🎹28:─5─第二回南京事件。パネー号事件。日本軍は南京を占領してドイツ軍事顧問団が育成した中国軍を撃破した。1937年12月~No.162No.163No.164 @ 

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 毛沢東「日本軍は、包囲はするけれど殲滅は少ない。戦争なんだから、包囲したら殲滅するのが当然だ」(『持久戦論』)
 中国共産党軍は、日本軍が敵を包囲しても皆殺しにせず逃がしている事を兵士達に教えていた。
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 国民党顧問になっているアメリカ人の記者と宣教師は、大金と情報を貰って南京虐殺を捏造し報道した。
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 2014年2月19日 msn産経ニュース「外国メディア対象に大虐殺記念館ツアー 中国が実施[中国]
19日、中国南京市の公文書館で、南京大虐殺に関する資料を記者らに見せる職員(右奥)(共同)
 歴史問題などで日本批判を強めている中国外務省が19日、中国駐在の外国メディアを対象に、江蘇省南京市にある「南京大虐殺記念館」などを見学するプレスツアーを実施した。
 NHK経営委員を務める百田尚樹氏が「南京大虐殺はなかった」などと持論を述べたことに中国外務省は「歴史の抹殺と歪曲」などと反発している。ツアーを通じ、大虐殺を否定する日本国内の勢力を孤立させたいとの思惑がありそうだ。
 ツアーは2日間の日程で、20日には、大虐殺当時の状況を記録に残したことで知られるドイツのナチス国家社会主義ドイツ労働者党)南京支部幹部、ラーベ氏に関する記念館や、中国国民党の空軍パイロットや対中支援のため参戦し死亡した米軍などのパイロットらの功績をたたえる「南京抗日航空記念館」を訪れる予定。
 中国外務省は1月中旬にも旧日本軍の残虐行為を展示する遼寧省の記念館などを巡る同様のツアーを実施しており、安倍晋三首相の靖国神社参拝などを含む歴史問題で、国際世論を中国の味方につけるための対日宣伝戦を強化している。(共同)」
 中国共産党政府は、蒋介石の国民党政府(ファシスト中国)がナチス・ドイツと提携して軍国日本と戦った事を認めた。
 そして。中立であるアメリカが、軍国日本との戦闘に正規兵を送り込んで参加していた証拠を展示した。
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 佐藤賢了「上海に出兵するやたちまち頑強な抵抗にあい、非常に苦戦に陥った。蒋介石側は満州事変の際の上海戦の経験に鑑み、ドイツ軍事顧問団の指導を受けて、素晴らしい近代築城をしておった。地形も平坦で火器の威力が発揚せられ、あまつさえクリークが縦横に掘られてあり、攻撃は困難を極め、いたずらに砲弾を射耗した。北方ソ連に備えて内地に控置していた兵団の動員用防弾まで空っぽなった。万一北方に事が起こったら、少し誇張した言い方ではあるが、優良兵団はあるけれども、持って行く弾薬がない、という大失態を演じなければならない」
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 ミニー・ヴォートンは、『南京事件の日々』で、中国軍が上海から南京までの300キロの防衛線で、焦土作戦に従って放火や強奪や強姦などの野蛮行為を行っていると記録した。
 日本軍は、民間服に着替えて一般人に化けて暴徒化した便衣兵(ゲリラ)を狙撃した事実を書き残した。
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 各国の報道特派員達は、反日記事を書く為に日本軍の南京攻略を注視していた。
 宣教師達は、中国各地で布教目的の救済活動をおこなっていた。
 松井石根司令官は、世界の監視の目を気にして全軍に綱紀粛正を徹底するように厳命していた。
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 ソ連空軍は、ファシスト中国空軍に、日本軍との戦争で勝利する為に最新鋭軽爆撃機ツボレフSB─2と航空兵を提供した。
 ファシスト中国は、日本領土への爆撃を計画していた。
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 アメリカは、陸戦条約で捕虜として保護するのは制服を着た軍人か階級章を所持する軍人のみで、正規軍人ではないゲリラやスパイや便衣隊は適応外と定めた。
 国際法は、ゲリラやスパイや便衣隊を犯罪者として、捕らえたら捕虜扱いせず、裁判にかける事なく即断で処刑する事が認められている。
 正規軍人捕虜を軍法会議にかけずに処刑する事は犯罪であるが、犯罪者である非軍人を殺害する事は犯罪ではない。
 武器を持たず抵抗しない非戦闘員(女性や子供)を殺害する事は、犯罪であった。
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 12月 小林秀雄ら多くの文人が、戦意昂揚の文章を書く為に進撃する日本軍に従軍していた。
 同様に、従軍看護婦や従軍記者も行動を共にしていた。
 小林秀雄「現在ある自分自身を語について、現在の日本人達は何という舌足らずであるか」
 軍国日本は、宣伝戦に敗れていた。
 ルーズベルトは、中国支援の極東政策から日本と戦争を始めた際、イギリスからの軍事協力が期待できるかを確かめる為に、海軍作戦部のロイヤル・E・インガソル大佐をロンドンに派遣した。
 これ以降、両国は日本との戦争を想定した協議を本格化させた。
 ニューヨーク・タイムズのT・ダーディン記者「7日も南京市外10マイルの地域内にある全村落に火を放ち、日本軍の進撃に便宜を与えるような物は全て焼き払はんとしているため、南京市は濛々たる黒煙に包まれてしまった」
 中国軍は、蒋介石の命令に従って南京城半径約6キロを焦土にするべく清野作戦を行い、全てを焼き払い破壊した。
 ニューヨーク・タイムズやロンドン・タイムズやシカゴ・デイリー・ニューズなど欧米諸国の報道機関(多くがユダヤ系)は、報道機関の特権で、上海から南京まで激戦地をくまなく歩き回って記事を送っていた。だが、そこには日本軍の虐殺記事は無かったと言われている。
 戦後。日本軍が、報道の自由を侵害し、取材を制限していたという証言がなされたという。
 南京戦の直前。中国軍は、日本軍の進撃を妨害する為に清野作戦・焦土作戦を実施した。
 中国人盗賊団は、該当地区で略奪行為を行い、抵抗する者は虐殺し、女性は売り飛ばす為に攫った。
 南京の中国国民党は、情報戦争における反日プロパガンダの為に、各国公使館の武官や各国の新聞記者を集め積極的に記者会見をおこなって、日本に不利な情報を流した。
 中央宣伝部国際宣伝処は、各国特派員が本国に送る記事を検閲して、中国に不利な報道を差し止め、日本に不利を許可した。
 「各国新聞記者と連絡して、彼らを使ってわが抗戦宣伝とする」
 中国は、歴史を歪曲し、捏造し、悪意を持って誇張した。
 ドイツの新聞フランクフルター・ツァイトゥインク紙のリリー・アベック記者は、南京の人口は「15万人を数える小都市」との記事を送った。
 ライフ誌も、「15万人の南京市民が避難した安全区」と書いた。
 南京市警察長官の王固磐は、南京市の人口を20万人と報告した。
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 南京のドイツ大使館は、日独防共協定を結んでいたが、中国支援のた為に日本を非難する報告書をベルリンに送り続けていた。
 連合軍は、ナチの戦犯を裁く為にドイツの公文書を没収して罪状を洗い出した。
 さらに、東京裁判に利用可能な、1937年12月から38年12月迄の約190枚のトラウトマン報告書を、「IPS4039」文書としてとまとめた。
 ゲオルク・ローゼン書記官の報告書によると、証拠能力がないとして東京裁判には提出されなかった。
 調べれば調べるほどに、日本軍の南京虐殺という事実は疑われた。
 陥落した南京市内で写された中国人市民達の写真が、動かない真実の写真であった。
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 朝日新聞は、南京に80余人の取材陣を送り込み、南京攻防をつぶさに見届けていた。
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 松井石根は、一般市民を戦闘を巻き込まない為に、南京市民に対して避難する様にビラを撒くように命じた。
 南京市民約100万人の多くが城外に脱出し、行く当てのない約20万人が日本軍と合意された安全地区に避難した。
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 12月1日 大本営は、支那派遣軍約20万人に対して南京攻略を命じた。
 敵軍情報により、中国軍は約10万人以上で、南京市民は15万〜20万人以上と見ていた。
 後の東京裁判では、上海市の人口は26万人程度と推定した。
 中国軍の南京守備隊は30万人以上で、その周辺の中国軍は50万人以上であった。
 軍部は、最後の一激論から、首都南京を占領すれば蒋介石は休戦協定に応じると期待した。
 参謀本部は、これ以上の不拡大は望まず、極秘に外務省幹部に対して講和方針への協力を要請した。
 来栖三郎「日本軍の大方同様、高橋大佐(支那班長)も根本は急速収束の方針である」
 難民避難区の国際委員会は、親中国反日組織として中国軍を支援していた。
 同委員会のウィルソン、ベイツ、マギーらは、東京裁判南京大虐殺の証言を行ったが、殆どが作り話であった為に裏付け証拠を提出できなかった。
 12月3日 蒋介石は、ドラトウィンに、ドイツ大使の仲介による和平を拒絶し、軍国日本に勝つまで戦い続ける決意を伝えた。
 長期抗戦を行う為には武器が不足している内状を訴え、さらなる武器援助を依頼した。
 ソ連は、38年3月迄に、機関銃8,300挺、小銃10万挺、自動車1,233台を抗日中国軍に提供した。航空機は、39年までに800機以上と弾薬、ガソリン、航空機用兵器、無線通信機、給油装置などが提供された。
 宋子文「中国には武器が3億元分も輸入されているので、今のところ武器の不足は感じられない」
 日本の外務省と陸海軍の一部は、ナチス・ドイツの軍事支援を失いながらも蒋介石が降伏せず抗戦を続けているのは、ソ連が軍事援助を本格化している事を知っていた。
 特に海軍部内では、日中戦争を解決する為に、蒋介石を支えているソ連を引き離す必要があるとして、ソ連との連合を真剣に考えていた。
 革新官僚は、日本を共産主義化し天皇制度打倒して国體を破壊するという本音を隠し、ソ連の目的はアジア解放であると説いて回って親ソ派の拡大を行っていた。
 その説得を真に受けたのが、海軍の作戦部エリート将校であった。
 12月4日 日本軍の進撃は、南京市郊外まで達した。
 松井石根は、日中協調派重鎮として戦闘を早期に終了させると共に、中国人の敵意を買わない様にする為に法学者を帯同して戦時国際法違反を避けるべく注意を払った。
 攻撃部隊に対して、「注意事項」を示し、何度も軍紀・風紀の厳守を命じ、捕虜を正しく扱う事や住民に公正な態度を取る事を指示した。
 12月7日 蒋介石は、日本軍の機先を制して好戦意欲を鈍らせる為に、ディルクセン駐日大使を通じて広田弘毅外相に和平提案をした。
 中国は、日本との和平を望んではいなかったが、ドイツ軍事顧問団の助言に従って平和を希望しているという既成事実を作ろうとした。
 後年の。ルーズベルトからの天皇に送られた、和平を望む親書に似ている。
 蒋介石宋美齢夫妻と政府高官らは、南京を脱出して漢口に逃げた。
 何応欽軍政部長や白崇禧参謀総長ら軍幕僚らも、南京を捨てて漢口に向かった。 
 12月9日 松井司令官は、南京防衛司令官唐生智将軍に、無益な戦闘と犠牲者を避けるべく降伏勧告を行い攻撃を中断した。
 戦闘が中断した中で、多くの民間人が南京城外に脱出した。 
 唐生智将軍は、中国軍が劣勢にあり、南京が日本軍の攻撃に耐えないことは明らかであったが、蒋介石の命令に従い、徹底抗戦を主張して降伏勧告を拒否した。
 ダーディン「蒋将軍はあの様な大混乱の起こるのを許すべきではなかった。確かに唐将軍も自分が最後までやり通す事が出来ず、とどのつまりは不首尾に終わった。犠牲の道に踏み出した事は強く非難されるべきである」
 12月10日 中国軍は、戦時国際法を無視し、南京に猛攻する日本軍に向けて毒ガスを使用した。
 12月12日 唐生智将軍は、敗北がハッキリするや、将兵を残して逃げ出す市民に紛れて密かに南京から逃亡した。
 敵前逃亡した唐生智は、軍法会議で処刑される事なく、戦後の中国共産党政権で高官となった。
 南京防衛軍は、指揮官を失って無法化し、地獄と化した。
 中国軍は、電報を打てないようにする為に通信部の建物に放火したが、中国人職員によって直ぐに消火され、業務に殆ど支障をきたす事がなかった。
 中国側の責任者がいなくなって、日本軍は交渉相手を失った。
 揚子江の南京上流で、日本軍は軍服姿の中国軍兵士を満載したイギリス砲艦レディーバードと数隻の外国籍の民間商船を砲撃して損害を与えた。
 日本軍は、中国軍部隊が外国船や偽装船を利用して移動しているとの情報を得ていた。
 海軍航空隊は、日本軍の攻撃を妨害する様に航行するアメリカ砲艦パネーとソコニー・ヴァキューム会社(スタンダード石油)のオイルタンカー3隻を故意に爆撃した。
 パネー号とメイアン号は沈没し、メイビン号とメイシャ号は炎上した。オイルタンカーは、中国空軍基地にガソリンを運ぶ途中であった。
 パネー号と民間商船は、アメリ国務省の許可を得、星条旗を両軍に見える様に掲げて航行していた。
 アメリカ軍は、日本海軍航空部隊がアメリカ海軍所属の砲艦である事を知っていて攻撃したという通信を傍受していた。
 アメリカとイギリスは、中立国の船舶を意図的に攻撃したとしてただちに抗議した。
 A級戦犯広田弘毅は、日米関係の悪化を食い止めるべく、誤爆を認めて陳謝し、220万ドルの賠償に応じた。
 海軍次官山本五十六も、誤爆と陳謝を行った。
 ワシントンの斉藤博駐米大使は、ラジオ放送で全米に向けて陳謝した。
 だが、両国国民は日本の抗議の声をあげて中国に同情した。
 各国のキリスト教会も、日本を非難し、中国支援を信者に訴えた。
 アメリカ世論は、一時、日本批判を強めて報復を求めたが、日本側の迅速な対応によってたほどなく沈静化し、アメリカ軍が紛争地帯に部隊を配置している事への非難が起きた。
 ギャラップ世論調査アメリカ軍は中国から完全撤退すべきである。イエス、70%。
 アメリカの民意は、孤立主義で戦争回避であった。
 ボラー上院議員「危険地区を航行していた船を一隻沈められたからといって、私は息子達を東洋に送り込もうとは思いません」
 アメリカの孤立主義者は、日本軍は中国軍と戦っているその都度、相手の軍船が中国軍かそれ以外かを確認して攻撃する事は不可能であると結論を出し、日本軍の軍事行動は自衛による正当行為と認めた。
 ダーディン「日曜日の正午……中国軍の崩壊が始まった。第88師の新兵がまず逃走し、たちまち他の者がそれに続いた。将校達は状況に対処すろ事もしなかった。一部隊は銃を捨て、軍服を脱ぎ、便衣を身に付けた。記者が12日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃した……多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。……中には素っ裸となって一般市民の服を剥ぎ取っている兵士もいた」
 エスビー副領事「市役所の完全なる逼塞と支那人と大部分の支那住民の退去により市に発生したる完全なる混乱と無秩序とは、市をいかなる不法行為をも行い得るる場所となし終れるなり。これがため残留せる住民には、日本人が来たれば待望の秩序と統制との快復あるべしとの意味にて、日本人を歓迎する気分さえもありたる事は想像せらるるところなり」
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 12月13日 南京陥落。日本軍は、上海からの激戦で弾薬もガソリンも使い果たしこれ以上の追撃戦は不可能で有り、中国軍の大反撃を受ければ敗走する危険がった。
 日本軍約20万人の被害は、戦死傷者5万4,000人以上。
 松井司令官は、病の為に後方にいて直接攻撃を指揮していなかったが、七箇条からなる南京城攻略要領を参謀達に指令し、明考陵や中山陵などの文化財と各国大使館を保護する様に厳命した。
 そして、日本が中国人に信頼される為に、全将兵に一般市民に対して慈悲を持って愛護する様に訓示した。
 日本軍は、負傷して置き去りされた中国軍兵士を収容して治療を施し、戦場に野ざらしとなぅている両軍兵士の死体を埋葬した。
 アメリカ南京大使館エスピー副領事「市民の大部分は……いわゆる『安全地帯』に避難しており、……実際に残留せる支那兵の数は不明なれども、数千の者はその軍服を脱ぎ捨て常民の服を着て、常民に混り市内のどこか都合よき処に隠れたる相違なきなり」
 第二次南京事件。日本軍は、蒋介石が降伏し戦争が終結する事を期待して首都南京を占領した。
 この日から翌年2月までに、30万人の中国人が虐殺されたと言われている。
 ベイツ牧師「日本軍は、6週間にわたって南京市民30万人を虐殺した」
 日本軍の残虐行為を伝えたのは、反天皇アメリカ人宣教師達であった。
 ベイツ牧師は、中華民国政府の顧問で、根っからの反天皇反日派であった。
 日本軍は、戦略物資が欠乏し、弾薬も不足気味であったが、1日7,000人を休みなしで殺したとされている。
 現地軍は、40万発以上の弾薬と物資輸送に必要な貴重なガソリンを大量に浪費し、その無計画性ゆえに進軍が停滞して侵略戦争に支障をきたした。
 それ以外で、日本兵は上官の命令を無視して戦闘を放棄し、毎晩2,000人以上の中国人女性を強姦したとされた。
 アメリカは、日本軍の侵略行為を止める為に、日本への経済制裁を強めた。
 諸外国の各報道機関は、日本軍が中国各地で行っている中国人非戦闘員数十万人を虐殺していると報道した。国際世論は、日本人の潜在的残忍性を知るにつれて、反日感情を深め日本人を憎んだ。そして、「黄色いサル」「黄色い害虫」と罵った。
 戦場で、日本軍が処刑したのは、民間人に変装し武器を持って抵抗していたゲリラ=便衣隊であった。
 不幸にも、便衣隊(ゲリラ・スパイ・破壊工作員)と間違われて処刑された民間人がいた事は事実である。
 東京裁判は、戦時国際法に照らして、日本軍が戦場で行った便衣隊と便衣隊と間違えた民間人の処刑は戦争犯罪に当たると裁定している。
 現代の国際世論も、東京裁判の判決を認めて、靖国神社の廃社を求めている。
 ルーズベルトは、日本を追い込む為に、昭和天皇に対して抗議の書簡を送った。
 広田弘毅外相は、ルーズベルトからの抗議の書簡を握りつぶした。
 ルーズベルトは、海軍戦争計画部長ロイヤル・インガソル大佐をロンドンに派遣し、日本に対する海上封鎖の実施を打診した。
 イギリス海軍は、対日海上封鎖の提案に同意した。
 サー・ロナルド・リンゼー駐米イギリス大使は、日本との戦争になるとして驚愕した。
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 南京の国際委員会は、安全区に避難している20万人の食料を確保する事に頭を悩ませていた。
 委員会(メンバー約20名)は、25件の殺人事件(被害者49名)を報告したが、目撃談は2件のみである。
 一般市民は安全区か市郊外に逃げ出していた為に、安全区以外の市内には誰一人残らず無人地帯であった。
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 第13師団山田支隊(数千人)は、南京から逃げてきた中国人兵士や一般市民3万人以上を捕らえた。
 日本軍の食料や弾薬は、上海の激戦に引き継いでの南京攻防戦で底をつきかけていた。
 日本軍兵士も、上海から南京まで強行軍の末の激闘で疲労が最高潮に達す、精神力・気力で戦っていた。
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 ミニー・ヴォールトリン『南京事件の日々』 
 「12月6日 UP特派員のマクガニエルが今日話してくれた所では、昨日句容へ行ってみたが、人が住んでいる村は唯の一つもなかったそうだ。中国軍は村人を一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払ったのだ。全くの『焦土作戦』だ」
 「12月7日 何千人という人々が南門から安全区に入ってきた。彼等の話によれば、5時までに立ち退くよう警察に命令されており、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされるというのであった。……
 ある高齢の教師(77歳)が校門の前で立ち止まった。彼が言うには、家から追い出されたとの事。年老いた妻は、家から離れたくないと言うので、彼だけがやって来たのだ。今夜は南京では沢山の悲惨な事件が起こり、大勢の人々が空腹を抱え、寒さに震えている」
 「12月8日 今夜は、初めて避難民を受け入れている。彼女達が聞かされてくる話しは、何と心の痛む話しだろう。中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、此に従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。避難民の多くは南門付近や市の東南部の人達だ」
 「12月9日 今夜は、南京市の南西隅の空全体を火炎が照らし出している。午後はほとんど、北西以外の全ての方角から濛々と煙が上がっている。中国軍の狙いは、全ての障害物、例えば銃撃の邪魔になる物や、日本兵待ち伏せをしたり身を守るのに役に立つ物を取り除く事なのだ。
 AP特派員のマクダニエルは、中国兵が灯油を掛けて家に火を付けているのを目撃したといっている。この二日に大挙して城内に非難して来たのは、これら焼け出された人達である。こうした作戦がかりに日本軍の入城を半日か一日遅らせるとして、人々にこれほどまでの苦難を与えてまでもする価値があるのか疑問だ」
 「12月12日 88師(師団)が87師と入れ替えられているという噂を聞いた。悲しい事だが、中国軍が終日ひっきりなしに安全区内を通過している。今夜の記者会見で聞いたところによれば、防衛司令官唐には、麾下部隊に対する統制力が不足している為に、城内のほとんどの場所で掠奪が行われているそうだ。……
 いまや日本軍機は意のままに飛来して爆弾をごっそり投下しているが、高射砲や中国軍機による反撃は何もない。犠牲がほとんど効果を上げていないとすれば、城壁外側の全ての家屋、それに内側の多くの家屋をも焼き払った事は、とんでもない誤算であったと確信する。
 中国の貧しい民衆の他に一体あれが、この様な破壊によって苦難を蒙るというのだろうか。
 破壊しないまま南京を引き渡した方が良かったのではないだろうか。……
 夜9時から10時にかけて陳さんと二人でキャンパスを巡回した。洗濯夫の胡さんと、彼の近所に住んでいる農民の朱さんは二人とも、まだ寝ていなかった。今夜彼等は、撤退して行く中国兵を怖がっている。というのも、家族の中に若い娘がいるからだ」
 南京市内の中国人達は、中国軍が崩壊して無法地帯となった為に、有力者を中心に幾つかの治安維持会や自治委員会を組織して、敗走する中国兵敗残兵の強姦や掠奪から身を守った。
 盗賊の様な中国軍が市内から姿を消すや、入城してくる日本軍と交渉する為に12月13日迄に組織を一本化した。
 「12月14日 夜明け前に再び城壁に激しい砲撃が浴びせられている様だった。おそらく、今日主力部隊が進入する際に、邪魔になる城門のバリケードを壊しているのだろう。
 時折、銃声も聞こえた。たぶん、掠奪を働いている中国兵グループを日本軍衛兵が狙撃しているのだろう」
 翌年1月1日に、中国人による自治委員会が誕生し、南京市や戦場となった地域で治安が回復すると逃亡していた人が帰還した。
 それ以外の地で避難生活を余儀なくされていた中国人難民も、日本軍占領地に流れ込んで、人口は戦闘開始以前よりも増えた。
 それにひき替え、中国軍支配地の人口は減少した。 
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 中国軍は、退却する際に清野作戦を実施し、都市といわず町や村を焼き払い、同胞を虐殺した。
 南京の虐殺は、中国軍も行っていた。
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 12月14日 サール・ベイツとリュイス・スマイスは、南京市内の様子を日本大使館に報告した。
 南京国際安全員会は、ベイツ・スマイス報告書を入手して、見てきたように日本軍の虐殺を付け足してアメリカ人記者に流した。
 スティール記者は、日本軍による虐殺記事を南京の電報局からシカゴに送った。
 日本軍は、電報などの情報伝達手段を封鎖しては、南京を実情が歪曲される恐れがあるとして電報局の閉鎖を行わなかった。
 日本外務省は、国際世論での日本批判を恐れて、南京城内の欧米外国人数十人を保護する為に福田篤泰領事官補を送り込んだ。
 欧米外国人の一部は、南京安全区国際委員会を作って南京市民を保護していた。
 国際委員会は、南京入りした福田領事官補に、「謹啓 私共は貴砲兵部隊が安全地帯に砲撃を加えなかった立派なやり方に感謝」する手紙や要望書を送ったが、世界に広がっていた南京虐殺事件に対する抗議書はなかった。
 日本はもとより諸外国の新聞社や通信社から派遣された特派員を送ったが、死体に被われた地獄の様な南京市内、日本軍による南京市民への虐殺を想像していたが、あまりの平穏さに拍子抜けした。
 東京朝日新聞12月16日「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。14日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くともう戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内に尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って往き過ぎる」
 反日的国際報道機関は、反日プロパガンダとして、南京虐殺という日本軍の残虐行為を捏造して報道していた。
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 戦争を戦っている軍人は、勝つ為に正確な情報を絶えず司令部と前戦で伝達し合っていた。
 正確な情報が伝達できるのは、一方的に組織的な戦闘を行っている有利者で有り、組織だった戦闘ができなくなった不利者ではない。
 だが。有利者であっても、敵味方入り乱れた混戦となると正確な情報が入りづらくなり、司令部は前戦の自主判断に任せるしかなかった。
 南京攻防戦は、南京市内外で日本軍と中国軍が混戦し、両軍司令部は前戦の正確な情報が分からず適切な命令が出せず、前戦も全体が分からず敵がいなくなるまで戦闘を続けるしかなかった。
 逃げ惑う一般市民や外国特派員も、逃げるのが精一杯で一区画離れた戦場でどの様な事が起きているのか把握できず、路上に転がっている多くの死体が戦闘に巻き込まれての死者なのか、日本軍による虐殺なのか分かるはずがなかった。
 それこそ、死体が何処を撃たれて死亡したのか、頭なのか?胴体なのか?
 一発なのか?数発なのか?
 その弾丸が、日本軍の銃弾か?中国軍の銃弾か?
 虐殺というのなら、詳しく調査しなければ分かる道理がない。
 戦場に於ける両軍の全体像も、前戦の部隊の戦闘も、その中を逃げ惑う一般市民の状況も、誰一人としてわかる者はいなかった。
 後日。専門家が多数入り込んでもくまなく調べても、ハッキリした事が分からない戦闘が多い。
 だが。東京裁判では、南京攻防戦についてわりかしハッキリと日本軍の残虐行為が報告され、A級戦犯松井石根軍司令官はその責任をとらされリンチ的縛り首で処刑された。
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 12月15日 第一次人民戦線事件。
 矢内原事件。労農派系の大学教授や学者が、逮捕された。
 逮捕されなかったマルクス主義者は、革新官僚として近衛文麿の昭和研究会に参加した。
 逮捕された左翼・左派は、天皇への忠誠を誓い転向し、有能な人材として政府や官庁や軍部や国策会社の嘱託として雇用され、その優秀さ故に機密情報を見る地位に昇進した。
 彼等の一部は、ソ連のスパイとして、地位を利用して機密情報をゾルゲを通じてスターリンに流していた。
 国家権力は、天皇の権威を否定する学問、思想、言論を弾圧した。
 日本軍は、南京市内に留まっていたアメリカ人記者や宣教師らの退去を認めた。
 彼らは、中国政府の中央宣伝工作員として、日本軍による南京虐殺という捏造記事を書く為に、同日午後にアメリカ海軍砲艦オアフ号に乗船して上海に向かった。
 『ニューヨーク・タイムズ紙』のティルマン・ダーディンと『シカゴ・デイリー・ニューズ』のアーチボールド・スティールは、上海に脱出し、国際宣伝処から得た南京虐殺という情報を伝えた。
 華北の日本軍は、12月15日に中国軍を排除して北京に入城した。
 北京市民5万人は、北京城が陥落した事を祝い、日本軍が入城してくるのを日の丸と五色旗を振り歓喜で迎えた。
 日本軍は、北京市市民や戦争避難民達に食料を与え、怪我人や病人に無償で治療を行った。 
 日本軍憲兵隊は、日本軍兵士が中国人に対して強姦や強奪などの犯罪を行わないように軍紀を徹底させ、市内の警備を厳しく行った。
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 ハロルド・ティンパーリ著書『戦争とは何か』の中国版序文を書いたのは、中国共産党のスパイ・郭沫若であった。
 ロンドンの出版元は、コミンテル系のゴランツ書店であった。
 『ラーベ日記』の著者ジョン・ラーベは、ソ連スパイ・ゾルゲの活動を上海で支援していた赤軍部員の友人であった。


 


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日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2009/11/16
  • メディア: 新書