州族も漢に含まれるようになる。初めて漢奸という言葉が使われたのは7世紀であり、対立していた南方の部族と通じる漢に使われた。この時、支配の中心にいた満州族とは区別されていた漢の中の存在であり、今日の意味とは異なっていた。
 日中戦争における「漢奸」
 日中戦争中及び戦争終結後には日本への協力の有無に関わらず、日本について「よく知っている」だけの中国人でも「漢奸」として直ちに処刑されたり、裁判にかけられた。また、日本に協力する者であれば漢民族でなくても「漢奸」と呼称した。この基準に照らせば、最も日本を研究し日本を一番知っていた蒋介石や対日戦略を立てていた何応欽、楊杰、熊斌など、中国側の中枢人物も「漢奸」に該当するという指摘もある。
 日中戦争中の「漢奸狩り」
国民政府側の指導者である蒋介石は自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして陳立夫を責任者として取締りの強化を指示し、「ソビエト連邦のGPU による殺戮政治の如き」「漢奸狩り」を開始した。
 国民政府は徴発に反抗する者、軍への労働奉仕に徴集されることを恐れて逃走する者、日本に長期間移住した者などは、スパイ、漢奸と見なし白昼の公開処刑の場において銃殺したが、その被害者は日中の全面戦争となってから二週間で数千名に達し、国民政府が対民衆に用いたテロの効果を意図した新聞紙上における漢奸の処刑記事はかえって中国民衆に極度の不安をもたらしていた。また、中国軍兵士の掠奪に異議を唱えた嘉定県長郭某が中国兵の略奪に不満の意を漏らした廉で売国奴の名を冠せられて火焙りの刑に処せられた、との報道があった。1937年9月の広東空襲に対しては誰かが赤と緑の明かりを点滅させて空爆の為の指示を出したとして、そのスパイを執拗に追及するという理解に苦しむことも行われ、一週間で百人以上のスパイが処刑された。
 晒し首を入れる箱
 上海南市にある老西門の広場では第二次上海事変勃発後、毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は 4,000 名に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた。処刑された者の首は格子のついた箱に入れられ電柱にぶらさげて晒しものにされた。上海南陶では 1人の目撃者によって確認されただけでも100名以上が斬首刑によって処刑された。罪状は井戸、茶壷や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持していたというものである。その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された。
 南京における「漢奸狩り」
 日中戦争初期に日本で発行された『画報躍進之日本』の中で、陥落前の南京における「漢奸狩り」が報告されているほか、『東京朝日新聞』、『読売新聞』、『東京日日新聞』、『ニューヨーク・タイムズ』も「漢奸狩り」について報道をおこなっている。
 戦争が始まると漢奸の名目で銃殺される者は南京では連日80人にも及び、その後は数が減ったものの1937年(昭和12年)11月までに約2,000名に達し、多くは日本留学生であった(当時南京にいた外国人からも日本留学生だった歯科医が漢奸の疑いで殺された具体例が報告されている)。『画報躍進之日本』では「これは何らかの意図をもって特定の者にどさくさを利用して漢奸というレッテルを付けて葬るという中国一流の愚劣さから出ていた」との見方を示し、さらに「南京で颯爽と歩く若者は全部共産党系であり、彼らによってスパイ狩りが行われるため要人たちは姿を隠して滅多に表に出ることがなかった」と報告している。南京では軍事情報の日本側への伝達、日本の航空機に対する信号発信や国民政府が日本の軍艦の運航を妨げるために揚子江封鎖を行うとした決定を漏洩したことを理由とするにとどまらず、親日派をはじめ、日本人と交際していた中国人や少しでも日本のことを知るように話したり、「日本軍は強い」などと言うことを根拠として直ちにスパイと断定され処刑された。外国人も例えば日本の書籍や日本人の写っている写真を持っているだけでスパイの嫌疑を受け拘引されたことから、南京を脱出する外国人も出ていた。
 南京攻略戦直前(1937年(昭和12年)12月初め)の南京城内では毎日、漢奸狩りで捕えられ銃殺される者は数知れず、電柱や街角に鮮血を帯びた晒し首が目につかない場所はなかった。 南京攻略戦後には、日本軍に好意を持つものは漢奸として処分されることを示したポスターが南京市内いたるところで確認された。」
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漢奸裁判―対日協力者を襲った運命 (中公新書)

漢奸裁判―対日協力者を襲った運命 (中公新書)


「漢奸」と英雄の満洲 (講談社選書メチエ)

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漢奸裁判史―1946-1948 (1977年)

漢奸裁判史―1946-1948 (1977年)

₩74」─8─ドイツは、ヒトラーとナチス・ドイツ時代から親中国反日派である。〜No.340  *      

一帯一路・技術立国・中国の夢……いま中国の真実は (必読! 今、中国が面白い Vol.11)

一帯一路・技術立国・中国の夢……いま中国の真実は (必読! 今、中国が面白い Vol.11)


   ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 ファシストと戦ったのは、中国共産党ではなく軍国日本であった。
   ・   ・   ・   
 ナチス・ドイツと手を組み軍事支援を受けていたのは、ファシスト中国(中国国民党)であった。
 ドイツ軍は、ファシスト中国軍が日本軍に勝つ為に軍事顧問団を派遣していた。 
 ドイツの軍需産業は、ヒトラーの許可を受け、大量の武器弾薬をファシスト中国に提供していた。
 ソ連からは武器弾薬はもちろん正規兵を国際義勇部隊として受け入れ、抗日戦に投入していた。
 日本軍は、ファシスト中国軍、ソ連軍・国際義勇部隊、ナチス・ドイツの連合体軍と戦っていた。
 その時、中国共産党は戦いもせず、高みの見物をしながら遊んでいた。
 日本軍は、孤独な戦いで、抗日中国軍に味方するソ連軍・国際義勇部隊を撃破し、ナチス・ドイツとドイツ軍事顧問団を中国から排除した。
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 2017年7月17日 産経ニュース「【野口裕之の軍事情勢】中国の宇宙制覇に手を貸すドイツ 独の悪癖「チャイナ愛」で自衛隊保有の米軍最新鋭戦闘機の技術が流出か
 7月4日、会談に先立ちベルリン市中心部のブランデンブルク門を訪れた中国の習近平国家主席(右)とドイツのメルケル首相(中央)=ロイター
 ドイツの「親中国病」がまたぞろ発症した。というより、慢性化しており、病状は改善の兆しどころか悪化の一途をたどっている。実際、G20(20カ国・地域)首脳会議2日前の5日、中国の習近平国家主席が議長国ドイツのアンゲラ・メルケル首相に首脳会談で告げた「診断結果」は深刻であった。
 「(ドイツとの関係は)新たな段階に入ろうとしている」 
 独中首脳会談では、全面的な自由貿易協定へと道を開く投資協定の早期締結や、人民解放軍海軍の拠点と化したアンゴラでの水力発電所建設で合意した。もちろん、中国側の利益捻出しか眼中にない独善的な中華方式に、いずれ泣くことになってもドイツの自由。メルケル首相は、中国が主導する広域経済圏構想「《一帯一路》の枠組みのもとで中国と経済・貿易協力を深めたい」と申し出たが、それもドイツの勝手だ。
 こうした独中蜜月を、多くのメディアは、地球温暖化対策や自由貿易をめぐり、ドイツなど欧州が対立する「米トランプ政権への牽制」と報じるが、的を外している。米トランプ政権が誕生するはるか以前、独中蜜月は危険水域に達していた。
 今回の独中首脳会談でも、人権問題を重大視してきたメルケル首相は、独中人権問題対話につき「継続し、留意していきたい」と述べるのが精いっぱい。ノーベル平和賞受賞の民主活動家・劉暁波氏の治療に協力してはいたが、首脳会談時に存命だった劉氏の問題には直接触れなかった。
 もはや正気の沙汰ではない、と確信したのが《航空宇宙》分野での協力合意だ。ドイツは、宇宙にまで版図を拡大する中国の野望に目をつぶったのである。
 中国人民解放軍は2015年、《戦略支援部隊》を新編した。統合作戦完遂に向け、陸海空軍に加え、サイバー・電子戦空間と宇宙における軍事的優位確立をもくろんでいるが、既に2007年以来、宇宙占領のたくらみを隠さなくなっている。
 というか、誇示さえし始めた。この年、地上発射の衛星攻撃ミサイルで高度860キロにあった自国の古い気象衛星を破壊した。緒戦で、米軍など敵の軍事衛星を吹き飛ばし、「視力と聴力」を無力化するハラだ。
 世界に先駆けて《量子科学実験衛星》も打ち上げた。《量子通信》は盗聴や暗号解読が困難な防御力の優れて高い通信手段で、理論的にハッキングはまず不可能とされる。米国でさえ、中国の暗号通信を傍受できなくなる。言い換えれば、違法なハッキングで世界中の技術を盗みまくってきた中国が、自らはハッキングされない「独裁体制」を世界に強要するに等しい。
 近い将来、宇宙ステーションや月面基地も完成の見通しだが、特に月面基地は、核融合に使う物質の採掘が狙いと観測されている。
 アルゼンチン奥地で、中国人民解放軍の秘密宇宙基地が稼働
 ドイツが前のめりになる中国との航空宇宙分野協力は結果的に、軍事同盟を締結する米国をも裏切る事態を誘発する。
 中国はアルゼンチン西部のチリに近い奥地ネウケン州に最近、海外初となる、怪しさ満載の宇宙基地《中国宇宙探査研究センター》を建設し、稼働にこぎつけた。基地は2015年にアルゼンチン議会が批准したが、批准前に建設工事が始まっていた。しかも、敷地200ヘクタールは50年の借用で無税。アルゼンチンの朝貢ブリは際だっている。中国衛星発射・コントロール局(CTLC)はアルゼンチン宇宙開発委員会(CONAE)に「民間目的であり、人民解放軍の運営ではない」と伝えているが、米軍関係者は筆者に「100%軍事目的。米国の宇宙システムの監視や破壊の牙城となる」と言い切った。
 メルケル首相は、地球温暖化対策や自由貿易をめぐり米国のドナルド・トランプ大統領を非難できる立場にない。ドイツ国内での、対米背信行為の数々を振り返ってみるがいい。例えば、筆者を仰天させた中国家電大手・美的集団(ミデア・グループ)によるドイツのロボット大手・クーカの買収。
 クーカの技術は米軍の最新鋭ステルス戦闘機F−35の機体製造に使われているのだ。ドイツ政府は2016年、「買収は安全保障に危険は及ぼさない」として不介入を表明した時にはあきれた。もっとも、米国の対米外国投資委員会(CFIUS)と国務省・国防貿易管理局(DDTC)が4カ月半後、美的の子会社を通じたクーカ買収を承認してもいて、またまた仰天した。
 ドイツの悪癖「中国愛」の腐臭は耐え難いが、米国の承認で、わが航空自衛隊で今年度中に配備が始まるF−35の機密も漏れ出す懸念がある。かつて日本は中国大陸を舞台に、ドイツと米国に「後ろからバッサリ」斬られているが、歴史は繰り返されるのか。
 支那事変において、「米国義勇軍」を騙(かた)る米軍・対日航空戦闘部隊が中国・国民党軍を密かに支援した。米国は当時、大日本帝國の仮想敵国であり、小欄のテーマは「中独合作」であるため今回、米国は取り上げない。以下、薄汚い「中独合作」を説明しよう。
 軍近代化を迫られた中国・国民党は満州事変(1931〜33年)後、独ワイマール共和国や続くナチス政権に接近。軍事用鉱物資源獲得の下心もあり、ドイツは1927〜38年まで軍事顧問団を送り続けた。
 とりわけ、1934年より1年間団長を務めたハンス・フォン・ゼークト退役陸軍上級大将(1866〜1936年)は、第一次大戦で壊滅状態に陥ったドイツ軍の再建と将来(電撃)戦への青写真を確立した「ドイツ軍の頭脳」と畏敬された人物。国民党の蒋介石・前国民政府主席(当時、1887〜1975年)に、大規模・低練度だった国民党軍の装備や機動性の向上を具申した。後継団長アレクサンドル・フォン・ファルケンハウゼン退役陸軍中将(後に歩兵科大将に現役復帰、1878〜1966年)も路線を踏襲し、ドイツ式教育訓練を続けた。
 方針に沿い、8割が非近代兵器だった国民党軍に鉄帽/小銃/各種大砲をはじめ戦車や戦闘機を輸出。ドイツで教育した中国人技術者運営の各種工廠では双眼鏡/狙撃銃用照準/小銃/機関銃/迫撃砲/装甲偵察車両/大砲/ガスマスクを生産した。毒ガス製造施設建設こそ中止されたが、化学研究所はドイツ企業の援助で完成した。
 折しも、国民党軍による攻撃に日本軍が応じ第2次上海事変(1937年)が勃発するや、ファルケンハウゼンは蒋に消耗・ゲリラ戦に持ち込み大日本帝國陸海軍を疲弊させる作戦を進言。上海西方に構築した塹壕とトーチカによる要塞線=ゼークト線に日本軍をおびき寄せんとした。日本軍は圧勝したが損害は予想外に大きかった。
 軍事資源を産む鉱山・工業地帯と沿岸を結ぶ鉄道敷設でも中独は利害が一致。ドイツ技術を投じた貴陽〜南昌〜杭州や漢口(現在の武漢)〜広州路線は、軍用としても日本軍を悩ませる。
 ドイツは日独防共協定締結の陰で、日本が交戦中の中国に武器密輸し続けた
 米国のように敵性国家であれば、水面下で軍事支援は諜報工作の一環との見方は許されようが、ドイツは違う。第2次上海事変の前年=1936年に(対ソ)日独防共協定を結びながら、日本と交戦中の国民(党)政府への武器密輸を継続したのである。
 けれども、背信行為は報いを受ける。国民(党)政府は1937年、ドイツの仮想敵・ソ連と中ソ不可侵条約を締結してしまう。これで態度を硬化させたアドルフ・ヒトラー総統(1889〜1945年)がやっとのこと、新たな兵器輸出を禁じた。それでも受注済み兵器は契約通り輸出され、完全な禁輸&軍事顧問団撤退は、ドイツが満州国を承認した1938年に入って。国民(党)政府と断交し“親日”の汪兆銘政権(1940〜45年)を承認したのは、驚くべきことに、日独伊三国同盟締結後1年近くもたった41年になってだった。
 現代版「中独合作」は、既述したクーカ買収に留まらない。中国企業は、少なくとも2016年前半の半年間、1週間に1社のペースでドイツの先端メーカーを「爆買」しまくり、買収総額で過去最高を記録した。
 ドイツの半導体製造装置メーカー・アイクストロンの、中国・福建芯片投資ファンドによる買収劇には、さすがに「待った」がかかったが、わが国政府も検証しなければならぬ事案であった。
 ドイツ政府は2016年9月、アイクストロン買収を一旦は承認したが、再審査する方針へと転換。その後、米国政府が安全保障上の理由から米子会社の買収を認可しなかった状況を理由に、福建芯片投資ファンドの側が買収を放棄した。半導体製造装置が軍事技術の一角を形成することは、承認を担う官庁では常識中の常識だ。ドイツ経済エネルギー省は「承認当時に安全保障関係の情報を把握していなかった」と説明するが、にわかには信じがたい。
 米国は半導体大手への出資を阻止するなど、中国の「知的財産強奪犯」を追っ払ってはいる。トランプ大統領も、ドイツの政府やメディアが発する反省・悲鳴を通し、中国の正体を看破するときだ。総合すると、こう言っている。
 「ドイツ国内で中国企業はドイツ企業を自由に買いあさる。反面、ドイツからはフォルクス・ワーゲン(VW)などが歴史的と形容できるほど古くより中国市場に進出するが、外資の出資比率は半分以下に制限され、投資は厳しく規制されたまま。誰もが同じルールでプレーする必要がある。中国は市場アクセスや企業買収を事実上不可能にしている」
 「独中関係はパートナーではなくライバルになった。ドイツ企業買収のハードルを上げねばならない」
 「EUは加盟国政府に、非EU企業の株式保有を阻止したり、条件を厳格化したりする権限を与えないといけない」
 「買収が中国の国策と化している。国家に支配された企業の技術獲得は、外国投資とは分けるべきだ」
 ドイツが送っているEU委員も「狡猾な連中」と正直に表現してもいる。ただし、「狡猾」なだけでなく「獰猛な技術窃盗集団」と訂正しておく。その「狡猾で獰猛な技術窃盗集団」に過去、何度も国益を犯され、前述したように政府やメディアが反省の弁を繰り返している割に、ドイツは懲りない。
 空母のカタパルト技術を有するドイツ企業も中国の餌食に
 中国化工集団公司(ケムチャイナ)がドイツの重機大手クラウス・マッファイを買収した際も、筆者はゾッとした。
 クラウス・マッファイは、磁気浮上鉄道の業界で一目置かれる。日本が実用化を目指すリニア・モーターカーなどもそうだが、磁気浮上技術は空母のカタパルト技術につながる。カタパルトは、滑走環境が制約される空母上に敷設された艦上機を射出する、パチンコのゴムに例えられるシステム。カタパルトの有無や性能は、艦上戦闘機の搭載兵器の数・重量や投射機数など航空戦力に巨大な影響を及ぼす。極めて高い技術力が必要で、空母を“自力建造中”の中国が開発に困り果て、米国などから盗みたがっている筆頭格の軍事システムだ。
 おまけに、クラウス・マッファイ分社化後、他社との合併で再編された系列会社は、戦車大国ドイツでも屈指の戦車・自走砲メーカーとくる。
 全体、2004年の教訓、否、戦訓はどこに行ったのだろう。2007年8月の独シュピーゲル誌の表紙を飾った「中国人女性」は怖かった。赤いブラインドを赤いマニキュアを付けた指でこじあけ、魅力的な目で外をうかがっていた。表紙以上に、シュピーゲル誌の特集《イエロースパイ》の報じた内容は衝撃的だった。既に述べたが、空母に不可欠なカタパルトの技術を手段を選ばす得ようとする執念がいかに凄まじいか、特集は見事に浮かび上がらせた。
 《中国は高速鉄道網建設に向け、高度な技術を安価で取得すべく日独とフランスを競わせた。ドイツはリニア建設で300億円相当の技術を提供したが、政府の補助金で開発した高度技術だけは伝授しなかった》
 《そこで、2004年11月26日夜、この技術を盗もうと“中国人技術者”らがドイツのリニア工場(上海)に忍び込んだ。ところが、設備を無断で測定していた現場を発見された》
 《その後、中国側はドイツに技術使用料を払い、自ら建設する計画などを提案したが、ドイツは当然拒んだ》
 FBI(米連邦捜査局)はトランプ大統領に積極的に情報を上げてほしい。FBIの調べでは、ドイツのリニア工場侵入事件当時、米国内にはスパイ目的の偽装企業が既に3千社以上存在した。
 ワケがある。ロシアの諜報活動は、凄腕のプロが1人で「バケツ1杯の砂」を持ってくるが、中国流は違った。中国の兵器技術情報収集の教範《西側軍事科学技術の収集利用に関する中華人民共和国の長期計画》などは、以下のごとき手法を奨励する。
 《4千の団体が政治・経済・軍事・医学・社会・教育・文化など、あらゆる正面で収集に当たる。洗練されたプロではある必要はなく、スパイ教育を受けた各分野の専門家を使い、一度に大量ではなく、少しずつ情報を集めるやり方が肝要だ》
 1人の“アマチュア”が「一粒の砂」を集めてきて、組織全員で「バケツ1杯の砂」にする手口のようだ。
 しかし、ドイツにおける企業の「丸ごと強奪」を考察すると、ロシア流も併用したことになる。 
 G20に象徴される米欧の神経戦を「戦機」に、日米同盟は狡猾で獰猛な「中独協商」を相手に、今まで以上の情報戦を強いられる。果たして、わが国に闘う覚悟&力ありや…。」

 

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【図解】今が地政学でわかる!リアルな新世界地図 (MSムック)

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AIIBの正体(祥伝社新書)

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₩74」─4─通州大虐殺と暴支膺懲。第二次上海事変・第二回南京事件。ファシスト中国に味方したヒトラー。1936年〜No.336  *  


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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 ヒトラーナチス・ドイツ、ドイツ軍は、昭和天皇、軍国日本、日本人の敵としてファシスト中国(中国国民党蒋介石)に味方し経済援助と軍事支援を行っていた。
   ・   ・   ・   
 ハーグ陸戦法規は、捕虜になる条件として重要な3つの要件を定めている。
 1、軍隊・組織・団体が降伏する時は責任者がいなければならない。
 2、武器は必ず見える様に持たなければならない。
 3、必ず軍服を着ていなくてはならない。
 以上の3条件を満たす者のみをジュネーブ条約で保護される捕虜と認める。
 条件を満たさない者は、ゲリラ・テロリスト・スパイと見なし、軍事裁判をすることなく現場で即時処刑することが認められる。
 つまり、中国の便衣隊は正規の軍人ではなくゲリラ・テロリスト・スパイとして処刑しても罪には取られない。
 たとえ、それが子供や女性でも即時処刑が認められた。
 それが、戦争である。
 日本軍による、正規な手続きで降伏し捕虜とならなかった敵兵に対して、敗残兵掃討や残敵掃討は戦争犯罪ではなく正当行為・合法であった。
   ・   ・   ・    
 軍国日本には、虐殺された日本人の無念を晴らす報復権・復讐権があった。
   ・   ・   ・   
 1979年2月 胡耀邦「もし中国人民が、われわれ中国共産党の真の歴史を知ったら、人民は必ず立ち上がり、われわれの政府を転覆させるだろう」
   ・   ・   ・   
 敗戦国ドイツは、賠償金の償還を最優先し、供給力を内需の回復ではなく外需に振り向けた為に、輸出産業に携わる者は裕福になり国内作業関係者は貧しくなった。
 国内産業回復が遅れた為に、多くの労働者の貧困が更に深刻化した。
 ナチスとドイツ共産党は、貧富の格差に怒りを覚える国民の支持を得て勢力を拡大した。
 保守派や財閥は、ベルサイユ条約で軍備再建が禁止されていて、売り上げの低い平和産業製品の輸出では埒が明かないとして、軍需産業を復活させる為に「ベルサイユ条約破棄」としてナチスに期待を寄せた。
 栄光ある大ドイツ軍再建を宿願とする国防軍は、軍需産業回復の為に他国の戦争への関与を強めた。
 外国の戦争で目を付けたのが、フランコ将軍のファシスト・スペインと蒋介石ファシスト中国であった。
 保守派やドイツ財閥は、反日派として、日本軍と戦うファシスト中国ヘの全面支援に賛成した。
 ヒトラーナチスも、国内景気の回復の為に日本軍と戦うファシスト中国への軍事支援を続けた。
 ドイツ軍事顧問団は、ドイツ経済及び軍需産業の回復とドイツ軍再建の為に日本軍への宣戦布告なき戦争を蒋介石に提案した。
 シーメンス社員であるジョン・ラーベは、ナチ党員として日中戦争経過をヒトラーに報告し、ドイツ軍需産業の代表として武器弾薬を中国軍に供給していた。
 日本軍が戦った相手は、ドイツ軍需産業から武器弾薬を大量購入していたファシスト中国軍であった。
   ・   ・   ・   
 1936年 満州国は、日本政府と、在満日本人居留民に満州国民と同等の権利を与える条約を締結した。
 各省庁の日本人文官は、日本の保護国とはいえ、満州国を独立国として国際社会の認知が受けられるようにする為に全力を挙げた。
 満州・ハルピン近郊で、石井四郎軍医中将を部隊長とする関東軍防疫給水部(731部隊)が設立された。
 「部隊長以下全員軍医薬剤官及び衛生下士官兵をもって編成し各部隊の防疫給水及細菌の研究予防等の業務に従事」
 731部隊員は、職業軍人軍国主義者ではなく医師や薬剤師と衛生下士官であった。
 当初は給水・防疫の研究であったが、諸外国軍の生物兵器開発に対抗する為にその分野に力を入れた。
 関東軍参謀であった石原完爾は、1933年頃に永田鉄山軍務局長に対して、資源の乏しい日本は生物兵器開発は欠かせないと意見具申した。
 総力戦を研究する永田鉄山ら合理主義者は、生物兵器の必要性を認めた。
   ・   ・   ・   
 1937年 ソ連は、中国共産党日本共産党に対して軍国日本をファシスト中国との戦争に追い込む事を命じていた。
 ナチス・ドイツから派遣されていたドイツ軍事顧問団は、中国軍の勝利を請け負い、蒋介石に日本軍との戦争を意見具申した。
   ・   ・   ・  
 華北で豪雨。夥しい犠牲者を出した。
 6月 日本の衆議院社会大衆党書記長麻生久「北支経済工作に関して農民大衆の福祉を招来する如き方策を講ずる事が、この目的達成のため緊要である」
 近衛文麿首相「今後は、支那民衆の心を把握する事でなければ東洋平和の確立、ひいては日支両国の提携はできない。支那は農業国であるから支那農民と結び、農業の発展に我が国が手伝う事は極めて必要だ」
 当時の日本人は、現代の日本人以上に中国の実態を熟知していた為に、日本が中国の災禍から如何にして逃れるべきかを絶えず熟慮していた。
 松岡洋右は、国際連盟総会で中国の本質を訴え、日本の自衛行為の正当性を主張した。
 だが、国際社会は日本の自衛権行使という説明を犯罪行為の隠蔽として却下した。
 欧米列強は、日本の如何なる行為も認めず、一方的に侵略行為として制裁を強化した。
 こうして、日本は破滅へと追い詰められていった。
 国際社会は、中国の全ての事を知っていた。なぜなら、抗日中国を各国政府と国際資本が全面支援していたからである。
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 7月7日 盧溝橋事件。中国共産党工作員の発砲で、日本軍と中国軍は戦闘に突入した。
   ・   ・   ・   
 通州事件は、ファシスト中国(中国国民)と保安隊の首謀者の間で、2年前から計画され、天津、豊台、廊坊、順義、塘沽(タンクー)、軍糧城の6ヵ所で同じ日に一斉蜂起で行われた。
 別働隊は、日本軍が援軍を遅れないように天津から通州への道路を遮断した。
 迅速に日本人を虐殺する為に、通州市内の日本人の家にチョークで暗号となる印を悪戯がき風に付けた。
 中国全土は、日本人居留民襲撃事件は、3,000件以上に上っていたが、それ以上に中国人による中国人への殺傷事件は日常茶飯事的に起きていて珍しい事ではなかった。
 無法地帯で生活していた中国人には罪の意識がなく、被害を受けてもいない日本本土の日本人がなぜ激高するのか理解できなかった。
 事件に巻き込まれるのが嫌なら日本本国に帰ればいいのであって、犯罪地帯から逃げずに生活している日本人が悪いのだと、中国人は考えていた。
 加藤康男、「日本政府は戦後一貫して事件のことを口にしていない。奇妙なことだが、日中両国政府がこの事件を『なかったこと』にしてしまっているとしか思えない」
 「南京や盧溝橋はもとより、満州各地にある旧大和ホテルに至るまでが『対日歴史戦』の遺跡として宣伝利用されていることを考えると、雲泥の差がある。『通州虐殺事件』の痕跡は極めて都合が悪いので、完膚なきまでに消し去ったものとしか考えられなかった」
 7月29日 親日派冀東(きとう)防共自治政府の保安隊約3,300人が、日本軍守備隊歩兵小隊49人に自動車部隊・憲兵隊・特務機関・用務員など合計約120人を攻撃した。
 日本部隊は、通州城内の日本人居留民約380人を守って戦った。
 保安隊と中国人暴徒は、日本軍守備隊32人と日本人居留民225人(日本人114人、朝鮮人111人)を虐殺した。
 浜口茂子「(事件後)家主の小父さんは饅頭を作ってくれたり、親切にしてくれた。その度に『あなた方と私はポンユウ(朋友)だ。日本の軍隊が来たらそう言ってくれ』とせがむ。家主が履いている靴は安田さんの(旦那さん)もの、来ているシャツは(私の)主人のもの。それを知っている私らに、しゃあしゃあと言うのです。私ら日本人とは考え方も感覚も違っている」
 中国人とは、そうした、道徳や教養も常識の欠片もない、相手の事を完全無視する身勝手で、おぞましいほどに不真面目で不誠実であり、呆れるほどにいい加減で適当でご都合主義の人間で、信用・信頼を命より大事にする日本人の思考では理解できなかった。
 日本の報道機関は、連日、通州虐殺事件を報じ、中国人による猟奇的惨殺を伝えていた。
 日本の世論は激昂し、日本人は殺気立ち中国への報復を訴えた。
 それが、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」ンのである。
 日本国民は、日本軍の中国進攻を全面的に支持していた。
 日本人に対する犯罪行為や虐殺行為は、日本軍と蒋介石軍を戦争させようとした中国共産党の陰湿な策謀であった。
 劉少奇彭徳懐中国共産党は、策動拠点を北京大学内に設置し、大学生らを手足の様に使っていた。
 欧米のユダヤ系資本の関連する報道機関は、全ての原因は中国侵略を企む日本軍の自作自演で、真の被害者は支那であり中国人であるとする報道を行って、国際世論を反日へと誘導していた。
 極一部のジャーナリストが、日本を擁護して中国を非難していた。
 F・V・ウィリアムス「中国共産党は、まず日本人を血祭りに挙げることに決めた。虐殺は日本を激高させ、蒋介石も戦わざるを得なくなる……通州事件は史上最悪の集団屠殺……日本人は宣伝が下手だ。敵が最強のプロパガンダ勢力であるにもかかわず、宣伝を無視する」
 いずれにしても、各国の報道機関が親中国反日一色である以上、日本には打つ手がなかった。
 アメリカは、日本寄りの報道をしていたウィリアムスを「利敵行為」を理由にして逮捕し投獄した。
 軍国日本には、逃れる事も立ち止まる事もできず、やむなき「戦争」であった。
 が、日中全面戦争には、日本軍部は反対で、日本政府は賛成であった
 ウィリアムズ「日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供らの虐殺は、古代から現代を見渡しても最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう」(『中国の戦争宣伝の内幕』)
 一面性の日本人は、信頼し心許せる友人と心が許せない他人を区別し、友人と信じきつた相手には誠意を就くし約束は守り生命財産まで預けた。
 二面性の中国人は、友人と他人を利害損得で判断し、利益が得られる時は友人となり、不利益になると判断すれば信義を無視して約束を破り、奪えると見るや友人を襲って生命財産を強奪する。
   ・   ・   ・   
 8月11日 中華民国は、東京の中国大使館を通じて、日本に在住する全ての華人・華僑に日本から本国に引き上げるように勧告した。
 しかし。横浜や神戸の在留中国人の多くは、本国命令を無視して日本から逃げ出さなかった。
 ウィリアムズ「私は横浜のチャイナタウンを歩いた事がある。他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。危険や恐怖など何も知らない表情であった」
 軍国日本は法治国家として、国家権力で、中国で日本人が惨殺されているという報道が繰り返し成されて治安を維持し、日本在住の中国人約6万人の生命財産をを守っていた。
   ・   ・   ・   
 8月13日 第二次上海事変
 8月22日 陝西省洛川で中国共産党政治局拡大会議が開催された。洛川会議である。
 毛沢東は、党と軍の幹部に対して極秘命令を口頭で伝えた。
 「中日の戦いは、我が党の発展にとって格好の機会だ。我が軍の兵力の内、70%は我が党の発展の為に使い、20%は(国民党との)妥協の為に使い、残りの10%だけを抗日戦争の為に使う」
 毛沢東は、中国共産党が勝利する為の戦略は、日本軍と国民党軍を全面戦争で疲弊させ、中国共産党軍は戦闘に参加せず勢力を拡大して「漁夫の利」を得る事であると。
 つまり。中国共産党は、抗日戦争の主役にならず脇役に徹し、第一線で大きな戦いに参加してはならない、と。
   ・   ・   ・  
 9月 第二次国共合作毛沢東は、抗日戦を共に戦うに当たり「国民党軍の全ての軍事情報を中国共産党側に渡す事」を要求した。
 蒋介石は、ソ連軍の援軍を期待して条件を呑んだ。
 11月8日 国民党軍は、上海を放棄して撤退した。
 11月12日 毛沢東は、潘漢年(はんかんねん)に「上海陥落後の党の秘密工作署を設置すよ」と命令を打電した。
 潘漢年は、中国共産党のスパイとして、上海の日本総領事館に出入りしてファシスト中国軍の極秘情報を高く売り付け、日本軍に接近して日本軍情報を上司の周恩来に伝えていた。
 周恩来は、中国共産党側の最高軍事委員会委員長として国民党政府の首府・重慶に滞在し、国共両軍軍事委員会副委員長に就任し国民党軍の極秘軍情報を得ていた。
 毛沢東の真の意図は、国民党軍との最終戦勝利の為に中国共産党軍を温存するべく、日本軍と国民党を戦わせ、国民党軍を消耗させ弱体化する事であった。
 基本戦略は、中国共産党軍は日本軍と戦わない事であった。
 そして、極秘に、日本軍に部分的停戦を申し込んだ。
 毛沢東は、孫子三国志を熟読し「漁夫の利」という狡猾な戦略を実行していた。 
   ・   ・   ・   
 11月5日 トラウトマン調停案。
 軍部は、対ソ戦略から、日中戦争終結させる為にトラウトマン調停案を受け入れる事を、恥も外聞もなく涙を流してまで要望していた。
 当時の参謀総長閑院宮大将で、参謀本部次長は多田駿(はやお)中将であった。
 政府関係者及びエリート官僚には、マルクス主義革新官僚や転向組官僚(隠れ共産主義者)が多数存在していた。
 日本の共産主義化には天皇制度を破壊する敗戦革命しかないと考え、軍部が泣いて要望するトラウトマン停戦案を廃棄させた。
 日中戦争が泥沼化させたのは、軍部ではなく、マルクス主義を信奉する中央のエリート官僚(革新官僚、転向組官僚)と一部の軍人エリート官僚であった。
   ・   ・   ・   
 12月13日 日本軍は、ナチス・ドイツの軍事支援を受けていた中国軍を撃退して南京を占領した。
   ・   ・   ・   
 2015年11月28日 産経ニュース「【LA発 米国通信】
ハリウッドで進む米中蜜月 ブルース・ウィリスらが重慶爆撃の悲劇を熱演…スタローンも熱い視線
 日中戦争時の「重慶爆撃」を題材にした中国映画「大爆撃 THE BOMBING」に出演した米ハリウッド俳優ブルース・ウィリス(AP)
 南シナ海の人工島建設をめぐる米中対立が顕在化する中、中国が米空軍の支援を得て日本と戦った日中戦争を題材にした中国映画が完成した。ハリウッド俳優や韓国人気俳優が出演。現実の国際政治とは違って、映画界では米中蜜月ムードがただよう。制作関係者の言葉には歴史認識を映画に反映させる意図がにじんでいる。
 映画は、「大爆撃 THE BOMBING」(蕭鋒監督)。日中戦争当時、中国政府が首都機能を移転させた重慶市に対する旧日本軍の「重慶爆撃」で被害を受けた市民らを中心にしたストーリーで、中国で来年3月の公開が予定されている。
 中国空軍を支援した米義勇航空部隊「フライング・タイガース」の飛行教官、クレア・L・シェンノート役を演じるのは、映画「ダイ・ハード」シリーズで知られるブルース・ウィリス(60)だ。韓国のソン・スンホン(39)も中国空軍のパイロット役で出演するほか、アカデミー賞主演男優賞を受賞したエイドリアン・ブロディ(42)も出演する。アート・ディレクターには映画「リサール・ウエポン」シリーズなどで知られる俳優、メル・ギブソン(59)も加わった。
 同作は、習近平指導部が「抗日戦争勝利70年」と内外にアピールする今年中の完成を目指していたがこのほど完成。構想段階から5年を要したという。
 米紙ロサンゼルス・タイムズには、11月8日に米ロサンゼルス・ビバリーヒルズで行われた完成記念パーティーの様子が、映画のピーアールとともに掲載された。ブルースは「この映画はとてもおもしろい。私の家族はこれが好きだった。家族と一緒にまた(この映画を)見られるように、米国での公開も期待している」とコメントしている。
 唐突に「家族」が出てきたようだが、映画のキャストの中には、元妻で女優のデミ・ムーア(53)との間に生まれた娘、ルーマー・ウィリス(27)がいたのだった。
 完成記念パーティーには同作には出演していない人気俳優らも出席。映画「ロッキー」シリーズや「ランボー」シリーズで知られるシルベスター・スタローン(69)は「続編で役を演じることに興味がある」とアピールし、急成長する中国の映画市場に熱い視線を送った。
 同作のエグゼクティブ・プロデューサーは「重慶で何があったのかを映画化することで、正しい歴史を思い出させ、次世代に文化的遺産として残す」などとしている。豪華キャストが演じる戦争映画は、エンターテインメントとしての側面と、歴史認識問題の境界線を見えにくくしかねない。文化や芸術として、すばらしい映画であってほしいものだ。(敬称略)」 
   ・   ・   ・   
 軍国日本は、ファシスト中国軍に参加していたアメリカ軍義勇兵と戦っていた。
 アメリカ軍義勇兵とは、アメリカ陸軍がフランクリン・ルーズベルト大統領の承認を得て派遣した退役兵士であるが、退役は偽装で正規兵のままであった。
 アメリカは、軍国日本に対して宣戦布告していないにもかかわず、ファシスト中国に正規兵を派遣して日中戦争に参戦していた。
   ・   ・   ・   
 アメリカの諜報機関や宣教師達は、ファシスト中国が行っていた非人道的な軍事行動や虐殺行為を知っていたが、全ての戦争犯罪を軍国日本に押し付けた。
   ・   ・   ・   
 日本軍は、天皇の軍隊・皇軍としての誇りから、天皇の名誉を傷付け穢さない様に軍律や軍紀が厳しく、上官の命令は天皇の命令として絶対服従であった。
   ・   ・   ・   
 2017年1月4日 産経ニュース「邦人多数虐殺「通州事件」 中国共産党の扇動判明 蜂起部隊に工作員接触
 中国-北京市通州区
 日中戦争(1937〜45年)の開始直後、北京郊外で邦人多数が虐殺された37年7月の「通州事件」で、蜂起した親日地方政権の中国人部隊が、中国共産党の扇動工作を受けていたことが、中国での研究で明らかになった。日中戦争は今年で開始80年となるが、「抗日民族統一戦線」の結成を急ぐ当時の共産党が、敵対する親日政権の軍・警察組織に離反を働きかけたことで、惨劇につながる蜂起の素地が事前に形成されていたことが裏付けられた。(編集委員 山本秀也
   ◇   
 通州事件を起こした「冀東(きとう)防共自治政府」(所在地・通州)の「保安隊」をめぐっては、国民党政権の軍・地方長官と保安隊幹部の通謀が判明する一方、共産党の関与に関しては、日本では可能性が指摘されながら実態が明示されていなかった。
 共産党の関与を示す研究は、党史や地方史に関する報告として、河北省唐山市の機構が運営する研究サイト「政協唐山文史網」や、歴史専門誌「国家人文歴史」などで、近年相次ぎ公表された。
 それによると、河北省周辺での地下活動を統括した共産党北方局(劉少奇書記)の下で、「黎巨峰(れい・きょほう)」「王自悟(おう・じご)」という工作員が、35年の冀東防共自治政府の成立直後から、保安隊の張慶余(ちょう・けいよ)・第1総隊長、張硯田(ちょう・けんでん)・第2総隊長と関係を構築した。
 この接触で、共産党は「抗日救国に一致団結する大義」を張らに植え込んだほか、保安隊内への浸透も進めた。
 さらに、盧溝橋事件に始まる日中戦争以前に華北一帯で頻発した抗日活動も、共産党の工作が奏功したものだと指摘。
 実例として、36年11月、河北省昌黎県を列車で移動中の山海関守備隊長、古田竜三少佐ら日本軍将校5人が、同じ保安隊の兵士に拉致された事件について、共産党に影響された張硯田の指示だったことを明らかにした。
 35〜36年当時、毛沢東率いる共産党は、陝西省北部の根拠地で国民党軍の包囲を受けつつ、党勢の立て直しを模索。国民党や親日勢力を取り込む「抗日民族統一戦線」の構築を方針に掲げ、国民党などの支配地域で地下工作を進めていた。
 保安隊工作にあたった黎巨峰は、小学校の教員を務めた地下党員。「通州兵変(クーデター)の推進役」として評価される。事件後は河北省東部(冀東)地区で共産党武装組織の幹部となり、38年8月に同省楽亭県での暴動を組織した。
 張慶余らは、盧溝橋事件(37年7月7日)で日本軍と衝突する二十九軍の軍長などを務めた国民党の宋哲元らと事前に通じ、資金を供与されていたとされる。
 通州事件で、保安隊は7月28日の深夜から行動に移り、第1総隊が日本軍守備隊の攻撃、第2総隊が外部との連絡切断、教導総隊が駅の制圧と日本軍増援部隊の阻止を担当した。共産党が蜂起計画に直接関与したのか、あるいは一般居留民の被害まで想定していたのかはなお不明だ。
 蜂起を指揮した張慶余らは通州事件の後、国民党軍の中将となり、戦後まで生存。中国では「抗日将領」として評価されている。
     ◇   
 【用語解説】通州事件
 日中戦争開始直後の1937年7月29日未明、北京の東にある通州(現・北京市通州区)で、親日地方政権「冀東防共自治政府」(殷汝耕=いんじょこう=政務長官)の保安隊が蜂起した事件。自治政府、日本軍の関係機関のほか、日本人居留民が襲撃され、朝鮮半島出身者を含む200人あまりが死亡した。多くの女性や子供が、きわめて残虐な方法で殺害されたことで、日本の国内世論を激高させた。」
・・・

 

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「天皇の軍隊」を改造せよ―毛沢東の隠された息子たち

「天皇の軍隊」を改造せよ―毛沢東の隠された息子たち


中国がひた隠す毛沢東の真実

中国がひた隠す毛沢東の真実

₩74」─3─反日派中国共産党政府と香港・台湾の反日市民団体の盧溝橋事件80年式典。2017年〜No.335  *     

マンガで読む嘘つき中国共産党

マンガで読む嘘つき中国共産党


   ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 盧溝橋事件は、日本軍とファシスト中国(中国国民党)軍を全面戦争に追い込む為に中国共産党が仕組んだ謀略であった。
 日本軍は、対ソ満州防衛戦略から中国との戦争を望んではいなかった。
 ソ連は、満州の日本軍・関東軍の兵力を削ぐ為に、中国共産党ファシスト中国内の同調者に対して日中前面戦争誘発の謀略を命じていた。
   ・   ・   ・   
 2017年7月7日17:15 産経ニュース「【歴史戦】香港の反日団体総領事館近くに慰安婦像を設置 盧溝橋事件80年で
 香港の日本総領事館が入るビル近くに設置された2体の少女像=7日(共同)
 【上海=河崎真澄】香港の反日団体は7日、日本総領事館が入居するビル近くの歩道橋に「慰安婦像」2体を置いた。総領事館は同日、外国公館前での侮辱行為を禁じたウィーン条約に違反しているとして、香港政府に慰安婦像の早期撤去を申し入れたことを明らかにした。
 香港で慰安婦像設置が確認されたケースはないとみられ、関係者は韓国と中国本土、香港などの反日団体の連携を注視している。
 香港メディアによると、尖閣諸島沖縄県石垣市)の中国領有権を主張している香港の活動家で組織している「保釣(釣魚島防衛)行動委員会」などのメンバーら約20人が参加。この日は日中戦争の発端となった「盧溝橋事件」から80年にあたるとして、抗議を行った。
 日本政府に対し、慰安婦問題に関する謝罪と賠償を求めたほか、安倍晋三首相の写真がプリントされた旭日旗を燃やすなどした。
 活動家らは、旧日本軍が関与したとする1937年の「南京事件」が発生した12月13日まで、慰安婦像2体を置き続けると主張しているという。この2体は中国本土で韓国の活動家らによって作成され、6日の深夜に広東省深センから陸路で香港に運ばれたもよう。」
   ・   ・   ・   
 7月7日20:46 産経ニュース「中国で盧溝橋事件80年の式典 党序列5位が演説「偉大な抗戦精神を発揚」
 盧溝橋事件から80年を迎え、中国人民抗日戦争記念館で開かれた記念式典=7日、北京(新華社=共同)
 【北京=藤本欣也】日中戦争の発端となった1937年の盧溝橋事件から80年を迎えた7日、北京市郊外の盧溝橋の近くにある中国人民抗日戦争記念館で記念式典が行われた。
 中国共産党の最高指導部メンバーで序列5位の劉雲山・政治局常務委員が演説し、「習近平同志(国家主席)を核心とする党中央の周囲に団結して、偉大な抗戦精神を発揚し、中華民族の偉大な復興という中国の夢を実現しなければならない」などと述べた。」
   ・   ・   ・   
 7月7日20:49 産経ニュース「盧溝橋事件80年、台湾でも抗議活動 日本人“脅迫”で市議に警告も
 7日、台北市の日本台湾交流協会前で行われた、中台統一派による盧溝橋事件の抗議活動(田中靖人撮影)
 【台北=田中靖人】盧溝橋事件から80年の7日、日本の対台湾窓口機関、日本台湾交流協会台北事務所(大使館に相当)前で、中台統一派らによる抗議活動が行われた。
 事務所前には、統一派の政治団体「中華統一促進党」の構成員ら約90人が集まり、中台双方の旗を掲げ、「安倍(晋三)総理は謝れ」などと叫んだ。
 同団体に所属し、南部・台南市で4月、日本人技師、八田與一銅像を損壊するなどして起訴された元台北市議の李承竜被告も参加。日本人を脅迫するような発言をし、警察から警告を受けた。」

   ・   ・   ・   

抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか―覆い隠された歴史の真実

抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか―覆い隠された歴史の真実


中国共産党 葬られた歴史 (文春新書)

中国共産党 葬られた歴史 (文春新書)

♚:37─6・B─多数派インドから少数派パキスタンの分離独立で約100万人が殺された。〜No.233     

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   

 人種・民族、宗教、文化、言語を理由とした少数派の多数派からの分離独立闘争は、大量の犠牲者を出す悲惨な結果を生み出す事が多い。

 問題は、少数派が多数派の上から目線に我慢できるのか、と、多数派が少数派の意固地を受け入れられるのかである。

 多数派による少数派への虐殺は、世界史では珍しくなく、代表例がルワンダの大虐殺と中国共産党少数民族ジェノサイドである。

   ・   ・   ・   
 2019年3月21日号 週刊文春池上彰のそこから!?
 〘核保有国同士の戦闘始まる〙
 核兵器保有している国同士の関係が緊張し、軍事衝突が続く。核戦争の悪夢がよぎります。インドとパキスタンが、この状態になっているのです。
 きっかけは、先月14日。両国が領有権を争うカシミール地方のインド側で治安部隊が乗ったバスに自爆攻撃があり、隊員40人が死亡したことです。パキスタンイスラム過激派『ジャイシ・ムハンマド』が犯行声明を出しました。
 これにインドが猛反発。パキスタン政府は過激派の存在を容認していると非難し、パキスタン領内にある過激派組織の訓練基地とされる場所を空爆しました。インドのメディアは、この空爆で過激派350人以上を殺害したと伝えていますが、パキスタン側は、基地など存在せず、犠牲者も出ていないと真っ向から否定しています。
 パキスタン軍も対抗してインド側を空爆
 ……
 いったいインドとパキスタンはなぜ対立しているのか。それは、両国が建国されたとき、優柔不断なマハラジャ藩王)がいたためです。
 インドもパキスタンも、かつてはイギリスの植民地『イギリス領インド』でした。イギリスの『東インド会社』が17世紀にインド亜大陸に進出し、植民地化を進めました。東インド会社という名前は高校の世界史の教科書に必ず出てきますね。最初に『東インド会社』を設立したのはオランダ。その後、ヨーロッパ各国が同名の会社を使って南アジアから東南アジアを支配しました。東インド会社という会社の名称ですが、実態は軍事組織を伴っていました。要は強大な軍事力を備えた軍団が貿易を強制したのです。
 これに怒った住民による反乱が相次いだことから、イギリスは19世紀になって、インドを直接統治します。インドの農産物が大量にイギリスに持ち去られ、大英帝国の経済基盤を支えました。
 マハラジャの逡巡が対立招く
 ただ、イギリスがインド亜大陸を支配した際、各地に存在したマハラジャと呼ばれる封建領主の自治を容認しました。
 イギリスによる植民地支配に抵抗して独立運動を進めた人物として、マハトマ・ガンジーが有名ですね。
 ガンジーは一つの国家として独立させようとしたのですが、これに異を唱えたのがムハンマド・アリ・ジンナーでした。イスラム教徒の指導者だった彼は、ヒンズー教徒の多いインドが一つの国家になるとイスラム教徒の国パキスタンに分かれて独立しました。
 ただしイスラム教徒はインドの東西両側に多かったことからインドを挟んで東パキスタンと西パキスタンに領土は分かれながら、一つの国家になりました。しかし東西で民族が異なったことから対立し、1971年、東パキスタン独立戦争の末、バングラデシュとして独立します。『ベンガル人の国』という意味です。
 話を戻します。インドとパキスタンが独立したとき悲劇が起きました。パキスタンとして独立した地域に住んでいたヒンズー教徒たちが、イスラム国家に住むことを嫌がり、インド側に移動を始めます。
 一方、インドになる地域のイスラム教徒はイスラム国家を目指して、こちらも移動。両者の大移動が始まり、大行進は各地で衝突を引き起こしました。結果、約100万人が犠牲になったとされます。
 とりわけ問題になったのがカシミール地方です。日本で発行されている地図帳を見ると、インドとパキスタンの国境の北側が白くなっています。国境が画定していないという意味です。セーターのカシミアは、この地方のカシミア山羊の毛でつくられます。
 この地域のマハラジャは、インドに入るかパキスタンに入るか、態度を明らかにしませんでした。時間切れでどちらにも属さずに独立国家になることを目指していたとも言われています。
 この地域はイスラム教徒が多かったことから、態度を明らかにしないことに腹を立てたパキスタン側は、義勇軍を送り込みました。マハラジャ本人はヒンズー教徒だったため、慌ててインドに助けを求めます。かくして両国は戦火を交えます。印パ戦争です。これまでに3回の戦争になり、最期の第3次戦争ではバングラデシュ独立を支援したインドが勝利。そのインドが核開発を始めたことからパキスタンも核開発を始め、両国とも核兵器を持つに至ったのです。
 建国時に遡る対立意識。カシミールに平和は訪れないのです。」
   ・   ・   ・   
 インドとパキスタン紛争を解決不能な状況に追い込んでいるのは、中国共産党の対インド封じ込め政策と一帯一路構想である。
   ・   ・   ・   
 国家と国民の統合の象徴が、存在しなかったムガル帝国と存在した日本国の違い。
   ・   ・   ・   
 ムガル皇帝は、統合の象徴の役割を果たしきれなかった。
   ・   ・   ・   
 日本は、清国(中国)や朝鮮ではなくムガル帝国に似ていた。
   ・   ・   ・   
 近代的天皇制度による明治維新が、日本をムガル帝国のような滅亡から救った。
   ・   ・   ・   
 反天皇反日的日本人や共産主義者マルクス主義者)が理想とする人民革命は、ムガル帝国滅亡である。
 彼らは、如何なる犠牲も必要な犠牲として正当化している。
   ・   ・   ・   
 イギリスは、日本をムガル帝国ビルマ王国のように利益・大金で内部協力者を使って分裂崩壊できると高を括ったが、日本民族日本人は利益や金ではなく名誉や体面を重んじた為に内部崩壊せず当てが外れた。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、利益や金で買えない大事なモノ、命を捨てても守らねばならない大切なモノがある事を知っていた。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 インド・パキスタン分離独立(英語: Partition of India、ヒンディー語: ???? ?? ?????? Bh?rat k? Vibh?jan または ?????????? ?? ?????? Hindust?n k? Batw?r?、ヒンドゥスターニー語: ???????? ?? ????? Hindust?n ki Taqseem、ウルドゥー語: ????? ??? Taqseem-e-Hind)、略称として印パ分離、印パ分断などとも、は、1947年8月14日および15日にイギリス領インド帝国が解体し、インド連邦とパキスタン(後にバングラデシュとして独立する飛地の東パキスタンを含む)の二国に分かれて独立したことを指す。インド独立運動における最大の悲劇に数えられる。
 この結果、インドとパキスタンの両国が並び立つこととなり、この二者の対立は今日に至るまで続いている(なお、バングラデシュは東パキスタン時代に西から一方的な政治的支配・弾圧を受けた確執や、独立戦争にインドが協力した歴史的経緯から比較的親印感情が強いとされる)。
 「二民族論」
 第二次世界大戦の結果、イギリスは勝利したものの疲弊して超大国の地位から転落することが確実となり、脱植民地化の流れが強まるなかで最大の植民地であったイギリス領インド帝国の解体は不可避になっていた。
 イギリス領インドにおけるヒンドゥー教徒イスラム教徒の分布(ピンクがヒンドゥー、緑がイスラム、黄が仏教)
 しかし、当のインドでは多数派(マジョリティ)のヒンドゥー教徒と社会的少数者(マイノリティ)であるイスラム教徒の対立は激しさを増し、特にムハンマド・アリー・ジンナーを指導者とする全インド・ムスリム連盟は1940年のラホール決議(Lahore Resolution)で「二民族論」(Two-Nation Theory)を唱え、ヒンドゥー教徒イスラム教徒の分離を強硬に主張していた。
 マハトマ・ガンディーはこうした分離の動きに強く反対して統一インドの実現を唱えており、インド国民会議派も政教分離世俗主義の立場から宗教による分離には慎重で、インド共産党ヒンドゥーナショナリストもそれぞれの反応をみせたが、分離の勢いが止まることはなかった。
 分割の確定
イギリスも当初はヒンドゥー教徒の多い地域にヒンドゥスタン、イスラム教徒の多い地域にパキスタン、そして各藩王国を残し、この三者で「インド連邦」を構成する独立案を構想していたが、合意は得られなかった。
 そこでイギリス領インドの最後の総督ルイス・マウントバッテンはインドを一体とする計画を諦め、1947年6月4日、イギリス領インド帝国を「インド」と「パキスタン」に分割することによる独立(インド高等文官、インド軍、インド鉄道の分割を含む)を、同年8月15日をもって行う案を声明した。
 また、独立後の統治の暫定的な枠組みをイギリス議会が制定した1935年インド統治法によって行うことも含まれていた。7月18日に施行された1947年インド独立法(英語版)(→インド憲法#憲法制定までの沿革#1947年インド独立法)は、イギリス領インドをインドとパキスタンの2つの新しい国に分割し、それぞれの国の憲法(インド憲法およびパキスタン憲法(en))が施行されるまでイギリス連邦自治領(ドミニオン。カナダやオーストラリアと同じ地位で、国際法上の独立国)とすることを定めた。
 ラドクリフ・ライン
 マウントバッテンが分離独立を示してから実施に移すまででも2か月強、インド独立法の施行からならばわずか1か月弱しかなかったことも問題だったが、それ以上に大問題となったのは、イスラム教徒が多数を占める地域がイギリス領インド帝国の東西に分かれて位置していることであった。
 このため、西のパンジャーブ地方と東のベンガル地方はそれぞれインド・パキスタン両国に分割され、パンジャーブ地方パンジャーブ州 (パキスタン)とパンジャーブ州 (インド)(後にそこからさらにハリヤーナー州ヒマーチャル・プラデーシュ州チャンディーガルが分割される)に、ベンガル地方は東パキスタン西ベンガル州に分割されることとなった。この地理的分割の作業は、それまでインドに縁がなかったロンドンの法廷弁護士(バリスター)シリル・ラドクリフ(Cyril Radcliffe)にゆだねられ、このため分割線(分離独立後はそのまま国境となる)はラドクリフ・ライン(Radcliffe Line)と呼ばれるようになった。なお、この分割線は独立当日まで公表されなかった。
 ベンガルでは1905年のベンガル分割令に近い形での分離がなされた(en)が、パンジャーブでは分割の経験がなかったため、混乱はより大きくなった。
 パンジャーブ鉄道車両からあふれる難民
 大混乱、衝突、そして虐殺
 そして両地方ではヒンドゥー教徒地域のイスラム教徒はイスラム教徒地域へ、逆にイスラム教徒地域のヒンドゥー教徒(およびパンジャーブではシク教徒)はヒンドゥー教徒地域へ、それぞれ強制的な移動・流入による難民化を余儀なくされた。
 このとき短期間での1千万人以上もの人口流入によって生じた大混乱のため、特にパンジャーブ地方では両教徒間に数え切れないほどの衝突と暴動、虐殺が発生、さらに報復の連鎖が各地に飛び火し、一説によると死者数は100万人に達したとされる。このとき生じた両者の不信感そして憎悪が印パ関係の後々まで影響することとなる。いっぽうカルカッタではガンディーの尽力により虐殺が抑えられた。
 結果
 パキスタンの独立は8月14日に、そしてインドの独立は8月15日に行われた。ジンナーがパキスタンの総督となり、またジャワハルラール・ネルーが新生独立インドの首相となった。しかし、そこに至る道、およびその後の両国が歩んだ道は決して平坦なものではなかった。
 大都市スラムの発生
 保守的なイギリス人にとって、この事件はかつてのインド総督カーゾン卿が予言したとおりの、大英帝国の没落の現実化であった。またインドになだれ込んだヒンドゥー教徒およびシク教徒難民、パキスタンになだれ込んだイスラム教徒難民は、デリー、ボンベイカルカッタ、カラチ、ラホール、ダッカといった両国の大都市に巨大なスラムを生み、両国に膨大な都市貧困層を生じさせて社会の不安定要因となった。
 ガンディーの暗殺
 ヒンドゥーイスラム両教徒のあいだの不信は、両者の融和を説いたガンディーに対する反発を生むこととなった。特に民族義勇団などのヒンドゥーナショナリストからはイスラム教徒やパキスタン側に対して譲歩しすぎるとして敵対視された。その結果、翌1948年1月30日、ガンディーは狂信的なヒンドゥーナショナリストによってデリーで暗殺される結果を招いた。非暴力を説いたガンディーが暴力の連鎖を止められず、自らもその中に倒れたことは悲劇の象徴として捉えられた。
 印パ戦争から核開発へ
 また多くの藩王国はインド側の副首相ヴァッラバーイ・パテールの巧みな交渉もありインドに帰属したが、大藩王国のニザーム藩王国とジャンムー・カシミール藩王国はその態度を最後まで決めかねており、1948年9月インドはニザーム藩王国を強制併合したが、ジャンムー・カシミール藩王国においてはその帰属をめぐって第一次印パ戦争が発生し、その後の印パ戦争とへと続いていく。
 そして、パキスタンは東西に分かれた領土を持つこととなり、国家として不安定な状況を生むこととなった。これは最終的にバングラデシュ独立戦争と第三次印パ戦争を経て東パキスタンバングラデシュとして独立するまで続くこととなる。さらに、両国の対立はインドの核開発(1974年および1998年)と、それに対抗するパキスタンの核開発という形で、南アジア地域にとどまらない世界的な国際政治の不安定要因を生み出している。
 また、両国の対立はインドが世俗主義であるのに対し、パキスタンイスラム教を国教としているという、両国の国家理念の根本的な違いに起因するという見解もある。これは、インドではムガル帝国の3代皇帝アクバルが「民族融和の象徴」とされているのに対し、パキスタンでは6代皇帝アウラングゼーブがイスラームの教えを遵守した「英雄」とされている点からもうかがえる。」
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 インドの宗教間対立
 インドの宗派別人口
 下にインドにおける2001年の宗派別人口と構成比を表にまとめた。(この表の人口は、イスラム教徒が多くパキスタンとの間で帰属が問題となっているジャンムー・カシュミール州を除いている。)イギリスからの独立時に多数のイスラム教徒がパキスタンへ移住したが、インド国内にも1億を超えるイスラム教徒が居住している。主に上位4宗派間で対立や紛争が目立つが、2013年には仏教に対するテロ事件も起きている。仏教はインドで興ったが13世紀にはインド内では消滅し、現在の仏教徒は20世紀に入って主にヒンドゥー教の下位カーストの人たちが集団で改宗したものである。またジャイナ教は生活において厳しく非暴力アヒンサーを徹底している。
 インドの宗教別人口
 宗教
 人口(万人)・比率(%)
 ヒンドゥー教・82,760・81.4%
 イスラム教・13,819・12.4%
 キリスト教・2,408・2.3%
 スィク教・1,922・1.9%
 仏教・795・0.8%
 ジャイナ教・423・0.4%
 ヒンドゥー教徒イスラム教徒の対立の歴史
 イスラム過激派が起こしたとされるテロ事件
 インド国内ではしばしばテロ事件が起こり、そのかなりの割合がイスラム過激派が起こしたものとされる。事件を起こした過激派はパキスタンから来たとされることが多かったが、2008年以降インディアン・ムジャーヒディーンという組織が関与したとされる事件も起きている。イスラム過激派が起こしたとされる最近の主なテロ事件には以下のものがある。
 2006年7月11日 ムンバイ列車爆破事件 - 死者209名
 2008年7月26日 グジャラート州アフラマバードで連続爆破事件 - 死者49人
 2008年9月13日 ニューデリー中心部で連続爆破事件 - 死者25人
 2008年11月26日 ムンバイ同時多発テロ - 死者172名
 2013年7月7日 ブッダガヤ爆弾テロ事件 - 仏教寺院が狙われた事件、けが人は出たが死者はなかった
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 ヒンドゥー教ヒンディー語: ?????? ????、サンスクリット語: ????? ????)、慣用表記でヒンズー教、ヒンヅー教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教、またはインド的伝統を指す。西欧で作られた用語である。
 英語のHinduは、まずイスラム教徒との対比において用いられるのが現在では一般的で、イスラム教徒以外で小宗派を除いた、インドで5億人を超えるような多数派であるインド的な複数の有神教宗派の教徒の総称である。ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目の宗教である。
 同じくヒンドゥー教と訳される英語のHinduismは最も広い意味・用法ではインドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれインダス文明まで遡るものである。一般的には、アーリア民族のインド定住以後、現代まで連続するインド的伝統を指す。西洋では、このうち仏教以前に存在した宗教をバラモン教(英:Brahmanism)、特にヴェーダ時代の宗教思想をヴェーダの宗教(英:Vedic Religin)と呼んだ。これらは日本の漢訳仏典の婆羅門教(ばらもん教)に当たる。
 ヒンドゥー教の狭い意味での用法は、仏教興隆以後発達して有力になったもので、とくに中世・近世以後の大衆宗教運動としてのシヴァ教徒・ヴィシュヌ教徒などの有神的民衆宗教を意識しての呼び方であることが多い。
 語源と名称
 「ヒンドゥー」 Hindu の語源は、サンスクリットインダス川を意味する sindhu に対応するペルシア語。「(ペルシアから見て)インダス川対岸に住む人々」の意味で用いられ、西欧に伝わり、インドに逆輸入され定着した。(同じ語がギリシアを経由して西欧に伝わって India となり、こちらもインドに逆輸入されて定着した。漢訳では玄奘による「印度」が定着している。)インド植民地時代に大英帝国側がインド土着の民族宗教を包括的に示す名称として採用したことから、この呼称が広まった。
 日本では慣用表記ではヒンズー教、一般的にはヒンドゥー教と呼ばれるが、時にインド教と呼ばれることもある。中国、韓国でも「印度教」と呼ばれるが、現在のインドは世俗国家であり国教はなく、インドでこのように呼ばれたことはない。
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 インドにおけるイスラーム
 インドに居住または活動するイスラーム教について概説する。
 歴史
 伝播
 インドにイスラーム教が伝わったのは7世紀であり、インド西部のマラバール海岸へやって来たアラブの貿易商がその役割を担ったとされる。
 イスラームと仏教
 12世紀のイスラームの侵攻によってインド仏教勢力は壊滅した(インドにおける仏教の弾圧)。
 インドにおけるイスラーム王朝
 ・デリー・スルターン朝(1206年 - 1526年)北インドイスラーム王朝。奴隷王朝ハルジー朝トゥグルク朝、サイイド朝、ローディー朝がある。
 ・ムガル帝国(1526年 - 1858年) - トルコ系イスラーム王朝。
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 日本民族日本人の尚武とは、私利私欲で他人を蹴落として利益や金を個・私として奪う事ではなく、先祖代々受け継がれた大事なモノ、大切なモノを伝統・公と定め命捨てても守る事である。
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 日本に外国人移民(主に中国人移民)が急増すると、日本から天皇・皇室への愛着・崇敬・敬意・畏敬の思いが薄れ、将来の日本はムガル帝国と同じ道を辿る危険性がある。
 それは、日本民族日本人の消滅を意味する。
 が、外国人移民政策を採用した現代日本人は、ナショナリズム民族主義)の消滅を受け入れた。
 日本にとって最大にして最悪な存在が、中国共産党共産主義者マルクス主義者)である。
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 国家と国民の統合の象徴とは、国内に住む全ての人種・民族・部族、宗教、文化、言語、習慣、哲学、思想、主義主張など有りと有らゆる違いによる、差別、偏見、蔑視などの嫌悪感や敵愾心を中和し、迫害、弾圧、暴動、騒乱などを沈静化させ、治安を維持し、秩序を保ち、平和と安寧、発展と進歩、幸福と豊かさをもたらす事である。
 あらゆる要因による多数派と少数派の対立、敵対を消し去るのが、統合の象徴の役割である。
 国家と国民の統合の象徴とは、国家を調整し、社会に均衡をもたらし、国民を調和させる事である。
 調整・調和をもたらす為に、象徴は、多数派・少数派、富裕層・貧困層などに関係なく誰にも味方せず肩を持たず絶対中立を保ち、ただ弱者・貧者に言葉少なく寄り添う事だけである。
 俗世の政治・外交・戦争、神聖な宗教などで、公的な発言をしない事である。
 統合の象徴とはサイレントで、行動・振る舞い・仕草を見せるだけである。
 国家と国民は、統合の象徴がサイレントとして言葉を発しない為に、行動・振る舞い・仕草の一挙手一投足に注視して統合の象徴の気持ちを忖度するだけである。 
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 日本でも、平安時代朝鮮半島から日本列島に逃げて来て東国に定着した渡来人が反天皇反日本の反乱を起こした。
 天皇と日本国は、半島や大陸からの難民・避難者・移住者を温かく受け入れ、生活できるように土地を与えて定住さ、祖先を神として祀る事を認めた。
 高句麗人による高麗神社が有名。
 親日派帰化人(百済人・高句麗人)が天皇と日本国に味方した為に、反日派渡来人(新羅人)の反乱は鎮圧された。
 帰化人は多数派で、渡来人は少数派であった。
 天皇と日本国に、忠誠を誓ったのが帰化人(多数派)で、忠誠を拒否したのが渡来人(少数派)である。
 古代から反天皇反日本国というドス黒い怨念が国内に存在し、天皇を滅ぼし日本国を転覆させようとい怨念は現代日本にも蠢いている。
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 外国人移民(主に中国人移民)が増えている日本が学ぶべきは、東アジアの中国や朝鮮ではなく南アジアのインド・ムガル帝国である。
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 ムガル帝国は、外敵に協力する裏切り者によって内戦が激しくなり、戦乱と混乱によって内部崩壊を起こし、滅亡し、ムガル帝室は消滅した。
 ムガル皇帝は、外敵の内通者によって悲惨な末路を辿り、失意の末に死亡した。
 国内の反皇帝派によって、ムガル帝国は滅亡した。
 ムガル帝国を滅しムガル皇帝を死に追いやった裏切り者・内通者・売国奴は、侵略者に優遇され権力と高い地位を与えられ、莫大な富、金を手にして優雅に暮らした。
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 多数派のヒンズー教徒と少数派のイスラム教徒による宗教対立による殺し合いの連鎖の末に、インドはヒンズー教の国とイスラム教の国に分裂した。
 パキスタンは、国内での異民族対立から分裂し、東パキスタンバングラデシュベンガル人の国)として独立した。
 宗教的インド・パキスタン戦争や民族的パキスタン分裂内戦で、百万人以上が犠牲となった。
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♫:23─2─マレーシア。反日派中国人暴徒による日本人女性強姦惨殺事件。谷豊の事件。1934年。〜No.101   

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 東南アジアで、中国人暴徒による日本人への暴行・強姦・殺人事件が頻発していた。
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 欧米の植民地警察は、被害を受けた日本人の訴えを適当に聞き流し、中国人犯罪者の取締を厳しく行わず、むしろ放置していた。
 中国人犯罪者は、植民地警察官に賄賂を渡して手懐けていた。
 地元住民は親日派として、植民地支配する白人や植民地支配に協力する中国人の華僑や華人への憎しみから日本軍・日本人に協力していた。
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 2019年4月18日号 週刊新潮「変幻自在  高山正之
 国王陛下の便衣隊
 昭和17年1月下旬、シンガポールが間もなく陥落というとき朝日新聞が現地マレーについて千田商会の千田牟婁太郎ら関係者を集めた座談会を掲載した。
 マレーには実は阿片戦争のころから支那人が逃げ込んできて、白人支配者に取り入ってマレー人労働者を仕切ったり、彼らに阿片を売りつけたりしていた。
 昭和に入るころには支那人子弟のための学校が『300くらいあった』と千田が紹介している。
 その頃には日支の緊張がそのまま入り込んで在マレーの日本企業や邦人を支那人が襲いだした。
 その一つがマレーの虎こと谷豊の事件だ。
 彼が日本に戻っていた時期に支那人の群がトレンガヌの街を襲い、彼の妹を犯したうえに首を切り落として持ち去った。支那人らしい残忍さだった。
 日本から帰った豊は妹を殺した集団を追い、さらに阿片長者を襲うなどして支那人からはハリマオの名で恐れられた。
 支那人たちは英国の勝利を信じ、日本軍にサボタージュやテロを仕掛けた。
 座談会では支那人テロ集団には元締め組織があって、それが蒋介石と通じていた陳嘉庚の『籌賑会(ちゅうしんかい)』という。この組織は、南洋全体の抗日の中心機関になっていた。
 因みに陳嘉庚は毛沢東とも通じていて、戦後、共産党政権が成立するとマレーを捨てて故郷の福建省に戻っていった。愚かな選択だった。
 日本軍は英印軍と戦いながらこうした支那人ゲリラの気配に注意を払わなければならなかった。
 それで平均して1日20キロも進攻していった。日本軍は本当に強かった。
 座談会では触れていないが、そのころシンガポールでは英軍が組織した『支那人だけの戦闘集団がいた』と朝日の従軍記者酒井寅吉が報告している。
 この部隊はジョン・ダレー中佐の指揮下にあり、兵員数4,000人というから優に旅団規模を誇る。兵士の中にはチャンギ刑務所に収監されていた共産ゲリラも含まれていた。
 彼らの特徴は正式の軍装を持たない。つまり私服の便衣隊で、黄色いバンダナを首に巻くのがただひとつの目印とされた。
 指揮官の名に因んで『ダル・フォース』あるいは『Dalley’s Desperades(ダレーの無法者たち)』と呼ばれた。
 日本軍との市街戦になったとき彼らは善良な市民を装って攻撃の機会を窺い、追われれば銃を捨てて市民の群れに逃げ込んだ。
 この便衣による戦闘はそのまま国際法違反のゲリラと見做される。
 捕らえれば国際法でも極刑を求めている。
 シンガポール攻略戦ではこのダル・フォースの何人かが捕まり彼ら便衣隊の存在をが明らかになった。
 今、シンガポール華人が日本軍の華僑粛清を非難するが、原因を創ったのは紛れもなく彼ら自身だった。
 このマレー作戦で最初に制圧された重要都市アロルスターで先日『日本軍兵士を英雄とたたえる慰霊碑』がケダー州政府の手で修復され、そのお披露目式が賑々しく執り行われた。
 それに対して、地元支那系住民が『中華系住民が日本軍に殺されている』『侵略軍がなぜ英雄なのか』と騒ぎ出した。
 『州政府は吃驚(きっきょう)してお詫びした』と朝日の守真弓記者が嬉しそうに報じた。
 戦時中、支那人は英軍について日本軍と戦った。卑怯なテロも仕掛け、便衣隊まで繰り出した。
 それで殺されるのは不当だとどの口で言うのか。
 因みに守記者の大先輩の酒井特派員が昭和16年12月30日付で同州のマレー人が日本軍を大歓迎する様子を伝えている。
 州の王様格のM・デュワ摂政とも会見して『英国は我々を見下し圧迫してきた。今こそ我が民族の夜明けがきた』と日本軍による解放に感謝する言葉も併せて報じている。
 先輩の記事を読まず、残忍で嘘つきの支那人の言葉にのめり込む。朝日新聞が売れないは。それは真弓のせいかも」
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 ウィキペディア
 谷 豊(1911年11月6日 - 1942年3月17日)は、昭和初期にマレー半島で活動した盗賊。ムスリム名「モハマッド・アリー・ビン・アブドラー」。現在の福岡県福岡市南区出身で、イギリス領マラヤに渡った後に盗賊となり「ハリマオ」として一躍知られる存在となった。その後、日本陸軍の諜報員となって活動する。

 妹の惨殺
 同じ頃マラヤでは、満州事変に対して在マレーの華僑たちが排日暴動を起こしていた。そのさなかの1932年11月にマラヤの谷家(店舗兼住居)も破壊され、さらにたまたま寝込んでいた豊の妹シズコが暴徒に斬首され殺されてしまう。しかも暴徒は妹の首を持ち去り、さらしものにまでしたともいう(なおこの首は隣家の歯科医が奪還し、遺体と縫い合わせている)。この事件により谷一家は日本へ引き揚げざるを得なくなった。
 帰国した母親から事件のことを聞いた豊は激怒し、1934年7月、単身再びマラヤへ向かった。

 盗賊団を組織
 再びマラヤへ戻った豊はマレー人の友人たちと徒党を組み、華僑を主に襲う盗賊団となった。数年の間、マレー半島を転々としながら活動を続けていた。
 マレー語とタイ語を堪能に扱い、大胆な行動と裏腹に敬虔なムスリムであった谷を、誰もがマレー人と信じて疑わなかったという。しかし、その時期にタイ南部のハジャイで逮捕、地元の刑務所に投獄され、そこで2か月の獄中生活を送った。
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 世界は、日本人の国内での正当防衛、自衛行動、報復権や復讐権を認めても、国外では認めてはいなかった。
 つまり、中国や東南アジアでは、日本人はやられ損で、やられたくなかったら国外に出ない事であった。
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 中国人暴徒は、国際的な反日気運で日本人への犯罪行為をより凄惨化させていった。
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 国際世論は、中国人に味方し、日本人を非難した。
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 日本軍は、抗日派中国人の暴徒、便衣隊、ゲリラ、テロリスト、工作員、スパイなどを発見しだい裁判にかけずに処刑した。
 それが、シンガポールの中国人虐殺である。
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 戦後の国際軍事裁判所は、彼らにも人権と命の尊厳はあったあったとして、日本軍の中国人に対する処刑は戦争犯罪と認定し、処刑に関わった日本人兵士を戦争犯罪者として残忍に処刑した。
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 日本人兵士極非道な犯罪者という認識は、世界常識として現代においても引き継がれている。
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₩74」─2─西北大飢饉・華北大水害・華南大洪水。満州事変と国際連盟理事会。中国共産党の江西省瑞金大虐殺。1930年〜No.333〜No.334 *   


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 鍾祖康「来世は、豚になっても中国人には生まれたくない」。
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 軍国日本が軍事介入する事で、中国の地獄の様な内戦は収束し、日本軍の侵略によって一つにまとまり始めた。
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 人の命は虫けら以下。
 中国軍の被害を拡大したのは、督戦隊であった。
 日本軍と戦う戦場から敗走する味方の兵士を射殺し、日本軍陣地へと追い立てて殺した。
 ファシスト中国と軍国日本の熾烈な戦闘。
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 皇室と関係が深かった日本赤十字社は、軍部が立ち入りを許した天災で被害を受けた中国各地に救援隊を送っていた。
 軍部は、自然災害で被災した中国人を親日派にするべく救援を許した。
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 ファシスト中国と中国共産党は、被災した自国民を一切助けず、見殺しにした。
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 1912年の中華民国建国から33年までの22年間だけで、内戦は700回を超えた。
 7年間の国民党内戦で、死傷者は3,000万人以上といわれる。
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 中国共産党は、華中・華南に15のソビエト地区を作り地主階級の土地を没収して貧農に分配する事で人民の支持を得た。
 紅軍兵士が無教養の貧民出身や犯罪者や流民の為に、略奪や殺人や強姦などの暴虐が目立った為に「赤匪軍」と恐れられた。
 中華世界では、軍人は無教養で身分の低い者の為の卑しい職業と軽蔑されていた。
 中国共産党軍は、解放区を拡大し資金と食糧を確保する戦術として「一村一殺」を行い、占領した村で村長一家を村人の目の前で公開処刑した。
 女子供も容赦なく皆殺しにした。
 共産主義とは、人民を死と暴力の恐怖で支配する事である。
 反対派は、本人はもとよりその家族、女子供であっても容赦なく虐殺した。
 共産主義は、恐怖で人民を洗脳して革命戦士に育てた。
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 満州族は、満州清朝を復活させる為に満蒙独立運動を起こした。
 日本陸軍は、満州の正統な所有者は満州族であるとして独立運動を支援した。
 満州族モンゴル族、漢族は、別の民族である。
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 1930年代 中国の宋慶齢は、国民党左派であったが、宋家の三姉妹として国父・孫文の妻であり蒋介石夫人の宋美麗の姉という揺るぎない立場で、蒋介石赤狩りから免れていた。
 スターリンの信奉者としてソ連コミンテルンと通じ、スターリニストとしてスターリンに敵対するトロッキストなどを蒋介石に告発して粛清させた。
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 1929〜30年 西北大飢饉。
 河北省水害と陜西省干害。被災者3,000万人以上。餓死者900〜1,000万人。
 陜西省だけで、100万人以上の婦女子を含む200万人以上が流民となり、70万人以上の女性や子供が中国人人身売買業者によって奴隷(性の奴隷)として売られた。
 父権を絶対視する正統派儒教は、女性や子供の人権を一切認めず単に男・夫。父親の道具としか認識されていなかった。中国では、人身売買はアヘンの密売と同じく普通におこなわれていた、重要な産業であった。
 中国には、歴史的事実よして、人道は存在しない。
 日本政府は、23年の関東大震災のおりに、清朝最後の皇帝溥儀と北洋軍閥の段祺瑞北京政府から受けた支援を恩義として忘れず、「人道」の見地から二つの調査団を派遣した。たとえ、現在の国家や政府が反日的侮日的であっても、民衆には罪はないと割り切り、無償で被災民の救済に乗り出した。
 戦前の日本人は、「敵に塩を送る」事を武士道的美徳とし、「罪を憎んで、人を憎まず」の天皇神話を信仰していた。
 キリスト教諸団体は、大災害や戦争を布教の好機として救済活動に乗り出していた。宣教師らは、被災地で人が命を失うのは唯一絶対神の「愛」を信じない事に対する神の審判であると糾弾し、被災民達に貧困や困窮から抜け出すには伝統的民俗宗教や土着的自然宗教を捨て普遍的教義を信仰する事だと諭した。キリスト教会は、天皇制度国家日本の救済活動には侵略意図ありとして反天皇的宣伝をおこなった。
 日本軍部は、被災地の被害状況を調べるべく調査団を派遣した。
 日本赤十字社は、軍部の協力を得て、被災民を助ける為に優秀な医師や看護婦達を被災地に派遣した。
 中国人の指導者は、被災した同胞が幾ら餓死しようともペストやチフスなどで病死しようとも気にはしなかった。
 日本軍部は、中国の風土病やペストやチフスなどの細菌研究に力を入れた。
 戦後、この細菌研究は細菌兵器開発として非人道的犯罪と認定された。
   ・   ・   ・   
 1930年 関東庁警察が取り扱った満鉄とその附属地への破壊工作件数は、1,294件。
 関東軍が取り扱って件数は、運行妨害・貨物被害60件、電線妨害20件。
 関東軍も関東庁警察も、破壊工作を止めない反日派中国人への不満や怒りが増していた。
   ・   ・   ・   
 1930年 河南大戦。死者は12万人に達し、負傷者は1万9,500人以上、省外へ逃亡した戦争難民118万5,000人以上。軍に拉致され、軍役を強いられた者は129万7,700人以上。
 女は強姦され娼婦として売られ、男は兵士する為に連れ去れて殺され、男の子は奴隷として売られた。
 鬼畜のような中国には、人権も、人道も、良心も、道徳も、何もなかった。
 そこにあるのは、自分だけの「個人の利」でけであった。
 個の利の為に、自分の「面子」が存在している。
 「面子」は「利」である。
    ・   ・   ・   
 1930年7月 中原大戦。蒋介石軍60万人以上対反蒋介石軍70万人以上。中立、張学良軍20万人以上。
 各軍は、強制連行した数十万人の苦力(クーリー)、数多くの従軍慰安婦(性の奴隷)、日常品は勿論武器やアヘンなどを扱ういかがわしい商人を多数抱えて行軍していた。彼等は、イナゴの様に食糧等を暴力的に現地で調達していた。気の荒い盗賊の様な兵士は、駐屯地周囲の地元民から強奪し、抵抗すれば容赦なく虐殺した。
 戦場となった地元民は、強盗の様な軍閥軍兵士を兵匪と毛嫌いしたが、それ以上に見境なく虐殺する乞食の様な中国共産党員を共匪と恐れた。
 上海や香港の秘密結社は、不法行為で暴利を得る為に、内戦を拡大させるべく両陣営を煽り立てた。
 中国は、法秩序を失い、約2,000万人の匪賊などが横行する無法地帯となっていた。
 中国社会は、「勝って生き残る」か「負けて死ぬ」かの二者択一の実力主義社会、能力至上主義社会である。
 「生きる事」を選んだ中国人は、金銭を第一とし、損得勘定で行動する為に貧しく弱い被災者を救済する気はなかった。
 人望があった汪兆銘ら穏健派は、飢餓と疫病に苦しむ民衆を救済するべく北京で反蒋介石の国民政府を組織するが、理論のみで軍事力を持たない為に参加者は少なかった。
 武力を持たない者の正論は、負け犬の遠吠えとして誰からも支持されず、逆に社会を混乱させるだけの有害無益な存在であった。非暴力・無抵抗や人道などは、犬の糞ほどの価値もなかった。それを真に受けるのは、無能な日本人だけであった。
 中華民国最大の内戦である中原大戦は、買収された張学良軍が味方した蒋介石軍の大勝利で終結した。
 戦死者は、蒋介石軍9万人以上、反蒋介石軍30万人以上であった。戦災による庶民の被害者数は、両軍の戦死者の合計以上といわれている。
 勝利者は、戦闘終了後兵士に対し褒美として、3日間支配地で略奪、強姦、殺人、放火の自由を与えた。
 軍資金や物資な乏しい中国では、味方であっても負傷者の治療はせず、敵兵への治療はなおさらしなかった。
 敗走兵は匪賊として集団となって村や町を襲撃し、略奪して戦闘力を軍閥に売り込んだ。集団に入れなかった敗残兵は、盗賊と見なされて民衆に猟奇的に惨殺された。
 「弱い者」は生きる資格がない社会であり、他人の助けが得られない以上は「個」人として強く生き抜くしかない社会である、ゆえに、他人をけっして信用しないのが当たり前の社会であり、他人をむやみに信用するのは無能な馬鹿の証拠とされた。
 捕虜収容所は全くなく、食糧や医薬品は貴重品の為に、捕虜は死ぬまで苦力として酷使するか、あるい味方の兵士として採用してかっての戦友を殺させるか、その場で猟奇的手段で惨殺した。
 敵を殺して生きるか、敵に殺されるか、その二者しか選択はなかった。
 日本の軍事力は、中国の総軍事力に比べてはるかに弱小であり、その装備も中国軍に劣っていた。日本軍の装備は、国際的な軍縮要請を受けた国会での軍事費削減攻勢にあって、日露戦争からそれほど近代化されていなかった。
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 1931年 揚子江、准河及び大運河流域の16省で大水害。被災者は8,000万人以上で、死者は14万人以上である。数百万人の難民が、南京や上海の都市部に流入し、各都市の治安は悪化した。
 避難民や下層階級の貧民は餓えと寒さに苦しみ、毎朝、都市では百人近い不運な者が路上で死んでいた。
 貧困者に、救いのないのが中国社会であった。
 各革命政府及び軍閥の兵士は盗賊(兵匪)と同じで、貧しい無力な農民から女や食糧を奪い、抵抗すれば容赦なく殺しそして家を焼いた。
 三光作戦とは、屠城作戦や清野作戦と同様に、中国民族の伝統的正攻法である。中国大地は、血に塗られた地獄の様な土地であった。
 歴史的事実として、中国人は中国人を猟奇的に惨殺していた。
 何時の時代でも、中国の武官や軍人は戦場で残虐行為を行った為に、文官・知識人から人殺し集団として嫌われ、社会的身分・地位は低かった。
 支配者は、武官の反乱を恐れていた。
 極東アジアでは、文官は武官より身分が高く、文官は戦場へ出ない為に武官よりはるかに残忍である。役人は、一般庶民を知恵なき獣人としてあしらい、そして重税を課して全てを奪った。ゆえに、民衆は位の低い役人でも「官匪」として恐れた。
 中国の何れの政府も腐敗し、ワイロと横領が横行していた。貪官汚吏の横暴によって、人民は救い様のない地獄の生活を強いられ、悲惨の極地に断たされていた。
 中国人には自力による自浄能力はなかく、外的な衝撃のみが現状を改善する唯一の望みであった。
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 ヘレン・ミアーズ「調査団が集めた事実を証拠として使えば、日本は中国を世界平和を乱した罪で告発できる」(『アメリカの鏡・日本』)
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 ファシスト中国は、円借款3億円の支払いを遅延し、そして金を返すのが惜しくなって借金を踏み倒す事にした。
 日本の配慮や思いやりや気遣いが、中国の強欲によって踏みにじられた、、
 円借款は3億円であったが、元利合計10億円に達していた。
 日本軍部は、貸した金の返還を督促し、渋れば担保を差し押さえ、最悪の場合は懲罰的に軍事力を行使して返還させる、事を検討した。
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 辛亥革命清朝が崩壊するや、山東省などの貧困層漢族が大挙して満州に移住した。
 満州の水田農耕可能な土地には、すでに多くの朝鮮人が入植し生活していた。
 新たな入植者である漢族は、華夷秩序意識から、満州族朝鮮族を下位者と見下して彼らが苦労して切り開いた土地を奪おうとした。
 山東省から流れてきた張作霖等は、多数派となった漢族入植者の支持を得る為に朝鮮人農民への迫害を加え、馬賊として勢力を広げ軍閥化していった。
 清朝時代は、漢族の入植が禁止されていた為に満州族モンゴル族は多数派で、朝鮮族と漢族は少数派であった。 
 漢族の大量入植で多数派と少数派が入れ替わり、満州は無法地帯と化した。
 日本軍は、満州に住む日本人居留民と日本国籍朝鮮人移民が満州から立ち退かない以上、漢族の犯罪者や馬賊から生命財産を守る為に武力を用いていた。
 軍国日本は、内戦や犯罪で殺し合う中国・満州から十数万人の全日本人を日本に引き揚げるべきであった。
 が。それをすれば、ソ連外モンゴルで傀儡国家を建設したと同じように、満州を軍事占領し傀儡の共産主義国家を樹立した。
 軍国日本は、天皇制度を廃絶して大虐殺の暴力的共産主義革命を起こそうとする反社会的狂犬集団を、日本に近づけるわけにはいかなかった。
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 1931年9月14日 中国国民党(中国ファシスト)政権は、非常任理事国に選任された。
 9月18日 満州事変。日本軍は、中国兵士捕虜を信用して武装を取り上げて故郷へ帰したが、帰らない者や帰れない者は特種工人として強制連行し地域復興の為に鉄道や橋などの建設現場で、低賃金を払って使役した。
 戦後、この行為はジュネーブ条約(俘虜条約)違反の戦争犯罪とされ、多くの日本兵が戦犯として処分された。 
 山東省など華北の被災民は、救済せず戦乱ばかりを繰り返す非人間的中国人指導者に絶望して、日本軍が支配する安全で安心な満州に逃亡した。
 数十万人の日本人居留民が、中国各地で生活していた。
 中国政府は、日本人を自国民同様に見捨て、そして危害を加えていた。
 国際世論は、中国の主権防衛を無条件で容認し、日本の自衛権に基ずく自国民保護を侵略行為として完全否定していた。
 軍国日本には、生命財産を自力で守るという正当防衛すら認められてはいなかった。
 板垣征四郎土肥原賢二ら、日本国家の国益と自国民を武力で守ろうとした行為が、人道の罪及び平和に対する罪にあたるとしてA級戦犯の汚名を記せられてリンチ的縛り首で処刑された。
 国際常識は、中国人を被害者とし、日本人を加害者としている。
 現代日本も、こうした歴史的事実を知った上でA級戦犯を呪い、A級戦犯が祀られている靖国神社の廃社を訴えている。
 1933年7月30日 大阪朝日新聞「3億の対支債権 実力で回収を決意」
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 東京裁判判決速記録「B部第五章日本の中国に対する侵略」
 「日本が中国に対して遂行し、日本の指導者たちが『支那事変』あるいは『支那事件』という欺瞞的な呼び方をした戦争は、1931年9月18日の夜に始まり、1945年9月2日に東京湾上における日本の降伏によって終わった」
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 昭和天皇は、戦争ではなく平和を希望し、満州事変の不拡大と早期解決を望み、一度か裁可した熱河作戦の取り消しを軍部に求めた。
 軍部は、昭和天皇統帥権を無視し、満州事変不拡大という希望を拒否した。
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 1931年9月18日 国際連盟の年一回の総会が開催された。
 中国の施肇基代表は、中国の主権を侵害する軍国日本の侵略であると激しく非難し、制裁を科す可能性のある規約第15条の採択を強く求めた。
 イギリスのロバート・セシル代表らは、中国が終わらない内戦と度重なる災害で無法状態にあり、過激派民族主義者による日本人居留民への横暴などを考慮して、中国側が要求する規約15条を避け、当事者間の話し合いで解決を図る事を求める規約第11条の採択を求めた。
 9月30日 国際連盟理事会は、国際紛争解決決議は全会一致で行うという原則に従い、日中両国に話し合いによる和解を求める決議が採択された。
 中国側に対し、日本軍が管理する満鉄附属地外における日本人居留民の生命財産を保護する事。
 日本側に対し、日本人居留民の保護が確保され次第、「出来る限り速やかに」軍隊を条約上認められた鉄道附属地に引き揚げさせる事。
 新たな事態が生じない限り、次回会合を10月14日と決めた。
 10月8日 関東軍は、張学良軍が反撃の為に集結している錦州を示威する為に、10機程度の軽軍用機で爆撃した。
 中国側は、錦州爆撃を国際連盟勧告を無視した新たな侵略行為と告発し、欧米で反日世論を煽り、国際連盟理事会に当問題に関する会合を開くよう要請した。
 ヘンリー・スチムソン国務長官対日強硬派として、反日親中国の国民世論に従って、アメリカは国際連盟加盟国ではなかったが中国を支持した。
 中国の外交と情報操作及び宣伝は、日本より数段優れていた。
 10月13日 国際連盟理事会議長アリスティード・ブリアン仏外相は、日本側の反対を押し切って、非加盟国アメリカをオブザーバーとして招請する提案を、全会一致の原則を無視し、規約第5条2項の過半数で足りる「手続」問題として強引に可決した。
 フランスは、国際連盟におけるイギリスの影響力を弱め、フランス主導の新秩序を築く為にアメリカの国力を利用しようとした。
 イギリスは、同じアングロ・サクソン英語圏としてアメリカを利用してフランスを押さえようとした。
 10月24日 国際連盟理事会は、日本側に対して、次回の理事会開催が予定されている11月16日迄に日本軍を鉄道附属地に撤兵させる事を求める決議案を協議した。
 満州事変は規約第11条で全会一致の原則に従って解決する事になっていた為に、常任理事国の日本1ヶ国が反対し決議案は否決された。
 イギリスのセシル代表は、日本側に有利に問題を解決すべく、日本代表に「基本原則」があるのなら開示する様に求めた。
 日本代表の芳沢兼吉駐仏大使は、「東京の訓令がなければできない」として丁重に断った。
 「基本原則について、我が国政府は一定の見解を保持するも、我が国政府の許可が得られるまで、本職は正式に理事会にこの見解を伝える事はできない」
 日本エリート官僚の悪癖である事勿れ的手続きと日本の立場・正論は声高に騒がなくとも何れは分かって貰えるという安易さから、国際連盟と国際世論の反日的空気を読めず、日本の名誉を挽回する好機を失った。
 日本エリート官僚は、テストが高得点の記憶力抜群で決められた手順を盲従遵守する文系マルクス主義者が多数派を占めていた。
 文系マルクス主義者が理想社会としたのは、欧米の自由・民主主義体制ではなく、ソ連社会主義体制であった為に、欧米列強の支配層・エリート層・上流階級との関係を毛嫌いし、国の進路と民族の将来の為に自分の理想を殺してまで嫌いな彼らと情報を交換して友好関係を築こうという意志はなかった。
 日本の軍国主義者の多数派とは、理系官僚や民族主義者ではなく、文系官僚とマルクス主義者であった。
 大正・昭和前期では、明治期のように理系(科学技術)と文系(古今東西の教養)をバランス良く身につけ、語学力に優れ、欧米の支配層・エリート層・上流階級から庶民・労働者・下層民まで分け隔てなく付き合える、軍人・官僚・政治家といった有能な人材がいなかった。
 その原因は、自分で考え自問自答して人格・品格・品位を高めるのではなく、与えられた知識を詰め込みその範囲で事務処理を行う、情緒的日本教育を否定した合理主義的西洋教育にあった。
 情緒的日本教育と観念的東洋教育は、本質的に異なる。
 伊藤述史「日本の若い外交官で外国語がろくに出来る連中はいなくて、内地ではどうにかやって行くが、一歩外国に踏み出せば役に立たない有り様である」(『日本の外交』1940年)
 イギリスなど諸外国の代表団は、中国国内の無法状態で日本が如何に追い詰められているかを知るだけに、日本側が自己の正当化を公言しない事に失望し、日本側に支援の手を差し伸べる事の意慾を失った。 
 セシル「何故日本はその見解を発表するに困難を感ずるかを諒解できぬと述べ、理事会の空気は一般に日本に対する疑念の念を増したかの如くであった」
 日本外交は、満州事変処理に於いて中国に外交に敗れ、日本を焦土とする戦争の悲劇は軍部ではなく外務省の失敗で起きた。
 日本外交の失敗は、いつの時代でも、内政・外交・経済などの国政を動かすエリート官僚の縦割り体質と訓令至上主義および横並び的事勿れ主義による限界を示していた。
 満州事変の失敗は、軍部・軍国主義者ではなく、官僚・マルクス主義者がもたらした。
 セシル「もし或る国(中国)の代表があれほど雄弁でなく、また、もし他の国(日本)の代表がもう少しよく表現できたならば、問題の解決はこんなに紛糾せずにすんだろう」
 古垣鉄郎「支那側の逆宣伝は巧妙を極め、熱心を尽くして我が外交当局の稚拙、不熱心とよい対照をなした」
 「(施肇基について)連盟の空気を巧みに有利に導き、何時の間にか連盟理事会自身を、日本と正面衝突の場面にまで引きずって行ったのは、何としても支那代表施肇基君の力である。……所謂支那大官らしい所がなく、万事アメリカ流……その英語は又堂にいつたもので……理論と修辞にかけては本物の英米人が甲を脱ぐ位である。……国家のバックなく組織ある政府の支援なくして、独りよく国際外交の檜舞台に主役を演じたダーク・ホースといふべきあろう」  
 「(芳沢兼吉について)感情に訴へるには多弁を要しないが、理性に訴へ、納得せしめるには如何なる能弁もなほ足りない。ところが事実は弁を要せざる支那代表が多弁で、弁を要する日本代表が訥弁でいる。……アメリカ仕込の支那代表と、支那仕込の日本代表の対決が、かかる公開会議で如何に展開したかは既報の通りである。……芳沢代表の語学上の不十分に加ふるに、支那式の無表情なる表現は、少なからず列国代表、殊にブリアン議長やドラモンド事務総長らを悩ませたと伝へられる」
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 1931年11月 江西省の瑞金に、一党独裁体制の中華ソヴィエト共和国臨時政府が樹立された。
 死の恐怖政治を行い、反共産主義者18万6,000人以上を虐殺し、210万人以上の住民を追放した。共産主義政権の多くは、「人民の名」において反対派を大粛清し、反共産主義者民族主義者や宗教関係者を大虐殺した。
 人民の敵とされた者から没収した資産は、特権を利用した共産党幹部が大半を横領し、ごくわずか金が「絶対平等」の原則として兵士らに均等に配られた。
 共産党幹部による横領は、日常茶飯事的に行われていた。
 貧しい兵士は、凶暴化して、共産主義大義を振り回して地元民から金品や食糧を暴力的に奪った。
 匪賊・兵匪・官匪の中で、貧しい共匪がもっとも恐れられた。無力な人民は、生きる為に、容赦なく奪いさる赤匪に逆らうことなく従った。
 共産党政権は、各地で発生している数百万人の被災民を救済するより、国民党支配地を混乱させ暴動を誘発させる為に敵陣営へと追いやった。中国の戦術は、食い詰めた貧しい人民を暴徒化して敵軍にけしかける事を、常套手段としていた。
 それゆえに、中国では天災は人災により戦災へと発展した。
 そこには、「情において忍びない」という日本的やさしさ(弱さ)は存在しない。
 だが、人民からの支持を得けられず敗走(長征)した経験を生かして、人民の支持を得る為に闘争方針を変更した。
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 11月16日 パリで、国際連盟理事会が開催された。
 ジュネーブの連盟本部では、常任理事国の大国に不満を持ち、軍事行動を起こした日本の現状を理解せず、中国及び満州に権益を持たない小国が多数派であった。
 軍事・経済の弱い小国は、大国が帝国主義的政策を採用し、自国の利益の為に武力で領土拡大をするのではないかという懸念であった。
 伊藤述史「支那のような特別な状態の下にある国に起こった事柄は、かかる特別状態のない欧羅巴各国に間には先例となるものではないか云ふこと」(『連盟調査団と前後して』1932年)
 フランス世論は、第一次世界大戦時での日本赤十字社・軍医部によるパリ日本病院の活躍に感謝して、日本に好意的であった。
 代表団とは別に、交渉団の一員としてパリに参集した親日的なイギリスのジョン・サイモン外相やアメリカのチャールズ・ドーズ駐英大使らは、日本に有利な解決案を話し合った。
 松平恒雄駐英大使は、サイモン外相やドール大使らに、満州の特殊性、日本の歴史的経緯、領土拡大の意志がない事などを説明した。
 ドーズ大使は、親日的フーバー大統領の意向に従い、日本に受け入れられる妥協策を成立させるべく裏工作を行った。
 伊藤述史「ドール将軍といふ人の行動に対しては、我々日本人として感謝の意を表すことが適当であろうと思ひます。……理事会には一遍も出席しないで、裏面で非常に活躍されたといふことは我々一般に知っておくだけの理由があると思ひます」
 理事会は、12月10日の連盟理事会に日本側に有利な決議案を提出する事を全会一致で可決し、期限を設けず日本軍は「出来る限り速やかに」鉄道附属地に撤兵する事を勧告した。
 この時の日本外交は、中国外交に勝った。
 12月10日 国際連盟理事会で、芳沢兼吉代表は「満州の特殊性」と「日本軍の軍事行動は日本人居留民の生命財産を匪賊や無法分子から守る自衛行動である」事を繰り返し説明した。
 セシル代表は、中国の実状から日本軍が匪賊らを討伐する事は「不可避」であるとして、日本側の説明に同意した。
 理事会は、11月16日提案を全会一致で可決した。
 ブリアン議長は、日本有利な決議案は満州問題の解決に向けた「徹底的な一歩」となる事を望むと宣言した。
 日本側は、満州の特殊性を各国に理解して貰う為に、国際連盟から調査団を派遣する様に提案した。
 理事会は、英米仏3ヶ国から調査団を派遣する事にしたが、独伊2ヶ国が強く参加を求めた為に、5人構成となった。
 いわゆるリットン調査団であった。
 独伊は、満州事変解決の為ではなく、経済不況の解消の為に中国市場に進出するべく参加したのである。
 それが、後のナチス・ドイツファシスト中国(国民党)の対日密約、ドイツ軍事顧問団とドイツ軍需産業の対日戦全面支援となって実を結ぶ。
 イギリスとフランスは、中国本土や満州に於ける反日暴動や日本人居留民被害、そして満州の特殊性を知るだけに、日本側の言い分に沿った解決法を模索していた。
 日本政府は、満州が無法地帯で日本人居留民の生命が脅かされているという特殊事情を、大国の自国本意の武力行使を警戒する親中国派の小国諸国に理解して貰うべく、リットン調査団の調査に積極的に協力した。
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 1932年 ハンス・ケルゼン(オーストリア法学者)「国際政治の場で大きな役割を果たしている攻撃(侵略)及び防御(自衛)戦争の区別は、戦争は不法への対処としてのみ国際法上許されるという……法学的観点からいえば、無意味あるいは極めて限定された意味しかない。被った不法への対処としての戦争は、攻撃戦争としても許されるからである。攻撃はそれ自体で違法なわけではない。一定の状況でのみ違法となるに過ぎない」(『国際法における不法と不法の帰結』)
 国際法の常識として、「自力救済を目的とした侵略戦争自衛戦争として不法行為とは認められない」とされた。
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 1932年 華北で大水害。水害の被害は、15省。旱魃の被害は、10省。蝗(イナゴ)害の被害は、10省。華中で冷害と旱魃。被災者は、合計で6,000万人以上。
 蒋介石は、被災地救済をよそに、共産軍討伐の為に100万人以上の兵士を強制動員し、巨額の戦費を調達する為に被災者からも厳しく税を徴収した。そして、被災者への救済にあてるべき物資を、戦争の勝利を優先して戦場へと送った。
 文官は武官より特権を持つだけに不正腐敗しやすく、塗炭の苦しみに喘ぐ農民から奪えるものは何でも奪った。
 国際的救済物資があったとしても、政府、軍、党の特権階級、中間部、下部組織の順に搾取されて、救済すべき被災者に行き渡る事はなかった。
 湖北省の内戦では、35万人以上が殺され、350万人以上が家を失って流民化した。
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 1932年1月3日 関東軍は、イギリス・アメリカ・フランスの好意を踏みにじり撤退要請を無視して、錦州を占領し、全満州を制圧した。
 1月7日 対日強硬派のスチムソン国務長官は、軍国日本に対して不戦条約に抵触する手段で現状を変更することは承認できないという、スチムソン・ドクトリンを通告した。
 フーバー大統領は、スチムソン国務長官が提出した対日経済制裁案は、不戦条約において戦争行為に匹敵するとして退けた。
 反日アメリカ世論は、フーバー大統領の失業対策と対日融和政策に不満を募らせていた。
 ユダヤ系国際報道機関も、中国の宣教師らの偽情報をもとにして反天皇反日的記事を掲載し、軍国日本を破滅へ追い詰めようとしていた。
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1月8日 警視庁前桜田門爆弾テロ事件(東京義挙)。朝鮮人テロリストは、国家元首大元帥・祭祀王の昭和天皇の暗殺に失敗した。
 蒋介石は、フランス租界のキリスト教会に潜り込んでいた朝鮮人テロリストらを支援していた。
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 1月9日 上海の中国政府系新聞『民国日報』は、「不幸にして僅かに副車を炸く……天皇暗殺失敗は東アジアの平和回復の挫折」という落胆記事を掲載し、朝鮮人テロリストによる天皇暗殺が失敗した事は残念であると報じた。
 国民党政権は、朝鮮人テロリスト組織の大韓民国臨時政府を保護し活動資金を提供していた。
 朝鮮人テロリストのアジトは、上海フランス租界内の反天皇反日キリスト教会にあった。
 1月25日 国際連盟理事会。新しく中国代表となった顔恵慶は、対日批判を強めた。 が。参加国代表団は、日本に同情して対日批判を取り上げることなく受け流した。
 1月28日 日本の戦争犯罪とされている、第一次上海事変が勃発する。
 軍国日本は、朝鮮人テロリストを庇うファシスト国家中国(国民党政権)に対して制裁を加えるべく上海の中国軍を攻撃した。
 国際連盟理事会議長ブリアン仏外相は、満州問題の討議を一端打ち切り調査団の報告を待つという宣言を行い、日中両国代表部に議長宣言案を手渡した。
 日本代表部は、日本寄りの宣言案に異存がない事を伝えた。
 1月29日夕方 国際連盟理事会は、第一次上海事変勃発という突然の知らせを受けて緊急理事会を開いた。
 欧米列強にとって、満州は権益のない辺鄙な土地ゆえに日本側に同情して有利な条件で問題を解決しようとしたが、中国権益が集中する上海はそうはいかなかった。
 日本は「排日暴動が激化して命の危険を感じた日本人居留民が軍隊派遣を要請した為の自衛行動」と説明したが、欧米列強は自国の中国権益の侵略であると見なした。
 中国代表部は、世紀の偽造文書『田中上奏文』を広めて、軍国日本は満州や上海はおろか全中国を侵略して大帝国を建設しようとしていると宣伝した。
 反日的国際報道機関は、一斉に日本バッシングを始めた。
 その急先鋒となったのが、中国で布教活動をしている宣教師達であった。
 第一次上海事変によって、日本の不利は決定的となった。
 劣勢にあった中国代表部は、国際的反日感情の盛り上がりを利用して反撃に転じた。
 伊藤述史「何か言うても日本側の説明を聞かない」
 国際連盟理事会は、中国側の要請を受け入れ、日中紛争を規約第15条で取り扱う事を決定した。
 満州問題は第一次上海事変とセットとして協議の対象となり、全会一致ではなく多数決で採択する事となり、日本は不利な立場に追い詰められていった。
 もし、規約第16条によって日本軍が侵略と認定されるや制裁の対象とされ、軍国日本は平和と秩序を破壊する侵略者として国際連盟はおろか全世界の敵とされる事になる。
 軍国日本は、上海の日本居留民約2万人を中国軍と中国人暴徒から保護し、昭和天皇暗殺集団である朝鮮人テロ組織・大韓民国臨時政府のアジトがある上海を、自衛行為として攻撃しただけである。
 小国諸国は、日本側の熱弁による説明で、日本軍の軍事行動は領土拡大の侵略戦争ではなく、自国民現地保護目的の自衛戦争である事を理解した。
 そのに第一上海事変が勃発した事で、小国諸国はおろかイギリスやフランスも日本側の二枚舌と疑い態度を硬化させた。
 小国諸国は、中国側の要請に従い、日中紛争処理を連盟規約第11条から第15条に切り替え、審議を日本寄りの理事会から反大国意識の強い総会に移す事を勧告した。
 国際連盟は、日本側に厳しい19国委員会を設置した。
 2月 スターリンは、プラウダやイズヴェスチャなどに「日本人は侵略者で人でなしである」との報道をさせると共に、日本共産党やプロレタリア活動家らに天皇制度打倒を指令した。世に言う32年テーゼである。
 2月16日 国際連盟理事会の日中両国以外の12ヶ国は、スチムソン・ドクトリンと同旨の連盟規約と不戦条約に反する現状変更は認めないとする対日通告を軍国日本に通告した。
 欧米列強は、昭和天皇が暗殺されようが日本人居留民が虐殺されようが、自国の中国権益がある上海を攻撃する事は絶対に許さなかった。
 国際世論において、「日本=加害者。中国=被害者」という構図がかたまり、これ以降、日本寄りの発言は激減した。
 中国側は、軍国日本を追い詰めるべく、規約第15条9項に基づいて日中紛争の処理を理事会から総会に移すように要求した。
 理事会参加国のイギリスやフランスなど日本の自衛的軍事行動は主権国として妥当と考える良識派は、小国を加えた総会で討議する事は問題を複雑にして解決を困難にするとして反対した。
 中国代表の顔恵慶は、中国寄りの多数派を形成するべく大国に不信感を持つ小国の説得に奔走した。
 2月18日  昭和天皇は、日本が世界で孤立しない為に、国際連盟を敵に回さない為に、上海攻撃を短期間で終結する事を望んだ。
 早期停戦派白川義則上海派遣軍司令官は、日本軍優勢・中国軍劣勢の戦況で、中国に破滅か講和かの最後通牒を突き付けた。
 2月19日 国際連盟理事会は、中国と小国の主張を受け入れ、規約第15条に従い満州事変と第一次上海事変を一括案件にして総会で処理する事に同意した。
 2月22日 アメリカは、「日本の満州侵略を日本製品排斥運動及び居留民保護目的にあるとは考えない」という内容の通告書を諸外国に送り、自分本位の傲慢であるとして日本を厳しく非難した。
 3月 ブリアン仏外相が死亡して、新たな連盟フランス代表にジョゼフ・ポール=ボンクールが就任した。
 3月1日 満州国建国宣言。満州国の総人口は約3,000万人で、内9割は中国本土の内戦・天災・悪政から安全・安心・安定していた日本軍支配地域に逃げて来た漢族の避難民で、残りが満州族モンゴル族朝鮮族であった。
 満州族朝鮮族は漢族に同化していたが、モンゴル族のみは民族の独自性を守る為に同化を拒否していた。
 3月3日 軍部は、上海方面で中国軍を撃退し上海を制圧したと判断して、上海派遣軍に対して停戦命令を下した。
 A級戦犯重光葵駐華公使は、平和を望んでいる昭和天皇の意を酌み、早い時期から停戦交渉準備を始めていた。
 軍部は、上海事変を早期に解決し、部隊を満州に集結させる事を望んでいた。
 軍国日本には、領土拡大の野心はなかった。
 国際連盟臨時総会が開催され、参加国51ヶ国中30ヶ国以上の非常任理事国は激しい言葉で日本批判を行った。
 参加国の良識派は、上海での武力衝突は終結に向かっていると判断して、日本の名誉が守れる案での妥結を目指した。
 3月9日 清朝最後の皇帝・溥儀は、満州国国家元首である執政に就任した。
 3月11日 総会は小国の多数派が優勢として、2月16日の対日通告を正当な通告と確認し、日中紛争を処理する特別委員会・19国委員会を総会内に設置する事を決めた。
 当事者の日中両国は棄権したが、中国有利・日本不利は明らかであった。
 規約第11条に基づくリットン調査団は、調査報告を理事会に提出したのみで、総会決議とは無関係であった。
 19国委員会は、規約第15条に基づいて設置され、総会に、3項に基づく和解案と4項に基づく勧告案を用意し、リットン調査団報告書は任務遂行の資料の一部として取り扱った。
 つまり。リットン調査団報告書が日本寄りの為に、反日派多数を占める国際連盟総会の裁決には重要視されなかった。
 3月22日 イギリス下院で。オースチンチェンバレン前外相は、イギリス紳士・常識ある大人の対応として激しい対日批判を行う労働党議員を諌めた。
 日中紛争の根源は、中国・国民党政権が内戦を終結できない責任を日本に転嫁する為に、幾つかの国際条約を一方的に無視して日本を戦争へと挑発した事にあると指摘した。 
 日中紛争問題解決の為に、国際連盟総会内での謀略的対日制裁を排除し、正しい考えに基づいた慎重な対応を求めた。 
 サイモン外相は、チェンバレンの日本寄りの意見に同意した。
 上海のイギリス公館は、第一次上海事変を日本有利に終結させる為に協力していた。
 だが、報道機関の多くは、親中国として日本批判を強めていた。
 欧米列強の首脳部は日本に同情していたが、国民世論は日本批判を強めていた。
 国際認識として、日本が置かれている現状や追い込まれて状況が明らかになっても「日本=悪、中国=正」は変わらなかった。
    ・   ・   ・   
 4月29日 上海爆弾テロ事件(上海義挙)。
 上海系朝鮮人テロリストは、停戦妨害・戦争拡大を目的として、国歌「君が代」が流れる天長節式典会場で爆弾テロを行った。
 白川義則上海派遣軍司令官と上海日本居留民団団長が爆死し、重光葵公使(A級戦犯)ら多くの日本人要人が重軽傷を負った。
 昭和天皇は、速やかに停戦協定を成立させるべく、軍部に対して報復攻撃を禁止し、派遣部隊の早期撤兵を望んだ。
 軍部は、昭和天皇の平和を求める意向に従い、プライドを捨て、涙を呑んで停戦を受け入れた。
   ・   ・   ・   
 1932年 5月5日 上海に於いて、日中両国の全権とともにイギリス、アメリカ、フランス、イタリア4ヶ国の駐華公使が停戦協定に署名して、第一次上海事変終結した。
 日本軍部は、第一次上海事変停戦が成立し日本人居留民の安全が確保されるや、領土的野心がない事を知らせる為に、停戦協定成立に基づき上海派遣軍の撤収を開始し、同月中に完了させた。
 だが。中国側は、停戦協定を無視して、ドイツと軍事及び経済に関する密約を交わし、次回の対日戦に備えて軍備強化と上海の要塞化を進めた。
 小国諸国は、日本軍の迅速な軍事行動で機先を制され日本批判が不可能になった。
 イギリスやフランス政府は日本の名誉に疵が付かない形での解決を目指したが、国民輿論は厳しい反日へと傾き始めていた。
 ドイツは、世界恐慌による経済不況を復興させる為に日中戦争を利用しようと考えた。
 その経済復興策はヒトラーに引き継がれ、ナチス・ドイツはさらなる積極策として対日戦勝利の為に強力な軍事顧問団を派遣した。
 ドイツ国防軍は、ドイツ軍の戦力強化と将校団の能力向上の為に、将来有望な軍人を実戦で訓練させるべく中国軍に送り込んだ。
 欧米列強やソ連は、ファシスト中国(国民党政権)とナチス・ドイツの対日軍事協約を知っていた。
 中立国アメリカも、経済不況解消を日中戦争に求め、軍需産業に大金を投じ雇用を増やし増産を行いファシスト中国を全面的に支援した。
 イギリスは、軍国日本が上海に進出する可能性があるとして中国寄りになり、軍国日本から距離を置くようになった。
 日中戦争は、昭和天皇や軍国日本が回避しようとしても、中国と欧米列強の自国本意の思惑によって避けられない運命にあった。
 日本を破滅させた「戦争への道」の原因は、満州ではなく上海にあった。
 5月15日 五・一五事件
 8月20日 オタワ合意。英連邦諸国及び植民地行政府は、特恵関税制度を採用してポンド・スターリング・ブロックを形成した。
 9月4日 日本政府は、満州国を中国から独立した自主国として承認した。
 10月2日 リットン調査団報告書の公表。
 「中国に於ける分裂的諸勢力は今もなお強力と思われる。この結合の欠如の原因は、人民大衆が、彼らの国と諸外国の間に厳しい緊張関係がある場合を除き、国民よしてではなく、家族や地元を基礎として考える傾向があるからである」
 「中国の過渡期の光景は……中国の性急な友人達を失望させ、平和に対する危険と化した怨恨をもたらしたけれども、それでもなお、困難、遅延及び失敗にもかかわらず、顕著な進歩が成し遂げられたことも事実である。……
 もし中央政府蒋介石政権』が現状のまま維持されるならば、地方行政、軍隊及び財政は徐々に国家的性格を帯びると期待するのはもっともである。
 国際連盟総会が昨年『1931』9月に中国を理事国に選んだのには、他の理由とともに、こうした背景があった事は疑いない」
 各地の軍閥が南京の国民党中央政府から独立を宣言し、独立国家を樹立させ、中国統一を目指して内戦を続ける惨状を打開するべく、国際連盟は国民党政府を中国の正統政府と認めて国際連盟に向かい入れていた。
 欧米列強は、日本の満州支配が、イギリスのエジプト支配やアメリカのカリブ海及び中南米諸国支配のように、独立国ではなく地方政権としての保護国か従属国が望ましいと考えていた。
 リットン調査団は、南京国民党政府の宋子文汪兆銘ら政府要人と意見交換した。
 南京国民党政権は、自国の軍事力では日本軍から満州を奪還できない為に、軍事力が付くまで満州を一時日本に明け渡すが、ソ連外モンゴル支配に倣い満州の行政権を放棄しても中国の主権は保有するという妥協案を提案した。
 蒋介石は、中国共産党殲滅を優先し、日本軍との決戦を避ける基本方針を採用していた。
 報告書は、満州は中国の主権の範囲というのが大前提で、日本が進める分離独立を否定していた。
 満州国は、地方政権として中央政権から独立して独自の施政権を有しているが、中国の一部に変わりない以上は中央政権の様な統治権は有していないと。
 12月 国際連盟総会は、リットン調査団報告書に基づいた協議した。
 イギリスのジョン・サイモン外相はもちろん、中国寄りと見られたギリシャ代表おニコラス・ポリティスさえも、中国の常軌を逸した反日暴動や日本製品ボイコットは犯罪的で日本側の言い分は正当であると演説を行った。
 「一種の侵略であり、国際法の明白な侵犯を構成する」
 ただし、日本軍の大掛かりな軍事行動は自衛行使の範囲を超えるものであると指摘した。
 最重要焦点は、満州事変の発火点となった関東軍による柳条湖爆破でなく、中国側が中国関連諸条約を放棄して日本側を追い込んだ事であった。
 日本側に対しては、中国側の不正行為に過剰に反応して軍事行動を行った事が批判された。
 19国委員会は、日本側の事情を理解しても大国への牽制として日本に厳しい勧告案を作成した。
 イギリスは、総会と19国委員会が休会に入るや、日本に不利な19国委員会勧告案を阻止するべく裏工作を始めた。
 杉村陽太郎連盟事務次官は、日本政府の満州国独立否認に言及する勧告は絶対に受け入れられないという内示を受け、イギリス人エリック・ドラモンド事務総長の協力を得て19国委員会勧告原案を骨抜きにするドラモンド・杉村案を作成した。
   ・   ・   ・   
 1933年1月16日 19国委員会は、休会明けで再開するや、勧告案を否定するドラモンド・杉村案に激怒して、ドラモンド事務総長の越権行為を激しく非難した。
 小国諸国も、大国イギリスの横暴に猛反発し、日本批判を強め、ドラモンド・杉村案は事実上否定された。
 1月30日 アドルフ・ヒトラーが、ドイツのワイマール共和国の首相に就任するや、対中軍事支援を加速させた。
 ヒトラーは、戦後賠償と世界恐慌からドイツ経済を立て直すには失業者に職を与えなければならないとして、国内向けとしての巨額な公共投資と国外向けとして軍需物資を世界的紛争地帯に輸出振興を推し進めた。
 軍需物資を、スペインと中国のファシスト勢力に輸出した。
 ドイツの保守層や国防軍は、反日強硬派として蒋介石の国民党を支援し、日本批判を強めていた。
 日本代表松岡洋右は、連盟に留まる事を希望して交渉を続けたが、国際連盟総会は中国寄りとなり日本の説明は聞き入れられなかった
 2月24日 連盟総会は、第15条第4項に基ずく勧告を可決した。
 第15条の可決により、日本は第16条に基づいて侵略者と認定されると制裁の対象国に指定される恐れが出た。
 日本は反対し、タイは棄権した。
 松岡洋右代表は、可決への不服として退席した。
 午後の総会で、中国の顧維鈞代表は日本を侵略者として制裁を加える第16条の可決を求めた。
 19国委員会にしても小国諸国にしても、中国本土及び満州に於ける日本の特殊事情を理解していただけに、退席した日本側に同情し、第15条第4項の可決と19国委員会勧告案の受諾で一応の目的は達成されたとして、中国側が求めた第16条可決案を協議する事なく退けた。
 国際連盟理事会の全理事国は、日本が追い込まれている窮状に同情して、中国が強く希望する制裁実施を含んだ規約第16条の審議入りを明確に否定した。
 そして、全ての理事国は、連盟脱退をほのめかす松岡洋右代表に対し自制を持って脱退を踏みとどまる事を切望したが、脱退するかどうかは日本が主体的に決断する事であるとして静観した。
 アメリカのウィリアム・キャッスル国務次官は、日本軍の侵略手行為には断固反対するが、対日経済制裁を採択する事にも一貫して反対する旨を、国際連盟に伝えていた。
 サイモン外相「疑いなく、今回のケースは、国際連盟規約が提供する調停の機会を事前に尽くす事もなく、ある国が他の国に宣戦したものではない。また、ある国の国境の隣国軍隊による侵犯という単純なものでもない」
 国際連盟総会は、満州事変は日中戦争ではなく、日本の領土拡大を目的とした侵略戦争ではないとの認識を示していた。
 そして、この勧告で日本が連盟を脱退する事はないと漠然と信じていた。
 アンドレ・マンデルスタム「第16条が規定する制裁を適応すべきと考える連盟加盟国は皆無であった」
   ・   ・   ・   
 東京裁判判決文「国際連盟総会は、1933年2月24日に……日本と中国の戦争において日本を侵略者であるとして非難し、かつ戦争の終結を勧告した報告書を採択した」
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 3月 日本は、国際連盟脱退を通告したが、脱退勧告が発効されるのは2年後であった。
 この2年間の間は、加盟国としての義務を果たねばならないし、脱退通告を取り消し復帰する事も可能であった。
 国際連盟は、日本の国力では満州建国は困難で何れは頓挫し、国際連盟に復帰して、リットン報告が勧告する満州国際管理を受け入れるだろう分析して静観した。
 その為、道徳的非難をしても対日経済制裁を行わなかった。
 蒋介石は、中国本土平定と中国共産党殲滅が完成するまで、中国側の主権を保障してくれるならば満州をしばらく国際連盟管理下に置く事に賛成していた。
 日本政府と軍部は、本心では国際連盟脱退を望んではいなかったが、脱退した以上は政経分離の原則で軍事的圧力を加えるもの緊張緩和に努め、経済を優先し中国本土や諸外国との自由貿易を進めた。
 軍部の統制派は、対ソ戦略から中国とのこれ以上の戦争を望まず、ソ連統制経済を見本としてソ連との総力戦準備を急いだ。
 ソ連は、日本軍主導による満州経営が進む事に危機感を抱き、中国共産党や日本人共産主義者に対して反日暴動やテロを起こすように指示した。
 3月27日 日本政府は、満州国を日本の保護国・従属国ではなく主権を持った自主独立国にする為には国際連盟からの脱退もやむを得ないと判断し、松岡代表に対して脱退を訓令した。
 日本の満州政策は、如何なる理由があり如何なる結果になろうとも、「領土保全と現存する政治的独立を尊重」するという国際連盟規約第10条に違反するものであった。
 松岡洋右代表は、連盟に対して脱退を正式に通告した。
 4月 知日派のキャッスルは、アメリカ国務次官を退任するにあたり「最近のアメリカの極東政策」という講演を行い、日本側の満州問題解決に配慮が足りなかった亊を指摘しながらも、満州の特殊性から日本側の主張にも一理ある以上、中国側が求めている対日制裁は断固阻止すべきであると。
 満州問題解決として、国際連盟満州地域を預かり、中国の主権と日本の権益を尊重する中立的立場の総督を置き、日本の優先的地位を承認しながら、満州住民に自治を与えて地方政権を樹立するという、一提案を行った。
 5月 日本軍と中国国民党軍は、満州問題の現地解決として塘沽停戦協定を結んだ。
 中国国民党軍は、中国共産党根絶やしにするべく進軍を再開した。
 日本国内のマルクス主義者である革新官僚や隠れ共産主義者である転向組役人やマスコミ関係者達は、中国共産党の窮地を救うべく、ソ連コミンテルンの指令に従って行動を起こし、国民世論内に反中国感情を煽り、政府や軍部に対中強硬論を広めた。
 追い詰められた中国共産党も、国民党の攻勢を逸らす為に、エリート学生を共産主義に引き入れ、貧困層の社会不満を抗日に誘導し、国民の間に民族主義愛国心を広めて南京国民党政権を揺さぶった。
 新たにアメリカ大統領になったフランクリン・ルーズベルトは、前任者のハーバート・フーバー大統領の対日融和外交優を破棄し、中国に大量の軍事物資を輸出するべく対日強硬外交を採用した。
 アメリ共産党は、スターリンの指令に従い、中国共産党の窮地を救うべく対日挑発政策をワシントンに採用させるべく暗躍した。
 軍国日本は、満州の平和と発展には中国の内戦から切り離し、ソ連共産主義勢力の攻勢から日本及びアジアを守る為に満州を対共防波堤にする必要から、世界の反対を押し切り、孤立を覚悟で大陸戦略を実行した。
 アメリカ陸軍は、ルーズベルトの許可を得て、正規パイロットを書類上で退役させ民間義勇兵として中国軍に派遣し、アメリカ人義勇兵の経費を支給した。
 アメリカ人義勇兵は、中国から帰国すれば原隊に復帰し、特別手当を得て、昇進した。
   ・   ・   ・   
 1934年 各省庁は、満州国建設の実務を取り仕切る為に、数多くの優秀な官僚や学者を満州に派遣した。
 派遣するに当たって、身分を満州国の官僚とする為に、出向ではなく退職とした。
 関東軍は、満州国政府を監視下に置いた為に、満州国各省庁の日本人幹部官僚と激しく対立した。
 日本軍部は、陸軍大臣を中心とする満州国関連事務の各省調整機関を設置して、各省庁横断の協力体制を築いた。
 関東軍は、日本政府、外務省、軍部によって満州に於ける権限が限定され不満を募らせた。
   ・   ・   ・   
 軍国日本は、33年5月の日中両軍の塘沽停戦協定を正式協定と認め、日中関係の改善の一環として、共通の敵である中国共産党を滅ぼす為に中華国民党軍(ファシスト軍)強化に協力知る政府顧問を派遣した。
 寺岡謹平海軍大佐は、中国海軍近代化の為に中華民国海軍大学教官として上海に赴任した。
 中国海軍は、軍艦は欧米諸国の軍需産業から購入したが、水兵の教育と訓練は日本海軍の支援を受けた。
 日本海軍による中国海軍への支援は、第二次上海事変直前の1937年まで続いた。
 第二次上海事変は、ナチス・ドイツの軍事支援を受けた中国陸軍と日本軍が戦ったが、中国海軍は中立を保って戦闘に参加しなかった。
 蒋介石も、密かに、寺岡大佐を青島行きの特別列車に乗せて、無事に日本に帰国させた。
   ・   ・   ・   
 1935年 黄河揚子江で大洪水。14省で水害、11省で旱魃。被災者は数千万人。数百万人の女性や子供が、中国人人身売買業者の手で上海や香港などに売られた。
 戦後、日本軍の慰安婦狩りによる被害と認定された。
   ・   ・   ・   
 1935年 林語堂「たとえ共産主義政権が支配するような大激変が起ころうとも、社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を打ち砕くというより、むしろ、個性、寛容、中庸、常識といった古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けのつかぬほどまでに変質させてしまう事であろう。そうなる事は間違いない」(『中国=文化と思想』)
   ・   ・   ・   
 日中戦争を仕掛けたのは中国共産党であった。
 1937年7月7日 盧溝橋事件。中国人民解放軍総政治部発行『戦土政治課本』「7・7事変(盧溝橋事件)は、劉少奇同士の指導する抗日救国学生の一隊が決死的行動をもって党中央の指令を実行された」
   ・   ・   ・    
 {2015年9月13日 産経ニュース「【満州化物語(6)】“反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃
 日本統治時代の撫順炭鉱
 満鉄が作った未来都市
 「世界一の露天掘り」と謳(うた)われた撫順(ぶじゅん)炭鉱(礦)は、日露戦争(1904〜05年)の勝利で採掘権を得た日本によって本格的な開発が始まった。良質の撫順炭の埋蔵量は約10億トン、ピーク時(昭和12年)の年間出炭量は約1000万トン。頁岩(けつがん)油(オイルシェール)、人造石油、金属、セメントなども生産する一大化学コンビナートであり、経営する満鉄(南満州鉄道)にとって鉄道事業と並ぶ収益の2本柱だった。
 満鉄はこの地に、当時の内地(日本)から見れば“夢のような未来都市”を築いてゆく。都市計画で整備された市街地には広い幹線道路が通り、学校、病院、公園、公会堂、野球場、プール、冬はスケート場ができた。
 社宅街は瀟洒(しょうしゃ)なレンガ造り。炊事はガス、トイレは水洗でタイル張り、電話はダイヤル式の自動電話。特筆すべきなのは画期的なスチーム(蒸気)による「地域暖房」だ。ボイラーから各戸にパイプを張り巡らし、外気が零下10度、20度にもなる真冬でも室内はポカポカ。熱い風呂はいつでも使用可能…。東京や大阪の大都会でもこうした生活が一般化するのは、高度成長期以降のことだろう。
 まだ初期の1909(明治42)年に渡満した夏目漱石が『満韓ところどころ』に撫順の街を見た驚きを書き留めている。《洒落(しゃれ)た家がほとんど一軒ごとに趣(おもむき)を異(こと)にして十軒十色とも云(い)うべき風に変化しているには驚いた。その中には教会がある、劇場がある、病院がある、学校がある。坑員(こういん)の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来(き)て眺めたいものばかり…》汚名だけ着せられて
 この近代的な炭都が抗日ゲリラの「標的」となった。今から83年前の昭和7(1932)年9月15日夜から16日未明にかけて未曾有(みぞう)の大事件が起きた。その6カ月前に建国された満州国を日本国が承認した日に合わせて「反満抗日」を叫ぶゲリラ、匪賊らの大軍が撫順炭鉱を襲撃、施設に火を放ち、日本人5人が惨殺された。いわゆる「楊柏堡(ヤンパイプ)事件」である。
 殺されたのは同炭鉱楊柏堡採炭所長ら炭鉱職員4人と家族の女性1人の民間人ばかり。炭鉱施設や社宅街も大きな被害を受け、一部採炭所は操業停止に追い込まれた。
 撫順を守る関東軍の独立守備隊は翌16日、反撃に出る。抗日ゲリラに通じていた、とされる平頂山集落の住民らを殺害した。これがいまなお“反日プロパガンダ”に使われ続ける「平頂山事件」である。
 戦後、平頂山事件を“悪名高い事件”として一般の日本人に知らしめたのは1970年代初めに朝日新聞本多勝一記者が書いたルポであろう。中国は現場に記念館を作って日本軍の“残虐ぶり”を訴え、生き残りである住民は、日本政府を相手取った賠償請求訴訟を起こした。
 だが、虚実取り混ぜて仰々しく喧伝(けんでん)されてきた平頂山事件に比べて、きっかけになった抗日ゲリラ部隊による撫順炭鉱襲撃、日本人殺害事件(楊柏堡事件)についてはほとんど語られたことがない。
 これでは公平さを著しく欠くだけでなく、平頂山事件の全容をつかむこともできない。特に先に襲撃を受けた「楊柏堡事件」の被害者や家族にとっては平頂山事件の汚名だけを着せられたまま釈明の機会さえ満足に与えられなかった。
 殺戮、放火、破壊…
 濱口光恵(はまぐちみつえ、91)の父、友七郎(ともしちろう、昭和35年、69歳で死去)は楊柏堡事件当時、撫順炭鉱の楊柏堡採炭所にあった診療所の責任者を務めていた(撫順医院看護手)。
 その夜、光恵は「仲秋(ちゅうしゅう)の名月がきれいに出ていた」と記憶している。採炭所内のクラブで厄年を迎えた男たちの“厄払い”の宴席が開かれていた。やがて夜も更け、各戸に流れて2次会を楽しんでいたころに異変は起きた。
 「皆さん、これは実弾の音ではありませんか…。すぐに家に帰ってください」
 友七郎がゲリラの襲撃を知らせる味方の小銃の発砲音に気付く。各戸に張り巡らされた地域暖房のスチームのパイプをガンガンと打ち鳴らす「警報」が慌ただしく続いた。もう間違いない。
 そのとき、銃を携帯していたのは友七郎だけ、ほろ酔い加減の男たちは防戦のため、武器を取りに走り、光恵は母親と一緒に避難所である坑道内へと向かう。
 「『ヤー、ヤー』という大声、襲撃を知らせるのろし…外へ出るとあたりは騒然としていました。私たちは、炭鉱の人の先導で坑道に入り、エレベーターやトロッコを乗り継いで、地下深い安全棟の休憩室まで必死で逃げた。残してきた父のことが心配でなりませんでした」
 翌9月16日付、満洲日報号外はこう報じている。《深夜の炭都はたちまちにして物凄(ものすご)き戦闘の巷と化し、炭鉱事務所、社宅は焼き払われた。死傷者多数…泣き叫ぶ男女の様はまさにこの世の修羅場》
 銃、槍(やり)、太刀で武装した抗日ゲリラや匪賊は、殺戮、放火、破壊の限りを尽くす。光恵がいた楊柏堡の社宅には約80家族、約300人が住んでいた。間一髪で坑道へ逃げ込んだが、あと一歩避難が遅れていたら、全滅の危険性もあったという。
 翌日、診療所の責任者だった友七郎は犠牲になった炭鉱職員や家族の検視を行っている。
 「非常に惨(むご)い状態で、耳や鼻をそぎ落とされ、目までくりぬかれていた…顔が分からず、ご本人と特定するのが難しかったと聞きました」
 撫順の日本人に、やり切れない思いが残った。抗日ゲリラに通じていた、とされる地元住民の多くは炭鉱で働く労働者である。これまで彼らと家族の暮らしを支えてきたのは炭鉱の日本人ではなかったのか、それなのに…。
 事件の証言者は光恵だけではない。それは次回に書く=敬称略、隔週掲載
(文化部編集委員 喜多由浩)
  ◇
 ■平頂山(へいちょうざん)事件 昭和7(1932)年9月16日、前夜、抗日ゲリラ部隊に撫順炭鉱を襲撃された日本側の独立守備隊が、ゲリラに通じていたとして近くの平頂山集落を襲撃し、住民らを殺害した事件。犠牲者数は中国側が主張する約3000人から、数百人とする説もある。昭和23年、中国国民党政権下の瀋陽で行われた戦犯裁判で事件とは無関係とされる元撫順炭鉱長ら7人に死刑判決が下された。」}
   ・   ・   ・    
 2017年1月10日 産経ニュース「【歴史戦】中国が「抗日戦争」期間を「延長」 教科書で8年間から14年間に 1931年の柳条湖事件を起点に
 中国の小中高の教科書や教材で「抗日戦争」の期間を従来の8年間から14年間に“修正”するよう全土の教育部門に行った1月3日付の中国教育省による通達(香港フェニックステレビ電子版から)
 【上海=河崎真澄】中国の「抗日戦争」に関する小中学校から高校までの歴史教科書の記述で、戦争の期間について従来の1937年から45年までの8年とする解釈を変更し、31年からの14年に全面修正するよう、中国教育省が全土の地方政府に通達を行ったことが10日、分かった。
 香港のフェニックステレビ(電子版)が入手した1月3日付の教育省の通達文書によると、「抗日戦争は14年間だったという概念を確実に根付かせるよう改めよ」として、今春から教科書や教材の記述を全面的に変更するよう要求した。
 中国はこれまで「抗日戦争」として、37年7月に北京(当時は北平)近くで発生した「盧溝橋事件」(中国では「七七事件」)を起点にしてきた。だが、習近平政権下で歴史の見直しが進み、31年9月に奉天(現在の遼寧省瀋陽)付近で起きた「柳条湖事件」に遡(さかのぼ)らせることにしたという。
 45年8月の終戦までとの認識は変わらないが、一部には1894〜95年の「日清戦争」からの「抗日戦争50年」を掲げ、期間をさらに広げようとする動きもある。習政権には歴史教育を通じ、対日姿勢を一段と強める狙いがありそうだ。」
   ・   ・   ・    

 

   ・   ・   ・   

マオ―誰も知らなかった毛沢東 上

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マオ―誰も知らなかった毛沢東 下

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抗日遊撃戦争論 (中公文庫)

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ワイルド・スワン(上) (講談社文庫)

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毛沢東と中国(上) ある知識人による中華人民共和国史

毛沢東と中国(上) ある知識人による中華人民共和国史

 

₩74」─1─第1回南京虐殺事件。山東出兵。済南虐殺事件。中国共産党結党。アメリカ共産党と排日運動。1920年〜No.330No.331〜No.332 *  


   ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 被害者は日本。
 加害者は中国。
 仕組んだのはソ連コミンテルン共産主義者
   ・   ・   ・   
 アルフイレート・フェアドロス(オーストリア国際法学者)「戦争は防御戦争か攻撃戦争のどちらかである。この概念のペアと合法及び違法な戦争という概念は厳格に区別しなければならず、……従って合法な攻撃戦争も違法な防御戦争もありえない」(1937年『国際法』)
   ・   ・   ・   
 フーゴー・グロチウス「人の世に殺し合いはなくならない。しかし、殺し合いのルールがある。不必要な殺傷は行うべきではない。軍事合理性と無関係な殺傷から無くしていくことで、人類は少しずつ文明的になる」
 中華世界には、ルールのない殺戮が文明的に存在する。
   ・   ・   ・   
 日本人にとって、日本以外の世界、大陸は地獄であった。
 中国在住の武器を持たないひ弱な日本人居留民の生命財産を誰が守ってくれるのか。
 日本人は日本人しか守る事がでかい、そして、その日本人とは日本軍である。
 日本軍は、日本人居留民を中国人から守る為に、中国人と戦い、中国人を殺した。
 だが、日本軍が日本人居留民を武力で守った事は、「平和に対する罪」「人道に対する罪」により戦争犯罪とされた。
 つまり、中国大陸の日本人居留民を日本人が守る事は犯罪であると、国際司法機関は裁定を下した。
 それが、東京裁判である。
 日本人の戦争犯罪は、第一回南京虐殺事件から始まった。
   ・   ・   ・   
 1920年 孫文は、儒教価値観の漢族中心主義から、少数民族の権利を剥奪し漢民族に吸収し同化させべきであると主張した。
 「中華民族について言えば合計4億人いる。入り交じっているのは、数百万のモンゴル人、百万余りの満州人、数百万のチベット人、百数十万の回教を信ずるトルコ人だけで、外来の者は1,000万にもならない。
 ……
 漢族を中心に満、蔵、回などを同化させしめ、漢族を改めて中華民族となす」
 満州族の王朝であった清朝は、「五族共和」を掲げ、藩部と呼ばれる土地に住むモンゴル、チベットイスラム教徒などの王侯の生活を保証し、諸民族の伝統・文化・宗教の保持を約束していた。
 ただし、漢族の残虐的本性を歴史から知るだけに、漢族に対しての警戒心を弛める事なく、地方の高官に登用しても中央の高官には昇進させなかった。
 蒋介石「中国5000年の歴史は、各宗族共通の運命の記録に他ならない。……要するに我らの実は同じ一個の民族であり、かつ一体系の、一種族でもあるのである」
 中華思想儒教において、領土内の少数民族の存在を認めず、人は少数の支配する有能な読書人と大多数の支配される無能な小人の2つにハッキリと区別していた。
 そして。徳を施すのは、救い価値のない小人ではなく、道理をわきまえた読書人とその一族のみであると指定していた。
 日本人は、儒教の本質が理解できなかった。
 老子道教は、孔子儒教は人々を誑(たぶら)かす欺瞞であるとして徹底して批判していた。
 中華思想儒教からすれば、日本も国内の少数民族や周辺地域の民族同様な蛮族であり、対等な関係国では忌み嫌うべき下位の野蛮国に過ぎなかった。
 蒋介石はもちろん孫文も、本心で、日本をどう見ていたかは不明である。
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 レーニンは、1918年に日中全面戦争を1920年に日米全面戦争を計画した。
 日本と中国の戦争は、共産主義者が仕掛けた罠であった。
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 1921年7月23日(〜7月31日) 中国共産党第一次全国代表大会。中国共産党の設立会議。
 開催場所は、上海市・フランス租界内の李漢俊自宅。
 出席した各省の代表者13人、コミンテルン代表の2人。
 上海代表:李漢俊(東京帝国大学出身)、李達(東京帝国大学出身)。
 広州代表:陳公博、包惠僧。
 北京代表:張国菇、劉仁靜。
 武漢代表:陳潭秋、董必武日本大学出身)。
 長沙代表:毛沢東、何叔衡。
 済南代表:訒恩銘、王尽美。
 留日代表:周仏海(京都帝国大学出身)
 コミンテルン代表:マーリン、ニコリスキー。
 党の発起メンバーである陳独秀成城学校出身)と譚平山は広州、李大訢(早稲田大学出身)は北京、沈玄廬(日本留学組)はモスクワにおり、また邵力子は上海で病臥しており、戴季陶(日本大学出身)はすでに党を脱退しているため出席していない。
 議決事項:党の基本任務・民主集中制等の組織原則と規律等を規定した中国共産党綱領が定められた。また、役員選挙により、以下のようになった。
 委員長  :陳独秀
 副委員長 :周仏海。
 組織部長 :張国菇。
 宣伝部長 :李達。
 広東特派員:包惠生。
 長江特派員:周仏海。
 日本特派員:張太雷。
 北方特派員;劉仁静。
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 中国共産党の文書は、中国語の中に適切な語彙が少ない為に、漢字の多くは日本語所縁の和製漢字で作成されていた。
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 周仏海(1897年5月29日〜1948年2月28日)は中華民国の財政家・政治家。汪兆銘政権の有力者。
 日本に留学し第七高等学校造士館 (旧制)・京都帝国大学に学ぶ。この頃から共産主義に触れるようになり中国共産党とも接触を持つ。1921年に開催された中共一大会議には日本への留学生を代表する形で参加した。しかし、1924年に帰国すると中国国民党宣伝部秘書になり、共産党と関係を絶つ。
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 羅君強(らくんきょう、1902年〜1970年2月22日) 中華民国の政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。
 1922年(民国11年)春、中国社会主義青年団に加入し、まもなく中国共産党に加入した。7月、中学を卒業し、上海に赴いて中共第2回全国代表大会に参加した。しかし翌年、いったん共産党を離党している。
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 周仏海や羅君強などは、中国で共産主義革命を成功させるべく中国共産党を離党して中国国民党に入党し、左派系列の宋慶齢汪兆銘などに接近した。
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 1922年 アメリカ連邦最高裁判所は、国民の排日運動を受けて「日本人を帰化不能人種とする」最終裁定を行った。
 ハーディング大統領は、第1次世界大戦時に膨れ上がった軍事費による財政赤字、戦争終結に伴った軍需物資生産の急激な縮小による経済不況と復員兵の失業と恩給など、諸問題を解決し国家を再建するには国民の支持と議会の協力を必要とした為に、「日本人移民を受け入れない」という排日運動を放置した。
 日本は、同盟国イギリスとの集団的自衛権発動として、パリに於ける日赤戦争病院開設とオーストリア・ニュージランドの防衛負担や太平洋・インド洋・地中海での安全航行確保など連合国の勝利への貢献と、数多くの実績を果たしたが、アメリカはその全てを無効とした。
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 1922年 第一次奉直戦争。馬賊頭目張作霖は、奉天を拠点に奉天軍を組織して華北に侵入するが、山東出身の呉佩孚(ごはいふ)が率いる勅隷軍び敗れる。
 1924年 第二次奉直戦争。呉佩孚は、張作霖との戦争に敗れ、直隷派の馮玉祥(ふうぎょくしょう)のクーデターで北京を明け渡して脱出した。
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 1924年 内藤湖南「近頃の支那人の家族破壊論はこれと違って、支那の家族は儒教の本義から成り立っており、儒教が奴隷主義の道徳だからという点から、家族破壊論を主張するのであるが、それと同時にその間に赤化を目論むものも出来て来たのであって、それらの運動が何等の効力もないというのは、支那の社会組織が進歩した共産主義的の家族制度から成り立って居るがためである」(『新支那論』)
 満州政権の張学良は、蒋介石の国民党政権とは異なる独立国として、日本勢力を満州から追い出す為にソ連との間で奉天協定を結び、中国共産党に急接近し始めた。
 5月26日 クーリッジ大統領は、ホワイト・ハウスの中庭で、議会が可決した人種差別法案である「排日移民法」を拒否権を発動する事なく署名した。
 カリフォルニア州などの西部及び中部諸州は、日本からの移民をシャットアウトする排日移民法の成立を歓迎し、排日運動を続けた。
 ルイジアナ州など南部諸州の黒人隔離諸団体は、排日運動が全米に拡大する事を支持した。
 アメリカは、ソ連や中国同様に反日派国家となった。
 日本がシベリヤ出兵時に日本人を犠牲にして行われた、ポーランド孤児救出、ロシア人児童救出、ロシア人及びユダヤ人の戦争難民救出という人道的貢献は、全て否定された。
 日本が行った人道的貢献は、世界で報道されていたに関わらず完全無視された。
 国際世論は、日本を正しく評価する事を拒否し、そしてなかったものとして歴史上から抹消した。
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 国際社会に於ける、日本の孤立化はこの時から始まり。
 反日は、国際社会では世界正義となった。
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 1925年 張作霖は、中国本土への軍事介入を行う為の軍事費を調達するべく、暴力的な経済政策を実施し、紙幣を乱発して貨幣価値を暴落させた。
 満州経済の混乱で、日本人居留民にも深刻な被害が出た。
 柴田養助「満州は当時、張作霖政権時代で、張作霖は東三省を根拠地としたにも拘わらず、満州の本務地を等閑(なおざり)にして中国本土進出に没頭していた。そして日満関係の沿革を無視して国権回収、新興支那建設という南方題目を以って、民意を繋ぐことに苦心していた。
 大正15年初頭、本務地に於いては、奉天票を乱発したため、通貨が暴落し、奉天の財政が危機に瀕した。人心は極めて不安な状態になった。まず朝鮮農民と中国農民が各所で衝突した。これは中国農民の不得手とする水田経営を、朝鮮農民は熟達した技術を以って立派に経営したのだ、中国農民はこれを圧迫して満州から追い出そうとしたためである」
 日本政府は、張作霖に対して長城以南への介入を停止させ、満州の経済安定化と財政再建に専念させるように干渉する事を決定した。
 関東軍や陸軍中堅幹部の中には、反日行動を続ける張作霖を放置しては満州権益は維持できない為に、張作霖を廃して親日勢力に交替させるべきだと主張する者がいた。
 何れも、軍事占領ではなく外交交渉を優先と考えていた。
 奉天政権内部の満州族を中心とした親日勢力は、満州を中国から切り離し、日本の支援を受けて満州の安定と近代化を進めるべきだと考えていた。
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 第1次山東出兵。
 1927年 国際連盟総会は、「国際紛争解決の為にあらゆる平和的手段を取らねばならない」との宣言決議を全会一致で裁決した。
 国際法は、戦争自体を違法とし、武力を用いての解決を禁止した。
 国際世論が騒ぐ、軍国日本の戦争犯罪が始まる。
 フランスのブリアン外相は、アメリカに「恒久友好条約」を提案した。
 1月 イギリスは、中国内戦による混乱から自国権益と自国民を守る為の自衛行動として、上海に軍艦と上陸部隊を派遣した。
 2月 第1回南京虐殺事件。
 アメリカとイギリスは、報復権を発動して、惨殺された自国民の恨みを晴らすべく南京を攻撃し、中国人の暴徒や一般市民を殺害した。
 日本軍は、日本政府の内政不干渉方針に従って報復権を放棄して、虐殺された日本人居留民の遺体を放置し、救出した負傷者を保護して逃走した。
 イギリスの外相チェンバレンは、国際連盟事務総長に、「平和的解決を行う事」という連盟規約を拒否し、連盟常任理事国の権限での自力救済を主張した。
 「帝国政府は、中国における難局を解決するに当たり、現時点で連盟の助力を求め得る如何なる状況にもない事を誠に遺憾とする」
 国際連盟としても、中国が唯一の正統政府の下に統一され治安と法秩序も回復されてない内戦地帯である以上、連盟規約や武力行使禁止の宣言を適用する事ができず、各国の自力救済行動を傍観するしかなかった。
 この国際連盟の「事なかれ主義的現状追認」が、軍国日本を破滅へと追い詰めた。
 ハーバート・スミス(ロンドン大学教授)は、1832年刊の『英国と諸国民の法』で、国際連盟規約は「組織立った国民間の交渉」を前提としたのもであり、国家の体を成していない内戦状態で混乱している中国には適応されない、と記した。
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 3月14日 昭和金融恐慌
 4月 上海工務局は、上海の治安を維持する為に諸外国に派兵を要請した。 イギリス軍9,000人、アメリカ軍1,500人、日本軍1,500人、フランス軍400人、イタリア軍50人。
 海軍艦艇、イギリス11隻、日本11隻、アメリカ5隻、総計31隻。
 上海を制圧した北伐軍は、上海クーデターによって共産党を排除し、国民党による南京国民政府を樹立した。共産党と決別した国民党軍は、「国民革命軍」として北爆を継続することとなった。
 4月12日 蒋介石は、上海クーデタを起こして、共産党員と労働者を虐殺し左派勢力を一掃して南京国民政権を樹立した。
 第1回国共合作の解消。
 4月17日 若槻礼次郎内閣総辞職し、国際協調と中国内政不干渉の幣原喜重郎外相も辞職した。。
 4月20日 立憲政友会総裁の田中義一が首相に任命されて内閣を組閣した。
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 5月 第一次山東出兵。
 田中義一首相(外相兼務)は、対中外交として日本人居留民現地保護政策を採用し、第1回南京事件の再演を防止する為に、北伐を進める国民革命軍が日本人居留民の多い山東省に迫った事を受け山東省への陸軍の出兵に踏み切った。
 5月27日 日本政府は、山東省の日本権益と山東省に生活する約1万7,000人の日本人居留民の保護及び治安維持の為の自衛的出兵である事を表明した。
 政府声明「在留邦人の安全を期する自衛上やむを得ない緊急措置に外ならず、支那及びその人民に対し非友好的意図を有せざるのみならず、南北両軍に対してもその作戦に干渉し、軍事行動を妨害するものにあらず」。
 ただし、財政上大規模な出兵は困難であり、中国側を刺激する事も怖れて、一個旅団規模の出兵にとどめる事とした
 田中首相は、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの代表を招いて出兵の主旨を説明して了解を得た。
 日本居留民は、北京に1,600人、天津に1,700人、青島に1万4,000人が、平和に生活していた。
 南京政権、北京政権、武漢政権の3政権は、日本人居留民保護目的の日本軍出兵に猛反対して激しく抗議した。
 中国共産党などが指導する反日組織は、各地で日貨排斥運動を起こし、対日経済断交を求める激しい市民大会を開いていた。
 一部の過激な反日派中国人は、日本人居留民への暴行を加えていた。
 5月28日 陸軍中央部は、在満洲の歩兵第33旅団を青島に派遣待機させる旨の命令を下した。
 6月1日 歩兵第33旅団は青島上陸を完了した。
 6月22日 張作霖は、権力闘争でかつての有力な同士・仲間を粛清して奉天軍を掌握した。
 奉天軍を率いて万里の長城を越えて北京に入城し、「自分こそ中華民国の主権者である」と宣言して、大元帥に就任した。
 張作霖は、満州の日本権益を奪う為に反日的欧米寄りの政策を打ち出し、満鉄経営を破綻させる為に欧米資本の支援を受けて満鉄路線に対抗する包囲網路線を敷設した。
 さらに、日本人居留民や日本国籍朝鮮人満州から追い出す為に、中国人に日本国籍朝鮮人への増加させた。
 張作霖は、日本人居留民に直接危害を加えれば日本軍が保護で出動する事が分かっていた為に、日本国籍朝鮮人満州朝鮮族への犯罪を奨励した。
 地方軍閥馬賊は、奉天政権が犯罪行為を黙認もしくは手助けしてくれる事を良い事に、朝鮮人部落を襲撃していた。
 日本人居留民達は、身の危険を感じて関東軍に保護を求めた。
 関東軍は、対ソ戦略から、張作霖反日政策に危機感を抱き、ソ連軍の侵略を阻止する為の緊急出動体制の検討を始めた。
 6月27日 東方会議と田中上奏文
 7月7日 決定された対支政策綱領で、日本は「必要に応じ断乎として自衛」で現地保護の方針と「機を逸せず適当の措置に出つるの覚悟」を必要とするという宣明をした。
 中国共産党は、民族主義を煽って全土で排日運動も燃え上がらせた。
 8月 国民党は、日本軍が山東省に進出して牽制したために、北伐は一時中止された。
 8月7日 中国共産党は、中央委員会を開催した。
 8月13日 蒋介石は下野を宣言し、北伐続行の見込みはなくなった。こうした状況か
 8月24日 日本政府は、領土的野心がない事を明らかにする為に撤兵を決定した。
 9月8日 日本軍は撤兵を完了した。
 イギリスやフランスなどは、日本軍派兵が、中国の排他的暴動を鎮め治安を回復するとして無条件で歓迎した。
 11月5日 田中義一首相は、訪日している蒋介石と会談した。
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 第二次山東出兵。
 1928年 西北・華北の各地で大旱魃。被災者3,000万人。
 2月27日 ケロッグ国務長官は、フランスの攻撃戦争限定論を否定する交換公文を送った。
 「このような宣言に、攻撃(侵略)という用語の定義や、国家が戦争を行う事が正当化される場合を定める例外や条件が伴えば、その効果は著しく弱められ、平和の保障としての積極的価値は実質的に破壊されるだろう。……このような条約に採用される厳密な用語法は、アメリカにとってどうでもよい問題」
 4月10日 蒋介石は、国民軍総司令に復帰し形勢を立て直すや北伐は命じた。
 北伐軍(総兵力約20万人)は、広州を出発して北上し、山東省に向かった。
 広東駐在武官の佐々木到一中佐は、北伐軍と日本軍との衝突を避ける為に軍事顧問として北伐軍司令部に同行していた。
 4月13日 アメリカ、フランス、イギリス、日本など6大国は、正式に不戦条約を提案し、締結の為の協議に入った。
 4月16日 済南駐在武官酒井隆少佐は、出兵を決意すべき時機到来との意見を具申、さらに参謀総長鈴木荘六大将に状況を打電した。
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 4月19日 第二次山東出兵。日本政府は、北伐軍が再び山東省に迫って来た為に、前回同様に山東半島の日本人居留民保護を目的として出兵を決定した。
 派遣兵力は、天津から歩兵3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から平時編制の第6師団(師団長福田彦助中将)の一部とされた。
 4月20日午後8時20分 臨時済南派遣隊(3,000人)が済南に到着し、警備についた。
 4月25日 第6師団先遣部隊は青島に上陸した。
 4月26日午前2時半 第6師団先行部隊である斎藤瀏少将指揮下の混成第11旅団が、済南に到着し、6,000人が山東省に展開した。
 日本軍と北伐軍は、山東省内で対峙し、接近した地域で散発的な発砲事件は起きていたが全般的には平穏を保っていた。
 東京の中央部は、済南で緊張が高まっていると判断し、不測の事態に備えて増兵を決定し、混成第28旅団と臨時派遣飛行隊を急派し第6師団長の指揮下に入れた。
 4月28日 ケロッグ国務長官は、不戦条約提案直後に自衛権について重要な演説を行った。
 「不戦条約のアメリカ案には如何なる意味においても自衛権を制限し損なうものは存在しない。この権利は各主権国家に固有のものであり、全ての条約に暗に含まれている。全ての国家は……攻撃又は侵入から領土を守る自由があり、状況が自衛の為に戦争を訴える事を必要としているか否かを決定する権限は個々の国だけにある。……条約が自衛の法的概念を定める事は、平和の為に利益にならない。なぜなら、承認された定義に沿うような事態を作り上げる事は、無法者にとって極めて容易だからである」
 5月1日 北伐軍の侵攻を撃退するべく出陣していた張作霖軍が撤退し、それに吊られて北伐軍が北上して済南に到着した。
 済南に集結た北伐軍兵力は、約4万人。
 済南市内では、第1回南京事件を引き起こした北伐軍が今にも攻撃してくるのではないかと混乱した。
 5月2日 済南に入城した蒋介石総司令は、南京駐在武官の佐々木到一中佐を通じて、同地の治安維持は自らあたるから、警備区域の撤廃、青島からの増兵中止等を要請してきた。
 福田師団長は、日本政府からの軍命令による行動である以上、貴軍によって行動を左右されるものではない、として要請は拒否した。
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 5月3日 済南虐殺事件。
 午前9時30分 日本軍部隊に、中国人兵士が日本人住宅街に乱入したとの報告が済南日報社から入り、久米川好春中尉以下が済南日報社に向かった。
 これより先に、日本の総領事館巡査2名が現場に到着していたが、多勢に無勢として、中国人兵士達に襲われ暴行を受け佩剣を奪われた。
 午前10時 久米川小隊が駆け付けてきた為に、暴動を起こしている中国人兵士達は逃走し始めた。
 久米川小隊は、逃亡を図る中国人兵士達を捕らえようとした。
 中国人兵士達は発砲して抵抗し、久米川小隊も正当防衛として応戦した。
 小規模な発砲が、市内各所での戦闘に拡大した。
 これが、済南事件の発端である。
 福田師団長は、戦闘を拡大させず収束を図りたいとの北伐軍からの申し出ににより、全部隊に停戦を命じた。
 軍律の厳しい日本軍は、命令に為たがって停戦しようとした。
 対し、盗賊上がりで統制の弱い北伐軍は、兵力差を頼りにしていて、停戦をしようと消極的になった日本軍は弱ったと判断して攻撃を強めた。
 午後2時10分 福田師団長は、停戦の約束を守らない商埠地内に陣取っている北伐軍の掃討を命じた。
 午後3時 日本軍は、抗戦を続ける北伐軍を排除し掃討戦を中止して、再び停戦交渉を進めた。
 夜になって、北伐軍は撤退して停戦協定が成立した。
 5月3日午前 済南虐殺事件。中国軍兵士の一団は、日本軍の守備範囲以外で脱出できず日本人家屋に留まっていた日本人居留民達を集団的かつ計画的に襲い、略奪・暴行・強姦・殺人事件を起こした。
 計画的に虐殺された日本人居留民は、12名。
 それ以外で。中国人兵士の攻撃で死亡した男性2名、暴行侮辱を加えられた者30余名、強姦された女性2名、被害人員約400。略奪された商店及び住宅136戸。
 日本人居留民の抵抗で殺害された中国人兵士は、12名。
 日本人憎しで凶暴化凶悪化した中国人達は、狂喜して日本人を襲い猟奇的に虐殺した。
 5月4日午前中に 日本軍は、日本人居留民虐殺事件が起きている事を知らず、中国側が約束を守り、北伐軍が商埠地外に撤退する所を見届けた。
 同じ頃、日本政府は、両軍の武力衝突の報告を受け、戦闘拡大を防ぐには北伐軍を威圧を加えるだけの増派すべきであると決定した。
 軍部は、関東軍より歩兵1旅団、野砲兵1中隊、朝鮮より混成1旅団、飛行1中隊の増派を命じた。
 北伐軍が陣取っていた地域に入った日本軍は、無残に惨殺され、暴行され、強姦された日本人居留民達を発見した。
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 昭和天皇は、南次郎参謀次長(A級戦犯)から日本人居留民虐殺の報告を聞いた。
 夜。瀬川章友侍従は、参謀本部が作成した済南虐殺事件の報告書を昭和天皇に提出した。
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 5月5日 日本軍は、市内での被害状況を調査した。
 済南近くの鉄道駅で、日本人居留民9人の惨たらしい惨殺死体を発見した。
 福田師団長は、非戦闘員であった日本人居留民の虐殺報告を受けるや、国軍の威信と国家の名誉を保持するべく、蒋介石総司令に対して12時間の期限つきで最後通牒を発した。 しかし、蒋介石総司令は誠意ある回答を行わなかった。
 日本の世論は、女性や子供が中国人兵士によって猟奇的に惨殺された事をしるや激怒し、中国に対する報復、復讐、懲罰の戦争を求めた。
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 日本人は、古代から朝鮮人とは違って中国人に対して憧れや親しみを持って眺め接してきたが、済南虐殺事件を目の当たりにして中国人の見方が激変し、中国人への敵意が湧いた。
 日本人の中国人への憎しみは増幅し、日本人兵士による中国人民に対する残虐行為は否が応でも激化した。
 そして。軍国日本は、世界に理解される事なく孤立し、孤独なまま世界相手の破滅的戦争へ引きずり込まれた。
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 東京裁判は、中国で自国民を武力で保護する行為が、中国の主権を踏みにじり世界を征服しようとする平和に対する犯罪と断罪した。
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 中国では、相手の立場に配慮し、思いやって譲歩する事は、無意味であるどころか有害であった。
 中国には、道理も、情理も、一切通用しなかった。
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 5月8日 日本軍は、済南市内の日本人居留民約2,000人の保護の為に済南城を攻撃し、武力で済南付近と膠済沿線の掃討を開始した。
 蒋介石は、武力統一を優先し、日本軍との衝突は極力回避して黄河を渡って北京に進撃するように命じていた。
 北伐軍は、日本軍との正面激突を避けた為に大掛かりな戦闘は起きなかった。
 中国軍兵士は、停戦に奔走していた佐々木中佐を捕らえて監禁した。
 蒋介石は、佐々木中佐に危害を加えると日本軍との全面戦争に突入する危険があるとして、救出する為の使者を派遣した。
 アメリカやイギリスなど諸外国は、武力を用いて自国民居留民を現地保護した田中強硬外交を歓迎した。
 田中義一首相は、満州を中国内戦の混乱から救うには中国本土から切り離すしかないとして、張作霖に戦闘を中止して奉天に帰還させるしかないと決断し、関東軍を欺いても張作霖奉天帰還を成功させるように北京駐在の芳澤謙吉公使に極秘命令を送った。
 芳澤公使は、張作霖満州に帰還して内政に専念するように勧告した。
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 済南事件は、日清戦争以来の大規模な日中間の衝突事件であり、後の日中戦争の前哨戦として中国側に根強い日本に対する反感を呼び起こした。
 中国の民族主義が激しく沸騰し、中国各地で反日運動が盛り上がり、日本人居留民への嫌がらせが頻発した。
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 アメリカ報道「日本軍が国民党軍の北伐を妨害する為に故意に済南事件を起こした」
 国際世論は、済南虐殺事件は日本軍が起こした事件とされ、反日運動を盛り上げた。
 日本人が虐殺された事実を知っても、誰も理解しなければ同情もしない。
 日本国内でも、反天皇反日的日本人が暗躍していた。
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 第三次山東出兵。暴支膺懲(ぼうしようちょう)。
 5月8日午後  田中義一首相は、第1回南京虐殺事件と済南虐殺事件の中国人暴徒による虐殺事件を教訓とし、国家の責任として中国人暴徒から日本人居留民を保護する為に増派を決断した。
 日本政府は、増派案を閣議で協議し、動員1師団の山東派遣および京津方面への兵力増派を承認した。
 日本は、独裁国家ファシズム国家ではなく、憲法の下での法治国家として政府や国会が協議して国家方針を決定した。
 日本の国会議員は、アジアで唯一、憲法で認められた国民の権利で国民が総選挙で代議士を選ばれていた。
 大陸出兵も、閣議が協議して決定し、昭和天皇は政府決定に対して裁可をえ、軍部は命令に従って計画を持ってて実行した。
 5月9日 軍部は、第3師団に動員を下令し、さらに支那派遣軍の定期交代部隊(歩兵5個中隊)の繰り上げ派遣を命じ、さらに海軍部隊にも増派を命じた。
 蒋介石は、日本軍が山東半島全域とその主要都市済南を占領した為、北伐軍に対して日本軍との決戦を避けて北京に進撃する様に命じた。
 5月11日 日本軍は、済南市内の全ての北伐軍が撤退したので済南全域を占領した。
 5月17日 田中義一首相は、アメリカとイギリスの大使を招致し、山東出兵に対する日本側の事情を説明した。
 5月18日 田中義一首相は、蒋介石張作霖に対して公式覚書を送り「満州の治安は日本は最も重視するところであり、もし戦乱が北京、天津方面に進展し、その禍乱が満州に及ばんとする場合は、満州の治安維持の為に適切にして有効な措置を取らざるをえない」お警告した。
 中国内戦の原因は中国の不統一にあり、蒋介石の元で統一すれば内乱は収束し、大陸の日本権益も日本居留民も無事に保てると判断して、北京政権の張作霖満州へ帰還するように圧力を掛けた。
 5月19日 オースチンチェンバレン外相は、アメリカに倣って英国版モンロー主義宣言した。
 「世界には、その繁栄と保全が我が国の平和と安全に特別かつ死活的利害を構成する一定の地域が存在する。帝国政府は従前より、これらの地域への干渉を容認しない事を明らかにすべく努めてきたところである。これらの地域を攻撃(侵略)から守る事は、大英帝国にとって自衛手段である。大英帝国政府はこの点に関して、その行動の自由を阻害する事はないという了解の上で、新条約を受諾する。
 アメリカ政府は、他国がそれを無視すれば非友好的行動とみなすと宣言する、類似の利害を持っている。従って、帝国政府は自らの立場を明確にすることで、アメリカ政府の意向と見解を表明するものと確信している」
 アメリカは、自国の理想主義的モンロー主義を維持する為にイギリスの現実主義的モンロー主義宣言を否定しなかった。
   ・   ・   ・   
 6月1日 張作霖は、戦闘即中止・奉天帰還勧告に大元帥としての面目を潰されたと激怒して拒否したが、戦況の悪化を知るや奉天帰還を決断した。
 だが、中華大元帥として自分の面目を守る為に、日本側の横暴な圧力でやむなく奉天に帰還するとした。
 6月3日午前零時55分 張作霖は、北京正陽門停車場から奉天行きの特別列車に乗り込み、逃げるようにして出発した。
 6月4日午前5時20分  張作霖爆殺事件。満州某重大事件。
 張作霖が乗り込んだ特別列車は、京奉線を奉天駅に向かって満鉄線との交差地点に差し掛かった所で爆発に巻き込まれた。
 張作霖は、即死に近い重傷を負い奉天城内の自宅に担ぎ込まれたが、午前10時過ぎに死亡した。
 張作霖爆殺したのは、河本大作大佐らである事は紛れもない事実である。
 関東軍と在満日本人居留民は、済南虐殺事件の再発を恐れていた。
 軍部の暴走が始まった。
   ・   ・   ・   
 6月5日 第3師団は、青島への上陸を完了した。
 6月8日 北伐軍は、北京に入城した。その数日前に北京を離れた満州軍閥張作霖は、日本の関東軍の謀略である張作霖爆殺事件によって殺害された。
 山東出兵で派兵された日本軍は最終的には約10万にふくれあがり、中国側死傷者は約5千人を超えた。中国兵及び中国の民衆は日本兵・日本人に対する憎しみを募らせ、居留民保護どころか、在留邦人がしばしば襲撃され、それを受けて日本軍が増強されるという悪循環を重ねた。
    ・   ・   ・   
 7月3日 蒋介石は、北京に入城して北伐の完成を宣言した。
 中国が統一されたわけではなく、各地には依然として大小の軍閥が割拠し、匪賊や馬賊が跋扈する内戦・混乱状態であった。
 7月19日 田中義一首相は、満州権益と日本人居留民を守るべく、満鉄総裁に山本条太郎を副総裁に松岡洋右を配した。
   ・   ・   ・   
 8月27日 パリで、不戦条約が調印された。
 国際連盟規約第21条「平和の維持を確保する為の、仲裁裁判条約のような国際協定あるいはモンロー主義のような一定地域に関する了解の効力に、本規約は如何なる影響も与えない」
 アメリカ議会は、国際紛争を戦争ではなく平和的に解決する事に同意したが、伝統的モンロー主義から自国の覇権下にある中南米で権利が制限される事には同意しなかった。
 ケロッグ国務長官は、国是であるモンロー主義を維持する為に、不戦条約を中南米で適用させない事を条件として条約に署名した。
 そして、2国間紛争が国際仲裁裁判条約の対象案件とされた場合も、当事国の意に沿わない拘束力を持った仲裁を行わない事を条件とした。
   ・   ・   ・   
 12月 ケロッグ国務長官は、上院外交委員会の「不戦条約」審議で、「自衛権主権国家に固有の権利であり、何が自衛権に当たるかの判断は各国に一任され」、「自衛の対象はアメリカ本土に限定される事なく、モンロー主義に言及された地域で自己保護の権利を有している」、「アメリカ政府はこの国策に他国の容喙を許さない」と証言した。
 ケロッグ「自衛は、すでに述べたとおり、合衆国本土への攻撃に対する単なる防衛に限定されない。自衛は我々の全ての領土、全ての権利、合衆国に対する脅威阻止の為の方策を取る権利に及ぶ」
 オーストリア国際法学者アルフレート・フェアドロスは、「自衛」とは武力攻撃への反撃だけではなく、自国の国益に不利益となる違法行為に対する自力救済も含むとの見解を示していた。
 上院外交委員会は、「条約によって認められた自衛権の下、我が国家防衛体制の一角をなすモンロー主義を維持する権利が必然的に含まれる」との公式見解を付けて、不戦条約を承認する報告書を提出した。
 日本を始め締結国は、アメリカの「違法行為に対する自力救済=自衛は容認され、その判断は軍事と外交を発動国が決める」という条約解釈を留保条項として受け入れた。
 ケロッグ国務長官は、主権国の軍事行動が自衛か否かを「もし、立派な言い分があれば、その国の行動は世界は賞賛するだろうし、そうでなければ、世界は非難するであろう」と発言した。
   ・   ・   ・   
 日貨排斥運動。
 蒋介石は、北京に無抵抗で入城して北伐の完了を宣言し、アメリカやイギリスの全面支援で一党独裁体制国家樹立を目指していた。
 蒋介石が目指した国家は、自由と民主主義国家ではなく全体主義体制のファシスト国家であった。
   ・   ・   ・   
 柳沢慎之助「アングロサクソン2大強国は不戦条約に拘はらず事実上地球の4分の3に対して『利害関係ある地方』てふ名義の下に、勝手に武力的干渉を行ひ得る結果となった」(『外交時報』1928年9月1日号)
   ・   ・   ・   
 1928年 蒋介石は、第二次北伐を終えて中国統一が実現した。
 国民政府外交部長・王正廷は、「革命外交」という概念を打ち出し、国際法に基づく正式な手続きを無視して一方的に不平等条約無効を宣言した。
 コミンテルンは、国民党と日本軍を戦わせる為に、中国本土及び満州に於ける日本の権益を全面否定する法令を次々と制定した。
 中国共産党は、各地で抗日運動を暴動に煽り立て、日本人居留民を襲って重軽傷を負わせ、日本人商店を襲撃して略奪と放火を行った。
 幣原喜重郎外相は、国際協調外交を標榜し、中国との戦争を避けるべく、軍部を宥め、日本人居留民に泣き寝入りさせ、中国側に配慮し譲歩して妥協を重ねていた。
 その結果、逆に中国人による抗日暴動は激しさを増し、日本人居留民の被害も増えた。
   ・   ・   ・              
 1929年 華中水害で、被災者8,000万人。数千万人が上海や広州など華南と山東省へ流出し、毎年数十万人が中国を捨てて満州へ移住した。
 ソ満国境戦争。極東ソ連軍3万人は、張学良の奉天軍約30万人を撃破した。
   ・   ・   ・   
 大災害から中国人飢餓民の救護が可能な国は、戦争犯罪国家日本だけであった。
   ・   ・   ・   
 中国大陸に於いて、被災した人間を助ける行為は「軽蔑」されこそすれ「褒められる」事はなかった。
 人を助ける事は、「優しさ」ではなく「弱さ」であった。
 人間不信の中国では、心にやましい人間や後ろめたい過去がある人間だけが、其れを誤魔化す為に慈善活動を行うと信じられていた。
 よって。助けられた中国人は、口先だけで感謝し相手を褒めるが、心の中では軽蔑していた。
 内田良平「『保全』といった心優しい姿勢では、かえって中国人の侮りを受けるだけだ。むしろイギリスのような冷酷で高圧的な態度で臨まない限り、中国人とは付き合えない」
 中国人には、日本の配慮や思いやりや善意は全く通用しない。
 何をしても、どうやっても。中国人は感謝しないし恩義も感じない。
 相手に良かれと思って行う行為すべてが、無駄骨で有り、無意味であった。
 3月28日 軍国日本と中国の間で和平交渉がようやく成立し、済南虐殺事件は有耶無耶の内に処理された。
 5月20日 山東省の日本軍山東派遣軍は、和平成立を受け、済南城を含む山東全域から日本軍が撤退した。
 6月17日 田中義一首相は、「満蒙の如き我が国にとって重大なる特殊権益に対して我が自衛権の及ぶことはその接壌地帯なること並にしばしば政府が中外に宣明せる外交的事実から見て当然のこと」と発言し、満州を日本のモンロー主義で囲う事も留保に加える必要もないとの見解を明らかにした。
 国際法学者の信夫淳平は、モンロー主義や留保条項を主張しなかった田中義一首相の発言を批判した。
 「満蒙に於ける特殊権益に就て……その適用上に疑義の多き国家自衛権といふことを当てにするよりも、やはり英国のそれに倣うて一種の留保を明解に為して置いた方が善くはなかったであるまいか」(『外交時報』7月15日号)
 7月 田中義一首相は辞職した。
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 ソ連軍の満州侵略。
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 満州モンロー主義で守ろうとした軍国日本の野望は、戦争犯罪として完全否定された。
   ・   ・   ・   
 アメリカとイギリスは、世界中にある両国の利益を現状で維持する為に、国際関係と国際秩序を平和に安定させるべく全力を尽くし、障害になる国家と個人を如何なる手段を使っても叩き潰した。
 標的にされたのは、軍国日本であった。


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本当に怖ろしい中国の歴史

本当に怖ろしい中国の歴史

₩73」─1─中国人共産主義者と在華紡事件。ファシスト中国による日本の中国権益を剥奪する革命外交。〜No.328No.329 *    

顔のない城〈上〉―上海物語1930年上海 (上海物語 第 1部)

顔のない城〈上〉―上海物語1930年上海 (上海物語 第 1部)


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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 サミュエル・ジョンソン「地獄への道は善意という名の絨毯で敷き詰められている」
   ・   ・   ・   
 中国共産党ファシスト中国(中国国民党)も、反日派敵日派であった。
 ソ連コミンテルンは、中国共産党ファシスト中国(中国国民党)を後ろで操っていた。  
   ・   ・   ・   
 中国は、恩を礼ではなく仇で返す。
   ・   ・   ・   
 人の好い日本人は、中国人に産業を教えた。
 イロハのイの字から、手取り足取り、金まで貸して親切丁寧に教えた。
 中国が産業力を付けて競争相手になる事を承知で、包み隠さず教えた。
 日本人は、中国人が金を稼いで豊かにり幸せになる事を信じて教えた。
 相手の為になる事を、教える事が人の道と信じていた。
 そして、全てが裏切られた。
 日本人がお人好しであるが故に、自ら日本の悲劇を引き寄せた。
   ・   ・   ・   
 日本の中国に対する配慮も思いやりも、全てが無駄に終わった。
 日本人が如何に友人になろうとして中国人に接しても、中国人は日本人との友情を嫌った。
 中国人は、幾ら日本人と接しても日本人を理解しようとは思わなかった。
 全てが無駄であった。
   ・   ・   ・   
 日本陸軍の中に「支那通」と呼ばれる将校団がいたが、現代の親日派政治家や外務省のチャイナスクールと呼ばれるエリート官僚とは異なる。
 支那通の将校達は、諜報・情報のエキスパートとして、対ソ戦略から国民政権や各軍閥に深く食い込み、内戦を回避させたり、武力衝突を早期に解決つしたり、中国の安定の為に暗躍していた。
 ハーバート・マイヤー「本当の情報の価値は単に銃弾、爆弾、ハイジャックから身をかわすよう最後の警告を発する事ではなく、何かが起こる前に将来を変える事が出来るよう十分に明確かつ早期に先を見る事で有り、その為には秘密情報以上に洞察力を必要とする」
 「官僚体質組織では、まともな情報機関は機能しない。迅速に物事を理解し、短時間に解決策を創案するしたたかな知恵を持ち、物事を恐れず、日々『不可能』を『可能』にする自信を持つ男性や女性が一体となった情報機関を必要とする」
 「政策決定者に好まれる情報機関高官には価値がない」
 「政策決定者と対峙し、点の情報をつなげバランスのとれた洞察力と想像力で情報の全体像を分からせるのが情報機関高官の職務であり、大方の政策決定者にとって楽しい話ではなく避けたい存在でもあるからだ」
   ・   ・   ・   
 1910年から20年代 日本の輸出産業は、絹糸によるアメリカへの製糸業と、綿糸による中国やインドなどのアジア向けの紡績業であつた。
 絹糸は国内生産で100%自給していたが、綿糸はアメリカやインドからの輸入に頼っていた。
 巨大市場である中国には、古くからイギリスなどの西欧企業が進出していて、好景気に沸く日本も新たな販売先を求めて中国大陸に進出し始めた。
 三井物産などの商社系である上海紡績や内外綿は、高品質を売りとした高級品を販売していた。
 中小紡績会社のよる寄り合い組織である日華紡績織は、低価格で庶民向けの商品を売っていた。
 第一次世界大戦終結で戦争好景気が終わり、国内不況が起きるや、輸出産業は大打撃を受けた。
 発展途上にある中国市場は、世界的の戦後不況の被害を受ける事なく低迷しながらも安定していた。
 綿糸の輸入・綿製品の輸出で成り立っていた紡績業は大打撃を受け、安定した中国市場への販路拡大とコストダウンの為に安価な労働力を求めて中国へ工場を移転させた。
 武藤山治(鐘紡)「そんなに中国に出て行っては日本国内の労働力が縮小する」
 紡績不況に苦しむ東洋紡・鐘紡・大日本紡績の大手三社は、中国進出を本格化する為に協力して現地法人を創設した。
 上海市政府は、日本紡績業が本腰を入れて進出してくる事を歓迎し、より多くの中国人を雇用する事を望んだ。
 中国人資産家は、紡績業は儲かると見るや民族紡に大金を投じ、市場での優位を確保する為に政治家や軍人に賄賂り、外資系工場の操業を妨害する為に犯罪的秘密結社に暴動を起こす様に大金を渡した。
 イギリスが、大戦不況と日本製綿製品の販売競争に敗れて、中国市場での占有率を低下させて存在感を失った。
 中国市場は、日本の在華紡と中国資本の民族紡の一騎打ちとなっていた。
 中国の民族紡は、資金と労働力があっても、技術力も経営や販売の知識もなかった。
 宗教的人種差別のあるイギリス企業は、中国人に技術を教えると盗まれ、不法コピー製品が作られるとして警戒して、民族紡に技術を教えなかった。
 日本人は、中国を豊かにし中国人の生活を安定させれば世界常識を身に付け、道徳心や良心に目覚め、法律や規律を守り、国際ルールに則った大人の行動を取る事を期待して、優秀な人材を派遣し、技術以外にも科学や理論など多方面の近代的知識を教え、世界で通用する経営や販売を指導した。
 中国産業は、日本の全面支持によって発展した。
 だが。中国企業の多くは、労働蔑視の儒教的価値観に基づく放漫経営と労働者酷使で経営不振にあり、その原因を支援している日本人に転嫁し、貧困に苦しむ労働者の不満を反日へと誘導していた。
   ・   ・   ・   
 1911年 辛亥革命孫文は、中華民国に資金がなかった為に、三井物産接触して、日本に満州の租借を認める代償として1,000万円の借款供与を申し込んだ。
 欧米諸国が清国を支援していた為に、孫文が頼るのは日本しかなかった。
   ・   ・   ・   
 1916年 満州族は、再び独立運動を起こした。
 日本陸軍は、袁世凱に圧力を掛けるために独立運動に賛同したが、満州満州族に渡す事には不賛成で、独立運動に敵対していた山東省出身の漢族・張作霖を支援した。
   ・   ・   ・   
 1920年代後半 国内上位8社は、在華紡を結成した。
   ・   ・   ・   
 1921年 コミンテルンは、中国支部として中国共産党を組織した。
 陳独秀共産主義者は、反帝国主義を掲げて、イギリス、日本への抵抗運動を行うべく都市労働者の組織化を進めた。
   ・   ・   ・   
 1922年 世界市場の綿価格は暴騰した。
 民族紡は、無計画な生産量増加で採算割れを起こした為に、日本とイギリスに対して二割操短を要求した。
 イギリス企業は、中国市場は国際市場の一つであり、生産拠点もインドなど複数持っていた為に、中国が求める生産調整を受け入れても影響は少なかった。
 安価な労働力を求めて生産拠点を中国に移していた日本企業にとって、高品質製品として販売を伸ばし利益を上げている現状で、操業短縮などは受け入れられぬとして拒否した。
 市場原理からすれば、コピー製品や粗悪品を大量生産し、経営改革など企業努力をしない民族紡が淘汰される事は、ごく当たり前の事であった。
 だが。中国人は、自分の明らかな非を認める事なく、日本人に面子を潰されたとして激怒した。
 反日運動はこの逆恨みから起き、流血事件を伴う反日暴動に発展し、抗日戦争へと暴走していった。
 中国人の「面子」とは、相手の権利も利益も人間性さえ完全無視する、自己中心的な自己満足の陰険な傲慢であった。
   ・   ・   ・  
 1924年 中国共産党は、日系企業を主敵とする闘争方針を立て、労働者の間で反日組織を造る為に、共産党員や左翼系学生を送り込んだ。
 在華紡の労働組合である工会は、中国共産党の指導下に入って激しい反日労働運動を開始した。
 在華紡など日系企業は、労働運動が中国共産党に操られている事をうすうすと感じながら、工会の要求は「常軌を逸した過分なものである」として断固拒否した。
 中国全国総工会は、コミンテルンに参加する事を決議し、コミンテルンの指導の下で反日大衆運動を行う闘争方針を決定した。
   ・   ・   ・   
 1925年2月9日 内外紡の2月スト。
 5月30日 5・30事件。イギリスは、日本政府に対して、中国人労働者による大規模デモを鎮圧する為の日本軍出兵を要請した。
 幣原喜重郎外相は、国際協調と中国内政不干渉政策から、イギリスや日本人居留民の保護目的出兵要請も拒否した。
   ・   ・   ・   
 1926年(大正15年・昭和元年)
 6月〜7月 内外紡の第三・第四工場スト。
 7月〜9月 日華紡績闘争。
 8月〜9月 小紗渡地区連合スト。
 10月 第一次蜂起。
 12月 イギリスは、中英提携の覚書を発表した。 軍国日本は、イギリスの行為は「ワシントン条約の精神を無視した」行為であると、激しく抗議した。
 日本は、中国及び満州の平和と安定を維持する為に、国際協調関係を国是としてワシントン条約体制を忠実に守っていた。
 欧米列強は、日本を孤立させるように裏取引として中国に接近していた。
   ・   ・   ・   
 1927年 中国共産党は、犯罪的秘密結社の協力を得て、貧困労働者や左派系学生と浮浪者を使って市街戦の末に上海市政府庁舎を占領して共産ソビエト政権を樹立した。
 アメリカとイギリスは、軍艦を派遣して、自国民保護と自国資本を侵害すれば武力行使を行うと威嚇した。
 日本政府は、内政不干渉の原則に従い、日本人居留民が被害を受けようとも武力行使を忌避し、中国の自主性に配慮して軍事威嚇行動に参加しなかった。
 日本国民は、弱腰の日本政府を激しく非難し、軍部が自国民保護に乗り出す事を期待した。
 軍部への期待によって、軍国主義思想が日本中に蔓延した。
 一国平和主義が、日本を破滅へと追い込んでいった。
 中国共産党は、第一回南京事件での被害を教訓としてアメリカとイギリスには手を出さず、南京や漢口で自国民が殺害されても報復しなかった軍国日本は組みやすいと見なした。
   ・   ・   ・   
 2月 第一回南京虐殺事件。
 第二次蜂起。中国共産党は、在華紡に対して、上海で35万人の労働者や市民を大動員した大規模なストライキを決行した。
 一部は暴徒化して、日系工場での破壊、機材略奪、放火、日本人商店での強奪、放火、日本人居留民に対する暴行が発生した。
 在華紡は、本国政府に支援を要請したが、日本政府は中国政府への配慮から支援を拒否した。
 日本政府は、国家として、在外邦人の生命財産と権利の保護を放棄した。
 幣原喜重郎外相は、内外不干渉方針に従って、在華紡に対して中国人労働者の要求をできる限り受け入れ、上海総領事館には襲撃を受けた日本人居留民の一時的退避を訓令し、軍部に対しては武力救済しない事を強く求めた。
 反日派中国人による、日本人居留民への暴行、日本人商店からの強奪、日本人学童への嫌がらせなど、差別的犯罪事件が急増した。
 中国人警官は、犯罪行為を取り締まらず、見て見ぬふりをするか、中国人犯罪者を庇っていた。
 この事流れ主義的対応や日本人的な配慮や善意が、日本を悲劇へと追いやった。
 4月12日 ファシスト中国の誕生。
 上海クーデター蒋介石は、アメリカとイギリスの支持を取り付け、犯罪的秘密結社の協力を得て、中国共産党系上海臨時ソビエト政権を打倒し、共産党員や左派系学生の大量虐殺を行った。
 アメリカとイギリスは、参加もせず、支持表明もせず、戦闘は嫌いと善人ぶって沈黙して態度を明らかにしなかった日本への不信を強めた。
 戦乱が続く激動の時代。敵でもなく、味方でもなく、泥をかぶらず、血も流さず、安全な所に逃げて傍観し、戦闘が終わり治安が回復し法秩序が戻った後に何事もなかった様に現れて金儲けする人間は最も嫌われた。
 イギリスは、自国民の生命財産と諸外国の共通の利益を守る為に、武力を用いて共に行動しなかった日本を見限った。
 国家の威信の為に、集団的自衛権を発動し、戦争も辞さずとして毅然と行動しない者は国際社会では爪弾きにされた。
   ・   ・   ・   
 中国共産党は、政治的な意図の元で在華紡ストライキ反日暴動に発展させていた。
 日本政府は、政治と経済を切り離し、在華紡ストライキを外交で処理せず、民間企業と中国労働者の労働争議として政治問題としなかった。
   ・   ・   ・   
 日本が、無警戒で中国に深入りして得した事はなく、中国人を信用して大金を投資投じて利益を得た事は、過去には無い。
   ・   ・   ・   
 上海租界工部局(市議会相当)は、中国の内戦激化で無政府状態となり各国の居留民が危険にさらされているとして、各国に治安維持の為の派兵を要請した。
 軍国日本を含めた諸外国は、集団的自衛権を発動し、平和維持の為に軍隊を上海に送り込んだ。
 イギリス軍‥9,000人。アメリカ軍‥1,500人。日本軍‥1,500人。フランス軍‥400人。イタリア軍‥50人。
 海軍艦船合計31隻。イギリス海軍‥11隻。日本海軍‥11隻。アメリカ海軍‥5隻。その他。
 日本軍部は、上海日本租界防衛は海軍が担当する事になっていた。
 日本海軍は、諸外国に領土的野心がない事を示す為に、軽装備の陸戦隊を日本租界に上陸させた。
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 6月 革命外交。蒋介石は、不平等条約の即時破棄と国際合意・ワシントン条約の無効を宣言した。
 軍国日本に対しては、日清戦争以降の1896年と1904年の条約の無効と国際法による交渉で獲得した諸権利は否認し、投資と犠牲で築いた全ての中国権益を没収すると通告した。
 中国の政治的安定や経済再建を目的として締結されたワシントン条約を廃棄した。
蒋介石は、第二次北伐を終えて中国統一が実現した。
 国民政府外交部長・王正廷は、「革命外交」という概念を打ち出し、国際法に基づく正式な手続きを無視して一方的に不平等条約無効を宣言した。
 コミンテルンは、国民党と日本軍を戦わせる為に、中国本土及び満州に於ける日本の権益を全面否定する法令を次々と制定した。
 中国共産党は、各地で抗日運動を暴動に煽り立て、日本人居留民を襲って重軽傷を負わせ、日本人商店を襲撃して略奪と放火を行った。
 幣原喜重郎外相は、国際協調外交を標榜し、中国との戦争を避けるべく、軍部を宥め、日本人居留民に泣き寝入りさせ、中国側に配慮し譲歩して妥協を重ねていた。
 その結果、逆に中国人による抗日暴動は激しさを増し、日本人居留民の被害も増えた。
 石橋湛山「我々にもかつては欧米列強の横暴に対して激昂した尊皇攘夷の時代があった。いまの支那はそれと同じなのだから、もう少し静観すべきだ」
 日本国民感情として、中国人暴徒による日本人居留民への相次ぐ暴行、強奪、強姦、殺人、それら犯罪行為を防止し日本人居留民を保護しない中国を、寛大な気持ちで許す事などできなかった。
 国民世論は、民族主義に燃え、中国の残忍な無法者集団への懲罰的制裁、犠牲となった同胞の復讐を、政府に求め、政府がやらなければ軍部に実行を求めた。
た。
 代理駐華公使の重光葵A級戦犯)は、中国が強行している利権回復と激化する排日運動は民族解放主義思想に基づく要求で阻止する事は不可能である以上、両国の紛争を防ぐ為に日本が率先して不平等条約の根本改定に動き、蘇州や杭州の日本人居留地を返還すべきだと提案した。
 幣原喜重郎外相は、軍部の反対と国民の感情から日本権益の一部を無償で返還する事は不可能であるとして、重光の提案を拒否した。
 重光は、両国の破滅的な戦争を回避する為に、軍部に対し軍事的衝突をしないように慎重な行動を取るように求め、国民が抱く対中悪感情を善隣友好に戻す啓蒙活動を促し。
 国際連盟や国際世論に対して、日本軍が行った一連の軍事行動が中国の内戦による混乱から日本人居留民保護の自衛行為であった事を知ら、理解を求めようとした。
 ワイントン条約を守って中国の平和と安定を希望しているのは日本であって、内戦と混乱で条約を破る違法行為を行っているのは中国である、と。
 蒋介石は、期限を迎えた日本との通商条約の改定を拒否して日本の中国及び満州の権利失効を主張し、日本側の関東州租借地返還を要求した。
 日本政府は、中国政府と不平等条約破棄や在満権益について協議を行った。
 満州反日勢力は、日中交渉を有利に運ぶ為に日本人居留民への暴力事件を各地で起こしていた。
 関東軍石原莞爾ら強硬派は、東京の陸軍中央に対して、中村震太郎大尉惨殺事件に対する制裁行動を意見具申した。
 陸軍中央は、政府の外交解決を支持して軍事行動には不賛成であるとして却下した。
   ・   ・   ・   
 日本政府、明治政府、軍国日本は、中国で、悪い事もしたが、それ以上に良い事を沢山してきた。
 恩を受けたはずの中国は、日本が行った良い事は一切認めない。
 中国が主張する歴史認識問題とは、良い行いは全て無かった事として抹消し、悪い行いは捏造・歪曲し増幅させて叫き散らす事である。
 中国とは、忘恩の国であり、信用も信頼も存在しない不義理な国である。
 国際社会は、親中国であり、反日本である。
 日本が、如何に、歴史的事実を明らかにするべく、数多くの証拠を出し、根気よく説明しても、国際世論では聞き入れてはもらえない。
 世界で、日本が訴える「身の潔白」を信用してくれる国も個人も皆無である。
 中国の話を聞く者は多いが、日本の話を聞く者はいない。
 日本は、世界で嫌われる爪弾き者である。
 世界で日本が愛され信用されていると言う事は、幻想である。
 ごく少数の親日派の話を掻き集めているに過ぎない。
 世界の多数は親中国派であって、親日派ではない。
 親日派は、少数派に過ぎない。
 日本は、何時の時代でも孤独である。
   ・   ・   ・   
 始末に負えない事に。自称国際派日本人は、歴史的事実を全て知りながら、国際世論に無条件で迎合し、日本批判を声高に主張している。
 日本国内には、こうした日本批判を行う熱心な反日的日本人が数多く存在している。
   ・   ・   ・
 中国人は、相手の下心を深読みして、決して本心から感謝しない。
 白人の慈善行為は、身勝手な自己満足にすぎないと軽蔑していた。世界の支配者を自認する恵まれた白人が、道楽的に被災民に義援金や食糧などの救援物資を恵んで、勝手に溜飲を下げているだけであると。ゆえに、表面的に感謝し、彼等の下心を燻る様な心にないおべっかを並べ立て、取れるだけの物を奪い取ればよいと。
 キリスト教会の救済行為は、信仰を広げようとする賤しい布教行為と嘲笑っていた。ゆえに、神の愛に目覚めた振りをし、関係のない原罪を悔い改めた振りをし、改宗する振りをして、得られるだけの支援物資をかすめ取った。
 では、日本の支援行為は、………
 東アジア人の極一部は、恩義に心から素直に感謝し、恩義を返そうとする。
 だが、大半の者はその逆である。
 恩義を受けて口で綺麗事をいって感謝するが、心の中では「お人好し」を嘲笑い、受けた恩義を返そうという気はない。
 春秋戦国時代。越王句践は、隣国の呉を滅ぼす為に、軍師范蠡の献策を採用して凶作と偽って食糧支援を求めた。呉王夫差は、大国の君主として人徳を見せるべく、越の国民を救済する為に無償で食糧を送った。呉の重臣である伍子胥は、越は呉を滅ぼそうとする油断できない敵であると諌言した為に、主君の不興を買って自決を命じられた。夫差は、国の将来を憂えた伍子胥の屍体を長江に捨てる様に命じた。越は、呉王の恩に感謝して収穫した稲を献上した。呉は、その米を蒔いたが実る事がなく凶作に見舞われた。原因は、越が稲を煮て返したからであった。そして、大国呉は小国越によって滅ぼされた。分別・道理が理解できない君主を持った国は、大国といえどもいとも簡単に滅びた。
 「呉越同舟」という逸話の真意は、仇敵同士でも話し合えば和解できるという美談ではなく、馬鹿正直に相手を信ずると身の破滅につながるという戒めである。
 日本人の能力では、中国の逸話の真実が理解できない。その無能さは、漢籍の読解力のない現代日本で最悪なほどに目立ち、その理解力のなさはさらに悪化し、大人としての分別や道理のなさもさらに進んで幼稚化している。 
   ・   ・   ・   
 徳富蘇峰「武力と言うものは、即ち日本国民が、総て国家の干城(かんじょう)に成ると言う精神、これが即ち私の言う武力であります。これ武力は、我々の様な老人でも、ご婦人方は元より、どなた方でもお持ちになるものであります。これ武力なるものは、決して兵隊の力のみではないのであります。即ち国民がその国家を衛る所の精神であります」
 荘子「物を盗めば誅(ちゅう)せられ、国を盗めば王様となる」
 徳富蘇峰「利害の打算あり、何事も勘定づくにて損の行く事はせぬと云う心掛けよりして武士の意地を貫徹すると云うが如き、野暮の沙汰を止め、優勢に対しては、当初より叩頭し、多力に向ては、最前より争わず。不可抗力の前には、一切服従すると云う信条」
 「支那に於ける諸般の問題は、只た利の一字を以て解釈するを得可し。人間万事利の為めに動き、利に依りて動き、利に向けて動く。若し支那人をして、一生懸命ならしむるものあらば、それは君父の讎(あだ)にもあらず、国家の為にもあらず、宗教の為にもあらず。唯た自個の利の為也。利の為ならば、臆病なら彼等も、勇気と相成候。利の為ならば、怠惰なる彼等も勉強家と相成候。利の為ならば、生命をも捨て候。彼の旅順の保塁に、深夜忍び入りて、其の地上若しくは地中に委棄(いき)したる未爆裂の弾丸を拾い、此れをコツコツ叩きて、其為め一命を失うか如きは、彼等か決して悔ひさる所に候」
 日本人は、利よりも人命を大事にし、国の為、父母の為、名誉の為に死を恐れない。
 中国人は、利を人命より大事にしないが、自分の命を守る為なら他人の命や家族の命さえ軽視する。利の為ならば、信義を捨て、恥も外聞もなく、嘘をつき、人を平気で騙す。
 利の為に自分を捨てさり開き直っているが故に、泰然として呑気で陽気であるが、一度激高すると説得ができほどの剣幕で大声を出して暴れる。
 中国人は、口先では道徳を語るが、道徳的行動はしない。
 中国をよく知る日本人は、中国人の本質を見抜き、「利」で中国人と付き合っても一歩下がって「人」として親しくはならなかった。
 徳富蘇峰支那人と日本人とは、決して同じものではない。根本的に違うというこの見地からして、総ての外交政策なり、或は総ての事を創出させなければならないと思う」
 中華皇帝は、征服者として敵対者や反逆者を大虐殺し、全てを焼き払った後に帝国を築いて君臨した。
 中華に於ける「徳」とは、他を圧倒する「武力」であった。
 「仁」や「義」や「礼」は、言葉の綾としての方便に過ぎない。

 

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顔のない城 (下) 上海物語―1930年上海

顔のない城 (下) 上海物語―1930年上海

♛:43─3─日本海軍のBC級戦争犯罪。ビハール号事件(ビーハー号事件、利根事件)。1944年3月〜No.262      

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   ・   ・  【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】 ・

 敵軍兵士捕虜に対する虐待、拷問、処刑は、日本軍だけではなくアメリカ軍やイギリス軍などの連合軍でも行われていた。

 最も凄惨な犯罪行為を行ったのは、中国共産党軍やソ連軍などの共産主義諸国の軍隊であった。

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 ヒトラーナチス・ドイツが行ったホロコーストは、戦時での犯罪ではなく、平時での人類に対する非人道的犯罪である。

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 ウィキペディア
 ビハール号事件とは、1944年3月18日に、スマトラ島東方の海上で、公海上を航行中であったイギリス商船ビハール号の乗客および船員約60人を帝国海軍が殺害した事件である。ビーハー号事件、利根事件とも呼ばれる。1947年にBC級戦犯裁判(イギリス軍香港裁判)で裁かれた。

 背景
 1944年2月上旬、海軍南西方面艦隊司令部(司令長官・高須四郎中将)は、インド洋上における敵の交通破壊、敵商船の捕獲を目的とする「インド洋作戦」("サ"号作戦)を計画し、第16戦隊(司令官・左近允尚正少将)に実行を命令していた[1][注釈 2][注釈 3]。第7戦隊所属の重巡洋艦「利根」(艦長・黛治夫大佐)は、「インド洋作戦」実行のため、僚船「筑摩」とともに臨時に第16戦隊に配属された。

 詳細は「サ号作戦」を参照
 事件
 1944年3月1日、「利根」は、第16戦隊の旗艦「青葉」や「筑摩」とともにジャワ島のバタビア港を出発[1]。同月9日午前11時頃、インド洋のココス島南西海域で英国商船ビハール号(Behar)を発見した。利根はビハール号を拿捕しようとしたが、ビハール号が指示に応じなかったため、撃沈し、生存者の乗客・乗員80人(約100人、約115人とも)を収容した。
 「利根」の報告を受けた第16戦隊の左近允司令官は、「(情報聴取のため)2,3名の捕虜を残し、残りは所定のとおりに速やかに処分せよ」との信号命令を発したとされる。しかし「利根」の黛艦長は、尋問中であることを理由に捕虜を収容したまま6日後の同月15日にバタビアに帰港し、捕虜のうち女性およびインド人を含む15人(ないし約40人、35人)を上陸させた。
 同月18日、バタビアで「利根」は、第16戦隊指揮下を脱して第7戦隊に復帰するよう命じられ、シンガポールに向かうため、残る捕虜65名(約60人、80人とも)を艦内に抑留し続けたまま、出航した。バンカ海峡(英語版)スマトラ島寄りのリンガ湾上まで来たところの海上で、黛艦長は、捕虜全員の殺害を命じ、深夜に捕虜を1人ずつ船艙から甲板上へ連れ出して殺害し、死体を海中に投棄した。

 裁判
 1947年に、イギリス軍香港裁判で第16戦隊の左近允司令官と、「利根」の黛艦長が事件の被告人として起訴された。
捕虜を処分するよう指示したのは左近允司令官だったが、捕虜の殺害が実行されたのは「利根」が第16戦隊の指揮下を離れた後だったため、法廷で、左近允司令官は、「自分が命令したのは作戦中のことであり、作戦後のことは命令していない」と主張し、黛艦長は、「左近允司令官の命令で殺害した」と主張した。被告の陳述や証人の証言もそれぞれ食い違ったが、証人は総じて「司令官は部下の十字架を負うべき」という態度だったとされる。
 1947年10月29日に判決が下され、左近允司令官は絞首刑、黛艦長は禁錮7年を宣告された。
 1948年1月21日に香港のスタンレー刑務所で左近允司令官の死刑が執行された。
裁判記録では、黛艦長が比較的軽い刑となった理由の一つとして、黛艦長が殺害の命令を改めるよう意見具申し、却下されていたことが挙げられている。
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 左近允 尚正(1890年(明治23年)6月6日 - 1948年(昭和23年)1月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。鹿児島県出身。
 プロフィール
 海兵40期卒業。専攻は水雷タイ王国大使館付武官の時に太平洋戦争開戦を迎える。1943年(昭和18年)9月、第二南遣艦隊の隷下の第16戦隊司令官に就任し南方戦線に従軍。渾作戦、レイテ島輸送作戦(多号作戦)などを指揮した。
 1944年(昭和19年)10月、海軍中将に進級する。12月、支那方面艦隊参謀長に就任し終戦を迎えた。しかし、ビハール号事件の戦犯として逮捕され、イギリス軍により植民地の香港のスタンレー監獄で絞首刑に処された。
 ビハール号事件
 事件は1944年(昭和19年)3月、臨時に第16戦隊の指揮下に入っていた重巡洋艦利根(艦長・黛治夫大佐)が、インド洋でイギリスの商船「ビハール号」を撃沈した際に捕虜80名を得たが、上級司令部の「作戦中の俘虜は処分すべし」という命令によって65名を殺害した事件。
 俘虜処分命令は口頭でおこなわれたため記録がなく出所不明。最高責任者である南西方面艦隊司令長官の・高須四郎大将が既に病没していたので、次位の左近允がスケープゴートにされたとの説もある[要出典]。左近允の人柄は、同期の寺岡謹平によれば「豪壮、恬淡、真に薩摩隼人の典型」であったという。辞世の句は「絞首台何のその 敵を見て立つ艦橋ぞ」であった。
 家族
左近允の二人の息子も兵学校を出て太平洋戦争に従軍し、長男の正章(68期)は昭和19年10月、駆逐艦島風で戦死。
   ・   ・   ・   

 

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₩72」─3─清華学堂(後の国立清華大学)は、アメリカが設立し、後年、排日・反日・抗日の中核となる。1911年。〜No.326 *  

北京大学と清華大学―歴史、現況、学生生活、優れた点と課題

北京大学と清華大学―歴史、現況、学生生活、優れた点と課題


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 中国人で、親日派知日派は少数で、親米派・親ソ連(ロシア)派など親西洋派は多数いた。
 ユダヤ系国際資本グループは、反日派として日本民族資本を中国市場から追放しようとしていた。
 故に、日本は中国では欧米ソなどの白人勢力に惨敗した。
   ・   ・   ・   
 1911年 アメリカのジョン・ヘイ国務長官は、中国人の中に親米派を拡大するべく中国国内にアメリカ留学予備校を創設する計画を建てた。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、義和団の乱で得た賠償金から資金を拠出して清華学堂を設立した。
 清華学堂を、1912年に清華学校に改名し、1925年に大学部、同年研究院(国学門)を設立し、1928年に国立清華大学に改名した。
 アメリカに留学した中国人は、親米派となりキリスト教に改宗し、アメリカの指示に従って反日運動・日貨排斥をおこない日本を破滅に追い込んでいった。

 アメリカは、日本に対する経済制裁を始め徐々に強めていった。

    ・   ・   ・  
 日本に留学していた中国人の多くは、親日派知日派ではなく、反日派敵日派となり抗日戦に参加した。
 日本の中国に対する善意・配慮は、全て徒労に終わった。
 無駄な事は無駄であった。

   ・   ・   ・   

 日本には味方はいなかった。

   ・   ・   ・   

強い中国は「清華」が作る―13億人を支配する「清華大学」エリートの全貌

強い中国は「清華」が作る―13億人を支配する「清華大学」エリートの全貌


中国が変える世界秩序

中国が変える世界秩序

₩72」─2─華北大旱魃を救った軍国日本。義和団事件。中国は西原借款の善意を踏み倒した。〜No.325  *     

餓鬼(ハングリー・ゴースト)―秘密にされた毛沢東中国の飢饉

餓鬼(ハングリー・ゴースト)―秘密にされた毛沢東中国の飢饉


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 中華世界は、古代から、嘘、不正、裏切りの犯罪地帯であった。
 弱肉強食が絶対正義であった。
   ・   ・   ・   
 中国は、日本の人道貢献や善意・誠意を全て踏みにじった。
   ・   ・   ・   
 日本人は、嘘をつかれても、騙されても、裏切られても、中国人を信じた、中国人を信じたいと願い続けた。
 が、中国人を信じ切る事は叶わなかった。
 しょせん、中国人は信じるに値しなかった。
 中国人は、日本人の人道貢献を侮辱し、日本人の誠意を踏みにじった。
   ・   ・   ・   
 中国とは、忘恩の国であり、人でなしの国であり、信用できない国である。
 中国を信じた軍国主義日本人は、最も愚かな人間である。
   ・   ・   ・   
 中国を信用する者は、馬鹿である。
 日本の善意や配慮は、中国では一切通用しない所か裏切られ踏みにじられるだけであった。
   ・   ・   ・   
 中国は、自分が利益を上げる為に日本から得られるモノがあるうちは和やかに友人として近づき、色んな事を学ぶ為に優等生のふりをして安心させる。
 日本から奪えるモノがなくなり、日本人の利用価値がなくなり、そして全ての面で日本を超えたと確信した時、豹変し凶暴な暴徒として襲いかかってくる。
 日本人は、真の中国人を知ろうとはしなかった。
 自分と同じ、一般常識を持った人間であると信じたかったし、誰が何と言おうとも信じ切っていた。
 日本の愚かさは、生来、中国人を理解できない事にあった。
 それが、日本の悲劇の原因であった。
 日本人は、中国人に騙される。
   ・   ・   ・   
 儒教が支配する中華世事においては、史実に基づいた正しい歴史などは存在せず、自分に都合の良い歴史認識のみが存在する。
 歴史とは、政治・外交・軍事に恣意的に利用する教養としての道具にすぎない。
 つまり、中華世界の史書は出来事を元にした想像の作り話であり、記念碑の碑文もまた本当の事は書かれていない。
 劉知幾「史書に載せて出鱈目な話を作り上げる」
 都合の悪い事を隠す為に、ありもしない美談を歴史として書き残す。
 自国を偉大に見せる為に、他国の美点を歪曲し捏造して悪し様に貶す。
 儒教は親孝行として、子供の正直とは親の悪事を隠す事であり、親を庇う事で人徳が宿ると教えている。
 歴史と歴史認識は、日本では一体であるが、中国や韓国・北朝鮮では別物である。
 中国や韓国・北朝鮮では、歴史より歴任認識の方を優先する。
 日本は現実に起きた史実としての歴史を重視するが、中国及び韓国・北朝鮮は事実ではなく解釈としての歴史認識を重視する。
 日本は自分の不利な出来事を素直に認めるが、中国及び韓国・北朝鮮は自分の不利な事は何があっても決して認めない。
 ゆえに。日本と中国及び韓国・北朝鮮が、歴史と歴史認識を話し合っても相互理解はできず、分かり合う事なく永遠に平行線を辿る。
   ・   ・   ・   
 1876(明治9)〜78年 華北の大旱魃。犠牲者は、900万人〜1,300万人。
 被災者は、自分一人が生き残る為に、食糧を持っている相手を襲って奪った。それが、知人であっても、家族であっても、容赦しなかった。被害は、地方の貧困階級に特に多かった。
 宣教師は、生き地獄と化した被災地の惨状を世界に伝えた。
 隣国の日本は、被災者救済の為に、国内で多額の義捐金と食糧などの支援物資を中国に送った。
 明治政府は、西南戦争などの士族の反乱を鎮圧する為に苦しい財政から軍資金を支出して他国の救済どころではなかったが、国際信義と人の善意から義援金を捻出して送金した。
 世界から近代国家として認知して貰い、不平等条約を改正する為に、自国民に犠牲を強いても、国際法や国際ルールなどを徹底して遵守していた。
 日本人は、「体面」を保つ為に、他人の目や他人の評価を病的に気にする。
 国家の体面・名誉の為ならば、公権力を行使して自国民を犠牲にする。
 国家は、国民を犠牲にする。
 それが、日本の姿である。
 日本政府は、森有礼を天津領事館に派遣して救済業務所を設置し、天津周辺に避難してきた7万人以上の被災者の救護にあたった。
 当時の権力者は、下級武士出身の大久保利通内務卿であった。官僚主体の専制政治を行ったとして、国民の間では人気が無かった。
 一部の右翼的新聞社は、貴重な財源を、他国の救済に使わず税を納めている自国の貧民救済に使うべきであると猛反対した。
 大久保利通内務卿は、明治天皇の大御心・御稜威は中国人被災民の救済にあるとして、強権を発動して反政府系新聞を弾圧した。
 国内では、政府への不満が渦巻、新たな騒動が起きようとしていた。
 1878年 大久保利通は、反政府派によって暗殺された。
 竹橋事件における近衛兵の反乱
   ・   ・   ・   
 日清戦争は、日本と清国の戦争ではなく、日本軍と李鴻章軍との戦争であった。
 それ故に、清国軍も他の漢人高官私兵も戦闘には参加しなかった。
 中国近代化は日清戦争の敗北から始まり、清国は近代化の為に日本に支援を要請した。
   ・   ・   ・   
 中国から感謝されたという話は、聞いた事がない。
 中国とは、しょせんその程度の国である。
   ・   ・   ・   
 1900年 義和団事件。ベルツ日記「ドイツ皇帝は、清国派遣軍の出発に際して一場の演説をされたが、その演説がまた、あらゆるドイツ人を赤面させずにおかないものなのである。皇帝はこういわれたそうだ『捕虜は無用だ、助命は不要だ!』と。……相手の清国の罪のない人たちを──たとえ武器をすてた場合でも、かまわないから──殺してしまえと命令しているのだ!こんな文明にへどが出る!」
 西洋からすれば、中国人などのアジア人は人間以下の家畜とされ殺しても罪には問われる事はなかった。
 英タイムズ紙「籠城の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせた」
 義和団と清国兵は、北京の外国人居住区を襲撃して、外国人を虐殺し暴行し強姦した。
 日本、イギリスなど8ヶ国の公使館は、救援部隊が到着するまで女子供の居留民を守る為に立て籠もった。
 総勢約400人は、清国軍や義和団の猛攻に耐え抜いた。
 その中でも日本人の奮闘振りは、目を見張った。
 8ヶ国連合軍は、北京に突入して籠城戦を耐え抜いた外国人団を救出した。
 ロシア軍やドイツ軍は、勝利者として、獣模様になって占領地で略奪や強姦を働いた。
 日本軍は、軍律を厳しくして略奪や強姦を厳しく戒め、逃げてきた中国人達を保護し、故宮の財宝を略奪から守り清朝に返還した。
 日本軍兵士は、西洋兵士達以上の紳士として、潔癖を旨とするサムライとして行動していた。
 日本軍に助けられた中国人達は、日本軍に感謝した。 
   ・   ・   ・   
 日露戦争後。
 日本に留学してくる中国人は急増し、1905年には8,000人を越え、翌06年は1万人から3万人に達した。
 日本は、清国留学生を受け入れ、国家の近代化の為に必要な行財政・司法・軍事・医学・科学・教育など多方面を教えた。
 日本陸軍は、西洋列強の侵略から中国を自力で守るべく、清国軍を近代化して強化する為に軍事顧問を派遣した。
 北京大学創設するにあたって、有能な教師や技術者を送り出し、一時は1,000人を超した。
 日本人は、中国への親近感や中国人への同情心から官民挙げて支援し、協力し、指導した。
 中国人留学生達は、日本語を習得して、和製漢語で近代を学び、古典的儒教漢文を捨て近代的日本文式漢文を取り入れた。
 中国が編み出した借用語では、近代を学ぶには不十分であった。
 それが、現代中国語の基になった、日本に留学した魯迅らが始めた白話(口語)である。
 西洋列強に解体され植民地化されかけた中国は、日本から和製漢語と白話という日本言語文化のエートスを滅亡ぎりぎりの瀬戸際で学んで生き残り、近代国家として再建できた。
 黄文雄「それはつまり異文化摂取の姿勢における、融通無碍な日本人と自国文化に固執する中国人のさである。『新造語』とは日本人が西洋文化を自分の血と肉にしようとする意欲の表れである。『借用語』とは『中体西用』という、極めて傲慢にして安易な中国人の姿勢の表れかもしれない。
 その差がそのまま、日中両国の近代化の差になって現れたと言っていいだろう」(『近代中国は日本がつくった』)
 宮脇淳子藤原正彦先生にという『祖国とは国語』(新潮文庫)エッセイ集があります。『祖国とは国語』はもともとフランスのシオランという人の言葉で、祖国の最終的なアイデンティティは『血』でも『国土』でもなく、民族の言語なのだそうです。二千年間も流浪の民だったユダヤ人が20世紀になって再び建国できたのは、ユダヤ教徒ととにヘブライ語イディッシュ語を失わなかったからだ、と藤原先生はおっしゃっています。とすれば、漢字以外に共通の言語のなかった中国人が同一民族としての自覚を持てなかったのはうなずけます。その意味で、まがりなりにも中国という近代国家を築けたのは、中国語を変え、近代化に向かわせた日本のおかげだと言っても過言ではありません。
 たしかに、日本は古代中国の漢字文化圏から出発しました。しかし、その後、仮名を発明して日本語を豊かにし、独自の文化をはぐくみ、洗練させてきた。そして、最終的には中国を日本の文化圏に取り入れるに至ったのです。いあだに中国人が日本を自分たちの周辺部族のように見ているとしたら事実誤認もはなはだしく、むしろ現代では、しれは逆なのです」
 現代中国語の文章には約70%の和製漢字が使用され、最先端の学術語や専門用語のほぼ100%が日本の新造語である。
   ・   ・   ・   
 清朝末期。日本は、清朝内の改革派の要請を受けて、中国を近代化する為に優秀な人材を派遣し、殖産興業に全面的に協力した。
   ・   ・   ・   
 1914年 中国は、自国だけの軍事力では山東省と青島のドイツ租界を奪還できない為に、第一世界大戦への参戦を躊躇した。
 日本は、同盟国イギリスの要請に従い、集団的自衛権を発動して参戦し、独力で青島を攻略し、ドイツの植民地である南洋諸島を占領した。
 1915年 対華二十一箇条の要求。
 1917年 中国は、日本の助言に従い、戦勝国の一員になる為に参戦したが、戦闘には参加しなかった。
 1919年 福建省を出港した中国漁船は、嵐で遭難して尖閣諸島に漂着した。
 尖閣諸島にあった鰹節工場の日本人労働者は、中国人漁師31名を救助して石垣島に送った。
 石垣島の島民達は、中国人漁師を手厚く保護し、全員を帰国させた。
 翌年 中国駐長崎領事は、「日本帝国八重山郡尖閣諸島」と明記した感謝状を石垣島村長・豊川善佐と鰹節工場経営者・古賀善次に送った。
 中国は、琉球尖閣諸島を日本領であると公式に認めていた。
 西原借款。日本は、中国に1億4,500万円を借款し追加借款を含めて約3億円を供与した。
 現代の貨幣価値で、約3兆円。
 戦後。中国共産党は、返却すべき義務があった西原借款と中国に残してきた日本資産を、強盗団の様に猫ばばした。
 中国は、借りたモノや金を綺麗サッパリと返したためしがない。
 つまり、感謝の言葉と共に借りた金を全額返還した事は、歴史上、たぶん一度も無い。
 5月4日 五・四抗日運動。 
   ・   ・   ・   
 徳富蘇峰支那人には歴史的に倭奴根性が抜けない。日本に留学した者も沢山ある。併し彼らの中で、日本文化の深層、若しくは日本精神の極致などを諒解した者は殆どあるまい。彼等は只だ欧米の代物を日本の小売店から購(あがな)う為に、日本に留学したる者である」
 「(日本の対中外交の失敗)支那人を度(はか)るに、支那の尺度を以てせず、日本の尺度を以てしたからである。兎角(とかく)支那人を日本人同様と考へる為に、何事も皆な的が外れて来た。すなはち一方には支那人の欠点のみを見て、これを侮り、他方には支那人を研究せずして、日本人同様に考へ」
 中国人は、アメリカ人やイギリス人は自分達とは全く違った人間といて「白奴」と軽蔑したが、日本人は同じ漢字を使い似た文化や風俗や習慣を持つ最低な「夷狄」つぃて侮蔑していた。
 日本人は、永らく中国との国交を持たず人的な交流として行き来していなかった為に、中国人は儒教的生活をする世界一優秀な人々と崇拝していたが、日清戦争後の中国人の実態を目の当たりにして幻滅を感じた。
 中華崇拝が空想的思い込みで高く、中国人への憧れが異常なほど強かった為に、目の前に現れた中国人の道徳もマナーもなき傲慢な態度に「中華かぶれ」が覚め、その反動として中国蔑視が生まれた。
 中国人は、中華思想から自分こそ世界一優秀な民族という視野狭窄夜郎自大的優越感を持っていただけに、家臣の様に媚びへつらって動くであろうと見下した日本人が、厚顔無恥に偉ぶっている事に「面子」を潰されたと激怒した。
 だが。日本との国力差に開きがある為に、柔やかに笑顔を見せて友好を口にし、国力が超えたと判断すると豹変して全ての約束を反故にして、牙を?いて襲い掛かってきた。

 


   ・   ・   ・   

毛沢東の大飢饉  史上最も悲惨で破壊的な人災 1958?1962

毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958?1962

₩72」─1─清国は日本への報復戦を仕掛ける為にロシアと手を組み軍事密約を結んだ。1895年。〜No.324  *      


   ・   ・   ・   
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 中国は、親日ではなく反日である。
 中国は、本気で日本と共に歩く気がないから友好などは求めてはいない。
 中国の友好は、見せ掛けである。
 中国と日本の間にあるのは、友情でもなく、信頼ではなく、ただ「利益」「金儲け」である。
   ・   ・   ・   
 日本は、清国とは違って世界から近代国家と認められたいが為に、国際法や戦争ルールを遵守するべく国際法専門家を派遣した。
 清国は、国際法を軽視して自国のルールで日本を滅ぼそうとした。
 中国は、今も昔も、国内法を優先して国際法や世界ルールなど遵守する意志はなかった。
 日本陸海軍は、各国が派遣した観戦武官や国際的な報道機関の記者を多く同伴しながら、各地を転戦して日本軍の軍事行動を包み隠さず見せていた。
 だが、日本は負けると分析していた観戦武官や戦場記者は、小国の日本軍ではなく大国の清国軍に同伴する事を希望した。
 彼等の多くは、無口で無愛想な日本人より陽気で直ぐに打ち解けてくる中国人に好意を寄せ、清国・中国支援の記事を書き、日本を悪とした記事を書きまくった。
 反日派として日本軍は中国軍以上に残忍で残虐行為を行い、日本軍兵士は戦場の至る所で虐殺と強姦と略奪を行っていると報告した。こうして、国際社会における反日感情が生まれた。
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 ロシアの新聞『ノーヴォエ・ヴレーミャ』「ロシアは黄色人種の文明など認めていないので、偶然の勝利によって勢いづいた野望の膨張を押し止めなければならない。……どんなに開化された異教であっても、意識の高いキリスト教徒にとってそれはキリスト教文明の高みよりはるかに低いものであり、キリスト教文明と対等な地位を主張するなどもってのほかだ」
 キリスト教徒は、非キリスト教世界をキリスト教化し、キリスト教を信仰しない非キリスト教徒を哀れな未開人と見なして正しい道に導く事を使命としていた。
 洗礼を拒否する非キリスト教徒を野蛮人と決めつけ、絶対神の栄光の為に完全排除した。
 また、非キリスト教徒がキリスト教徒と同じ行為を行おうとすれば、キリスト教徒はそうした不埒者を寄ってたかって半殺しの目にあわせた。そして、奴隷として扱き使い、商品として売り払うか、殺した。
 白人には、そうした権利が絶対神から与えていると認識されていた。
 中国人や朝鮮人は白人に擦り寄ったが、日本人は白人の胡散臭さ感じて拒否した。
 だが、国際派を自認して自己満悦に陶酔した知的エリートや高学歴のインテリは、欧米を無条件に礼讃して日本的なモノを野蛮として捨て去った。
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 中国人は、排他的に、他人を殺しても、自分のみの面子を重んずる人間である。
 自分中心の面子を、他人に押し付け奴隷の如く従属させる事を、儒教では君主の「徳」という。
 植民地帝国清国・中国は、弱小国日本に敗れて、眠れる獅子としての自負心を傷つけられ、アジアにおける唯一の指導者であるという面子を失った。
 中国人の面子から、万世一系男系天皇(直系長子相続)制度国家日本が主張する対等関係は認められない事ことであった。たとえ口先で対等を認めたとしても、笑顔を浮かべながら心の内は憎悪で煮えたぐり、面子から絶対に容認しなかった。
 清国政府と李鴻章は、伝統的中華思想から周辺諸国への教養的差別意識が強く、小国日本との対等な関係での友好を好まず、獣の様な蛮族倭族・日本人に屈辱を与えるべく外国軍の介入を画策した。
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 1895年1月7日 高宗は、王族と政府閣僚を引き連れて宗廟を詣で、国政の大綱である洪範を発表した。日本側の圧力で、今後は、国王と王族が各大臣の輔弼で国政を決裁し、王妃の外戚を政治に関与させないと宣言した。
 閔妃とその一族は、政治から閉め出され、利権によって暴利が得られなくなった為に、日本側の横暴に激怒した。
 高宗も、内心では、日本への怒りがみなぎっていた。
 1月20日 日本軍は、山東半島の軍港威海衛攻略の為に黄海を渡った。連合艦隊も、威海衛に逃げ込んだ北洋艦隊の残存艦隊を殲滅するべく出動した。
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 2月2日 日本軍は、威海衛の砲台にいた清国軍守備隊を敗走させて陸地を占領した。
 2月12日 北洋艦隊司令丁汝昌は、降伏を申し込んで、自決した。
 清国皇帝光緒帝は、アメリカやイギリスを通じて日本との講和を求めた。
 日本は、清国は依然として大国としての自負心が強く、敗北を認めて講和を望んではいないと判断した。講和交渉を有利に導く為にも、清国に敗戦を自覚させる為に難癖を付けて時間稼ぎを行った。この間、日本軍は北京への進軍など好戦的姿勢を強め、清国軍に圧力を加えた。
 アメリカやイギリスは、これ以上の戦争継続を望まず、清国に対して日本側の要求を受け入れる様に要請した。
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 伊藤博文は、日本の国力では清国を降伏させられない事を知っていたがゆえに、北京に攻め込む事には猛反対し、早期講和を主張した。
 清朝が衰退したと言っても世界的大国には変わりない以上、清国の面子を潰さず本気で怒らせない様にして、清王朝を存続させるべきであると。
 軍部も、主敵をロシア帝国としていた関係から、清朝を崩壊させ中国を大混乱させる事は得策ではなく、中国人の反感を買うような領土拡大目的の大陸進出には不同意であった。
 世界戦略が理解できない在野のアジア主義者は、政府や軍部の対清国・中国戦略を無視して、中国人の独立運動を支援し中国を混乱させ内戦を起こそうとしていた。
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 3月3日 光緒帝は、これまでの責任が取れない下級閣僚に替えて、責任が取れる李鴻章を全権大臣に任命して日本に派遣した。
 3月20日 下関で、講和交渉が始まった。
 3月23日 李鴻章は、交渉会議を終えて宿舎の印接寺に向かう途中で、右翼過激分子に狙撃されて負傷した。
 日本側は、ロシア帝国などが清国に有利な条件で講和交渉をまとめにくる事を恐れて、これまでの強硬な要求を緩和して条約をまとめる事とした。
 3月30日 日本側の譲歩で休戦条約が成立した。
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 4月17日 講和会議がまとまり、下関条約が調印された。
 清国国民は、弱小国日本に屈辱的な下関条約を押し付けられたと知るや、世界の中心にある大国としての面子が潰されたとして激怒した。上位者に逆らい従わない小人国家日本に、今度こそ正義の鉄槌をくだすべきでると、復讐戦を要求した。
 光緒帝は、勅諭を発して、軍費を貯めて軍隊の近代化を図り、練兵を行って強兵を育成し、その後に地上に王道を広めるべきであると宣言した。つまり、日本に復讐戦を挑むが今はその時ではないと。
 待望を抱く大人の中国人は、相手に悟られないように本心を隠し、にこやかに微笑みを浮かべて相手に近づいて油断を誘う。
 無知な者ほど、中国人の強烈な野望をその微笑みで騙される。チベットや東トルキシタンや雲南内モンゴルなどでは、人を人と認めない中国人による非人道的漢族化が推進された。
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 ロシア・ドイツ・フランスの三国は、戦勝国日本に圧力をかけて、多くの将兵を犠牲にして獲得した遼東半島を放棄させた。
 大陸人である中国人は、欧米列強に沿海区域が植民地化されようとも、広大な領土の極一部としてさして気にもしなかった。
 中国人の面子から、欧米列強に領土が蚕食されようとも、中国の領土が日本人のもになる事は許せなかった。
 三国干渉で、日本が窮地に追い込まれた事に、日本人の傲慢な自惚れに対する報いであるとしてほくそ笑んだ。
 だが、領土台湾と属国琉球・沖縄を失った。
 琉球・沖縄は、この時をもって正式に日本の領土となった。そして、琉球人は強制的に日本人にさせられた。
 儒教的知識人は、高度な文化を持つ中国に憧れ、洗練された中国人になる事を目差し、文化度の低い日本を嫌悪し、野卑な日本人を軽蔑していた。
 親中国派琉球人は、日本の領土になり、日本人になる事に猛反対した。
 琉球人は、薩摩に武力で侵略され、日本の植民地にされ、日本人に暴力で搾取された屈辱の約280年という年月を忘れてはいなかった。
 日本人は、下等な人間として琉球人を差別していた。
 時代は、信義も礼節もない帝国主義の時代である。
 そこでは、弱者は全てを失って滅び、強は全てを手に入れて豊かになって生き残る。
 日本も、非武装無抵抗を貫いていたら、キリスト教諸国に攻められ滅亡していたであろう。
 閔妃とその一族は、日本によって政権中枢から閉め出され事に恨み骨髄となり、ロシア帝国の力を借りて復権の機会を覗った。
 高宗も、日本の朝鮮への影響力を強めた事に嫌悪し、ロシア帝国の進出を内心歓迎した。
 ロシア帝国は、日本海を支配し大平洋と東シナ海へと自由に航行する為に、高宗と閔妃に同情し反日行動を支持した。
 日本は、対ロシア戦を想定して、清国から得た賠償金2億両(3億円)でイギリスから二隻の戦艦を購入した。
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 アメリカは、日本が台湾と沖縄を獲得し、海軍力を強化して海洋に進出する事を警戒した。
 もし、この時、琉球が日本からの独立を希望すれば、アメリカはパナマの独立支援同様に琉球独立運動を支援した事であろう。その後に、ハワイ王国同様に併呑したかもしれない。
 アメリカが琉球王国の独立を支援すれば、日本はアメリカとの戦争を避ける為に琉球の独立を承認した事であろう。同様に、琉球アメリカ領と宣言されても、やはり戦争を回避する為に黙認したであろう。
 時代は、武力なき話し合いを否定する帝国主義時代である。
 武力なき小国は、武力ある大国の侵略を受けて滅亡するのが宿命であった。
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 清国は、財政は逼迫して有能な人材を欧米各国に派遣できなかった為に、旅費がかからない日本に留学させた。
 日本との友好関係を深める為に優秀な人材を日本に派遣したのではなく、単に金銭的な問題の為に日本を選択したにすぎない。
 日本は、清国の本心も内情も知らず、何ら警戒心もなく中国人留学生を受け入れ最上級の教育と最先端技術を教えた。
 清国は、人を疑う事を知らないお人好しの日本人を貶める様な策謀をめぐらせていた。
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 芝山巖事件。台湾の近代教育の為に赴任していた日本人教師6名は、地元の反発による混乱の中で殺害された。
 日本は、台湾に於ける近代教育に取り組み、昭和20年頃には就学率は92%に達し、台湾人の識字率も100%近くになっていた。
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 1896年 清国(中国)は、ロシア帝国との間で対日攻守軍事同盟というべき秘密条約(李鴻章・ロバノフ密約)を締結した。
 「ロシア帝国が日本と戦争すれば、清国はロシア帝国に味方して参戦する」と、密約を交わしたと言われている。
 清国は、ロシア軍による日本侵攻の為に、不用意にも祖先の土地である満州ロシア帝国に貸し与えた。そして、領土内を通過するシベリア鉄道南満州支線を、日本軍との戦争に使用する事を認めた。
 中国人は、日本に笑顔を見せて友好な態度をとりながら、裏では日本に敵対する諸外国や諸勢力と協力関係を結んでいた。
 ロシア帝国は、満州を領土化する為に全土に戒厳令を布告し、対日戦と治安維持の目的で大軍を進駐させた。
 次の目標は38度線以北の北部朝鮮の領有であり、その為に日本の干渉を排除して大韓帝国の独立を奪う事であった。
 親露派朝鮮人は、日本を朝鮮から追放する為に、ロシア帝国の軍事力を利用する為に協力した。
 ロシア・ソ連は、合法・非合法に関係なく、手に入れた土地はけっして手放すことはなかった。
 大国の傲慢から、国際法を自分の都合の良い方にねじ曲げ、不都合は無視した。
 何時の時代でも、大国は正義であり、小国は悪である。
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 1898年 黄河の大氾濫。
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 1898年 黄河で大旱魃
 民族反乱の直接のキッカケで、飢餓が発生し、大量の餓死者が出た。
 4月 東学教団教主崔時亨は、捕らえられて、漢城で処刑された。
 高弟の孫秉熙は、日本に潜伏して天道教を興し、日本人の協力を得て朝鮮の独立運動を続けた。
 東学党は、儒教支配の朝鮮に絶望して親日派となる。
 日本の外交戦略は、敵の敵はもちろん敵の味方も味方にする事であり、敵の主敵を小さくする為に敵を分断して味方に取り込む事であった。
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 man 産経ニュース
 2013年4月17日 「中国海軍艦艇が尖閣周辺を航行 下関条約締結日に合わせ? 中国メディアを使い宣伝
沖縄本島宮古島の間を通過する中国海軍のルーヤン級ミサイル駆逐艦=16日(防衛省統合幕僚監部提供)
 【北京=川越一】中国国営新華社通信などは17日、人民解放軍海軍の南海艦隊に所属するミサイル駆逐艦などが同日午前、尖閣諸島沖縄県石垣市)周辺海域を航行したと報じた。この日は、118年前の1895年に日清戦争下関条約が締結された日。同諸島の「主権」を主張するため意図的に航行し、中国メディアを使い宣伝した可能性が高い。
 航行したのは、ミサイル駆逐艦「蘭州」とミサイルフリゲート艦「衡水」から成る遠洋訓練編隊。西太平洋海域で遠洋攻防演習や臨検拿捕(だほ)訓練などをした後、16日夜に宮古海峡を通過し、尖閣周辺海域に入ったとしている。
 訓練には中国メディアが同行。編隊の指揮官は巡航を「完全に正当かつ合法で非難の余地はない」と強調した。新華社通信は、海軍の北海艦隊と東海艦隊の艦艇編隊もそれぞれ、以前に同海域を航行したとしている。
 中国政府は、下関条約により尖閣諸島を日本に譲り渡したと主張している。中国メディアは同条約を「侵略者が押し付けた最も辛辣な不平等条約」と表現。中国の専門家は「条約締結日は中華民族の屈辱の日だ」と反日感情を刺激している。中国の海軍史家は「このような巡航は今後、常態化するだろう。わが国が領海の主権を公に示す有効な行動だ」と分析している。」

 

 


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