🎹28:─2─国際世論は、ファシスト中国の対日批判を支持し、宣戦布告に匹敵する対日経済制裁宣言を要請した。1937年9月 ~No.153No.154No.155 @ 

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 9月 南京で、右派の韓国独立党、朝鮮革命党、韓国国民党の三党が韓国光復団体連合体(光復陣線=光線)を結成し、民族の独立の為に中国情報局C・C団の指揮下に入り語学を利用して日本人に変装して工作員を日本に派遣した。
 反日朝鮮人テロリストは、抗日派中国人同様に、和やかに日本人に近づき信用させていた。
 反天皇の日本人マルクス主義者は、軍国日本を崩壊させる為に彼等を支援した。
 左派の金若山(キムヤクサン)は、12月に朝鮮民族戦線連盟(民線)を組織して独自に活動した。
 両派は、中国側から資金援助を受けながら、日本軍内の朝鮮人兵士を大量に脱出させたり、時には反乱を起こさせた。
 反日朝鮮人は、日本から朝鮮を独立させる為に、勇猛果敢に日本軍と戦っていた。
 親日派朝鮮人は、大元帥昭和天皇に忠誠を誓い軍国日本を守る為に戦い、戦場の到る所で戦死していた。
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 グルー大使は、広田外相に面会して、諸外国の外交官と南京市民に被害者が出る恐れがあるとして日本軍航空機の爆撃計画に激しく抗議した。
 広田首相は、「爆撃計画に関しては、南京の外国外交団施設や非戦闘員の被害を避ける為、最善の努力を払う」と答えた。
 グルーは、日本が主張する日本人居留民保護目的の自衛行動を認めず、中国での戦いは領土拡大目的の侵略行為であるとの、これまで通りアメリカ見解を伝えた。そして、アメリカはおろか諸外国は、日本への反感を日に日に高めていると忠告した。
 アメリカ世論は、侵略を続ける軍国日本へのさらなる制裁を要請した。
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 9月1日 軍令部第一部長近藤信竹少将は、参謀本部第一部長石原完爾少将に陸軍部隊の増派を督促した。
 参謀本部第一部第二課長河辺虎四郎大佐は、不拡大派であったが、増派に賛成した。
 それ以上に、石原部長が不拡大方針に固執して増派を拒否続けた為に、被害が増加した。
 9月2日 日本政府は、宣戦布告して本格的戦争とする事を避け、領土的野心がない事を世界に示す為に「支那事変」と命名した。
 蒋介石も、アメリカやナチス・ドイツなどから戦略物資を得る為に宣戦を行わなかった。
 ルーズベルトは、中国と軍国日本にアメリカ国民の安全確保を要請せず、いきなり中国に滞在する自国民に対して日本軍の攻撃を避ける為に退去勧告を出した。
 アメリカは、軍国日本ではなく抗日中国の側に立つ事を臭わせた。
 9月4日 アメリカの海員組合などは、侵略戦争を行う日本への軍需物資輸送を拒否した。
 9月5日 近衛首相は、「支那事変は長期戦も辞せず」と厳命した。
 参謀本部第一部第三課員西村敏雄少将は、上海視察から帰国して、拡大派の第三課長武藤章大佐(A級戦犯)に上陸部隊の惨状を布告し、増援の意見具申をした。
 9月6日 軍令部総長は、消極的な陸軍を動かすべく、昭和天皇に「上海の陸上戦闘は遅々として進まず陸軍兵力の増強が必要である」と上奉した。
 昭和天皇は、参謀総長を召し出して、上海への増派の必要性を問い質した。
 石原第一部長は、陸軍の総意が増派と決まった以上、一人で反対する事ができず同意するしかなかった。だが、中国との本格的な戦争に引きずり込まれるのを避けるべく、増派兵力を内地三個師団と台湾守備隊等にとどめた。
 昭和天皇は、漸次投入に不満を漏らしたが、軍部が決定した事である為に裁定した。
 上海発信ニューヨーク・タイムズ紙特電。「中国軍は、この爆弾は日本軍機から投下されたものである、と宣伝する事によって責任を拒否した。しかしながら今や、これらの爆弾は両方(8月15日、22日)とも中国がイタリアから購入したイタリア製のものである事が判明している、この判明した事実について、アメリカとイギリスの現地の海軍調査官の意見は一致している。そしてイタリア当局もこの爆弾が自国製である事を認めている。これは決定的な証拠であるように思える。何故ならばイタリアは、日本がイタリアからそのような軍需物資を購入した事は一度もない、と証言しているから」
 9月8日 中国軍の拠点・宝山城を激戦の末に攻略した日本軍に、真性コレラが発生し、多くの将兵が戦闘不能となった。
 中国は、不衛生で水が悪かった為に、コレラやペストや赤痢などの病原体が存在していた。
 日本軍は、多大なる犠牲を払って公大飛行場を占領した。
 日本海軍航空隊は、中国空軍を圧倒して制空権を奪い、苦戦する地上部隊を支援した。
 9月6日 ニューヨーク・タイムス紙(香港発特電)「中国軍は、この爆弾は日本軍機から投下されたものである、と宣伝する事によって責任を拒否した。しかしながら今や、これらの爆弾は両方とも中国がイタリアから購入したイタリア製のものである事が判明している、この判明した事実について、アメリカとイギリスの現地の海軍調査官の意見は一致している。そしてイタリア当局もこの爆弾が自国製である事を認めている。これは決定的な証拠である様に思える。何故ならばイタリアは、日本がイタリアからその様な軍需物資を購入した事は一度もない、と証言しているから」
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 9月12日 国際連盟は、中国政府の提訴を受けて日本軍の侵略行為の審議に入ったが、当初から日本の「自衛権」を認めていなかった。
 9月13日 蒋介石は、国際的反日世論を味方にして、国際連盟に日本の侵略を提訴した。
 9月14日 台湾守備隊が川沙口に上陸した。22日には第101師団が、27日には第9師団が、10月1日には第13師団が上海に上陸して中国軍を攻めたが、ドイツ軍事顧問団の指導された中国軍と鉄壁な防壁に苦戦を強いられて被害を出した。
 日本軍は、ドイツ軍事顧問団に鍛えられた中国軍を甘く見た為に漸次派兵という愚策を行い犠牲を出した。
 日本の北支那方面軍は、ソ連軍を意識しながら河北作戦を発動して、侵略戦争を拡大した。
 国民政府は、ソ連に対して日本と戦う為にソ連軍空軍作戦部隊の派遣を要請した。
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 三好捷三『上海敵前上陸』「こうしてビリから呉淞(ウースン)の岸壁にはいあがった私の目を射た風景は、まさに地獄であった。修羅の巷(ちまた)もこんなにひどくないであろうと思われるほど残酷なものであった。岸壁上一面が見わたすかぎり死体の山で、土も見えないほど折り重なっていた。まるで市場に積まれたマグロのように、数千の兵隊の屍が雑然ところがっている。それと同時にヘドのでそうないやな死臭が私の鼻をついた。
 これは10日前に敵前上陸した名古屋第3師団の将兵の変わりはてた姿であった」
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 9月15日 岐阜県垂井町浄土真宗大谷派明泉寺。14代住職、竹中彰元師は、出征兵士を見送る為に駅に向かう在郷軍人会の村人等に、命の尊厳を説く仏教者の使命として、人を殺す戦争は罪悪で戦争を美化して煽る事の愚かさを語った。
 中国戦線での日本軍の勝利と快進撃に昂揚していた軍国主義の庶民達は、天皇の為・国の為に命を捧げる事は尊い事であると信念から、竹中師の「戦争は罪悪」発言に激怒して罵声を浴びせたが、暴力はふるわなかった。
 「戦争は罪悪であると同時に、人類に対する悪であるから止めたがよい。北支の方も中支の方も、今占領している部分だけで止めた方がよい。決して国家として戦争は得るものではない。非常に損ばかりである。……戦争はその意味から止めた方が国家として賢明であると考える」
 内務省警保局は、竹中師が宗教的信念から戦争を批判しても、伝統的民族宗教に於ける天皇の神聖を否定し天皇制度の廃止を主張する共産主義者や一部のキリスト教徒及び仏教徒ではないので、要注意人物として監視した。そして、その発言を『特高外事月報』に記録した。
 ごく平凡な無学に近い片田舎の百姓達は、難しい話が分からないだけに頑固で変人のご住職の有り難い話として拝聴したが、反社会的発言として御上に訴え出る事はしなかった。
 権力や権威に弱い村人は、突然、徴兵の赤紙が来たら嫌々ながらも、御上の命令として軍隊に入隊し、殺すか殺されるかの戦場に立って殺し合った。
 出征兵士を出した家族は、戦争の不条理を感じながらも、若者が生きて無事に帰ってくれる事を祈った。 
 軍隊に入隊するのが嫌な者は、自分で自分の指を切断して身障者になって徴兵免除を得るか、その勇気もない者は家族を捨て家を飛び出して行方をくらました。
 軍部は、不足した兵員を補う為に別の誰かを軍隊に放り込んで戦場に送り出した。
 竹中師の反戦的発言は続いた。
 10月10日の前住職年忌法要。「自分は侵略の様に考える。徒に彼我の命を奪い莫大な予算を費い人馬の命を奪う事は大乗的な立場から見ても宜しくない。戦争は最大の罪悪だ。……もう此処らで戦争は止めたがよかろう」
 竹中師の発言を聞き付けた僧侶達は、10月21日に行われた別の村の法要で発言の撤回を求めた。
 竹中師は信念を曲げず、「戦争は罪悪である」発言撤回要求を撥ね付けた。
 「言論は自由だから憲兵特高課から来ようが何ともない、自分の言った事については少しも恐れはせぬ」(裁判資料)
 僧侶2人は、役場に竹中師を密告した。
 地元警察は、10月26日に竹中師を逮捕し、陸軍刑法第99条(造言飛語罪)で起訴した。
 名古屋控訴院(高裁)は、翌38年4月27日に、禁錮4ヶ月、執行猶予3年の刑を言い渡した。
 これが、軍国日本の反戦平和言論封止と宗教弾圧であった。
 教団本部は、戦争協力という教団方針に従い、38年11月に「不殺生」の教えを説いていた竹中師に対し布教使の資格を剥奪する等の処分を下した。
 竹中師は、家族が45年8月15日まで村人から「非国民」としてイジメられても、頑固に「戦争は罪悪である」という信仰に基ずく信念を修正したり撤回しなかった。
 世界到る所、何れの国に於いても、政治権力に迎合して戦争を美化して、戦争を正当化する宗教家は尽きる事はない。
 軍国日本でも、ナチス・ドイツでも、アメリカ、イギリス、フランスでも、そうした宗教家が存在する。
 戦争協力の宗教家が存在しなかったのは、宗教を大弾圧し宗教家を大虐殺した中国やソ連などの共産主義国のみである。
 東京大空襲などの無差別絨毯爆撃にせよ、広島・長崎への原爆投下にせよ、アメリカ軍の従軍神父・牧師は出撃する兵士に神のご加護を祈った。
 歴史的事実として、宗教と戦争は切り離せない関係にある。
 特に。中国の歴史に於いて、絶対神の普遍宗教は儒教中華帝国を滅ぼす「邪悪な革命思想」であった。
 竹中師の処分が取り消され名誉が回復されたのは、2007年9月であった。
 07年10月19日 本山宗務総長「竹中師の志願に耳を傾ける事なく、非戦を唱え教えに生きんとした僧侶に対し、処分を下した事自体が、宗派が犯した大きな過ち」
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 9月16日 ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン誌「支那軍が、上海で戦闘を無理強いした事に疑う余地はない」
 上海に居た中立的報道に徹していた欧米の特派員の多くは、中国側の発表は嘘で、戦争を起こそうとしていたのは日本軍ではなく中国軍と知っていたし、そうした記事を発信していたが、世界には伝えられなかった。
 9月19日(〜25日) 日本海軍機は、南京を連日空爆した。
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 9月21日 国際連盟は、中国側の提訴を受け入れて日中紛争諮問委員会を開いた。
 反日的国際世論は、中国を支持して軍国日本を非難した。
 9月23日 飯沼守上海派遣軍総参謀長日誌「地上にはドイツ軍人指導有り、乍浦より蘇州に至る防衛線はドイツ教官の指導による」
 9月24日 華北方面軍は、保定城を占領した。日本軍戦死傷者は、約5,400人。
 9月25日 八路軍は、平型関で日本軍を撃退した。
 9月27日 石原完爾少将は、責任を取って辞職した。
 9月28日 連盟総会は、日本軍による中国各都市への空爆戦時国際法に違反する暴挙であると決議した。
 そして。日本の攻撃的自衛権を否定し、日本非難の決議を全会一致で可決した。
 イギリス、フランス、ファシスト・イタリア、ナチス・ドイツなどは、抗日中国軍に大量の武器弾薬を湯水の如く送り続けた。
 アメリカは、日本に対して、くず鉄などの戦争継続に必要な戦略物資の輸出を制限もしくは禁止した。
 アメリカの反ファシスト市民団体は、全米で中国を支援する反日運動を開始した。
 軍国日本は、国際連盟や欧米諸国や国際資本の反発を恐れて、中国に対して宣戦布告をしなかった。
 国際正義と国際平和の為に、天皇ファシスト国家日本は、凶悪で狂暴な道徳なき犯罪国家であらねばならなかった。
 タイ華僑は、米などの食糧の不買運動を行うと共に、日本船の荷役を拒否し、船積みするのを実力で妨害し、日本へ船積みする商品を集積している倉庫を襲撃して放火した。
 中国政府から派遣された工作員の指導を受けて抗日監察隊を組織し、日本製品を扱っている華僑へのテロを行い、タイで商談を行っている日本商社駐在員への暴行事件を頻発させた。
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 9月末 第3師団の戦死傷者は、4,669名で内戦死者は1,080人であった。
 第11師団の戦死傷者は、5,549人で内戦死者は3,980人であった。
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 9月下旬 ドイツ軍とイギリス軍の情報機関は、中国を日本軍の侵略から守る為の協定案を作成した。
 ドイツ軍は、陸軍力を強化する為にイギリスの資本と技術の支援を得ようとしていた。
 イギリスは、ドイツ軍が海軍力を付けて海洋に進出してくる事に警戒し、むしろドイツ軍を抗日戦に参加する事を期待した。
 ケントは、イギリスとの協定案をまとめてベルリンに送った。
 1,ドイツは、海軍力の増強を先送りし、陸軍の増強に持てる力を集中する。
 イギリスは、ドイツの陸軍兵器研究を支援する。
 2,ドイツは、中国陸軍を引き続き支援する。
 イギリスは、中国海軍を支援する。
 3,両国は共同して、日本軍が満州を除く中国本土から撤退させ、日本が満州と朝鮮の優先権を持つという条件で中国と日本の紛争を調停する。
 4,日本と中国が共同でソ連の南下を食い止める条件を引き受けるなら、協力する。
 ヒトラーは、北欧系アングロ・サクソン族のイギリスを敵に回さない為に協定案に乗り気で、親中反日として、ソ連に対抗し中国を救う為にはイギリスを引き込んだ方が最善であるとして同意した。
 イギリス宥和政策の一環として、イギリスとの間で、軍艦保有量をイギリス海軍の3分1に留めるという海軍協定を無心でいた。
 イギリスは、その見返りとしてドイツ陸軍の再建を黙認していた。
 だが。個人的にイギリス嫌いのヨアヒム・リッベントロップ外相は、イギリスとの共同歩調に猛反対し、ヤンケの協定案に猛反対した。
 リッベントロップ外相は、むしろ軍国日本と関係を強めるべきだと考えていた。




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