♭:29─4─第二次世界大戦。親日派ポーランドと日本軍部。インディギルカ号遭難事故、ロシア人遭難者を助けた日本人、感謝しないロシア人。1939年9月〜No.154No.155 @      

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 日本人は、戦争と災害はハッキリと区別して行動していた。
 戦争で敵兵と殺し合っても、災害は別として、災害が発生したら武器を置いて被災した敵兵を全力で助けた。
 日本人と中国人・朝鮮人・ロシア人とは違うのである。
 日本軍は、戦争をしていても、災害が起きれば中国人やロシア人を助けていた。
 感謝される、感謝されない、そんな事は度外視して敵兵を助けた。
 それが日本人、日本民族日本人である。
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 9月 ナチス・ドイツソ連は、共同でポーランドに侵攻し、同国を分割し領土とした。
 第二次世界大戦の勃発である。
 戦争を始めたのが戦争犯罪というのなら、ソ連も同罪である。
 第二次世界大戦は、自由・民主主義陣営とファシズム陣営に戦いではなかった。
 中国共産党は、日本共産党同様に、ソ連ロシア共産党の下部組織であった。
 中国共産党日本共産党も、第二次世界大戦勃発に加担した戦争犯罪組織である。
 世界平和の敵は、ソ連同様に中国共産党日本共産党である。
 ソ連軍の占領地域では、反共産主義者や民主主義者や宗教関係者など大勢の人が反革命分子として虐殺された。
 ナチス・ドイツヒトラー戦争犯罪者とされるなら、虐殺を命じたスターリン共産主義者も有罪である。
 ソ連スターリンを支援した、アメリカとルーズベルト及びイギリスとチャーチルは幇助罪か共同謀議が成立する。
 全ての国に軍事資金を供給したのは、ユダヤ系国際金融資本であある。
 全ての軍隊に武器を提供したのは、国際軍需産業である。
 国際石油資本は、戦争国家全てに石油を販売した。
 外交問題評議会は、ルーズベルトとハル国務長官と個別に話し合い対日強硬策の提言を行い、アメリカの国益を追求する為に「戦争と平和研究プロジェクト」を立ち上げた。
 プロジェクトは、12月に果たすべき役割を決めた。
 「戦争の進路について継続的に研究し、戦争が合衆国にどの様な影響を与えるかを確かめ、戦争終結時において試みられる取り決めに向け、アメリカの利益を守る為に設計された具体的提案を考案する」
 9月1日 ドイツ軍は、ポーランドに侵攻。スターリンの思惑通り、第二次世界大戦が勃発した。
 ゲオルギ・ディミトロホフ(コミンテルン書記長。9月7日日記)「この戦争は二つの資本主義国家群の間で、世界再分割、世界支配をめぐり行われている。我々は、両陣営が激しく戦い、お互い弱め合う事に異存はない。ドイツの手で豊かな資本主義国、特にイギリスの地位がぐらつくは、悪い話ではない。ヒトラーは、自らは気付かず望みもしないのに、資本主義体制をぶち壊し、掘り崩している。
 権力を握った場合と反対勢力でいる場合とでは、共産主義者の態度は異なる。我々は自分の家の主人である。資本主義国における共産主義者は反対勢力であり、そこでの主人はブルジョアジーだ。
 我々は、さらにずたずたにお互いに引き裂き合うよう、両者をけしかける策を弄する事ができる。不可侵条約はある程度ドイツを助ける事になる。次の一手は反対陣営をけしかける事だ。
 資本主義国の共産主義者は、自国政府と戦争に反対して、断固として立ち上がらねばならない。
 この戦争が始まるまで、ファシズムとデモクラシー体制を対立させる事は全く正しかった。
 帝国主義列強間の戦争時には、これはもう正しくない。
 資本主義国をファシスト陣営とデモクラシー陣営に区別する事は、かって持っていた意味を失った。
 この戦争は根本的変革を引き起こした。ついに先日まで、統一人民戦線は資本主義体制下の奴隷の状況を和らげるのに役立った。
 帝国主義戦争という状況の下では、問題は奴隷制度の絶滅なのだ。
 今日、統一人民戦線や国民統一といった昨日までの立場を主張する事は、ブルジョワジーの立場に陥る事を意味する。こうしたスローガンは撤回される。
 かって歴史的には、ポーランド国家は民族国家であった。それゆえ、革命家達は分割と隷属化に反対して、ポーランドを擁護した。
 現在、ポーランドファシスト国家で、ウクライナ人、ベラルーシ人その他を抑圧している。現在の状況下でこの国を絶滅する事は、ブルジョアファシスト国家が一つ少なくなる事を意味するのだ。
 ポーランドを粉砕した結果、我々が社会主義体制を新たな領土と住民に拡大したとして、どんな悪い事があるというのか。
 我々は、いわゆるデモクラシー諸国との合意を優先し、交渉を続けた。いかし、イギリスとフランスは我々を下男にしようとし、おまけにそれに対して何も払おうとしなかった。我々はもちろん下男になりはしなかった。」
 9月3日 平沼騏一郎内閣の有田八郎外相は、原田熊男男爵に、独ソ不可侵条約で日独三国同盟が潰えた後の軍部の動静を告げた。
 「最近陸軍は独伊と軍事同盟を結ぼうとしてああいう結果になり、結局失敗に帰したが、その連中が今度は独ソの不可侵条約に日本も加わって、日独ソという関係で軍事同盟をやってイギリスを叩こうという運動があり、謂わば、左翼から右翼に転向した連中がその主導的勢力になって、すこぶる危ないものである。それに陸軍の一部が共鳴してしきりにっているのである」
 原田男爵は、最後の元老である西園寺公望公爵に、政府や軍部の情報を報告していた。
 イギリスとフランスは、ナチス・ドイツに宣戦布告した。
 アメリカは、欧州戦争に中立を宣言した。
 9月16日 モロトフ首相兼外相は、東郷茂徳駐ソ大使(A級戦犯)とノモンハン事件の停戦に合意した事を発表した。
 日本軍部は、敗戦責任として幾人かの現地部隊長を処分し、自決に追い込んだ。
 世界は、日本軍が敗北したと判断した。
 スターリンは、日本・満州国との紛争を解決し極東での安全を確保して、安心してヨーロッパ正面に軸足を移した。
 蒋介石は、長期戦を耐え忍んでいればソ連軍が全面的軍事介入して助けてくれると望みを託していただけに、ソ連軍がノモンハンを越え満州中央部に怒濤の如く進撃してくると期待したのに撤退してしまった事に落胆した。
 日本のエリート層である幕僚将校や革新官僚の一部が対ソ恐怖症となり、日本の安全の為には、対日制裁を強化するアメリカ・イギリスを見限り、ソ連を新たなパートナーにすべきとして行動を取り始めた。
 特に。陸軍内の統制派は、アメリカとの最終戦争に備えて日本を総力戦ができる国家への改造計画を主張した。
 コミンテルンの謀略で、日本国内での親ソ派は政治的軍事的影響力を強め政策決定に介入し始めた。
 日本の政府、軍部、官庁の中に、ソ連のスパイもしくはその協力者が多数潜入していた。
 9月17日 モロトフ首相兼外相は、ポーランドの駐ソ大使を呼び出し、「ポーランドはもはや国家として存在しない」と宣告し、領内の血の同胞であるベラルーシ人やウクライナ人をソ連は軍事力を持って保護すると通告した。
 ソ連軍は、ナチス・ドイツとの秘密議定書に基づいてポーランド東部に侵攻し、ポーランド分割合意した地域を軍事占領して、反共産主義者、宗教関係者、民主主義者、自由主義者民族主義者らを虐殺した。
 スターリンは、「侵略ではなく、旧ポーランド領内の同胞の現地保護」を主張した。
 各国に潜入しているソ連のスパイ達は、現地のマルクス主義者の協力を得てマスコミに偽情報を流してソ連に有利な報道をさせ、各国政府への謀略工作を行っていた。
 共産主義者による情報操作は緻密で、ブラック・プロパガンダ戦略は巧妙で抜かりがなかった。
 国際世論は、ナチス・ドイツの侵略を非難したが、ソ連の侵略は黙認した。
 スターリンの誤算は、ドイツ軍の快進撃でイギリスが大陸から全面撤退しフランスが抵抗せず早期に降伏した事である。
 ナチス・ドイツファシスト・イタリアの枢軸国対イギリスとフランスの連合国の戦争が長期化し、両陣営は総力戦によって国力を使い果たして疲弊し、国家としての機能を失って人民の暴動が起き、暴動はやがて共産主義革命に発展すると予想していただけに、期待外れに終わった。
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 10月 グルー大使は、休暇でアメリカに帰国していたが日本に戻った。日米協会で、アメリカ国内の反日世論を踏まえて、「支那の門戸開放と機会均等を求める原則論」を訴える演説を行った。
 日本経済は、欧米列強の保護経済政策で世界市場がブリック化して、日本製品が市場から弾き出されている現状から、食糧や石油などをアメリカに依存していてもアメリカの原則論を受け容れるわけにはゆかなかった。
 日本は、死活問題として、日本を中心とした東亜新秩序建設を貫くしかなかった。
 ロンドンに亡命したポーランド陸軍参謀本部情報部のスタニスロ−・ガノは、ワルシャワ駐在陸軍武官上田昌雄に、「我が情報部の対ダイツ、対ソ連諜報組織を日本に接収してもらえないだろうか」との提案を行った。
 日本陸軍は、ポーランド陸軍からの提案を受け入れ、外務省に対してリトアニアカウナスに日本人居留民がいないにも関わらず領事館開設を依頼した。
 日本外務省は、ポーランド陸軍情報将校との連絡員として杉原千畝リトアニアに派遣する事を決めた。
 日本陸軍ポーランド陸軍の関係は、45年8月迄続いた。
 10月2日 アメリカは、汎米会議で、西半球に安全地帯を設定した。
 10月21日 アメリカのウラニウム会議は、ルーズベルトに原爆開発の為に必要なウラニウム鉱50トンを購入す様に提案した。 
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 冬 女流作家・詩人の関露は、中国共産党のスパイとして、親日派汪兆銘政権の特務機関に潜入し、警察部門の幹部・李士群の英文秘書になった。
 関露は、汪兆銘政権や日本軍の機密情報を中国共産党に流し続けた。
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 11月 日本は、石油のアメリカ依存度を下げる方策として、オランダ政府に対して日・蘭印経済交渉を申し込んだ。
 オランダは、好意的に原則的同意を表明した。
 11月3日 アメリ連邦議会は、武器禁輸撤廃と交戦国への輸出を現金・自国船主義に限り認めるという中立法修正を行った。
 11月4日 阿部信行首相は、原田熊男男爵に、外務官僚を含む革新官僚らの不穏な行動を漏らした。
 「白鳥(敏夫駐イタリア)大使がこの間帰って来て、日独ソ同盟─要するに『防共の中軸を強化して英米追い出しをやらなければいかん』、といってをつたから、自分は『英米追い出しにソヴィエトの力を借りるという風な事は、非常によくない。物質的に力にならんのみならず、また精神的にもとても力にならん。何はともあれ国際精神の面では日本はまだなかなか訓練されていないから、非常な危険を伴うと思う』と、白鳥には自分は反対論をハッキリよくいっておいた」
 アメリカは、ナチス・ドイツと戦うイギリスやフランスを支援する為に第4次中立法を成立させた。
 11月30日 ソ連は、隣国フィンランドを侵略した。ソ連フィンランド戦争である。翌40年3月12日に、フィンランドソ連に降伏した。
 フランクリン・ルーズベルト米大統領は、ソ連軍がフィンランドに対して行った無差別爆撃を激しく非難した。
 「わが国政府並びに国民は、非武装市民への爆撃や低空からの機銃掃射、これら卑劣きわまる戦争行為を全力をもって糾弾する」
 後年。1943年 アメリカ陸軍戦略航空隊は、無差別爆撃を行う為、ユタ州の砂漠に日本の木造長屋を再現して焼夷弾による燃焼実験を行っていた。
 非戦闘員を焼き殺す無差別絨毯爆撃は、軍国日本との戦争に勝つというアメリカの強い意思であった。
 戦争に勝てば、「平和に対する罪」も「人道に対する罪」も免責された。
 国際連盟理事会は、ソ連軍のフィンランド侵略を理由にしてソ連除名決議を行った。
 スターリンは、理事国である国民政府に決議で反対票を投ずる様に蒋介石に要請した。
 ファシスト中国は、国際世論から日本軍の侵略を受けているという被害者の立場で同情を得ている手前、ソ連フィンランド侵略を支持するわけにはいかなかった。
 中国代表・顧維鈞は、軍国日本を侵略者と激しく非難しつつ、ソ連除名決議には棄権して反対を表明しなかった。
 スターリンは、蒋介石の不義理に激怒した。
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 中ソ両国関係は急速に冷め、ソ連軍よる国民政権への軍事支援は日ソ中立条約締結で完全停止させた。
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 欧米列強は、イラン皇太子パーレビーの結婚式が行われるテヘランに自国製航空機を飛ばして、軍事力を誇示した。
 日本は、96式陸攻を派遣した。
 フレッチャー・ブラット「日本人はまともな飛行機を作る事も、それを巧みに操縦する事もできない」
 フランクリン・ルーズベルト「日本人の頭蓋骨は、白人に比べて2000年も遅れている」 
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 12月 重慶の逃亡していたプロレタリア作家・鹿地亘は、蒋介石の許可を得て日本人民反戦同盟を結成し、戦時国際法を無視して、捕虜となった日本人兵士に洗脳教育を行った。
 蒋介石は、欧米の支援を得る事を優先して、日本人兵士捕虜への洗脳教育に積極的に協力しなかった。
 アメリカは、軍国日本を中国を含みアジア市場から駆逐する為の計画を練り始めた。
 アメリカ軍は、日本との戦争を想定した作戦の再検討を本格化させた。
 日本軍は、抗日軍の最有力補給路であるる昆明・ハイフォン鉄道を空爆し、利敵行為に近い行動を取る仏印政庁に対して監視員の駐在を認めるように要請した。
 フランス側は、日本軍の監視員駐留を認める事は中立性を損なうとして難色を示した。
 終わり頃。イギリスのMI6傘下の官立暗号学校(GCCS)は、日本海軍の暗号を解読し、東京の軍令部と全ての艦船との交信を傍受し解読していたと言われている。
 日本海軍は、日本陸軍に比べて暗号に対する認識が甘く、管理も杜撰で、暗号電文は不用意に解読されやすいように打っていた。
 アメリカ陸軍情報機関は、1920年のワシントン会議で既に日本海軍の暗号を解読していた。
 日本海軍は、暗号に使用していた乱数表を半年に一度変更して解読を防止していたが、複雑で解読不能という安全神話を信じていた為に、変更を簡略化させ単調で規則性を持たせていた。
 12月2日 アメリカは、対日禁輸物資に航空機生産に不可欠なアルミニウム、マグネシウムモリブデンを追加した。数日後には、航空機用ガソリンのプラントと航空機用ガソリンの生産に必要な専門情報を加えた。
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 12月12日 ソ連・ロシア人は、自国民が軍国日本に助けられても決して感謝しない。、
 宗谷岬で、ソ連貨物船インディギルカ号が猛吹雪の中で座礁して遭難した。
 猿払(さるふつ)村の漁民や村人と稚内の警察や漁業協同組合の救助隊は、乗客1,500人の内400人程を救出したが残りは死亡した。
 乗客は、700人の漁業労働者とその家族、約800人の囚人であった。
 皇国史観の「天皇の御稜威」「天皇の大御心」を信奉する日本人は、敵味方に関係なく、戦闘以外の災害で困っていれば見るに忍びないとして、「やむにやまれず」に差別無く助けた。
 皇国教育、教育勅語、修身教育を受けた戦前の日本人は、「人は人、罪は罪」「罪を憎んで、人は憎まず」という「やむにやまれぬ大和心」で良心の赴くままに、助け合った。後に、敵味方に分かれて戦争しようと、運悪く殺されかもしれないとわかっていても、相手に手を差し伸べた。
 当時の日本人には、現代風のキリスト教ヒューマニズムはない。キリスト教的博愛精神は、田舎の日本人にとって無縁であった。
 ラプシン船長は、船内に多数の囚人がまだ生存していると日本側が生存を指摘したが、生存者はいないと主張して見殺しにした。共産主義体制には、宗教にもとずいた人道や道徳や良心が無いだけに、囚人の人権は認めずけっして人として扱わなかった。
 憲兵隊や警察当局は、救助した全員を小樽に移送し、暖房のある施設に収容して治療を行った。
 函館駐在のソ連領事が、生存者を引き取ったが、漂着した遺留品の引き取りを拒否し全ての焼却処分を依頼した。
 神道的信仰心の厚い日本人は、死者への尊厳を持って流れ着いた遺体を丁重に扱い、懇ろに弔って荼毘にふして遺骨をソ連側に渡した。
 共産主義国ソ連は、無神論から宗教を完全否定し、命はもちろん死者への尊厳を持たず、全ての遺骨を遺族に届けることなくゴミとして海に極秘投棄した。
 日本では死者一人一人に名前があり親兄弟や故郷があるが、ソ連の死者は無名で親兄弟も故郷もわからなかった。
 無名兵士の墓とは、敬意の対象ではなく単なる石の碑にすぎなかった。
 ソ連は、中国同様に、自分が不利になる事には、けっして感謝しない。
 それどころか、降伏しているにも家買わず二国間条約を破って日本を攻撃して、武力を用いて日本領北方領土を不法占拠して自国領と宣言し、日本に返還しようとはしない。
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 ロシア人とは、使用できない性格を持っている。
 日本の配慮や思いやりは、中国人や朝鮮人同様に、ロシア人にも通用しない。
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 チャンドラ・ボースは、マハトマ(大聖)・ガンジーにインド独立のチャンスであると説得したが断られた為に、ヒトラーの支援を期待してナチス・ドイツへ密かに脱出した。
 チャンドラ・ボースは、インド国民会議派元議長として国民の支持が高かくインド独立を主張していた為に、イギリス・インド総督府から危険人物として監視されていた。
 ガンジー「君の良心にかけて、今が最善と信じるなら、君一人でやりたまえ、……もし、成功したら、私が真っ先に祝福を贈ろう」
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 ウィキペディア
 インディギルカ号の遭難地に建てられていた日ロ友好記念館。遭難時の資料が展示されていた(2011年閉館)。
 インディギルカ号(ロシア語:Индигиркаインヂギールカ)は、旧ソビエト連邦の貨客船。1939年12月12日の未明、北海道猿払村浜鬼志別沖合で座礁、沈没。全長80m内外。船名は、シベリア地方のインディギルカ川に由来。

 概要
 遭難
 シベリアのマガダンからウラジオストクを目指している途中に暴風雨に巻き込まれ、宗谷岬の位置を見誤ったことから漂流。猿払村の浅瀬に座礁した。猿払村の住民が総出で救出活動にあたり、子供も含め429名の生存者を救出するものの700名以上が死亡したと思われる。なぜか正確な乗客数を把握している乗組員は存在しなかった。また、先に救助された船長が「船内にもう残る乗員はいない」と述べたため、船内に取り残された乗客が多数犠牲になったという証言もある。

 救出後
 当時、船長や乗客の説明では、乗客は漁期を終えた漁業者であり、カムチャツカ半島から引き上げてくる途中に遭難したというものであった。しかし個々の乗客の素性や目的等、その詳細については明らかにされなかった。前述の船長による乗客の扱いも不審な部分であり、一方、事件を知ったソ連政府は日本政府に対して、船体の所有権を放棄したばかりか遺体の収容は不要、遺品の返還も無用、という異例の連絡を行っている。救助された乗組員らは、当月中に小樽港から離日、ウラジオストクへ向け帰国していった。
 猿払村は、1971年(昭和46年)にオホーツク海に面した場所に慰霊碑を建立するなど、事故後も手厚く遭難者の慰霊を行ってきた。ソ連当局は、慰霊碑の建立には協力したものの、冷戦時代に付きものであった派手なプロパガンダはなく、事故に対して比較的冷淡な姿勢を示したことは、長らく事故の詳細と共に謎とされてきた。

 謎の解明
 ソ連崩壊後の1991年、歴史学者の原暉之は旧ソ連の公文書をひもとき、乗員の多くがコルィマ鉱山などのシベリア地方に点在していた強制収容所(グラグ)からの送還者であり、船自体が政治犯および家族の護送船であったとの説を発表している。

 記念碑[編集]
 前記の通り、1971年に道の駅さるふつ公園近くの海岸に記念碑が建立された。費用は寄付によって賄われ、土台は当時のソ連政府から寄贈されたシベリア産の石材である。道の駅さるふつ公園の敷地には、事件の資料などを展示した「日ソ(ロ)友好記念館」が1972年にオープンしたが、施設の老朽化を理由に2011年に閉鎖・解体された。展示されていた資料の一部は道の駅さるふつ公園の管理棟内に展示されている。
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民間防衛ーあらゆる危険から身をまもる

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