🎵37:38:─1─孫文は、日本右翼の援助で辛亥革命を成功させ、日本を真似て中華民国臨時政府を樹立した。1910年~No.91No.92No.93No.94 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国の近代化は日本のお陰であった。
 日本は、中国人民の為に善い事もした。
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 中国共産党結党当時の主要幹部は、日本に留学し、日本で共産主義を知り、日本語で共産主義を学んでいた。
 中国共産党が使用する専門用語の70%近くが、日本で創られた和製漢字であり、日本がなければ中国共産党は誕生しなかった。
 レーニンは、法秩序で社会が安定している日本で共産党の結党を後回しにして、無法地帯的に混乱している中国で先に共産党を結成した。
 中国共産党は、ソ連の指示で日本共産党結党に関与し、ソ連の指令を日本共産党に伝えていた。
 日本共産党は、中国共産党を通じてソ連の指示と活動資金を受けていた。
 日本共産党は、中国共産党の下部組織であった。
 ソ連の意図は、天皇制度を打倒し日本を共産主義化する為に、中国共産党日本共産党にテロや破壊工作で社会を大混乱に落とし、無秩序・無法地帯化して暴力的共産主義革命を起こす事であった。
 流血を伴わない平和的に人民共和国建設など、最初から目指してはいなかった。
 共産主義者が目指していたのは、大殺戮と大流血による人民の解放であった。
 共産主義革命とは、血生臭くおぞましい人民革命であった。
 軍国日本の自衛とは、共産主義革命から天皇制度・国體と祖国日本と日本民族を守る戦争であった。
 日本の脅威は、北からの侵略者であるロシアとソ連であった。
 中国共産党は、ロシア・ソ連の手先であった。
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 1910年 日本は、維新派の康有為らによる芿国政府内での改革を支援する立場から、武力革命で共和制を目指す革命派の孫文をどう取り扱うかで苦慮した。
 清国が平和的に立憲君主制で近代する事が望ましく、革命で内戦に発展して混乱する事は好まなかった。
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 日本海軍は、日露戦争に於けるアルゼンチンの好意に感謝して、建国100周年の記念行事に軍艦を派遣し、日本海海戦を描いた絵を贈呈した。
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 ホーマー・リーは、日本はアメリカの脅威であると言う内容の『無智の勇気』(邦訳『日米必戦論』)を出版した。
 「西洋人は黄禍が支那人からくると思っているが、支那の征服時代は2100年以前、秦の始皇帝を以て終わっている。本物の黄禍は日本から来る」
 西海岸諸州を中心としてベストセラーとなり、人種差別主義者のバイブルとなった。
 日本へのいい知れない恐怖心から、日本人を凶暴な黄色いサルと憎悪した。
 中国に東洋の神秘として慕情を抱き、中国人を道徳を持った分別ある好人物として親近感を抱いた。
 アメリカ世論は、急速に、反日親中国となっていった。
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 1月21日 日本政府は、満鉄経営を圧迫する錦州・愛琿間の満州縦貫鉄道建設を中止させドルの流入を阻止する為に、ロシア帝国とフランスの協力を得てノックス提案を拒否した。
 ノックス提案は、イギリスが賛成しなかった為に廃案となった。
 日米関係は、満州市場をめぐって悪化した。
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 5月 カリフォルニア州労働長官は、農業分野における日本人移民問題の報告書を提出した。
 州議会上院議員カミネッティは、あまりにも日本人移民に好意的な内容に激怒して同報告書の破棄を求めた。
 内陸の大規模農園や西海岸の缶詰業者や山間地の鉱山業者は、労働者不足にあった為に日本人移民を歓迎していた。
 日本人移民は、白人労働者の様に権利を主張してストライキを起こさなかったし、中国人労働者の様に適当に働いて博打と女で身を崩さず、黙々と働いて予想以上の成果を上げる為に喜ばれていた。
 サンフランシスコ・クロニクル紙「カリフォルニアの荒れた土地や痩せた土地を豊かな果樹園やぶどう園や庭園に変えたのは、日本人の農業技術だ」
 ロバート・ウェルズ・リッチー「丘陵や山間部、或いは豊かなデルタ地帯の何処をとっても、日本人が白人を追いやたという事実はない。日本人が開墾した場所は、白人達が手を加ようともしなかった土地である。山間部の果樹栽培ではまず支那人がやって来て、その後に日本人が来た。誰もが開墾に失敗した後にやって来て、成功させたのが日本人移民だった」
 だが。アメリカでも、朝鮮でも、満州でも、中南米でも、日本人移民は豊かな土地を地元民から強奪した犯罪者として非難された。
 西海岸の漁獲高に貢献したのも、日本人移民であったと言われている。
 日本人男性の移住はなくなったが、規制対象外とされた日本人女性のアメリ渡航が増えた。
 日本に帰国せずアメリカに留まって定住した日本人男性は、30歳前後の独身であった。結婚適齢期を迎えていた彼等には、結婚相手がいなかった。為に、日本から女性が写真花嫁として渡米した。
 アメリカ人は、写真一枚を頼りに海を越えて結婚しに来る日本人女性の気がしなかった。
 最初は珍しく興味を誘ったが、女性を品物のように扱う日本への怒りが巻き起こった。
 5月25日 大逆事件。信州明科爆裂弾事件。警察当局は、社会主義者宮下太吉ら4名を明治天皇の暗殺を計画していたとして逮捕した。この事件を口実にして、数百人の社会主義者無政府主義者を逮捕し、反天皇主義者を根絶やしにするべくた取り調べや家宅捜索が行った。 
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 6月1日 湯河原で、社会主義者幸徳秋水、菅野スガらが逮捕された。 
 6月11日 パシフィック・ルーラン・プレス紙は、日本人労働者が頻繁にストライキを行っていると非難した。
 サンフランシスコの労働組合は、日本人労働者のストライキは白人の権利を侵害し職を奪おうとしている陰謀であると攻撃した。
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 8月 日韓併合条約。
 国際社会で、日本の韓国合邦に反対する国は存在しないどころか、極東アジアの平和と安定の為には必要な処置であると歓迎された。
 サンフランシスコの排日団体は、日本の朝鮮支配に激しく抗議し、反日朝鮮人の活動を支持した。同じ非白人でも、日本人の敵である朝鮮人を味方として独立運動に理解を示した。
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 10月 マレー半島のペナンで。孫文は、黄興ら幹部と広州蜂起についての秘密会談を開いた。
 孫文は、武装蜂起を黄興等に頼んで、革命拠点を日本に建設するべく横浜に向かった。
 日本は、清国への配慮から孫文という実名での滞在を認めず、右翼にその身柄を委ねた。
孫文に対して、イギリスは香港滞在を認めず、フランスはインドシナへの上陸を拒否した。
 孫文が革命の為に身をおける場所は、決断ができない優柔不断の日本しかなかった。 
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 11月(〜17年) メキシコ革命
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 1911年 カリフォルニア州議会は、日米通商航海条約の締結交渉中に、その交渉を妨害すかのように日本排斥の条例を審議していた。
 タフト大統領は、外交と国防は中央政府の所管であり、国益を損ねる危険のある如何なる行為も許さないと厳重注意した。
 根拠のない記事を書いて売り上げを伸ばす大衆紙は、日本軍がアメリカを乗っ取る為にメキシコと同盟を結んでマグダレナ湾に軍事基地を建設していると報じた。
 この後も、日本とメキシコ絡みの同様の記事が数多く掲載された。
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 辛亥革命の時。革命派は、日本の2600年という皇室神話に対抗して、漢族は黄帝の子孫であるとして、「黄帝即位紀元4609年」と定めた。
 「中国5000年の歴史」とは、こうして創作された。
 漢族は、北方民族によって幾たびも侵略され虐殺され、征服王朝に支配された屈辱から正統性を神聖化する中華思想が生まれた。
 弱い人間ほど、宗教や思想や主義に救いを求め、虚勢を張り、狂信的になり、不寛容となり、妥協を一切拒絶し、排他的となり、自分より弱い者を罵倒して憂さを晴らす。
 人類史的に。弱い人間は、生き残る為に、強い人間の従順な下僕・奴隷となって戦利品のおこぼれにありつく。
 弱者は、強者が衰え分け前が貰えなくなった時に革命を起こして強者を打倒し、新たに気前よく分け前をくれる強者の下に走る。
 大陸は、全ての面においてトップダウン社会であえい、上意下達ができなくなった時に階級闘争としての革命が起きる。
 日本の歴史で革命が起きなかったのは、ボトムアップ社会として、下意上達として階級が存在しなかったからである。
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 1月 鈴木梅太郎は、東京化学会誌に論文「糠中の一有効成分に就て」を掲載し、脚気治療の糖成分としてオリザニン(ビタミンB1)が有効であると発表した。
 1月18日 大審院は、幸徳秋水ら24名に死刑判決を、新田融に懲役11年、新村善兵衛に懲役8年の判決を下した。
 平沼騏一郎大審院次席検事は、論告求刑で「動機は信念なり」とした。
 1月19日 12名を無期に減刑された。
 1月24日 幸徳秋水ら11名の死刑が執行された。
 戦後。明治天皇暗殺計画に関与していたのは、宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名と判明した。
 事件は、思想弾圧しようとした警察当局のでっち上げとされている。
 皇帝や国王に叛逆して殺害を計画し、皇室や王室に対する謀叛を企てた犯罪を大逆罪と呼ぶ。実行犯は死刑に処せられ、その陰謀を知っていた者は同罪として極刑に処せられ、知っていなかったとしても組織の一員であれば容赦なく有罪となった。それが、世界の常識である。国家元首への大逆事件に、温情を与えて無罪にする国は存在しない。
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 8月 西園寺公望は、二度目の組閣するに当たり、駐米大使の内田康哉外務大臣に指名した。
 外務次官の石井菊次郎は、横浜港で帰国した内田を出迎え、革命騒ぎで混乱する中国の現状を説明し、大陸動乱に口を出さず深入りしないように進言した。
 中国は大国意識が強く日本を対等国と見なさない気配がある以上、親切心で内部紛争に介入し、対応策なく不用心で近づくと思わぬ被害を被る恐れがあると。
 中国に出るときは、冷静に中国との距離を計算し、必ず被害を最小限にして引き上げる手立てを講じておくべきであると。
 中国が大混乱を起こして悲惨な内戦に突入しようとも、日本に危険が及ばない限り、諸勢力と均等的な関係を維持して、特定勢力に肩入れしない事が肝要である。
 中国の事は中国人に任せ、日本は冷徹に慣習国際法にしたがって国益の為に行動すべきであると。
 もし。介入するときは単独で行動せず、列強を巻き込み連合体として行動して、その際も決して深入りしない事であると。
 目先の利益や金儲けではなく長期的視野で中国を眺めて行動する事が、日本の大陸経略の基本方針とするべきだと。
 大正期の対中外交は、石井外交で誤る事が少なかった。
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 9月 辛亥革命。四川暴動。日本に留学して近代的軍事教練を受けた南方の地方軍長官らは、満州族支配からの人民解放を掲げて武装蜂起した。
 漢族の多い華南を中心として、全国土の3分の1が反清運動に参加した。
 3分の2は清国の支配下にあり、清国の正規軍も健在であった。
 清国は、内戦を続けては欧米列強の植民地になるとの危機感から、最強の民兵軍・北洋軍を管轄する袁世凱に反乱の鎮撫を依頼した。
 袁世凱は、漢族将校らを日本に留学させ、帰国後は地方軍長官に任命した関係から、調
停役を引き受けた。
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 10月 日本の陸軍士官学校出身の中国軍人の大半が、辛亥革命を成功に導き、地方軍閥となって内戦を続けた。
 蒋介石は、見習士官として新潟県高田の砲兵連隊に配属されたが、辛亥革命が起きると帰国した。よって、陸軍士官学校を卒業していない。
 日本に留学して日本で近代的教育を受けた中国人エリートの大半は、反日派だった。
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 12月 モンゴル民族は、北モンゴルで中国支配からの独立を宣言した。
 多民族国家中国では、漢族以外の少数民族が独立を求めて運動を開始した。
 彼らは、独立運動に対する日本からの支援を期待した。
 日本の右翼は、侵略的アジア主義から、政府や軍部の反対を無視して少数民族独立運動を支援した。
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 12月 反乱軍は、中心的指導者を欠いてまとまりのない烏合の集団であった。やむなく、国内では知名度は低いが、国際社会で名の通った孫文を飾りとして臨時大総統に迎えた。
 孫文は、名門・名家出身ではなく極貧農家生まれで、14歳の時に中国を出てハワイに渡り、キリスト教に改宗する事で教育を受けた。故郷の秘密結社・三合会から生活支援を受け、ハワイの教会学校で西洋教育を受けていた為に、中国の儒教的読書家に支援者を持っていなかった。
 革命政府は、財力も軍隊もない孫文を完全な飾りとして、如何なる権限も与えなかった。
 日本と欧米列強は、不介入の立場を取って革命政府への支援を控えた。
 唯一。日本の右翼は、孫文の理想に共鳴してヒトとカネを出して助けた。
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 1912年 アメリカは、ニカラグア動乱に介入して軍隊を派遣した。
 チャールズ・エリオット「私が東洋で多くの海軍関係者と会ったのは1912年の事だが、皆が皆、数ヶ月以内に日米戦争が勃発すると予想していた。そうはならないと答えた者はわずか一人だけだった。誰もが、遂にその日がやって来たと覚悟していた」
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 1月1日 孫文は、臨時大総統に就任して中華民国臨時政府の樹立宣言した。
 袁世凱は、反乱軍鎮圧に失敗すると今度こそ欧米列強の植民地にされるとして、幼い宣統帝(6歳)の父親で摂政と満州大臣らに政権放棄を求めた。引き替え条件として、皇帝の安全(玉体護持)と紫禁城で暮らす事を認めさせると確約した。
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 2月 清朝側は、中国を西欧列強の植民地にしない為に、中華の支配者としての正統性を崩さない事を条件として宣統帝を名目上退位させ、清国の解体を受け入れた。
 南部の反乱軍には、袁世凱の北洋軍を撃破するだけの軍事力はなかったし、皇帝を殺して新た指導者を出すだけの政治能力もなかった。
 それ以前に、天子を敬う儒教教養を身に付けた読書人として、主君であった清国皇帝を弑逆した逆賊との汚名を嫌った。
 孫文ら文化人は、漢文古典より西洋近代思想の方が優位と考え、新しい中国を建設する為には満州族皇帝は邪魔な存在であるとして廃絶を希望していた。
 モンゴル、チベット、ウィグルなどの少数民族は、辛亥革命清朝が崩壊するや中国からの独立運動を始めたが、清国皇帝が存続していると知るや自主独立を見合わせた。
 イギリスは、ロシア帝国の侵略から植民地インドを防衛する為にチベットの独立を支持した。
 孫文は、国内では人気がなかった為に保守的読書家の支援を得られず、西洋思想信奉の革新的文化人を集めてブレーン集団を組織し、秘密結社を使って政治を陰で操ろうとした。
 袁世凱は、孫文との密約で大総統の地位を得たが、同時に清朝の家臣として清国皇帝に忠誠を誓って保護した。
 貧しい人民は、その日その日を生活するのに忙しく、政治に興味はなく、支配者が誰にかわっても気にもしないかった。
 そこには、マルクス主義が認定する人民としての労働者・プロレタリア階級は存在しない。
 文化人は、日本語に翻訳された西洋の近代思想を漢訳し、日本経由で流入して伝統的儒教価値観を崩壊させようとした。
 だが、中国をまとめ上げるのは儒教しかなかった。
 ここに、明治維新とは違って、真の意味での世界史的な無血革命が完成した。
 袁世凱は、孫文ら革命勢力の力の拠り所が日本にあると見るや、日本と革命勢力の離間工作を進めた。
 日本帰りの知識人は、日本を真似て政党を作った。その結果、北京と南京合わせて1,000近い政党が誕生して、党利党略で離散集合を繰り返した。
 国民党は、多党乱立して混乱している政情を安定化させるべく、日本に習い、近代的総選挙の実施を求めた。
 総選挙といっても、全ての中国人を対象にした普通選挙ではなく、国民党に登録し党費を払っている日本で西洋思想を学んだ若手文化人と裕福な企業家が大半であった。
 日本は、天皇に忠誠を誓い、一定額以上の国税を納める国民に投票権を与えた。
 中国は、国民党に忠誠を誓い、党費を払った党員のみに投票権を認めた。
 清朝に忠誠を誓い西洋近代思想を嫌う儒教教養の読書家を中心とした地主層は、党費を払わなかった為に少数派で不利であった。
 9割以上の人民は、貧しく党費を払うゆとりがなかった為に投票権はなかったし、そもそも総選挙には興味がなかった。
 人民にとって、封建的な清国であろうと、近代的な国民政府であっても、関心がなかった。
 総選挙は、南の国民党が圧倒的に有利とされた。
 各秘密結社は、金儲けの為に総選挙に協力し、支持政党の為に敵対する政党に対する殺人や暴行などの事件を多発させていた。
 各政党は、資金援助を受ける為に秘密結社を庇った。
 何時の時代でも、政治家や役人と犯罪組織の馴れ合い体質が改善される事がなく、不正腐敗が正される事もなかった。
 中国には、国益・公益より私益・個人益を優先する伝統的土壌が存在するだけに、真の意味での民主主義は生まれない。 
 国民党幹部の宋教仁は、民主主義のアメリカ合衆国を手本として、中国各省をアメリカ各州と見立てて連邦制度国家を建設しようとした。
 外国への留学生を、日本からアメリカやイギリスに替えて親日的雰囲気を払拭した。
 日本からの帰国組で、反日的発言をする者は登用し、日本との提携を主張する者は左遷して地方に飛ばした。
 政府高官や軍隊幹部の多くは、日本留学経験者であったが、その大半が反日論者であった。
 孫文は、現実主義から中央政府の権限が弱まり中国は統一を保てないとして、宋教仁の理想主義に反対した。連邦創設派を切り崩す為に、客家系秘密結社を動かしてテロを行った。
 国民党は、口先だけで実を伴わない猜疑心強い孫文を形式的な顔に祭り上げ、政策能力のある宋教仁を実質的な党首に選んだ。
 孫文は、日本からの更なる投資を得る事を名目として遊説に出た。
 真実は、党本部が厄介者・トラブルメーカーを体良く国外に放逐したという事である。
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 中国で、選挙が可能な地域で選挙が行われて宋教仁が率いる国民党が圧勝した。
 袁世凱は、刺客を送り込んで宋教仁を上海駅で暗殺し、権力を手中に収めて中国を武力で支配した。
 この後の指導者は、民主的選挙で選ばれた指導者ではなく、武力で競争者を滅ぼして中国の支配者となった。
 中国の支配者は、伝統的に、民主主義ではなく暴力で権力を手に入れた。
 国民党は、民主主義的政党として結党されたが、儒教価値観の中国は西洋的近代的民主化は不可能と判断してファシスト政党に変容して武力による中国統一を目指した。
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 7月 第3次日露協約。日本は、アメリカ資本が満州に進出するのを阻止する為にロシア帝国と協約を結ぶ。
 ロシア帝国は、アメリカと敵対しているように見せながら、裏ではアメリカと通じていた。





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