🎹15:─1─ドイツ軍事顧問団は、アメリカ世論を反日派にして味方に付けるよう蒋介石に進言した。1934年~No.68No.69 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ファシスト中国には、軍国日本に比べて、三権分立はもちろん自由も民主主義もなかった。
 軍国日本に存在していた、全国民が参加する総選挙がなく、国民を代表する代議員による議会もなかった。
 ファシスト中国と中国共産党の内戦による大虐殺が、到る所で行われていた。
 ファシストとは、排外主義的な民族の伝統を重んずる右翼的社会主義で、愛国主義の官僚や軍人のエリートに支持された。
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 1934年 カリフォルニア州東洋問題評議会は、アメリカ政府の外交方針が対日制裁で固定された為に解散した。
 アリゾナ州で、日本軍の中国侵略に抗議した暴動が起き、日本人移民が襲撃された。
 蒋介石は、日本との第一次上海事変停戦条約を無視し、上海・南京間の非武装地帯にドイツ軍事顧問団の指導による陣地構築を始めた。
 エドワード・カーターは、アメリ共産党との関係を強化させる為に、大平洋問題調査会の本部事務局をニューヨークに移転させ、事務局内に多くのマルクス主義者を参加させた。そして、機関誌パシフィック・アフェアーズの編集長にソ連のスパイであるオーエン・ラティモアを抜擢し、政治問題を取り上げ、辛辣な日本批判を行った。
 ソ連のスパイであるアール・プラウダーは、アメリ共産党の書記長に就任した。プラウダーは、中国共産党周恩来とは昵懇の中で、上海で活躍していたソ連のスパイのアグネス・スメドレー女史やリヒャルト・ゾルゲらと諜報活動を行っていた。
 蒋介石は、瑞金を総攻撃して占領した。
 毛沢東は、10万人の紅軍を率いて新たな拠点を探す為に逃避行に出発した。国民党の影響下にない少数民族地帯を通過しながら、1年かけて延安にたどり着いた。
 中国共産党は、中国人民の支持を得る為に、対日作戦宣言と対日作戦基本綱領を発表した。
 東北帝国大学の彦坂忠義は、核模型を発表し、核が巨大なエネルギーを秘めている事を提唱した。さらに、そのエネルギーを利用した大量破壊兵器が製造できると指摘した。
 日本の物理学会アメリカの国際物理学会は、彦坂の「核の殻模型理論」を評価しなかった。
 ドイツのハーンとシュトラスクマン両科学者は、38年に同理論に影響を受けてウラニウム核分裂を発見した。
 ヒトラーは、29年に原子爆弾の開発を認めた。 
 同理論は、1863年にマイヤーとイエンザンが発表してノーベル物理学賞を受賞した。
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 日本共産党は、「天皇制度打倒」を前面に出して活動した為に、警察の激しい弾圧でほぼ壊滅した。
 祭祀王・天皇日本民族の関係は、ロシア皇帝とロシア人或いはドイツ皇帝とドイツ人
とは違い、日本では敗戦革命としてのロシア革命もドイツ革命も起きる可能性がなかった。
 日本人共産主義者は、日本の官憲の手が及ばない中国に逃亡し、上海の東亜同文書院に進学して、共産主義を学び、中国共産党とのつながりを持ち、コミンテルンから指示と活動資金をえて破壊工作を行った。
 蒋介石の情報機関は、日本人共産主義者を利用していた。
 逮捕された共産主義者の多くは、警察の取り調べで、共産主義を捨て天皇制度打倒運動をしないとの転向を誓って釈放された。
 共産主義者は、殺されても踏み絵を踏まなかったキリシタンとは違って直ぐ転んだ。
 だが、結果のみを重視する共産主義によって転向は敵を欺く偽装に過ぎなかった。
 「罪を憎んで人を憎まず」のお人好しの日本人は、陰険な陰謀を内に秘めた共産主義者にまんまと騙された。
 警察当局は、転向者多くが旧制大学や専門学校で学んだエリートであるとして、その才能を天皇の為・国家の為・社会の為に生かして貰う為に中央官庁への就職を斡旋した。
 其れは、日本の将棋の発想である。
 日本将棋は、西洋のチェスともあるいは中国の囲碁とも全く異なる価値観で行われるゲームである。
 中央官庁の官僚となった転向組は、将来敗戦革命を実効するべく、日本が戦争できるような国民総動員体制を立案し、配給制度などの統制経済策を進めた。
 彼らが、革新官僚と呼ばれる超エリート集団である。
 同時に、軍部を対外侵略戦争に駆り立てる為に軍隊に入隊した。
 彼らの多くが、統制派に組みして軍中央部の決定に影響を与えた。
 革新官僚も統制派軍人も、軍備が安心して戦争できるように情報を操作した。
 日本がアメリカと戦争が可能だと信じ込んだ偽装された報告書は、彼らが作成していた。
 尾崎秀実と転向組は、近衛文麿のブレーンとして政界に入り込んだ。
 尾崎秀実は、軍国日本の大陸政策とアメリカのアジア政策は衝突して戦争に発展する事は確実で、両国が戦えば日本は確実に敗北する。敗れた日本をソ連の力を借りて人民国家に再建するという、敗戦革命を目指した。
 中国共産党も、ソ連の支援でファシスト蒋介石を追い出して主導権を握ると見ていた。
 田中龍吉「日中戦争の中途、武藤章氏が軍務局長となるや、左翼の転向者が彼の周囲にブレ−ンとして参加した。
 陸軍省の部局に転向共産主義者が召集将校として起用されたのはこの頃である。統制派政治軍人の理念はこれが為にさらに飛躍した。すなわち大東亜共栄圏建設の理念である。
 この理念はコミンテルンの被圧迫民族解放の理念と表裏一体のものである。転向者との握手により、統制派の国防国家建設の理念から大東亜共栄圏建設の理念へと発展した事は、やがて三国同盟の締結となり、大政翼賛会の創設となり、さらに翼政会の出現となり、我日本を完全なる全体主義国家に変貌せしめた」
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 1月 武器商人ハンス・クライン退役大尉は、中国からベルリンに帰国するや、ドイツ軍事顧問団が手掛けていた独中貿易を引き継ぐ為に貿易会社ハプロを設立した。
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 3月 アメリカは、海軍軍縮条約量の上限までの建艦するというヴィンソンⅠ計画を承認した。
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 ナチス・ドイツファシスト中国の関係は、同じファシスト政権として強化された。
 軍国日本は、ファシスト国家ではなく、国際的ファシスト勢力と戦っていた。
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 ハンス・フォン・ゼークト大将は、ヒンデンブルク大統領とマッケンゼン元帥の勧めで軍事顧問団兼中国軍事委員会総顧問に就任した。
 ドイツは、対日敵視方針から、反日としてファシスト中国と結びついた。
 ドイツ軍事顧問団は、あらゆる機会をとらえて、対日強硬政策を促すように提言を繰り返していた。
 だが。蒋介石は、軍国日本と戦争する前に中国共産党の殲滅を優先する基本方針を譲らず、中国共産党を殲滅した後に軍国日本と戦う事を約束した。
 ファシスト中国と中国共産党は、烈しい国内戦を戦っていた。
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 4月 国民党軍は、中国共産党が支配する瑞金の表門にたる広昌を攻略した。
 蒋介石は、ゼークト大将を第四代ドイツ軍事顧問団として招聘し、中国軍に対し権限のある中国軍事委員会総顧問に就任させた。
 ゼークト「今最も中国がやらねばならぬ事は、中国の軍隊に対して日本に対する敵愾心を養う事」
 ドイツ軍首脳部と保守層は、第一次世界大戦の復讐として、中国軍を利用して日本軍を葬り去ろうとしていた。
 ドイツ産業界は、ファシスト中国との貿易拡大の為ならば軍国日本との敵対行動を歓迎した。
 クラインは、独中貿易を拡大するべくゼークト大将と共に中国に渡った。
 ゼークト大将は、軍政全般の改革を断行した。
 ソ連軍事顧問団時代のままの黄埔軍官学校を改編し、ドイツ国防軍式の軍司令官や参謀を養成するべく各種高等軍学校軍を設立した。
 実戦部隊として、とりあえず三年間で、最新鋭のドイツ製武器を装備した20箇師(20万人)の最強部隊を編成する。
 ドイツ軍事顧問団は、蒋介石に対日敵視プロパガンダ政策を進言した。
 ゼークト「日本に対して中国が強くなる為には武器も必要であろうし、飛行機も必要であろう。けれども自分がドイツにおける国防軍を編成し、国防軍を動かした経験からするならば、今もっとも中国がやらなければならぬ事は、中国の軍隊に対して日本に対する敵愾心を養う事だ」
 蒋介石は、殺人集団的秘密警察組織・藍衣社を使って、軍隊はもちろん人民に日本への憎悪を煽り、日本との友好を求める者を親日派として暗殺した。
 ヒトラーは、対中貿易を拡大する為に、クリーベル中佐を駐中大使トラウトマン以上の権限を持たせて上海総領事に任命した。
 ドイツ軍と軍需産業は、タングステンを輸入する為に、クリーベル総領事やドイツ軍事顧問団を通じて中国軍への支援を強めた。
 中国共産党は、支配する中国南部で産出されるタングステンを広東政府を通じてナチス・ドイツに売却し、ドイツの武器弾薬や機械を購入したいいた。
 ナチス・ドイツは、再軍備の為の外貨不足にあった為に、最新機器や工業製品とタングステン鉱などの原材料とのバーター貿易を進めていた。
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 8月23日 ハプロは、中国政府と物資交換条約(クライン条約)を結び、中国産業に確固たる地盤を築いた。ナチス・ドイツの対中貿易額は、飛躍的に拡大して、イギリスを抜き日本に次いで第二位に躍り出た。
 上海や漢口など南部の主要都市で、中国人労働者による反英反日運動が盛り上がり、一部が暴徒化して日本商店を襲い、日本製品を破壊し不買運動を起こしていた。
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 10月 日本海軍は、軍縮無条約突入した時、日本の国力ではアメリカとの建艦競争に叶わない事を十分理解していた。
 アメリカ海軍にはパナマ運河通過という制約がある以上、大型戦艦の建造には4万5,000トン級で主砲40センチという制限があった。
 日本海軍の軍備に関する研究委員会は、「量に対しては質で勝負する」との方針から、6万5,000トン級で主砲46センチの超巨大戦艦2隻建造計画を、37年から始まる第三次補充計画に組み込んだ。
 略称「A140─F6」、戦艦大和建造計画である。
 アメリカ海軍は、「質よりも量」で建艦計画を実施した。
 つまり、「百発百中の大砲一門」と「百発一中の大砲百門」とが戦った時どちらが有利かであった。 
 建艦競争に於いて、日本海軍は職人肌の質を極め、アメリカ海軍は大量生産による量を追求した。
 結果として、質の日本海軍は量のアメリカ海軍に敗北した。
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 日本軍の基本戦略は、国力に限界がある為に専守防衛で、「攻撃は最大の防衛」ではなく「勝てないまでも負けない」事を採用した。
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 陸軍軍務局軍事課員政策班長池田純久少佐と四方諒二少佐は、総力戦を想定した社会主義国家の樹立と計画的統制経済の実行を訴えた『国防の本義と其強化の提唱』というパンフレットを陸軍省新聞班(班長鈴木貞一)から発行した。
 目指す国家像は、北一輝の『日本改造法案大綱』とソ連の五ヵ年計画に基づいた計画経済を実行する社会主義国家であった。
 軍部が手本とした統制体制とは、ナチス・ドイツではなく、ソ連であった。
 日本陸軍の主流派は、ポーランド派であり、親ドイツ派は少数派でナチス・ドイツを評価してはいなかった。
 林銑十郎陸相は、「国民の一部のみが経済上の利益特に不労所得を享有し、国民の大部が塗炭の苦しみを嘗め、延ては階級的対立を生ずる如き事実ありとせば、一般国策上は勿論国防上の見地よりして看過し得ざる問題である」と統制経済の提唱した。
 軍務局長永田鉄山ら統制派は、共産主義的な色合いを持つ提言であったが、日本を操縦するには最適手段として軍政に採用した。
 梅津美治郎や松谷誠や植村佐孝ら軍人官僚エリート達は、現場で推進しいた。
 軍部内には、共産主義者として親ソ派とまで行かなくとも、ソ連を評価するグループが存在し、敵にするよりは同盟して味方に引き付ける事が最善と考えていた。
 その考えが、後の日ソ中立条約締結をもたらした。
 隠れマルクス主義者である革新官僚(転向左翼)達も、コミンテルンからの指示に従って、共産党による国家支配というソ連方式に近い統制方式として日本に根付かせるべく国策に反映した。
 社会大衆党書記長麻生久は、「パンフレットに沿って進まないものは、社会改革活動の落伍者である」と賛辞を送った。
 美濃部達吉らは、雑誌「中央公論」11月号で「陸軍発表の国防論を読む」という論文を掲載して「国家既定の方針を無視し、真に挙国一致の聖趣にも違背す」と激しき批判した。
 「陸軍国策の総批判」という特集が、陸軍や右翼の反感を買い、後の天皇機関説問題を誘った。
 岸信介「私には、私有財産制を維持しようという考えはなかった。それだから、例の森戸辰男の論文に対しても私は国體として天皇制の維持は考えるけれども、私有財産制を現在のまま認めなければならないとは思っていなかった。
 私有財産の問題と国體維持の問題を分けて考えるというのは、当時の我々の問題の基礎をなしていたんです。従って、私有財産制の維持というものに対しては非常に強い疑問を持っていました」(『岸信介証言録』)
 財界や地主階級といった伝統的保守層は、革新官僚や統制派軍人等を共産主義者と非難した。
 小林一三「岸の企画案はアカである」
 軍部に近い右翼・右派は、伝統的保守層を時代遅れとして非難して、社会主義的統制国家案を支持した。
 皇道派軍人は、北一輝の日本改造法案(1923年刊行)を理論的支柱として、天皇親政という昭和維新の実行を目指していた。
 国家運営にあたっていた歴代の政権は、大陸侵略の共同謀議をする前に、政府、軍部、官公庁ないで左右が混在した複雑な状態にあった。 
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 10月14日 国民党軍(国民革命軍)は、瑞金を占領して、捕虜にした共産主義者や協力者を全員虐殺した。
 共産党軍(紅軍)は、行く宛てもなく密林の中へ敗走した。
 15万人以上いた中国共産党軍は、約3万人に激減した。
 カリャギン中将「ドイツ人顧問は、共産党掃討戦の時は素晴らしい能力を発揮した。彼らの残した足跡は、我々が中国のあちこちの地方を旅行したとき、幾つとなく見かけられた」
 中国共産党は、国民党軍の攻撃で江西省瑞金を脱出し、ソ連の庇護を受ける為に東トルキスタン北モンゴルに逃亡する。
 西北の回族軍閥は、宗教を弾圧する共産主義を嫌い、敗走してくる中国共産党軍を攻撃した。 
 中国共産党は、ウィグル人を懐柔するべく詭弁を使った。
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