🎵16:─1─日本は、ロシアの侵略に備えて、蝦夷地を北海道と改名し、アイヌ人を日本人とした。~No.31 @  

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 田沼意次は、「禍を転じて福となす」としてロシアとの新たな交易を開こうとした。
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 水戸学は、尊皇攘夷としてロシアの侵略から神国日本を守るべく軍備増強を説いた。
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 明治政府は、ロシアの侵略から母国日本を守る為に蝦夷地と北方領土を日本領に編入し、アイヌ人がロシアに味方し日本侵略の手先にないようにする為に日本人に編入し、アイヌ人の土地の多くを没収して屯田兵を土着させた。
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 ロシア(ソ連)は、樺太と千島列島を占領して領土化するとそこに住んでいた樺太アイヌと千島アイヌをシベリアに強制移住させて消滅さ、大陸から新しい人間を住民として送り込んだ。
 その為に、アイヌ人は蝦夷アイヌしか残らなかった。
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 明治初期に起きた北海道・北方領土琉球尖閣諸島の日本への編入は、安全保障上のやむを得ない処置であった。
 日本の地政学的課題は、西の大国・中華帝国と北の大国・ロシア(後にはソ連共産主義勢力)であった。
 半島の朝鮮は、日本を侵略しようと狙っている西と北の大国の手先であった。
 日本の祖国防衛戦争とは、西の大国・中華帝国と北の大国・ロシア(ソ連共産主義勢力)そして日本侵略を企む大国の手先となった朝鮮との戦争でった。
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 アイヌ人は、平和な民ではなく戦闘の民である。
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 2018年 サイエイムック 時空旅人別冊
 第二章 今こそ見つめたい 北海道の歴史とアイヌ民族 相庭泰志
 B.C.2万5000〜A.D.1200年頃
 古代から連綿とつながる人々の営み
 旧石器時代から古代国家へ・・・
 アイヌへの道をたどる
 北海道にはいったいいつから人が住み始めたのだろうか。
 それらの人々が携えていた文化とは何か。アイヌ民族の源流はどこにあるのか。そして、アイヌ民族に与えた和人の影響を解く。
 縄文時代から現代まで続く人の歴史
 1889年(明治2)、北海道本島の開発に着手し始めた明治政府は、この地を〝北海道〟と名付けた。しかしこうした開拓史観は、先住民族であるアイヌを無意識に捨象(しゃしょう)してしまう可能性がある。アイヌの人々はこの土地をアイヌモシリ(人間の大地)と呼んで独自の文化を築いて生きてきた。そこに和人とは異なる文化が存在し、現在日本史とされている歴史がひとつの側面でしかないことを示唆している。
 北海道本島は日本列島の北限にあり、本州との間に海峡があるため異なる歴史の変遷をたどってきた。
 そもそも北海道に人が住み始めたのは2万5000年以上前のことで、陸続きだったサハリンや大陸などから獲物を追って人々が移住して来たとされる。そして旧石器、縄文、続縄文文化を経て、7〜8世紀頃に成立したのが擦文(さつもん)文化と呼ばれるものだ。これは本州の土師器などに影響を受けた擦文式土器を使用したのが特徴で、北海道全域、東北北部を文化圏としていた。本州との交易も活発に行われ、サケやマス類、禽獣の羽毛などの獲得が行われたという。また鉄器の流入なども生活に大きな影響を与えただろう。また、それと並行して存在したのがオホーツク海沿岸から千島列島にかけて展開したオホーツク文化。ロシアのアムール川流域などを出自とする民族が担ったといわれ、彼らは縄文とは異なる刻文などの文様がつけられた土器を使っていた。そしてその後13世紀から14世紀に伝統的なアイヌ文化とされる社会が成立したとされる。
 アイヌ民族がいつ、どこから来たのかといった議論があるが、それぞれの時代を担った人々は連綿としてつながっている。そして当時、北海道における大規模な人の移動、交替は確認されていない。つまり縄文文化からの担い手が、何らかの形で現在のアイヌ民族につながっていると考えられている。
 A.D.1200〜A.D.1500年頃
 中世の北海道とアイヌ
 アイヌ民族と中世国家が入り交じり時代
 伝統的なアイヌ文化が形成され始め、和人との交易が活発になると、主導権をめぐる争いの火種がくすぶり始める。
 アイヌと和人の交易その活発化と争い
 今日における伝統的なアイヌ文化とされる生活や社会、それらを取り巻く信仰などが形作られた時期が、13世紀から14世紀頃といわれる。本州の歴史でいえば鎌倉・室町時代にあたるが『新羅之記録』には源頼朝に追われた藤原泰衡配下の者たちが蝦夷地に逃れ、その一部がアイヌになったとも記されている。また『諏訪大明神絵詞(えことば)』によると14世紀の蝦夷には、日の本・唐子・渡党(わたりとう)の3つの集団がいたとある。渡党は箱館方面の蝦夷地南部に住んで和人を差し、日の本と唐子はアイヌのことだという。鎌倉時代以前にも和人が蝦夷を訪れたことはあるだろうが、鎌倉以降になって、その移動が活発化したといえるのではないだろうか。
 さて当時からアイヌ民族は盛んに交易を行っていた。その交易上の揉めごとで、アムール川流域まで勢力を伸ばして元(げん)と戦闘状態に陥った記録が残っている。アイヌ民族がもたらす製品は主にクマやシカ皮、ラッコの毛皮、昆布や干しサケなどの海産物。それを米や酒などと交換した。交易の恩恵は渡島(おしま)半島周辺に住む和人だけでなく津軽海峡を隔てた和人の勢力をも潤していく。
 そこに起こったのが1457年(康正3)のアイヌと和人の最初の戦い・コシャマインの戦い。志海苔(しのり)にある鍛冶屋がアイヌを殺したのが発端で、首長コシャマインに率いられたアイヌ勢が、渡島半島に和人の小豪族が築いた館・道南12館のうち10館を攻略。しかし勝山館の館主で蠣崎氏の客将・武田信広コシャマイン父子を殺害し、戦いを収束させる。武田は後に勝山館の館主となり、蝦夷地の支配者へ上り詰めて行くが、この頃からアイヌと和人には交易の主導権を巡る争いがあった。

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増補版 北海道の歴史がわかる本

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近世北日本の生活世界: 北に向かう人々

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