🎵06:07:─1─マリア・ルス号事件。琉球処分。岩倉使節団。征韓論。琉球漂流民殺害事件。台湾出兵。「ヴィクトリア女王」の称号問題。1871年~ No.10No.11No.12No.13 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 明治時代。アメリカに渡った日本人は、裕福で教養のある白人達が、黒人や中国人を差別し奴隷の如く重労働を強いている現実を目の当たりにしてシュックを受けた。
 西洋世界にあったのは、白色人種と有色人種を峻別する「肌の色」という絶対に超えられない壁であった。
 日本人は、人の善意を信じ、人は心を割って話し合えば「肌の色」という人種の壁は乗り越えられろ淡い期待を抱いた。
 自分を理解して貰う為には、西洋文化を受け入れ、近代化を急いだ。
 それが幻想であると理解していた者は、大アジア主義で西洋に対抗して東洋は団結すべきだと訴えた。
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 1871年 伊藤博文は、金融システムを学ぶ為にアメリカに短期間滞在して、大蔵省に建白書を提出した。
 山県有朋兵部大輔、河村純義同少輔、西郷従道同少輔の連名で、「四囲の情勢認識」の建白書を提出し、クリミア侵略に失敗したロシア帝国が東方に侵出して日本を脅かす恐れがあると警告を発し、速やかに国防強化のようありと提言した。
 現代の日本史において、大陸侵略を正当化しようとして、ロシア軍の脅威を煽って虚偽の提言として否定されている。
 牡丹社事件宮古島から那覇に向かっていた貢納船が、暴風雨で難破して台湾に漂着した。
 台湾先住民パイワン族は、宮古島の船員69名中54名を殺害して荷物を強奪した。
 新政府は、被差別階級の解放令を発布したが、法律上の差別は亡くなったが、社会に於ける非人や穢多に対する差別は残った。
 御維新による四民平等は幻想に過ぎず、むしろ酷くなった面もあった。
 明治政府は、琉球王国の領土を鹿児島県の管轄とし、「四民平等」の太政官令を持って本島人と離島人の差別的待遇を禁止した。
 宮古島などの離島人は、同じ日本人となる事で本島人からの不当な差別から解放された。
 中華思想華夷秩序で上位者としけ優位を誇っていた中国系琉球人は、面子を潰されて激怒して日本への併呑に反発し、琉球を中国の領土にするべく画策し始めた。
 4月 日本政府は、万国公法に基づき、清国と日清修交条規と通商章程を結び、西洋の侵略に対する東洋の攻守同盟にしようとした。
 清国は、アジアの覇者として、儒教華夷秩序による天朝朝貢冊封体制を維持する為に、李氏朝鮮琉球、安南(ベトナム)への支配を強化しようとしていた。そして、西洋の近代国際秩序を拒絶した。
 日本は対等関係での同盟を望んだが、清国は宗属関係での盟約にとどめようとした。
 7月29日 日清修好条規。日本外務卿は、副島種臣。実父は佐賀藩国学者・枝吉忠左衛門南濠(家禄30石の下級藩士)で、父親南濠が死去し兄が家督を継いだ為に同藩士の副島利忠の養子となる。
 日本側大使・大蔵卿伊達宗城、清側大使・直隷総督李鴻章
 中華帝国清王朝は、東アジア史上始めて、中華皇帝と日本国皇帝=日本天皇は対等であると認めて、天津で条約を結んだ。
 秦の始皇帝から約2300年続いた、中華皇帝を頂点とした華夷秩序の崩壊の序章であった。
 中国の真の屈辱とは、日清戦争の敗北ではなく、白人以外のアジア人=日本人を同格と認めた事である。
 中華皇帝の面子は、地に落ちた瞬間である。
 中国が中華帝国として面子を取り戻すには日本と戦争して勝つ必要はなく、日本天皇が中国人指導者の前に伺候し、臣下の証しとして屈辱的な拝礼をして、日本統治の許可を得る事である。
 邪馬台国卑弥呼のよう、華夷秩序を認め、朝貢使を送り冊封を受けいれば全てが丸く収まる。
 中華世界は儒教価値観による上下関係を絶対視し、「中国を上位国、日本を下位国」と定める事を望んでいる。
 戦争の勝ち負けなどはたいして問題ではなく、重要なのは「位」としての立ち位置である。
 反日的日本人が、国民統合の象徴である祭祀王・天皇国家元首にする事に猛反対するのはこの為である。
 10月12日 「身分解放令」「賎民解放令」「賤称廃止令」。明治政府は、穢多非人等の名称と身分を廃止する旨を記した太政官布告を行った。「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」
 11月27日 宮古島の年貢運搬船が、那覇からの帰途で嵐に遭い台湾に漂着し、原住民パイワン族によって69名中54名が首を切られて惨殺され、品物が奪われた。
 琉球政府は、清国の属国として朝貢し臣下の礼を取っていた為に、清国に対して謝罪と賠償を要求できなかった。
 日本政府は、清国に対して、琉球統治権を主張し、宮古島島民は日本人であるとして賠償を要求した。
 総理衙門大臣(外務大臣)恭親王は、清国はアジア一の強大国であり日本は文化度の低い小国と見下し、「琉球は独立国であって日本の介入は不当」であるとして門前払いした。
 内務卿大久保利通は全権は、日本の名誉と国益を守る為に北京に赴き、琉球と長年関係を持っていた薩摩人としての経験を元にして談判した。
 「琉球は、商売上の利益の為に隠秘及び虚偽の方便を以て清国を欺いたのだ」
 恭親王は、琉球統治権が日本にある事を認めたが、台湾は化外の土地で清国は領有していないから賠償要求は拒否すると突っぱねた。
 つまり。日本が独自の判断で台湾に懲罰的攻撃を仕掛けても、清国への攻撃と取らず対抗処置に出ない事を確約した。
 琉球の日本帰属は、この時、決定した。
 軍事力なき小国が大国によって翻弄され消滅するのが、世界史の常識であった。
 日本軍は、清国が台湾を領土と認めなかった為に、急いで台湾派兵の準備に取り掛かった。
 国内の不平士族は、征韓論を潰しておきながら台湾出兵を行う事は道理に合わないとして猛反対した。
{2016年7月号 正論「映画『南京の真実』製作日記 水島聡
 〝情報戦〟の最前線から
 パイワン族の戦い方、敗け方
 ……
 パイワン族は名誉と誇りを何よりも大事にする。また、台湾少数民族の中でも、とりわけ親日感情の強い山岳民族だ。
 ……
 5月6日は、この地で勃発した牡丹社事件によって、明治7年、西郷従道率いる日本軍が初めて海外出兵し、台湾南部に上陸した日である。牡丹社事件は、明治4(1871)年、宮古島の住民66人が台湾南部に遭難漂着し、台湾原住民のパイワン族に保護されたが、逃げ出そうとした54人が殺された事件(残りの12人は逃げ帰った)である。明治政府は清国に抗議したが、清は『台湾は化外の地』で我が領土にあらずとして、責任はないと主張、日本は台湾に出兵し、激しい戦闘の後、パイワン族の牡丹郷を占領した。日本軍の戦いは、報復虐殺などは皆無、帰順する者は許すという情理に則った戦いだった。『罪を憎んで人を憎まず』である。大久保利通が北京に乗り込んで交渉し、清国はこの出兵を『義戦』と認め、賠償金支払いが決まり、日本は撤兵した。その後、明治28(1895)年の日清戦争の結果、下関条約で台湾が日本に併合されると、パイワン族は最も親日的な原住民となった。
 勇猛果敢、義理堅い高砂族として称賛されたパイワン族は、大東亜戦争にも皇軍兵士として参加し、多くの戦死者を出して靖国神社に祀られている」}
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 欧州旅行費は200万円(現在の金額で約55億円)
 岩倉使節団は、欧米列強の国力に比べて日本の立ち後れを痛感し、同時に欧米列強が隙あらば日本を侵略しようとしているとの危機感を募らせた。
 日本が植民地にされず独立国として生き残る為には、徹底的な西洋化政策を採用し、欧米列強に負けない工業力と商業力を得て国力を養い、防衛に必要な軍事力を付ける事であると痛感した。
 明治の指導者は、弱肉強食の帝国主義時代に日本を守る為には、欧米列強に対抗するだけの強力な軍隊を持つ必要がある事を確信していた。
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 1872年 第一次琉球処分。人類学上。琉球人は、日本人と同種の南方系海洋民の子孫であって、中国人の草原系大陸人の子孫ではない。
 明治政府は、琉球を中国領ではなく日本領とする為に、薩摩藩支配を解消して、琉球王国薩摩藩と同格の藩に昇格さ、負債20万両を肩代わりした。
 明治天皇は、琉球尚泰藩王として華族に加え、その支度金として3万円を下賜した。
 琉球王国の公文書は、中国風の漢文ではなく、和風の日本語であった。
 琉球人は、朝鮮人と違って難解な漢文を嫌い、庶民でも読みやすい仮名交じりの和文を採用していた。
 そして、不寛容な中華思想中国文明より寛容な国風思想の日本文明を好み、柔軟で多様性に富んだ日本文化に憧れていた。
 外務省は、鹿児島県から琉球管轄権を引き継ぎ、琉球藩を設置し、琉球国王尚泰琉球藩王に「陞爵」して華族とした。
 琉球の国名は、朝鮮国と同様に明国皇帝から下賜されたものである為に、日本の支配下にある事を内外に知らせるべく島名を「沖縄」と改称した。
 明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三迫った。
 中国系琉球人は、「支那党」を形成して琉球王府を支配し、清国からの支援を期待してノラリクラリと返答を伸ばして従おうとしなかった。
 宜湾親方朝保(中国名尚有恒)は、源為朝伝説を元にして日琉同祖論を主張した。
 支那党支配に不満を持つ昔からの琉球人は、中国ではなく日本への併合を望んだ。
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 琉球王は、鍋島公が県知事として赴任して来るや、日本に隠れて清国に救援を乞い、イギリスに日本の不当を直訴した。
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 伊藤博文は、帰国するや、財政金融顧問のアメリカ人エラスムス・スミスの助言を得て、反対を押し切って国立銀行条例を施行した。
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 7月9日 マリア・ルス号事件。副島種臣外務卿「神といへばうはそらのごと思ふらむ 大国主の背に負はれつつ」(どうして神があり得ないと思うのだろう。私たちは皆、大国主命に背負われているのに)
 中国人苦力232人を乗船させたペルー船籍マリア・ルス号は、暴風で破損した船体を修理する為に横浜港に入港した。
 イギリス軍艦アイアンデューク号は、逃げ出した中国人苦力1名を救助し、マリア・ルス号を奴隷運搬船と判断した。
 イギリス船の船長は、神奈川県に通報した。
 マリア・ルス号船長は、脱走者を引き取り、船内で地獄のような拷問を加えた。
 在日イギリス公使は、副島種臣外相に中国人救助を要請する書簡を送った。
 政府内部には、外国人犯罪は外国の領事が裁判を行うという領事裁判権を盾にして、外国の揉め事に介入する事に反対する慎重派がいた。
 マリア・ルス号は、アメリカのオリファント商社との契約で中国人苦力達をペルーに運んでいた。
 オリファント商社は、中国人苦力達を直接入国させる事は法律で禁止されていたが中南米からの迂回入国ができた為に、中国人苦力達をペルーに運んでいた。
 日本とペルーの間では、二国間条約が締結されていなかった為に、ペルーとの間で国際紛争を引き起こす恐れがあるとの意見があった。
 副島種臣外務卿は、人道主義と日本の主権独立を主張し、大江卓神奈川県権令にマリア・ルス号に乗船している中国人231人の救助を命じた。
 日本政府は、マリア・ルス号を奴隷船と認定して摘発し、231人の中国人苦力達を救出し中国への送還手続きを行った。
 「この裁判は、清国人の人々を正義・人道に則って保護する事である。これはペルーとの問題であり、貴国らが介入すべき問題ではない」
 アメリカ公使デロングは、オリファント商社の訴えを受け、日本側に対して、中国人苦力達は契約労働者である以上はマリア・ルス号に返すように圧力をかけた。
 この問題は、アメリカと日本の二国間問題から国際問題となった。 
 副島外務卿は、欧米列強の横暴な圧力に屈する事なく、日本の国内法で裁くと跳ね返した。
 開港したばかりの日本は、欧米列強の威圧に脅える事なく、国際外交で正々堂々と渡り合っていた。
 10月 日本の特別裁判長大江卓は、国際正義を守る為に、「奴隷売買は国際法違反である」との判決を下した。
 「マリア・ルス号の中国人乗組員は、すべて奴隷とみなす。これは、文明国の風俗とは異なるので、ただちに解放せよ。解放した中国人の面倒は、あくまで庇護して中国に帰国させる」
 ロシア皇帝アレクサンドル2世は、中国人苦力は奴隷であると裁定し、日本側が取った中国人苦力の解放は正しいと認めた。
 日本側の主張が、国際社会で認められた。
 イギリスは、東洋にある全ての植民地裁判所に「今後外国船の奴隷売買を処理する際は、マリア・ルス号裁判を模範とせよ」と通達した。
 アメリカは、依然として奴隷貿易をしていると告発され、日本によって面目をつぶされプライドを傷つけられた。
 アレキサンドル2世は、小国ながら大国に対して道義と通して一歩も引かないさむらいをいたく気に入り、欧米列強の威圧にひれ伏す中国や朝鮮などの非白人国家とは別格に扱った。
 だが。日本は、各地で侵略戦争を行い領土を拡大しているロシア帝国に警戒し、日本を武力で守る為に政府・外務省・軍部・企業・教育は「オールジャパン」として一致協力していた。
 外務省や貿易商社は、各国に人員を派遣してロシア帝国やロシア軍の情報を熱心に集めていた。
 日本人一人一人が、中国やロシア帝国の侵略を意識し、天皇と日本を守る為に決意して行動していた。
 が。ヨーロッパ諸国から情報を国際通信で東京に送っていた為に、電信の通信局があるパリでフランス外務省に情報を盗まれていた。
 後に。日本が集めた情報は、フランスからロシア帝国に送られた。
 現代日本人とは違って、当時の日本人は外国語が苦手であったが外交能力は優れていた。
 アメリカは、国際的に、日本によって恥をかかされた。
 アメリカ資本にとって、日本は、巨大な中国市場とを結ぶ海上輸送網の障害であった。
 アメリカの国益にとって、日本が言う事を聞かなければ、いかなる手段を使っても排除すべき邪魔者であった。
 アメリカのデ・ロング公使は、列強の圧力に屈する事なく、正義と人道を貫き一歩も退かなかった日本に感動し、紛糾していた小笠原諸島の帰属を日本の領土にする事を認めた。
 10月2日 日本政府は、遊郭での人身売買が国際批判をあびた為に、急遽「娼妓解放令」を発布した。
 キリスト教価値観では売春は犯罪とされ、日本の吉原などの遊郭は非人道的犯罪の巣窟として非難されていた。
 遊郭から解放された女性達は、貧しい農村などから売られてきた身である為に、故郷に帰る事もできず、行く当てもなく、手に職もなく、働いて生活する事もできず、食う為に私娼に戻るしかなく、悪いヤクザにいいように騙されて劣悪な環境で働かされる羽目に陥った。
 善人の善意が、彼女らをさらなる地獄に追い遣った。
 日本政府は、やむなく彼女らを救う為に娼婦地区・赤線を認め、悪徳業者から彼女らを守る為に厳しく取り締まった。
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 日本とアメリカの戦いは、アメリカが中国市場に乗り出すかぎり避けられない運命であった。
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 日本が親切心で中国人をいくら助けても、中国は決して感謝しないし恩義も感じない。
 それが、中国である。
 もし口に出して言ったとしても、それは本心からではなく、金儲け・利益に結びつける為の謀略か陰謀でしかない。
 中国人は、日本人と違って、人を信用する事は全くない。
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 血税一揆・徴兵令反対一揆。1873年3月に渡会県牟婁(むろ)郡神内村からはじまり、1874年12月の高知県幡多郡における蜂起まで19件。
 明治維新の嘘が徐々に明るみにで始めてた。
 百姓は、御一新による近代化は負担が重くなり生活が苦しくなっただけで、まんまと欺されたと知って激怒し、徴兵制や租税に反対する一揆を全国で起こした。
 現実主義の百姓や庶民にとって、日本が外国に侵略され植民地になっても、重税や苦役を免除され暮らしが楽になるのなら、日本人であろうが外国人であろうが誰が日本の支配者になってもよかった。
 この当時。日本には民族主義はなく、日本人には日本国家という意識もなく、国民としての自覚もなく愛国心も芽生えてはいなかった。
 ムラ人にとって、祖国を守ろうというナショナリズムは無縁であった。
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 1873年 明治新政府は、欧米列強の侵略から祖国を守る事を建て前として徴兵令発布したが、本音は新政府に不満を持つ士族の叛乱に備える為であった。
 百姓や町人は、税金を取られるのは仕方がないとしても、徴兵され戦争に送り出される事には猛反対した。
 江戸時代までの日本には、戦争を行うのはサムライの仕事で、百姓や町人などの庶民は武器を取って戦わないとの不文律が存在していた。
 御一新によって近代国家として国民皆兵の思想が入るや、国民は戦場に送り出されるとして猛反対し一揆を起こした。
 国民は、明治新政府に騙されたとして反発して暴動を起こした。
 明治新政府は、ロシア帝国などの侵略から日本を守る為には国民一丸となって防衛にあたるしかないとの危機感から、暴力を持って徴兵制反対暴動を鎮圧した。
 植民地拡大を正義とする帝国主義時代の日本国家は、日本国民に祖国は自分の手で守り子孫の未来は大人が責任持って決めるように強要した。
 だが。戦争とは無縁で生活してきた庶民は、強制的に兵隊に取る国を呪い、戦争を起こさず雑兵として狩り出さなかった徳川幕府を懐かしんだ。
 大陸国家の庶民は、自分の生活を脅かさなければ、リーダーが自国の人間でも血のつながりない外国人でも気にはしなかった。
 それが、多民族雑居が当たり前の世界常識である。
 他国の人間が支配者になるの事に反発したのは、排他的閉鎖的な島国根性の強い日本人だけである。
 日本各地で、百姓や町人による血税一揆や打ち壊しが頻発して、新政府の土台を揺るがしていた。
 昔からの商人達も、新政府と癒着した新興商人らに商売を奪われて、開国と文明開化に怨嗟の声を上げていた。
 サムライ的職業軍人以外に、腕力があって乱暴な兵士が急増した為に、古参兵による新兵イジメが横行して軍隊の柄が悪くなった。
 日本軍にイジメが多かったのは、国民皆兵の義務を国民に強要したからである。
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 征韓論による政変が起きた。
 大久保利通大蔵卿は、外国に国債を購入して貰ったり、税収を担保に借款を得たり、国際資本に借金をする事は、国の存亡にかかわる重大事であるとして、他国に借金する様な事態は避けるべきである力説した。
 「巨額な戦費の財源は重税か外債に依存しなければならぬが、返済の目途が立たない。外債償還が不能になれば、イギリスに国内干渉をされる口実を与え属領とならざるを得ない」
 日本が近代化できたのは、資金がなく、産業もなく、貧しく苦しくとも、税金や国土を切り売りして安易に他国や国際資本に借金をしなかったからである。
 大久保利通は、藩政として百姓や商人とのにがく苦しい話し合いの経験から、開発資金を国外に求めて短期的に近代国家の体裁を整えるのではなく、殖産興業を行って官営事業資金を国内で確保するという長期的国家方針を採用した。
 日本と中国及び朝鮮との違いは、国家運営の為に如何にして資金を調達したかによる。
 日本民族が困窮を我慢できたのは、天皇心神話の仁徳天皇の寓話によるところが多かった。
 もし天皇中心の神話が日本になかったら、日本という国は存続できず、日本民族もなかった。
 日本民族日本人と天皇心神話は、切り離す事ができない深い「絆」にある。
 だが。現代日本では、民族的「絆」である天皇心神話を無価値として否定する無国籍的日本人が増えつつある。
 明治政府は、日清修好条規による友好国として、台湾先住民による宮古島島民殺害に対して清国に抗議し謝罪と賠償を要求した。
 清国は、台湾は国法が及ばない「化外の地」である以上、管轄外での殺人事件には責任を負えないとして日本側の要求を拒否した。
 ロシア帝国は、千島列島の千島アイヌ人が日本軍に協力して反乱を起こす事を恐れ、ロシア国籍を与えて帝国臣民とするや、多くの千島アイヌ人をカムチャッカ半島強制移住させた。命令に従わない千島アイヌ人を、奴隷としてコサック等に売り払った。
 チェーホフ「ギリヤーク人はよく奴隷として、アイヌ人を連れて来るという。明らかに、女は彼等の間では、煙草や支那木綿と同じ商品なのである」
 ロシア帝国は、キリスト教選民思想で、白人至上主義の人種差別を正義として千島アイヌ人を獣の如く扱い、アイヌ人を殺しても反省する事はなかった。
 白人社会では、非白人の先住民などは狩猟の獲物として殺しても良い動物であった。
 各地のアイヌ人は、ロシア人の白人支配を恐れ、非白人種である日本への帰属を希望していた。
 アチェ戦争。アチェ王国 (1496〜1903)は、スマトラ島アチェ特別州にあったイスラム王国。
 オランダは、アチェ王国を攻撃した。
 アチェ王国のスルタン・マフムド・シャーは、イギリスなどに支援を要請したが断られた為に、王都アチェ・プサールを捨て密林に撤退してゲリラ戦を仕掛けたが、74年にコレラで死亡した。
 オランダは、アチェの併合を宣言した。
 アチェ人は、トゥンク・イブラヒムの孫ムハンマド・ダウド・シャーを新スルタンに擁立して抵抗を続けた。
 抵抗運動に疲れた一部のアチェ人は、オランダに服従を誓った。
 アチェ人に見捨てられたスルタンは、1903年にオランダに降伏してアチェ王国は滅亡した。
 オランダは、30年近い戦争で疲弊し、中国大陸への侵略する国力を失った。
 一説によると。シンガポールを手にしたイギリスが、中国市場からオランダ勢力を排除するべく、密かにアチェ人を支援していたと言われている。
 西洋諸国の植民地争奪戦は、阿漕であったと言われている。
 3月 明治政府は、武士の秩禄(家録や賞典録)処分の為に、秩禄奉還者への支給金目的で7分利付英貨公債240万ドル(約1,000万円)をロンドン市場で募集した。
 4月30日 副島外相と李鴻章は、日清修好条規を調印した。
 副島外相は、日本側の国益を損ねる事なく、沖縄、朝鮮、台湾に対する清国の見解を引き出した。
 「私が外交知識を得たのは、貴国が漢文に翻訳した国際法のみである。その程度の知識で欧州列強の大使に侮られなかったのは、一に『志気』である」
 欧米列強は、副島種臣の外交交渉能力を高く評価していた。
 5月26日〜6月1日 北条県(美作)の一揆・美作地方の一揆。大阪鎮台は一揆を鎮圧し、2万6,916人を拷問にかけ、64名を懲役刑、筆保卯太郎以下15名を処刑した。
 6月19日〜26日 鳥取県伯耆会見郡一揆鳥取県会見郡一揆。別名「竹槍騒動」、「会見郡徴兵反対一揆」。県側は、大規模な取締りを行い、1万1,907人を処分し、1名を終身刑とした。
 6月27日〜7月6日 西讃竹槍騒動(西讃農民騒動とも)。名東県豊田郡・三野郡・多度郡・那珂郡・阿野郡・鵜足(うたり)郡・香川郡の7郡。
 逮捕約282名。うち死刑7名。懲役刑51名。刑に処された者は1万6,839人。
 内浜霊神社。
 10月 静観論問題で敗れた西郷は、鹿児島に帰って百姓になり、泥に塗れて農作物を作った。
 多くの士族も、西郷を慕って、高位高官の官職を捨てて農民となって働いた。
 サムライという身分にこだわらない士族は、喜んで農夫となって田畑に出て仕事をした。
 当時のサムライには、特権意識が薄かった。
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 1874年 大久保利通は、西欧列強を見聞してきた個人的経験から、日本を外敵の侵略から守には殖産興業して国力を付けるしかないとの建白書を起草した。
 外交顧問のアメリカ人チャールズ・ルジャンドルは、琉球漁民虐殺事件で日本が台湾に出兵しても、清国は台湾の主権を主張しないであろうと助言した。
 清国は、日本側の抗議に対して、台湾は主権の及ばない「化外の地」であるとして門前払いした。
 西郷従道は、国内の反対を押し切り、琉球を含む周辺諸島の領有を見据えて、台湾に軍隊を派兵した。
 1月23日 明治天皇は、近衛歩兵第1連隊長に連隊旗を授けた。
 『軍旗親授式勅語』「歩兵の連隊編成成るを告ぐ仍(よ)って今軍旗一旒(リュウ)を授く 汝軍人等協力して益(ますます)威武を宣揚し 我帝国を保護せよ」
 日本の近代的軍隊の誕生である。
 2月〜3月 江藤新平佐賀の乱
 4月 大久保利通内務卿は、西郷隆盛らの非難を受けながらも台湾出兵を強行した。
 清国は、まさか軍事力の乏しい小国日本が台湾を攻めるとは想像もしていなかった為に、慌てて台湾の領有を認め、日本側の賠償などの要求を全て呑んだ。
 5月 台湾出兵。軍国日本は、領土的野心からではなく、自国民の安全を守るという国家の責任から、同じ虐殺行為を防ぐ目的で帰属不明地・台湾に出兵した。
 日本の侵略戦争の一つとされる、悪名高き台湾出兵である。
 7月 日本軍は、派遣軍兵士の多くが風土病に感染した為に、戦力を維持するべく増派した。
 台湾は、疫病の島であった。
 内務省は、沖縄を領土の一部とするべく、琉球の管轄権を受け取り那覇に沖縄出張所を開設した。
 支那党は、尚順王と王府に対し、日本に従わせないように「清国の黄色い軍艦が間もなく琉球を救いに来る」と恫喝した。
 沖縄では、依然として清国は世界最強の帝国であり、一度立って最強の軍隊を派遣すれば日本は一溜まりもなく攻め滅ぼされて滅亡すると信じられ、日本ではなく清国の一部になった方が安全とする考えが存在していた。
 世界常識でも、同様で、アヘン戦争などで敗れたりといえども清国は軍事大国で有り、近代化をはたせば日本な一戦で敗北して消滅すると見られていた。
 7月25日 太政官達「外交関係のある各国の君主の称号は原語では各種であるが、和公文では原語に拘わらず皇帝とすることに決めるから心得るように。ただし、アメリカ、フランス、スペイン、スイス、ペルー等の共和制の国の場合は大統領とする」。
 駐日イギリス公使ハリー・パークスは、日本政府に対して、横浜駐在イギリス領事への書簡に「ヴィクトリア女王」と書いてある事で激怒し、上から目線で抗議した。
 「女王とは怪しからん、イギリスは帝国である。攘夷論以来の外人蔑視で、とかく日本人は日本こそ帝国、イギリスなどは王国と見下したがる。だからこそ、こんな誤りもやるのだ。ミカドを男王とでもしたら、黙っているか。かりにも一国元首の呼称、問題は重大である云々。」
 世界の海を支配し広大な植民地を支配する大英帝国の君主に「王」の文字を使い、格下の弱小国日本が自国の君主に格上の「皇」の字を用いる事は無礼であると。
 よって、「ヴィクトリア女皇」と書き改める事を強く申し込んだ。
 寺島宗則外務卿は、横浜税関長・星亨に交渉を命じた。
 星亨は、イギリスの強い要請に対して、「今のイギリスは帝国ではなく王国を名乗っている。よって『女王』と書くのが正しい」と反論した。
 パークスは、正論に対してごり押しはできず、妥協案として原語のカタカナで「クイーン」と書く事を提案した。
 星亨は、「日本語では『食い犬』に聞こえるが、いいか」と尋ねた。
 パークスは、それ以上の抗議は無駄である事を悟り『女王』という表記を受け入れた。
 昔の日本人は、相手が誰であろうとも、理屈に合わず道理が通らない外圧には毅然として正論をもって拒否した。
 欧米列強にとって、理をもって従わない非白人非キリスト教国の日本が煩わしく癪に障っていた。
 欧米列強が支配する世界において、国力差による外圧に動ぜず、西洋の価値観に対して筋を通してぶれない日本が「孤立化」するのが当然であった。
 10月31日 清国は、まさか日本が台湾に出兵してこないと高を括っていた為に、アジア一の大国としての面子から弱小国日本に即刻撤兵する様に抗議し圧力をかけた。
 だが。サムライは、相手が大国であったも、自分に理があると思った時は毅然として振る舞い、朝鮮の様な卑屈怠惰な行動を取らなかった。
 イギリスは、新興国日本が台湾を領有して進出してくるの事を警戒し、清国に恩を売る為に紛争調停に乗り出した。
 北京のウェード駐清国イギリス公使は、「琉球は日本に帰属し、琉球人は日本人」という大前提から、調停案として日清両国間互換議定書を示した。
 台湾は、中国領と認められた。
 大久保利通は、台湾事件解決の為に全権として北京に赴き、清国政府と談判した。
 清国は、日本の台湾出兵の正当性を認め、殺害された宮古島民の家族への見舞金と船舶の弁償そして日本の戦費負担に50万両を支払った。
 同時に、琉球とその周辺諸島の統治権も日本にある事を認めさせた。
 日本は、清国の善処を受けて撤兵した。
 台湾出兵は、初の海外出兵としては幾つかの課題を残す失敗であったが、外交交渉に於いて充分すぎるほどの成功を収めた。
 日本と中国の国境が、琉球と台湾の間に確定された。 
 11月 支那党は、独断で北京に朝貢使を送り、極秘で琉球を日本領ではなく中国領にする為の軍隊派遣の要請を打診した。
 北京の駐清国公使の柳原前光は、琉球の裏切り行為を知るや激怒した。


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