☂02:─1─不破哲三・共産党前議長講演概要。共産党は人民の勝利として天皇制度廃絶を訴えていた。~No.2No.3No.4 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 共産主義者マルクス主義者)は、共産主義大義を掲げる常識人であり、人民の正義を貫く闘士であり、反宗教無神論者であり、天皇制度廃絶論者であり、日本民族日本人否定論者である。
 日本の歴史を否定し、日本の伝統や文化を否定し、国旗・日の丸を否定し、国歌・君が代を否定する。
 イデオロギーとして、共産主義マルクス主義)以外は全て否定し廃絶しようとする。
   ・   ・   ・   
 2011年12月8日 赤旗アジア・太平洋戦争は、『満州事変』さらに37年7月の『盧溝橋事件』を経て全面戦争へと広がった、中国との戦争の連続です。日本政府は、中国からの撤兵を求めた国際社会の要求を拒否、中国への侵略戦争を続けるためにアメリカなどとの戦争を始めたのです」
   ・   ・   ・   
 日本共産党は、戦争反対の平和政党ではなく、ソ連コミンテルン中国共産党と陰で通じ合い謀略を巡らしていた。
   ・   ・   ・    
 2017年7月20日 産経ニュース「【不破哲三共産党前議長講演概要(1)】「共産党は絶対主義的天皇制の弾圧と戦ってきた」
 日本共産党不破哲三前議長=7月19日、東京都中野区(桐原正道撮影)
 共産党の理論的支柱である不破哲三前議長(87)が19日、東京都中野区で開かれた党創立95周年の記念式典で講演し、「安倍晋三政権下で国政全体が『ウルトラ右翼』の潮流によって私物化されている」と述べ、政権の打倒と野党共闘の推進を呼びかけた。不破氏の講演の概要は次の通り。
   ◇   
 不破哲三です。日本共産党創立95周年のこの集まりに、たくさんの方がおいでいただいて本当にありがとうございます。このように一つの政党が同じ名前で95年という長く活動してきたことは日本の政治史にかつてなかったことだ。自ら歴史を開く開拓者の精神で取り組んだ多くの先輩たちの活動が刻まれている。
 先の都議選で全国が一つになって戦って、19議席という貴重な議席を勝ち取った。この勝利の中で党創立95周年を迎えたことを、ともに喜びたいと思う。今日はこの記念の日に私なりの経験を振り返りながら、日本共産党の歴史を語りたいと思う。中でも、今年の党大会の決議が結びの部分で強調した、歴史が決着を付けた3つの戦いに焦点を当ててお話をしたいと思う。
 まず第一は、戦前の暗黒政治との戦いだ。1945年8月15日、私は敗戦の瞬間まで典型的な軍国少年だった。動員先の工場の屋上で敗戦を聞いた。実はその前の日に「明日は敗戦だぞ」という噂が工場に流れてきて、「そんなことはあるはずがない」と友人と論争したばかりだった。
 本当に小学校時代、教育勅語軍人勅諭でたたき込まれて育った軍国少年だった。教育勅語というのは幼稚園で大声で合唱するような軽々しいものではなかった。どこの小学校にも小型の神社風のご本殿というものが建てられ、そこにいつもは教育勅語がまつられている。祝日など学校の節目の集会があると、校長が恭しくそこから取り出してきて、私たちの集まった講堂で、厳かに一語一語重々しく読み上げる。生徒はそれを身動きせずに頭を垂れて聞く。せきをすることも、つばを飲むこともできない空気だった。学校生活で最も厳粛な時間だった。
 6年間それを節目ごとに繰り返すわけだから、暗唱させられなくても一字一句が頭に刻み込まれた。内容は、臣民、つまり天皇の家来である国民ということで、当時の憲法には国民という言葉はなかった。全部臣民だ。その臣民に下した天皇の道徳についての命令書だ。「朕思フニ」で始まるが、朕とは天皇が自分を指した代名詞。そこで始まり、この国は天皇の祖先が起こしたもので、国民の道徳もそのとき定めたものだ、だからそれを守らなければいけないぞ。そういうことを命令した文章だ。
 だから汝臣民という言葉で始まる。絶対に背いてはならない。この前書きの後に道徳の項目が続くが、最後の大項目が「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」。難しい文章だが、子供ながらに、要するに戦争になったら天皇家の存続のために命をささげろ。こういうことだなと誰にも分かった。
 中学に入ると、今度は教練という軍事教育が正規の科目になる。各学校に軍人が配属されていて、毎週何回か軍事教練を受ける。そのときに今度は、軍人勅諭というものを暗唱させられた。これもわが国の軍隊は「我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」。軍隊というのは天皇の軍隊なのだ。途中で武家に取られたが、それは明治維新で取り返した、これが今の日本の姿だ、軍隊の姿だ。
 こういう歴史の解説から始まって、天皇の地位こそが軍人の本分だと説明した後で「只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ」。鴻毛とは鳥の羽。天皇への忠義は大きな山よりも重いが、そのために犠牲にする身は鳥の羽のように軽い。そのつもりで軍隊の仕事をせよ。これで締めくくる。これが軍人勅諭だ。それが中学ではたたき込まれる。これが日本全土が焼け野原になっても、神国日本の勝利を疑わない軍国少年を育て上げたわけだ。
 敗戦でその価値観が覆された。にわかに新聞の紙面にも「民主主義」という耳慣れない言葉や、戦争の反省などが顔を出すようになった。しかし、その言葉にはなかなか実感が感じられなかった。しかし、その中で敗戦2カ月後に社会全体を驚かせた出来事が起こった。治安維持法が連合軍の命令で廃止され、日本共産党が初めて日本の国民の前に公然と姿を現したのだ。あの時代に主権在民などの旗を断固として掲げ、民主主義の日本のために命をかけて戦った人々の伝統があった。このことを初めて知ったことは、私が少年ながらに受けた最大の衝撃だった。
 戦前のマルクス関係の本に飛びついて、共産党とその思想、理論の勉強を夢中で始めた。1946年4月に最初の総選挙があり、5月から憲法議会が開会されたが、そこでも最初から国民主権を明記せよと主張したのは日本共産党だけだった。こういう状況を見ながら私は入党した。1947年1月、あとわずかで17歳の誕生日を迎えるときだった。今年でちょうど入党70年になる。
 戦前の日本共産党の戦いの歴史は、日本のどの党も持ち得ないものだった。そこには日本共産党が自由と民主主義、平和を断固として守る党であることを実証する不滅の歴史的な記録が刻まれている。今日はその活動を考えてみたい。
 第一は、それが絶対主義的天皇制という軍国主義的な独裁政治の最も凶暴な弾圧に対しての戦いであったことだ。相手側の最大の武器は、先ほど廃止されたといった治安維持法だった。この弾圧は1925年に制定されてから1945年に廃止されるまで20年間、日本社会で本当に猛威を振るった。この弾圧による逮捕者は数十万人を数え、投獄された者は5千人を超えるとされるが、日本社会に与えた重圧と残酷さは、これらの数字だけで表現できるものではない。
 党幹部や著名な活動家、小林多喜二らのように、最初から殺人を目的とした拷問で虐殺された。獄死者も党の中央幹部の野呂栄太郎ら500人を超えた。日本共産党の弾圧はヒトラーに先立つもので、当時でもほとんど他に例を見ない最も凶悪で苛烈なものだった。私はこの機会に、この過酷な条件のもとで国民主権の民主主義と侵略戦争反対の平和などを勇敢に掲げ、戦いの中で生涯を終えた多くの先輩、同志に対して心からの敬意と感謝の言葉をささげたいと思う。
 第二は、日本共産党のこの戦いを底流にして、新しい社会を目指す新しい文化の運動が花開き、戦後の私たちに大きな遺産を残したことだ。治安維持法の支配のもとでも戦前の日本では、学問の分野でマルクス主義の理論が大きな力を持つようになり、さらに文学、演劇、映画、音楽、美術など多くの分野にわたって、当時プロレタリア文化と呼ばれた新しい活動が社会全体に大きな影響を及ぼした。小林多喜二宮本百合子の作品も、中央公論などといった当時一流の総合雑誌が競争で掲載したのだ。
 野呂栄太郎が中心となって、党の綱領的立場から日本社会の歴史、現状、展望を分析する講座を計画したときには、大学に籍を置く研究者を含めて多くの人々が結集し、1932年から33年にかけて日本資本主義発達史講座を全7巻、岩波書店から刊行し、大きな影響を与えた。
 また、マルクスの理論そのものの研究という点でも、ソ連でさえマルクス・エンゲルス全集の刊行が、最初の段階で最初の部分だけで中断していたときに、マルクス・エンゲルス全集の全32冊、資本論を含めると37冊になったが、これは世界で初めて日本で刊行された。このことも、この時代の特筆すべき成果だった。それは多くの研究者がマルクス・エンゲルスの文献もヨーロッパ方面で収集しながら刊行したもので、科学的社会史の研究への大きな貢献になった。
 治安維持法体制のもとで、それに抗して発展したプロレタリア文化は、その諸成果は戦前の暗黒時代のもとで未来を開く明るい灯火となった。厳しい情勢の中での活動だったが、そこに戦後に残した貴重な文化的、理論的遺産があったことを私は強調したいと思う。」


   ・   ・   ・