🎵31:─2─日本陸軍諜報機関は、レーニンら共産主義革命家を財政支援した。日本右翼は孫文の中国革命同盟会に協力した。1905年~No.77No.78 @  

国家と革命 (講談社学術文庫)

国家と革命 (講談社学術文庫)

  • 作者:レーニン
  • 発売日: 2011/12/13
  • メディア: 文庫
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 アルバート・アインシュタインは、「特殊相対性理論」を発表した。
 どんな速度で光を追いかけようと、光の速度は減る事がなく、光はつねに秒速30万キロで遠ざかっていく、つまり、光が止まって見える事はありえない。
 光速は、自然界の最高速度であり、何物も決して光速を越える事はできない。
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 満州は、満州族の故郷で漢族の地ではなかった。
 清王朝は、祖先の地が漢族に奪われない為に、「封禁の地」として漢族の移住を厳罰を持って禁止した。
   ・   ・   ・   
 日露戦争
 東郷平八郎「よもやと思う所へも敵は来る」
 「日本魂は、又文明兵器の魂なり」
 秋山真之日本海海戦は最初の30分で勝負が決まった。しかし、その30分の為に10年の準備がいる」
 新渡戸稲造「刀を抜いたら、必ず勝たねばならない」
 ジョン・ラスキン「国家は戦争で栄え、平和で滅ぶ」
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 日本軍は、軍備増強と共に技術革新と通信網整備を行い、情報・宣伝戦で勝利した。
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 日本の政治家は、軍国主義者として国防の為に、国内のライフライン整備を犠牲にして軍備増強に巨額の予算を付けた。
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 日本は、侵略しようとしている軍事大国に取り囲まれている為に、国内外で非難中傷されても生き残る為に「已むに已まれず」軍国主義化した。
 日本の軍国主義は、袋叩きにされた。
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 1905年頃 ロンドン・タイムズ紙「わずか10年の間に台湾の人口は数十万人に増えた。イギリス、フランス、オランダも台湾を植民地としようと思えば出来たが、敢えてそうしなかったのは、彼の地が風土病と伝染病が蔓延する瘴癘の地だったからである。しかも、山奥の原住民はともかく、住民の大部分はシナから逃げてきた盗賊だ。
 台湾譲渡を決めた下関条約の全権大使、李鴻章は、『日本に大変なお荷物を押し付けてやった。いまに酷い目に会うから見ている』と内心ほくそ笑んでいた。
 ところが日本は大変な努力をして風土病を克服し、人口を飛躍的に伸ばした。西洋の植民地帝国は日本の成功を見習うべきである」
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 日本陸軍は、ポーランド独立派のユゼフ・ピウスツキの嘆願を受け入れ、国際法に従ってロシア軍内のポーランド人兵士捕虜を厚遇した。
 愛媛県松山に、ポーランド人捕虜がロシア人捕虜に虐待されないようにポーランド人だけの収容所を設置し、敵とは見なさず友人として所内の自主運営を認めて自由な行動を許した。
 松山におけるポーランド人専用の捕虜収容所の噂がロシア軍に伝わるや、ポーランド人兵士は「マツヤマ」と叫んで投降した。
 日本軍は、「マツヤマと叫んで投降する兵士を撃つ事無く捕虜として丁重に扱うように」との命令を全部隊に徹底させた。
 当時の日本軍は、投降して捕虜となる事は「恥」とは見なさなかった。
 日本人とポーランド人の間には、深い友情が生まれた。
 ポーランド人は、ロシア帝国に協力しようとした中国人や朝鮮人とは違って、祖国の独立の為に日本軍に協力していた。
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 1905年 日本は、アメリカに敵対する意志がない事を示すために、獲得した満州南部における門戸開放政策を維持すると伝えた。
 アメリカの小説家は、人種差別主義や優性主義から、日米戦争に関する近未来的戦争小説を発表した。
 ホーマー・リー『無知の勇気』(1909年)
 カリフォルニア州議会は、優秀な白人の純血に劣等な有色人種の血が混じる事を恐れて、日本人移民との婚姻を禁止する法律を定めた。
 ただし。男系至上主義から、白人男性が、日本人女性と結婚せず妾・愛人として囲い私生児を生ませる事は認めた。
 南部諸州では。白人地主が、黒人女性に私生児を産ませる事が度々起きていた。
 逆に。黒人男性が、白人女性と性交渉を持ったときは重罪として、リンチ的に縛り首にされた。
 絞首刑は、犯罪者に対するリンチ的処刑方法であり、名誉も尊厳も一切なかった。
 イギリスがベンガル分割令を発布するや、インドにおける独立運動が激しくなった。
 過激な独立派であるビハリ・ボースは、インド総督の暗殺に失敗して日本に逃亡した。
 アジアの解放を掲る日本の右翼は、日英同盟を無視して、ビハリ・ボースを庇い、インド独立運動を支援した。
 イギリスは、ロシア帝国の植民地インドへの侵入を阻止する為と、日本の右翼によるインド独立派への支援を止めさせる為に、日英同盟を結んだ。
 日英同盟の真の目的は、日本を中国特に満州に釘付けにしてインドや東南アジアに進出させない事であった。
 イギリスの対アジア戦略の最優先課題は、植民地インドの防衛であって中国における利権ではなかった。
 ロシア帝国の南下を阻止するべく、アフガンやチベットに支配を拡大して行った。
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 日本政府は、ロシア軍の侵攻から祖国を防衛する為に竹島を自国領であると宣言した。
 朝鮮政府は、ロシア帝国が日本軍を破り日本を占領すれば、竹島対馬も手に入れらると判断して、日本の竹島領有宣言に抗議しなかった。
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 1月1日 旅順攻囲戦。
 1月29日 中村覚「道すがら仇の屍(むくろ)に野の花を 一(ひと)もと折りて手向けつるかな」
{旅順に行く途中で、多くのロシア人兵士が亡くなっているのを見て、敵ではあるが冥福を祈って野の花を手向けた}
 旅順要塞陥落。
 日本軍 総兵力約5万1,000人。
 戦死者約1万5,400人。戦傷者約4万4,000人。
 ロシア軍(籠城戦開始時) 総兵力約6万3,000人。陸軍約4万4,000人。海軍約1万2,000人。その他約7,000人。
 戦死者約1万6,000人。戦傷者約3万人。
 イギリスの観戦武官イアン・ハミルトン大将は、イギリスが日本か学ぶべき点は兵士の忠誠心であると報告した。
 イギリス国防委員会「旅順の事例は今までと同様に、堡塁の攻防の成否は両軍の精神力によって決定される事を証明した。最後の決定は従来と同様に歩兵によってもたらされた……この旅順の戦いは英雄的な献身と卓越した勇気の事例として末永く伝えられるであろう」
 第一次世界大戦の 初期段階では日露戦争時の堡塁攻防戦は日本軍の戦法を参考に行われたが、中期以降では戦車や飛行機や毒ガスなどの新兵器の登場で日本軍の戦法は時代遅れとなった。
 レーニンは、日本軍が旅順要塞を陥落させた事に歓喜し、革命同志に日本人を見習って勇気を持って行動するように檄を飛ばした。
 「日本は戦争の主な目的を達した。進歩的な進んだアジアは、遅れた反動的なヨーロッパに取り返しのつかない打撃を与えた」
 「プロレタリアートの戦争の時期は近づいている」
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 2月23日 カリフォルニア州アイルランド系団体は、サンフランシスコ・クロニクル紙などを利用して反日キャンペーンを展開した。
 クロニクル紙「支那人はまだ良かった。真面目な労働者であり、土地を持とうなどとは考えなかった」
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 3月 東京のグリスコム公使は、日本側の内意としてアメリカに講和交渉の仲介を依頼しているとの情報を、ワシントンに極秘で知らせた。
 3月1日(〜10日) 奉天会戦
 日本軍総兵力24万9,800人。砲数990門。
 ロシア軍総兵力30万人。砲数1,200門。
 日本軍、戦死者1万6,553人、戦傷者5万人、捕虜404人。
 弾薬は欠乏し、追撃戦はもとより戦争継続は不可能となった。
 ロシア軍、戦死者8,705人、戦傷者5万人、捕虜を含む失踪者2万9,000人。
 兵力も弾薬も以前と豊富で、ヨーロッパから極東へ輸送していた。
 川上素一(石光真清に語る)「いつも戦線を巡って感じます事は、この様な戦闘は、命令や督戦では出来ないと言う事です。命令されなくても、教えられなくとも、兵士の1人一人が、勝たなければ国が滅びるという事を、ハッキリ知っていて、自分で死地に赴いております。この勝利は天佑でもなく、陛下の御稜威でもございません。兵士1人一人の力によるものであります」
 日本軍は、ロシア軍に辛勝しただけで、追撃戦を行うだけの余力はなく、反撃されれば全滅するしかなかった。
 日本の国力では、これ以上の戦争は不可能であった。
 カリフォルニア州議会は、ワシントンに「日本人排斥法案の成立を要請する」決議を全会一致、反対者なしで採択した。
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 春頃 孫文は、東京を訪れ、革命家・黄興の華興会と提携し、陶成章の光復会を加えて革命組織・中国革命同盟会(中国同盟会)を発足させた。
 日本に亡命していた中国人革命家は、右翼らアジア主義者の支援を受けていた。
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 5月 サンフランシスコで、人種差別の日本人排斥連盟が結成され、1年間で会員が7万人を越した。
 ワシントンに於いても。人種差別容認の南部諸州選出議員らを中心に、日本人排斥法案賛成派が急増した。
 下院軍事問題委員会「日本はロシアに勝利すれば、その勢いに乗ってフィリピンを狙い、アメリカに戦争を仕掛けてくる」
 5月6日 サンフランシスコ市教育委員会は、東洋人児童を隔離する事を決定したが、予算の都合で実施を見送った
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 5月27日・28日 日本海海戦。第三艦隊は、午前9時55分から午後1次50分まで、次からバルチック艦隊のと並走しながら情報を連合艦隊に通報していた。
 連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、国際的戦略家の勝敗予想を裏切ってバルチック艦隊を全滅させた。
 日本軍は、国際法に則り冷静に戦っていた。
 ロシア海軍石炭運送船イルティッシュ号は、日本海軍の追撃をかわして逃走を続けていたが諦めて日本に投降した。ゴムイセフ艦長以下船員235人は捕虜となり、捕虜になる事を恥とする敵国日本人にどの様な虐待を受けるか恐怖に脅えた。
 アルゼンチン海軍ガルシア「トラファルガー海戦はヨーロッパをナポレオンの支配から救い、日本海海戦はアジアをロシアの支配から救った」
 日本海軍は、1902年に日英同盟の見返りとして最高機密である新型無線電信機情報を手に入れ、翌03年に三四式を改良し高性能な三六無線電信機を完成さた。
 三六式無線電信機は、03年12月28日に駆逐艦以上の艦艇に搭載させ、朝鮮海峡に面した監視塔を初め台湾・沖縄・日本沿岸の陸上要地に装備した。
 これほどの広範囲にわたる無線・有線電信網を築いたのは、日本軍が初めてであった。
 日本軍は、ロシア帝国との戦争に勝利する為に、情報優位に立つべく必死に努力した。
 アーサー・セブロウスキー中将(アメリ海軍大学校長)「NCWの有用性を最初に大きな戦場で証明したのは、日露戦争における日本海海戦で勝利した日本海軍であり、勝利の要因は、情報・通信ネットワークの形成と無線通信機の適切な運用にある」(2000年10月 海上自衛隊幹部学校での「ネットワーク中心の戦争=NCW」の講義)
 日露戦争における日本軍の勝利は、世界初の無線と有線を活用した完璧な情報ネットワーク網を利用したからであると言われている。
 白人キリスト教徒の植民地に苦しむ非白人は、軍国主義日本人の活躍に勇気を与えられ、植民地支配からの独立に立ち上がった。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、日本の太平洋地域での影響力増加に危機感を抱き、パナマ運河の建設を急がせた。運河は、1914年に完成した。
 松山の俘虜収容所に、日本艦隊が日本海海戦で完勝した知らせが伝わるやポーランド人全員が「日本万歳」を叫んだ。
 日本は、世界に向かって国際人である事を知らしめる為に、如何なる時も国際法を尊重し、守ると不利になる可能性があっても我慢して遵守した。
 皇室は、皇道に基ずく「八紘一宇の精神」で、人を差別しないと言う事を国民に範を垂れる為に、私財を寄附し、敵味方関係なく平等に負傷者の治療に当たった。
 日本民族日本人は、皇室を信じ、皇室に倣い、皇室と共に行動した。
 だが。一部の日本人は、勝者の驕りとして御稜威や大御心を足蹴にして人種差別に走った。
 日本軍は、天皇の名誉を守り国の恥になる事を避けるべく、如何なる国の軍隊にも負けないように敵軍捕虜を人道的に収容していた。
 日本の努力によって、国際社会で文明人の一員と認められ、キリスト教列強に虐げられた人々の希望の星となった。
 非白人でも努力すれば白人を倒す事ができると証明されるや、白人不敗神話は神通力を失った。
 世界中で、人種差別の撤廃と民族の独立と人としての平等を求める運動が現実のものとして広がった。
 日露戦争とは、人類史上、奴隷解放に匹敵するほどの快挙である。
 同時に、世界を支配し富を独占する特権階層の憎しみを買い、神聖なる世界秩序を破壊する異教徒のならず者とされた。
 世界の情勢が読める一部の日本人は、個の利益の為に、彼等に阿諛追随して皇室と国家に不利益な行動を取り始めた。
 日本の悲劇は、この時から始まった。
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 ベルギーのダンネル公使は、世界に流されている「日本軍がロシア軍兵士を虐待している」という虚偽報道を否定し、日本人は排他的ではなくむしろ紳士的であると報告した。
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 日本は、祖国を守る為に戦死した日本人将兵の御魂を軍神として靖国神社に祀った。
 ロシア軍で戦死した日本人兵士は、約8万4,000人であった。
 明治天皇は、祭祀王として、国家元首として、大元帥として、靖国神社を御親拝された。
 御製(1904年)「たたかいに身をすつる人多きかな 老いたる親を 家にのこして」
 田山花袋「『今に豪(えら)くなるぞ、豪くならずにおかないぞ』かういふ声が常に私の内部から起つた。私はその石階を伝つて歩きながら、いつも英雄や豪傑のことを思つた。国のために身を捨てた父親の魂は、其処を通ると、近く私に迫つて来るような気がした」(『東京の三十年』)
 戦後。一部の日本人は、靖国神社を否定し、無宗教とした祭神も御霊も存在しない国立追悼施設を起てるべきであると主張している。
 中国と韓国・北朝鮮は、靖国神社を否定している。
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 5月31日 小村寿太郎外相は、正式に、アメリカに対して仲裁を申し込んだ。
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 6月6日 サンクトペテルブルクの駐露アメリカ大使マイヤーは、ワシントンの指示に従って、ロシア皇帝ニコライ2世に謁見して日本との講和交渉を始めるべきだと進めた。
 ニコライ2世は、和平交渉に入る事に同意した。
 6月9日 セオドア・ルーズベルト大統領は、日本の勢力拡大を抑える為に日露両国に公式に講和を勧告した。
 6月15日 清朝時代。上海商務印書館発行の地図『大清帝国全図』では、尖閣諸島の記載はない。
 清国にとって、台湾と違って無人島である尖閣諸島などには興味がなく、人が居なければ化外の地にも入らない岩礁に過ぎなかった。
 よって、尖閣諸島など領土でもなく、日本が領有を主張しても異議を申し立てる気もなかった。
 清国人は満州人であり遊牧民である為に、明国領でもなかった無人島などには関心がなかった。
 明国は、海禁陸禁政策を国是としていた為に、台湾を領土としていたが、尖閣諸島などは領土とはしていなかった。
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 7月8日 セオドア・ルーズベルト大統領は、伏見宮親王の訪米に答える為に、娘のアリスを親善特使として日本に送り出した。
 使節団には、タフト陸軍長官ら75名が参加していた。
 アメリカは、安全保障の面から、太平洋に於いて劣勢なうちは日本とも友好を保つ必要があった。
 タフト陸軍長官は、フィリピンの安全を確保する為に日本との協定を成立させるという特命を受けていた。
 7月24日 アリス親善使節一行は、横浜に到着した。
 日本は、日露戦争下で友好的態度を示すアメリカと、日露講和会議の仲介を果たしてくれたセオドア・ルーズベルト大統領への感謝から熱烈に歓迎した。
 7月27日 桂・タフト協定。アメリカは朝鮮に於ける日本の指導的立場を認め、日本はフィリピンに於けるアメリカの権利を認めた。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、朝鮮人には国家を統治する能力はないと認め、日本人が朝鮮を植民地として支配した方が好ましいと判断した。
 「桂首相に、君が話した事を私が全面的に了承していることを伝えて欲しい」
 他の欧州列強も、アメリカと同様の判断をし、極東アジアの平和の為に日本が朝鮮を併呑して領土とすべきであると考えていた。
 アメリカは、朝鮮が日本によって近代化され雇用が増えれば、日本人移民は朝鮮に流れると考えた。
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 ポーツマス講和会議は密室で行われ、交渉内容は公表される事がなかった。
 日本政府は、密室外交に徹して、日本に不利にな真実を国民には知らせなかった。
 当時の日本における外交能力は、現代日本以上に優れていたし、如何なる外圧にも屈する事がなかぅた。
 昔の日本人は、過去の歴史から祖先の知恵や経験を学び、今の知識と技術を総動員して将来おきる知れない危機的状況に備えた。
 現実を生きる者は、問題を先送りする事なく、今できる事に全力で取り組んだ。
 現代日本人は、架空の時代劇は好きだ、事実としての歴史は嫌いである。
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 日本はもちろんロシア帝国も、戦争する為に国際金融市場から、借金をして資金を調達していた。
 フランスの大蔵大臣が、高橋是清に使者を送り、賠償金問題に対してある提案をした。
 「フランス国民は、従来から巨額のロシア政府の公債に投資している。今日では日本の金にしてほとんど70億円くらいにも上っている。……もし日本が賠償金を取らずに講和をするというのであれば、フランスは日露両国の間に這入り、露西亜政府を促して講和をさせるようにしようと思うが貴君の意見はどうか」
 ロシア帝国内の主戦派は、戦争は完全な敗北ではなく、まだ戦える余力がある以上、賠償金を払うくらいなら戦争を続けるべきであると主張していた。
 それに反して、日本には戦う国力も兵力もなく、すでに海外に多額の借金をしており、さらに借金を増やす事は不可能であると、その現実を政府も軍部も知っていた。
 金がなければ戦争はできず、貧乏では戦えなかった。
 だが、賠償金を取らなければ国民世論が許さなかった。
 フランスとしては、ロシア帝国に莫大な金額を貸している以上は日本に負けて貰っては困るし、それにまして、負けを認めて賠償金を日本に払ってはロシア国債債務不履行に陥る可能性が高くなる。
 アメリカの仲介で講和会議が開かれた以上は成立する可能性が高い。
 国際金融資本家達は、ロシア国債の価値が暴落すると国際金融市場が大混乱する危険性があり、その混乱を防ぐ為には日本に賠償金要求を放棄させる事だと考えた。
 日本政府は、苦しい財政や軍隊等の事情を隠し、賠償金要求を主張する国民世論を無視して、賠償金を諦めて妥協した。
 高橋是清「日本が大いに譲って償金の要求を撤回し平和の解決を円満ならしめた事は、ロシアの主戦派を驚倒せしめたばかりでなく、欧米の識者や新聞紙は、日本の態度に対し、その智略、寛容、忍耐実に敬服のほかなしと口を極めて賞賛するに至った」
 人種差別が支配する世界は、文明なき未開な国家、教養なく猿まねをして喜んでいる野蛮な民族と、軽蔑して見下していた日本国と日本人を見直し、一様は国際常識で分別を持って行動する人間と認めた。
 だが。裏事情が理解できない日本国民は、賠償金を取れなかった事を非難する非政府系新聞に煽られて、戦争終結講和条約反対を叫んで大暴動を起こし、交番や政府系新聞社を襲撃した。
 政府は、説明責任を果たさず、問答無用で暴動を鎮圧する為に戒厳令を公布した。
 ロシア帝国、清国、李氏朝鮮は、賠償金要求で平和ではなく戦争継続を主張する日本国民の半狂乱を目の当たりにし、恐怖して傍観した。
 平和を勝ち取り維持するには、消極的な戦争反対ではなく、積極的な戦争する意思を見せつける事であった。
 それが、外交である。
 ジュリアス・シーザー「寛大と高邁さによりて己れ自身の力を支える事こそ、勝利をうる新しきやり方ならん」
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 ヘンリー・デニソンは、セオドア・ルーズベルトの日本を大国化しなという基本方針に従って、ロシア帝国から賠償金を得られない様に裏工作を行った。
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 セオドア・ルーズベルトは、日本をアジアの中程度国に封じ込めるべく、ロシアからの賠償金を断念させ、領土割譲を最小限度に押さえ込んだ。
 南満州鉄道の租借期限を25年契約とし、期限延長は清国政府と新たに行う事を日本に飲ませた。
 期限延長交渉は、1923年に袁世凱と行われた。
 それが、対華21ヶ条交渉であった。
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 8月9日 ハンプシャー州のポーツマスで、二国間交渉で日露交渉が始まった。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、アメリカは仲介者の立場を取って、交渉に直接参加せず、舞台裏で交渉がまとまる様に両国間の意見を調整した。
 日露交渉は、賠償問題と領地割譲で決裂の危機に陥った。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、ロシア皇帝ニコライ2世への説得をサンクトペテルブルクのマイヤー大使に、日本政府への圧力を東京のイギリス大使マクドナルドに依頼した。
 8月13日 孫文ら革命派は、東京・麹町の富士見楼に1,300人の集めて演説を行った。
 魯迅ら中国人留学生らは、孫文の演説に熱狂し、革命を指示した。 
 8月22日 セオドア・ルーズベルト大統領は、金子特使に賠償金要求の放棄と領土割譲の縮小を勧告した。
 8月23日 マイヤー大使は、ニコライ2世に謁見して説得した。
 ニコライ2世は、日本軍に占領された樺太の一部を割譲する事と、日本側に収容されているロシア軍兵士捕虜への経費として2,000万ドルの支払いに同意した。
 ロシア帝国は、皇帝の意志に従い、アジア進出拠点の旅順軍港と長春以南の南満州鉄道の権利を譲渡し、朝鮮に於ける日本の指導的立場を容認した。
 8月27日 マクドナルド大使は、桂首相と会談し、賠償金に拘ると交渉は決裂すると苦言を呈した。
 だが。日本の民意は、これ以上の継戦は不可能である事を知らされていなかった為に、戦勝国としての権利として賠償金と領土割譲を求めていた。
 軍部は、これ以上の戦闘は不可能であると政府に報告し、是が非でも交渉を成立させる様に要求した。
 朝鮮内の反日勢力は、日本が苦境にあるとみて反日活動を活発化させ始めめていた。
 欧米列強の軍事専門家は、日本の国力から日本軍はこれ以上戦えないと正確に分析していたが、日本国内の熱気が知れ渡るやは世界中に発信され、日本人を高望みをする「好戦的なモンキー」と呆れ果てた。
 8月28日 御前会議で、戦争を終結させる為に、賠償金を諦めるて交渉をまとめる事に決定した。
 8月29日 日露交渉は、妥結した。
 8月31日 鉄道王エドワード・ハリマンは、南満州鉄道への経営参加を申し込む為に日本を訪問し、政府要人や財界人と会談した。
 ジェイコブ・シフは、ロシア帝国内で迫害を受けているユダヤ人を助ける為に、ハリマンの地球交通網構想に多額の投資を行っていた。
 駐日アメリカ公使グリスコムは、両国関係の強化はもちろん、南満州鉄道の運営に於いても、ハリマン構想は考慮すべきであると説得して回った。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、満州市場への参入の為にハリマン構想を国家的大事業として全面的に支持していた。
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 9月5日 日本は、これ以上の戦争継続は不可能であるとしてポーツマス条約に調印した。日露戦争終結した。
 日本は、戦勝国の権利として樺太の南半分を獲得したが、これ以上の戦争を避ける為に賠償金要求を放棄した。
 スターリン「(日本は)暴力と貪欲によって略取した」
 千島列島は、日本の固有の領土であで、決してロシア帝国から奪ったわけではない。
 北方領土は、更に昔、江戸時代から日本の領土であった。
 柳田国男「いまの憲法は宗教の自由を認めている。けれども、国益に有害な宗教を認めない。その有害な宗教とはなにか。つまり幽冥教である。人間が死んだらあとでも魂は残るというように信じて生きた人は実際にいたし、かつての民衆が信じてきたということがあるとすれば、それは否定できない」(『幽冥談』)
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 日比谷公園焼き討ち事件。
 日本政府も小村寿太郎全権大使も、有利な条件で戦争を終結させる為の交渉を続けていた。
 交渉を有利に展開する為に、日本に不利な情報は極力隠し、戦争継続辞さずとの虚勢を張っていた。
 国と国民の命運をかけた外交交渉は、表からは見えない密室で、極秘裏で、知られてはまずい情報を武器として相手の腹を探り相手の裏をかく様にして行われる。
 表からは、本当の外交交渉は決して見えない。
 メディアや識者が、自国で手に入る情報を基にしてあれこれ詮索し、的外れの予想を立てて論ずる事は、交渉を妨害し、破綻させて、失敗させる。
 日本の新聞や雑誌は、日本政府や軍部が発表している偽情報を基にして国民を好戦的に煽っていた。
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 アメリカやイギリスなど西洋列強は、日本軍ロシア軍を撃破した事で非白人社会、特に植民地における異常な日本ブームと独立機運が起きた事に困惑した。
 日本が戦勝国の権利としてロシア帝国から賠償金と領土割譲を勝ち得た時、白人の植民地支配の崩壊につながると恐怖した。
 ゆえに。アメリカは、日本に対して賠償金及び領土割譲の要求を取り下げさせ、かって日本領であった樺太の南半分だけを与える事とした。
 非白人が、白人に勝利して、白人から橋賞金を取り、白人の土地を割譲させる事などは、あってはならない事であり、認めてはならい事であった。
 戦争に勝利した日本がロシア帝国から賠償金と領土を獲得できなかったのは、その為であった。
   ・   ・   ・   
 アメリカやイギリスは、日本軍が占領している満州で軍政を敷き続けている事に強硬に抗議した。
 韓国統監の伊藤博文は、政府首脳会議で、満州に於ける軍政を即刻廃止するように求めた。
 「満州に於ける日本の権益は、講和条約によってロシアから譲られた遼東半島租借地と鉄道の外には何もない。満州は我が国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である」
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 日本とハリマンは、南満州鉄道共同経営の仮契約を結ぶ。
 小村寿太郎外相は、日本に不利であるとして仮契約を破棄した。
 アメリカは、国際的外交で始めて調停役を務める。
 日本の初期の目的は、朝鮮と南満州を安全保障から手に入れる事であり、樺太の領有と賠償金は二の次であった。
 アメリカが日本との契約を本気で守るかどうかは、ハワイ王国の悲劇や中南米諸国の悲惨を見れば明らかであった。
 日露戦争後。アメリカ海軍関係者は、日本海軍脅威論の主張し、西海岸防衛の為に大西洋艦隊の半数を大平洋に常駐させるべくであると警告した。
 ルーズベルトは、パナマ運河が完成する前に艦隊を分割するのは危険であるとして、海軍修正案を退けた。
 日本海軍は、アメリカを仮想敵国とし、アメリカ海軍に対抗する為の八・八艦隊構想を基に建造計画を進めた。
 セオドア・ルーズベルト「日本に勝つには、イギリス海軍とドイツ海軍を連れて来るしかない」
 ロシア帝国は、アメリカに対して、満州に於ける特別の権益も持たない事を明言した。
 アメリカ企業は、門戸開放政策に従って、満州及び華北への進出を始めた。
 タフト陸軍長官は、アリス親善使節団から抜け、上海からアメリカに帰国した。
 10月1日 アリス親善使節団は、マニラ、北京、漢城を回って再び来日したが、前回の初来日の様な熱烈な歓迎はなく、逆に反米的気運が漂って余所余所しかった。
 10月8日 鉄道王ハリマンは、旅順、北京、天津、漢城、釜山を回って、日本を再訪問した。
 10月12日 ハリマンと桂首相は、南満州鉄道への共同経営に関する協定を結んだ。
 グリスコム公使は、アメリカが求める門戸開放政策に叶うものであるとして歓迎した。
 10月24日 ニューヨーク・タイムズ紙「(ハリマン)日本は今、身らの運命を切り開こうとしている。日本の指導者はみな知性的で国益をしっかりと考えている。清国は今眼を開きつつある。過去6、7年にわたって建設された鉄道がこの国を目覚めさせたのだ。朝鮮はいまだに問題がある。朝鮮の将来は日本からの援助にかかっている。私の個人的な考えだが、日本は東洋で支配的な力になっていく事はもはや疑う余地がない」
 東部の白人エリート階級は、日本人をアジアに於ける唯一の相棒と認め、非白人における支配的優性種として「東洋のアメリカ人」と呼んだ。
 カリフォルニアのアイルランドアメリカ人や人種差別主義者は、日本人の脅威に警鐘を鳴らし、日本人移民排斥運動を盛り上げた。
 サンフランシスコ市長ユージーン・シュミッツは、労働組合の求めを民意として、白人労働者の職場を日本人移民から守るべく、ワシントンが求める国益を無視して反日政策を実行していた。
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 11月 日本には、1万人近い中国人が自主的に来日していた。
 中国人学生達は、中国を日本の様な近代国家にする為に、日本から学ぶべく留学しいた。
 中国人労働者達は、一旗上げ組として、金を稼ぐ為に日本に働きに来ていた。 
 清国は、日本国内の革命家の運動を警戒し、日本政府に取締を要請した。
 日本政府は、両国の良好な関係に配慮して、清国留学生取締規則を公布した。
 中国人留学生約8,000人は、授業ボイコットに突入して激しく抗議活動を行い、女子学生・秋瑾ら帰国派と魯迅ら残留派に分かれた。
 帰国派200人は、清国政府に抗議する為に帰国しそのまま革命に身を投じ、その多くが戦闘で死亡し、秋瑾ら捕らえられた者は公開で斬首された。
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 12月1日 セオドア・ルーズベルト大統領は、対日宥和外交から、議会に対して日本人排斥法案には反対であるとの書簡を送った。
 ホワイトハウス内の知日派は、日本との関係がこれ以上こじれない為に、サンフランシスコ市で激しくなっている排日運動を沈静化させるべく努力していた。
 だが。カリフォルニア州は、黒人差別を容認している南部諸州の支援を受けて、ワシントンとの対決姿勢を強めた。
 人種差別的日本人移民排日運動は、国防を優先するワシントンの中央と、地域住民権利を主張する西海岸諸州・南部諸州連合との、国論を二分する政治的対立に発展していた。
 アメリカは保守的傾向が強い国として、国民世論は地域住民権利を支持して、日本人排斥諸法案を支持した。
 アメリカは移民の国であったが、人間としての権利を許されたのはキリスト教白人のみであり、黒人はもとより日本人も中国人も基本的人権は認められていなかった。
 プライド高いサムライ日本人が、宗教的人種差別を「ご無理ごもっとも」と無条件で土下座して享受しない限り、人間として生きる権利を求める戦争をアメリカに仕掛ける事は自明の理であった。
 1941年の日米戦争は、非白人の有色人種が白人から、人間らしく生きる権利を得る為には避けられない戦いであった。
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 12月22日 満州に関する日清条約(満州善後条約)
 日本は、清国が満鉄経営を脅かす競合路線を建設しないという約束のもと、南満州を清国に返還した。
 満鉄併行線禁止条項。
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 日本は、講和条約の条項に従って、北京で清国と列強代表を招集して会議を開き、満州におけるロシア帝国の利権を引き継ぐ事の承諾を求めた。
 北京会議は、アメリカとイギリスが日本の地理的立場を認めた為に、日本の申し込みは承認された。
 この時の、日本の満州進出は国際法的に合法とされた。
 アメリカは、日本に協力する事で南満州鉄道経営に参加しようとしたが、日本に共同経営案を拒否された事で、反日政策を取り始めた。
 日本は、領土的野心がない事を知らしめる為に、南満州鉄道とその付属地以外の占領地を清国に返却した。 
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 夏目漱石「新聞なんてみな嘘を吐くもんだ。世の中で何が一番法螺(ほら)を吐くといって、新聞ほどの法螺吹きはあるまい」(『坊ちゃん』)
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 1906年 陸軍は、ロシアの復讐戦に備えて満州に防衛線を張ろうとしていた。
 伊藤博文は、ロシアの侵略に対抗する日清朝三国提携論から、「満州は純然たる清国領土」として満州の領有に猛反対した。
 中国大陸及び朝鮮半島経略において、提携論の伊藤博文と威圧論の陸軍は対立していた。
 アメリカ司法省は、日本人移民の帰化申請を拒否すると決定し、翌07年にはハワイから本土へ渡航する事も禁止した。
 当時のサンフランシスコ市は、組合労働党のシュミッツ市長の市政下で腐敗と汚職が横行して汚職が絶えなかった。
 組合労働党の最高幹部エイブ・ルーフは、ケーブルカー路線の拡大を目指すユニオン鉄道から、便宜を図る見返るとして200万ドルを不正に受け取った。
 反シュミッツ派は、ルーフを収賄容疑で逮捕し、11月の州議会選挙で勝利して、シュミッツ市長を退陣に追い込もうとしていた。
 シュミッツ派は、市政府はもちろん警察や教育委員会などに支持者を要職に押し込み、ルーフ逮捕が州議会選挙の悪宣伝に利用されない為に全力を上げて取り組んでいた。
 政治家主導アメリカに於いて、官僚の力は弱く、行政府の要職は政治家が官僚以外から任命する事が多い。
 アメリカは、日露戦争ロシア帝国を破った軍国日本の勢力拡大に警戒して、新たな日本人の移住を禁止し、国内の日本人移民者が持つ権利や財産を奪う為に規制を強化した。
 かわりに東欧や南欧から、大量の移民を受け入れた。この年だけで、約110万人が移住したと言われている。
 アメリカ社会は、北欧系白人が支配する階層社会で、非北欧系白人は貧しい下層階級としてホワイト・プア、プア・ホワイトと軽蔑された。
 下層階級の白人労働者は、数少ない仕事をめぐって生真面目な日本人と競い合っていた為に、反日感情が強かった。
 中国人移住者は、世渡り下手な日本人とは違って、順応性ある処世術で争う事なく白人社会に入り込んで富を蓄えていた。
 アメリカ上流階級は、日本人を競争相手として敵視したが、中国人には寛大で親近感を抱いていた。この感情は、現代に於いても受け継がれている。
 キリスト教会も、神の裔・天皇が支配する日本での布教活動をあきらめ、中国人の改宗者を増大させるべく中国に肩入れした。
 つまり、キリスト教会は親中国反日である。
 日本は、日本人移民を排除するアメリカに抗議した。
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 徳富蘇峰支那における諸般の問題は、只利の一字を持って解釈するを得可(うべ)し、人間万事利の為めに動き、利に拠りて動き、利に向かって動く。若(も)し支那人をして、一生懸命ならしむるものあらば、それは君父の讎(あだ)にもあらず、国家の為めにもあらず、宗教の為めにもあらず、唯自個の利の為め也。臆病なる彼等も、勇者と相成候。利の為めならば、怠惰なる彼等も勉強家と相成候。利の為めならば、命をも捨て候。彼の旅順の堡塁に、深夜忍ひ込りて、其の地上若しくは地中に委棄(いき)したる未爆裂の弾丸を拾ひ、此れをコツコツ叩きて、其の為め一命を失ふか如きは、彼等か決して悔ひさる所に候」(明治39年『七十八日遊記』)
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 4月18日 サンフランシスコ地震マグニチュードは7.8で、市内は壊滅的な被害を受けた。
 当時のサンフランシスコ人口約40万人で、死者約3,000人で、22万5,000人が家を失った。
 ユージン・シュミッツ市長は、市内の治安維持の為に出動した警察官と州兵に対して、略奪者はその場で射殺せよと命じた。
 日本政府は、国家総予算の1,000分の1にあたる金額25万円(現在の約600億円)を、苦しい財政の中から見舞・援助金としてサンフランシスコ市に贈った。
 更に、サンフランシスコの日本人移住者に義捐金として約5万円を送った。
 日露戦後の苦しい中で、人道支援を行った。
 サンフランシスコ市の反日運動は一時沈静化し、日本人移民への差別と迫害は止んだ。
 市の再建と共に日本人の経済活動範囲が広がり、日本人だけのコミュニティであるリトル・トーキョーの外に出て家を購入して移り住んだ。
 日本人は、中国人ほど結束の強い排他的なコミュニティであるチャイナ・タウンを造らなかった。
 人種差別の日本人排斥連盟は、リトル・トーキョーから這い出して商売を始めた日本人移民へのバッシングと、日本人が売る商品の不買運動を開始した。
 排日組織の会員は、他州にも広がり、瞬く間に400万人を越えた。
 日本から地震の実地調査に訪米していた東京帝国大学の大森博士と中村博士は、人種差別主義者の暴行を受けた。
 サンフランシスコ・クロニクル紙ら、反日的報道機関は、暴動事件を起こした白人グループを擁護した。
 同様の日本人への暴行事件は、ユーレカ市でも発生していた。
 アメリカの多くの政治家は、民意に従い、超党派で日本人移民排斥運動を支援する為に立ち上がった。
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 ポテト農園だ財を成した牛島謹爾(きんじ、アメリカ名・ジョージ・シマ)は、人種差別や依怙贔屓をせず、全ての被災者に、日本人、アメリカ人、支那人、黒人らに平等にポテトを配った。
 特に。黒人は、約束は確実に守り同じ人として親しく付き合ってくれる優い日本人を信頼していた。
 支那人は、白人には命令を素直に聞いてよく働く忠実な下僕として重宝がられていたが、黒人は白人同様に人種差別をし平気で人を騙し人の物を自分の物の様に盗む泥棒と嫌われていた。
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 5月6日 サンフランシスコ市教育委員会は、市の条例にない東洋人隔離案を決定し、日本人学童93名を白人児童から切り離し、チャイナ・タウンにある学校に隔離する事を命じた。
 だが。日本人はもちろん一部の白人からも反対の声が上がり、実施は見送られた。
 サンフランシスコ市の学童総数は、2万5,000人で、内日本人生徒は93名であった。
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 10月11日 サンフランシスコ市教育委員会は、ルーフの起訴の当日に合わせて、日本人児童をチャイナ・タウンの学校に隔離する事を発表した。
 同じ頃。シュミッツ市長と組合労働党幹部ルーフは、複数の収賄容疑で起訴されていた。
 組合労働党は、11月の州議会選挙の為に、汚職事件で支持の減少を食い止めるべく反日キャンペーンを強めていた。
 教育関係者や人種差別反対団体は、日本人児童隔離措置に反対したが、少数派で決定を覆せなかった。
 ベイリー博士「この日本人児童隔離のニュースはすぐさま日本に伝わり、日本中が憤慨した。この決定は米日間で結ばれた1894年条約に違反するだけでなく、日本人に対するひどい侮辱であるとの声が巷に溢れた」
 日本政府は、泣き寝入りする事なく是々非々として、アメリカ政府に激しく抗議した。
 大阪毎日新聞「日本は戦艦を出動すべきである」
 エリフ・ルート国務長官は、セオドア・ルーズベルト大統領の対日宥和外交方針に従って、東京のアメリカ大使を通じて日本人移民を欧州の移民と同等に扱っていると伝えさせた。
 だが。アメリカ人は、宗教的白人優位主義から、支那人の様に指示に唯々諾々と従わない日本人への怒りを露わにし、日本人は白人の神聖な支配を打ち砕く危険な存在であると警戒した。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、現地調査の為にV・H・メトカーフ労働商務長官をサンフランシスコに派遣し、議会に対して政府は国家間条約によって認められた外国人の権利を守る権限あると伝えた。
 シュミット市長「私が起訴されたのは反日人政策をとった事が原因である」
 日本人移民は、日本人蔑視の強い排他的なチャイナ・タウンにある学校に子供を通学させる事を拒否した。
 日本はもちろん、アメリカ国内の日本人会も、人種差別的日本人学童隔離政策に猛反対した。
 人種差別主義者は、日本人隔離政策を支持し、シュミッツ市長に同情し、検察を非難した。
 シュミッツ「必要なら、日本との戦争に私は命を投げ出す覚悟である」
 P・H・マッカーシー「ロッキー山脈の西の諸州が団結すれば日本など、直ぐにでも潰せる」
 セオドア・ルーズベルト大統領は、日本との関係悪化を恐れて穏便な解決を模索すると共に、ビクター・メトカーフ商務労働長官をサンフランシスコに派遣して実態調査を命じた。そして、議会に対して日本人に市民権を与えるかどうかの審議を要請した。
 エリフ・ルート国務長官「サンフランシスコの方針は、アメリカ政府の考えではない。アメリカの日本人学童に対する扱いは他のヨーロッパ諸国の子供達とまったく同じである」
 10月27日 セオドア・ルーズベルトからユージン・ヘイル上院議員への私書「彼等は、対日戦争を引き起こす不安材料になっている。直ちにそうした事態になるとは思わないが、将来については不安である。ジャップは誇り高く、感受性も強い。戦争を恐れない性格で、勝利の栄光に酔っている。彼等は、太平洋のパワーゲームに参加しようとしている。日本の危険性は、我々が感じている以上に高いのかも知れない。だからこそ私は、ずっと海軍増強を訴えていた。……仮に戦争となり、我々の艦隊が旅順港のロシア艦隊の様な運命を辿る事になれば、日本は簡単に25万人規模の兵力を太平洋岸に上陸させる事ができる。そうなれば、それを駆逐するのに数年の歳月がかかり、それに加えて、とんでもないコストがかかるだろう。ジャップは、ロシアに勝ってから自惚れている。しかしこちらが大艦隊を持ってさえいれば、奴らだってそう簡単には手出しはできない」
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 サンフランシスコにおける移民関連の資料が消失した事を利用して、中国人は偽の証明書を作って大量にアメリカに移住した。悪名高い、「ペーパー・サンズ」である。
 某連邦判事「もし彼等の法廷証言が全部本当だとしたら、25年前の在米支那人女性は、少なくとも一人当たり五〇〇人ずつ子供を産んだ事になる」
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 11月 カリフォルニア州議会選挙では、全ての候補が、日本人移民排斥を第一公約に掲げていた。
 新たな州議会は、反日一色となった。
 ヘイズ下院議員「もし日本と戦争せざるを得ないのなら、今すぐやってしまった方がよい。こちらは準備が出来ているが、あちらはまだ何の準備もできていない」
 P・H・マッカーシー「ロッキー山脈の西にある州が結束するだけで、日本などわけなく捻り潰せる」
 セオドア・ルーズベルト大統領は、国内に広がる日本人移民排斥運動に押されて、日本人児童隔離政策を棚上げにして放置する事に決めた。事態に沈静化の為に、シュミッツ市長と直接会談して妥協点を探るべく、ワシントンへの召喚状を出した。
 11月13日 サンフランシス・コール紙「外交交渉を有利に進める為には、二国間の友好にちょっとした傷を付けたり、或いはその傷口を広げる事も平気で行われる。それがいわゆる外交というものだ」
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 12月18日 メトカーフ労働商務長官は、セオドア・ルーズベルト大統領に、日本人児童隔離決定を正当化する事件は見つからなかったという報告書を提出した。
 白人労働者による日本人に対するリンチ事件が19件報告され、同様の暴行事件がアメリカとカナダで起きていた。
 日本人移民排斥運動は、北アメリカ大陸全体に広がりを見せ始めた。
 12月のクリスマス直前の集会で、シュミット市長は連邦政府の圧力には屈しないと宣言し、訴訟は汚職ではなく日本人移民排斥政策であると訴えた。
 地方は、中央に反旗を翻したシュミッツ市長を人民の諸権利を守る英雄と祭り上げた。
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 中国人の有能な若者が、日本に学ぶ為に日本に留学し、日本人が作り出した近代用語である和製漢字を持ち帰った。
 中国の近代化は、朝鮮の近代化同様に、日本人の御陰である。
 両国は、日本がなければ現代の国家としての繁栄は存在しなかった。
 だが。両国は、日本に感謝する気持ちは微塵もなく、今後も全くない。
 両国は、感謝するという気持ちを持たない国である。

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 が。サンフランシスコ市は、人種差別政策として、被災地の日本人児童を白人児童と同じ教室に学ばせる事は好ましくないとして隔離教室に押し込んだ。
 アメリカやカナダで、日本人移民反対の暴動が多発し、日本人住宅が襲撃され、多くの日本人が負傷した。
 警察当局は、日本人被害者を助ける為の暴動鎮圧をせず、群衆が自然に落ち着くまで傍観した。
 両国とも、宗教的白人選民思想から非白人非キリスト教徒日本人を絶対神に愛される人とは認めていなかった。
 連邦議会は、日本人は帰化不能な未開人と断定して、日本人移民排斥法案を可決した。
 連邦最高裁も、人道上から、同法案は合法的であると認めた。
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