🎹18:─2─日本軍部は、中国軍内部のドイツ軍事顧問団とドイツ軍需産業の情報を集めていた。1935年7月~No.79No.80No.81 @ ⑮

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 7月 陸軍は、統制派と皇道派で激しく対立していた。
 皇道派の真崎甚三郎陸軍教育総監が罷免された。
 7月19日 ブリット駐仏アメリカ大使(ハル国務長官への報告)「アメリカと日本が開戦する事を、ソビエト政府は切望している……日本と開戦すれば、ソビエトが同盟国になるかもしれないという事は、願っていれば、いずれ願い通りになるという事です。日本の敗北が決定的になるまでは腰を上げないでしょうが、日本の敗北が決定的になれば、ソビエト連邦は機に乗じて一気に満州及び中国のソビエト占領地区を手に入れようとするでしょう」
   ・   ・   ・   
 ソ連コミンテルンは、各国のインテリを取り込む為に平和勢力としてのプロパガンダを始めた。
 コミンテルン幹部のヴィリー・ミュンツェンベルクは、反戦平和運動を組織し、物理学者アインシュタイン、作家アンドレ・ジッド、劇作家バーナード・ショー孫文夫人の宋慶齢ら世界的な著名人を参加させてた。
 日本でも、多くのインテリが参加し、洗脳されて共産主義者となった。
 洗脳された共産主義者の多くが、エリートとて自国の政府や軍隊に潜り込み、共産主義大義の下で人民を解放するべく革命活動を始めた。
 アジアと日本を共産主義化する為に、蒋介石を反天皇反日ナチス・ドイツの人民統一戦線に引き込み、アメリカの共産主義者を使って反日派のルーズベルト蒋介石に対する財政・軍事支援を増加させる方向に誘導した。
 7月25日(〜8月20日) 第7回コミンテルン大会。モスクワで開催され、57か国、65の共産党から510人の代表が出席した。
 大会で、人民戦線方針が承認され、反ファシズム統一戦線(フロント)が結成された。
 軍国日本とナチス・ドイツを人民の敵で打倒すべき反革命分子であると、日本共産党中国共産党など各国の共産党に指示を与えた。
 共産主義者が目指した平和とは、人民独裁の共産主義体制下での平和で、その理想を実現する為の戦争を正しい戦争として奨励した。
 各国の共産党員は、思想信条を隠して各国政府の中に潜入した。
 共産系義勇隊は、日本と戦う為に、続々と抗日軍に参加した。
 日本人共産主義者も、表向きに転向したと嘘を付き、革新官僚として政府の中枢に潜り込んだ。
 軍部は、薄々とは、転向左翼である革新官僚(隠れマルクス主義者)の魂胆を見抜いていたがソ連の情報を得る為に接近し、その情報をもとにして軍事行動を行っていた。
 だが。一部の若手将校が、娘を身売りするほどに困窮する地方の零細農家の惨状を改善する為は、富を独占する財閥と腐敗した無能力な政治家を打倒しなければとして、新たな維新活動に燃えた。
 憲兵隊は、軍隊内にマルクス主義が蔓延し始めた事に警戒し、特高警察と共に思想弾圧を強化した。
 統制派将校の中にも、マルクス主義を信奉している者が若干存在していた。
 さらに、政府内はおろか天皇の近くにさえ隠れマルクス主義者が潜り込んでいた。
 大会は、平和の為の闘争としてファシズム反対と戦争反対を議論し、資本主義攻勢反対の一国的及び国際的統一戦線及び人民戦線の徹底的展開並びにその効果的活動方針を決定した。
 コミンテルンは、世界の共産主義化の為に万人受けする「平和運動」と称する事にした。
 共産主義者は、平和運動を隠れ蓑にして、革命、暴動、戦争を煽ってソ連の勝利に貢献しようとしていた。
 「共産党は、……戦争準備の目的でブルジョワ民主主義的自由を制限する非常立法に反対し、軍需工場の労働者の権利の権限に反対し、軍需産業への補助金の交付に反対し、兵器貿易と兵器の輸送に反対して、闘わなければならない。……ソ連社会主義の防衛の為に労農赤軍を出動させる事を余儀なくされた場合には、共産主義者は、あらゆる手段をもち、どんな犠牲をはらってでも、赤軍帝国主義者の軍隊に勝利するのを助ける様に、全ての勤労者に呼び掛けるであろう」
 根本政策。第一決議、コミンテルンはこれまでの対立してきた諸団体との関係を清算し、反ファシズム反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、敵に気付かれる事なく人民を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させる事。
 第二決議、共産主義化の攻撃目標を軍国日本、ナチス・ドイツポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いる。
 第三決議、軍国日本の共産主義化の為にファシズム中国を重用する事。
   ・   ・   ・   
 8月 皇道派の相沢三郎中佐は、統制派の永田鉄山少将を斬殺した。
 8月1日 コミンテルン第7回大会は、反共産主義国家の日本とナチス・ドイツとの戦争に勝利するべく、ブルジョア政党や資本主義諸勢力と手を組む為に、従来の階級闘争・世界共産主義革命路線を修正して広く大衆を動員する人民統一戦線テーゼを採用した。
 コミンテルンの日本支部である日本共産党は、野坂参三を代表として参加させ、再度の「天皇制打倒」の三五年テーゼを受け取った。
 二度も天皇制打倒のテーゼを受け取る事は諸外国の共産党の手前、恥であり、屈辱であった。
 日本人共産主義者は、何が何でも天皇制度を打倒するべく、壊滅しかけている組織をあげて取り組んだ。
 スターリンは、中国共産党に対して、満州における日本軍の増強を食い止め、中国を救う為に、国民党との統一戦線を組む様に命じた。
 ソ連は、日本軍を大陸奥地まで引きずり込んで泥沼化させると同時に、南進させて国力の消耗を強いて革命を起こさせようとした。
 日本人マルクス主義者は、共産主義大義を掲げ、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を打倒し、神国・日本国家を解体し、祖先神の子孫である日本民族を消滅させるべく、政界、官界、学界、軍隊など分野に潜入した。
 警察当局や憲兵隊の思想弾圧を逃れる為に、協同主義と言い換え、階級制度に疑問を持つ皇族や華族に同調者(隠れ共産主義者)を増やした。
 定職を持たないマルクス主義者は、ソ連コミンテルンからの資金援助を受けて社会を混乱させるべく活動を続けていた。
 資源がなく国力も貧弱な日本軍は、一か八かの短期決戦を得意とするが、消耗を伴うの泥沼戦争は不得意であった。
 日本外務省は、コミンテルンの決議宣言を、マルクス主義者に対する日本国内での破壊工作の指示、中国共産党に対する抗日運動から日中戦争に追い込む命令と分析した。
 日本は、共産主義の侵略から日本を防衛する為に、満州を独立国として建国して対共産主義同盟を結ぼうとした。
 世界恐慌で打撃を受けた国内経済を、満州に集中させる必要があり、国力の消耗を伴う中国との戦争は避けたかった。
 軍部の主流は、国家防衛の対ソ戦略として、専守防衛を基本戦術として満蒙を反共産主義の防波堤として整備強化を目指していた。
 共産主義封じ込めの提携先を、反共産主義・反ユダヤを掲げて勢力を拡大したナチス・ドイツではなく、独立して歴史の浅いポーランドであった。
 ソ連軍の動向を探るべく、ポーランドに情報将校を派遣した。
 ポーランド軍は、対ソ戦略から日本軍に協力して、ソ連に関する情報交換を行った。
 年の暮れ。スターリンは、ウィーンで、蒋介石と会見した。
 ソ連は、ファシスト中国が軍国日本の侵略に果敢に戦いを挑めば、全面支援する事を提案した。
 アメリ共産党は、コミンテルンから活動資金を受け取り、リベラル派知識人やキリスト教会と協力して反戦・反ファシズムアメリカ連盟を結成した。
 各種労働組合や平和主義市民団体も、反戦アメリカ連盟に参加した。
 左翼系報道機関は、日本軍の残虐記事を捏造して流布させ、国民世論を反日に誘導し、宗教的人種差別意識を利用して、非キリスト教国・非白人の日本への憎悪を煽った。
 コミンテルンは、日本共産党共産主義者無政府主義者社会主義者・リベラル左派らに対し、数千万人を犠牲にしても搾取の元凶である「天皇制を打倒せよ!」と命じた。
 手段を選ばず、共産主義者である事を隠して敵の中に潜入して、味方の振りをして内から崩壊させるべきであると。
 この35年テーゼは、左翼・左派のマルクス主義者らが活動路線を変更していない限り今日でも存在し、彼らが事実を認めて公開し公式の場で否定しない限り今後も生き続ける。
 事実、現代の人権派反戦平和団体はそのように行動している。
 リベラルを標榜する理想主義者も、その事実を黙認している。女系天皇も、内実はこの35年テーゼに基づいている。
 だが、共産主義者の発言や約束が当てにならない事は歴史的事実であり、それを信ずる者は馬鹿を見て惨殺された。
 共産主義者は、結果オンリー主義から一切の制約を無視して、合法・非合法の手段を選ばなかった。
 彼等は、国家元首天皇を暗殺し、皇族を皆殺しにしようと計画を立てていた。
 国家権力は、マルクス主義者によって国内から破壊される事に危機感を抱いた。
 モスクワの第七回コミンテルン大会に出席した中国共産党代表の王明は、反ファシズム統一戦線の構築決議を受け、「抗日救国の為に全国同胞に告げる書」を発表して、国民党に国共内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を呼びかけた。
 蒋介石は、日本を攻撃する前に、中国共産党の殲滅を優先するという、「安内攘外」の方針を明らかにした。国民党軍は、全兵力を延安攻撃に振り向けた。
 エドガー・スノー共産党の運命はふたたび蒋介石の意中にかかる事となり、……1937年6月には蒋介石は、……再度紅軍の行く手を塞ごうとしていた。……(共産党は)今一度完全降伏に出るか、包囲殲滅を蒙るか、または北方の砂漠に退却するかを選ぶ事態となったかにみえた」(『中共雑記』)
 歴史的に、ドイツ保守層は親ソで反日であったが、新生ポーランドは反ソで親日であった。
 参謀本部第二部欧米課は、軍部首脳が親ポーランド派で占められている為に、ナチス・ドイツとの提携を極秘に模索していた。
 日独提携を声高に主張していたのは、34年3月までドイツ駐在武官を務めていた坂西一良中佐ら少数派であった。
 欧米課長飯村穣大佐からドイツ日本大使館付き陸軍武官大島浩大佐への極秘の指示。「第二部内だけの事だが、ドイツと将来にわたり何らかの提携を考えたい。
   ・   ・   ・   
 9月 イギリスは、中国における利権を守る為に、軍国日本に対して共同で蒋介石を財政援助する事を提案した。
 日本外務省と軍部は、国民党が満州国を独立国として承認してくれるのであれば援助すべきだと考えていた。
 高橋是清蔵相は、「主旨はまことに最もであるが、ない袖はふれない」といって反対した。
 もし、満州国の承認と引き換えに財政援助していれば、日本のその後の破滅は回避されたかもしれない。
 軍部は、これ以上の中国内戦に介入する事を好まず、ソ連共産主義勢力の侵略を食い止めるべく満州に兵力を集中させる事を希望していた。 
 軍国主義者は、満州国を近代国家に成長させ、軍国日本と満州国は反共産主義同盟を組んで、アジアを共産主義の魔の手から守る計画を立てていた。
 軍国日本は、2000年以上の長きにわたって受け継いできた民族の伝統的天皇制度を共産主義から守る為ならば、如何なる手段でも厭わなかった。
 日本陸軍は、『転換期の国際情勢と我が日本』を発行した。
 「未だ誤られたる国民党部の欧米依存、排日政策より完全に脱却するに至らない……支那政権は昨今若干覚醒の機運に在る」
 反日的国際勢力は、「国體」を守りたいという日本民族の悲願を打ち砕くべく戦略を練って行動していた。
 長征。毛沢東「我々は独立した共産党ではない。我々は共産主義インターナショナルの一員である。我が中国革命は世界革命の一環なのだ。我々はソ連との国境に向けて進撃し、拠点を築き、それから東に向かおう」
 毛沢東は、スターリンの指導下で、ソ連の援助を受けて行動する事を改めて表明して、中国共産党における正統な主導権保持者である事を再度宣言した。
 モスクワ・コミンテルン本部からの極秘指定の無線通信は、全てソ連留学組の最高幹部・任弼時によって翻訳され毛沢東に届けられた。
 毛沢東は、党中央政治局会議に於いてモスクワからの指示として口頭で伝え、極秘指令電信文を回覧する事はなかった。
 モスクワへの無線通信は、毛沢東が完全に管理していた。
 毛沢東の発言に疑問を持つ者は、反革命分子として粛清された。
 毛沢東は、スターリンの指示に不服な点もあるが、スターリンが死ぬまでは嫌々ながら従っていた。
   ・   ・   ・   
 10月 中国共産党は、ぼろぼろな衣服をまとい空腹で痩せ細った体の流浪者集団として陝西省延安に辿り着いた。世に言う、長征の終了である。
 イタリア軍は、エチオピアに侵攻した。
 アインシュタインは、平和主義から、日本に続いてイタリアによるエチオピア侵略に抗議した。
 ポール・ドティ「ファシズムから分明を如何に救い、生き延びるか……平和の話しはそれから」
 10月1日 反日派のアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将は、ゼークト大将が帰国した為に軍事顧問団長に就任し、ファシスト中国軍の近代化を推し進め、蒋介石に対日強硬策を進言した。
 ファルケンハウゼン中将は、中国の敵は日本と中国共産党であるが、まず外敵である日本を攻撃すべきであるとして、手薄な上海と漢口の日本人租界を奇襲すべきであると進言した。
 ドイツ軍事顧問団は、漢口・上海の日本租界を奇襲攻撃し、日本人居留民保護にあたっている日本軍を強襲して殲滅させるべきだと対日作戦を提案した。
 蒋介石は、先に中国共産党を殲滅させるという「安内攘外」戦略から、ドイツ軍事顧問団が提案した対日即開戦論を退けた。
 10月17日 ルーズベルト「戦争に続く道を私達にたどらせる一連の混乱とアメリカが無関係でいられるよう全力を尽くそう、私は自分にそう誓っています」
 10月23日 ルーズベルト「海外で戦争が生じようと、この国がそうした戦争に混乱させられる事なく、無関係でいられる様にする事が私の第一の任務でしょう」
   ・   ・   ・   
 11月 ルーズベルトは、大統領選挙に勝利して、二期目を勝ち獲った。
 蒋介石は、抗日戦を求める強烈な国民世論を受け入れ、国民党大会で和平交渉が不可能となった時は抗日戦を覚悟すると表明した。
 抗日戦実行に際して、ソ連の軍事援助が得られるかどうかを探るべく、密使をウィーンに送った。
 ソ連は、追い詰められ消滅寸前の中国共産党を救う為に、ウィーンで蒋介石接触して「日本と戦うのであれば援助する」と提案した。
 蒋介石は、日本軍と戦う前に中国共産党を滅ぼすという基本方針から、即答を避けた。
 ソ連蒋介石を仲介したのは、イギリスのユダヤ系国際資本家であった。
 ユダヤ系国際資本家は、中国市場を独占する為に、日本を中国から完全に追放するべくファシスト中国を利用しようとした。
 南京のドイツ軍事顧問団は、日本軍との戦は避けられないと分かっていた為に防衛陣地建設と中国軍強化を急いでいた。
 マッカーサーは、「国権の発動としての戦争を放棄」したフィリピン憲法を起草した。後の、戦争放棄を唱った日本国憲法の原型でである。 
 フィリピンは、独立を認められてもアメリカの植民地に変わりなく、安全保障はアメリカ軍に全面的に頼っていた。
 世界史に於いて、自国の安全を自力で確保できない国は、安全を依存してい国の属国化植民地である。
 自衛の軍隊を持たない国は、国内に駐屯している国の占領下にある事を意味している。
 11月11日 ルーズベルトアメリカ合衆国の第一の目的は、戦争に巻き込まれる事を回避する事です」
 11月4日 ソ連スパイ・ゾルゲは、東京のドイツ大使館から日独協定の内容を盗み出した。
 11月26日 ドイツ外務省は、日本大使館付き陸軍武官大島浩に防共協定草案を手渡した。
 大島陸軍武官は、東京に日独防共協定草案を送った。
 防共協定案は、正規の外交交渉で生まれたのではなく、外交の素人である大島浩武官とヒトラーの外交顧問リッベントロップとドイツ軍情報部カナリス大佐らが作成したものであった。
 ドイツのエリート層は、反日派として日本との提携に猛反対していた。
 ドイツの日本大使館はつんぼ桟敷に置かれ、武者小路公共大使や横井忠雄海軍武官は何も知らされていなかった。
 日本の外交は、往往にして、外交を知らない素人が勇み足で極秘に他国交渉を行う傾向がある。
 成功した例は日独防共協定であり、失敗例が日米和平交渉である。
 日本人の外交音痴は、自分こそは本職の外交官よりも外交交渉能力があり、狡知に長けた老練な他国の外交官を説得できると妄信しているところにある。
 つまりは、外交を得意げに語る者はくだらない「井の中の蛙」に過ぎない。
 現代日本に、そうした夜郎自大の軽薄な政治家が増え始めている。
 参謀本部第二部ドイツ班と陸軍省軍事課は、日独防共協定を協議したが、親ポーランド派幹部の慎重論が大勢を占め継続的研究をする事で棚上げとなった。
 軍部は、ナチス・ドイツ以外に複数国と防共的提携の模索が主流を占めていた。
 軍人エリート官僚は、名門名家生まれでもい中級階級の子供であり、正規の軍事教育を受けた事のない歩兵伍長の食い詰め志願兵で、政治的に実績のないミュンヘン一揆の首謀者・ヒトラーを軽蔑し信用していなかった。
 軍部は、中国軍内のドイツ軍事顧問団の活動中という情報に神経を尖らせていた。
   ・   ・   ・   
 中国共産党支配地区で。
 現場で苦労させられている下級党員や一般兵士らは、裕福な家庭出身で共産主義の理念や理想を熱く語るモスクワ留学組党幹部に失望し、粗雑で乱暴ではあるが話しを聞いてくれる毛沢東が指導者として復権することを望んだ。
 毛沢東は、現場の不平不満を利用して支持者を増やし、有能な政敵を全て容赦なく粛清し、反対派を黙らせて権力を手に入れた。
 毛沢東は、政治や軍事や経済などの才能ではなく、相手の欲を利用する事で人心を獲得し、『水滸伝』の盗賊さながら謀略と流血で中国共産党の指導者となった。
   ・   ・   ・   
 12月 毛沢東は、モンゴル人の攻撃を避ける為に、三・五宣言を行って「内モンゴルの領土の保全を尊重する」と宣言した。
 中国共産党が体制を固めるまでの方便であり、モンゴルの自治権も人権も認めてはいなかった。
 戦後。中国共産党は、モンゴルの分離独立派を弾圧し、民族主義者を親日派として大虐殺した。
 共産主義政策は、反対派の大流血で実行された。
 北京で。学生達は、日本軍華北侵略反対と国共内戦停止を求める運動を展開した。
 12月9日 ルーズベルト「皆さんも私も承知している事ですが、私達には世界の他の地域で行われている戦争に参加するつもりはありません」
 12月下旬 ソ連タス通信が、極秘で進められていた日独防共協定交渉をスクープした。
 情報源は、日本国内で活動していたソ連軍スパイのゾルゲであった。
 イギリスのニュース・クロニクル紙やフランスの左翼系新聞も報道した。
 ドイツ保守層は、日本との協定に猛反対した。
 ノイラート外相は、ヒトラーに「日本との提携は何ももたらさない」と進言した。
 南京のトラウトマン駐華大使は、蒋介石を支援する立場から、リッベントロップに「日本軍によって、ドイツの軍事的負担が軽減される事はない」と指摘して抗議した。
 ブロンベルク防相は、中国との軍事協定交渉を優先して日本との防共協定には反対した。
 ベック参謀総長は、カナリス大佐の親日的行動に釘を刺した。
 シャハト経済相兼帝国銀行総裁は、中国貿易の拡大を求める経済界の強い要請を受けて猛反対した。
 ヒトラーは、独裁者として、対ソ戦略から日本との防共協定を承認したが、同時に経済の為に中国への軍事援助継続を認めた。

    ・   ・   ・   

伊勢神宮と天皇の謎 (文春新書)

伊勢神宮と天皇の謎 (文春新書)