🎵21:─3─中国共産党政府と韓国による新たな反日歴史戦。旅順虐殺事件。〜No.49 *  


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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博・  

 敗走する清国軍(中国軍)の方が、進撃する日本軍よりも残虐で、各地で虐殺と略奪を繰り返していた。

 アメリカのキリスト教会は、反天皇反日本で親清国(親中国)、親朝鮮であった。

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 安重根はテロリストである。
 キリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を殺すべく付け狙っていた。
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 アメリカには、政治・経済そして国民世論に影響力を与える新中国反日派勢力が存在していた。
 日本軍旅順虐殺事件は、アメリカ国内の親中国反日派勢力によるデマあった。
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 中国共産党は、反日であり、敵日である。
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 2018年3月8日 産経ニュース「【藤本欣也の中国探訪】軍港・旅順は二〇三高地だけではなかった! 中韓歴史戦の新たな舞台か
 旅順監獄の共同墓地跡。安重根は処刑後、この地に埋葬されたとの説も(2月7日、藤本欣也撮影)
 中国・遼東半島の軍港、旅順。日本人には日露戦争の激戦地として知られるが、近年、韓国人の観光客が増えているという。伊藤博文元首相(1841〜1909年)を暗殺した安重根(アン・ジュングン、1879〜1910年)が刑死した終えんの地だからだ。訪問すると、中韓の“反日”観光の拠点になりかねない、そんな危うさが漂っていた。
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 中国初の国産空母が建造されている港湾都市、大連市内から、車で約50分の距離に大連市旅順口区がある。目指すは二〇三高地−。
 明治日本の帝国陸軍が1904年、難攻不落とされた露軍構築の旅順要塞を攻略、多大な人命を失いながらも同高地を占領し、観測所を設けて旅順港内の露艦隊に砲撃を加えた。
 占領直後、現地の児玉源太郎陸軍大将が「そこから旅順港は見えるか!」と、架設された電話線を通じて二〇三高地将兵に確かめた話は有名だ。
 司馬遼太郎が小説「坂の上の雲」でこう記している。
 「旅順攻撃は、維新後近代化をいそいだ日本人にとって、はじめて『近代』というもののおそろしさに接した最初の体験であったかもしれない」
 実際、長い坂道を上って標高203メートルの旧二〇三高地の丘陵地に立ってみると、旅順の市街地とともに港が見渡せた。隣では、ウオーキング途中の初老の男性も同じように景色をながめている。
 「ここに来るのが日課なのです」
 日露将兵が死闘を繰り広げた戦地も今では住民の憩いの場となっていた。
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 日露戦跡めぐりで旅順を訪れる日本人は多い。ただ、地元観光業者によると、最近は韓国人の旅順観光が増加しているという。
 旅順口区には外国人別観光客の統計がないため、大連市全体で調べてみた。2009年に日本人51万人、韓国人17万人だった観光客数は昨年、日本人33万人に対し、韓国人は23万人に増加している。
 旅順に来た韓国人が必ず訪れるというのが、旧旅順監獄だ。二〇三高地の激戦から5年後、中国東北部ハルビン駅頭で伊藤博文を暗殺して逮捕された安重根が収監、処刑された場所である。当時、多数の中国人も拘置されていた。
 「韓国人観光客には安重根の写真や書の掛け軸が人気だね。韓国から学生の団体がやってくることもある。今日? 真冬はオフシーズンだよ。自分の国で五輪でも見ているんじゃないのかい」
 隣の商店で土産物を売っていた男性が笑った。
 「安重根は1909年10月26日、ハルビン駅で日本の元首相、伊藤博文を射殺し、死刑を宣告された後、1910年3月26日午前10時、この刑務所で絞首刑に処されました」
 安重根が拘置されていた旅順監獄内の独房前では、女性解説員が中国人観光客たちを相手に淡々と説明していた。
 大連から7歳の長女と一緒に来たという中国人主婦(36)に話を聞いた。
 「テレビではいつも抗日のドラマを放映しているので、娘からその時代のことをよく聞かれます。だから実際に当時の歴史を見せようと思って連れて来ました。安重根? 今日まで知らなかったですね。勉強になりました…」
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 安重根をめぐっては2014年、中国の習近平政権が韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領(当時)の要請を受けて、ハルビン安重根記念館を設立。日本に対する中韓共闘の歴史戦の一環として関心を集めた。
 処刑後、どこに埋葬されたのか分からない安重根の遺骨に関しても15年11月、韓国の黄教安(ファン・ギョアン)首相(同)が中国の李克強首相との会談で、大規模な現地発掘調査に向けた協力を要請。李氏も安重根について「中国国民にとっても英雄だ」と応じ、双方は協力方法を検討していくことで合意した。
 その後、両国関係は米軍の高高度防衛ミサイル(THAAD)の韓国配備で悪化したものの、韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領が昨年末に訪中し、現在は改善に向かいつつある。
 しかも来年は、朝鮮半島出身者たちが抗日の「大韓民国臨時政府」を上海に設立して100周年。さらに、安重根伊藤博文暗殺から110年の節目でもある。旅順で遺骨発掘に関する中韓の協力事業が動き出し、歴史戦が再燃する契機になるかもしれない。そう考えるのは、旅順に“反日”の下地があるためだ。
 「私たちの世代は、旅順といえば『旅順大虐殺』を思い起こすわ」
 港近くのファストフード店で、母親とハンバーガーを食べていた地元の女子大生(25)が言った。
 中国、特に旅順の子供たちは学校で「旅順大虐殺」を教え込まれる。1894年の日清戦争に際し、旅順に入城した日本軍が敗残兵を掃討する過程で、住民を「虐殺した」などと学ぶ。
 「日本人が旅順で歓迎されると思う?」。女子大生の母親の表情は硬かった。
 旅順港内には、軍の艦船3隻が停泊していた。核・ミサイル開発を続ける北朝鮮は目と鼻の先だ。港の周りには監視カメラが至るところに設置されている。
 軍港のイメージが色濃く残る旅順の街に、新たに“反日”色が加わるかもしれない。そう感じた。(中国総局長)」
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 日本は、世界に近代国家である事を認めて貰う為に、各派遣軍司令部に国際法の専門家や各国軍隊の観戦武官の同行を認めていた。
 戦争は、公開されていた。
 1887(明治20)年 博愛社は、日本赤十字社と改称した。
 昭憲皇后は、皇室伝統の「慈愛の精神」で日本赤十字社の庇護と発展に力を貸した。
  1894年7月 日清戦争日本赤十字社は、多くの医師や看護婦を戦場に派遣した。
 従軍看護婦は、献身的に日本兵士も清国(中国)兵士も手当てし看病した。
 だが。清国軍は、負傷した自国兵士の治療を放棄して戦場に捨て、捕らえた日本人兵士を陰惨な方法で惨殺していた。
 中国大陸には、儒教価値観で人権も人道も存在せず、儒教身分制度で貧しい者は単ある生きた道具として酷使され虐げられ虫けらのように殺されていた。
 昭憲皇后は、出征軍人や傷病兵に下賜品を与え慰問使を送り、各地に設けられた敵味方関係なく収容され治療を受けている軍病院への各種支援を続けた。
 日本軍は、明治天皇・昭憲皇后両陛下の御稜威に従って中国軍捕虜を保護していた。
 それは武士道精神であった。 
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 欧米列強の政府は、勝つであろう清国(中国)に協力しても、負けるであろう小国の日本に同情はしても助ける気はなかった。
 国際資本も、将来性を考えれば巨大消費地である豊かな清国(中国)に投資しても貧しい日本には見向きもしなかった。
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 2018年7月2日 産経ニュース「【藤本欣也の中国探訪】習近平国家主席が視察先に選んだのは…日清戦争博物館だった 大敗した「国恥」の歴史から何を学ぶ?
 清・北洋艦隊の旗艦「定遠」を復元した船=中国・威海市(藤本欣也撮影)
 中国の山東半島黄海の出入り口に位置し、対岸の朝鮮半島に突き出た歴史的な要衝だ。中国共産党中央軍事委員会主席を務める習近平国家主席が6月12日、山東半島のとある博物館を視察した。「訪れたいとずっと思っていた」と言わしめたその博物館とは、「甲午戦争」つまり日清戦争(1894〜95年)に関する博物館だった。中国人民解放軍の最高司令官が「国恥」の場所を訪れた理由とは何か、探訪した。
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 山東省威海市は日清戦争当時、威海衛と呼ばれ、清朝の誇る北洋艦隊の基地があったことで知られる。
 1894年7月、朝鮮半島をめぐる対立から日清戦争が勃発すると、日本軍は黄海海戦の勝利を経て11月に旅順を占領。95年1月には威海衛攻略戦に乗り出した。北洋艦隊は東洋一の巨艦とうたわれた戦艦「定遠」の30・5センチ砲などで応戦したが、日本軍は2月中旬までに威海衛と湾内の劉公島を制圧。定遠は大破し北洋艦隊提督の丁汝昌が自決、艦隊は壊滅した。
 「教えを受けるために、ここを訪れたいとずっと思っていた」
 視察の際に習氏がこう述懐したと中国メディアが伝えたのが、威海市の劉公島にある「中国甲午戦争博物館」だ。
 習氏は6月12日、上海協力機構首脳会議のため滞在していた青島から、わざわざ列車と船を乗り継ぎ島に上陸したのである。
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 6月下旬の週末、同博物館は中国人の行楽客でにぎわっていた。
 「1894年、日本はかねてから、たくらんでいた中国侵略戦争を発動した…中国の軍民は血みどろになって抗戦し、崇高な愛国精神を表した」との説明から始まる館内の展示は、中国語と英語のほか、隣国の韓国語でも表記されていた。
 平壌会戦、黄海海戦、旅順攻略戦、威海衛の戦いについて、当時の写真や絵画、遺品などによる説明が続く。北洋艦隊だけでなく日本の連合艦隊も紹介。「天皇をはじめとする国家を挙げた献金活動により海軍を拡充した」とあった。
 旅順攻略戦のコーナーでは「日本軍は捕虜や市民を大虐殺し約2万人が犠牲になった」などと、その数字の根拠を示さないまま記述されていた。
 「国恥民辱」コーナーでは、下関条約により巨額の賠償金の支払いと領土の割譲を余儀なくされ、「中国の半植民地化がさらに進んだ」とあった。
 小学生の男の子の手を引きながら、若い母親が話しかけている。
 「私たちは戦争に負けたのよ。負けたらどうなると思う? お金をたくさん払わないといけない。おまえももっと強くならないとね。“落後すれば踏みにじられる”と言うでしょ」
 出口のフロアには、迷彩服姿の習氏の大きな写真が掲げられていた。
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 参観者の中に、青島の基地に所属する海軍軍人の男性(28)がいた。
 「悲痛な歴史ですね。当時の軍隊はたるんでいて戦闘能力が劣っていました」
 「でも今は違います。私たちは自前の空母を保有している。今後、2隻の原子力空母を含む4つの空母打撃群を運用できれば中国の海軍力は強大になる」
 劉公島の対岸の桟橋には「定遠」が浮かんでいる。観光用に復元されたものだ。ガイドが中国人団体客の前で説明していた。
 「120年前、日本のお母さんはこう言って子供のしつけをしたそうです。『泣き止まないと、定遠がやって来るよ』」
 当時の日本にとってこの定遠はオオカミのように恐ろしかったのです、と説明してこう続けた。
 「現代の遼寧(中国初の空母)のような存在ですね」
 島の波止場に大きな看板があった。習氏の重要講話が記されている。
 「強軍思想を貫徹し、世界一流の海軍を建設せよ」
 近代中国の「国恥」をあえて展示することで、国民に強軍建設の重要性を理解させるという習政権の狙いは明白だ。
 しかし、それだけではなかった。
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 劉公島内に奇妙な展示施設があった。「歴史選択展館」という。
 真新しい施設内に入って驚いた。威海にも日清戦争にも関係のない資料がずらりと並んでいたからだ。中国共産党の歴史である。
 「1840年のアヘン戦争以降、中国は半植民地・半封建的な国家となり社会発展が遅れた。甲午戦争は中国の衰退を加速させ、亡国の危機を招いた」「一体、誰が中国人民の先頭に立って、民族独立、人民解放をなし得るのか」と説明した上で、こう記す。
 「歴史は中国共産党を、社会主義を選択したのだ」
 習政権の狙いは、強軍だけでなく中国共産党の正当性を強調すること、つまり党の権威付けにもあった。
 北洋艦隊の提督、丁汝昌が服毒自殺を遂げた「北洋海軍提督署」跡で、丁汝昌の5代末裔(まつえい)という男性(56)に会った。
 丁家にまつわる話を聞きながら、「現在の中国海軍の力を丁汝昌はどう見ているでしょうね」と笑いながら問いかけると、急に「それは政治に関する話だ。政治の話はしない」と言って口をつぐんでしまった。
 習氏の陣頭指揮のもと、中国共産党に忠誠を誓う人民解放軍の強大化と、そのための国民教育が進んでいる。(中国総局長)」
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 旅順虐殺事件。
ウィキペディア
 旅順虐殺事件は、1894年(明治27年)11月日清戦争の旅順攻略戦の際、市内及び近郊で日本軍が清国軍敗残兵掃討中に発生したとされる事件で、ピューリツァーのニューヨークワールド紙特派員ジェイムズ・クリールマンなどがセンセーショナルに報道した。この事件の報道に関するアメリカのジャーナリズム史研究では、クリールマンはこの報道で扇情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)のやり方を身につけて、4年後の1898年の米西戦争でスペインとの開戦世論誘導で活躍したため、「虐殺」と呼ぶことに疑義がだされている。

 概要
 1894年(明治27年)より朝鮮半島の覇権をめぐり日清戦争が勃発したが、軍備の優位など諸要因によって日本軍が戦況を有利に進めた。黄海の海戦勝利の後、10月に入るといよいよ清朝の国内に攻め入り、当初は旅順の攻略にすら五十以上の軍艦と十数万以上の軍人が必要だと言われていた旅順を11月に攻略しようとした。当時遼東半島の先端に位置する旅順は、対岸の威海衛とならんで 北洋海軍(李鴻章の実質私兵)の基地となっており、それに加え清朝海上輸送ににらみをきかすためには是非とも落とさねばならない要衝であった。旅順攻略にあたったのは、大山巌率いる第二軍であった。11月18日、土城子という旅順近郊での戦闘では、秋山好古少佐の騎兵第一大隊が清軍と遭遇し、死者11名・負傷者37名を出すなど苦戦を強いられた。しかし11月21日の攻撃では旅順の大部分を占拠するに至った。日本は当初から諸外国との不平等条約改正を悲願として国力強化に邁進していたが欧米には敗北してもアジアでは最強とされていた清の東洋のジブラルタルといわれた旅順の攻略は、大変な困難を極めるだろうという欧米側の予想を裏切る迅速さであった。なお、この第二軍には幾人か著名人も参加していた。たとえば軍医として派遣された森鴎外。そして事件直後には記者として国木田独歩が旅順の土を踏んでいる。西洋画家として著名な浅井忠も新聞画家(新聞の挿絵を描く)として参加している。後に袁世凱の顧問となる有賀長雄は国際法顧問として参加し、活与している。編成・装備・訓練が統一されておらず、動員・兵站・指揮のシステムも近代軍として体をなしていなかった清軍に対し、近代化された日本軍は基本的に終始優勢に戦局を進めて遼東半島を占領した。

 報道の経緯
 9月16日に母港威海衛から出てきていた戦艦14隻と水雷艇4隻の北洋艦隊は陸兵4,000人が分乗する輸送船5隻を護衛するため、大連湾を離れた。同日大狐山での陸兵上陸を支援した北洋艦隊は、翌17日午前から大狐山沖合で訓練をしていた。索敵中の日本海軍の連合艦隊は午前10時過ぎに互いに発見した。連合艦隊は、第一遊撃隊司令官坪井航三海軍少将率いる4隻を前に、連合艦隊司令長官伊東祐亨海軍中将率いる本隊6隻を後ろにする単縦陣をとっていた。12時50分には樺山軍令部長を乗せた西京丸と「赤城」の二隻も、予定と異なり戦闘に巻き込んで、横陣の隊形をとる30.5センチ砲を持つ北洋艦隊の旗艦「定遠」と距離6,000m離れた日本の連合艦隊との戦端が開かれた。海戦の結果、無装甲艦の多かった連合艦隊は全艦で134発被弾したものの、船体を貫通しただけの命中弾が多かったために旗艦「松島」など4隻の大・中破と戦死90人、負傷197人にとどまった。それに対して、装甲艦を主力とする北洋艦隊は、連合艦隊の6倍以上被弾したと見られ、「超勇」「致遠」「経遠」など5隻が沈没し、6隻が大・中破、「揚威」「広甲」が擱座した。なお海戦後、北洋艦隊の残存艦艇が戦力温存のために威海衛に閉じこもったため、制海権を完全掌握のために威海衛攻略を目指す日本が旅順のある遼東半島付近の制海権をほぼ掌握した。9月21日、海戦勝利の報に接した大本営は、「冬季作戦大方針」の1)旅順半島攻略戦を実施できると判断し、第二軍の編成に着手した。その後、まず第一師団と混成第十二旅団(第六師団の半分)を上陸させ(海上輸送量の上限)、次に旅順要塞の規模などを偵察してから第二師団の出動を判断することにした。10月8日、「第一軍と互いに気脈を通し、連合艦隊と相協力し、旅順半島を占領すること」を第二軍に命じた。21日、第二軍は、海軍と調整した結果、上陸地点を金州城の東・約100Kmの花園口に決定した。第一軍が鴨緑江を渡河して清の領土に入った24日、第二軍は、第一師団の第一波を花園口に上陸させた。その後、良港を求め、西に30Km離れた港で糧食・弾薬を揚陸した。11月6日に第一師団が金州城の攻略に成功した。14日には第二軍は、金州城の西南50Km旅順を目指して前進し、18日に偵察部隊等が遭遇戦を行った。この事件発生は大きく分けて二段階ある。すなわち占領直後とそれ以降である。

 第一段階(11月21日午後?夕刻)
 午後二時、第二軍司令部は旅順陥落と判断し、これを受けて第一師団師団長である山地元治中将が市内掃討を歩兵第二連隊連隊長の伊瀬知好成大佐に命じた。伊瀬知好成大佐は歩兵第一師団配下の歩兵第二連隊と同十五連隊第三大隊を率いて任務を遂行した。この部隊は、土城子戦後に日本軍死傷者に加えられた陵辱行為であった鼻や耳をそがれた生首が道路脇の柳や民家の軒先に吊されているのを、二つの部隊が掃討の際に目撃していた。大山巌は「我軍は仁義を以て動き文明に由て戦ふものなり」という訓令を発している。これ以後旅順の日本軍は文明とは反する敵討ち的感情にとらわれたのだろうなど戦後に推測している者もいる。旅順市内に入り掃討作戦に二つの部隊は従事したが、このとき日本軍側は清兵が軍服を捨てたゲリラの掃討作戦を行った。ただこの掃討戦は同じ日に行われた旅順要塞(市街の背面に位置)への攻撃と連動した作戦であり、清兵も全く戦意喪失していたわけではなく、市街でも激しい抵抗が試みられていた点は考慮を要する。そのため事件第一段階が戦時国際法に明確に悖る行為がどの程度あったかについては、研究者の間でも分かれている。特に報道にて問題とされたのは以下に述べる第二段階である。

 第二段階(11月22日以降)
 事件の第二段階は第一段階の翌日から数日間にかけて起こった。この時旅順市内および近郊は、「旅順市街は昨夜(21日夜)既に攻略し了(おわ)り」というように、すでに清兵の組織的な抵抗はなくなってきており、そのような中で発生した事件第二段階は第一段階よりもいわれる状況に近づいている。この段階で掃討任務を引き継いだのは歩兵第十四連隊及び第二十四連隊(両部隊とも混成第十二旅団所属)という九州で徴兵された部隊であった。こうした残存する抵抗する兵士を伴う掃討作戦によって、市内には清国軍兵士らがまばらに退却したため民間人に危険性が起きかねない状況となり、第二軍司令部は各人・各家の安全を保証する措置を講じることとなった。すなわち紙あるいは布に「此者殺すべからず、何 々 隊」、「此家男子六人あるも殺すべからず」といった文もまちまちな書き付けを中国人に与えたて民衆の落ち着きを取り戻させようとしたのである。ただこうした措置は新嘗祭にあたる11月24日以降に出されたため、その遅さが民間人を巻き込みかねない不作為だったとして、後に一部の外国人従軍記者に弾劾されることになる[6]。そしてこのことは、このような書き付けがなければ、清国軍残党が身をひそめる市街が非常に危険であったことを示している。総攻撃後での日本軍の勝利後は、約12,000人のうち約9,000人が新募兵の清軍の士気などが低いこともあり、22日の堅固な旅順要塞を占領し後の両軍の損害は、日本軍が戦死40人、戦傷241人、行方不明7人に対し、清軍が戦死4,500人、捕虜600人だった。第二軍の第一波が遼東半島に上陸した24日には、陽動部隊が安平河口から、21時30分に架橋援護部隊が義州の北方4km地点から、鴨緑江の渡河を始めた。翌25日6時頃には予定より2時間遅れで、本隊通過用の第一・第二軍橋が脆弱で、臼砲6門と糧食の通行が後回しにされたものの完成させた。6時20分には九連城から4.5Kmの地点に野砲4門が虎山砲台を設置して砲撃を開始し、歩兵の渡河が続いた。清軍の反撃で日本軍の戦死34人、負傷者115人が発生するような抵抗されたものの、虎山周辺の抵抗拠点を占領した。翌26日早朝、第一軍は、九連城を総攻撃するため、露営地を出発した。しかし、清軍が撤退しており、無血入城となった。その後、第三師団は、鴨緑江下流にそって進み、27日に河口の大東溝を占領し、30日には兵站司令部を開設した。11月5日には補給線確保のために黄海沿岸の大狐山を占領し、11日に兵站支部を開設している。第五師団は、糧食の確保後に内陸部に進み、要衝鳳凰城攻略戦を開始した。10月29日、騎兵ニ箇小隊が鳳凰城に接近すると、城内から火が上がっていた。14時50分に騎兵は城内に突入し、清軍撤退を確認した。このため、主力部隊による攻撃が中止された。

 死傷者数について
 旅順陥落後の基本的に民間人及び戦闘終了後の捕虜、戦闘放棄した者の死傷者の数については諸説ある。死傷者は後に墓碑にて葬られ、その碑には「一万八百余名」と記されているが、他の中国側の主張ではこれは「一万八千余名」とし、大陸の諸研究でもこの数を支持している。これは事件を生き残って死体処理に当たったという中国人の証言に基づいている。
 一方その他の証言は大きくそれを下回る。
 有賀長雄『日清戦役国際法論』・・・・500名
 『タイムズ』(1894、11、28)・・・・200名
 『ニューヨーク・ワールド』(1894、12、20)・・・・2,000名
 フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年)・・・・1,500名
 日本占領後の清国人の旅順行政長官から大山巌第二軍司令官への報告・・・・1,600名
 以上は事件発生当時からさして年数が経過していない期間の証言であるが、現代の中国側の研究では2万名弱という数との主張が定説となっている。一方で、日本の研究では200名弱から最大6,000名という風にかなり人数にばらつきがある。被害者数の認定に大きな差異が生じているのは、いつ亡くなった者が不明の者や誰に殺傷された人か不明瞭な者、さらには証拠のなしの証言での人数までも認定するかについて大きな懸隔があるからである。

 欧米メディアの報道
 最初の報道
 旅順での事件を目撃した外国人ジャーナリストたちは、記事を打電するために日本に引き揚げていた。彼らは第二軍に従軍し取材していた記者達で、この事件報道に深く関わるのは『タイムズ』の特派員トーマス・コーウェン、『ニューヨーク・ワールド』のクリールマン(James Creelman)、『ヘラルド』のA・Bド・ガーヴィル(ゲルヴィル)、『スタンダード』及び『ブラック・アンド・ホワイト』のヴィリアースの4人である。11月26日以降、旅順占領が報じられるようになる。タイムズはイギリス極東艦隊のフリーマントル中将に同行して旅順に上陸した将校の目撃談や、旅順から戻ったコーウェン記者の記事を発表し、事件が海外に知られることとなった。しかし注目を集めるようになったのは12月12日の新聞『ニューヨーク・ワールド』のクリールマンの記事によってであった。「日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷にほとんど全ての住民を虐殺した。無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた」と扇情的な報道がされている。その後も彼は旅順占領後の報道を続けた。彼の扇情的な報道にその他の新聞・雑誌も追随し、日本政府は苦境に立たされることになる。最もセンセーショナルな報道は『ノース・アメリカン・レヴュー』 1895年3月号におけるフレデリック・ヴィリアース(ウィリアース)の「旅順の真実」記事で、「三日間の虐殺によって僅か36人の中国人だけが生き残った」と書いている。

 反対証言
 ゲルヴィルによる証言
 旅順陥落を目撃したニューヨークヘラルド特派員のアメデ・バイロ・ド・ゲルヴィルは、1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリールマンの報道するような虐殺は発生していないと証言し、さらにゲルヴィルは1904年の著書『Au Japon』で虐殺は捏造されたものであったと論じた。
 ダネタン報告
 また、ベルギー公使アルベール・ダネタンの本国への報告調査では、事件は「ニューヨーク・ワールド紙の記者によって多分に誇張されたもの」で、フランス武官ラブリ子爵は、殺された者は軍服を脱いだ中国兵(便衣兵)であり、婦女子は殺されていないし、旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであったと述べている。
 明治政府の対応
 明治政府首脳陣の伊藤博文陸奥宗光が頭を悩ませたのは、事件そのものの有無と実際の差よりも当時進行中であったアメリカとの不平等条約改正交渉への影響で、アメリカで躓けば他国との条約交渉にも影響を与えかねなかったことだった。事件の報道後、アメリカやロシアの駐日公使が陸奥を訪ね善後策を問い質し、アメリカの上院では調印された日米新条約の批准に反対する声が少し上がり始めた。明治政府は事前の清国の実情から勝つのは確実だとして、圧倒的に勝った時に起こる日本に批判的な国際世論対策を戦争当初から想定しており、陸奥宗光と各国公使も外国の新聞の報道を報告していた。日本についての情報対応は明治政府に雇われていた欧米人が担っていたのであるが、旅順での事件の対応についても日本はマスコミ対策を積極的に活用しようとした。欧州における対外情報収集活動を担ったのは、青木周蔵公使とお雇い外国人のシーボルトであったとされる。『タイムズ』の報道以後、日本政府は情報収集に努めつつ、報道に対し逐一反駁を行い、反論に努めた。口火をきった『タイムズ』の報道に対し、11月29日付けの『セントラル・ニュース』は正当な戦闘以外での殺傷はなかったと報道した。これも陸奥の意を受けた内田康哉(駐英臨時代理公使)が工作した結果であったと推測している。
 しかし、当初はマスコミ対策は功を奏せず、アメリカの新聞の中には不平等な条約改正延期もやむなしという論調が出てくる。これに対し、伊藤博文は政府として正式な弁明をすることを以下の通り決定した。
 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡
 旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった
 住民は交戦前に逃亡していた。
 逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令されていた。
日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。
 日本側は軍紀を守っていた。
 クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容に驚いている。
 旅順が陥落した際捕らえた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、二三日のうちに東京へ連れてこられることになっている。
 この伊藤らが作成した弁明書は、第七項を省いたものが12月の17日・18日の両日にアメリカの各新聞に掲載された。陸奥が直接アメリカの新聞に弁明するというやり方は、アメリカ側から好感を以て迎えられた。一方の疑惑がかかった第二軍への処分であるが、やはり海外マスコミ対策に動いていた伊東巳代治が井上馨に書き送ったものには「戦捷の後とて何となく逡巡の色相見え候」とあるように、難攻不落と見られていた旅順を落とし意気軒昂な軍隊をこの事件で処分することは不可能と政府首脳は判断した。伊藤博文も「取糺すことは危険多くして不得策なれば此儘不問に付し専ら弁護の方便を執るの外なきが如し」との断を下している。結果、欧米諸国は自国の過去の疑惑と比較して非難を継続することに自国に逆に跳ね返ってくる恐れがあり、予測を覆して清国を圧倒するなど着実に国力を高めてきている日本批判に国益はないとして騒動は収まった。
 
 事件の終息
 海外の論調は次第にこの旅順での事件のようなものは戦争ではつきものであって、欧米でも例がないわけではないという風に変化していったと、対応に当たった伊東巳代治は報告している。ただ事件が殺傷そのものがあったことが「虐殺」ではないことは認められ、アメリカにおける報道は無くなっていった。最大の懸案であったアメリカとの条約改正は、1895年2月5日にアメリカ上院で批准された。これは同時に明治政府首脳にとっての旅順事件の騒動の終焉を意味するものであった。4月17日には下関条約が締結されると有賀長雄はフランスに飛び、著作‘La Guerre Sino-Japonaise au point de vue du droit international.1886,Paris’(和名『日清戦役国際法論』)を刊行し、日清戦争及びこの事件が正当なものであると論じた。

 評価と研究
 報道は真実であったとする見解
 便衣兵以外が殺害されたのは0ではないから、虐殺だとして史実であると主張する研究者もいる。
 大江志乃夫は「(死者の)過半数約六〇〇〇以上が戦闘と関係がない無辜の住民であることは絶対に動かしようがない事実である」と主張している。
 一ノ瀬俊也『旅順と南京』や原田敬一『日清戦争』(吉川弘文館、2008)は、『征清従軍日記』の「山地将軍より左の命令あり。・・・今よりは土民といえども我軍に妨害する者は不残殺すべしとの令あり」との証言を引用して虐殺であったとする。菊池秀明は日本軍は多数の市民を「虐殺」したとする。
 
 イエロー・ジャーナリズムと扇情主義報道
 「イエロー・ジャーナリズム」を参照
 一方、欧米でのジャーナリズム史研究では、旅順の「虐殺」を報道したクリールマンや、掲載された新聞ニューヨークワールド紙がライバル紙と競い合って、イエロー・ジャーナリズムと呼ばれた扇情主義報道を行っていたことが定説となっている。
 ニューヨークワールド紙はピューリツァーによって経営され、ハーストのニューヨーク・ジャーナル(ニューヨーク・モーニング・ジャーナル)紙との扇情主義報道で競争し、両紙はイエロー・ジャーナリズムと呼ばれていた。ニューヨーク・モーニング・ジャーナルやニューヨークワールドの戦争特派員はギリシア、東南アジア、キューバ南アフリカに派遣され、センセーショナルな報道を互いに競い合った。またハーストは特に日本に対する戦争ヒステリー(War Histeria)を盛り上げるのに精力を傾け、ファシズムや人種的憎悪を育成させ、殺人や婦女誘拐や酔っぱらいの喧嘩や全ての不道徳な行為に対する病的な好奇心を激励させていると非難された
 ニューヨークワールド紙でのクリールマンの毒々しい旅順での報道は、グアムとフィリピンをスペインから戦勝で獲得することになる4年後の1898年の米西戦争でのスペインへの国民の敵意と国際世論を煽る扇情主義報道の先駆であり、旅順の「虐殺」報道でクリールマンは扇情主義報道のやり方を身につけることとなったと述べている。クリールマンの、毎日のように中国人の男、女、子供の人肉は切り刻まれ、ほとんどの住民は虐殺され尽くされた、とのセンセーショナルな報道は、ゲルヴィルによってそのような虐殺は一切なかったとの反論を受けている。ゲルヴィルはニューヨーク・タイムズで「私は現地にいたが、女性や子供の遺体は一切見なかった。したがってクリールマンたちのいうような虐殺があったことを信じることはできない」と述べた。クリールマンの報道を耳にしたベルギー公使が現地にいたフランスの武官に尋ねたところ、「女子供の死傷者はいない。住民はほとんど避難しており、軍服を脱いだ兵士らがいた」と否定した。ベルギー公使のその後の「虐殺」の否定で日本への誹謗に反論していることから扇動報道だったと指摘されている。
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🎵21:─2─日清戦争。秋山好古と旅順虐殺誤報事件。日本人を虐殺した中国人。アメリカ・プロテスタント宣教師の反天皇反日宣伝。〜No.46No.47No.48 * 


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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博・   
 日本軍国主義者の戦争犯罪か?
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 日本軍は、人道的に善い事もした。
 日本人兵士は、自分を犠牲にして多くの中国人を助けた。
 軍国日本は、人助けの為にファシスト中国との戦争を続けていた。
 蒋介石の国民党政府は、紛れもなきファシストであった。
   ・   ・   ・   
 タウンゼント「中国人は何時まで経っても中国人であって、幾ら表で愛想を振りまこうとも、裏では何をするか分からない人間である事を重々承知している」(『暗黒大陸 中国の真実』)
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 旅順虐殺。秋山好古の副官報告「耳を削ぎ、鼻を削ぎ、目玉をえぐり出し、陰茎を斬り落として喉に詰め、やっと鈍(なまく)ら刀で首を引き斬っていく」
 山県有朋「生擒(せいきん。捕虜)に遭わば(なれば)死に勝る苦痛を受けついには野蛮惨毒の所為をもって殺害されるは必定なり」
 日本軍は、全将兵に清国軍(中国軍)の捕虜になると地獄の様な手法でなぶり殺しにされてから惨殺されるとして、生きて捕虜になるより死ぬ事を命じた。
 欧米列強から派遣された観戦武官達は、本国に戦況を報告すると共に、日本軍兵士が報復的な虐殺や略奪などの戦争犯罪を行っていない事を伝えた。
 A・ダネタン(ベルギー公使)「日本軍は戦友の傷ましい姿にもじっと感情を抑え、支那人捕虜に報復する事もなかった」
 日清・日露両戦争に於いて。日本政府は、国際法を遵守して戦争をしている事を全世界に知らしめるべく、各国に対して希望すれば各遠征軍司令部に観戦武官や従軍報道員を派遣する事を認めた。
 日本軍は、各国の観戦武官や従軍報道員の見ている前で戦っていた。
   ・   ・   ・   
 2017年3月16日号 週刊新潮「変見自在 高山正之
 トランプの真実
 日清戦争のときも旅順要塞攻略戦はあった。
 その10年後の日露戦争ではロシア人が精魂込めて邪悪な改装を施し、ために日本側は落とすまでに4ヶ月余もかかった。
 しかし日清戦争では支那人が相手。だからたった1日で陥落し、日本軍は203高地の向こう側、旅順市街の勘定(かんてい)に向かった。
 住民は戦いの前に市外に避難し、軍服を脱ぎ捨ててゲリラ化した支那将兵が民家に隠れ潜んでいた。
 日本軍は1戸ずつあらためて抵抗する残敵を掃討し、降伏した支那兵355人を捕虜とした。
 以上は駐日ベルギー公使アルベール・ダネタンの本国への報告内容だ。公使は最前線にいたフランス人観戦武官ラブリ子爵から直(じか)に聞き取っている。
 その子爵のはるか後ろで遊んでいたのがニューヨーク・ワールド紙のジェームズ・クリルマンだった。
 彼はこう報じた。
 『日本軍は旅順市街に入ると冷酷にほとんどの市民を虐殺した。無防備で非武装の住民たちは自分の家で殺され、死体は言い表す言葉もないくらい切り刻まれていた』『2000人は殺されたはずだ』『』
 従軍記者も出していないノースアメリカン・レヴュー誌はそれをもとに『6万人の住民のうち36人だけが生き残った』と書いた。
 見てきたような嘘を尤もらしく流しまくった。
 米国では第一次大戦までインディアンの虐殺を続けた。騎兵隊は抵抗の少ない女子供を狙った。頭髪を剥ぎ、女の性器を剥ぎ取って鞍頭に貼った。
 黄色い日本人は白人より絶対に野蛮だから我々以上に残忍なはずだ。これくらいはきっとやっていると想像で書いたのである。
 支那はその半世紀後、米独の支援を受けて上海の日本租界に侵攻した。
 独の祭神兵器で身を固めていたが、所詮、支那兵は支那兵だった。大敗して南京城まで潰走した。
 日本軍は追って南京を落としたが、城内はもぬけの殻だった。僅かな残敵を掃討して1週間後には逃げた蒋介石軍を追って長江を遡行していった。
 南京にはニューヨーク・タイムズのディルマン・ダーディンがいた。
 彼は日本軍が入って2日後にはそそくさと上海に移ったが、同紙にはまるで1ヶ月も見ていたかのように『日本軍は民間人も捕虜もみな処刑した』『難民も身ぐるみ剝がされた』『支那人の女が拉致され強姦された』と書きまくった。
 神をも恐れぬ米宣教師連中がそれをもっと脚色して東京裁判では30万人虐殺に膨らませた」
   ・   ・   ・   
 中国人と朝鮮は、自分だけの面子のみを最優先し、恩義を感じないし、感謝もしない。
 当然。日本人に感謝はしないし、恩義も一切感じない。
 中国人と朝鮮人は、日本人を見下し、軽蔑し、そして差別し、滅ぼそうとした。
   ・   ・   ・   
 東アジアは、人の命を鴻毛よりも軽く軽視する。
 中国にとって人民は、生きる価値なき虫けら。
   ・   ・   ・   
 中国人は、歴史的に、大罪を犯した者は数百年たっても決して許さない。
 半永久的な復讐文化を持ち、墓を暴き、死体を破損して恨みを晴らす。
 妥協を嫌い、一度いった事は絶対曲げず、死ぬその時まで言い続ける。
 自説は決して曲げず、相手が根負けして主張を引っ込めるまで大声を張り上げてがなり立てる。
   ・   ・   ・   
 儒教の徳目である避諱(ひき)は、真相を巧妙に隠蔽し、真実を永遠に闇の中に葬り、責任を相手に擦り付け為に嘘八百並べ立てる事を正当化している。
 中国人は、世界文明を生みだし偉大な民族としての面子にこだわる。
 その面子を守る為なら、平気で他人を非難中傷し、そして殺害する。
命を賭けても、面子を守ろうとする。
 裁判の折には、勝訴を勝ち獲る為に不利になる真実を隠し、事実を意図的に歪曲し、ない事を悪意で捏造して、相手の言い分が通らない様に貶しに貶してがなり立てた。到底あり得ない出鱈目の話しでも、相手を罪に貶められると思えば嘘八百で言い募った。その為に、儒教価値観が最大限に利用された。
 より多くの利益を不正に掠め取る為に、嘘で塗り固めた虚偽の申告を当然の如く行った。
 日本の罪を認めて謝る正直者が褒められる的な「愚直な文化」とは正反対に、東アジアは正直者や真面目な者が馬鹿をみる的な「虚偽の文化」である。
 中国の歴史が主義・主張を伴った謀略的政治宣伝であるのに対し、日本の歴史は心情・情緒を大事にした遺訓的物語である。
 儒教「寡(すくな)きを患(うれ)えずして、均(ひと)しからざるを患う」
 「和して同ぜず」
   ・   ・   ・   
 中国共産党は、国民党を内部から崩壊させる為にスパイを送り込み、政府高官や軍幹部になって中枢部に入り込んで人脈を広げ、偽情報で混乱を引き起こして麻痺させ、不満を煽って暴動に発展させて大打撃を与えていた。
 中国共産党のスパイ攻勢は、孫子の戦略に従って巧妙に行われていた。
   ・   ・   ・   
 ファシスト中国軍は、日本人兵士捕虜に対して、中国共産党の様な共産主義革命戦士への洗脳教育を行わず、地獄の様な責め苦を与えてなぶり殺しにしていた。
 中国軍は、敵兵士捕虜に対して日本軍とは正反対の扱いをしていた。
 伝統的に中国大陸を支配していたのは常識の通じない猟奇的な狂気で、立ち止まって我を振り返るという冷静は無縁で、人情・情緒・情義は微塵も存在していなかった。
   ・   ・   ・   
 日本軍には、中国軍兵士捕虜を収容するだけの食糧も医薬品も不足していた為に、武装解除して「解き放つ」意味で、全部隊に対して「捕虜処分」を命じた。
 ファシスト中国軍は、戦争の勝利を最優先として、日本軍の進撃を阻止する為に各地で焦土作戦を実行し、農村の田畑や灌漑施設を破壊し、兵糧となる農作物や家畜を収奪し、労働力を与えない為に動ける若い男を強制連行して女子供や老人、病人や負傷者を大量に残した。
 日本軍は、占領地を抗日ゲリラ・便衣隊の拠点にしない為に、残された大量の中国人民を救済すべく、餓えた者には食べ物を与え、病人や負傷者の治療を行った。
 都市部では近代化支援を農村部では食糧増産を、限られた軍需予算から必要経費を捻出して投入した。
 治安回復の為に、破壊された鉄道、道路、港湾施設そして学校や病院などのインフラ整備を急い、物流を回復あせた。
 日本人専門家や日本軍工兵隊だけでは人不足の為に、中国人に各種の教育を行い人材育成を急いだ。


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日本の天皇―国難と天皇の歴史 (Town Mook)

日本の天皇―国難と天皇の歴史 (Town Mook)

  • 発売日: 2011/08/03
  • メディア: ムック

🎵21:─1─日清戦争は、清国(中国)と朝鮮にとっては懲罰戦で、日本にとっては対露戦の前哨戦であった。高陞号事件。1894年。〜No.43No.44No.45 * 


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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国は、日清戦争を日本の大陸侵略であると非難している。
 日本にとって、日清戦争は、中国から日本を守る為の自衛戦争であった。
 日本は、正当防衛の戦争に勝利し、台湾を領土とし賠償金を得た。
 国際法は、日本の権利を認めた。
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 日本が最も恐れた強敵はロシアであった。
 ロシアの侵略から如何にして母国日本を守るか、それが軍事戦略であった。
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 2014年7月25日 msn産経ニュース 「安倍政権は「120年前をほうふつ」 「日清戦争開戦」に絡め中国メディア [日中関係
 日清戦争(1894〜95年)開戦120年に当たる25日、中国各紙は「歴史をかがみに警笛を鳴らそう」などと主張する社説を掲載した。国営通信の新華社は「侵略の歴史」に絡め、安倍晋三政権の安全保障政策への警戒を呼び掛ける論評を発表。習近平指導部は「屈辱の歴史」や「日本の脅威」を強調することで、一層の軍拡を正当化していくとみられる。
 新華社は、安倍政権は「積極的平和主義」などのスローガンを掲げつつ集団的自衛権行使容認を閣議決定するなど「『富国強兵』を進めており、120年前をほうふつとさせる」とした。共産党機関紙、人民日報は日清戦争での敗北を教訓として「(中国の)核心的利益」を守るために十分な戦力が不可欠と主張。一方で、敗北は「清朝末期の深刻な腐敗も原因」と指摘した。(共同)」
   ・   ・   ・   
 福沢諭吉「今まで、一度も戦争をして勝った事のない、逃亡ばかりしていた清国兵が勝ちに乗じたとき何をするか、その残酷無比を考えたら、中国と戦争する以上は、必ず勝たねばならない」
   ・   ・   ・  
日清戦争(1894年8月〜95年4月)
 1894年 明治天皇も、伊藤博文らも、ロシア帝国に備える為に清国との戦争は極力避けたいとして、話し合いによる外交を続けていた。
 だが。強国意識の強い清国は、軍事力で威嚇して話し合いによる平和的解決を拒否した。
 清国の対日強硬派は、西洋文明に感化された日本を、儒教価値観による中国中心の東アジア体制の支配下に隷属させるべきだ主張し、日本への懲罰戦の決行を求めた。
 世に言う、東征論である。
 清国高官の多くは、アジア最大の大国であるという驕りから、優勢な武力を見せつければ日本は戦わず降伏すると高を括っていた。彼等の多くが、日本と直接的に関係を持っていなかっただけに、日本と戦う意志はなかった。
 李鴻章は、北洋大臣として朝鮮をめぐって日本との利害関係が深かった為に、朝鮮の主導権をめぐって戦わざるを得ないと腹をくくっていた。
 北洋軍の幕僚らも、日本との戦争の為に軍備強化を進め、開戦時期を決めるのは日本ではなく清国であると決め込んでいた。
 朝鮮の袁世凱も主戦派であったが、軍隊の陣容が調わない現状においてその時ではないと考え、日本との衝突回避に朝鮮に圧力をかけた。
 朝鮮の親中国派は、日本勢力を半島から完全追放する為に清国軍2,400人の駐留に協力した。
 朝鮮政府は、袁世凱の要請に従い、大鳥圭介公使に対してこれ以上の日本軍増派は無用であると抗議した。
 東学党・農民の反乱鎮圧に派兵を要請したのは、宗属関係にある清国であり、日本ではないと言い切った。
 清国と日本が朝鮮に関してどの様な条約・約定を交わそうとも朝鮮政府には関係なく、大軍派遣は朝鮮国の主権を踏みにじる不法行為であると抗議した。
 大鳥公使は、東京の陸奥宗光外相に、日本軍の増派は清国軍との武力衝突の危険があるとして、しばらくの間で日本軍の輸送を差し止めるべく要請した。
 清国は、事後承諾として、朝鮮出兵を日本に伝えた。
 陸奥宗光外相は、清国の文書に朝鮮を「保護属領」とする文言があった事に対して、清国に厳しく抗議する様に主張した。
 伊藤博文ら首脳陣は、清国と戦争に不同意な明治天皇の意向に従って、清国を刺激しない様に「日本は朝鮮を属領とは認めていない」との語調を抑えた抗議文を送った。
 だが。大国意識と強い清国は、日本側の思惑を完全無視し、朝鮮に関する抗議に一切耳を貸さず、朝鮮はおろか日本を属国として中国中心の中華体制に組み込もうとしていた。
 日本は、自主独立国としての名誉から中国の軍事圧力を拒絶した為に、両国の戦争は避けられなくなった。
 当時の日本は、戦争を嫌う現代日本とは違って、祖国防衛の為ならば戦争をし如何なる犠牲を出そうとも厭わない覚悟があった。
 林外務次官「如何にして平和に事をまとむべくかというを議するにあらずして、如何にして戦いを起こし、如何にして勝つべきか」
 陸奥宗光外相「今日我が朝鮮に対する勢力は、未だ支那の積威に及ばざる観ある」
 日本は、ロシア帝国の侵略から祖国を防衛する為に朝鮮の独立を目指していた。
 清国は、伝統的華夷秩序による中華体制でアジアの指導権を再確立しようとしていた。
 両国の思惑の相違によって、協調や提携は不可能となり、問題解決は武力以外になくなった。
 朝鮮は、清国軍が救い主となって侵略してきた日本軍を殲滅し、中華皇帝が西洋かぶれした儒教的不道徳な蛮族日本を消滅するのを高見の見物した。
 何時の時代でも、朝鮮は日本を滅ぼす為に大陸国の軍事力を利用していた。
 日本の不幸は、日本を絶えず敵視し隙あらば滅ぼそうと企んでる朝鮮を隣国に持ち、その朝鮮によって祖国の安全を脅かされていた事にある。
 日本と朝鮮の間には、友好の文字は存在しなかった。
 日本軍は、李鴻章同様に、すでに開戦の決断をして軍隊の手配を進めていた為に、今さら派遣を中止する事に同意しなかった。それよりも、開戦の口実を作るように外務省に強く要望した。
   ・   ・   ・  
 6月2日 日本政府は、公使館警護と在留邦人保護を名目に、朝鮮への派兵を決定した。
 明治天皇は、本心では不同意であったが派兵を裁可した。
 6月5日 在朝鮮国公使大鳥圭介は、一時帰国していたが、非常事態に備えて海軍陸戦隊の警護で朝鮮に戻った。
 6月6日 李鴻章は、日本との戦争を避けたかったが、朝鮮からの派兵要求を受けて北洋陸軍2,500人を半島に送った。
 6月下旬 陸奥宗光外相は、駐日清国公使に、両国共同で朝鮮の国政の大改革を提案を行った。
 閔妃派政権に農民暴動の責任を取らせた退陣させ、大院君を復権させて新たな政権下で国を治めさせるというものであった。
 清国側は、日本提案を朝鮮の宗主権への侵害として拒否したが、日本主導の国政改革は反日派の猛反対で成功しないと踏んで口を出さなかった。
   ・   ・   ・   
 7月10日 大鳥圭介公使は、朝鮮政府に、清国軍の引き揚げを要請するように圧力をかけた。清国軍は、同時撤兵しない限り、単独での撤兵はありえないと拒否した。
 7月15日 大鳥圭介公使は、朝鮮政府に、清国との間にある全ての条約を破棄するように要求し、回答期限を48時間以内と区切った。
 7月16日 日本は、イギリスとの条約改正の調印に成立し、新しい日英通商航海条約が成立した。
 ロシアは、イギリスが日本に接近した事に警戒し、戦争に介入する意欲をなくした。
 日本は、ロシアに日英合意で満州・朝鮮に介入しないと分析して、軍事行動を進めた。
 7月20日 袁世凱は、日本側の不穏な行動を察知して漢城を脱出した。
 7月23日 日本軍が朝鮮王宮・景福宮を占領して日清戦争が始まった。
 日本連合艦隊は、佐世保港を出撃した。
 日本軍は、清国との戦争は避けられないとの判断から、清国派とも言うべき閔妃派を政権から追い出す事を要請した。
 午前3時 大鳥圭介公使は、回答がなかったとして、海軍陸戦隊と巡査隊を出動させ武力で王宮を占領した。閔妃派政府要人を退陣させ、大院君を担ぎ出して無理やり執政に据えた。
 開化派金弘集は、日本の支援を受けて政権を発足させ、朝鮮の近代化の為に守旧派の反対を押し切って大規模な政治改革を断行した。甲午改革である。
 近代化の障害となっていた科挙身分制度、人身売買、拷問などを廃止した。
 午前11時 日本海軍の連合艦隊が、佐世保軍港を出港して朝鮮海域に向かった。
 午後 イギリス国籍の貨客船高陞号は、清国軍第二次増援部隊1,400人を朝鮮に運ぶ為に、中国永定河河口の大沽を出港した。
 7月24日 大院君は政敵の閔妃を処分しようとしたが、大鳥圭介公使はこれ以上の混乱は好ましくないとして閔妃を庇った。
 日本側は、反日的な朝鮮政府軍を後方においては清国軍と戦えないとして、大院君に対して政府軍の武装解除を命じた。
 大院君は、日本側の不当な要求に屈し、政府軍に対して武装解除を命じてた。
 政府軍は、日本軍の横暴に煮えくり返る様な怒りを感じたが、政府の命令に従った武器を日本軍に引き渡した。反日派は、秘かに、日本軍の動向を清国軍に伝え、反日武装闘争を計画した。
 大鳥圭介公使は、大院君に内政と外交を司る機関として軍国機務処の設置を命じ、初代総裁に親日派金弘集を就任させた。さらに、近代国家の体裁を整える為の改革案を押し付けた。世に言う、甲午改革である。
 日本政府は、軍国機務処と大日本大朝鮮政府盟約を結び、朝鮮国内で日本軍が自由に軍事行動をする権限を得た。
 「日本国は清国に対して攻守の戦争の任し、朝鮮国は日本兵の進退および其の兵糧準備のため、及だけ便宜を与うべし」
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 石光真清「眠れる獅子と言われていた清国に、東海の一小国が宣戦布告をしたのであるから、世界各国は驚いた。実のところ私たち青年将校も顔色を変えて驚いたのである。世界最強のロシアでさえが、清国と衝突をさけて……傍観態度に変わったのである。……東洋一の大国である清国に戦いを宣して容易に勝てる確信はなかった」
 日本の歴史上、中国と戦って勝った経験がなかった。
 日本人は、古代から、禽獣の住む野蛮国として中国から高度な文物や技術を学んで来たと言う自覚から尊敬し、文明国となる為に模範とすべき儒教聖人君主の国であった。
 常識ある日本人であれば、清国と戦っても勝てないと意気消沈していただけに、清国との戦争は避けたいと願っていた。
 清国は西欧列強が認める巨大国家であり、日本は国際世論が認める弱小国であった。
 国家存亡の危機であるとして、キリスト教徒の内村鑑三らは日清戦争は義戦、正義の戦いであると訴えた。
 各地の旧士族は、愛国心から義勇兵を結成し、朝鮮に渡ろうとした。
 福沢諭吉は、「日本臣民の覚悟」を説いて、1万円(現在の1億円)を軍費の足しにする為に献金した。
 帝国議会では、与野党が、「国家とは、平時は政府に従い、戦時は軍部に従う」の鉄則から、挙国一致で国難を乗り越えるべしとして政治的休戦を申し合わせた。
 強大国である清国の復讐に恐怖する日本人は、今後日本には手を出せないと思わせるまで徹底的に攻撃するべきであると、半狂乱となって好戦的な主張を繰り返していた。
 政府や警視庁は、中国の報復を恐れて、「虚偽無根の事を説き少年婦女子を惑わし、または血気の壮年輩を激昂せしめざるよう」にと、中国人を侮辱して戦意を煽る行為に注意をした。
 アジア主義者は、西洋列強の侵略から東洋を守る為には日本、清国、朝鮮だ大同団結して対抗すべきであると、「大東合邦論」を訴えていた。
   ・   ・   ・   
 清国の国力は、欧米列強より少ないといっても、日本の国力と比べれば雲泥の差があった。
 清国海軍も日本海軍よりも遙かに強力で、三等国並みの貧弱な日本艦隊では世界最大級戦艦を保有する二等国並みの北洋海軍に対抗するだけの攻撃力はなかった。
 日本軍首脳部は、彼我の海軍力を考慮し、制海権を奪われて日本と半島の兵站輸送輸送が遮断され、清国軍が日本本土に侵攻するという最悪の事態を想定して秘かに本土防衛の作戦を策定した。
 サムライは、生き死に賭けて戦う以上、考えられるだけの攻めと守りを考えていた。
 言霊を信じて、敗走や敗北を口にすると現実に起きるかも知れないから、口には出さないとか考えないという非現実的な狂人的なサムライは誰もいなかった。
 そう考えるのは、戦争を考えない、戦略どころか戦術さえ思い付かない無能な現代日本人だけである。
 サムライ軍人は、天皇の大権である軍隊を動かし、天皇の臣下である国民を戦場に送り出す以上は、失敗すれば責任を取って切腹して果てるという覚悟の元で戦争を始めた。
 サムライ軍人にとって軍隊は、中国の様な権力者の私兵ではなく、大元帥天皇の公兵であるがゆえに勝手に動かせるものではなかった。
   ・   ・   ・   
 7月25日 午前7時52分 豊島沖海戦日本海軍の巡洋艦三隻は、清国海軍の巡洋艦二隻を発見するや、国際法に則り表敬の礼砲を準備した。
 中国海軍軍艦は、自分の方が有利と判断し、国際法を無視していきなり砲撃を加えた。
 日本海軍軍艦は、正当防衛として猛反撃した、一隻は戦意を喪失して逃走し、もう一隻は座礁して自爆した。
 中国は、自分都合の良い法律を事後法として作り、都合の悪い国際法は一切無視した。
 高陞号事件。
 10時40分 浪速艦長東郷平八郎は、近くを航行していた砲艦一隻を拿捕し、高陞号に投降を命じた。
 英国ロンドン所在インドシナ汽船会社代理店ジャーディン・マセソン・コンパニー(怡和洋行)所有の高陞号は、清国兵約1100人、大砲14門、その他の武器を牙山に輸送中であった。
 午後1時45分 浪速艦長東郷平八郎は、国際法の手順に従って高陞号船長ゴールズワージーと2時間に渡って問答を繰り返した後に、抑留が不可能と判断して「撃沈」を命じた。
 「撃ち方始め」の命令とともに水雷が発射され、砲撃が開始された。
 浪速の端艇は、泳いで浪速に向かってきたヨーロッパ人船員士官全員を救助した。
 浪速は、溺れている清兵達を見捨てて立ち去った。
 イギリス世論は、自国の民間船が日本海軍の攻撃で撃沈された事に激怒し、溺れている清国兵を見殺しにした事を非難した。
 イギリスの国際法学者トーマス・アースキン・ホランドとジョン・ウェストレーキは、タイムズ紙に、高陞号問題に対して日本側に違法行為はなかったと掲載した、
「高陞号の沈没したのは戦争が開始されたあとである。戦争というものはあらかじめ宣言せず始めても、少しも違法ではない。これは英米の法廷で幾度も審理され確定している。高陞号の船員は初め戦争が起こったことを知らなかったに違いない。だが、日本の士官が船に乗り込んできたときこれを知ったとみなさざるをえないし気づくべきであった。このとき英国旗をかかげていたか否かは重要ではない。戦争が始まったのであれば交戦国の艦艇は公海上ならあらゆる船を臨検し交戦国の船、第三国の船でも相手国向けの戦時禁制品が積んであればこれを没収、あるいは破壊・処分し、必要なら撃沈するというのは艦長に認められる権利だからである。日本水兵が乗船しても捕獲することは不可能と認められるので、日本の(浪速)艦長が、いかなる暴力を用いようとも、それは艦長の職権である。また沈没後に救助された船員は規則通り自由になることができたので、この点でも国際法に背馳していない。それゆえ日本政府が英国に謝罪する義務は生じない」。
 7月29日 日本軍の大島混成旅団約3,000人は、牙山の清国軍約2,000人を攻撃して敗走させた。
 大院君は、緒戦での清国軍の敗走に衝撃を受けたが、最後には大国清国が勝利する事を確信していた。 捕らえている東学党を釈放して、日本軍の後方から攻撃しさせるべきだと献策した。
 さらに、政敵の閔妃の操り人形となっている高宗を廃止して、王族の李筇鎔を新たな国王にするべく画策した。
 李筇鎔謀反事件である。
 朝鮮の権力者は、国家の存亡よりも、党利党略を優先し日本、清国、ロシア帝国を利用していた。
   ・   ・   ・   
 軍事大国清国・中国対軍事小国・日本の戦争。
 世界常識は、清国の勝利、日本敗北。
 日本の基本戦略は、ロシア帝国の侵略から祖国日本を守る事であった。
 その為に、朝鮮を清国・中国の2000年の属国から独立させて主権国家にする事であった。
 清国の基本戦略は、弱小国日本を懲らしめて属国化し、朝鮮を領有する事であった。
   ・   ・   ・   
 ジュネーブ条約は1899年に改訂され、戦時下で漂流者を発見しても救助せず立ち去る行為は戦争犯罪とした事に変わりはなかったが、敵の攻撃が予想される状況下では自衛行為として救助せず放置して立ち去る事を認めた。
 亦、敵意を見せている敵兵の漂流者を救助して暴動を起こす危険性がある時は、敵兵の漂流者を放置して立ち去る行為も違法ではないと認めた。
 東郷平八郎の行動は、戦時国際法上合法と認められた。
   ・   ・   ・   
 第一次世界大戦時。ドイツ海軍潜水艦は、イギリス海軍巡洋艦を雷撃で撃沈した。
 イギリス海軍の僚艦2隻は、沈没した巡洋艦から脱出して漂流している味方の将兵を救助する為に、現場し停船して救助のあたった。
 ドイツ海軍潜水艦は、その内一隻も撃沈した。
 イギリス艦艇は、味方の漂流者を救出しようとした為に更なる犠牲者を出してしまった。
   ・   ・   ・   
 8月1日 日本政府は、清国に対して宣戦布告をおこなった。
 明治天皇は、「朕の戦争に非ず、大臣達の戦争なり」
 日清戦争の勃発である。
 日本軍36万人対清国軍130万人以上。
 参加兵力。日本軍24万人。戦死者1,132人。病死者1万1,894人。戦傷病者3,758人。対。清国軍63万人。死傷者3万5,000人。
 清国側は、大国という自意識から、小国の日本は恐怖して謝罪し従属を表明するこそすれ、まさか戦争を仕掛けてくるとは信じていなかった。
 李鴻章は、朝鮮内の内通者の情報を得て対日作戦を練り、軍隊と艦隊を移動させた。
 清国は、日本側の挑発であると非難して、国際世論を反日化させて味方に付けようとした。
 日本は、宣戦布告前に、騙し討ちや不意打ちといつた卑怯な行為を行う国であるというのが、世界常識となった。
 日本は、戦死した日本人を全て靖国神社に神として祀った。
 清国は、戦死した有力者の子弟である将校を手厚く弔ったが、そり以外の身分低い庶民出身兵士は見捨てた。
   ・   ・   ・   
 日本軍は、近代国家の軍隊である事を証明する為に、国際法専門家や諸外国の観戦武官を引き連れて転戦し、負傷して捕虜となった清国軍兵士の傷を手当てし、他の捕虜と一緒に武装解除して故郷に返した。
 戦死者は、敵味方関係なく平等に葬り、石碑を建立して冥福を祈った。
 だが。清国軍は、伝統的戦場の作法に従い、捕虜となった日本人兵士を世にも恐ろしい手段で虐殺し、死体への尊厳を示すことなく放置して鳥や獣の餌とした。
 進軍する日本軍は、各地で放置された同胞の惨殺死体を見るにつれて、中国人への憧れ的な幻想を捨て、中国人を憎み「チャンコロ」と蔑称で呼び捨てた。
   ・   ・   ・   
 9月 執政大院君は、近代化の名目で伝統的王朝体制を破壊する日本に嫌悪し、清国側に日本軍の情報を流し、ロシア帝国に朝鮮への干渉を有利にする為に日本側の情報を伝えた。
 朝鮮は、日本を滅ぼす為に清国とロシア帝国を利用しようとした。
 日本にとって、朝鮮とは、古代からそうした存在であった。
   ・   ・   ・   
 9月16日 日本軍第一軍1万7,000人は、清国軍1万2,000人が守る平壌城を攻撃し、多大なる犠牲を出して勝利を収めた。日本軍は、敗走する清国軍を追って国境を越えて、遼東半島の大連と旅順の攻略に向かった。
 新たに第二軍がが編制され、旅順攻略の為に日本を出発した。
 9月17日 黄海海戦。日本艦隊は、軍艦11隻、総砲門数大口径砲11門を含む220門。清国艦隊は、軍艦14隻、総砲門数大口径砲21門お含む162門。戦力は、清国艦隊の方が優性であった。
 日本軍艦は数多くの砲弾を受けて被害は甚大であったが、沈没は一隻もなかった。清国海軍は、沈没3隻、座礁2隻の被害を受けて敗走して、威海衛に逃げ込んだ。
   ・   ・   ・   
 東学党は、日本人を朝鮮から追い出すべく第二次蜂起を決行した。各地の農民達は、反日闘争に参加した。農民軍の総兵力は、11万人以上であった。
 日本軍は、東学党の不穏な行動を察知して、漢城周囲の守備を固めた。
 10月24日 日本軍第一軍は、清国軍を追って国境を越えて進軍した。補給部隊などの少数部隊は朝鮮北部に集中し、南部では日本軍部隊はいなかった。
 朝鮮政府は、厳格な儒教秩序を破壊し、伝統的な身分制度を危うくするものとして討伐軍を派遣した。
 漢城の日本公使館は、農民軍討伐の為に、朝鮮政府軍内の親日派将兵約1,400人に武器を返還した。
 日本政府も、清国との戦闘中の事であり、事態の深刻さを痛感して予備兵力を治安用に派遣した。この結果、日本軍の兵力は底を突いた。
 10月26日 日本政府は、大院君の利敵行為を封じる為に、李氏朝鮮王朝に同情的な大鳥圭介公使を解任し、内務大臣の井上馨を後任公使として漢城に送った。
 井上馨公使は、大院君を執政の座から追放して高宗を復権させた。
 王宮の奧で身を潜めていた閔妃も、高宗の復権と共に政務に関与し、追放されていた閔妃派を集めて政権復帰を画策し始めた。
 閔妃は、反日派として、清国の最終勝利を信じて日本の情報を李鴻章に流し、ロシア公使ウエーバーに反日活動への協力を得るために接近した。
 日本軍第一軍は、九連城を陥落させ、さらに幾つかの城塞を奪いながら清国領内へと進軍を続けた。
 日本政府は、戦争を早期で解決する為に、極秘で講和の道を探り始めた。但し、弱気と取られ交渉が不利になる事を恐れ、軍部は北京まで進撃して清国皇帝に城下の盟を強要すべきと息巻いた。
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 11月 日本軍と朝鮮政府軍の連合軍は、農民軍に比べて兵力は少なかったが、近代兵器を装備していた。
 連合軍は、公州で北上してきた農民軍を激闘の末ね撃退した。
 朝鮮政府軍は、治安回復の為に、敗走する農民軍残党を反逆者として各地で掃討し、参加した農民や蜂起に賛同した者への弾圧を強めた。
 農民軍に参加しようがしまいが関係なく、農民軍がいた地域での農民狩りを大々的に行った。捕らえた者は、女子供に関係なく、全て惨たらしい方法で処刑した。
 その地域にある地主や豪商の家を襲撃して、家具調度など手当たり次第略奪し、止めにかかった家人は反逆巣あの一員として猟奇的な方法で惨殺した。 
 残党狩りは、この後、10年以上続いた。殺害された者は、40万人以上と言われるが、実数はさらに多いとされている。
 朝鮮人民は、朝鮮政府軍の執拗な弾圧を日本軍の所為として、虐殺は日本の差し金として日本を呪った。
 東学党員の一部は、日本に亡命して天道教を興し、反日活動を続けた。
 東学党の農民蜂起は、フランス革命に匹敵する快挙とされている。
 11月6日 第一師団は、金州城を攻略した。
 大陸における戦争で、殺戮と略奪と強姦は当然の事であった。 
 中国では、中国人住民が傷付いた清国兵を襲撃し斬殺して、身包みを剥いで死体を野良犬の餌とした。
 中国人は、戦争がある度に虐殺を行っていた。
 11月21日 大山巌(下級武士出身)大将率いる第二軍は、1万3,000人以上の清国兵が守る旅順要塞を攻撃したが、清国軍は戦わずに敗走した為に無血占領した。この時、日本軍による大虐殺が起きたとされている。
 日本軍は、兵站線が延びて補給が困難となった事を理由にして進軍を停止し、冬を越す為の野営を張った。
 ニューヨーク・ワールド紙は、日本軍による残虐行為があったと報道した。
 「日本軍は旅順で6万人市民を虐殺した」
 駐日ベルギー公使アルベルト・ダネタンは、残虐行為があったかどうかを検証し、アメリカ紙の報道は「悪意ある」デマであると公表した。
 12月28日 金琫準は、逃亡に疲れ報奨金に目が眩んだ部下の裏切りによって捕らえられた。翌95年4月23日に、仲間と共に処刑された。
   ・   ・   ・   
 仏フィガロ紙「(清国兵は)逃げながら朝鮮人の家々に押し入り、略奪、強姦、虐殺をほしいままにした」
   ・   ・   ・   
 清国軍は、日本人捕虜を取らず猟奇的陰惨な手段で処刑した。
 中国では、古来、敵か味方かの2者しか存在せず、味方につかない者を帰国させると敵軍兵士として攻撃してくるので殺した。
 日本軍は、清国軍は自分達同様に捕虜を取り戦争が終わるまでは収容所に収容すると思っていたが、中国人には国際常識が通用しない事を知った。
   ・   ・   ・   
 秋山好古への報告「(日本軍兵士を捕虜にした清国兵士は)日本兵の耳を削ぎ、鼻を削ぎ、さらに顔の皮を剥ぎ、男根を切り落とした上で、鈍刀で首を切り落とした」
   ・   ・   ・   
 中国人が法を守らず、残虐行為を行う事は、誰もが認める所であった。
 日本人は、そうした中国人になりたいとは思わなかった。
 但し、大陸人である中国人に憧れ、中国人の様になりたいと思う日本人は昔からいた。
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 山縣有朋は、清国軍の捕虜になると身の毛もよだつような虐待を受け、猟奇的方法で惨殺されるとして、捕虜になるくらいなら自決せよとの戦陣訓を全軍に通達した。
 「軍人といえど降る者は殺すべからず(民間人ならなおさら)。然れどもその詐術(偽りの降伏)にかかるなかれ。かつ敵国は古きより極めて残忍の性を有す。誤って生擒(せいきん、捕まれば)に遭わば必ず残虐にして士に勝る苦痛を受けついには野蛮な惨毒の所為をもって殺害せらるるは必然なり。決して生擒(中国人の捕虜)する所と成るべからず。むしろ潔く一死を遂げもって日本男児の名誉を全うすべし」
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 東條英機「生きて虜囚の辱めを受けず」など、中国戦線で中国軍と戦った軍人の全てが、部下の将兵に中国人の捕虜になると非人道的な扱いを受け、見るも無惨に惨殺を受けると訓示した。中国人兵士は、日本人には想像もつかない常軌を逸した残忍な敵であり、息絶えるまでじわじわといたぶられなぶり殺しにされるよりは、むしろ戦死するまで戦えと。
 但し。降伏してきた中国人兵士は、強制的に兵士に仕立てられた哀れな良民であるから、天皇の御稜威で保護し、この後は銃を持って戦わず生業に励むように諭して帰郷させよと命じた。
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 日本の人間観は、個人と集団をハッキリと峻別する。銃を持って戦う敵兵・中国兵と、銃を持たない敵国人・中国人は、別の人間である以上は扱いを変えると。こうした個別に分ける人間観は、日本だけの常識であり、世界では通用しない非常識である。
 日本の神道は、「罪を憎んで人を憎まず」の性善説をとっていた。
 日本人はよく騙されそして裏切られる、それでも相手を信じて止まない。
 国際常識は、キリスト教性悪説である。
 気弱な日本は、気の強い清国・中国以上に、国際社会の評判・評価を病的なほどに気にし、まともな近代国家であろうとした。

 


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日本人のこころ -神道-

日本人のこころ -神道-

🎵18:─1─清国(中国)の軍事的脅威。日本の死の恐怖。1888年。~No.37No.38 * 


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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博・   

 儒教圏に於ける天下とは、龍の紋章を持ち黄金の服を着る中華皇帝の天下であって、菊の紋章を持ち紫の服を着る日本天皇の天下ではない。
 鳳凰の模様を持つ事を許され赤い服を着る朝鮮国王は、中国皇帝の大臣以下の臣下として、独自の天下を持っていなかった。 
   ・   ・   ・   
 中華帝国は、儒教による華夷秩序を世界に広める為に周辺諸国を侵略し、隷属国として従わなければ根絶やしにしてきた。
 中国の歴史は、侵略戦争による虐殺史である。
 朝鮮は、中華帝国の臣下として朝貢冊封を受け入れた。
 日本は、万世一系男系天皇制度(直系長子相続)を理由にして自主独立を守り通した。
 万世一系男系天皇制度(直系長子相続)は、日本民族の存続の大本である。
 皇統は、血筋で守られてきた。
 神代から続く血筋の証明がなくなった時、万世一系男系天皇制度(直系長子相続)は消滅して、日本民族日本人も消滅する。
 それは、日本が中国化した証である。
 一部の日本人は、日本国籍を嫌悪して捨て去り、日本民族の民族性を完全否定し、日本の中国化を諸手を挙げて歓迎している。 
   ・   ・   ・   

 1888年 伊藤博文首相と山県有朋参謀本部長は、朝鮮と中央アジアをめぐるイギリスとロシア帝国の戦争が、日本に波及して安全を脅かす危険を避ける為に軍備を強化する事が重要であると、明治天皇に上奏した。
 日本政府と軍部の国防戦略は、朝鮮を清国の宗属関係から切り離し、国際社会に自主独立国を認めさせて攻守同盟を結ぶ、イギリスとロシア帝国朝鮮侵略を食い止め日本の安全を守るというものであった。
 大陸膨張派は、清国とロシア帝国が戦争を起こし、清国が敗北すれば、ロシア帝国は朝鮮の領有を要求すると分析した。そして、清国内の実力者同士の陰惨な政争はその危険を増幅させていると警戒した。その危険を避けるには、朝鮮から強国清国を追放して、日本が朝鮮を支配するしかないとの結論を出した。
 朝鮮が、国際情勢を正しく認識し、欧米列強の侵略から自国を守る為に自主独立を宣言すれば、日本は朝鮮を支配し大陸に進出する必要がなかった。
 日本が国家の安全を守る為には、朝鮮をロシア帝国の植民地あるいは領土の一部にするわけには行かなかったのである。
 東京裁判でのアメリカ側検事は、日本の戦争犯罪を証明する為には、日清・日露戦争までさかのぼって日本の大陸侵略政策を究明する必要があると語った。
   ・   ・   ・   
 1890年 児玉源太郎陸軍次官は、兵站輸送の充実を図る為に軍港の建設と鉄道の敷設に力を入れ、情報通信の迅速化に取り組んでいた。
 1891年 ロシア帝国は、モスクワ・ウラジオストック間のシベリア鉄道建設に着手した。当初はバイカル湖を船で渡る計画であった所を、迂回して軌道を通す計画に変更した為に、完成は明治38年頃にずれ込んだ。
 日本は、対露戦略を国防の最重要課題としていた為に、シベリア鉄道の完成時期は最大の関心事であった。
 クロパトキン「ロシアは18、19世紀の200年間で平和は71年8ヶ月、その他の128年4ヶ月は戦争に費やし、外国との戦争は33回」(『戦争国家ロシア』)
 1893年4月(〜7月) 川上操六参謀次長は、敵前視察の為に、参謀本部員数人を連れて清国を視察し、戦えば日本軍は勝てると分析した。
   ・   ・   ・    
 日本の安全保障上最重要課題は、朝鮮に親日的政権を樹立させて大陸からの侵略を防ぐ事であった。
 大陸における脅威とは、江戸時代から、東方に領土を広めてきているロシア帝国であった。
 ロシア帝国の侵略を朝鮮半島で防ぐ、それが日本の基本戦略であった。
 日本の朝鮮経略に立ちはだかったのが、朝鮮を属国としていた清国・中国であった。
 開化派は、日本の明治維新を手本として朝鮮を近代化させるべくクーデターを起こした。 甲申政変である。
 守旧派は、夷狄の文化が朝鮮に入るのを嫌い、清国の支援を受けて開化派を追放した。
 日本は、朝鮮に於ける影響力を残す為に、朝鮮と漢城条約を結び、朝鮮への配慮から日本に亡命している開化派の残党を地方に追い遣った。
 開化派を支援したのは、日本の為に朝鮮の改革を成功させようとしていた福沢諭吉と日本の右翼勢力であった。
 日本は、ロシア帝国との戦争に備えて清国との戦争を避けるべく、日清協調路線を取り日清両国は朝鮮の共同保護国であるという建て前を維持しようとした。

 

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♣:103─2─日本国内で中国人違法ビジネス「中国式白タク」が増加し、正規タクシードライバーの営業を妨害している。〜No.581No.582  *    

中国人の頭の中 (新潮新書)

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 2017年10月13日 産経WEST「奈良公園周辺にも「中国式白タク」進出 主要観光地で横行か、スマホで予約・決済、摘発難しく…
 ワンボックスカーをバス停にとめ、中国人観光客を下ろす車=9月21日午後、奈良市
 アジアを中心としたインバウンド(訪日外国人客)が急増する中、在日中国人が自家用車を使って有料で中国人観光客を運ぶ無許可の「中国式白タク」が、各地に広がっている。関西では関西国際空港のほか、奈良市世界遺産東大寺奈良公園周辺でも横行していることが判明。バス停や交差点内で利用者を乗降させるなどの違法行為も目立つ。沖縄では摘発例もあり、近畿運輸局は実態把握に乗り出した。(神田啓晴)
 各地の空港で横行 「友達を乗せている」と言われたら摘発難しく…
 この中国式白タクは、中国の業者が運営するインターネットサイトやスマートフォンのアプリに登録した在日中国人が、日本国内では無許可のまま、自家用車で有償で客を輸送するシステム。訪日客の増加に伴い、関空や成田空港など日本各地の空港で横行、今年6月には中国籍の男2人が道路運送法違反容疑で沖縄県警に再逮捕された。
 だが、予約から支払いまですべてがモバイル決済可能で証拠がつかみにくい上、職務質問された運転手が「友達を乗せている」と答えれば、白タク営業として摘発するのは難しい。
 関係者によると、奈良市内で中国式白タクが確認され始めたのは今年6月ごろから。世界各国からの観光客でにぎわう東大寺奈良公園周辺で、特定のミニバンが中国人の一行を乗降させている様子が確認されているという。
 正規タクシードライバー、苦々しい思い 近畿運輸局「対策急ぐ」
 日本の正規タクシードライバーも苦々しい思いだ。関空で客待ち中の男性運転手(68)は「そもそも現金のやり取りがないと取り締まりできへんのやから、手の打ちようがない」とあきらめ顔。別の男性(70)も「ここ1年で特に増えた。白タクなのか、ほんまに友達の送迎なのかは分からない」。奈良市の大手タクシー会社の男性取締役(68)は「こちらは国の許可を得て責任を持って仕事しているが、白タクは事故に遭っても補償もない。外国に来たとき、母国語が通じるのが安心なのは分かるけど…」と話す。
 近畿運輸局は「情報は入っており、早く対策を取りたい」。県の担当者も「警察に相談するなど対策を講じたい」としている。
やりたい放題? バス停・交差点で中国人が次々と乗降
 先月下旬。「中国式白タク」が横行しているとされる東大寺大仏殿バス停周辺で取材を試みると、手持ちぶさたに座り込む中国人の一行を見つけた。
 バス停にバスが止まっても、乗ろうとはしない。バスが発車して約10分後、1台のミニバンが停車。すると、1人の男性が「来了、来了(来た、来た)」と仲間を呼び、続々とミニバンに乗り込んだ。ナンバーは白、つまり自家用車だ。
 平日のこの日、午後1時半から同3時半までの間、記者が確認しただけでも11台の白ナンバーのミニバンが、このバス停に駐停車。同様に中国人観光客の一行を乗せていった。バス停周辺は今月12日まで整備工事をしており、バスとタクシー以外は駐停車禁止だったが、現場で交通整理にあたった男性作業員(66)は「駐停車する車はいずれも白ナンバーで、乗降客はほぼ中国人」と証言する。
 東大寺大仏殿に近い「大仏殿交差点」内で中国人観光客を乗降させている白ナンバーの車も。観光シーズンには常に渋滞する交差点内での悪質な行為は、違法行為であるのに加え、さらなる渋滞にもつながりかねない。
 中国では昨年11月、「配車サービス」として自家用車で客を有償輸送するビジネスが合法化されており、最大手の「滴滴出行」の登録ユーザーは3億人超とされる。中国の配車業者のサイトやアプリには、奈良観光コースとして東大寺奈良公園周辺が記載されており、中国企業による違法な白タク行為が横行しているのは明らかだ。
 昨年から奈良市内で中国人白タクを見かけるようになったという大手タクシー会社の男性運転手(54)は「どこでも車を止めるから通行の邪魔やし、中国人はやりたい放題や」と憤った。」
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 10月31日 産経ニュース「「中国式白タク」摘発、訪日客向けに運行容疑 在日中国人4人逮捕 大阪府警
 中国人観光客を送迎する無許可のタクシー営業(白タク行為)を関西国際空港などで行ったとして、大阪府警国際捜査課は31日、道路運送法違反の疑いで、大阪市東成区中本、無職、唐(タン)家(ジア)●(=くさかんむりに写の与が木)(ロン)容疑者(28)らいずれも中国籍の男4人を逮捕した。
 急増する訪日中国人向けの違法ビジネスとして、在日中国人が割安で送迎する「中国式白タク」は各地で横行。配車予約や支払いをスマートフォンのアプリを通じて行っており、金銭授受の証拠がつかみづらく摘発が難しかった。府警は関空から白タクを追跡し関係者を割り出すなど、地道な捜査で逮捕につなげた。
 逮捕容疑は6〜9月、国土交通相の許可を得ず、乗用車で7回にわたり、中国人観光客ら約40人を有料で関空大阪市内で乗せたとしている。唐容疑者は「日本に来た友達を観光地に送っただけで、金はもらっていない」と容疑を否認している。
 府警によると、関空大阪市間の料金は正規タクシーなら1万6千円程度だが、唐容疑者らは1万3千円で運行。ワンボックスカーを使い、キャリーバッグなど荷物の多い中国人観光客に好評だったという。」
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日本は中国人の国になる

日本は中国人の国になる


中国人の心理と行動 (NHKブックス)

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「中国人の9割が日本が嫌い」の真実 (TWJ books)

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こんなに違うよ!日本人・韓国人・中国人 (PHP文庫)

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🎼05:─3─エンゲルスはマルクス主義にダーウィンの進化論を取り入れた。階級闘争史観。〜No.7 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 マルクス主義の中の共産主義とは、強者の理論として弱者救済ではなく、階級社会における自然淘汰・適者生存・弱肉強食である。
 それは、発展と進歩、平和と幸福などの「生」ではなく衰退と退歩、闘争と不幸などの「死」であった。
   ・   ・   ・   
 階級闘争史観は、ダーウィンの進化論の影響を強く受けている。
 それ故に、民衆・第三身分によるフランス革命と労働者・人民によるロシア革命は本質から異なる。
 どこが違うと言えば、宗教・キリスト教の存在である。
 フランス革命の民衆・第三身分は、第一身分の聖職者を嫌ったが、カトリック教会に魂の救済を求めていた。
 ロシア革命の労働者・人民は、科学万能主義と反宗教無神論から、信仰を捨て神を否定し宗教を破壊した。

   ・   ・   ・   
 少数派のボリシェヴィキロシア共産党)は、共産主義の5%支配理論で革命軍や警察隊などの公的暴力組織を握ってロシア革命を成功させ、死と暴力による恐怖支配の一党独体制を打ち立てた。

   ・   ・   ・   
 人民・労働者の支持を受けた多数派はメンシェヴィキロシア社会民主労働党右派)であった。
   ・   ・   ・   
 共産主義マルクス主義)は、人類史上最悪の思想で、死体の山を築き、血の湖をつくった。
   ・   ・   ・   
 2019年2月2日号 週刊現代佐藤優 ビジネスパーソンの教養講座
 名著、再び
 第110回 実証主義的手法で書かれたマルクスの実像とエンゲルス思想の危険性
 ジョナサン・スパーパー(小原淳訳)『マルクス──ある19世紀人の生涯』(上・下) 白水社
 ……
 偏屈なマルクスは周囲の活動家から孤立していたので、大英博物館の図書館に通い、膨大な資料を読み込んで『資本論』を書いた。
 スパーパーは、マルクスエンゲルスの思想は、本質的に異なると見ている。そして、エンゲルスによって流布された言説が、世間ではマルクス主義と受け止められてしまった。〈マルクスの死後、エンゲルスが彼の最後の解釈者となり、19世紀末から20世紀初頭のマルクス主義思想はまずもってエンゲルスの著書を経由して広められた。これまで、エンゲルスがどれほど正確にマルクスの見解を代弁していたのかをめぐり、激しく衝突し合う研究が多数出されてきた。二人の知的な相違を強調する著述家たちには、ヘーゲル主義的に感化されていた1840年代の若きマルクスを、およそ40、50年後の実証主義的な老エンゲルスと比較する向きがある。この数十年という期間は、両者が自らの見解を完成させた時期であり、ゆえにこうした比較はマルクス自身の世紀中葉以降の知的発展を軽視している。これとは逆の解釈を提唱する人びとは、マルクスエンゲルスとの根本的な一致を立証しようとして、マルクスの後年の著作の中の実証主義的な文章を強調し、実証主義に対する彼の両義的な態度を無視するか、あるいはないがしろにしている〉。
 マルクスは、ヘーゲル弁証法の影響を強く受けているので、テキストが難解だ。これに対して実証主義エンゲルスの著作は、文章が平明で、論理の筋を追いやすい。そこが同時に欠陥になっている。マルクスのテキストには、一つの文章から複数の解釈ができる多声性(ポリフォニー)がある。だから青年マルクスが書いた『経済学・哲学草稿』やライフワークであったがマルクスが生きている間には全4巻の計画のうち第1巻しか上梓することができなかった。『資本論』は、複数の解釈が可能になる。エンゲルスのテキストには、複数の解釈を促すような知的刺激に欠ける。ロシアのレーニンスターリンは、マルクスエンゲルスの思想が一体であると考えた、実際にはわかりやすいエンゲルスの思想をマルクス主義とした。スターリン主義の粗野な唯物論の根底には、エンゲルスの19世紀型の実証主義(特にダーウィンの進化論)があることが本書を読むとよくわかる。〈エンゲルスダーウィンを受容していった過程は、科学の進歩に対して次第に高まっていった彼の熱狂によってお膳立てされた。1858年7月14日付の熱を帯びた手紙において、エンゲルスマルクスに「それにしても、この30年間に、自然科学のなかで行われた進歩について、人はなんの概念ももっていない」と伝えている。曰く「有機化学の巨大な発展」と顕微鏡の改良された使用はともに、「生理学を革命化し、・・・すべて〔の生物〕は細胞である」。物理学も同様に急速な進歩を遂げたのであり、とりわけ重要なのは、運動エネルギーを熱へと、熱を光へと、あるいは電気を磁気へと変換する「力の相関関係」である〉。
 エンゲルス流の素朴な科学信仰は、21世紀になっても少し形を変えて生き残っている。実験室で、生命の創造が可能であると考える合成生物学や、AI(人工知能)が自力で学習し、人間の知能を凌駕するような技術的特異点(テクノロジカル・シンギュラリティ)が2040年代に実現するというような考え方だ。そこから生まれてくるのは、超エリートによる大衆の支配という、ソ連共産主義とかなり近いものになろう。エンゲルスの思想が持つ危険性を過小評価してはならない」

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ウィキペディア
 マルクス主義とは、カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスによって展開された思想をベースとして確立された社会主義思想体系の一つである。しばしば科学的社会主義とも言われる。
 マルクス主義は、資本を社会の共有財産に変えることによって、労働者が資本を増殖するためだけに生きるという賃労働の悲惨な性質を廃止し、階級のない協同社会をめざすとしている[3]。
 エンゲルスは1883年に『空想から科学へ』を出版し、彼やマルクスの思想を社会主義思想、弁証法唯物論、資本主義分析の三つの分野に分けて解説したうえで、唯物史観剰余価値の発見によって社会主義は科学になったと説明した。また、レーニンは1913年に『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』を書き、マルクス主義の三つの源泉をドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義とし、マルクス主義の三つの構成部分を弁証法唯物論、経済学、社会主義思想とした。

 マルクスエンゲルスの思想
 共産主義
 マルクスエンゲルスは、1847年に設立された共産主義者同盟の綱領の起草を委託され、1848年に『共産党宣言』を書いた。そこでは、人類の歴史は、自由民と奴隷、領主と農奴、資本家と労働者などの、隠然または公然の階級闘争の歴史であるとされ、近代社会はブルジョワジープロレタリアートにますます分裂しつつあるとした。プロレタリアートは、自分の労働力を売って生活するしかない多くの人びとである。プロレタリアートブルジョワジーから政治権力を奪取し、生産手段などの資本を社会全体の財産に変えることによって、社会の発展がすすむにつれて、階級対立も、諸階級の存在も、階級支配のための政治権力も消滅し、一人一人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となるような協同社会がおとずれるとした。
 マルクス1864年に設立された国際労働者協会の創立宣言を書いた。1871年にフランスでパリ・コミューンが成立すると、国際労働者協会総評議会の全協会員への呼びかけとして『フランスの内乱(英語版)』を書き、パリ・コミューンを「本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であった」と称賛した。エンゲルスは1891年に発行されたこの著作のドイツ語第三版の序文で、パリ・コミューンプロレタリアート独裁の実例とした。
 ドイツの労働者政党の綱領草案に対する批判として1875年に書かれた『ゴータ綱領批判』において、マルクス共産主義社会を分配の原則から低い段階と高い段階に区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という基準が実現するという見解を述べた。また、資本主義社会から社会主義社会への過渡期における国家をプロレタリアート独裁とした。

 唯物論歴史観唯物史観、史的弁証法
 マルクスヘーゲル左派として出発し、1840年代に起こったヘーゲル左派の内部論争の過程で、ヘーゲル弁証法哲学やフォイエルバッハ唯物論を受け継ぎつつ、ヘーゲルの観念論やフォイエルバッハの不徹底さを批判し、唯物論歴史観唯物史観)を形成した。これは、法律や国家、文化などの基礎にあるのは経済(生産と流通)だとする見方であり、以後彼は経済学の研究に集中することになった。1859年発行の『経済学批判』の序文において、彼は唯物論歴史観を次のように説明した。

 ・生産力の発展段階に対応する生産関係の総体が社会の土台である。
 ・この土台の上に法律的・政治的上部構造が立つ。土台が上部構造を制約する。
 ・生産力が発展すると、ある段階で古い生産関係は発展の桎梏(しっこく)に変わる。そのとき社会革命の時期が始まり、上部構造が変革される。
 ・生産関係の歴史的段階にはアジア的、古代的、封建的、近代ブルジョワ的生産関係がある。
 ・近代ブルジョワ的生産関係は最後の敵対的生産関係である。発展する生産力は敵対を解決する諸条件をつくりだす。それゆえ、資本主義社会をもって人間社会の前史は終わる。

 以上が唯物史観の要約である。

 経済学
 マルクスの長年の経済学研究は『資本論』として結実した。
 マルクスアダム・スミスリカードの労働価値説を発展させて剰余価値説をうちたて、これによって資本家による労働者の搾取を解明した。マルクスによれば、労働力の価値(労働者自身と家族を維持するのに必要な生活必需品の価値)と労働力が生み出すことができる価値とはまったく別物である。資本家は労働力を価値どおりに買ったとしても、支払う賃金を超えて価値を生み出すように労働者を働かせることによって、超過分を無償で取得する。この超過分(剰余価値)が資本の利潤の源泉である。土地所有者が資本家に貸した土地に対して得る地代、銀行が資本家に貸し付けた資金に対して得る利子などは、この剰余価値から支払われる。
 剰余価値説に基づく資本主義経済の運動法則の解明は、労働者階級の解放、階級の廃止という共産主義運動の目標に理論的根拠を与えることになった。
  ・  ・  
 フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels、1820年11月28日 - 1895年8月5日)は、ドイツの社会思想家、政治思想家、ジャーナリスト、実業家、共産主義者、軍事評論家、革命家、国際的な労働運動の指導者。
 盟友であるカール・マルクスと協力して科学的社会主義の世界観を構築し、労働者階級の歴史的使命を明らかにした。マルクスを公私にわたり支え、世界の労働運動、革命運動、共産主義運動の発展に指導的な役割を果たした。
  ・  ・  
 進化論とは、生物が進化したものだとする提唱、あるいは進化に関する様々な研究や議論のことである。
 生物は不変のものではなく長期間かけて次第に変化してきた、という仮説(学説)に基づいて、現在見られる様々な生物は全てその過程のなかで生まれてきたとする説明や理論群である。進化が起こっているということを認める判断と、進化のメカニズムを説明する理論という2つの意味がある。なお、生物学における「進化」は純粋に「変化」を意味するものであって「進歩」を意味せず、価値判断について中立的である。
 進化は実証の難しい現象であるが(現代では)生物学のあらゆる分野から進化を裏付ける証拠が提出されている (詳細は、進化の項目も参照のこと)。
 初期の進化論は、ダーウィンの仮説に見られるように、画期的ではあったが、事実かどうか検証するのに必要な証拠が十分に無いままに主張されていた面もあった。だが、その後の議論の中で進化論は揉まれて改良されつつある。現代的な進化論は単一の理論ではない。それは適応、種分化、遺伝的浮動など進化の様々な現象を説明し予測する多くの理論の総称である。現代の進化理論では、「生物の遺伝的形質が世代を経る中で変化していく現象」だと考えられている。
 本項では進化思想、進化理論、進化生物学の歴史、社会や宗教との関わりについて概説する。
 なお、生物学において「進化論」の名称は適切ではないため、「進化学」という名称に変更すべきだとの指摘がある。

    ・   ・   ・   
 日本人マルクス主義者(共産主義者)、左翼・左派は、理解する知力がない子供のように、マルクスの虚像を眺めるだけで触れもせず、マルクスを読まず、マルクスを理解していない。
 つまりは、見せ掛けの安物の金メッキでしかないく、語る言葉に聞くべき所は全くない。
   ・    ・   ・   
 日本人マルクス主義者(共産主義者)は、人民革命を成功させたレーニンか人民独裁を行ったスターリンの何方かの信奉者である。
   ・   ・   ・   

 

🎵04:05:─1─清朝(中国)は、弱小国日本を屈服させるべく軍事的恫喝・脅迫・威嚇を行った。琉球処分。巨文島事件。1860年 No.6No.7No.8No.9 * 

小説 琉球処分(上) (講談社文庫)

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博・   
 日本と中国は、ごく短期間の友好関係は存在したが、残りの大半は敵国関係であった。
 個人的な金儲けの交易は存在したが、国家としての交流はなかった。
   ・   ・   ・   
 欧米列強は、アヘン戦争太平天国の乱、急速に軍事力を付けた清国軍を恐れていた。
 イギリスやドイツの軍需産業は、清国に武器弾薬や軍需物資を大量に売って大金を稼いでいた。
 イギリスの軍需産業は、同時に、日本にも軍艦を高値で売っていた。
 中国市場に出遅れていたアメリカは、欧州諸国に対抗する為に日本に肩入れしていた。、
   ・   ・   ・   
 中国は、現代においても、未來においても、朝鮮同様に徹頭徹尾、反日である。表面的に親日を装っていても、本心は憎悪で煮えたぎった反日であるある。
 過去に親日的であったのは、唐の玄宗皇帝の一時期と南宋に一時期のみである。あとは、全て反日である。唐や宗の時代の中国人と共産党が支配する現代の中国人は、縁も縁もない別の中国人である。
 中国の面子は、けっして親日的にはならない。もし、中国が面子を捨てるのであれば親日と言える。
 中国の「天から与えられた明白な使命」は、日本討伐による日本の領土化と日本人の奴隷化である。
 其の使命は、過去も未来も変わりはない。中国海軍の増強は、その計画を実現する為である。
 その証拠が、1886年8月13日の長崎事件である。軍事大国中国の圧倒的な海軍力に日本が屈服した、国辱の日である。その雪辱戦が、1894〜95年の日清戦争である。
 中国は、反日で有り、けっして親日ではない。
 古代から、中国は、日本に対して対等な関係での友好を認めてはいなかった。
 中国は、日本に対して「上下関係での共生」をたえず強要していた。
 中国人は、孫子の古代から謀略に長けた民族であり、「利」にも「徳」にもならない「信義」や「誠実」は見向きもしない。
 儒教でいう「徳」の本質とは、そういう「徳」である。
 当然の事ながら、中国には朝鮮と同様に、サムライはいないし、武士道も存在しない。
   ・   ・   ・
 日本と中国は、古代から敵国同士でって、朝鮮と同様に決して友好国ではなかった。
 日本が平和で安定していた時代は、中国や朝鮮と国交を断絶していた時だけである。
 日本は、古代から、孤立無援で敵国に囲まれていた。
 何時、周辺諸国から侵略されるかわからない様態にあった。
 軍事力を放棄して、周辺諸国の属国として生き残るか。
 軍事力を持って、独立を守か。
 日本は、何時の時代でも、二者択一を強要されていた。
 戦前の日本は、国家防衛の為に、軍国主義化して全世界を敵にまらして戦って、戦争犯罪国家とされた。
 戦後の日本は、その反省から軍備を所有しないという平和憲法を受け入れ、国家の安全を周辺諸国の善意に委ねた。
 つまり、自主独立国家として自衛権を放棄したもである。
   ・   ・   ・   
 植民地大帝国清朝・中国による弱小国日本への大艦巨砲の軍事的恫喝
   ・   ・   ・   
 清国の総人口
 1781年……2億7,755万人。
 1791年……3億0,435万人。
 1801年……2億9,750万人。
  白蓮教徒の乱。1796年〜1804年
 1811年……3億5,861万人。
 1821年……3億5,554万人。
 1831年……3億9,582万人。
 1841年……4億1,346万人。
  アヘン戦争。1840年〜42年
 1851年……4億3,216万人。
 1861年……2億6,689万人。
  太平天国の乱。1851年〜64年。
 1871年……2億7,235万人。
  山川出版社『詳説 世界史研究』
 中国大陸は殺戮が絶えない、地獄であった。、
   ・   ・   ・   
 1860年 中国における洋務運動。
 清国は、対外紛争のアヘン戦争アロー号事件の敗北、国内紛争のキリスト教徒による太平天国の乱とその他の騒乱で、正規軍の弱体化を痛感して軍事力の強化策を推し進めようとした。
 漢族の中級階級出身若手官僚等は、清国も日本の様に近代化しないと領土が蚕食されて滅亡するという憂国から、青年皇帝を担いで変法運動を始めた。
 科挙に合意した有能な官僚は、正統派儒教価値観を抜け切らなかった為に、中国式洋務運動の「中対西用」は空理空論として限度があり、失敗する事は目に見えて明らかであった。
 漢族将軍等等は、満州族将軍等の力を削ぐ為に、地元で徴収した税金は国防と治安を担う軍隊の維持に使用するとして北京への送金を止めた。
 そして自分らの地位を守る為に、西太后を担いで変法運動を潰し、若手官僚を政権中枢から締め出し閑職に追いやった。
 満州族大臣や将軍等は、税収確保の為に徴収権を回復しようとしたが、西太后が漢族将軍等あら多額賄賂を貰って反対した為に失敗した。
 清国はもちろん中国には、古代から国家意識はなく、あるのは自分一人という個人意識のみであった。
 漢族将軍の中で時代の流れが読めた李鴻章等ら少数の者は、軍閥化の為に、自分に有利な洋務運動を推進した。独自の民間外交で、徴税権や鉱山開発や鉄道施設などの諸権利を担保にして、欧米諸国から借款をえ、欧州系国際金融資本から融資をえた。集めた大金を外国企業に渡して、支配地に軍需工場や製鉄所や造船所などの工場を建設させた。
 李鴻章は、全権大臣や欽差大臣などの要職を歴任し、自分の軍隊を強化する為に「官督商弁」を隠れ蓑にして利権の多くを外国資本に売り渡した。
 外国資本から得た上納金は、清朝ではなく、そうした漢族将軍等の懐に入っていった。
 漢族将軍等は、自分らの不正を正当化して誤魔化す為に、西太后ら有力皇族に多額の賄賂を送っていた。
 中国は人治社会として、上級階級のコネを得る為に賄賂が日常的に行われていた。
 つまり。賄賂は、中国では認められた必要悪であり、伝統文化であった。
 日本の殖産興業という近代化と中国の産業誘致という近代化とは、本質的に違い、その違いは労働を美徳とする神道と労働を蔑視する儒教の違いである。
 欧米諸国は、話が分かる相手として西太后李鴻章を選んだ。
   ・   ・   ・   
 清国軍の総兵力は、100万人以上であり、戦時の動員数は、数百万人とされていた。
 だが、近代兵器を装備せれていた兵力は、極少数であった。
 清国海軍は、近代的艦隊として南洋艦隊と北洋艦隊の二個艦隊を建設していた。
 南洋艦隊は、清仏戦争で消滅していた。
 だが、北洋艦隊だけでもアジア一の海軍力であり、日本海軍を圧倒していた。
 北洋艦隊の主力艦は、大型戦艦2隻、装甲巡洋艦6隻、巡洋艦2隻で、その他を入れると数十隻になる。
 清国軍は、アヘン戦争の屈辱船を行う為に、近代戦に耐えられる軍備を整えるべく、軍事費の増額を要請していた。
 最高権力者である西太后は、女性として、予算を軍備強化ではなく宮廷費に流用した、
 植民地帝国清国は、巨大な軍事力を見せて脅せば、属国朝鮮同様に尻尾を丸めて平伏すとみくびっていた。
 植民地帝国清国は、アジア一の軍事力を保持しているとの自信から、日本と戦う意志はなかった。戦わなくとも、日本は詫びを入れ、属国として臣下の礼をとってくるであろうと確信していた。
 小国日本は、独立を守る為に清国との戦争を覚悟して、国家と国民が一丸となって軍備強化を進めた。
 直隷総省北洋大臣李鴻章は、朝鮮を挟んで日本と対陣していただけに、日本との戦争は避けられないと確信していた。
 だが、西太后にしろ北京政府にしろ、日本との戦争の為の予算増額を認める意志はなかった。
 反李鴻章派高官らは、李鴻章を強大化させる事には反対であった。西太后も、李鴻章が政治力を付ける事を好まなかった。
 李鴻章は、孤立化していた。政治力を強化し、地位を安定させる為に、手兵である北洋軍の近代化に私財を投じた。
 西太后と反李鴻章派は、北洋軍を弱体化させる為に日本との戦争に追い込む為に、対日強硬発言を繰り返していた。
 古代から、中国の外向的強硬発言の多くは、国内の政争の延長線上で発せられる事が多い。 
 小国日本に勝ったとしても自慢にはならなかったが、負ければ面子がつぶれて不名誉となる恐れがあった。
 李鴻章は、清国軍の正規軍からの支援がなくとも、北洋軍だけで日本に勝てると自信がった。
 イギリスは、敵国ロシア帝国がアジアに侵略してくる事を恐れていた。東アジアの不安材料である朝鮮の混乱を鎮める為に、眠れる獅子と恐れられた植民地帝国清国に味方し、対日戦の為に船舶を輸送船として使用する目的で貸し出した。
 李鴻章は、北京での政争に負けない為にも、犠牲者を最小限にして戦争を早期で解決する必要があった。
 日本は、国運をかけて植民地帝国清国に対して戦いを挑んだ。
 清国は、小国日本と戦う意志はなかったが、アジアの支配者としての面子から戦いに望んだ。
 日本軍は、平時編制として7個師団と後備軍からなり、その総兵力は約7,000人である。戦時には、約2万人が動員可能とされていた。
   ・   ・   ・   
 琉球処分
1876年 琉球支那党(中国系琉球人)は、日本国内の内乱を好機と捉えて清国に軍隊の派遣を要請した。
 清国は、日本が内部崩壊する可能性があるとして傍観し、琉球派兵と軍事占領を見合わせた。
 1977年 西南戦争
 1879(明治12)年 中国系琉球人は、北洋軍閥として海軍力を強化しつつある李鴻章に救援を依頼した。
 日本は、清国の属国であった琉球王国に、軍隊を派遣して強引に沖縄県を設置し、強制的に日本領とした。世に言う、強奪的琉球処分である。
 清国は、明国時代からの300年以上続く伝統的な宗主権を主張し、日本の悪辣な侵略であると強く非難した。
 アメリカのグラント前大統領は、極東アジアの平和の為に両国の戦争を回避するべく、「沖縄は日本領、先島諸島は清国領」とする調停案を示した。
 清国は、キリスト教の欧米列強からの侵略を防ぐ為に、周辺諸国を自衛の盾にする必要があり、属国を失う調停案を拒否して琉球と周辺諸島の領有を譲らなかった。
 日清戦争の原因の一つに、この琉球帰属問題が存在した。
 もし、両国の戦争を話し合いで解決するのであれば、琉球・沖縄における清国の支配権を認め、清国に無条件で返還する必要があった。
 だが、日本は、清国・中国との戦争になろうとも、国際貿易に必要な海上輸送路を確保する為に沖縄を手放すつもりはなかった。
 李鴻章は、「以露制日」政策の上奏文を提出した。「日本に譲歩しても、日本はロシアの侵入を防ぐ力はないのだから、むしろロシアに譲歩して日本を抑さえされた方が得である」
 文廷式は、1894年頃、李鴻章の対露接近策を批判し、ロシア帝国の南下を食い止める為に、日本とイギリスと手を組むべきであるとの上奏文を提出した。
 井上馨外相「西暦700年代より南島の朝貢を受け、日本が之を管治した。琉球国王は日本の後胤(こういん)である。明や清との朝貢冊封は虚礼だった」
 最終的には、清国は、琉球を日本領である事を黙認した。      
 琉球(沖縄)には、日本の支配から脱出して清国(中国)の領土に編入する事を切望する琉球人(沖縄人)が多数存在し、日本に見つからないように中国(中国共産党)と接触していた。
   ・   ・   ・   
 2013年5月9日 「沖縄の領有権「日本にはない」 中国共産党機関紙が論文
 8日付の中国共産党機関紙、人民日報は第2次大戦での日本の敗戦により「琉球の領有権」は日本になくなったとした上で、沖縄の「領有権」問題を議論すべきだと訴える論文を掲載した。中国では最近「日本は沖縄に合法的な主権を有していない」との主張が出ているが、党機関紙に掲載されるのは珍しい。対立が深刻化している沖縄県尖閣諸島(中国名・釣魚島)をめぐる問題を沖縄県にまで拡大し、対日攻勢を強める狙いがありそうだ。
 論文は政府系の中国社会科学院の研究員らが執筆。琉球王国が歴代の中国王朝に対して朝貢を行う「冊封国」だった経緯を説明した上で「琉球王国は明清両朝の時期には中国の属国だった」とした。その上で「(当時は)独立国家だった琉球を日本が武力で併合した」とし、尖閣と同様、日本が敗戦を受け入れた時点で日本の領有権はなくなったとの認識を示した。
 尖閣については「歴史的にも台湾に属している」と指摘した。」(共同)
   ・   ・   ・   
 2013年5月10日 「新たな対立の火種に 沖縄帰属めぐる人民日報論文 
 【北京=矢板明夫】中国共産党機関紙、人民日報が8日、沖縄県の帰属は「歴史上の懸案であり、未解決の問題だ」などとする論文を掲載した問題で、菅義偉官房長官は9日、「(論文が)中国政府の立場であるならば断固として受け入れられない」と抗議したことを明らかにした。中国外務省の華春瑩報道官は同日、「申し入れや抗議を受け入れられない」と反発、日中間の新たな対立の火種となりつつある。
 論文掲載は、習近平指導部の意向によるものである可能性が高い。尖閣諸島沖縄県石垣市)をめぐる日本との対立が長期化するなか、膠着状態の打破に向けて新たな揺さぶりをかける狙いがあるとみられる。
 習近平指導部は尖閣諸島に関し、日本に「国有化前の状態に戻すこと」「領土問題の存在を認めること」の2点を関係回復の前提条件として突きつけた。しかし、安倍晋三政権が要求を無視したため、対日外交は袋小路に陥っている。
 共産党筋によれば、汪洋副首相に代表される党内の改革派からは「対日関係を改善すべき」との意見が高まりつつある一方、軍や保守派からも「日本に対し何もしないのか」といった批判が上がっている。
 中国政府系シンクタンクの研究者によると、「沖縄地位未定論」を主張する中国の歴史研究者は90年代から台頭。最近は影響力を拡大しているが、研究者の間ではいまでも傍流だと認識されている。
 こうしたなか、人民日報が論文を掲載したのは、在日米軍基地移転問題で日本政府に不満がある沖縄の一部住民の間から、「琉球独立」の主張が出たことを意識した可能性もある。この動きに支持を示唆して日本政府に圧力を加え、尖閣問題で譲歩を引き出すという計算だ。習政権の主な支持基盤である国内の保守派に対日強硬姿勢を誇示する狙いもあったとみられる。
 論文は沖縄の帰属が「未解決」としているだけなのに、多くの中国人が「沖縄は中国領」だとあおり立て、インターネット上には「沖縄奪還」を求める意見が殺到している」
   ・   ・   ・   
 中国は、中華帝国朝貢していた全ての属国は中国領である主張している。
 それが、中国の本心である。
 日本国内に、中国の主張に同調する者が少なくとも存在する。
 彼らは、戦争はもちろん、言い争う事も、嫌っている日本人である。
   ・   ・   ・   
 中国は、沖縄と尖閣諸島そしてその海域を手に入れようと狙っている。
 中国共産党政府は、公船や軍艦を派遣して威嚇している。
   ・   ・   ・   
 1880年 山県有朋参謀本部長は、清国・北洋艦隊とロシア帝国軍の侵略から日本国土を防衛する為に、北は千島列島から南は沖縄・先島諸島尖閣諸島までの沿岸防衛の強化が急務であるという意見書を、明治天皇に上奏した。
 海軍による攻撃力が増した帝国主義時代において、長大な海岸線を持つ島国日本にとって、日本周辺海域は天然の防塞ではなくなった。むしろ、何処を攻められ、何処から侵略されるか分からない無防備国家となり果てていた。
 帝国主義時代とは、キリスト教欧米列強による植民地獲得戦争時代であった。アフリカやアジアは植民地とされ、西欧文明に無縁であった非白人非キリスト教の原住民は奴隷とされた。
 日本が植民地にならず奴隷にならず、一個の人間として尊厳を守って生き残るには、軍事国家となり、侵略してくる外敵に刃向かうしか途がなかった。
 清国・中国は、欧米列強の侵略に対抗する為に、朝鮮、琉球、安南など宗属関係にある国々への支配を強化し、場合によっては領土として併呑する事を計画していた。
 1882年 山県有朋参謀本部長は、清国とロシア帝国によるイリ紛争、朝鮮国内の壬午軍乱によって親中国反日勢力が政権を掌握した事等、日本を取り巻く国際情勢の変化を踏まえて兵備拡充を訴えた。
 1884年 清仏戦争。清国は、属国であった安南(ベトナム)の阮朝を侵略して来たフランスに対して、懲罰戦争を仕掛けた。フランス軍は、清国軍を撃退し、安南を戦利品として植民地とした。
 清国は、欧米列強に敗れるたびに宗属関係にあった属国が奪われた。
 朝鮮も、その危険に晒されていた。
   ・   ・   ・    
 巨文島事件
 朝鮮王国は、政治や経済は賄賂と横領で不正が蔓延り、生活環境は汚れに汚れ、社会も体たらくに乱れに乱れていた。
 1885年 ロシア帝国は、日本海を内海として支配するべく混乱する朝鮮に対して、半島北部の日本海側に位置する元山沖の永興湾を租借する事を条件に全面支援を申し込んだ。
 真の目的は、黄海から東シナ海に出る不凍港を確保する為に、朝鮮を植民地とするか領土とする事であった。
 イギリスは、ロシア帝国の南下を阻止するべく、宗主国清国の許可を得て朝鮮海峡の要所である巨文島を軍事占領した。
 ロシア軍とイギリス軍は、朝鮮を挟んで対峙した。
 当事者である朝鮮は、国内の陰惨な政争に明け暮れ、国防問題を自力で解決する意思がなかった。この無責任さが、東アジア全体の混乱の原因であり、東アジアに戦争を引き起こした。
 日本には、両者を仲介して朝鮮の平和と独立と中立を守り、日本海からロシア帝国の脅威を排除するだけの軍事力はなかった。
 時代は、弱者を武力で征服して植民地とする帝国主義の時代である。
 武力のない弱小国の生存権は、無きに等しい時代である。
 軍事力の伴わない話し合い・外交は、意味がない時代であった。
 日本は弱小国と差別され、国力なきがゆえに国際社会で信用がなく、軍事力がなきがゆえに諸外国から責任がとれる普通の国とみなされず相手にされていなかった。
 軍事大国清国は、朝鮮の宗主権を認めさせる為に、仲介者としてロシア帝国に朝鮮不侵犯の声明を出させた。
 イギリスは、アジアの利権を守る為に、清国を東アジアにおける盟主として認めて巨文島から撤兵した。
 清国は、「夷を持って夷を制す」の基本戦略から、アジアでの領土拡大を目差すイギリスとロシア帝国を張り合わせる事で、「漁夫の利」を得ようとしていた。
 同時に、清仏戦争で失った南シナ海の海洋権を補う為に、東シナ海黄海の海洋権を確保する為に台湾を省に格上げし、かっての属国琉球を宗属関係に復帰させようとした。
 アメリカは、1890年に国内でのフロンティアを失うや、太平洋への西方侵出を国策として国益の拡大に乗り出していた。アメリカの日本接近は、平和的な友好の為ではなく、あくまでも利益追求の国家戦略からであった。
 そこには、話し合いによる平和などは存在しなかった。
   ・   ・   ・   
 日本は、事大主義の朝鮮が救いようがないほどの無能無策で、自力で国難を乗り切り主権と国益を守ろうとしない事に絶望した。
   ・   ・   ・   
 1885年3月 天津会議。伊藤博文は、李鴻章と朝鮮問題処理で協議した。
 李鴻章は、清国は朝鮮の宗主国であり東洋の盟主であるという面子から朝鮮の指導権を堅持しようとしたが、日本への配慮から、日清以外の第三国が朝鮮に侵攻した時は朝鮮を守る為に両国が同時に派兵する事を提案した。
 伊藤博文は、日清提携論に対して、朝鮮の近代化の為には同意したが、軍事的提携は軍事小国・日本は軍事大国・清国の指揮下に組み込まれる恐れがあるとして即答を避けた。
 日本の国防は、朝鮮に自主権を持って独立させ、自衛軍を組織させて共同でロシア帝国の南下を防ぐというものが基本戦略である以上、朝鮮の独立を妨げる中国の宗主権を強化する提案には同意できなかった。
 在清国公使榎本武揚(旧幕臣で賊軍の大将であった)は、朝鮮の統治能力がない現状で独立させる事は「百害あって一利なし」とし、朝鮮の政局不安定がロシア帝国の付け入る隙を作るのみであるとして、朝鮮の保護目的で日清提携を支持した。
 6月 日本政府は、イギリスの巨文島軍事占領など活発化する西洋列強の朝鮮侵出に対抗するべく、日清提携の弁法8ヶ条を提案した。
 清国は、朝鮮に対する宗主権を制限する提案を嫌っていた。
 伝統的「夷を以て夷を征する」戦略から、欧米列強の力の均等を利用して国土防衛と属国支配を維持しようとしていた。
 ロシア帝国の南下に対して、イギリスに各地の租界と鉄道建設などの利権を与えて提携を進め、イギリス軍による巨文島占拠を表面的に抗議しても内面では歓迎した。
 朝鮮支配の為に、むしろロシア帝国の軍事力を利用して日本を半島から駆逐するべく暗躍していた。
 日本は、国力不足を実感する為に、対ロシア戦略から朝鮮改革の為に清国との提携を模索した。
 朝鮮は、万年属国として清国の指導を受けると共に、対日本戦略からロシア寄りのメルレンドルフを政治顧問として意見を聞いていた。
 清国による、対日包囲網は確実に姿を現し始めていた。
   ・   ・   ・   
 日本の国家戦略は、日本を侵略しようとしているロシア帝国から如何に祖国を防衛するかであった。
 朝鮮や中国に対する外交政策は、全て対露戦略が元になっている。
 日本の国防戦略に中国や朝鮮が妨害するとあれば、日本は中国や朝鮮と戦争する以外に選択肢はなかった。

   ・   ・   ・   

🎹03:─1─単一民族資本の軍国日本と国際資本複合体のアメリカとの国力差。国内生産力。動員兵力。No.5 * 


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 原因と現状(統計数値)を知ってなお、負ける事を覚悟で命を捨てて戦ったのが戦前の日本人であり、命を惜しんで戦わず平身低頭・土下座して謝罪し賠償金を払うのが現代の日本人である。

 その証拠が、第九条の平和憲法日本国憲法である。

   ・   ・   ・    
 軍国日本の民族資本は、日本一国の資本力であった。
 大東亜共栄圏と言っても、親日派中華民国政府、満州国には経済力はなかった。
 アメリカの国際資本は、ウォール街、ロンドン・シティー、パリなど世界金融市場で莫大な資金を動かして膨大な利益を得ていた。
 近代戦争とは、軍隊ではなく国家財政・金融で行われていた。
 兵士の食糧や兵器の燃料は、金がなければ購入できなかった。
 戦争は、金融・貿易の経済制裁から始まる。
 経済制裁は、戦争行為である。
 アメリカが軍国日本に経済制裁を発動する事は、アメリカが軍国日本に戦争を仕掛けた事である。
 つまり。日米戦争は、宣戦布告する前に事実上、アメリカが軍国日本に経済制裁した事で始まっていた。 
   ・   ・   ・   
 小国が大国に攻撃を加える時、宣戦布告前の奇襲攻撃・騙し討ちは許される。
 何故なら、小国は大国に勝てるわけがなく、最終的には敗北するからである。
 大国が小国を攻撃する時、宣戦布告せずに攻撃する事は不当行為である。
 大国は小国を追い詰めるのであり、小国が大国を追い詰めるのではない。
 大国が小国に戦争を仕掛けるのであって、小国が大国に戦争を仕掛けるのではない。
   ・   ・   ・   
 常識がある人間であれば、軍国日本がアメリカと戦っても勝てない事は分かる。
 勝てないと分かっていても、勝てると思って戦うのが侍ジャパンであった。
 負けるから戦わず降伏するという屈辱には、侍ジャパンは耐えられなかった。
 侍ジャパンの思いは、世界の非常識で、理解される事はない。
   ・   ・   ・   
・日米GNP比。
 1940年 1対10.9。日本、92億円。アメリカ、1,000億円。
 1941年 1対12.7。
 1942年 1対14.3。
 1943年 1対16.6。
 1944年 1対18.1。
   ・   ・   ・   
 GNPに対する軍事費比。
 1940年 日本GNP比、17.0%。アメリカGNP比、2.7%。
 1941年 日本、23.1%。アメリカ、11.2%。
 1942年 日本、30.2%。アメリカ、33.5%。
 1943年 日本、46.2%。アメリカ、45.0%。
 1944年 日本、63.8%。アメリカ、46.0%。
 如何なる国家も戦争が始まれば、敵国に勝利する軍需を優先して軍事費を増額して、民需を制限して国民に耐乏生活を強要する。
   ・   ・   ・   
 軍需資材生産額。
 1941年 
 アメリカ、47億6,000万ドル。
 枢軸諸国(日本、ナチス・ドイツファシスト・イタリア、その他)、155億ドル。
 連合諸国(イギリス、フランス、ソ連ファシスト中国、その他)、165億ドル。
 1942年 アメリカ、205億ドル。枢軸諸国、252億ドル。連合諸国、240億ドル。
 1943年 アメリカ、395億ドル。枢軸諸国、290億ドル。連合諸国、300億ドル。
 1944年 アメリカ、435億ドル。枢軸諸国、270億ドル。連合諸国、310億ドル。
   ・   ・   ・   
 航空機生産量。
 1941年 
 月産 日本、約400機。アメリカ、約2,000機。
 年産 日本、5,088機。アメリカ、1万9,433機。ドイツ、1万1,766機。イギリス、2万94機。
 日本とドイツの航空機生産量の違いは、日本は各種の軍艦を建造し、ドイツは戦車を量産していた事である。
 1942年年産 日本、8,861機。アメリカ、4万7,836機。ドイツ、1万5,556機。イギリス、2万3,672機。
   ・   ・   ・   ・   
 国内発電量(火力・水力発電)。電力会社及び鉄道所属の総発電量。
 1941年 100として
 1942年 99.5
 1943年 103.1
 1944年 95.5
 1945年 31.1
   ・   ・   ・   
 航空機生産用アルミニウム
 1942年 直接軍需用、80%。間接軍需用及び民需、20%。
   ・   ・   ・   
 八幡製鉄所における銑鉄生産量と従業員。
 1934年 121万3,000トン。2万4,830人。
 勤続10〜20年者、46.6%。勤続5年未満、13.4%。
 1935年 130万8,000トン。2万8,969人。
 1936年 135万5,000トン。2万9,500人。
 1937年 147万6,000トン。4万2,215人。
 1938年 160万5,000トン。4万7,321人。
 1939年 175万1,000トン。4万8,843人。
 1940年 168万2,000トン。4万9,102人。
 勤続10〜20年者、13.9%。勤続5年未満59.4%。
   ・   ・   ・  
 企画院、「銑鉄生産拡充4カ年計画」(1938年1月)
 1938年 計画、461万5,000トン。総生産実績、481万1,000トン。
 1939年 計画、563万トン。総生産実績、465万7,000トン。
 1940年 計画、628万トン。総生産実績、456万トン。
 1941年 計画、726万トン。総生産実績、430万3,000トン。
   ・   ・   ・   
 1941年度コメ収穫高、
 内地、5,546万石。前年より約535万石減収。
 台湾・朝鮮 3,381万石。
 総合計 8,927万石。
 当初見込み 9,264万石。予定数量より327万石減。
 依然として、慢性的な食糧不足にあった。
   ・   ・   ・   ・   
 日本国籍日本人は、一等国民として徴兵義務があり、召集令状赤紙)で本人の意思に関係なく強制的に戦場に送られた。
 個人の思想信条や宗教で拒否すれば、国家反逆罪で重罰に処せられた。
 日本国籍朝鮮人は、二等国民として徴兵義務はなく、本人の自由意志で志願して兵士となった。
 朝鮮人は、サムライ・武士・武者としての素質がなく兵士にな者は少数で、むしろ後方任務などの雑用仕事を請け負う軍属として契約で雇用された。
 朝鮮人が兵士に向かなかった最大の原因は、儒教である。
 儒教は、文を最上位に据え武を最下位に置き、読書して働かない事を尊び読書せず働く者を侮蔑した。
 朝鮮には、刀を持って武術を極めるサムライ・武士・武者は存在せず、刀を持つ者は卑しい下級役人か盗賊・海賊の犯罪者のみであった。
   ・   ・   ・   
 日本男子人口
 1930年10月1日 3,239万人。20〜39歳男子893万人中兵員24万3,000人。
 1940年 3,656万人。20〜39歳男子866万人中兵員169万4,000人。
 1945年 3,860万人。20〜39歳中745万人中兵員398万人。
   ・   ・   
 1938年8月陸軍兵士構成
 35〜37年徴兵による現役兵、11.3%。
 30〜34年徴兵による予備役兵、22.6%。
 20〜29年徴兵による後備役兵、45.2%。
 25〜37年徴兵による補充兵、20,9%。
   ・   ・   
 1945年1月 本土決戦の為の根刮ぎ動員案「150万人動員計画」。
 一般師団45個師団、独立混成旅団22個旅団。その他各軍直属部隊。
 農業従事者、34万5,000人。
 工場従事者、115万人。内兵力補充要員、50万人。
 日本男子の多くが、国民として強制的に兵士とされた。
 企画院。最低限度の生活水準を維持する為には、未熟練労働者215万人が必要。
 戦争遂行上、苦肉の策として、日本国内の朝鮮人約200万人を労働者として利用するしかなかった。
 軍部は、兵力不足を補うべく、兵士に適さない朝鮮人を動員するしかなかった。
 日本人であれば、即戦力として、短期間の猛訓練で戦場に送り込めた。
 だが。朝鮮人は、長期間の緩やかな軍事訓練を施しても日本軍兵士に育たず、遂に戦場に送り出せず貴重な軍事費をドブに捨てた。
 朝鮮人は、労働者になっても兵士にはならなかった。
 つまり。軍国日本は、戦争を遂行する上で朝鮮人を当てにはできなかった。
   ・   ・   ・   
 欧米社会では、軍人の子の2割近くが同じ道を選んで軍人となる。
 一般的に兵士に求められるのは、健康にして頑健な体力と正常にして不屈な精神である。
 麻薬中毒や肥満体、協調性のない者や犯罪者は、兵士には成れない。
 それ等を有する貧困層の若者は、兵士に採用される事はない。
 貧困層の若者が食うに困って兵士になる事は、軍律・軍紀のなかった中世以前ではあり得たが、戦時国際法を遵守する近代以降ではあり得なかった。
 祖国が外敵の攻撃を受ければ、正常な国民は進んで兵士に志願して、祖国を外敵の侵略から守る為に戦った。
 国民とは、祖国を守る為に血を流し命を犠牲にする者を言う。
 近代的民主主義において、自己犠牲を厭わず国を守る覚悟のない国民には国民としての権利は認められない。

 

 


   ・   ・   ・   


🛲¦6─3─マレーシアの「日本の英雄を讃える記念碑」に華人協会系報道機関は激しい批判。~No.61No.52No.63No.64No.65 * ⑤  

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 東南アジア諸国親日派知日派であるが、華人協会や華僑組織は反日派敵日派である。

 親日派知日派は日本をアジアの英雄と讃えるが、反日派敵日派は日本を戦争犯罪者と憎む。

   ・   ・   ・   
 2019年3月28日 msnニュース ハーバービジネスオンライン「マレーシアに設立された日本兵慰霊碑への波紋。現地紙報道に見る「批判の理由」
 © FUSOSHA Publishing Inc. 提供 photo via Pexels
 マレーシアのケダ州でお披露目された「日本の英雄を讃える記念碑」が波紋を呼んでいる。記念碑は第二次世界大戦中の1941年、アロールスターの橋を奪取するための戦闘で犠牲になった日本人兵士を偲ぶものだったが、マレーシアの政治団体から「侵略者を讃えるべきではない」と批判の声が挙がったのだ。
 ◆いったい何が書いてあったのか?
 日本総領事館とマレーシア当局によって設置されたこの慰霊碑。特に問題とされたのは、併設された看板の内容だ。マレー語、日本語、英語、3つの解説文が書かれており、英語版には「アロールスター橋を奪取した3人の日本の英雄たちの歴史」という見出しがついている。以下はその全文訳だ。
 “1941年、タイのシンゴラに上陸した約5日後の12月11日、日本の闘士たちはチャンドラとジトラ間の英印軍第5師団の第一防衛団を倒すことに成功し、アロールスターの街を征服した。
 日本の次なる標的は第11師団ミュレイ・リオン少将の統治下にあったケダ川の主要な橋だった。1941年12月13日午前10時10分、歩兵第11連隊からの指示を受けた朝井肇中尉はオートバイに乗り、英印軍が橋に仕掛けた爆弾の導火線を切断するべく、橋の北部に向かった。しかし、同時に爆弾が爆発し、彼を殺した。
 同じ部隊の2人の仲間、金子伍長も死亡し、中山伍長は重傷を負った。助けにやってきた仲間たちによる銃撃が続き、最終的に橋は確保された。
 1942年2月15日、シンガポールが陥落し、東南アジアの大日本帝国軍・山下奉文大将は、橋を征服した歩兵第11連隊の戦士たちの固い闘志を讃えるべく、感状を授与した。彼は「朝井肇中尉と彼の仲間たちの勇気と責任感は卓越しており、比類ない。彼らの闘志を見習うべきだ」と強調した“
 このように、看板の内容はひたすら日本軍兵士の活躍を讃えるもの。「日本軍が東南アジアを解放したことに、現地住民は感謝している」といった話はネット上でもよく目にするが、実際には批判が集まり、看板は撤去されてしまった。
 ◆英語の解説文には名前の間違いも
 また、前出のとおり、この看板には日本語のテキストも記載されていた。その内容は朝日新聞社発行の『大東亜戦史 マレー作戦』の要約引用なのだが、こちらには「中山伍長は戦死、金子伍長は重傷」と記されており、英語のテキストは名前が逆になっていることがわかる。
 ◆現地からは激しい反発の声が
 こうしたお粗末とも言える慰霊碑に対して、現地紙『ザ・サン』は「日本の侵略者を讃える記念碑が大失敗」という記事を掲載。退役した軍人や警察官から成る団体「National Patriots Association」(パトリオット)代表の声を取り上げている。
「彼らは侵略者だった。なぜ我々が彼らを褒めたたえなければいけないんだ? とても間違っている。(慰霊碑を)取り壊せ。彼らは英雄じゃない!」
 同記事では、マレーシア華人協会の公共サービス・苦情処理機関のマイケル・チョン氏も、日本占領時代を体験した世代は不満を持つだろうと指摘している。
「母国を侵略した者を讃えることはできない。家に侵入し、略奪して女性をレイプした者を祝するようなものだ! まったく不適切だ! 人々、特に高齢者は喜ばないだろう。慰霊碑があるべきではない。取り壊すべきだ」
 記事からは、犠牲となった兵士を讃える看板だけでなく、慰霊碑そのものを取り壊すべきだという機運が高まっていることが伺える。
 また、同じく現地紙『ザ・スター』(リンクは英字メディアのAsia News Networkに配信したもの)には前出の人名の誤りなども含め、「ケダ州の日本慰霊碑 “翻訳が間違っていた”」という記事が。
“州の観光協会会長Mohd Asmirul氏は、日本当局が地元業者と看板についてやりとりをしていたときに誤りがあったと語った。「お互い意思疎通をしようとする様子はニワトリと鴨のようだった」と彼は言う。使われる文言については日本総領事と話しあったそうだ”
 ◆「二度と戦争をしてはいけないことがわかるようにすべき」
 マレーシア側はあくまで日本と業者間の問題だとしているが、いったいどういった過程で“誤訳”されたのか気になるところだ。慰霊碑が建てられた場所には以前から日本兵の墓があったそうで、前出の観光協会会長は同記事でその点も強調している。
「こうした歴史的建造物(日本兵の墓)は、世界が二度と戦争をしてはいけないということがわかるよう、若い世代のために保存するべきだ」
「以前の慰霊碑は長い間ここにあった。今回はそれを改修しただけだ。これはあくまで歴史だ。起きたことは起きたこと」
 こういったコメントを見ると、やはり問題となったのは慰霊碑そのものではなく、「英雄」などの文言が書かれていた看板にあったことがよくわかる。
 日本ではあまり話題になっていないが、”親日国家”として知られるマレーシアでこういったトラブルが起きているのは、なんとも残念な話だ。はたして、批判が殺到している慰霊碑はどうなるのか? 今後の動向に注目したい。
<取材・文・訳/林 泰人>
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🎹13:─1─日米戦争を想定した、軍国日本とアメリカの建艦競争。1933年〜1943年~No.60 * 


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 各国海軍の主流流は依然として大艦巨砲主義で、主力艦は戦艦で、航空母艦と航空機は主任務を偵察と監視を行う補助艦とされていた。
   ・   ・   ・   
 航空機では戦艦を撃沈できないというのが、世界の軍事常識であった。
   ・   ・   ・   
 主力艦隊は、日本海軍は機動艦隊で、アメリカ海軍は戦艦艦隊であった。
   ・   ・   ・   
 軍国日本は、国際協調路線から、軍部の不満を抑えて軍縮外交を展開した。
 1922(大正11)年2月 ワシントン海運軍縮条約。
 1927(昭和2)年6月 ジュネーブ海軍軍縮条約。不成立。
 1930(昭和5)年4月 ロンドン海軍軍縮条約
 昭和天皇は、日本とアジアの平和と軍部の横暴を抑えるべく軍縮に賛成であった。
 軍部は、昭和天皇に不満を抱き、昭和天皇に軍事機密情報を知らせず独断で行動し始めた。
   ・   ・   ・   
 エマニュエル・トッド「数世紀に及ぶ長い期間に注目する歴史家の観点から見て、アメリカとドイツは同じ諸価値を共有していない。大不況の経済的ストレスに直面したとき、リベラルな民主主義の国であるアメリカはルーズベルトを誕生させた。ところが、権威主義的で不平等な文化の国であるドイツはヒトラーを生み出したのです」
   ・   ・   ・   
アメリカ海軍軍拡計画。
 1929年10月 世界大恐慌
 1933年 ニューディール政策ルーズベルトは、失業者救済として大規模な公共事業、産業界への規制と統制によって経済復興を図った。
 一連の公共事業を行っても経済復興が成功せず、依然として街中には失業者が溢れていた。
 ニューディール政策は、失敗した。
 ルーズベルトは、失業者を軍需産業に吸収させる為に軍拡路線に政策を転換し、特に大量の労働者を必要とする造船業港湾施設に資金を投じた。
 更に、大量に生産した軍需物資を軍国日本と敵対関係にあるファシスト中国やソ連に輸出した。
 ルーズベルトは、反日強硬派として親中国政策をとっていた。 
   ・   ・   ・   
 資本主義の原理とは、大量生産・大量消費の過程で、投資した資本家や生産した企業に多大なる余剰利益をもたらす事である。
   ・   ・   ・   
 ルーズベルトは、世界恐慌から脱出しアメリカ経済を立て直し失業者に仕事を与える為に、最も効果的な公共事業として他国の戦争を利用した。
   ・   ・   ・   
 アメリカの軍需産業は、国際資本の潤沢な開発生産資金を使って、世界中から有能な研究者や優秀な技術者を好きなだけ招集できた。
 ベルトコンベアーで大量生産する為に、部品の互換性が要求されていた。
   ・   ・   ・   
 1933年6月 「海軍建艦3カ年計画」
 1934年3月15日 「第一次ヴィンソン案」(補助艦艇充実案)
 3月17日 「ヴィンソン・トランメル法案」8年計画
  目標、 艦艇‥94隻、航空機‥330機。
 1938年5月17日 「新ヴィンソン海軍拡充計画(第二次ヴィンソン案)」
  財政に対する軍事費は12.9%で、翌39年には14.4%(34年度の約2倍)に増額された。
  目標、戦艦(4万5,000トン級)‥3隻、空母(2万トン級)‥2隻、巡洋艦駆逐艦・潜水艦‥46隻、 補助艦艇‥26隻、航空機‥650機。
 :1941年完成予定、戦艦‥24隻、空母‥8隻、巡洋艦‥48隻、駆逐艦‥281隻、潜水艦‥477隻。総計190万トン。
 第一線航空機‥3,000機。
 1939年 ルーズベルトは、将来的に戦争に参戦する可能性を考慮して、軍需物資を増産させる戦争準備命令を出した。
 1940年6月 「第三次ヴィンソン案」
  空母3隻を含む22隻(16万7,000トン)の建造。
 7月 「両洋艦隊案」(スターク計画)。
 予算、100億ドル(日本の年間GNPを10%近く上回る)。
  艦艇257隻(135万トン)建造。航空機1万5,000機増強。
 :1946年完成予定、戦艦‥35隻、空母‥20隻、巡洋艦‥88隻、駆逐艦‥378隻、潜水艦‥180隻。総計300万トン。
   ・   ・   ・   
イギリス海軍拡張計画
 イギリスの軍需産業は、第一次世界大戦で疲弊し、アメリカ企業との提携を進めていた。
 1937年 「五カ年計画」
  戦艦25隻、空母12隻、その他。総計200万トン。
  日本軍の侵略に備えて、植民地・香港とシンガポールの強化。
   ・   ・   ・   
日本海軍軍拡計画。
 日本海軍は、世界第三位の海軍力であった。
 日本の軍需産業は、兵器自前主義から、民族資本で兵器生産を行っていた。
 国際資本からの資金支援を受けていなければ、共同開発の提携もしていなかった。
 民族資本と独自技術で開発生産できる数量が限定されていた為に、戦艦大和零戦や隼など一品豪華主義にならざるを得なかった。
 日独伊三国同盟は、日本にとって得する点は皆無に近かった。
 1930年9月30日 海軍兵力、戦艦‥10隻、総艦艇‥280隻。総計113万7,552トン)
 航空機‥500機‥17隊。
 1930(昭和5)年4月22日 ロンドン条約調印。翌31年1月1日 公布。
 昭和天皇は、日本及び世界の平和と軍部の横暴を抑制の為に、軍縮に賛成した。
 日本海軍は、主力艦と補助艦の建造を禁止された為に第三の艦艇である空母建設に取りかかったが、主流派の戦艦派が猛反対していた。
 1931年 「第一次補充計画」(①計画)
  補助艦建造‥39隻(7万3,000トン)
  航空機部隊‥36年度を目標に8隊新設。
 官吏の減俸などの行革により計画は削減を受けた。
 1934年 「第二補充計画」 37年度目標。
  建造計画を、89隻(15万9,000トン)から48隻(13万7,000トン)に削減する。
  航空部隊新設は、14隊に増やす。
 3月12日 佐世保軍港で、「友鶴」沈没事故。
 1935年9月26日 第四艦隊事件。
 1936年6月3日 軍縮無条約。
 「国防方針」「国防所要兵力」「用兵綱領」の第三次改定。(②計画)
  海軍兵力、戦艦‥12隻、空母‥10隻、巡洋艦‥28隻、
  水雷隊‥6隊、旗艦‥6隻、駆逐艦‥96隻、
  潜水戦隊‥7隊、旗艦‥7隻、潜水艦‥70隻、
  常設基地航空隊‥65隊、平時‥1,177機、戦時‥1,402機。
 1937年 海軍予算、3億7,545万円。
 「第三次補充計画」(③計画)。
  建造艦艇数‥66隻(26万9,510トン)
  空母‥2隻、水上機母艦‥1隻。
  新設航空隊‥14隊、556機。40年完成予定、陸上航空隊‥53隊、827機、(実戦部隊‥381機、訓練航空隊‥446機)、艦船搭載機‥1,089機。
 1939年 海軍予算、11億775万円。
 「昭和14年度海軍軍備充実計画」(④計画) 目標、44年度。
  超弩級戦艦(大和型戦艦)‥2隻を含む80隻(32万1,000トン)建造。
  新設航空隊‥75隊、1,511機(海上航空機‥174機)。
 陸軍の増強により希望した海軍予算が削減され、 予算上、航空隊の増設と大和型戦艦建造の両立は不可能として、大和型戦艦の建造が優先された。
 陸軍の軍事予算、37億3,655万円。
 ④計画完成後の海軍力、主戦闘艦艇‥280隻(130万トン)
 1940年 海軍予算、15億3,181万円。陸軍予算、41億9,073万円。
 1941年 海軍予算、31億507万円。陸軍予算、63億8,195万円。
 「第五次軍備充実計画」(⑤計画)
  超弩級戦艦‥3隻、1号艦(大和)、2号艦(武蔵)、3号艦(信濃)、
  新型超巡洋艦‥2隻、正規大型空母(大鳳型)‥3隻、建造予定計159隻(65万トン)。
  新設航空隊、実戦部隊‥67隊、1,320機、訓練航空隊93隊、2,138機 
 1942年 海軍軍事予算、83億8,515万円。陸軍軍事予算。103億6,800万円。
 「第六次軍備充実計画」は予算上中止。
 6月30日 「昭和17年度戦時航空兵力増設及び艦艇建造計画」
  海上航空部隊と輸送護衛艦艇の増強の為に、戦艦及び巡洋艦合計37隻の建造を取り止め又は中止した。
  ⑤計画 空母‥3隻を18隻に、艦艇‥118隻から343隻に。
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  所有航空部隊数を、232隊から347隊に増設する。航空機‥7,832機。
  艦船航空隊‥129隊、2,467機。
  ④計画 他の艦艇から空母への変更。
  大和型戦艦3号艦(信濃)を空母に変更。軍艦3隻と商船5隻を空母に改造。
  戦艦1隻、巡洋艦3隻の建造を取り止め又は中止。
  42年現在 建造中艦艇数410隻。
 10月 「昭和17年度戦時艦船建造補充計画」
  輸送用潜水艦‥11隻。44年10月竣工。6隻は特攻兵器「回天」搭載艦。
  海上護衛用小型駆逐艦‥42隻。43年2月竣工。45年までに26隻竣工。
 1943年 海軍軍事予算、137億7,944万円。陸軍軍事予算、157億6,434万円。
 「昭和18年度戦時艦船建造補充並に陸上防備兵力増勢実行計画」
 海軍の戦いは、海上決戦から島嶼攻防戦に移っていった。

 

 


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🎶24:─1─軍部は、国内外の空気圧力に屈して不利な軍縮条約を受け入れた。日蓮宗系右翼の暗殺テロ。1923年~No.52No.53 * ⑧ 


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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博 ・   
 日本を支配していた空気は、国民輿論というポピリズムであった。
 戦前期の日本を動かしていたのは、日本国民、日本民族日本人であった。
 日本国民は、軍国主義者に騙された被害者ではなかった。
 それほど日本国民、日本民族日本人は、分別のない馬鹿でなかった。
 もし、本当の馬鹿であったら、日本は植民地となり、日本人は奴隷となり、日本民族日本人は死に絶えていた。
   ・   ・   ・   
 第一次世界大戦において、連合軍輸送船団護衛の為の日本海駆逐艦隊の派遣ではなく、日本陸軍主力部隊の欧州戦線派兵という本格参戦していれば、日本の運命は変わり、太平洋戦争を回避できたかもしれない。
 アメリカは、海の向こうの戦いで部外者であったにもかかわず、本格参戦して多くの犠牲者を出した事で国際政治に於ける指導者としての地位を得た。
 力が支配する国際政治に於いて、血を流して自己主張しない者には如何なる権利も求められなかった。
 イギリスもフランスもロシア帝国も、ドイツ軍の猛攻に苦戦していた為に、再三、同盟国日本政府に対して本格参戦しヨーロッパ戦線への援軍派遣を懇願していた。
 日本陸軍と知識人の多くは、近代国家日本の現在があるのはドイツ帝国の御蔭という意識が強かった為に、同盟国イギリスより敵国ドイツ帝国への親近が強く、ドイツ人から受けた多くの恩義から派兵するの事には反対であった。
 日本政府も、親ドイツ派の圧力で、連合軍側の派兵要請をヨーロッパは遠いとの理由から全て拒否した。
 ロシア帝国は、陸軍部隊の海上輸送が困難ならシベリア鉄道の使用を提案したが、日本側は断った。
 ならば、兵器が不足しているので歩兵銃数万丁の提供を求めたが、此れも日本側は拒否した。
 イギリスやフランスは、日本側の派兵拒否は中国大陸での領土拡大が目的であると邪推した。
 日本の頑なな拒否によって、国際社会での信用は失われた。
 人間社会において、困った時に助けに来ない者は友人・仲間とは見なさない大原則が存在する。
 それが、集団的自衛権であった。
 この時の日本人は、ドイツ人への心情的な親近感から同盟国の苦境を見捨てた。
 その後。国際外交で日本が窮地に追い込まれたのは、人間関係の大原則を個人的情緒で踏みにじったからである。
 2013年の現代日本に於いても、日本人は集団的自衛権問題で同じ愚行を繰り返している。
 アメリカは、国益の為に、100万人近い若者をヨーロッパ戦線に投入し、連合軍の勝利に決定的な貢献をした。
 イギリスやフランスなどの欧州国にとって日米は同じ新興国であった、日本は自国の利益しか考えないを薄情で信用できない国家と白眼視して見捨てが、アメリカは如何なる犠牲も覚悟で行動する信頼できる国と見なして重視した。
 ここに、日本の今後の運命が決定した。
 第一次世界大戦の意味する所は、総力戦や情報戦などではなく、国家として、人間として、信用できるかの踏み絵であった。
 日本陸軍は、第一次世界大戦で総力戦、物量戦、情報戦の重要性を詳しく学ぼうとしたが、軍人として守るべき信義という重要な事を忘却した。
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 1923年2月 第二回改定帝国国防方針。アメリカを第一の仮想敵国とし、中国をめぐる経済問題とアメリカの人種偏見問題が戦争の原因となると分析した。
 先の大戦による総力戦を考えた場合。天然資源の無い日本が資源大国アメリカと戦うには、陸軍が中国の敵軍隊を駆逐して大陸の資源を抑えて原材料供給地とし、海軍が海上輸送路を確保して南方から物資を輸送する、という戦略であった。
 つまり、南進策である。
 満州とシベリアは土地は広大でも軍需資源は乏しく、軍事的に開発するには時間がかかり役には立たないと分析した。
 軍部は、乏しい国力と制限された軍事力を考慮して、戦略的価値もない広大な不毛の大地を無駄に占領するより、持てる力をピンポイント的に集中して重要資源のある狭い地域の確保を優先した。
 四分五裂の内戦状態にある中国で、欧米列強の侵略に対抗して共同防衛できる強力な親日政権が樹立する様に経済的軍事的干渉を強めた。
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 1924年 アメリカは、日本人移民を排除する為の新移民法を可決した。表面的には日本との友好を望んでいると表明していたが、本音は反日であった。
 アメリカ軍は、極秘戦略カラー戦争計画を策定し、その内の対日戦争計画であるオレンジ計画を正式に採用して、さらなる日本の海軍力の削減を要求した。
 対日戦略の主目的は、アメリカ資本が中国市場を独占する為に妨害となる日本の軍事力を粉砕し、日本資本を中国から完全に駆逐する事であった。
   ・   ・   ・   
 1925年 日本は、アメリカを中心とした海からの包囲網に対抗する為に、近寄ってはいけない共産主義国ソ連に接近して日ソ基本条約を締結した。 
   ・   ・   ・   
 1927年6月 ジュネーヴ海軍軍縮会議は失敗した。アメリカとイギリスが激しく対立して、交渉は決裂した。
   ・   ・   ・   
 1928年8月 パリで、侵略戦争を放棄する不戦条約が成立した。
 アメリカのケロッグ国務長官は、「自衛戦争かどうかは、それを発動する国が決める事である」との、自主裁量権を保留条項として付けた。
 侵略戦争自衛戦争は、軍事行動を発動する当事国が定めるとされた。
 翌年。ソ連は、自衛権を宣言して満州を侵略した。
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 海軍軍縮会議で、激しき対立していたのはアメリカとイギリスであった。
   ・   ・   ・   
 1930年4月 ロンドン海軍軍縮条約。イギリスは、中国利権を守るべく、日本軍の軍事力を削ぐ為にアメリカに協力した。
 日本政府は、国家財政を立て直す為に軍縮条約を受け入れた。
 野党は、憲法違反であるとして、国会で「統帥権干犯」を理由にして政府を激しく攻撃した。
 海軍の強硬派は、国粋派政治家の協力を得て軍縮条約は、国防を危うくするとして批判した。
 日本の軍国化は、軍人ではなく政治家によって始められた。
 軍人は、当初は憲法に従って政治不介入を守っていたが、右翼的政治家や狂信的仏教徒に担がれて政治に介入していった。
 日本代表団は、会議を成功させる為に、アメリカの求めに応じて補助艦保有量を対米英69.75%まで譲歩して、実質7割を勝ち取った。
 日本政府は、立憲政友会、海軍軍令部、右翼らの反猛対を押し切って条約を批准した。
 日本は、米英両国とユダヤ系国際金融資本との信頼関係こそが生きる道であるとして、国際協調外交を貫いていた。
 11月 浜口雄幸首相は、軍縮に反対する右翼団体の青年に狙撃された。
 翌年8月 右翼のテロで、浜口は死亡した。
 これ以降、日本は右翼・右派によって絶望的戦争に暴走して行った。
 昭和天皇は、大元帥として、国際平和の為に軍縮条約に賛成して裁可した。
 国家元首たる昭和天皇の願いは、戦争ではなく平和であった為に、日本の将来を国際協調に賭けていた。
 軍人は人気のない職業となり、女性は軍人との結婚を嫌った。軍人を希望する青少年も、激減した。
 この結果、軍需産業の低迷で科学技術の発展や工業生産の効率化が疎外され、陸海軍の装備は他国に比べて機械化が遅れ、列強諸国の軍隊はもちろん中国軍の装備に比べても立ち後れた。
 太平洋戦争における、日本軍の装備の劣勢は、アメリカに強要された軍縮が原因であった。
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 1931年 日本の最大動員兵数は約450万人で、予備兵74万人、後備兵88万人、とされていた。
 中国は、法の秩序がない不法地帯として犯罪が多発していた。
 良識ある国際人は、中国の隣国で軍事力を持つ軍国日本の軍事介入で、中国に法の秩序の回復を望んでいた。
 9月 満州事変。国際社会は、日本を侵略国家であると非難し、昭和天皇の戦争責任を糾弾した。
 国際法は、日本の自衛権を認めていないし、自国民の生命財産を守ろうとした正当防衛も認めていない。
 日本軍が相手にしたのは、抗日中国を金融・石油・軍事など多方面で支援しする反日派の諸外国であった。
 反日的諸外国の金融・経済と軍事を支配していたのが、ユダヤ人系国際金融資本であった。
 ユダヤ人は、三国同盟以前から反天皇反日的であり、日本をアジア市場から完全排除しようとしていた。
 アメリカ、イギリス、ナチス・ドイツなどの諸外国は、不況下に苦しむ自国の軍需産業を活性化する為に、中国軍への軍事支援を行っていた。
 蒋介石が率いる抗日中国軍は、欧米の死の商人から最新式の武器を大量に買い込んでいた。蒋介石は、反共産主義者ではなく、もちろん親日でもなかった。本心は、反日であった。
 故に、日本軍を殲滅するために、ソ連の軍事支援を受け入れ、スターリンソ連軍の対日戦参戦を切望していた。
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 1932年2月 親ユダヤ派の井上準之助前蔵相が、過激な日蓮宗右翼団体員に暗殺された。
 昭和天皇は、日本の存続とアジアの平和の為に、ユダヤ人国際資本家との友好関係を切望し、国際的反ユダヤ主義を嫌っていた。
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 1935年1月 第二次ロンドン軍縮会議は決裂し、日本は会議脱退を通告した。世界は軍縮無条約時代にし、各国は軍拡競争に突入した。
 日本海軍の戦力を一個艦隊とするなら。アメリカ海軍は三個艦隊以上に相当し、イギリス海軍は二個艦隊である。
 日本は、何時の時代でも世界平和の名目で軍縮を強要された。
 日本と戦う中国軍は、際限のない軍拡が認められていた。
 事実。
 欧米列強の死の商人は、大量の武器弾薬を抗日中国軍に売却していた。
 欧米政府も、中国に多額の融資を行っていた。
   ・   ・   ・
──────  陸軍  ‥ 海軍
・1936年… 40万人‥10万7,000人 
・1937年… 50万人‥13万4,000人 
・1938年…100万人‥15万9,000人 
・1939年…144万人‥18万人 
・1940年…150万人‥22万3,000人 
・1941年…210万人‥31万1,000人 
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☆諸外国の軍事力(1937年当時)
・イギリス ‥ 19万人
 インドなどの植民地軍は、100万人以上。
 英連邦のオーストラリア、カナダ、南アフリカなどの各政府には、独自の軍隊を持っていた。
・フランス ‥ 69万人 
  植民地軍は不明。
・ドイツ  ‥ 52万人 
・イタリア ‥ 34万人 

 

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🎶10:─1─日本封じ込めのワシントン体制。日本の軍縮と中国の軍拡。1919年No.16No.17No.18 * 

天皇の戦争責任

天皇の戦争責任


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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 軍国日本は、苦渋の選択として、世界平和に貢献させるべく不利なワシントン海軍軍縮条約を受け入れた。
 軍部は、不満であったが、軍需予算を決めるのが政府である以上は、政府の決定に従った。
 この当時。統帥権は、行政権、立法権司法権と同列に扱われていた。
 大正天皇裕仁皇太子は、平和の為に軍縮を裁可した。
 軍国日本は、平和を望んだ。
 アメリカやドイツなどの国際資本系軍需産業は、中国の軍拡に協力した。
 日本の民族資本対欧米の国際資本の資本対決。
 日本は望んでいなかったが、国際資本は日本資本を倒すべき敵と認識していた。
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 ビスマルク「政治とは妥協の産物であり、可能性の芸術である」
 「国際法は、力のある国家同士が創っているのであって、力のない国が主張したとしても受け入れられないのは明らかである。だから、そのような発言をしたいのなら力を付けてからするしかない」
 現代世界で、自己主張したいと志す国家は先を争って核兵器開発を行っている。
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 ジョージ・ケナン「(アメリカの)外交活動の大半は、他の諸国ことに日本が、我々の好まない特定の行動を追究するのを阻止しようという狙いをもっていた」
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 日本国内の総人口は、約7,000万人
 第一世界大戦後、世界各国は二度と戦争という悲惨な過ちを繰り返さない為に軍縮を行った。
 アメリカは、開通したパナマ運河の独占支配を守るべく、脅威となる日本海軍を弱体化する為に軍縮を提案した。
 日本は、外国依存度が強いだけに、国際協調を国是として、アメリカとの友好関係を優先して国防を犠牲にした。
 中国とソ連は、平和を求める国際世論を無視して、アメリカやイギリスのユダヤ人金融資本から莫大な融資を得て大規模な軍拡を行った。
 日本軍部は、国家防衛の責任から周辺諸国との軍事バランスを保つ為に、常識の範囲内での兵員の増強と装備の機械化を主張した。
 政府は、国際協調を国是とし、軍部の国防強化の要求を平和主義時代に逆行するものとして却下し、経済発展を優先して軍縮を断行した。
 議会も、反軍国主義から国民の生活を守る為に軍事費を大幅に削減した。
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 1900年初頭 アメリカの安全保障上の最大の懸念は、太平洋方面の日本と大西洋方面のドイツ帝国であった。
 アメリカ海軍には、日本とドイツの両艦隊と戦うだけの海軍力はなかった。
 アメリカは、二正面作戦を回避する為に、先ずドイツ海軍を殲滅する事として、日本を懐柔する為の宥和政策を取った。
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 1914年 第一次世界大戦
 第一次世界大戦において、ドイツ帝国は敵となり、日本は味方となった。
 日本海軍は、イギリスとフランスからの度重なる要請を受けて、インド洋の海上輸送路を警備し、地中海で連合軍輸送船がUボートの攻撃を受けない様に護衛した。
 チャーチル日本海軍は、必ず上手くやってくれると信じていた」
 ポール・メスエル卿(マルタ総督)「我々の同盟関係に神の加護あれ。流された血で、両国の関係はますます強固になった」
 日本政府は、世界大戦に参加するに当たり、イギリスとの間の密約で山東省のドイツ権益と太平洋南洋諸島ドイツ領の委託統治を認めさせ、北京の袁世凱政権ともドイツ権益の移管についての条約を取り交わしていた。
 日本は、国際法に則り、外交交渉で万全な準備を整えてから参戦した。
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 1917年4月 アメリカ海軍は、太平洋艦隊を大西洋に移し、太平洋方面の警戒行動を日本海軍に委託した。
 ドイツ海軍の巡洋艦Uボートは、太平洋の植民地諸島を拠点として太平洋やインド洋で行動していた。
 戦艦・肥前巡洋艦・浅間は、ホノルル港に逃げ込んだドイツ巡洋艦ガイエルを湾内に封じ込めた。
 戦艦・金剛は、アメリカ領ミッドウェー島の通信施設を防衛した。
 巡洋艦・出雲は、メキシコ太平洋沿岸の防衛任務を全うした。
 日本は、国際協調から連合軍の一員としての義務を果たすべく、同盟国イギリスと友好国アメリカやフランスに対して、可能な限りの協力を積極的に行った。
 列強がヨーロッパ戦線で中国を留守にしてる間に、日本が領土拡大の為に大陸を侵略したというのは酷評すぎる。
 10月 ランシング国務長官は、日本の海軍力を利用するべく、反日派を宥めて、日本の華北における特殊権益を容認する石井・ランシング協定を結んだ。
 アメリカの基本的対日戦略において、大戦中だけ日本を宥め利用する為に表面的に理解を示しただけで、海軍大国日本を仮想敵国としている事には変わりはなかった。
 アメリカ外交は、自国に都合よく臨機応変にコロコロと変化するが、根本的な反日は不変であった。
 1918年11月 ドイツ帝国が降伏して、第一次世界大戦終結した。
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 1919年 アメリカは、大艦巨砲主義に基づき大艦隊を編制し、日本に備えるべく艦隊を分割して太平洋と大西洋に配置した。
 6月28日 ベルサイユ条約の締結。
 プロテスタント宣教師エドワード・ウィリアムスは、国務省アジア外交顧問としてベルサイユ会議に参加していた。
 中国代表団の顧維鈞駐米公使は、中国から日本を締め出す為に、ウィリアムス神父ら反日親中国派の協力を得て日本に山東省利権の破棄を要求した。
 イギリスとフランスは、日本との密約と日本と袁世凱政権との鉄道建設借款の前借りなどで、中国側の要求を却下した。
 アメリカの親中国派は、日本外交の前に敗北した。
 中国も、伝統的な夷を以て夷を制する外交で、アメリカを利用して日本を制しようとしたが失敗した。
 顧維鈞や王正廷ら欧米留学経験者は、欧米諸国での人脈を利用して支援者を拡大するとともに、人ネットワークを拡大する為に有能な中国人青年の海外留学を奨励した。
 日本人青年は、明治初期と比べて、国内に安住して海外への留学を希望しなくなった為に、国際社会へのプレゼンテーション能力を弱めた。
 国益・公益より個人益・民益優先の風潮が日本人に広がり、その結果として昭和初期の戦争という悲劇が日本を襲った。
 日本外務省は、アメリ国務省が親中国化して対日外交が反日に変化し始めている事に警戒を強めた。
 だが、アメリカ政府や国務省は、
 ドイツ帝国は崩壊し、ドイツ経済は天文学的賠償要求で立ち行かなくなり、大西洋を席捲しようとしたドイツ海軍は消滅した。
 イギリスは、大戦への出費で疲弊してアメリカ資本の支援を受ける迄に経済はし、損害激しい海軍を再建する財力がなかった。
 アメリカの安全保障における残された脅威は、太平洋の日本であった。
 ドイツ海軍の脅威がなくなった以上、太平洋有事には、大西洋艦隊を太平洋に派遣する事が可能となった。
 アメリカは、真の狙いを隠して日本に宥和政策を取る必要がなくなり、日本を激怒させ困惑させ屈服させる為の強硬政策を遠慮容赦なく採用できるようになった。
 日本は、親米として、対等な関係での友好を望んだ。
 アメリカは、反日として、従属的関係を強要した。
 日本人は、アメリカに憧れ、建国の父ワシントンや奴隷解放リンカーン日露戦争時のセオドア・ルーズベルトらを世界の偉人として尊敬して、彼等の伝記を愛読した。
 だが。白人至上主義のアメリカ人は、宗教的人種差別から日本人を「イエロー・モンキー」と蛇蝎の様に嫌っていた。
 ジェフリーレコード(2009年アメリカ陸軍戦略研究所の博士論文)「他文化に対するアメリカの無理解は、我が国の外交政策を未だに蝕んでいる。ベトナム戦争イラク戦争の例でも分かる様に、我が国の姿勢は日本とのあの大戦の頃と何ら変わる所がない。恐らく、先進国の中で外国語を一つも話せない人間でも有識者と見なされる唯一の国がアメリカであろう」
 日本が戦勝国の一員として、国際連盟常任理事国となり、世界の五強国となって浮かれているうちに、世界情勢が激変した。
 ランド・パワーの時代が終わり、シー・パワーの時代に突入した。
 海洋覇権をめぐる日米の対立が始まった。
 国力が脆弱な日本は国家戦略からそれを望まなかったが、国力の強大なアメリカは世界戦略からそれを望んだ。
 孤立主義者は、人種差別撤廃条項を主張した日本が理事国となっている国際連盟への加盟には猛反対した。
 カレイ・マックウィリアムス「連盟にアメリカは加入してはならない。日本は連盟の場で必ず人種は平等であると主張する。アメリカがメンバーになったらやり込められる」
 孤立主義者と人種差別主義者は、中国市場を独占しようとするユダヤ系国際資本の資金支援を受けて、アメリカから日本を締め出す為に反日世論を誘導した。
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 1920年7月12日 移民問題を調査する移民・帰化委員会は、日本人移民等の聞き取り調査をカリフォルニアで行った。
 カレイ・マックウィリアム「平和をもたらすはずのベルサイユ条約調印のインクが乾きもしないのに、アメリカは日本との戦争の危機を迎えたのだった。こんな状態になるとは誰も想像していなかった」
 11月 上院議員選挙。選挙公約に「日本人排斥」を加えると確実に票につながる為に、各候補は日本人移民排斥を声を大にして訴えていた。
 民主党のジェームズ・フェラン上院議員候補は、白人至上主義者からの支持を得る為に、「日本はカリフォルニアを奪う為に移民を送り込んでいる」との危機感を煽り、「日本人排斥」を選挙の争点として遊説を続けた。
 ジェームズ・フェラン「日本人は実に不道徳な人種である。我が民族の雑種化を図り、退廃させよと目論んでいる。カリフォルニアはそうした脅威に晒されているのだ。命を狙うという脅しまでかかっていきている。ボルシェヴィキの思想に染まった日本人を叩き出し、そうしいった危ない思想からカリフォルニアを護らなければならない」
 議会に於いて、審議される予定の日本人移民に対する人種差別的土地保有規制法案についての選挙民用ガイドブック。「本法案の趣旨は市民権を持つ事のできない東洋人に、わがカリフォルニアの肥沃な農地を支配させない事にある。東洋人、中でも日本人は我が州の支配を固めようとしている」
 選挙結果の得票数は、共和党候補49%、民主党候補41%で、日本人排斥に急先鋒であったフェラン候補は落選した。
 カリフォルニア州議会は、日本人移民への危機感から「アジア人全体に人頭税を課す法案」と「市民権を持たない外国人の土地所有を規制する法案」を、賛成多数で可決した。
 カリフォルニア東洋人排斥連盟などの反日市民団体は、西海岸で日本人移民が無制限に増えるとカリフォルニア州は日本に奪われると危機感を煽っていた。
 西海岸の白人至上主義諸団体は、日本人排斥運動を中西部や東部に広める為に活動家を派遣した。
 反日感情が異常に高いカリフォルニア州は、ワシントンに対して「日本人排斥」を繰り返し陳情していた。
 アメリカ海軍も、軍事予算の増額を狙って日本排斥運動を支持していた。
 投資家は、日本脅威論で軍需産業が儲かると信じて関連株を購入していた。
 アメリカの安全保障政策は、対日宥和から対日封じ込めに180度転換した。
 ワシントンの親中国派は、国務省極東部から親日派を締め出し、アジア政策の主導権を握るべく議会でのロビー活動を始めた。
 対日強硬派の中心人物は、スタンリー・ホーンベッグで、日米開戦時には国務省極東部長として対日強硬政策を陣頭指揮した。
 キリスト教会は、中国での布教活動を行う為に、中国人の反天皇反日感情を煽った。
 ユダヤ系国際資本は、中国市場独占の為に日本資本を締め出すべく、ファシスト中国や共産主義者及び民族主義者を反日暴動へと焚き付けた。
   ・   ・   ・   
 アメリカ政府は、世界的建艦競争で英仏両国に与えていた戦時貸付金の回収が滞る恐れが出た為に、海軍軍縮を呼び掛けた。
 それが、ワシントン会議の真の目的であった。
 世界平和の為の海軍軍縮ではなかったのである。
 アメリカ海軍は、日本の海軍力をできる限り削減するべく、日本の外交暗を傍受して情報を仕入れていた。
 日本側全権が戦艦保有量を対米7割を強硬に主張しても、暗号解読で日本海軍がギリギリ6割まで譲歩する事を知っていた。
 中国と親中国派アメリカ人は、中国における日本の行動を封じ込める為に、海軍軍縮会議に山東省問題を含む中国問題を持ち込むに成功した。
 ウェステル・ウィロビー(国務省顧問)「現実に物理的占領が完了している中で、日本が山東省返還に応じた。これは、中国の完全勝利といえる」
 ヒューズ国務長官らは、軍縮問題に中国問題を持ち込み、日中問題アメリカが巻き込まれる事を警戒したが、親中国派への考慮し補助的課題として話し合いの場を設ける事に同意した。
 ウィリアム神父は、中国側の代理人的立場でワシントン会議に参加した。
 幣原喜重郎駐米大使は、軍縮会議で中国問題が取り上げられ親中国反日で進行する恐れがあると、東京の内田康哉外相に至急暗号電を打って警戒を促した。
 「ウイリアムが、パリ会議の際、アメリカ委員付顧問の職にありながらたえず支那委員に助言を与え、これを扇動して日本に反抗する行動をとらしいめたる、蔽う可らざる事実にして、支那問題が非常なる紛糾に至りたるは、少なからず彼一派の行動に原因す。就いては、同氏の如き先天的偏見を有する者が、仮令一の属僚たる地位とはいへ、支那問題に関する専門家として会議の要職に参与せしむるは、一般空気を陰険ならしめ会議の成功を期する所以にあらず」
 日本政府は、国際協調を国是とし、ワシントン会議を紛糾させてアメリカ側に迷惑を掛ける事を避けるべく、山東半島利権放棄などの大幅な譲歩を決定した。
   ・   ・   ・   
 中国の伝統的交渉とは、一つの些細な譲歩を引き出し、それを足掛かりとして第二、第三の譲歩を要求し、最終的には全てを奪う事である。
 中国への配慮としての譲歩は、破滅の元であった。
   ・   ・   ・   
 アメリカの対アジア外交方針は、国務省内の親中国派(パンダハンガー)対親日派(クリサンセマム。菊)との意見の対立で左右されていた。
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 ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー中国駐在アメリカ公使「列強諸国の文字通り真摯で誠実な努力──各国が中国と協力して不平等条約の状態を解消させ、ワシントン会議の精神に具体的な成果を与えようとする努力──を挫折させてしまったのは、ほかならぬ中国自身であった」
   ・   ・   ・   
 欧米列強は、自国一国で中国の利権を独占できない為に、パワーバランスとして、中国における自国の利権を守り他国が独占する事を防ぐことに合意した。
 中国の主権と中国人の民族自決を守る為ではなかった。
 中国の国家主権や民族自決を侵害するような戦争は違法行為としたが、自国の権益を守る自衛権範囲での「戦争に至らない武力行使」は認めた。
 「戦争に至らない武力行使」とは、宣戦布告のない戦闘、つまり事変であった。
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 1921年・22年 ワシントン軍縮会議。 アメリカの対日外交は、1,海軍力を海上輸送力防衛に必要な最低限に削減する、2,国際的地位の拠り所である日英同盟を破棄させる、3,日本経済の発展に欠かせない満蒙の特殊権益を無効にする、の基本方針のもとにで展開された。
 マハンの海洋地政学にもとずき、軍国日本から海軍力を奪って極東に封じ込め様としていた。
 アメリカは、国際外交で主導権をとる為にワシントン会議を主宰し、アジアを自国有利なワシントン体制下で管理しようとした。
 ハーティング大統領は、日本やイギリスとの建艦競争での巨額な軍事費が国家財政を圧迫するとして、軍事費の支出を抑制する為に軍縮会議を呼びかけた。
 12月 太平洋方面に於ける島嶼たる属地及び島嶼たる領地に関する四ヵ国条約。アメリカは、日本の安全保障の根幹である日英同盟を解消させる為に、アメリカとフランスを加えた四ヵ国条約を呑ませた。
 日本は、国際社会での最大の後ろ楯を失い、支援国を失って孤立化した。国際協調路線に基づく欧米での同盟国を失った為に、アジア主義を拠り所としてに中国政策にのめり込んでいった。外交基本方針が米英協調路線から中国協同路線へ変更され、国民気運も西洋から東洋へとアジア重視となり、内戦で混乱する分裂国家中国に深入り過ぎた事が日本の悲劇の最大原因となった。
 軍部は、イギリスとの同盟関係の消失と国際的軍事情勢に即応した軍事力整備が制限された現状に、資源なき国状で経済制裁・経済封鎖されたときを考慮しての国防方針再検討を開始した。結論として、国家滅亡を回避する為には、石油や鉄鋼などの必要資源を中国などの大陸で確保するという積極的大陸政策が検討された。その際、同盟国や友好国は考慮されず、あくまでも日本単独による軍事行動が予想された。
 後の、日本中心とした大東亜経済・金融圏構想である。
 ここに、戦争犯罪国家日本の誕生である。
 日本側の意図は、領土拡大によるアジア征服・世界制覇が目的ではなく、「円」をアジアの基軸通貨とした自給自足体制の確立であった。
 日本の貧弱な国力を正確に知る当時の日本人は、巨大な国力のあるアメリカと張り合っても勝てない事は知っていた。そので、独立国家として生き残る道を必至で探っていた。
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 1922年2月6日 海軍軍備制限に関するワシントン条約海軍軍縮条約)。アメリカは、各国の建艦競争を止め、主要艦艇の保有量を制限する条約を取りまとめた。
 日本は、屈辱的主力艦対米英比6割を呑まされ、アジアに於ける力の均衡で劣勢に追い遣られた。
 主力艦保有量「米国10‥イギリス10‥日本6」
 アメリカ軍首脳部は、日本海軍と中南米諸国の反米勢力が接近する事に警戒した。同様に。フィリピンの反米ゲリラ勢力に、日本の反白人主義系右翼が独立を支援し、その右翼に日本陸軍が武器を提供していると分析していた。
 国際金融資本と石油業界は、メキシコ油田から独自ルートで石油を獲得しようとしている日本を排除する様に、ワシントンに圧力をかけた
 アメリカは、アジアの利権と中米油田の独占を守る為に日本の影響力を排除しようとした。
 日本は、アメリカからの莫大な投資と大量の原材料を得る為に、アメリカとの協調を優先した。そして、二十一箇条要求の一部を撤回し、山東半島の権益を日本に返還した。
 中国は、日本が国際世論の外圧に弱い事を知るや、大陸における日本の権益全てを剥奪するべく、民衆に中華ナショナリズムを煽り立てた。民族主義者は、各地で日本製品不買運動反日暴動を起こし、日本人居留民を襲った。
 武器を持たない日本人居留民は、抵抗して身を守るという正当防衛を放棄して、中国人暴徒に惨たらしく虐殺されていた。
 中国は、如何なる国際条約をも遵守する意志はなかった。
 加藤友三郎海軍大臣は、「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得るべきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし」として受諾した。
 日本海軍は、対米6割の屈辱的な要求であったが、「外交の大権」を持つ政府が決定した軍縮条約を受け入れた。伝統的国防戦略である「八・八艦隊」構想を放棄し、(1)超大型戦艦の建造、(2)潜水艦隊の活用、(3)航空部隊の増強(世界初の機動部隊新設)の三点を新たな基本戦略に加えた。
 東郷平八郎は、ハワイ王国の悲劇を目の当たりにし、セオドア・ルーズベルトの露骨な反日政策を肌で感じてきただけに、アメリカの横暴に危機感を抱いていた。
 ダブル・スタンダードアメリカは、自国の利益の為ならば自分に都合のいいルールを勝手に決め、相手の不利益にかまうことなく押しつける所があると警戒していた。
 アメリカの押しつけたルールによって、相手が破滅しようと、相手が滅亡しようと、人種差別のアメリカ人は気にしないし、罪の意識も感じなかった。
 東郷平八郎は、傲慢で身勝手なアメリカを信用していなかった。
 東郷平八郎英米が口に不戦を唱え、国際連盟をいうなら、ハワイやシンガポールの防備や兵力の集中は何の為かと言え!……世界平和は結構、且つ万人の声なること幣原のラジオの如くなれど表と裏がある。幣原はああでもいわねばならないかもしれないが、吾々はその裏を考え用意堅固にせねばならぬ」
 イギリスは、アジアにおける日本の国力が増大した為に、日本を牽制するべくアメリカの提案を受け入れた。イギリスとアメリカは、太平洋で利害が一致していた。「力の均等」外交から、日本を切り捨てる為に日英同盟を破棄した。
 ソ連は、会議に参加せず条約の部外者であった為に、独自行動をとり軍事力を強化した。
 日本陸軍は、1922年から25年にかけて、9個師団が削減され、1,000人以上の将校が予備役に強制的に編入され、7万人以上の兵士が削減され兵役期間も短縮された。
 軍縮の結果、日本軍の兵力は約30万人で世界第八位に後退し、かっての帝国軍隊の面影を無くした。
 同月 中国に関する九ヵ国条約。アメリカ、日本、イギリス、中国、フランスなど九ヵ国は、中国大陸の門戸開放や機会均等を厳守する事を約束し、中国の主権・独立・領土的行政的保全を尊重する事を決めた。
 日本が、日清・日露両戦争で獲得した特殊権益の内で同条約に違反するものは否定された。同時に、1915年の対華14ヵ条の要求、1917年の石井・ランシング協定、1919年のパリ講和条約すべてが破棄された。
 第一次世界大戦で日本に認められたのは旧ドイツ領であった南洋諸島であったが、それとても領土としてではなく、信託統治であった。
 アメリカにとては、西海岸からハワイを経由してフィリピンに至るの西進航路を遮断する障壁であった。アメリカが太平洋で自由航路を確保しようとした時、やはり日本の海軍力は目障りであった。
 国際連盟は、アメリカの太平洋の平和利用の原則に従って、日本に南洋諸島の非軍事利用を承諾させて軍事基地の建設を認めなかった。
 日本政府は、国際協調方針で、軍部に対して台湾以南での軍事基地建設を許さなかった。
 アメリカ海軍は、自国の領土となったハワイ・ミッドウェー・グアムなどに対日戦用の軍事基地を建設し、海兵隊を守備隊として配置し軍需物資を蓄えた。
 アメリカ陸軍と海軍は、フィリピンに対日戦に備えてそれぞれ堅固な軍事基地を建設し、いざという時の為に大量の武器弾薬を貯蔵した。
 イギリスはシンガポールを、オランダはジャカルタを、日本の南下に備えて要塞軍港都市に強化して部隊を派遣した。
 アメリカを中心とした、対日包囲網はすでにこの時から始まっていた。
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 ワシントン軍縮会議は終了し、日本側が軍縮要求を受け入れて条約が締結された。
 ヒューズ国務長官は、日本側が勇気を以て英断を下し、中国に譲歩してくれたお陰で会議が無事に終わった事に感謝した。
 親中国派は、日本脅威論で日本人移民排斥運動を盛り上げていただけに、日本海軍の海軍力が制限された事で反日運動の根拠の一つを失った。
 イギリス全権のバルフォアは、譲歩した日本の体面を傷付け、これ以上の中国利権を損なわない様に、今後は不要な外交圧力を日本に掛けない様にヒューズ国務長官との間で合意した。
 イギリスは、日本が主張する様に、中国の政治・経済などにおける無政府的混乱を憂慮していた。
 アメリカ議会は、日本に譲歩させた事で、クーリッジ大統領の政治力とヒューズ国務長官の外交力を高く評価した。
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 日本首席全権の山梨半造陸相は、「日米戦うべからず」の信念から軍縮会議を成功に導き、陸軍兵力10万人削減を断行した。
 山梨半造「国防は国力に相応する武力を備うると同時に、外交手段により戦争を避くる事が、目下の時勢に於いて国防の本義なりと信ず」
 東郷平八郎ら対米艦船維持派とて、国力差からアメリカとは戦争をする意思はなかったが、ハワイ王国消滅などで示したアメリカの傍若無人な領土拡大が日本の安全を脅かしているとの警戒心から、可能な限り保有できる海軍力を保持するべきであるして譲らなかった。
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 堀悌吉海軍中佐「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。……国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養(かんよう)し、一方外交手段により戦争を避くる事が、目下の時勢において国防の本義なりと信ず」
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 ワシントン体制は、中国を対象にした集団安全保障体制であると同時に日本封じ込め体制であった。
 国民党(ファシスト中国)と中国共産党は、ワシントン体制を悪用して日本に対する挑発的反日暴動を繰り広げていた。
 アメリカの策略で日英同盟を解消させられた為に、日本には共に戦ってくれる同盟国はいなくなっていた。
 日本は、国家の責任として、中国に於ける利権と自国民を反日暴動から保護の為に一国で防衛力を強化した。
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 ワシントン体制は、アジアの混乱の元凶であるソ連を加えていなかった為に不完全なものであった。
 ソ連は、中国共産党日本共産党などを使って暴動や戦乱を起こしていた。   ・   ・   ・   
 6月 満身創痍となった日本軍は、3,500人の犠牲を出してシベリアから撤退した。
 反共産主義のロシア人は、残虐な共産主義者の虐殺を恐れて日本と満州に逃亡した。
 彼等の多くは、栄光あるロシア帝国が衰退し滅亡した原因は日露戦争にあると信じ込んでいただけに反日的であった。
 反日派ロシア人は、日本と天皇を嫌って上海に移り住んだが、上海経済を支配するユダや人商人や他人の弱味に付け込む中国人商人によって貧困生活を余儀なくされた。
 その為に、ロシア人犯罪者とロシア人娼婦が急増したといわれている。
 国際都市上海は、中国人の秘密結社が支配する、犯罪とアヘンと人身売買で大金が動く魔都と化した。
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 相澤理「ワシントン会議に臨むにあたって、首席全権である加藤友三郎海軍大臣)が政府から言い渡された方針は3つありました。
 第一に、軍縮です。日本経済は第一次世界大戦中の好況(大戦景気)から一転、列強の回復とアジア市場への復帰により戦後恐慌に陥っていました。『平民宰相』原敬内閣の積極政策の失敗もあって財政難の状態であった日本政府にとって、列強どうしの建艦競争を終わらせて、膨張する軍事費を抑制することは急務でした。
 第二に、アメリカとの円満な関係の保持です。戦前(第二次世界大戦前)の日本は、石油・鉄などの重要資源をアメリカからの輸入に依存していました。また、財政難の解消のため外国債を発行した際にも、購入に応じてくれたのは戦争のダメージが残るヨーロッパ諸国ではなくアメリカでした。
 首席全権の加藤は、アメリカとの戦争には大金が必要だが『米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず』と発言していますが、これは日本の置かれた状況を見事に言い当てています。アメリカが日本の領土的野心に抱く不信感を払拭する必要がありました。
 そして第三に、中国とりわけ満州における権益の確保です。国内市場が狭く……、国際競争力も乏しかった戦前の日本経済において、満州は重要な輸出市場であり、また、石炭や鉄などの供給地でした。
 第一次世界大戦中には、満州経済の中核的な国策会社であった満鉄(南満州鉄道株式会社)によって鞍山製鉄所なども建設されています。会議で日本がやり玉にあげられrてば、こうした権益も危うくなりかねますん。
 それゆえ加藤は政府から、『帝国過去の施措政策のみを批判せんとするが如き形勢を生ぜしめざる様、臨機応変の措置をとらるべし』と指示されていました。……
 1920年代の日本外交は、この枠組みの下で対米英協調と対中国不干渉主義を堅持していく、協調外交の道を選びました。
 ここで注意すべきは、協調外交は中国(満州)における経済的権益を確保するための手段であった、ということです。中国の内政には口出ししない、その代わり、協調姿勢を示すことで経済的権益に関する列強からの支持を取りつける。その意味で、協調外交とはその名前とは裏腹に、きわめて帝国主義的な外交政策でした」(『東大のディープな日本史』P.243.〜P.245)
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 1923年9月1日 関東大震災
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 ワシントン体制は、国際協調体制として、四ヶ国条約と九ヶ国条約から成り立っていた。
 四ヶ国条約は、アメリカ、イギリス、日本、フランスが締結した条約で、太平洋諸島に関して加盟国の相互権利を尊重するというものであった。
 九ヶ国条約は、中国、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ポルトガルが締結した条約で、中国の主権・独立・領土保全の尊重と、中国における門戸開放・機会均等を定めたものである。 
 1924年 ソ連は、日本・中国・アジアを共産主義化する為に、ワシントン体制を無視して傀儡国家・モンゴル人民共和国を建国し、全ての外交勢力を締め出して国境を閉鎖した。
 共産主義国家は、ソ連の強力な指導の下で、旧王侯貴族や資本家及び土地持ち農家など保守派を人民の敵、反革命分子として弾圧し、女子供に関係なく処刑して、その財産を没収した。
 日本軍部は、共産主義勢力の膨張を脅威と覚えて、日本天皇と軍国日本を共産主義の侵略から守るべく、1932年に反共国家・満州国を建設するべく暴走した。
 清朝の残党である張景恵ら満州族は、民族自決の権利を訴え、漢族支配から独立して民族国家を樹立するべく日本軍部の野望に協力した。
 軍国日本は、自存自衛措置として戦争犯罪を始めた。
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 1924年7月 アメリカ議会は、人種差別法「排日移民法(ジョンソン・リード法)」を可決し、アメリカ市民権を取得する資格のない人種の移民を禁止した。
 アメリカ市民権の取得は、自由白人とアフリカ出身者とその子孫に認めたが、、アジア人種に認めなかった。
 この時代、アメリカに移住していたのは日本人であっただけに、排斥される対象は日本人だけであった。
 これまでの日本人差別法案は、カリフォルニア州だけの州法であったが、連邦議会で成立させた事でアメリカ合衆国の連邦法となった。
 アメリカ自体が、国家として排日を宣言したのである。
 日本人の多くは、アメリカが掲げる自由と民主主義という理想主義に憧れていただけに失望をし、前年の関東大震災の被害からの復興に全力を挙げている最中での法案成立に怒りを感じた。
 狂信的差別主義者の右翼・右派は、反米を唱え、アメリカへの憎悪を公言した。
 鄕見祐輔「日本が塗炭の苦しみに喘いでいるまさにそのときに、長きにわたって日本人に開かれていたドアをパタンと閉めたのだ。日本は、アメリカがこうした挙に出るなどとは思いもしていなかった。その動機も全て理解できなかった」
 ロバート・オーラ・スミス「これまでアメリカ政府は、カリフォルニア州がどの様な態度で臨もうが、合衆国は日本との強い友好関係の保持を希求すると繰り返し表明してきた。しかしこの法律の成立で、政府の主張はもはあ意味を成さなくなった。日本人移民に対するアメリアの態度が両国間の外交関係に重大な悪影響を与えると結論付けざるをえないのである」
 9月 クーリッジ大統領は、悪化した日米関係を修復する為に、シカゴの法律家であるエドガー・バンクロフトを第9代駐日大使に任命して日本に派遣した。
 12月 皇室や重臣達そして渋沢栄一ら経済人も、日米関係の悪化を憂慮し、来日したバンクロフト大使を通じて日露戦争時の両国関係に立ち戻る事を切望した。 
 バンクロフト大使は、相互理解の為には人的交流が重要であるとして、日本人青年のアメリカ留学計画を積極的に推し進めた。
 「両国民に必要なのはお互いを知る事、お互いを同情を以て理解する事である。今こそその知識を広げる時期にあ。我々はさらなる理解を広げる為には、あらゆる努力を惜しまない」
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 1925年7月28日 人的交流で日米相互理解に努めていたバンクロフト大使が、軽井沢で急死した。
 日本政府は、アメリカ国民への敬意と友好の証しとして、バンクロフト大使の遺骸を軽巡洋艦・多摩に乗せて、本国に送った。
 大正天皇は、横浜を出港する際に15個の花瓶を贈り、棺桶の周囲に置いて最初は生花を、枯れたら造花を代用してその死を悼んだ。
 8月22日 軽巡洋艦・多摩は、軍艦旗旭日旗」を翻してサンフランシスコ湾に入港するや、礼砲を発射してアメリカ国歌を演奏した。
 アメリカ軍も礼砲を発射し、日本国歌君が代」を演奏して答えた。
 如何に関係が悪化している国家間でも、戦争をしていなければ、国際礼儀として、相手の国の国旗や軍旗には敬意を払い、相手の公式国歌は演奏した。
 相手の国の国旗や軍旗を破り燃やし毀損したり、相手国の国歌を拒否して侮辱する行為は、国際的常識がない野蛮人とされ、如何なる理由があれ戦争を望む果たし状とされた。
 国歌と国旗及び軍旗には、それ程の重みがある。
 国際社会で認められている、日本の国歌は「君が代」であり、国旗は「日の丸・日章旗」であり、軍旗は「旭日旗」である。
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 1927年10月1日 日本政府は、アメリカとの良好な関係を修復する事き祈願し、バンクロフト大使の遺徳を偲んで下田の玉泉寺に石碑を建てた。
 不幸に日米戦争が始まり、アメリカ人への憎悪が最高潮に達しても英文顕彰碑は破戒される事なく守られた。
 日本の宗教観において、死んだ者は味方でも敵であれ、被害者でも犯罪者でも、分け隔てなく平等に、魂を仏として弔い、霊を神として祀った。
 中国や朝鮮とは違って、憎き相手の墓を暴き、死骸を引きずり出して辱める事は決してしない。
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 1928年 バンクロフト大使の遺産と弔慰金を基にバンクロフト基金が設立され、アメリカに留学する日本人青年の奨学金に充てられた。

 

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国家神道と民衆宗教 (歴史文化セレクション)

国家神道と民衆宗教 (歴史文化セレクション)

🎼08:─1─賤民・部落民・ヤクザは、天皇と日本国を守る為に戦争に積極的に協力した。伝統右翼と現代右翼。〜No.12 * 


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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博・   
 尊皇派や勤皇の志士は、エタ・非人・散所などの賎民や山の民や川の民や海の民などの部落民そしてヤクザ・博徒ら日陰者に多かった。
   ・   ・   ・   
 2016年4月号 SPIO「陸軍の印を『代紋』に使うことまで許されたケースも
 戦果の上海で、命懸けて飛行場を建設したヤクザがいた 猪野健治
 昭和のはじめ頃のヤクザは、平時においては賭博開帳、あるいは炭鉱や港湾、土木などの労働現場で働き、戦時になれば親分自ら子分を引き連れ戦地に赴くこともあった。人の嫌がる危険な仕事でも、すすんで引き受けたという。
 〈O月OO日、「さあ野郎ども出掛けるぞ」の聲にOOO名の乾分はハネ起きた。そして御用船OO丸は義侠の親分乾分を乗せてOO日の朝、戦火のOOに上陸したのだった〉
 これは日中戦争の最中、1937年11月発行の『文藝春秋』臨時増刊に掲載された『戦ひの上海から』の一節だ。『O』で伏せ字になっているのは、軍事機密にかかわる部分と思われ、戦時の報道規制ぶりが窺われ。
 ここで子分を従えているのは、長崎・宮久一家の親分、宮崎久次郎。記事には、海軍の要請を受け、子分数百人を引き連れ上海に乗り込み、命がけで飛行場を建設するまでの顛末が描かれている。
 当時の上海は軍事的緊張の極みにあり、敵弾が降り注ぐなかで工事が強行された。途中、再三にわたって爆撃を受け〈一時は、賽の河原の石積みの様に甲斐のない仕事の様であった〉という。同年。艦隊司令部の長谷川長官は宮崎久次郎を旗艦出雲に招き、〈親しく感謝と慰問〉の言葉を伝えた。さらに、この話はヤクザの美談として『誉れの飛行場』と題された浪曲になり、海軍省提供でテイチクからレコードまで発表された。
 この一件は『文藝春秋』に載ったかことから広く知られたが、ヤクザが戦場に乗り込んで軍部の仕事を請け負うことは、それ以前から行われていた。
 ヤクザと軍部の関わりが始まったのは日露戦争となった『203高地』へ武器弾薬や食料を運ぶ兵站を担ったのが最初とされる。
 日露戦争では、京都の砂子川一家の西村伊三郎が伏見の第16師団から要請を受けて、幹部・子分50名を引き連れて従軍し、戦場で軍夫として弾薬運びなどに従事、活躍したことが文献に残っている。
 犠牲者も相当に出たという。軍部は砂子川一家の労を讃え、陸軍の山形の印を代紋として使用することを許可した。そのうえに陸軍は、馬の糧秣と寝藁を独占的に納入する権利まで与えている。
 慰問興行や慰安所の運営も
 当時のヤクザは、炭鉱や港湾などで働きつつ、博徒として賭場からあがり得ていたが、戦時色が濃くなると賭場も開けなくなる。そこで、軍属として戦地に赴き兵站や輸送、施設建設などを担うようになった。日本軍が進駐する土地に拠点を築き、利権に食い込む者も多かったのだ。
 兵士の慰問もヤクザが担った。当時は浪曲が大人気で、興行を取り仕切ったのはヤクザである。18歳で興行師として独立し、顔役に登り詰めていた永田貞雄(2代目山口組・山口登組長の義兄弟)は、戦時中に愛国浪曲への転換の音頭を取り、台湾や朝鮮半島満州、中国本土に拠点をもつ親分衆らと連携し、軍の慰問興行を引き受けた。大陸を横断する浪曲師の1団を送り込むのもヤクザだった。
 そのほか、軍部からの依頼で慰安所の運営を任されたり、諜報機関である『特務機関』の配下となって、非合法活動に携わったりする者もいた。
 とはいえ、ヤクザが戦場に向かったのは、ただ利権のためだけではないだろう。当時のヤクザは社会の中で差別されたり虐げられたものが多かった。彼らにとって、『お国のために働く』ことは誇りを感じ、『働く意欲』や『信念』に目覚める場所だったはずだ」
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 アドラー「人は、自分に価値があると思えた時にだけ、勇気をもてる」
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 ヤクザは、所詮ヤクザである。
 ヤクザは、人に嫌われている事を知っていたし、別に好かれたいとも思わなかった。
 人は人であり、自分は自分である。
 ヤクザになった原因をあれこれ考えても始まらないし、碌でもない親を呪っても仕方がないし、自分を爪弾きにした社会を恨んでも仕方がない。
 ヤクザになりたくてヤクザになったわけではないが、ヤクザの道を選んだのは自分であった。
 命の遣り取りする渡世人であるからには、いつ親分の命令で敵対するヤクザに斬り込んで斬り殺されるか、拷問で半殺しでかたわ者にされるか分からない。
 将来の事など分からない身の上で、昔の原因をとやかく詮索しあげつらって愚痴を言っても馬鹿がげている。
 細く長い人生ではなく、太く短い人生と諦め、将来の夢や希望を想い描くよりも、今この時を楽しく面白く生きていた。
 それは、自暴自棄、やけくそではなかった。
 任侠道=武士道に基ずく「侠気の美学」で、瞬間、瞬間を充実させて生きていた。
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 幕末・戊辰戦争当時。開国近代化策の幕府・佐幕派鎖国攘夷策の薩長倒幕派の兵士となって全国を転戦した主力は、藩士であれば中流以下の武士であり、下士郷士であった。
 庶民であれば、武士に憧れた、その日暮らしで安定した収入がない町人や僅かな田畑しか持っていない貧しい百姓であった。
 常識ある庶民は生活や仕事を破壊する戦争を嫌い、戦いが始まれば命大事として我先に逃げ出し、戦いが終わった後は戦場に群がって戦死者の金品や衣服を奪って弔った。
 庶民は、権力者や支配者が、幕府であれ、薩長であれ、日本人であれ、中国人や朝鮮人やロシア人やアメリカ人などの外国人であろうと、自分の仕事・生活・家族の命を奪わない限り気にはしなかった。
 GHQのアメリカ人が、日本を軍事占領して、日本を破壊する様な日本国憲法平和憲法)やアメリカ式価値観を押し付け手も、日本人で暴動を起こし抵抗した者は皆無であった。
 「長いものには巻かれろ」「御上ご尤も」などという卑屈根性は、権力には決して楯突かない逆らわないという庶民の気質である。
 同じ日本人でも、1割未満の武士道に生きるサムライと9割以上の命大事な庶民では、考え方や生き方は全く異なる。
 応仁の乱や戦国時代に暴れ回って敗れた武士の子孫であるヤクザやエタ・非人などの下層民は、祖先の身分であったサムライに復帰できる事を期待して武器を取って取って戦った。
 ゆえに、日本天皇に心酔し、日本天皇を命懸けで守ろうとしたのが、人間差別を受け軽蔑され蔑まれ嫌われていたヤクザやエタ・非人らの下層民であった。
 日陰者として生きていたエタ・非人やヤクザにとって、唯一頼る存在が日本天皇であった。
 ヤクザが信奉していた、「弱気を助け、強気を挫く」「真面目な堅気には迷惑を掛けない」「女子供、老人、病人など弱い者に危害を加えない」「困っている者、難儀している者は、自分を犠牲にしても助ける」「喧嘩するなら弱い相手ではなく強い相手と喧嘩する」などの任侠(仁侠)道とは、武士道に通じていた。
 任侠(仁侠)道は、理不尽な権力には命を捨てても戦うというアウトローの道である。
 そして、国家滅亡の危機に於いては、それが正しかろうが悪かろうが、負けようが勝とうが、天皇さんの一大事、御国が大事として武器を取って戦った。
 ヤクザやエタ・非人達は、個の自由として私の主義主張を貫くべく戦場に行かない為に逃げ隠れして兵役逃れしたマルクス主義者の社会主義者共産主義者とは違い、国民の義務として公の日本天皇や日本国を守る為に戦った。
 現代のヤクザは、任侠(仁侠)道=武士道を微塵も持たない、殺人を屁とも思わない冷血な暴力団・犯罪者集団に過ぎない。
 昔のヤクザ=任侠(仁侠)と現代のヤクザ=犯罪者集団・暴力団は、全くの別ものである。
 代表例が、国定忠治清水次郎長、黒駒の勝蔵などであった。
 平時の身分制度は、戦時では意味をなだなかった。
 軍隊に入れば、上流家庭の子弟も下層民の子供も平等に扱われた。
 下層民の子供でも軍事的才能があれば、上流家庭の子弟の上官となり、娑婆での恨みを晴らすために苛めて酷使し、私的制裁を加えて自殺に追い込む事さえあった。
 日本の軍隊は、貴族の軍隊から発展した欧米の軍隊とは違って、食い詰め行き場のない下層民で形成されていた。
 政府や軍部は、下層民の軍隊が天皇を担いで暴走しない為に「統帥権」をつくって抑え込み、教養なき下層民の兵士に厳しい軍律や軍紀を科して雁字搦めに縛りつけ自由を奪った。
 日本軍隊の戦場に於ける高度な戦闘力と占領地に於ける非人間的凶暴性は、下層民が抱えていた差別的社会への不満不平から生まれた。
 玉砕もカミカゼ特攻も万歳突撃も、下層民の差別社会に生きて返っても幸せはないという自暴自棄的なヤケから生まれた。
 日本天皇・日本皇室が滅びる事なく2000年の長きにわたって存続できたのは、ヤクザやエタ・非人達の下層民が祭祀王・天皇制度を守っていたからである。
 日本に於けるマルクス主義社会主義者共産主義者は、高度な教育が受けられ高額な外来書籍が購入できる都市部の裕福な家庭の恵まれた子弟に多く、その日暮らしを強いられたエタ・非人達の下層民の味方ではなかった。
 マルクス主義者が集まっていたのが、エリート養成教育機関である帝国大学であった。
 共産主義者は、暴力革命で祭祀王・天皇制度を廃絶しようとした過激派であった。
 つまり。日本の共産主義運動は、下層民の為ではなかったがゆえに、エリート層や上流階級の共感を得ても、下層民の支持は得られなかった。
 下層民は、マルクス主義社会主義共産主義キリスト教同様に胡散臭いものと警戒し、毛嫌いしていた。
 同様に、朝鮮人独立運動朝鮮人テロリストの活動を支援したのも、下層民ではなくエリート層・上流階級であった。
 関東大震災で、在日朝鮮人を虐殺したのは被災した下層民であり、被災を免れたエリート層・上流階級は在日朝鮮人達を助けようとした。
 皇国史観初等教育しか受けていない下層民は、朝鮮人への差別意識ではなく、朝鮮人テロリストが日本天皇を暗殺し日本政府を転覆させ日本国家を破滅させようと本気で信じたからである。
 事実。天皇暗殺という世にも恐ろしい計画を、反日派中国人の支援を受けた朝鮮人テロリストが企て実行しようとしていた。 
   ・   ・   ・   
 戦前の伝統右翼と戦後の現代右翼は、別物である。
 伝統右翼は、白人排除のアジア主義から、アジア各地の独立派を支援して戦った。
 清帝国と戦う孫文を支援したが、ソ連及び中国共産党と同盟関係を結んだ孫文は見捨てた。
 ナチス・ドイツと軍事密約を結びソ連から軍事支援を受けた蒋介石を、敵と見なして戦った。
 伝統右翼は、人種差別主義者でも反ユダヤ主義者でもなく、道理の通らない理不尽さには義憤を感じて自己犠牲的に戦った。
 現代右翼は、明らかな人種差別主義者で、口先だけで叫き散らす仁義なき無法者である。
 伝統的右翼は国民から一定な理解を得ていたが、現代右翼は国民から胡散臭くい毛嫌いされている。
 現代右翼は、伝統右翼に比べて傾聴するところはない。
 

 


   ・   ・   ・   

清水次郎長と幕末維新―『東海遊侠伝』の世界―

清水次郎長と幕末維新―『東海遊侠伝』の世界―

  • 作者:高橋 敏
  • 発売日: 2003/10/17
  • メディア: 単行本

国定忠治 (岩波新書 新赤版 (685))

国定忠治 (岩波新書 新赤版 (685))

  • 作者:高橋 敏
  • 発売日: 2000/08/18
  • メディア: 新書

清水次郎長と明治維新

清水次郎長と明治維新


清水次郎長に学ぶクヨクヨしない生き方

清水次郎長に学ぶクヨクヨしない生き方


🎼05:─4─日本が軍国主義国家になった理由は、ロシア帝国とソ連・共産主義勢力の侵略であった。~No.8No.9 * 

大日本帝国の民主主義

大日本帝国の民主主義


   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本民族日本人は、理性・論理・合理ではなく、感性・感情・情緒で考え行動する。
 そして、物語が好きである。
   ・   ・   ・   
 ロシアは、如何なる理由があろうとも日本の軍国主義を認めない。
   ・   ・   ・   
 司馬遼太郎「歴史には、感情がある。18、19世紀から20世紀にかけて、帝政ロシアおよびその後のソ連が、近隣の国々に恐怖という感情を持たせつづけてきたことを忘れては、世界史も日本史も理解できない」
   ・   ・   ・   
 日本は、同盟国からの援軍を得られないという孤独な為に、国防戦略は軍国主義しかなかった。
   ・   ・   ・   
 2016年5月号 新潮45「水戸学の世界地図 10 12月14日の出立
 吉田松陰はなぜ赤穂浪士の討ち入りの日に江戸へ旅立ったのか。
 吉田松陰は1851(嘉永4)年12月14日、江戸を出発した。熊本藩士の宮部鼎蔵南部藩士の安芸五蔵と相諮っての大旅行。ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航するおよそ1年半前のこと。
 ……
 山鹿流兵学者の松蔭が水戸を目指す吉日は、どうしても12月14日。松蔭ならではの思い込みがあったろう。
 松蔭の人生を変えた日付
 この出立は松蔭の人生を変えた。ネガティヴな作用があった。
 大旅行の目的はなんであろうか。旅行というよりは、やはり遊学と表現すべきものかもしれない。良き師の居るところや何か学ぶべき事柄のあるところには長居をする。兵学の勉強をする。国難に立ち向かうための智恵を養う。国難とはつまり外圧である。西洋諸国が日本と関わりたがっている。異国船が頻々とやってくる。松蔭の立場は攘夷。異国船を打ち払わねばならない。
 そういうものの考え方の基盤を、松蔭は既に水戸学から受け取っていた。それを深めるために水戸に行かねばならない。だから最初の主目的地は水戸。それから会津若松、新潟、弘前などを巡る。特にロシアの脅威に、18世紀この方。晒され続けている北方の様子を、少しでも知りたい。海岸の地理を実見し、海防の現状を見聞きしたい。これもまた目的。結局、江戸に戻ったのは翌年の4月になった。
 ……
 松蔭は嘉永3年に九州を遊学した。水戸学の代表的書物でありながら当時まだ未公刊だった。会沢正志斎の『新論』の写本にふれた。大きく影響された。江戸に行き、さらに水戸に向かう大きな原動力になったのは『新論』の読書体験だったろう。萩から江戸へと出発したのは嘉永4年3月5日。……佐久間象山は信州の松代藩儒学者だけれども、藩主の真田幸貫が1841(天保12)年に幕府の老中に任じられて海防掛になると、砲術や蘭学を勉強し、主君を助けた。新時代の海防論の一大権威としてその名を知られていた。
 そう。危機の時代なのである。幕府の老中に海防掛が要るような。松蔭が東国や北国の太平洋沿い、日本海沿いを見て回りたくなるような。しかもその危機は慢性化していた。この時代の感覚に即して言えば『終わりなき海防の時代を生きろ』というところ。
 たとえば、松蔭7歳の1837(天保8)年、モリソン号事件が起きた。モリソン号はアメリカの商船。民間会社の持つ船。浦賀や鹿児島にやってきた。しかし、勝手に一存で、民間の意志のみで、はるばる日本に来航したのではない。ジャクソン大統領の御墨付きを得て、アメリカ政府のかかわった言わば『日本開国プロジェクト』の一環だった。
 モリソン号には7人の日本人も乗っていた。うち3人は尾張からの、4人は九州からの漂流民。モリソン号は日本の鎖国の制を知りながら危険を冒してまで日本人を国に帰しに行く。まことに好意的な態度ではないか。その船が、アメリカ国家を代表して日本と通商交渉するきっかけを探る役目も兼ねる。アメリカから日本に輸出できる商品のサンプルもたくさん載せていた。何しろ日本人漂流民を伴っている。頭ごなしに拒否されるだろうか。日米交渉の緒がつかめるのであはあるまいか。
 だが、浦賀でも鹿児島でも日本側の態度は剣呑だった。幕府も薩摩藩鎖国の建て前を墨守した。モリソン号を力ずくで追い払った。当時の日本の外国船対応を定めた法として効力のあったのは『無二念打払令』である。1825(文政8)年に出た。接岸してくる異国船はその場所に居る人間が総出で何が何でも打ち払え。要はそれだけと言ってよい。その『無二念打払令』がモリソン号に対して発動された。商船のモリソン号はじゅうぶんな武力を持たぬうえに、事を荒立てても良いとの命令も受けてはいなかったから、反撃せず、日本人漂流民を返還もできずに、帰っていった。
 江戸時代の限界
 とりあえず鎖国は無事に守られ、幕府としてはめでたしめでたし。とはいえ、一皮めくればおかしなことがたくさんあった。浦賀では、幕府の浦賀奉行は確かに『無二念打払令』を実行し、奉行所総出で、事に当たった。大砲を撃った。しかし、浦賀防衛に緊急動員された川越藩の藩兵はというと、まるでやる気がなかった。国難に対処する気概も発想もない。『無二念打払令』にしたがい、力ずくで打ち払いの任に当たるといういうとき、実際問題として、誰がどのようにしてどこまでやるが適当なのか。明確な規範がなかったせいもあるだろう。
 浦賀の経緯において、幕府からみて問題があったのは、動員されながら役に立とうとしない川越藩の態度だけではなかった。士農工商のうちの農工商と言えばよいか。侍以外。日本人の圧倒的多数を占める諸階級の態度がまた、かなり不穏であった。異国船を岸から打ち払っても、少し沖で役人の目につかなければ、そこでまで異国船を敵視しなくてもよいのではないか。かえって仲良くした方がお互いに利益があるのではないか。モリソン号には日本の漁船や商船が群がり、異国船に日本人の大勢が乗り込んで、船上は大にぎわい。積載されているアメリカ商品を貰って帰る者がたくさん居たという。一方的に贈与されるばかりでなく、物々交換もなされたのであろう。民間のアメリカ商船、モリソン号は、民間日本人と貿易をした。そう言ってもおかしくあるまい。これが果たして本当に異国船を打ち払ったことになるのだろうか。
 しかも、この筋立てはいつかどこで聞いたような話でもある。1824(文政7)年の大津浜事件の頃に、常陸の沖、房総の沖、あるいか奥州の沖の太平洋でしばしば起きていただろうことと、まるで同じ、英米捕鯨船と日本の沿岸民とのあいだの『民間外交』や『民間貿易』が、幕府や水戸藩を含む諸藩を大いに悩ませた。そのまったき再現である。『お上』は日本の民間人が自由に外国人と交際や交易をすることを禁じている。けれど、海の上で、国を超えての漁民と漁民、商人と商人との交わりを誰がとめられようか。人と人は国や政治を超えてお金と物と人情でつながるのが当たり前。この感覚を、長い鎖国時代を経ても、海国日本の民人は忘れてはいなかった。だから打ち払われている最中の民間商船、モリソン号に、日本の民間船が友誼を求めて殺到してしまう。
 川越藩になぜ国防意識がなく、三浦半島周辺の民人たちはなぜ士の身分の人々と心を合わせて異国船打ち払いに努めないのか。国民的な共同意識を有せないのか。答えは簡単である。まだ江戸時代なのだ。近代的な国防意識も、国家意識も、国民的連帯も、この国には成立していない。日本人は士農工商という身分制度に階層的に割られ、藩という封建秩序に空間的に割られている。近代的な国家と国民の姿はまだ遠い彼方である。たまたま浦賀で海防の役目に動員されてしまった川越藩が、なぜ川越藩の領地でもないところで、危険を冒してアメリカの船と戦わねばならないのか。三浦半島の農工商の階級に属する民が、幕府に見つからず咎めも受けないだろう海上アメリカ人と仲良くして何が悪いのか。そうした疑問に対する有効な処方箋は容易にはみいだせない。
 にもかかわず、日本が鎖国を、世界の列強が東アジアにいちだんと目を向けはじめているらしい時期に、なおも守り続けるとすれば、島国日本の圧倒的総延長をもつ海岸線を、大勢で防備しなければならない。監視し警戒し打ち払い続けねばならない。その労力をいとわぬ精神、経済的見返りが保証されていないとしてもなおも国土を護持しようとする精神とは、いったいどこから出てき得るのか。必要とされる膨大な人数は、どこから都合されるのか。それからもっと大切なこと。西洋諸国の貿易への願いを拒絶し続けるとすれば、日本がそう主張し続ける大義名分はどこに求められるのか。
 答えは細かくはいろいろあるだろう。が、大筋ではおよそひとつの方向に帰着する。川越藩の藩兵が浦賀を命がけで防備して当然と思うようになるためには、幕府や藩という次元にこだわっていては駄目なのだ。空間の区切り目をなくして日本をひとつの国にし、軍隊をひとつにしなければならない。近代的な言葉で表せば国軍が必要になる。川越藩の部隊に浦賀で玉砕せよと命ずることは無茶だが、国軍が国土のどこでも等しく防衛するのは自然である。また、士農工商という身分制度があるかぎり、それぞれの身分に属する日本人が他の身分と一体化して同じ日本人であると思うことは極めて困難だが、身分制度を壊してゆけば、みなが対等の国民と思い込むこともできる。身分制度にこだわっては国を守るに足る人数が出てこんしのだ、日本の場合は。
 海防論帰納
 江戸後期に『終わりなき海防の時代を生きろ』時代に発展した海防論のたどり着くところを理念化して言えば、こういうことになる。日本の長い海岸線を守るには、士農工商の士だけでは人数が足りない。農工商も兵にする道を考えねばならない。豊臣秀吉以来の兵農分離は続けられない。農工商にも武器をもたせる。そうしないと島国日本の海防は果たせない。
 また、日本全土の海防を具体的に整えようとすれば、藩単位では非効率にして軍事力も不揃いにならざるをえない。外国軍隊が陸軍を侵攻させようというとき、それなりの軍備を誇る雄藩の領する海岸線への上陸は難しいとも、弱藩の海岸線なら容易というのでは、国土防衛のどんなグランド・デザインも成り立たない。さらに、海岸線を有する藩の負担を強い、内陸の藩を関係なしとするわけにもゆくまい。藩が割れていることは外敵なき島国の統治方法としては有効だった。でも、外敵が長い海岸線のどこに現れるかを常に心配しなければいけない『終わりなき海防の時代を生きる』準戦時体制的時代には、まったく不向きである。
 18世紀から19世紀にかけての海防思想は水戸学を含めてこのような思考の経路を大筋ではたどっていった。国を防衛しなければいけないと思う。でも海岸線を守るためには国の仕組みに無理があると分かる。すると海防のために国の仕組みを変えなければいけなくなる。あとは海防に真面目に取り組むか、そこから目を背けて当座の現状維持だけを考えるかのどちらかになる。
 江戸幕府のとった基本的態度は後者であった。先の『無二念打払令』を真面目に日本の海岸線のすべてで実行しようとすれば、全国至るところに砲台を築き、監視員を常駐させ、機動的に動いて近隣のどこの海岸にもただちに向かえる沿岸防衛軍を諸藩に命じて編成させるなりしなければならない。が、幕府は『無二念打払令』を出しただけで、それを実効あらしめる海防策の実現に積極的に取り組もうとはしなかった。本気で行えば、幕藩体制の枠組みと士農工商の秩序に差し障りが出てくると知っていたからであろう。
 そもそも『無二念打払令』が文政8年に出されたのは、前年の大津浜事件と宝島事件の対応策としてであった。ともにイギリスの捕鯨船員が上陸してきた。前者は水戸藩領の大津浜に。後者は薩摩の宝島に。どちらも捕鯨船の母船は沖に居て、ボートで少人数が上陸してくるだけだった。『無二念打払令』はその程度の事態を想定した法であり、マニュアルであったと考えられる。ボートで少人数の捕鯨船員が来るだけならば。軽装の侍がほんの幾人かでも、あるいは漁民や農民でも、一心不乱に追いはらえば帰るだろう。その程度なのである。だから川越藩兵を浦賀に動員しても、彼らを働かせる思想もマニュアルもあったものではない。
 このようなありさまでどうして国が守れるか。海防論者は過激化する。松蔭はそういう若いひとりだった。本当に日本の海防を果たすための体制作りを欲してやまない。軍隊技術が必要だ。経済力が必要だ。だが、それだけでは駄目だ。この国の長い海岸線を、日本人が身分の違いを超え、身命を賭して、守ろうとするだけの価値体系が必要だ。松蔭はそれを求め、九州で『新論』に出会い、江戸で水戸行きのための人脈を作り、ついに水戸を目指した。水戸で会沢正志斎らと交遊した。そうして松蔭が水戸学を大いなる導き手として掴んだ価値体系とは、たとえば1856(安政3)年の『太華翁の講孟箚記評語の後に書す』でこう示されている。
 『凡そ皇国の皇国たる所以は、天子の尊きこと万古易らざるを以てなり』。
 日本人は等しく皇国の民であり、皇国は世界に冠たる国體であるがゆえに、そして国體の尊厳は西洋的価値観と並びたたないがゆえに、命を捨てても守る値打ちがあるということだ。海岸線の長い日本を防衛するには国民総動員的な体制を可能にしなければならないという海防論の一種の現実主義と、日本が万古不易の国體を有する世界最高の国であるからそれを士農工商の身分差にかかわりなく一体で防衛しなければならないという国體論の一種の超現実主義とは、鶏が先か卵が先かという関係にあるのだろう」
   ・   ・   ・   
 5月5日号 週刊新潮「世界史を創ったビジネスモデル 野口悠紀雄
 江戸幕藩体制ローマ帝国の共通点
 ローマ帝国が政治的な停滞・低迷期のあと五賢帝の時代に復活できたのは、分権的な政治構造と市場中心の経済構造を持っていたからだ。これらの条件が満たされていなければ、五賢帝がいかに有能な政治家であったとしても、ローマは復活できなかったろう。
 では、日本の場合はどうだろうか?江戸時代以降の日本の政治・経済構造を、政治的分権と経済的自由の観点から整理してみよう。
 江戸時代の日本は、統一国家というよりは、藩の連合体とみなすほうが適切な国家であった。徳川幕府は、その中の最も強力な存在であるに過ぎなかった。
 のちろん、幕府は藩を支配した。そのため、改易(大名などから身分を剥奪し、所領と城・屋敷を没収すること。除封、取り潰しとも言う)や国替(転封、移封)を行なった。参勤交代や天下普請(後述)等によって経済的な負担を課した。
 しかし、それ以上の存在ではなかった。
 藩の自治や裁量は、広範に認められていた。藩札の発行さえも自由に行なえた。藩は、基本的に幕府から独立した存在だったのだ。
 もっと重要なのは、本格的な国防軍が存在しなかったことだ。将軍の直轄常備軍である旗本・御家人は、小規模な集団だった。
 基本的な軍事力は、藩が保有していた。その費用を賄うための財政運営(年貢の取り立て)も、藩単位で独立に行われていた。
 もっとも藩が軍事力を保有していたと言っても、それは潜在的軍事エリートである武士階級を養っていただけのことであり、常備軍が存在していたわけではない。時代が経つにつれて、彼らは官僚化していった。神坂次郎『元禄御畳奉行の日記』(中公新書)や磯田道史武士の家計簿』(新潮新書)」は、その様子をビビッドに描いている。
 ローマの場合に国軍たるローマ軍が国境警備にあたっていたのと比較すると、著しい違いだ。言うまでもなく、これは日本が海によって外国から隔てられており、国境警備のために強力な軍事力を持つ必要がなかったという特殊事情による。国防軍が存在しなかったことは、ヨーロッパ的な常識で考えれば、全く異質な世界のことと言えるだろう。
 自由な体制下で豪商が成長
 徳川幕府による全国統一の結果、平和の時代が到来し、経済が急成長した。アウグストゥスによるパックス・ロマーナの下でローマが成長したのと同じだ。
 ……
 国ではなく藩や村に帰属意識
 農業が経済活動の中心であったため、農民の移住は厳禁だった。人々は、基本的に土地に縛り付けられていた。
 一般的の人々の日常生活は、地域的に狭い範囲に限られていた。農民も商人も、庄屋や寺の管理する『人別帳』『』に記録されていた。
 主要な農作業や家屋の建設・修繕は、村単位で行なわれた。教育も村の寺子屋で行なわれていた。庶民の婚姻は、近隣の村との間でのものが多かった。遠い町や村との婚姻も稀にはあったろうが、藩を越えての結婚はなかったと思われる。したがって、『村』への帰属意識が高かった。
 共通の言語を話しはしたものの、日本国民であるという意識は稀薄であったに違いない。
 藩を越える移動は制約されており、藩を出るには通行手形が必要だった。ただし、旅行は可能だった。芭蕉は全国を行脚しているし、庶民の間でも、お伊勢参り、四国のお遍路、熊野詣、善光寺参りなどが流行するようになった。
 武士が他家に仕えることは、皆無ではないが稀だった。彼らの出世は藩の中に限定されていた。
 ただし、老中など江戸幕府の最高首脳の登用は、全国的に行なわれた。老中になるためには、5万石以上の譜代大名関ヶ原の戦い以前から徳川氏に仕えていた大名)という規定があったが、例外もあった。
 総じてみれば、江戸幕藩体制は、ローマ帝国以上に分権的な国家であったと言えるだろう。265年間にわたる長期政権を維持できたこと、明治維新による統一国家への転換が混乱なく達成され、その後急速に近代化を達成したことなどは、こうした分権的政治構造によるところが大きかったと考えられる」
   ・   ・   ・   
 2016年5月号 SAPO「書闘倶楽部 評者 鈴木洋史
 国語の確立を描いた『坂の上の雲』言語編
 山口謠司(ようじ)『日本語を作った男 上田万年とその時代』集英社インターナショナル
 明治時代、日本にはまだ日本語がなかった。明治維新で近代国家がスタートしたものの、江戸時代同様、出身地、階層による方言が混在し、漢文、漢文訓読体、候文などの書き言葉は話し言葉とかけ離れ、使いこなせるのは知識層だけだった。言葉がそんな常態では軍隊の指揮、命令が混乱し、外国とまともに戦うことすらできない。それひとつとっても、〈すべての日本国民のための言語〉としての日本語、すなわち『国語』の確立が、近代国民国家となるために欠かせなかったことがわかる。
 それに生涯をかけたのが、日本で初めて言語学を学んだ上田万年(1867〜1937)。ドイツ、フランスへの留学を経て27歳で東京大学の教授となり、後には新村出金田一京助ら多くの弟子を輩出した、日本の言語学国語学の源流的な存在だ。また、文部省の委員会を通じて国語政策に影響力を持ち、言文一致や後に実現する新仮名遣いの推進役となった。
 本書はその万年の生涯を辿りながら、明治期の日本語を巡る状況をさまざまな側面から描く。英語を公用語にしようとする動き、漢字を廃止してひらがな、あるいはローマ字だけで日本語を表記しようとする大きな動きがあったこと、出版、取次、販売が発達して全国津々浦々に本屋が出現し、そのことが新しい日本語が普及する土台のひとつになったこと、落語の名人・三遊亭円朝の速記録が二葉亭四迷らによる言語一致運動に大きな影響を与えたこと・・・。
 これは、言語という側面から描いた日本の近代化の歴史であり、その意味で『坂の上の雲』言語編と言っていい。著者は学者だが、文章は平明、エピソードが豊富で、読みやすく仕上がっている」
   ・   ・   ・   
 吉田松陰達ら尊王攘夷派・勤皇の志士は、見境のない凶暴な殺人犯か、社会を恐怖に陥れた凶悪なテロリストか。
 尊王攘夷派・勤皇の志士の目覚めは、ロシアの北方領土及び蝦夷(北海道)への侵略に備えて徳川幕府が奥州諸藩に派兵を命じた、文化露寇事件・北辺紛争・日本人惨殺事件が発端である。
 日本の生存を脅かしたのは、ロシアそして後のソ連であった。
 日本をロシアの侵略から死守する為には、軍国主義しか手段がなかった。
 ゆえに、ロシアは日本の軍国主義を日本側の言い訳を一切聞かず完全否定する。
 日本を軍国主義化に追いやったのは、西洋列強が武力を持って日本を開国させたからである。
 西洋列強が、もし、お節介にも日本を暴力的に近代化させなければ、日本は軍国主義化しなかった。
 西洋式近代化は、いい迷惑であった。
 あのまま恫喝的に開国を強要されなければ、日本は世界の果てにある日本列島で、それこそ「井の中の蛙」として近代化せず平穏に生活していた。
 日本は、無理して西洋式近代化をしなくても、日本列島の自然だけで生活できたのである。
 西洋式近代化が、両手を挙げるほどに喜ばしい事とは限らなかった。
 西洋式近代化せず、太平洋の原住民・先住民として世界と関わり合わずに生きる道もあった。
 前近代的生活でも、平和で平穏で、100年1日として生きるのも悪くはなかった。
 

 

 

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ねじ曲げられた桜―美意識と軍国主義

ねじ曲げられた桜―美意識と軍国主義



軍国美談と教科書 (岩波新書)

軍国美談と教科書 (岩波新書)


日本軍国主義の源流を問う

日本軍国主義の源流を問う

🎼06:─1・A─日本の地政学・軍事学・戦争学。日本の理念、論理なき外交。戦前の国防戦略。〜No.10 * 


   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 明治期の日本は、朝鮮と比べれば優位国であったが、清国(中国)やロシアと比べれば弱小国であった。
 弱小国日本は、反日敵日である軍事大国の清国(中国)やロシアから如何にして母国を防衛するかであった。
 日本の戦略とは、弱小国の生き残り戦略であり、その重要なカギが朝鮮であった。
 朝鮮が弱小軍事同盟に参加すればよし、伝統的事大主義から軍事大国の軍門に下り属国に甘んじるのであれば、侵略して領土に組み込まねばならなかった。
   ・   ・   ・   
 孫子「九変篇 其の来らざるを恃むことなく、吾の以て待つ有る事を恃むなり」
 (相手は来襲してこない、とアテにするのではなく、自分に備えがある事を頼みにする)
   ・   ・   ・   
 戦後日本は、一国平和主義と無抵抗非暴力主義から、他国の侵略から日本を武器を持って守る事は憲法違反に当たるとして、地政学軍事学、戦争学を封印した。
 一部では個別的自衛権を認める意見もあるが、武器を使用して敵兵を殺傷そ侵略軍を排除する交戦権は認めてはいない。
   ・   ・   ・   
 日本軍部は、皇軍として、神の裔・天皇を中心とした国體と祖国を中国・ロシア・ソ連共産主義の侵略から武力で守ろうとした。
   ・   ・   ・   
 日本は、祖国を守る為に軍国主義を選んだ。
 だが。国際社会は、日本が死活問題で選んだ軍国主義戦争犯罪として完全否定した。
 日本の軍国主義者は、軍事力で日本を守ろうとした。
   ・   ・   ・   
 戦前の日本人は、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)と民族、国家と国民を、死を覚悟しても守りたいという強烈なナショナリズムを持っていた。
 命を犠牲にしても守りたいという一念から、攻めてくる外敵を国土から如何にして追い出すかという、明確なる国家戦略を建てていた。
 戦前の日本は、国益を守る為に、あらゆる手段を講じて国防の充実を最優先していた。
 戦後の日本には、危機感がない為に、戦前の様な国家戦略はなく、現状に合った国防計画もない。
 泥縄式とか、付け焼き刃とか、そうした対応のはるか以前の意識の問題である。
 国家防衛と国民保護の為なら戦争をも辞さないという戦前の日本と、国益を守る為の戦争を放棄し如何なる理由における戦闘も否定する現代の日本とでは、全く正反対の日本である。
 この違いがはっきりわかるのが、関東大震災の軍国日本の対応と、東日本大震災の平和国家日本の対応である。
 現代の日本が関東大震災の様な対応をしようとしても、政府や議会やマスコミの言動を見る限り所詮は無理な話である。
 そこには、守るべき被災者の姿が見えてこない。
   ・   ・   ・   
 アーノルド・トインビー「如何なる巨大な国家、優れたとされる民族も、やがては衰微し崩し滅亡もする。その最大の要因は、自分の事を自分で決められなくなってしまう時である」
   ・   ・   ・  
 イギリスの地政学マッキンダーは、19〜20世紀はランドパワーの時代と予言した。
 明治維新とは、
 地政学的に、超大国ロシア帝国から小国・日本を守ろうとした国内改革であった。
 日清戦争とは、
 ランドパワーの清国・中国が、西洋の侵略で傷付いたアジアに於ける覇権国と言う「面子」「名誉」を回復する為に、日本を侵略しようとした。
 シーパワーの日本は、清国・中国の軍事力に屈して属国化する事は、自主独立国としての「体面」「名誉」を失うとして戦った。
 日露戦争とは、 
 ランドパワーロシア帝国ソ連は、海に出る為に日本を侵略しようとした。
 シーパワーの日本は、自国防衛の為に、軍国主義化して戦った。
 時代は、ランドパワーからシーパワーに移り、そしてエアパワーからコスモパワーへと移ろうとしている。
 中国は、歴史的事実として、全ての面で全ての力を手に入れようとしている。
 何時の時代でも、大国・中国が切望した完全なる覇権を妨害してきたのは、弱小国・日本であった。
   ・   ・   ・   
 明治維新は、ロシア帝国の侵略から如何にして祖国日本を守るかで起きたのであって、軍事力を付けて大陸を侵略する為でもなかったし、文明開化で近代国家になろうとしたわけでもなかった。
 ロシア帝国の侵略に対する、祖国防衛であった。
   ・   ・   ・   
   ・   ・   ・   
 1807年 文化露寇事件(北辺紛争・フヴォストフ事件)。幕府は、松前領を含む全蝦夷地を直轄地とし、ロシア帝国から蝦夷択捉島樺太を防衛する為に奥羽諸藩に動員命令を出して、臨戦態勢を引いた。
 日本人は、日本民族として国防意識に目覚めた。
 ソ連に強奪され、ロシアに占領されている北方領土は、日本固有の領土である。
 サムライは、北方領土を命を賭けて死守した。
   ・   ・   ・   
 1861年2月 ロシア軍艦ポサドニック号は、対馬を軍事占領し、軍港として使用する許可を求めた。
 その目的は、領土にする為であった。
 もし、対馬の租借に成功すれば、日本近海の多くの島嶼を軍事占領する可能性があった。
 アメリカ、イギリス、フランス、スペイン、オランダなどは、琉球小笠原諸島などを自国領にするべく虎視眈々と狙っていた。
 帝国主義時代を生き残る為には軍事力が不可欠であると判断して、日本を強力な軍隊を持つ官僚主導の中央集権国家に改悪すべきだと決断した。 
   ・   ・   ・   
 現代日本における平和教育は、非暴力無抵抗主義の非武装中立論に基づき、如何なる理由があっても、祖国を守る為に武器を取って戦う事は悪であると子供達に教えている。 
 武器を持っていると戦争をしたくなるから、戦争をしない為にも武器は全て放棄すべきであると。
 現代日本人は、戦後教育の成果として、平和を愛し、戦争を嫌う。
   ・   ・   ・   
 1873年 日本は、ロシアに対抗する為に福地源一郎をロンドンからトルコに派遣した。
 日本とトルコは、対ロシアで意見が一致した。
   ・   ・   ・   
☆日本の理念と論理のない外交。
 島国日本は、大陸諸国の様に直に国境を接する隣国・敵国を持たず、領土を奪う戦争は明治以前の約2000年の歴史で豊臣秀吉朝鮮出兵だけである。
 それとても、対馬壱岐・北九州の住人にとっては、倭寇で虐殺された先祖の弔い合戦であった。
 日本民族は蜂に似ている、生存を脅かすようなちょっかいをされない限り、閉鎖的閉塞的狭苦しい蜂の巣の中に閉じ籠もり、来る日も来る日も黙々と同じ仕事をし、子孫を残して生涯を終えていた。
 安穏と安住できていた蜂の巣を壊し始めた外敵が現れると、半狂乱となって抵抗した。
 外敵が自分より大きく強い相手であっても、死を怖れず、最後の一匹になるまで突進して戦った。
 相手が、雀蜂であろうと、熊であろうと、鷹であろうと、誰であろうと、蜂の巣を守る為に玉砕・絶滅を覚悟で抵抗した。
 蜂の巣を命懸けで守る蜂にとって、哲学はもちろん思想も主義もなかく、論理も理念もなかった。
 戦術はあっても戦略がなく、唯目の前の敵を攻撃して排除するという単一目的としの白兵戦のみで、補充・補給など多方面的多角的多重的な複雑にして緻密な総力戦を考えない。
 蜂の巣を破壊しようとする外敵に対して、死んだ仲間の蜂の死骸を乗り越えて敵に襲いかかっていく。
 後先を考えず突進していく「カミカゼ突撃」は、こうして生まれて来る。
 カミカゼは、自爆テロではない。
 蜂の巣を守る戦いでは、雄の蜂であろうが雌の蜂であろうが、兵隊蜂であろうと働き蜂でろろうと、その蜂の巣で生きる全ての蜂が参加した。
 蜂の巣を守る戦いでは、逃げる蜂はいない。
 日本天皇は、強いて例えば女王蜂である。
 日本の外交・軍事における対外政策は、島国根性的に目の前にある危機として「外敵から日本を守る」の一点でしかなかった。
 蜂の巣を中心として花の蜜を集め子孫を増やして生涯を終えていた蜂を驚かせ、蜂の巣の破壊につながると狂騒させたのが、ロシアが日本領北方領土で起こした陰惨な海賊行為であった。
 全ての元凶は、文化露寇事件である。
 北から押し寄せてきた強欲なロシアの侵略で、日本は瞬間湯沸かし器的に暴走し始めた。
 日本の軍事及び外交の対外政策は、帝国主義キリスト教価値観の西洋の狡知に長けた対外政策とも、中華思想儒教的価値観の中国・朝鮮の貪欲な対外政策とも本質が異なる。
 それ故に、日本の外交政策は理解されない。
 日本民族が、穏やかな平和的な性質から狂暴な好戦的な気性に変質したのは、ロシアが侵略してきた文化露寇事件からである。
 が。世界の常識は、蜂の巣と女王蜂を外敵から守ろうとした蜂の行為が戦争犯罪とされた。
 ことの始まりは、文化露寇事件にあった。
 その事を忘れない為に創建されたのが、靖国神社である。
 靖国神社批判を繰り返す反日派諸外国とは、日本という蜂の巣を壊そうとした外敵である。
 現代の日本は第九条の平和憲法を守ろうとする以上、日本という蜂の巣を命を捨てても守ろうとした昔の蜂のような日本人とは異なる。
 昔の教訓は、現代では通用しない。
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 ジュラルド・カーティス(コロンビア大学教授)「明治維新以来の日本外交は、基本的に『対応型』だと思っている。自ら国際政治のアジェンダ(協議事項)を決めようとしないし、国際関係のルールを定める事もない。まして、特定のイデオロギーを広めたりはしない。むしろ、存在する世界秩序を所与のものとして受けとめ、そのなかでリスクを最小化し、利益を最大化するにはどう対応したらよいか。分析に集中するのだ。
 この手法は世界秩序が明確で安定している時には成功を収める事が出来る。明治時代の富国強兵や、第二次大戦後のアメリカとの同盟重視がその例だ。しかし国際情勢が流動化すると窮地に陥る恐れがある。日本の外交用語では『時流に乗る』が昔からよく使われてきたが、1930年代には『時流』の見極めを誤った。ナチス・ドイツと手を結び、大東亜共栄圏を構築しようとして失敗した。
 今また世界秩序は流動化している。安保法制は、アメリカとの同盟を強化する事で、今まで数十年にわたり日本の安全を確保してきた安全保障体制を、さらに強化しようとしている。一種の『対応型』戦略の表れだ」
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☆戦前の国防戦略
 日本の安全保障で最重要なのは、朝鮮半島を緩衝地帯(バッファーゾーン)として近寄らない事である。
 日本を侵略して来る大陸勢力とは、西の清国・中国と北のロシア帝国ソ連であった。
 最も警戒すべきは、大陸国の軍事力を利用して日本を滅ぼそうとする半島国の朝鮮であった。
 日本軍部は、大陸国家の侵略軍から如何にして祖国を防衛するかの戦略を立てていた。
 日本軍は、建軍以来、欧米露列強諸国(キリスト教諸国、ウェストファリア条約戦時国際法型国際秩序世界)や中華文明圏諸国(正統派儒教諸国、中華思想=華夷型国際秩序世界)の様に唯一絶対の原理原則による世界の画一化(地球統一政府=ワン・ワールド政府の樹立)という普遍的使命で、他国、他民族を侵略して植民地化、属国化するという遠征型ではなかった。
 又、異文明、異文化、異宗教を破壊し根絶して、異質な価値観を徳化、教化(価値観の統合)しようとする地球規模の遠大な大義がない以上、偉大な哲学、新しい理論、革命的イデオロギーで全人類を同一化、同化しようとせる崇高な理想も信念も絶無であった。
 日本軍とは、単に島国内の軍隊として民族の中心にある「神の裔・天皇=現人神」を守る為の御親兵皇軍である。
 その天皇が純真無垢な姓(〇〇王朝、××家)を持たない「祭祀王」として、「民族の安寧」と「アジア及び世界の平和」を八百万の神々(多種多様な価値観)に祈願するがゆえに、臣下である日本軍はその「大御心・御稜威」(日本の良心)に従って戦ったのである。
 日本軍の基本戦略は、国土防衛であり、自国土と自国民のみを戦火から守る為に国外(侵攻して来る公海や他国領土、領海、領空)で敵軍を粉砕撃破する積極的(攻撃的)専守防衛であった。
 江戸幕府(1800年代)以来の宿敵は、日本を含むアジアを侵略しようとした帝政ロシア(ウラジオストック港=東方の支配)であり、そして日本を含むアジアを共産主義化しようとしたソ連(1920年、ニコライエフスク事件=尼港の虐殺)であった。
 北からの侵略を防ぐ主戦場は、中国・満州であった。
 自国民に甚大な被害(敵味方の砲火による非戦闘員の犠牲)を出さない限定戦争、局地戦、短期決戦を想定して戦備を整え、主戦場を日本より遠い敵国首都ではなく、日本周辺に策定し補給路確保より作戦立案と戦闘能力を重視した。
 陸軍軍人は、陸軍大学で帝政ドイツのメッケルからドイツ式参謀教育を受けた。
英米仏の軍人教官は、現実より机上の戦略理論を重視し、日本人独自の判断と行動を禁じた。
メッケルは、現場の結果を重視し、戦場の情報を分析し、刻々と変化する戦況に応じて判断と行動を変化させる柔軟性を求めた。
そして、戦争に勝利する為には兵站と情報が重要である事を教えた。
 日本軍を近代化する為に、捕虜の処遇や占領地の軍政など国際法規や条約・協定の遵守を徹底させた。何時の時代でもは、日本の軍隊は他国以上に国際法規を遵守していた。
 日本はおろか世界の戦史から近代的軍隊の有り様を研究していた軍部は、当然の事ながら補給、兵站の重要性を認識していた。
 日本人は、古今東西の戦争や合戦関係の歴史が好きである。
 日本軍は、国力の貧弱さゆえに地球規模の総力戦、全体戦争を想定した国民軍ではなく、武器弾薬も少量な為に城塞都市(上海、南京など)の攻城戦より住民や田畑の少ない平原や山野での野戦を得意とした。
 後年、市民の犠牲を最小限に止める為に南京攻略の前に日本軍は中国軍側に降伏勧告をおこなったが、中国軍首脳部は徹底抗戦を主張して勧告を拒否するが戦闘的開始前に兵士と市民を捨てて逃げ出した。
 日本兵の性格は、一般市民を必要な犠牲と平然と殺すゲリラ戦やテロ行為などの長期的消耗戦より、一般市民への犠牲が少ない主力軍同士の乾坤一擲の大会戦を好んだ。
つまり、一か八かの「当たって砕けろ」の突貫精神である。
 勝にしろ負けるにしろ、関係のない第三国に迷惑をかけず、敵味方に関係なく一般市民や兵士を無益に殺し無駄な血を流したくないという情緒的心情ゆえにである。
 日本神道は、人はもちろん全ての生き物の血を無意味に流す事を「不浄」として嫌い、もしてや普遍宗教のような生贄などはまずありえなかった。
 日本武士道は、「弱い者を苛めない」「弱きを助け、強きを挫く」を信条とし、戦時国際法を遵守して弱い者とは戦わず、大国・強者のみと正々堂々と戦って玉と砕ける「滅びの美学」を良しとした。
 真の武士は、「死」する事への恐怖を心の内に仕舞い込んで静かに納得して迎えるという「自死」の礼節をサムライの作法とし、極東アジアの様に「死」を前にして「生」への未練として泣き騒ぎ弱い者に対して暴れ狂う事を不覚でみっともないと嫌った。
 そして、たとえ勝つ為とはいえ、非戦闘員を盾にするゲリラやテロ行為(中国便衣兵の戦法)など卑怯、卑劣な行為を最も「恥ずべき行動」として嫌った。
 日本の戦いの作法として、一般市民を巻き込まないように注意を払い、占領地ではいち早く治安を回復させて住民の救済を徹底させた。
 「死」を覚悟した日本軍人による、神風特攻や万歳攻撃そして玉砕はこうして生まれた。
 軍として冷静に組織的行動を維持しているあいだは、一般市民による集団自決や万歳突撃を強要しなかった所かむしろ中止する様に説得した。
 だが、ついに逃げる事ができなくなった時は個々の判断にまかせた。
彼らは、けっして死に急いだのではなく生きようともがき苦しんだ結果末に、やむおえず死を選んだのである。
 日本武士は、生きる為に時として恥を忍び節を曲げて従うことはあるが、強者の理不尽な要求や大国の理なき外圧に屈服し阿諛迎合する事を良しとはせず、弱者には弱者の言い分があるとして「切腹」を覚悟で毅然たる態度を示した。
 極東アジアの弱者には残虐で強者には従順という処世術を、美しくないと嫌悪した。
 日本の伝統的戦法とは、いかなる手段を使っても「かならず勝」という神がかり的必勝精神ではなく、「負けない様に戦う」という沈着冷静な肩の力を抜いた気組みにあった。
 つまり、「自分だけはどんな汚い手段を使っても生き残り、自分だけ富を手に入れて幸福になる」という、他人を蹴落としても「生きる」事を至上の命題とする極東アジアの伝統的戦法とは対極にあったといえる。
 生一本の日本とは違い、極東アジア世界とは嘘八百がまかり通りニセ物が横行するうそ偽りの世界である。
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 朝鮮は、古代から、大陸国の軍事力を利用して日本を滅ぼそうとしていた。
 中国は、古代から、日本を属国とするか領土に編入しようとしていた。
 日本にとって、古代から、両国は紛れもなく敵であった。
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 近代日本の悲劇は、アジア主義の幻想から日本・中国・朝鮮三国提携ができるという妄想に取り憑かれた事にある。
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 江戸時代後期から。日本は、北から領土を拡大してくるロシア帝国の脅威に晒されていた。
 その最前線にあったのが北方領土であった為に、サムライ日本北方領土を死んでも守ろうとした。
 だが、西洋諸国は、江戸幕府の日本を帝国としてその軍事力を恐れていた。
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 明治政府の国防戦略は、植民地を拡大しながら南下してくるロシア帝国の侵略から祖国日本をどう守るかであって、衰退著しい清国を侵略して領土を拡大するかではなかった。
 開国したばかりの弱小国の日本には、目の前に迫っている滅亡の危機に対処せず、清国と長期的全面戦争をしている余裕はなかった。
 中国大陸の一部を領地或いは植民地化する興味はなく、清国の内紛に関与して深入りする気もなかった。
 明治期における日本の成功は、中国の紛争や内戦に巻き込まれる事なく、たとえ清国が滅亡し大虐殺が起きようとも中国人の問題として放置し、文明開化・富国強兵・殖産興業で独自路線を貫いたからである。
 日本の安定と発展は、歴史的事実として、中国及び朝鮮との関係を限定して深入りしない事にあった。
 北からの侵略から日本を防衛する、それが日本の基本戦略であった。
 対北積極的自衛策として、朝鮮を最終防衛陣地とする為に合邦し、満州を最前線基地として支配下に入れ、その背後を反日勢力の攻撃から守る為に中国を親日に改革しようとした。
 さらに敵の後方を脅かす為に、モンゴル、中央アジア、トルコ、ポーランドに情報網を作り上げた。
 対ロシア帝国戦は、「脱亜入欧」の文明的大転換で切り抜けて天皇と日本を死守した。
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 明治新政府と日本軍は、対ロシア戦略から日清朝三国攻守同盟を希望して、清国との関係安定を最優先し、朝鮮半島に於ける清国の支配を容認していた。
 朝鮮開化派は、親日派として、日本政府の支援を受けて朝鮮の近代化を目指していた。
 日本政府は、脆弱な軍事力の大半を、ロシアの侵略から北海道や北方領土を守る為に裂いていた為に、朝鮮半島を安定させる為に清国の勢力が拡大を黙認し、朝鮮開化派への支援を行わなかった。
 日本軍としても、国防の負担を軽減する為に朝鮮に於ける清国支配を歓迎していた。
 清国は、1885年から89年まで軍事力で朝鮮半島を支配して、朝鮮情勢は安定していた。
 だが、李氏朝鮮王室及び朝鮮政府内の政権闘争と失政による内乱で極東アジア情勢は不安定になった。
 1894年 日本側は、朝鮮情勢の不安定は原因は清国の腐敗・不正にあるとして、朝鮮を清国から切り離して完全なる独立国にするべく日清戦争を起こした。
 明治天皇伊藤博文首相等は、腐敗堕落した朝鮮に深入りする事は日本に好ましくないとして不同意であった。
 自由民権派は、朝鮮の政情不安や塗炭の苦しみ喘ぐ民衆を救う為に朝鮮開化派に協力すべきであると、政府に訴えた。
 日本軍も、反日的態度を明らかにし日本に軍事的圧力を強化する清国に朝鮮を支配されては、ロシアに対する防衛線に深刻な影響をもたらすとして、開戦を求めた。
 日本側は、如何に努力しようとも国力や軍事力で断トツに差があるロシアとの戦争は身の破滅と自覚していた為に、ロシアとの戦争を避ける事に全精力を傾けていた。
 朝鮮が、親日派として対ロ攻守同盟を結んでくれる事を望んでいた。
 日本には、朝鮮を併合する意思はなかった。
 1904(〜05)年 日露戦争。日本は、朝鮮政府を親露派が支配しロシア軍を国内に引き入れようとした為に、朝鮮をロシアの支配下から切り離す為にロシアと戦った。
 1907年 ハーグ密使事件。韓国皇帝高宗は、新たな大国と組んで反日闘争を目論んだ。
 対朝鮮強硬派は、絶えず反日勢力に走って日本の存続を危うくする朝鮮を放置しては日本の滅亡につながるとして、朝鮮の自立は不可能であると判断して日本への併合を求めた。
 明治天皇伊藤博文は、清国でさえてこずった統治困難な朝鮮を抱える事は、経済的負担が多く日本の為にならないとして反対した。
 欧米列強は、自分では決して戦わず第三国を対日戦に引き込み高みの見物をして漁夫の利を得ようとする朝鮮の姑息な態度に嫌気をさし、日本側の韓国併合提案に賛成した。
 ただし、日本が韓国を併合し統治に失敗すれば、日本批判を行い、日本が日清・日露両戦争で勝ち取った海外の利権を剥奪する気配を覗かせていた。
 若し。朝鮮人民が一致団結して日本に対して独立戦争を起こせば、欧米列強は日本を大陸市場から締め出す為に朝鮮に味方した。
 だが。朝鮮は、各国が賛同する劣者のゲリラ闘争ではなく最も嫌う指導者への陰湿なテロ行為に走った。
 真面な国家指導者であれば、国家元首や政府高官及び軍高官への暗殺テロを認めはしなかった。
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 世界は、宗教的白人選民思想による人種差別で支配され、「ユダヤ人世界征服陰謀説」と「黄禍論」が当たり前のように信じ込まれていた。
 日本人は、歴史的に人種差別を経験した事がなかっただけに世界常識が理解できず、白色人種の欧米人も黄色人種のアジア人も同じ人として尊重されると信じ込んでいた。
 日本は、越える事ができない人種差別の壁に行く手を遮られ、世界への飛躍を阻まれアジア回帰を余儀なくされた。
 近衛篤麿「最後の運命は、黄白両人種の競争にして、此競争の下には、支那人も日本人も、共に白人種の仇敵として認められる位地に立たむ」(1898年1月1日 雑誌『太陽』「同人種同盟論」)
 日本は、白人に対抗する為に中国を保全すべく中国人との連携をしようとして、親日派を育てる為に有能な中国人若者を官費留学・個人遊学を積極的に受け入れた。
 だが。日本留学組で、日中友好に活躍した中国人は少数で、大半は国民党や中国共産党に入党して抗日戦争で活躍した。
 日本は、皮肉にも、敵を育てていた。 
 中国は、敵より弱いうちは柔やかに友好を口にするが、敵より優位になったと見るや襲いかかってくる。
 「君主は豹変す」
 昨日までは友人と信じていても、今日は敵となって襲撃する。
 それが、中国人気質である。
 「勝てば正義となり、道理も信義も全てが屈服する」と言うのが、中国人の思考である。
 日本人の思考では、理解できない。
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 アジア・アフリカの人々だけではなく、トルコなどの中東の人々も、ポーランドの東欧やフィンランドなどの北欧諸国は、日露戦争における日本軍の勝利に感激した。
 旅順要塞攻略戦を戦った乃木希典将軍や日本海海戦に勝利した東郷平八郎提督は、そうした国々の英雄となった。
 世界の海戦史で、日本海海戦は戦略・戦術・情報戦・兵站など多方面において手本となっている。
 だが。中国や韓国・北朝鮮などのアジア諸国は、日露戦争を日本の大陸侵略と否定している。
 韓国は、日本海を東海と改称し、日本海海戦を東海海戦もしくは対馬沖海戦と言い換えようとしている。
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 大正期。日本の発展を、世界常識である白人中心の人種論が阻んだ。
 脳天気な日本人は、世界の人種闘争という過酷な現実を理解していなかった。
 日本人は、「アジアは一つ」を掲げて、白人の対抗する為に中国人との対等な合邦関係を模索した。
 が。中国は、儒教的価値観から日本との対等関係を拒絶し、日本の台頭を嫌う欧米の白人至上主義者と手を組んで日本を中国大陸から排除し始めた。
 日本は、中国勢力を反日親日に区別し、親日派を支援して親日政権を樹立させようとした。
 日本の悲劇は、お人好しにも中国人を信じた「アジア回帰」にあった。
 中国は、反日はあっても、親日など何処にもなかった。
 日本人の愚かさは、中国には親日があると盲信したところである。
 つまり、後の大東亜共栄圏やアジア共同体とは幻想に過ぎず、中国と関わり合ったがゆえに軍国日本は滅亡した。
 中国は国を一つにまとめる為には日本を必要としたが、日本は朝鮮はおろか中国など必要とはしなかった。
 第一次世界大戦後。新たな北の脅威として、日本を共産主義化し、天皇制度を打倒しようとする共産主義ソ連が出現した。
 国民党と中国共産党及び反日朝鮮人と日本人マルクス主義者が、ソ連コミンテルンの支援を受けて行動していた。
 昭和前期は、そうした反天皇反日勢力から日本を守る為の自衛戦争であった。
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 東京裁判は、日本の自衛戦争侵略戦争として否定した。 
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 GHQは、戦前の日本が地政学を研究して海洋国家(シーパワー国家)を目指した事が戦争の原因であるとして、戦後の日本では地政学を学ぶ事を全面的に禁止し、関連書物を全て焚書とした。
 戦後の平和教育で、侵略戦争の研究として地政学を封印して、日本人から外交交渉と軍事的戦略・戦術の能力を奪った。
 アメリカの対日占領政策は、日本を保護領とし、日本人を愚民化する洗脳であった。
 政治家や官僚は、机上の空論とも言うべき理想主義的反戦平和学はあっても、事実を見詰めた現実的な戦争学や地政学はなく、臨機応変の外交交渉能力は低いし、中長期的な戦略立案能力も短期的な戦術眼もない。
 それが、戦後教育の成果である。
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 2015年 国際社会は、通貨を武器とした新たな地政経済学(ジオエコノミー)の時代に突入した。
 ジオエコノミーとは、地政学(ジオポリティクス)と経済学(エコノミー)の造語である。
 日本が一番不得意とする分野で、現代日本人には理解しづらい学問である。
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 『臣民の道』「ソ連共産主義による世界制覇を目的とし、階級的独裁による強権を手段としている。ドイツは血と土との民族主義原理に立つて、アングローサクソンの世界支配、ドイツの圧迫の現状を打破し、民族生存権の主張に重点を置き、その為にナチス党の独裁に対する国民の信頼と服従とを徹底せしめ、全体主義を採用しているのである。イタリアは大ローマ帝国の再現を理想とし、方法を於いてはドイツと異なるところなく、ファッショ党の独裁的全体主義に立脚している。これ等に対し我が国は肇国以来、万世一系天皇の御統治の下に皇恩は万民に治(あまね)く、真に一国一家の大和の中に生成発展を遂げて来たのであり、政治、経済、文化、軍事その他百般の機構は如何に分化しても、全ては天皇に帰一し、御稜威によって生かされ来たつたのである」
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 奥山真司(地政学者)「実は、日本も戦前は地政学が盛んで国家戦略にも応用していました。日本が領土を拡大できたのは地政学の知識によるところも大きいのです。ところが第二次大戦で敗戦国となり、GHQによって戦前・戦中に広く普及していた地政学は全て否定され、タブーとなってしまいました。それでも日本はアメリカの庇護下にいれば良かった。ところが、冷戦が終わり、今度は中国が台頭してきた。今はアメリカはもちろんの事、何処の国も地政学を基に戦略的に動いている。その中で日本だけが取り残されている」
 「日本はシーパワーの国である事をアメリカのように強く意識しなければなりません。なにより、エネルギー資源の石油も天然ガスも輸入に頼っていますから、シーレーンを守らないと国が潰れてしまいます。太平洋戦争も実は、中国のマーケットを日本とアメリカが狙ったからこそ起きた面があります。日本が色々とちょっかいを出して領土を取っていくものだから、最終的にアメリカとぶつかったのです」
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 奥山真司「日本は戦後の平和ボケ・記憶喪失状態から脱却し、国の生存をかける覚悟で地政学を理解する知識人を大量に育てるべきである」(『地政学 アメリカの世界戦略地図』)
 倉前盛道「日本は、……家族的国家を数千年にわたって維持してきたおかげで、国際社会の狡猾さについてほとんど無知といえる。……いまや、否応なしに、国際社会の渦中の中にまきこまれてゆく日本人が、最低限度、知っておくべき悪党の論理のひとつとして、地政学の初歩的な入門書というより、漫歩書を編んでみた」(『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』)
 安全保障の脅威に対応する為に日本が早急に取り組むべきは、英語能力とコミュニケーション能力の向上以前に、国益は絶対に譲らないという不動の信念である。
 不動の信念を理論的に強化する為に、英語による反戦平和学ではなく、日本語による日本文化と地球規模の戦争学及び地政学を徹底して日本人の思考回路に叩き込む事である。
 そして。如何なる逆境・苦境に追い詰められても、狼狽せず、礼儀・礼節を失わず、信義を持って「しなやか」にそして「したたか」に振る舞う「心のゆとり」が重要である。
 会議に於いて、勇気を持って激論に参加して自分の意見を強い口調で主張する。
 国際社会に於いて、意見を言わない者には如何なる権利もない。

 

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