♬:27─2─五族協和・王道楽土の犠牲になった流転の王妃・嵯峨浩の悲劇。〜No.116    @     

流転の王妃の昭和史 (中公文庫)

流転の王妃の昭和史 (中公文庫)

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 軍国日本は、江戸時代末期から、北から侵略してくるロシア・ソ連共産主義勢力から母国日本・日本天皇を守る事が国防の根幹であった。
 日露戦争の経験から、ロシア・ソ連共産主義勢力に対抗するに日本一ヵ国では不可能なので、周辺に共に戦ってくれる同盟国を増やす必要があった。
 それが、満州国である。
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 日露戦争時、清国(中国)と朝鮮が共に戦ってくれたら苦戦しなかったが、ロシアに味方した為に甚大な被害を出して辛勝した。
 中国と朝鮮は、古代から、親日知日ではなく反日敵日であった。
 日本には、古代から、反日敵日国家に包囲されていた。
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 日本民族日本人の祖先は、縄文時代から朝鮮半島南部に原住民として住んでいた。
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 満州国を攻守同盟国にする為には、人質を差し出し、満州国帝室の男子と結婚させる事であった。
 それは自家の女子を相手に差し出す、日本特有の政略結婚であった。
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 11月16日 産経ニュース「「死んだつもりで国の為に結婚」…“流転の王妃”結婚前の揺れ動く心境、赤裸々に 愛新覚羅溥傑の妻・嵯峨浩の未公開書簡21通、東京の古書入札会に出品
 愛新覚羅溥傑の妻、嵯峨浩の見合い写真
 満州国皇帝の弟の愛新覚羅(あいしんかくら)溥傑(ふけつ)の妻で、「流転の王妃」として知られる嵯峨浩(ひろ)(1914〜87年)が結婚直前の揺れ動く心境をつづった未公開書簡が見つかり、16日に東京都千代田区の東京古書会館で報道陣に公開された。国策として進められた政略結婚の内幕を明かす貴重な資料だ。
 浩は嵯峨実勝侯爵の長女で、女子学習院卒業後の昭和12年4月に関東軍の主導で溥傑と結婚。34年刊の自伝「流転の王妃」は映画化もされた。
 今回公開されたのは11年1月〜12年2月に画塾の級友にあてた書簡21通と写真3枚で、うち3通は溥傑との縁談に触れた内容。「とうとうあきらめて私は死んだつもりで国の為(ため)に結婚しなければならなくなりましたの」(12年1月21日)、「本当にもっともっと平凡な結婚がしたうございました」(同1月24日)、「御国(おくに)の為になることなら私はどうなろうと満足でございます(中略)決心と覚悟がつきました」(同2月9日)など、突然の政略結婚への戸惑いや不安、覚悟を赤裸々に打ち明けている。
 書簡は17日から東京古書会館で開かれる古書オークション「古典籍展観大入札会」(東京古典会主催)に出品される。」
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 嵯峨浩(1914年(大正3年)3月16日 - 1987年(昭和62年)6月20日)は、愛新覚羅溥傑満州国皇帝愛新覚羅溥儀の弟)の妻。後に記した自伝のタイトルから「流転の王妃」として知られる。
 生涯
 戦前
 1914年(大正3年)3月16日、侯爵嵯峨実勝と尚子夫人の第一子として東京で生まれた。嵯峨家は藤原北家閑院流の三条家の分家で、大臣家の家格をもつ正親町三条家が、明治維新後に三条実美の転法輪三条家と混同されることを避けるため改称したものである。明治17年(1884年)の華族令では家格に基づき公勝に伯爵が叙爵されたが、明治21年(1888年)になって「父・実愛の維新の功績」により嵯峨家は侯爵に陞爵している。
 浩が女子学習院を卒業した1936年(昭和11年)当時、日本の陸軍士官学校を卒業して千葉県に住んでいた満州国皇帝溥儀の弟・溥傑と日本人女性との縁談が、関東軍の主導で進められていた。当初溥儀は、溥傑を日本の皇族女子と結婚させたいという意向を持っていた。しかし日本の皇室典範は、皇族女子の配偶者を日本の皇族、王公族、または特に認許された華族の男子に限定していたため、たとえ満州国の皇弟といえども日本の皇族との婚姻は制度上認められなかった。そこで昭和天皇とは父親同士が母系のまたいとこにあたり、侯爵家の長女であり、しかも結婚適齢期で年齢的にも溥傑と釣り合う浩に、白羽の矢が立つことになった
 翌1937年(昭和12年)2月6日、二人の婚約内定が満州国大使館から発表され、同年4月3日には東京の軍人会館(現九段会館)で結婚式が挙げられた。同年10月、二人は満州国の首都新京へ渡った。夫婦関係は円満で、翌1938年(昭和13年)には長女・慧生が誕生。翌年、溥傑が東京の駐日満州国大使館に勤務するため東京に戻り、翌1940年(昭和15年)には次女・?生が誕生。?生誕生後すぐに満州へと渡るが、1943年(昭和18年)に溥傑が陸軍大学校に配属されたため、再び東京に戻った。
 流転の日々
 1944年(昭和19年)12月、学習院初等科に在学していた長女の慧生を日本に残して、新京に戻った。翌1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦によって新京を攻められたため脱出し、終戦を朝鮮との国境近くの大栗子通化省臨江県)で迎えた。溥傑は溥儀の日本へ亡命する飛行機に同乗、浩は陸路で朝鮮に向かい、そこから海路で日本へ帰国することになった。
 しかし、溥儀と溥傑らは途中でソ連軍(赤軍)に拘束され、浩たちのいた大栗子も危険となったため、臨江に逃れた。翌1946年(昭和21年)1月には、八路軍の手によって通化八路軍公安局に連行され、通化事件に巻き込まれた。同年4月以降、長春満州国時代の新京)、吉林、延吉、佳木斯へとつぎつぎに身柄を移され、同年7月に佳木斯で釈放された。
 釈放後、同年9月に葫芦島に至り、そこで日本への引揚船を待った。しかし、同地で国民党軍に身柄を拘束され、北京を経由して同年12月に上海へと移された。同月、上海の拘束場所から田中徹雄(旧日本軍の元大尉、のちの山梨県副知事)の助けを得て脱出し、上海発の最後の引揚船に乗船して、翌1947年(昭和22年)1月に日本に帰国した。なお、上記の流転の日々から帰国までの間、次女の?生をずっと伴っていた。
 引揚げ後
 日本に引揚げた後、父・実勝が経営する町田学園の書道教師として生計を立てながら、日吉(神奈川県横浜市港北区)に移転した嵯峨家の実家で、2人の娘たちと生活した。一方、溥傑は、溥儀とともに撫順の労働改造所に収容され、長らく連絡をとることすらできなかった。1954年(昭和29年)、長女の慧生が、中華人民共和国国務院総理の周恩来に宛てて、「父に会いたい」と中国語で書いた手紙を出した。その手紙に感動した周恩来は、浩・慧生・?生と、溥傑との文通を認めた。
 1957年(昭和32年)12月10日、学習院大学在学中の慧生が、交際していた同級生、大久保武道とピストル自殺した(天城山心中)。
 北京での第二の人生
 1960年(昭和35年)に溥傑が釈放され、翌年、浩は中国に帰国して溥傑と15年ぶりに再会した。この後、浩は溥傑とともに、北京に居住した。北京に移住後、文化大革命文革)が始まり、1966年(昭和41年)には二人の自宅が紅衛兵に襲われた。文革が下火になって以降、浩は1974年(昭和49年)、1980年(昭和55年)、1982年(昭和57年)、1983年(昭和58年)、1984年(昭和59年)の計5回、日本に里帰りしている。
 1987年(昭和62年)6月20日、北京で死去した。1988年(昭和63年)、浩の遺骨は、山口県下関市中山神社(祭神は浩の曾祖父中山忠光)の境内に建立された摂社愛新覚羅社に、慧生の遺骨とともに納骨された。
 溥傑が死去した1994年(平成6年)、浩と慧生の遺骨は半分に分けられ、溥傑の遺骨の半分とともに愛新覚羅社に納骨された。浩と慧生の残る半分の遺骨は、溥傑の遺骨の半分とともに、中国妙峰山上空より散骨された。次女の?生は日本に留まって日本人と結婚、5人の子をもうけ、2012年(平成24年)現在、兵庫県西宮市に在住する。
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 五族協和とは
 日本が満州国を建国した時の理念。五族は日本人・漢人朝鮮人満洲人・蒙古人を指す。五族協和 (満州国)を参照のこと。
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 王道楽土とは、1932年、満州国建国の際の理念。
 概要
 アジア的理想国家(楽土)を、西洋の武による統治(覇道)ではなく東洋の徳による統治(王道)で造るという意味が込められている。なお、日本の歴史の教科書には、日本の政府が「王道によって治められる安楽な土地」と説明して、宣伝していたとしているものもある。
 「五族協和」「王道楽土」と並び称されたが、「五族協和」とは、満日蒙漢朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うとする趣旨の言葉。満州には五族以外にも、ロシア革命後に逃れてきた白系ロシア人や、ユダヤ人迫害政策を取ったナチス党政権下のドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人、ウイグル人等のイスラム教徒なども居住していた。
 満州には内戦の続く疲弊した中華民国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人、そして大日本帝国政府と満州国政府の政策に従った満蒙開拓団満蒙開拓移民満州武装移民)らの移住・入植が相次ぎ、人口も急激に増加した。
 内地(日本本土)においても、(当時の農村不況も相まって)困窮する零細農民や土地を持たぬ小作農、土地を相続できない農家の次男三男以下など、または大陸にて雄飛し名をあげる野望を抱く「大陸浪人」らの間で、満州に憧れる風潮が生まれた。
満州を新大陸や楽園(ユートピア)のように表現する映画や歌も作られた。
 ・「開拓団の子供」
 ・「迎春花」(李香蘭
 ・「新日本の少女よ大陸へ嫁げ」(東宮鉄男作詞)
 日本人の「満州馬賊」として知られているのは
 ・小日向白朗(尚旭東)
 ・伊達順之助(張宗援)
 などであった。
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 2015年6月30日 産経ニュース「【戦後70年】血に染まった乳母の顔、銃弾・砲弾の嵐…西宮在住ラストエンペラー血族の回想「多くの人に守られ生かされた」
 周恩来首相主催の昼食会での記念写真。前列右から溥傑、浩、周恩来、嵯峨尚子(浩の母)。福永さんは浩の左後方。左から2番目が溥儀=1961年、中国(関西学院大学博物館提供)
 ラストエンペラーとして知られる清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ、1906〜67年)とともに満州終戦を迎えた血族が兵庫県西宮市に住んでいる。溥儀の実弟である溥傑(ふけつ、1907〜94年)の次女、福永●生(こせい。●=女へんに雨、その下に誇のつくりで大を取る)さん(75)。戦後70年を迎えて戦争の記憶が風化し日中関係が複雑さを増す中、「人と人との真心の交流を大事にしてほしい」と訴えている。(加納裕子)
満州国崩壊 石投げられ、唾吐きかけられ、目の前で多くの命失われた
 福永さんは昭和15(1940)年3月、溥傑と嵯峨浩(さがひろ、1914〜87年)の次女として東京で生まれた。浩は公家華族の長女で、2人の結婚は日本と満州の親善の架け橋といわれた。
 1945年8月の終戦時、5歳だった福永さんは溥儀や溥傑、浩とともに満州にいた。「みんな泣いていて、寂しいような悲しいような情景だけは覚えております」と振り返る。父親の溥傑は溥儀とともに飛行機で亡命する途中、ソ連軍が拘束。一方、母親の浩は「一族とともに皇后をお守りする」と決意して日本への帰国の誘いを断り、やがて皇后とともに中国共産党軍に捕らえられる。
 翌年1月、皇后と浩、福永さんらは中国東北部の町、通化に移送された。翌月、日本人が武装蜂起に失敗し、戦死や処刑などで千人以上が死亡したとされる「通化事件」が発生。福永さんらのいた場所も戦場となり、激しい戦闘にさらされた。
 その後も軍に拘束されたまま中国東北部を転々とし、延吉では軍に市中を引き回されて市民に石やつばを吐きかけられたことも。ハルビンで釈放され、日本に引き揚げる開拓団に紛れて歩き続けてようやく港にたどり着いたが、今度は国民党軍に戦犯として捕らえられた。上海で元軍人の日本人に救出されて日本への引き揚げ船に乗るまで直線距離にして約6千キロ、約1年5カ月に及ぶ流転の日々の中で、母娘の目の前で多くの命が奪われたという。
鮮血で染まる顔、折り重なって守ってくれた人々
 福永さんが鮮烈に覚えていることがある。通化事件で砲弾が飛び交う中、皇后を守ろうとした溥儀の乳母が撃たれ、手首のない手で顔を覆った。鮮血で真っ赤に染まった顔…。乳母はやがて息絶え、遺体は放置された。そんな砲弾の中で一族を守ろうと、布団をかぶせて覆いかぶさった日本兵がいた。その日本兵が砲弾で亡くなると中国兵が同じようにかぶさって守り、命を落としたという。
 「それらの方が亡くなった上で私たちが生かされたことに感謝しております」と福永さんは振り返る。この後も数え切れない修羅場をくぐり抜けての奇跡の生還の陰には、身をていして浩や福永さんを守ろうとした大勢の日本人、中国人がいたという。
愛によって再生した一族の物語、伝えていくことが大事
 溥儀とともにソ連に抑留されていた溥傑はその後、中国の戦犯管理所に送られた後、1960年に釈放。互いを想い続けていた一家は翌年、再会を果たし、浩は生涯を北京で溥傑とともに過ごした。
 一方、福永さんは日本にとどまって帰化し、日本人の実業家と結婚して大阪や兵庫で5人の子供を育てた。溥傑と浩は1972(昭和47)年の日中国交正常化以降に日中親善のため何度も来日し、浩は福永さんに「物がなくなっても惜しむことはない。人の心と自分の命を大切にするように」と繰り返したという。
 平成25年10月、福永さんは兵庫県西宮市の自宅で保管していた一族の資料約千点を同市にある関西学院大学博物館に寄贈。同博物館では27年5〜7月に約60点を公開する展覧会「愛新覚羅家の人びと−相依為命(あいよっていのちをなす)−」が開催され、6月20日に開かれた記念講演会では福永さんが自らの体験を語った。
 博物館によると、当初の定員300人に対して4倍近い参加申し込みが寄せられ、関西圏だけでなく、関東や九州など遠方からの参加者もいたという。河上繁樹館長は「予想を超える反響だった。終戦から70年、中国との緊張関係もある中で、戦争を知らない世代が増えている。ご本人が語ることが大きかったのではないか」と話す。
 展覧会の副題「相依為命」は「時代は変わっても、相手を思いやる気持ちがあれば生きていける」との意味で、溥傑がよく口にした言葉。福永さんの生涯をつづったノンフィクション「流転の子 最後の皇女・愛新覚羅●生」を著した作家の本岡典子さん(59)は「●生(こせい)様は“命さえあれば”と語られ、その言葉はシンプルだけれど大切なこと。苦労の後、愛によって再生したご一族の物語を伝えていくことは今、とても大事なことだと思います」と訴える。
 福永さんは取材に対して穏やかだが、凛とした表情で語った。「私どもは政治や経済とは全く関係ありません。心と心の交流こそが一番確かで信頼できると思うのです。父と母の『相依為命』ではありませんが、お互いに思い合って支え合って生きていく精神が広まれば、戦争は少なくなると思います。次の世代の方にも心と心の交流を続けていってほしいのです」
   ◇  
 ■愛新覚羅家の歩み(敬称略)
 1906年 愛新覚羅溥儀が誕生
 1907年 溥儀の実弟、溥傑が誕生
 1908年 溥儀が第12代清朝皇帝になる
 1912年 溥儀が退位し、清朝が滅亡
 1914年 嵯峨浩が誕生
 1928年 溥傑が日本に留学
 1932年 満州国建国宣言、溥儀が執政に就任
 1934年 溥儀が満州国皇帝に即位
 1937年 溥傑と浩が日本で結婚、2人は満州へ渡る
 1938年 溥傑の長女、慧生(えいせい)が誕生
 1940年 溥傑の次女、●生(こせい)が誕生
 1945年 満州国崩壊、溥儀が退位。溥儀と溥傑はソ連軍に拘束される
 1947年 1年5カ月の流転の末、浩と●生が帰国。終戦時に学習院初等科通学のため日本にいた慧生と再会
 1950年 溥儀と溥傑が中国の戦犯管理所へ移送される
 1957年 慧生が死去
 1959年 溥儀が釈放される
 1960年 溥傑が釈放される
 1961年 ●生が学習院女子短期大学を卒業。溥傑と浩、●生が北京で再会。浩は北京にとどまり、●生は日本に帰国する
 1962年 ●生が日本に帰化
 1967年 溥儀が死去
 1968年 ●生が日本人実業家の福永健治と結婚、大阪に居を構える(その後、一家は兵庫へ転居)
 1972年 日中国交回復
 1987年 浩が北京で死去
 1994年 溥傑が北京で死去
 2007年 福永健治が死去
 2013年 ●生が一族の写真や手紙、映像などの資料約千点を関西学院大学博物館に寄贈
 (●=女へんに雨、その下に誇のつくりで大を取る)
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 朝日新聞
 絵空事に終わった五族の共生
 るで日本の城を移設したかのような旧関東軍司令部。今もそのまま共産党吉林省委員会が使っている=中国・長春
 溥儀(プーイー)(ふぎ)(1906〜67)
 清朝最後の皇帝(宣統帝)。姓は愛新覚羅。2歳で即位し、辛亥革命で1912年に退位した。満州事変の最中に日本軍に連れ出され、32年の満州国建国とともに執政、34年に皇帝(康徳帝)となった。日本の敗戦後はソ連に抑留された。50年に中国で戦犯となったが、59年に特赦を受け、一市民として余生をすごした。自伝に「関東軍は高圧の電源、私は正確敏活なモーターのようなもの」だったとある。満州国を傀儡(かいらい)国家と自覚していたのだろう。
 東京の新大久保は不思議な街だ。
 韓国、中国、モンゴル、ベトナム、タイ、マレーシア……。いろんな国の料理店が軒を並べ、様々な外国語が飛び交う。
 かつて「満州国」があった中国・延辺(イエンピエン)朝鮮族自治州の人が出した店もある。
 「ぼくのふるさとの味です」
 そう言って、満州朝鮮人を研究している一橋大客員研究員の許寿童(ホ・スドン)さん(43)が私を誘った。
 許さんの父親は満州国時代の1938年に、8歳で家族と一緒に朝鮮南部から延辺に移った。当時の朝鮮は日本の植民地。土地を奪われ、食べていけない農民も多かった。そんな農村の人減らしと、満州に日本の勢力を増やそうとする移民政策で、押し出されるように国境を越えたのだった。
 許さんと話しながら、二つのことを考えた。一つは、満州国とそれまでの日本の植民地とのつながり。もう一つは、新大久保の街が象徴する日本の今と満州国とのつながりだ。日本では今、人口減や少子化を補うように外国人が増え、多くの民族が共に生きる社会のあり方が問われている。「五族協和」に失敗した満州国に学ぶものがあるのではないか。
 そう口にすると、許さんはこう言った。
 「五族協和はウソでした。それを前提に歴史に目を向けるべきでしょう」
         *
 満州国の首都だった長春(チャンチュン)に飛んだ。
 ここもまた、不思議な街だ。
 満州国時代は「新京(しんきょう)」と呼ばれた。壮大な都市計画で造られた建物群がほとんどそのまま残っている。しかも、大学や病院として今も使われている。生きた歴史のテーマパーク、とでも言おうか。
 たとえば、満州国政府の中枢だった国務院は、西洋と中国の伝統様式を混ぜた造りで、日本の国会議事堂のようだ。
 なぜこんなところに日本の城があるんだろう――。そう驚かされるのが、街の中心で威容を誇る関東軍司令部の建物だ。満州国の支配権を誰が握っていたか、一目瞭然(りょうぜん)と言っていい。今は共産党吉林(チーリン)省委員会。この地域の最高権力者であり、権力のバトンタッチを見る思いがする。
 侵略者の建物を壊さずに、使い続けているのはどうしてだろう。省の公文書館にあたる機関で、満州国時代の憲兵隊文書などの整理に取り組んでいる張志強(チャン・チーチアン)さん(55)に疑問をぶつけてみた。
 二つの理由がある、と張さんは言う。
 まず、日本の敗戦で満州国が崩壊したとき、まだ数年しか使っていなかった。それに、設計は日本人でも建てたのは中国人。「自分たちの血と汗で造ったものを使うのは当たり前」だったのだそうだ。
 二つめは、青少年への「愛国主義教育」のためだ。「侵略された時代の物を残せば歴史の事実が見えますから」
 確かに、ここに来れば、満州国の記憶がよみがえる。ところが、建物には「偽満(ウェイマン)」「偽満州国(ウェイマンチョウクオ)」の史跡という金属板が張ってある。目の前にはっきりと存在しているのに、ニセモノとはどういうわけか。
 東北淪陥(りんかん)14年。満州事変から満州国の崩壊までを中国ではそう呼ぶ。東北地方が占領され踏みにじられた屈辱的な時代という意味だ。20年ほど前から淪陥史をつくる事業が始まった。編集長を務めてきた省社会科学院の孫継武(スン・チーウー)さん(81)を訪ねた。
 「偽満というのは、満州国を認めないということです。私たちの土地を奪った日本がつくった国ですからね」
 その時代を生きた孫さんは、小学校から日本語を習わされた。タバコとタマゴの発音が区別できず、先生に「バカ」と言われて殴られた。日本人の子が中国人を殴っても先生は注意しない。朝礼も別々に並ばされた。「何が五族協和だ」。日本への反感は高まるばかりだったという。
 孫さんたちは80年代末から90年代末にかけて、「偽満」の時代に日本の開拓民が入植した地域の農民100人余りの聞き取り調査をした。見えてきたのは日本の軍隊に土地を奪われる農民の姿だった。山野に追われて荒れ地を開墾するか、土地を手にした日本の開拓民の小作をするしかなかった。その日本人も多くは貧乏な農民だった。
 「彼らも日本の侵略の犠牲者。中国の農民と友好的なつきあいをした人もいたんですよ」。そう言ったあとで、孫さんはすぐ言葉を継いだ。「全体的にいうと、日本人はすごく優越感を持っていた。自分たちは優等民族で、中国人は劣等民族だと」
 それを象徴するのが、孫さんが学校で毎日やらされた宮城遥拝(きゅうじょうようはい)だ。天皇がいる東京に向かって拝み、それから満州国皇帝の方を拝む。この順序で、満州国は日本の傀儡(かいらい)国家だと子供にもわかったのである。
 ■朝鮮からの移民急増 植民地政策が後押し
 さて、そろそろ冒頭の許さんの故郷を訪ねなくてはなるまい。
 延吉(イエンチー)の空港に降り立つと、冷気が肌をさす。朝鮮南部から来た人々にこの寒さはこたえたはずだ。それでも、朝鮮が日本の植民地になったあと、とりわけ満州国ができたあとに朝鮮人の数は急増した。なぜか。
 延吉にある延辺大の民族研究院長、孫春日(スン・チュンリー)さん(49)は二つあげる。
 一つは、日本の植民地統治への不満があって逃れてきた人たち。もう一つは、日本が始めた土地調査で証明書がないなどで土地を奪われた人たちだ。いずれも、日本の植民地政策が背中を押したことになる。
 朝鮮人の移民は17世紀から始まったが、日本の統治後には満州事変までに100万人を超え、満州国時代に230万人に達した。そう指摘して、孫さんは言う。
 「満州国をつくってから、日本は朝鮮でも王道楽土の宣伝を始めました。朝鮮人反日感情が強いが、このころには日本にはもう勝てないという心理も芽生え、日本人扱いされて優越感を持つ人もいた。一旗揚げようと満州へ来る人が増えました」
 36年からは計画移民政策が始まった。20年で日本の農家100万戸を移住させ、満州人口の1割を占める。そういう計画だったが、日本人だけでは足りず、朝鮮人も毎年1万戸を入植させようとしたのだった。
 その一方で、日本軍は朝鮮人の「反満抗日運動」にも手を焼いた。そのために、農民たちを「集団部落」に囲い込み、外側の抗日勢力との分断をはかった。
 延辺朝鮮族自治州を車で走ると、あちこちで「抗日戦士」の記念碑に出あう。その数の多さが、日本の弾圧の厳しさと犠牲者の多さを物語る。「日本がここに派出所を出した1907年から38年間の抗日の歴史があるんです」。案内してくれた州博物館研究員の金哲洙(チン・チョーチュー)さん(58)がそう言った。
 ■台湾からも官僚・医者 日本人並み身分求め
 日本の植民地になったために、満州とつながる。この流れは台湾でも起きていた。
 台北にある中央研究院台湾史研究所の所長、許雪姫(シュイ・シュエチー)さん(54)は、満州に住んだ台湾人の研究を90年代から続けている。
 47年2月28日に国民党政権が住民を虐殺した「二・二八事件」とその後の弾圧を調べるうちに、犠牲者に満州から帰った人がいるのに気づいたのが発端だった。
 「日本統治時代の研究はそれまで、中国南部の重慶(チョンチン)に行って国民党に参加した人たちに偏っていた。満州に行った台湾人に焦点を当てた研究はなかったんです」
 許さんはまず、満州体験者700人のデータを集めた。驚いたのは、医者の多さだった。満州医大の卒業生だけでも100人余り。次いで目立つのは公務員だった。
 その背景を許さんはこう見る。
 「台湾には高等教育機関が少ないうえ、就職も容易でなく、日本人とは給与差別もありました。だから、日本人待遇で活躍できる満州へ、という流れでした」
 また、台湾出身で満州国の初代外交部総長(外相)を務めた謝介石(シエ・チエシー)にあこがれ、満州へ渡った若者も少なくなかったという。
 許さんは満州から帰った約50人に話を聞いた。だが、彼らの口は重かった。謝介石が戦後は「漢奸(かんかん)(中国の裏切り者)」とされたように、身の危険があったからだ。
 その一人で、38年に開校した満州国の最高学府、建国大を1期生として卒業した李水清(リー・ショイチン)さん(89)に会うことができた。
 「入学したころは、五族協和の理想に燃えていた。同窓生は今でも兄弟のように仲がいいです」。きれいな日本語だ。
 貧しかった李さんにとって、学費や衣食住の費用がいらず、小遣いまで出る建国大は輝いて見えた。学生は日本人、中国人のほか、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人もいて、寮で6年間生活をともにした。日本人はコメ、中国人はコーリャン。そんな満州国の差別に憤り、同じ食事をとった。
 だが、3期生が入った40年ころから動揺期に入り、やがて崩壊状態になったというのが、李さんの見方だ。日本が英米と開戦した41年末には、関東軍による思想弾圧事件が起こり、獄死する建国大学生も出た。
 戦後は、建国大の後輩が二・二八事件で殺され、李さんも2年半の獄中生活を強いられた。それでも李さんは、建国大に行って良かったと思っている。
 「違う民族が一緒にいて、立場をかえて物事を見る姿勢を学びました」
 それも大学の中の話。外の満州国は矛盾だらけだった。行政のトップには中国人が置かれたが、それは名前だけで実権はその下の日本人が握っていた。そもそも満州国には国籍法がなかった。法的には「満州国民」は一人もいなかったことになる。
 「日満合併に持っていくつもりだったからでしょう」。李さんはこともなげに言った。そう見られていた満州国が、すでに日本の植民地になっていた台湾や朝鮮とつながっていて何の不思議もない。
         *
 ここに紹介できなかった人も含めて、当時を生きた多くの人々から聞いた言葉がある。孫継武さんが口にした、日本人の「優越感」だ。そんな感覚の「五族協和」は、ウソに終わるしかなかったろう。
 私たちはこれから、外国人と共に暮らす社会をどのようにつくればよいのか。その答えを探るとき、まず自分のどこかに異民族、異文化を見下す気持ちがないかどうかを点検してみたい。
   (隈元信一)
 キーワード:満州国
 1932年、満州事変で占領した土地に日本が建てた国で、日本の傀儡(かいらい)国家だったというのが定説になっている。傀儡は「あやつり人形」の意味だが、その人形として連れてこられたのが清朝最後の皇帝、溥儀(プーイー)(ふぎ)だった。清は満州族がつくった王朝だったから、その出身地で元首にしても国際的な非難は避けられると関東軍満州の日本軍)はもくろんだ。しかし、国際連盟満州国の建国を認めなかった。満州国を承認したのは、日本の同盟国のドイツ、イタリアや、太平洋戦争で日本の勢力下に入ったタイ、ビルマなど、約20カ国だった。
 総面積は約130万平方キロ。今の日本の面積の3.4倍の広さで、現中国の東北三省(遼寧吉林黒竜江)に内モンゴル自治区と河北省の一部を含む。
 人口は建国時に3000万人、40年には4200万人。中国人がほぼ9割で、朝鮮人、モンゴル人と続き、日本人は2%ほどだった。日本の民間人は建国時の23万人が敗戦時に155万人に増えたが、引き揚げの際に20万人以上が命を落とした。また、敗戦直前に軍に動員された開拓団の男たちを含め、軍人ら60万人以上がソ連によってシベリアに抑留され、死者は6万人を超えた。
キーワード:五族協和と王道楽土
 建国理念として、満州国はこの二つの言葉を内外に宣伝し、特に日本人に夢を抱かせた。五族(漢・満州・モンゴル・朝鮮・日本)が仲良くやっていこう。最初にそう提唱したのは、民間の在満日本人がつくった満州青年連盟の人たちで、幹部には指揮者・小沢征爾氏の父、小沢開作もいた。圧倒的多数派の漢民族に排日感情が強まる中で、建国当時は人口の1%に満たなかった日本人が生きていくには「協和」を訴えるしかない。そんな事情もあった。
 一方の「王道楽土」は、武力で制覇する「覇道」に対し、徳で治める「王道」でみんなが楽しく暮らせる国を築こう、という意味だ。この理念が、日本の武力でできた満州国で唱えられたところに最初から矛盾があった。


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