🎵19:─1─エルトゥールル号。朝鮮の反日謀略。アメリカの仲介による尖閣諸島領有。米西戦争。ハワイ王家消滅。1890年~No.39No.40 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 司馬遼太郎「日本人と中国の関係ですが、昔々から日本は、中国の現実を理解するという関心の示しか方をせず、むしろそのある部分を理想化し、尊敬しっ放しで来たわけですね。日本人の漢文的世界は、そういうものでしょう。私などでも漢文的世界の中国と現実の中国は、あれは別々のものやと思っている。現実の中国のほうは、日本人にとって判りにくい民族という事になっている。
 例えばアメリカ人の方が、日本人にとってずっと判りやすいところがあって、つまりアメリカ人というのは、ボタンを三つほど押せば答えが出てくるような、そういう平明さがあるように思われる。
 ところが中国と中国人は違う。新生中国になった時、これで中国人も単純化した、マルキシズムの窓を通しさえすれば毛沢東も中国も理解できると思ったが、とてもそういうものではない。
 こうなると、日本人にとってヘタに中国を理解しようと思う姿勢を取らない方がかえって便利の様に思えてきますよ。日本という場所から見ると、どうも中国はそうですね」
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 伊藤博文らは、不平等条約改正とロシア帝国の侵略に対抗する為に軍備を強化すべく、欧米列強諸国から多数の著名な学者を高給で招聘し、文明開化、地租改正、殖産興業を急いだ。
 日本は、祖国を守る為に、外国と戦争ができる国になり、外国の軍隊に勝てる強い軍隊を持つ必要があった。
 日本が生き残るには、富国強兵を推し進めるしかなかった。
 兵力確保の為には、徴兵制度は欠かせなかった。
 戦争を嫌がる人々は、徴兵制度を拒否した。
 山県有朋は、清国は世界的な大国で国力は日本よ強大である為に、真面に戦って勝てる相手ではないし、主敵であるロシア帝国との決戦に備える事が急務であるとして。
 日本、清国、ロシア帝国など如何なる国も手をださいように、朝鮮半島永世中立国化するべく水面下で外交交渉を進めた。
 だが。李氏朝鮮は、日本潰しとして、清国やロシア帝国朝鮮半島に引き込む反日行動を活発化させた。 
 招聘された外国人、1890年代総計2,690人。イギリス、1,127人。アメリカ、414人。フランス、333人。ドイツ、215人。オランダ、99人。
 アメリカは、オーレス・ケプロン農務省長官や財政の専門家である弁護士のエラスムス・スミスやマサチューセッツ農科大学長ウィリアム・クラーク博士など超大物を日本に送り込んでいた。
 前近代的な朝鮮は、急速に西欧化する日本を野蛮国と軽蔑し差別し、儒教価値観の筋目正しい教養を守る為に宗主国・清国(中国)と共同して日本と敵対した。
 ロシア帝国は、日本に対抗する為に朝鮮に接近し始めていたが、最終的には朝鮮も日本同様に領土とするか属国化する事を狙っていた。
 日本は、仮想敵国朝鮮を通じて清国(中国)やロシア帝国と対峙していた。
 日本政府は、弱肉強食の帝国主義時代に、独力で天皇と国家と国民を守る為に外国人顧問らの助言を真摯に聞き指導を受けて生真面目に国家建設を急いだ。
 清国は、自力による努力を怠り、賄賂を取って外国人に任せた。
 朝鮮は、儒教価値観による旧態依然の属国生活に固執し、近代化はおろか、中華帝国からの独立して自立する意志は皆無であった。
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 宮廷顧問オットマル・モールは、京都御所を見学し、日本家屋の緻密にして優雅、ケバケバしい嫌みな装飾に素朴にして心温まる清涼感を感じて感動した。
 多くの西洋建築家は、不格好で不潔きわまりない中国建築に比べて、日本建築の自然風土に合った調和がとれた完成度に感激した。
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 日本に於いて『孫子』が盛んに読まれ研究されたのは、戦国時代と幕末から日露戦争までであった。
 日清戦争日露戦争は、『孫子』を熟読した政治家や軍人がいたからこそ勝ち得た戦いであった。
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 1890(明治23)年9月16日未明 トルコ軍艦エルトゥールル号日本郵船武蔵丸と頼信丸は、熊野灘で台風に巻き込まれ難破した。
 紀伊大島樫野(現・串本町)の貧しい村人達は、暴雨風で危険と知りながら遭難したトルコ人船員69人を救助し、自分たちの着物や非常用に蓄えていた食糧を惜しみなく提供し、献身的に看護した。
 村人は、犠牲者となった500人以上の御霊を弔い為に慰霊碑を建て、清掃し供養を続けた。
 困っている者は身の危険を顧みず助けるというのが、日本民族日本人の真の姿である。
 それは、日本民族日本人にとって「当たり前の事」であった。
 日本民族日本人は、好戦的でもなければ、冷血に人殺しを好む殺人鬼でもなかった。 
 トルコ人はこの時から親日派として天皇を尊敬したが、西洋礼賛主義の日本人はキリスト教徒白人ではないイスラム教徒トルコ人を軽蔑し差別した。
 オスマン・トルコ政府は、遭難者の治療に当たった医師3名に「治療代を払う」事を申し込んだ。
 医師達は、「お金は要りません、目の前に困っている人がいたら、手を差し伸べただけです。もしもお金があるなら、遺族の方々の為に使って欲しい」との返事を出して辞退した。
 日本民族日本人は、金も為ではなく、志や心意気で自己犠牲的に遭難者を助けた。
 それは、一銭の徳にもならない「まごころ」「惻隠の情」「やむにやまれぬ心」であった。
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 トルコ「その昔、アジアの中心に住んでいたのがトルコ人と日本人で、そこから西に向かったのがトルコ人。東に向かったのが日本人。だからトルコ人と日本人は兄弟なのさ」
 ネジアティ・ウトカン駐日大使「エルトゥールル号の事件について、大島の人達や日本人がしてくださった献身的な救援活動を今でもトルコの国民は忘れていません。私も子供のころ歴史の教科書で習いました」
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 マハン海軍大佐は、『海上権力史論』を刊行した。
 セオドア・ルーズベルトは、カリブ海と太平洋を「アメリカの湖」にするべく海軍力増強とパナマ運河建設を訴えた。
 アメリカ産業は、ワシントンに対して、3億人の人口を持つ中国への進出を希望した。
 アメリカ政府は、太平洋の中央に位置するハワイ王国の併合を画策し始めた。
 日本政府は、ハワイ王国を支援するべく、多くの日本人を移住させ、度々軍艦を派遣して米国を牽制した。
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 1891年 貴族院谷干城ら消極的専守防衛派74人は、山県有朋が進める国外に出て敵を殲滅するという積極的専守防衛構想を潰す為に、軍事費を大幅に削減して残りを減税に回す建議案を提出した。
 陸軍部内にも、日本の国力では清国やロシアの軍隊を国外で迎え撃つだけの軍隊は建設する事は空想的理想であり、現実的には敵を国内に引き込んで有利な山野の地形を利用して殲滅する方が賢明である、という考えが存在していた。
 国内に敵の大軍を引き入れる以上、戦闘で若干の自国民に被害が出るのはやむを得ないと割り切っていた。
 参謀本部次長の小沢武雄中将は、山県有朋が強引に推し進めている参謀本部権限と憲兵隊の強化等の軍制改革は、政府の軍統制が利かなくなり軍部の暴走につながる恐れがあるとして、軍事機密を公にして消極的専守防衛派を支持した。
 山県有朋は、積極的専守防衛構想を推し進める為に貴族院議員に圧力を加えて、97対78で内政優先建議案を否決させた。
 そして、敵国・ロシアと仮想敵国・清国(中国)の侵略から日本を守る為に国外に出て戦うという積極的専守防衛構想で陸軍を統一する為に、外征に反対な小沢武雄を軍機を部外に漏洩させた罪で中将の地位を剥奪して追放し、同時に反山県派を一掃した。  山県有朋は、陸軍内で絶対権力を握り、外征可能な軍隊造りにまい進した。
 この時、日本は軍事国家への道を踏み出した。
 大江志乃夫「陸軍は、山県有朋という人物が結成した単一の派閥が支配する陸軍となった。山県に反対の意見の持主は、陸軍の軍人として生活することができなくなった」(『日本の参謀本部』)
 ロシア帝国は、アジア侵略の為に、フランスの金融資本から巨額な融資を受けてシベリア鉄道の敷設工事を着工した。
 完成予定は1901年で、1904年には全線を開通させる計画であった。
 日本は、シベリア鉄道の完成によって極東ロシア軍が増強される事は、祖国存亡の危機と恐怖した。
 シベリア鉄道が完成される前に、朝鮮半島問題を解決する必要があった。
 切羽詰まっている日本には、清国、朝鮮と話し合いで問題を解決するによる平和外交を続けている余裕がなかった。
 弱小国日本にとって、清国もロシア帝国も世界的な軍事大国であった。
 新興国日本は、自主独立を守る為に死ぬ気で戦うか、無謀な戦いを避け属国として惨めに生き長らえるか、選択肢はその二者択一しかなかった。
 もし。大国の軍事力に戦わずして降伏すれば、日本はイギリス、フランス、アメリカの軍事力で分割され植民地として消滅したかもしれない。
 そして。改宗が行われ、日本人はキリスト教徒となり、日本文化は消滅し、公の場での日本語は禁止されたことであろう。
 5月11日 大津事件ギリシャ王国ゲオルギオス王子と有栖川宮威仁(たけひと)が乗る人力車は、ニコライ皇太子が乗る人力車の後を走っていた。
 ゲオルギオス王子は、逃げるニコライ皇太子に襲い掛かる津田三蔵巡査に対して、追いかけて背後から京都で購入した竹の杖で強打した。
 他の巡査達は、ひるんだ津田巡査を取り押さえた。
 5月20日夜 畠山勇子自裁。畠山勇子は、ニコライ皇太子遭難事件で両国が戦争にならい事を願って、京都府庁前で命を断った。
 7月〜8月 定遠鎮遠の二大戦艦を主力とした清国北洋艦隊は、日本への親善巡航として長崎と神戸に寄港して横浜に入港した。
 それに比べて日本海軍の軍艦は見劣りするほどに小さかった為に、見物に来た日本人は軍事力の差に度胆を抜かれ、中国との国力差を目の当たりにした。
 大国・清国が意図した小国・日本への威嚇的な示威行動は、成功した。
 清国は、アジアの主宰者という面子から、日本の朝鮮進出を阻止するべく、日本との戦争を念頭に置いて、日本に恫喝を加えていた。
 日本は、ロシア帝国の侵略から祖国を防衛する前に、清国の侵略を阻止する必要があった。
 サムライ気質の日本人は、相手が自分より弱ければ勝てるという慢心から気が抜けて戦意を失うが、自分より強ければ強い程に必ず勝ってみせるという必勝の気合いで奮い立った。
 悪名高い、日本軍国主義の端緒である。
 清国の大国としての傲慢さが、気弱になっていた日本人に国防意識を強めた。
 こうして、両国は日清戦争へと突入していった。
 日清戦争は、日本にとって安全保障上の負けられない自衛戦争であり、中国にとっては面子に拘わる傲慢な侵略戦争であった。
 司馬遼太郎「この朝野の衝撃が、日本海軍省にとって建艦予算をとる仕事を容易にした。議会はそのぼう大な海軍拡張費に対し大いにしぶりはしたが、政府は天皇を動かしたり、世論を喚起したりさまざまないきさつを経て海軍拡張計画を実行していった」(『坂の上の雲』)
 10月28日 濃尾地震(美濃・尾張地震)。全壊家屋14万2,177棟。死者7,273人。負傷者1万7,175人。
 「岐阜 なくなる」
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 1891年 二宮忠八は、日本で初めて動力つき模型飛行実験に成功した。
 1892年 二宮忠八は、ゴム動力による「模型飛行器」を製作し、軍用として「飛行器」の実用化へ繋げる申請を陸軍に二度行なったが理解されなかった。独自で、人間が乗れる実機の開発を目指したが完成にはいらなかった。
、英国王立航空協会は、1954年に、自国の展示場に忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介した。
 二宮忠八は、平成9年に祭神として飛行神社に祀られた。
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 1892年 廃藩置県以降、13年間で県令(県知事)が7名代わったが沖縄の近代化は遅々として進まなかった。
 サンフランシスコの各新聞は、一斉に反日記事を掲載し、日本人排斥運動を煽った。
 デニス・キアニー「我々がせっかく支那人を追い出したと思ったら、金儲けに目がくらんだ連中は、またぞろ新しいアジア人労働奴隷者を連れてきやがった。そいつらの名はジャップだ。奴らはぞろぞろとこの土地に来て、我々白人の職場を奪い始めた。……ジャップを叩き出せ!」
 7月 宮中顧問官の奈良原繁が、新たに県令として着任した。
 奈良原県令は、沖縄の近代化の為に、強権を持って地元の反対を無視して農地解放と近代的教育制度の導入と産業インフラ整備を断行した。
 白党は、沖縄を本土並みに近代化するべく奈良原県令に協力し、1908年7月に那覇・奥武山公園に銅像を建て、尖閣諸島の最高峰を奈良原岳と命名した。
 小学校就学率は、着任時に18%弱であったが1908年の離任時には93%となっていた。
 儒教教育を神聖化していた支那党は、近代教育に猛反対し、沖縄を中国領にするべく密かに清国と連絡を取り合っていた。
 土地を独占する地主層を支持母体とする黒党も、特権を奪い天皇制度を押し付けてくる「やまとんちゅ」(大和の人、本土の人間)に対して反発し、「うちなんちゅ」の意地とした抵抗した。
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 1893(明治26)年 参謀本部は、国防の参考にするべく、実証主義歴史学を導入し都合の良い心地の良い英雄譚的物語を排して合戦史を研究し『日本戦史』を刊行した。
 清国は、日本政府に対して、遭難して漂着した熊本県在住の井澤弥喜太ら3名を地方官が保護した事を知らせる書簡を送った。
 井澤らは、アホウドリ捕獲の為に、石垣島から無人島の「胡馬島(尖閣諸島)」に向かう途中で遭難し、清国沿岸に漂着した事が書かれていた。
 日本は、返書を送り、連絡を取り合って井澤らの身柄引き取った。
 この時。清国は、行政区の領域を台湾北端までとし、無人島である尖閣諸島を領土と見なしていなかった。
 つまり、何処も自国の領土と見なさない無主地であった。
 明国な定めた領域は、15世紀中頃に作製して『大明一統志』では海岸までとして広東省海南島以外の尖閣諸島などの島嶼は領土外とし、17世紀初頭の『皇明実録』では台湾の馬祖列島は領土として尖閣諸島は領土の外とした。
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 ハワイ王国は、国際法が認める所の自主独立国であった。
 西欧列強は、ハワイ王国と外交関係を持ち、ホノルルに公使館を置いていた。
 1月 ハワイ王国のリリウオカラニ女王は、普通選挙を実施するにあたって憲法を改正し、高額納税者だけに許されていた選挙権を全島民に与えると発表した。
 高額納税者の大半がアメリカ系移住者であっただけに、大地主もしくは会社経営者としての既得権益が奪われるとして恐怖し、アメリカ人の利益を守るようにアメリカ政府に支援を要請した。
 彼らは、白人の都合のみを優先して、ハワイ島民の権利や利益など眼中になかった。自分の取り分を多くして、非白人の取り分を無くす事しか考えていなかった。
 スティーブン公使「血に飢えた淫乱な女王が、独裁政治を復活させた」
 アメリカ政府は、自国民保護を名目として、戦艦ボストンを急行させた。
 以前。ハワイ国王は、日本と明治天皇に対して、アメリカの西方侵出に対抗する為に両国が共同して立ち向かうという提案を行った。
 だが。軍事力のなかった当時の日本は、ハワイ王家と皇室の姻戚関係を持つ事を拒否し、アメリカを敵にしてハワイ王国守る決断ができなかった。
 日本政府は、以前とは違って、ハワイを併呑しようとしているアメリカの暴挙に脅威を感じ、日本移民を現地保護する事を名分として、巡洋艦浪速と金剛の二艦をハワイに派遣した。
 11月4日 軍艦浪速は、ハワイの日本人居留民を保護する為にホノルルに碇泊した。
 東郷平八郎山階宮
 浪速の艦長東郷平八郎は、抗議の意志を示す為に、両艦で戦艦ボストンを挟む形で停泊した。
 東郷平八郎「武力で、ハワイ王政を倒す暴挙が進行している。我々は危険に晒された無辜の市民の安全と保護にあたる」
 アメリカ軍は、海兵隊150名で王宮を包囲し、威嚇してリリオカラニ女王を退位させた。
 アメリカ系移住者は、民主主義的手法でサンフォード・ドールを初代の大統領に選出した。
 ハワイ共和国が成立して、ハワイ王朝は消滅した。
 民主党政府は、現地の行動を「あまりにも不道徳」と容認せず。
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 6月10日 サンフランシスコ市教育委員会は、日本人排斥市民運動の圧力を受けて、日本人児童を中国人学校に編入させる人種隔離条例を決議した。
 サンフランシスコ領事の珍田捨巳は、日本人移住者の権利を守る為に厳しく抗議し、隔離条例を撤回させた。
 人種差別の市職員内で、日本側の抗議によって決定が覆った事に対する不満が起きた。 日米関係。特に市民レベルでの両国関係は、宗教的人種差別でさらに悪化し始めた。
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 1894年 浪速艦長東郷平八郎は、ホノルルに入港した。
 ドール大統領は、共和国建国一周年を祝う祝砲をホノルル港に停泊している全ての軍艦に要請した。
 古武士的な東郷平八郎は、小国を意のままに翻弄して消滅させる大国の横暴に義憤を感じ、祝砲要請を拒絶した。
 天皇制度国家日本は、アジアのちっぽけな小国で軍事力が貧弱であっても、道理が通らぬ大国の横暴には従わず、意地でも道理を通した。
 ハワイ共和国は、報復として、日本移民の帰化を拒否した。
 アメリカは、ハワイをアメリカ化する為に、民族固有の言語を禁止して英語のみを強制し、キリスト教に改宗させて土着宗教を捨てさせ、文化風習をすべてアメリカ風に改めさせた。
 理想主義により、アメリカ流儀を唯一の絶対ルールとして強要した。
 セオドア・ルーズベルトは、大国アメリカに恥をかかせ、アメリカ人の名誉を傷付け、アメリカ政府の威信を汚した、異教徒にして非白人の日本を憎んだ。
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 国防に関して、「想定外」という言い訳は通用しない。
 仮想敵国との戦争を想定して作戦を立て軍隊の準備をする以上、敵の攻撃を想定して日頃から備えるべきもので、敵の攻撃が奇襲であろうと騙し討ちであろうと被害を出した政府と軍隊は自国民に対して重い責任がある。
 政府と軍隊は、油断して被害を出したことに対して敵にその責任を転嫁する事は恥である。
 この時の朝鮮は、国防を疎かにした失策は自業自得で、同情の余地はない。
 非難するは、攻めてきた日本軍ではなく、日本軍を撃退できなかった自国の政府と軍隊である。
 自国批判をせず日本批判を続ける韓国は、政治・外交・軍事が理解できない子供の国であって大人の国ではない。
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 6月25日 ロシア帝国アメリカ・イギリス・フランスは、日清両国に朝鮮からの撤兵を勧告した。
 7月9日 日清両国は、撤兵要請を拒否した。
 アメリカは、警告を発した。
 日清戦争は、西洋列強の反対の中で行われた。
 陸奥宗光「肌に粟を生ずるほどの恐怖」
 陸奧宗光夫人・亮子は、新橋にあった柏屋の芸妓で、旗本・金田淡路守の娘であった。
 外国の外交官達は、芸妓にまで落ちぶれた過去を持っていても、美貌と聡明さを褒め称えた。
 アーネスト・サトウ「若くて大変な美人で、涼しい眼と素晴らしい眉」
 西洋では高給コールガールとして忌み嫌われた芸妓や芸者を為ていた女性が、明治の元勲の妻女におさまり、夫の傍らで政治や外交の話を聞き、時には相談相手になって助言をしていた。
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 内村鑑三「吾は信ず、日清戦争は吾人にとりては実に義戦なり」
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 日本の軍部は、戦闘時及び占領後においても国際法を厳守する為に法務官を各軍司令部に配属し、各国軍隊に日本軍の武威を知らせる為に観戦武官の参加を認め、作戦及び戦闘にに邪魔にならない範囲での各国新聞記者の取材を許していた。
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 7月25日 豊島沖の海戦。清国軍艦・済遠が、日本艦艇を砲撃して始まった。
 小国日本は、戦艦を一隻も持たない脆弱な軍事で、陸軍兵力も36万人しかなかった。
 清国は、アジア一で最大の海軍を持ち、陸軍兵力も130万人以上あった。
 沖縄の支那党と中国系琉球人は、「清国勝利、日本敗北」を喧伝し、神社仏閣に詣でて清国の勝利を祈った。
 白党は、沖縄を中国から守る為に支那党と衝突して乱闘事件を起こしていた。
 奈良原知事は、国防の為に、沖縄中学で特別軍事教練を命じたが、沖縄県民は戦闘に耐えられないとして徴兵は見送られた。
 支那党は、清国に忠誠心を見せる為に沖縄防衛の為の軍事教練に猛反対し、沖縄に侵攻してくる清国軍の為に協力者を募っていた。
 移住してきた本土人や離島人らは、清国に味方する中国系琉球人らから身を守る為に自警団を組織し、家族を本島中部の山間部に疎開させた。
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 フランスの国際法学会会長は、日清戦争は祖国防衛戦争であり、その戦い振りについて「日本ほど国際法をよく守って戦争した国はない」と正しく評価した。
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 8月1日(〜95年4月) 日清戦争
 陸軍兵力の輸送は、海軍ではなく陸軍の任務であった。
 海軍は、陸軍からの輸送船護衛要請があった時のみに艦艇を派遣した。
 陸軍省外局の輸送部は、部隊と軍需物資の輸送任務を担当させる為に広島宇品に輸送通信支局を開設した。
 イギリスは、中国市場に、日本を含む諸外国が参入してくる事は利益が減少するとして警戒した。その為に、清国が現状のままある事を望み、混乱を招くような変革や改革を嫌った。
 朝鮮問題で日本と清国の対立が激化するや、清国に有利になる様に、アメリカとロシア帝国の三国で両国に対して平和的解決を要請した。
 欧米列強は、小国の日本よりも大国の清国に恩を売り、より多くの金儲けを考えていた。
 戦争が勃発するや、イギリスは、両国に対して戦火を上海地域などに拡大しない事を条件に、厳正中立を宣言した。
 フランスも、戦闘地域の限定を条件として中立を表明した。
 イギリスは、日本軍が優勢になるまで、中立を装いながら清国に有利に協力していた。
 イギリス軍は、対露戦略として、軍事力の脆弱な小国日本より、ロシア帝国と友好関係にある軍事大国の清国・中国の切り崩しに力を入れていた。
 イギリス海軍支那艦隊は、本国政府の指示に従って、極秘に日本艦隊の情報を清国艦隊に通報していた。
 民間のイギリス商船は、イギリス外務省の内意を受け、イギリス国旗を掲げて清国軍兵士や戦略物資を朝鮮半島に送っていた。
 清国内では、日本との戦争以上に熾烈な権力闘争が行われ、満州大臣や漢族将軍らは日本との戦争は李鴻章の私兵による私闘という見方が支配的であった。その為に、世界トップクラスとされた正規軍は動かなかった。
 欧米諸国のユダヤ系報道機関は、清国に同情的な報道を繰り返し、世論を反日に誘導していた。
 反日的なアメリカ新聞記者は、戦場特派員として、清国兵士の強盗まがいの残虐行為を隠蔽する為に、清国兵や朝鮮人から日本に対する罵詈雑言を聞き出し、日本軍による虐殺などの捏造記事を欧米諸国の報道機関に送りつけていた。
 自衛行為を主張する小国日本に理解を示す報道機関は、反日的国際世論の抗議を恐れて少数派であった。
 イギリスは、清国を破った新興国日本の実力を認めて、対露戦略のカードにする為に日本に接近した。
 康有為ら若手改革派は、欧米列強の関心が日本に移り、アジアにおける優位権を日本に認めさせては、清国の覇権の消失であり滅亡につながると警鐘を鳴らし、光緒帝に近代化の建白書を出した。
 そして、近代化に有害な儒教教育を停止して西洋の教育を導入すべきであると。
 古典を重視する儒教派官僚群は、西太后を動かして改革は潰しを行った。
 在野の知的読書人も、儒教軽視の近代化に猛反対した。
 若手革新派は、特権階級である有力宗族出身者であった為に人民の支持を得られず、救国の民族運動に発展させる事が出来ず失敗した。
 欧米諸国は、清国の正規軍が日本軍に負けたのではない軍事評価から、清国を依然とアジアの盟主と見なしていた。
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 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、黄禍論から、清国を降した日本が軍事力を付け事は、キリスト教価値観による神聖な世界秩序の脅威に成ると、ロシア皇帝ニコライ2世に訴えた。
 「ヨーロッパの人々よ。大事なものを取られないように気をつけろ」
 ヴィルヘルム2世の目論見は、世界進出戦略から、ロシア軍と対峙している西部戦線の軍事的脅威を軽減させ、大兵力のロシア軍を消耗させる為に、日本とロシア帝国の戦争を誘発させようとしていた。
 白人至上主義による人種差別で、日露戦争は不可避となった。
 キリスト教白人列強による植民地支配が、世界の常識であった。
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 9月17日 黄海海戦における日本海軍艦隊の知らせが伝えられるや、支那党や清国派は形勢不利として反日天皇活動を控えた。
 医師の孫文キリスト教徒)は、李鴻章に対して、中国を日本の様に欧米文化で近代化しなければ植民地となるとの建白書を出した。
 貧しい農家出身の孫文には、中国での知名度はなく、支援者も協力者もなかった。
 孫文とは、政治力・経済力・軍事力を一切持たない、西洋かぶれの口先だけの小物として全く相手にされていなかった。
 11月 ハワイで。孫文は、「清朝打倒」や「滅満興漢」を掲げて、秘密結社三合会の支援でナショナリズムの興中会を組織した。
 中国の正統政府である清国は、孫文を反逆者と指名手配し、その首に賞金をかけた。
 諸外国のチャイナ・タウンにある秘密結社は、同じ方言を話す者が互助組織として結成した組織(チャイニーズ・マフィア)で、犯罪組織として他の方言を話す秘密結社と離散集合しながら結社会員の利益を守っていた。
 アメリカや西洋列強植民地に移住した華僑の大半は、儒教的価値観を捨て、洗礼を受けてキリスト教徒になっていた。
 中国は、公用語として北京語(満州語訛りの華北語)はあったが、中国全土で共通する統一言語としての中国語は存在しない。
 中国言語とは、古典儒教で使用されている漢字を共通文字とする多言語的方言集合体言語である。
 方言が異なると外国語と同じで、同じ中国人でも話が通じない。
 ゆえに、中国には古代から民族主義は存在しなかった。
 孫文は、客家の大幹部鄭士良の口利きで客家から生活支援を得ながら各国を遊説して回り、行く先々のキリスト教会の厄介になっていた。
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 『近代日本戦争史』旅順攻防戦に於いて「趙・黄・衛の三将も逃亡し、部下の将兵は銀庫等を略奪し、造船所の官吏も貴重品を盗んで逃亡し、旅順市街は大混乱を生じた」
 「ある者は市民を装って逃走し、途中で日本軍兵站部隊をも襲撃した」
 中国人にしろ朝鮮人にしろ、責任ある将軍達は負けると見るや民間人の服に着替えて、部下を置き去りにして一番先に逃げ出した。
 中国軍兵士は、便衣隊(ゲリラ、スパイ、テロリスト)となって民間人を盾にして抵抗した。
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 アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスから従軍記者16名が、日本軍に随って戦場に入った。
 全ての従軍記者が日本に好意的な記事を書いたわけではない。
 アメリカのイエロージャーナリズム(事実より興味本位の記事を売り物ににする報道)は、販売部数を上げるべく日本に不利なセンセーショナルな記事を捏造して書き立てた。
 世界中を、「日本軍が虐殺を行っている」という悪意に満ちた捏造報道が駆け巡った。
 新聞、報道が真実を伝えるとは限らない。
 11月29日 アメリカのワールド紙は、「日本兵が民間人を殺害し、その手足を切断するなどして略奪も行った」という記事を掲載した。
 この虐殺記事は、太山巌司令官が率いる第二軍に属する第一師団混成第12旅団が旅順要塞を陥落させた際の捏造であった。
 現代まで伝わる、「旅順の虐殺」である。
 日本軍側の死傷者は、100余名であった。
 旅順港の住民は、戦闘が始まる前に逃げて町の中にはいなかった。
 清国軍兵士は、軍服を脱ぎすて平服に着替えて敗走するかゲリラを行おうとした。
 日本軍は、平服に着替えて反撃してくる敵兵をゲリラ=便衣隊として殺害した。
 欧米の戦場特派員は、ゲリラ殺害を日本軍の犯罪として告発した。
 各戦場で、清国軍は敗走するさい虐殺と略奪を行っていた。
 12月12日 ジェームズ・クリールマン記者は、「これは文明社会にとって戦慄すべき行為である」として、日本軍による大虐殺の模様を克明に記事を書いた。
 ジョーゼフ・ピュリッツァーのゴシップ紙ニューヨーク・ワールドは、部数を売る上げる為に、捏造された「旅順大虐殺」記事で反日キャンペーンを行った。
 「無防備・非武装の住民が自宅で殺害される」
 「死体は表現できないほど切り刻まれている」
 他の新聞紙や雑誌も、日本軍の残虐行為を誇張して報道した、世界中の読者が小国の日本を憎み大国の清国に同情した。
 日本政府は、国際世論を敵に回す事は国家存亡にかかわるとして、イギリスのセントラル・ニューズ社を通じてタイムズ紙に「日本軍大虐殺」の事実無根記事を掲載した。
 陸奧宗光外相も、クリールマン記事の信憑性に疑問を投げかける声明を出した。
 日本軍司令部は、国際法に違反しないように法律家を伴い、日本軍の戦いぶりを見て貰う為に各国の観戦武官を帯同していた。
 日本は、悪意に満ちたブラック・プロパガンダによっていとも簡単に反日世論が形成される事に肝を冷やし、国際世論を親日に誘導するように意図的にホワイト・プロパガンダを仕掛けた。
 彼らは、神国日本が西洋列強の植民地にならない為に、断腸の思いで幕府と薩長に別れて戦ったサムライ達であった。
 当時の日本は、現代の日本とは違って正しい事は言わなくとも知れ渡るとはう平和ぼけではなく、情報戦の厳しさを熟知していた。
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 ベルギー特命全権公使アルベール・ダネタン男爵は、旅順陥落の場にいたフランスの観戦武官ラブリ子爵から事実を直接聞いた。
 「殺されたのは軍服を脱いだ兵士達。婦女子が殺されたというのは真実ではない。ほとんどの住民は占領期に避難しており、町に残っていたのは兵士と工廠の職工だけだった」
 悪意を以て書かれた「日本軍による旅順虐殺記事」の嘘は、キリスト教徒でない非白人の日本人が幾ら弁明し無実を訴えた所で信用されなかったが、名声を得た高位高官の西洋人貴族が話す言葉は誰もが無条件で信用された。
 ダンネル公使は、本国に対して、悪意に満ちた捏造記事を信じて日本に不利な言動を取らないように文書を送った。
 ベルギー王国は、ヨーロッパに於ける数少ない親日国家として日本を擁護していた。
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 1895年 陸皓東の蜂起。反満州独立派は、上流階級が権力を乱用して富を独占し貧富の格差が開く事に不満を抱く中間層を煽って暴動を起こした。
 中間層は、賄賂や横領で金を貯め贅沢な生活を送っている古い権力者に対して、合法的不正のうま味を寄こせと訴えて独立運動に参加した。
 中国全体が近代化して豊かになるべきとか、漢族だけの新たな国家を建設するべきとは考えていなかった。
 中国人は、日本人の様に「国のため」とか「民族のため」とか「社会のため」とかで行動はしない。歴史的事実として、支配者が誰になってもかまわないと割り切っていた。
 中国人の唯一の関心は、国家の近代的変革ゆあ社会の民主主義的改革ではなく、同じ中国人以上の利益を得る事のみであり、同じ中国人との貧富の格差が許せなかった。
 各地の犯罪組織である秘密結社は、アへン密売や人身売買などで大金を得るために独立運動に協力した。
 軍閥も、国民党も、中国共産党も、犯罪組織である秘密結社の支援を得た。
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 1月14日 日本政府は、国際法の「先占の原則」に従い、どの国も尖閣諸島を領有していないかを慎重に調査し、「無主の島」である事を確認した。
 国際的手続きに従い、尖閣諸島を日本領土と宣言し、沖縄の一部に編入した。
 交戦中の清朝は、日本の領有声明に抗議せず、台湾のみを中国の固有の領土であるとした。
 日本人は、日本領となった尖閣諸島に移りみ、鰹節工場を操業した。
 最盛期には、約250人の日本人が生活していた。
 中国は、尖閣諸島は日本領である事を認めていた為に、日本人が尖閣諸島で生活している事に対して抗議しなかった。 
 4月 下関条約
 日清戦争で日本が勝利するや、沖縄は日本領であるとされて領有問題は解決した。
 沖縄における日本化が急速に進んだが、支那党や黒党は少数派に転落したが反対勢力とし日本からの独立を目指していた。
 李鴻章は、「台湾割譲」を要求する伊藤博文に対して、3年おきに叛乱が起き、死に至る風土病が蔓延している流刑地である台湾を本気で求めるのかと確かめた。
 中国人は、伝統的大陸思考で台湾には興味が無かった。
 日本人にとっては、台湾は南方からの侵略を防ぐ南の砦であり、世界市場に出る為に確保すべき重要な海上交通路の拠点であった。
 日本は、台湾を植民地とは見なさず、悪政で台湾人を搾取せず、日本の延長とし同じ日本人として扱い、環境改善、教育充実、殖産興業に巨額の血税を投じた。
 日本軍は、台湾人に天皇と日本を守る為の志願を求め、軍事教練を施し、武器を与え、優秀な台湾人には将校への道を与えた。
 靖国神社には、志願兵及び徴用兵合わせて2万8,000柱が祀られている。
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 三国干渉。
 日本陸軍は、宿敵ロシア軍との戦いに勝てる軍隊作りに邁進した。
 軍国日本にとって、ロシア帝国との戦争は、江戸時代後期の北辺紛争からの避けられな運命であった。
 日露戦争は避けられた無謀な戦争という人間には、決して日本の歴史が理解できない歴史理解の無能者である。
 イタリアのマルコーニは、世界で初めて無線電信に成功した。
 世界中の軍関係者は、無線の重要性を認識して導入に動き出した。
 日本海軍の秋山真之らも、海上通信として有力な戦力になると注目した。
 ロシアの電気工学研究者ポポフが、独自の電鈴式無線電信機を開発した。
 4月 日本軍部は、情報(インテリジェンス)と兵站ロジスティクス)を戦略(ストラテジィ)に生かす為に、情報通信の確立に国の命運を賭けた。
 児玉次長は、陸軍省内に臨時台湾灯台電信建設部を新設して部長に就任し、大本営と大陸の戦地との連絡を迅速にする為の海底ケーブル敷設計画を実行した。
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 7月 台湾総督府(4月に開庁)は、清国によって漢族以外での読み書きを禁止されていた台湾人に、教育を施す為に国語(日本語)学校・芝山巌学堂を開校した。
 日本人支配を嫌う漢族は、匪賊となって暴動を起こし治安を悪化させていた。
 島内の日本人教師らは、匪賊が鎮圧されるまで日本軍が駐屯している町や沖縄に避難した。 
 芝山巌学堂の日本人教師6名は、武士道精神と教師の本分として、地元住民の避難要請を断り、自己犠牲の精神で命を賭けて学童教育を優先して留まった。
 「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」
 匪賊は、芝山巌学堂を襲撃して日本人教師6名を惨殺した。
 中国人には、人徳は通じない。
 中国において、人が善く人に慕われていようが、徳があって人に好かれていようが、人情が深く人に愛されていようが、助けにはならず見るも無残に虐殺される。
 台湾人は、自分達は不義理・無慈悲・非道な中国人ではないとして、惨殺された日本人教師に感謝して「六氏先生」の慰霊碑を建立した。
 そして、リップンチェイシン(日本精神)を学び、不寛容排他的中国文化を拒否した。
 当時の日本人は、政治家や官僚や学者から庶民に至るまで、世界情勢から物事の大局を見据え、祖国日本が進むべき進路を真剣に考え、そして命を捨てる覚悟で行動していた。





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