🎺05:─1─アメリカとイギリスは、日本外務省の暗号電報を傍受し解読して、軍国日本の軍事行動を知っていた。ノーマン。イギリス軍の炭疽菌爆弾開発計画。1941年1月~No.21No.22No.23 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ジュディス・ハーマン「苛めは反発を呼ぶが、徹底した残忍な殺戮や拷問の恐怖は逆に従順さを生む」(『心的外傷と回復』)
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 市場原理主義の国際社会は、正義の為ではなく金の為だけに動いている。
 国際経済は、4億人の中国市場の為にファシスト中国と中国共産党を資金援助と軍事支援を行い、約7,000万人の日本市場を切り捨て軍国日本を滅ぼそうとした。
 国際社会は、「カネ」で動いていた。
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 スターリン「国際条約は、破る為に締結する」
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 ビスマルク「国家は、敗戦によっては滅びない。国民が、国家の魂を失ったときに滅びる」
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 アメリカは、グアテマラで梅毒による人体実験を行い83名の現地住民を惨殺した。
 人種差別主義者のアメリカ人は、現地住民の目や脳に梅毒菌を注射し、苦しもがきながら死んで行く経過を観察した。
 非白人に対する人体実験は、キリスト教列強諸国でも行われていた。 
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 ジョン・ダワー「(昭和天皇の戦争責任について)国家の最高位にあった人物がつい最近の出来事に責任を負わないで、どうして普通の臣民が自らを省みるか」
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 昭和天皇は、憲法が定める権限に従って、補弼である政府が決定し上奏した案件に対して不満があっても裁可した。
 不満な点に対しては直接意見を述べる事はせず、説明を聞くとして御下問し、裁可する事に躊躇いがある時は関係者を何度でも呼び出して御下問した。
 政府関係者は、昭和天皇が裁可せず御下問を繰り返す事で昭和天皇の真意を組み、再度協議し新たな決定案を上奏した。
 昭和天皇は、それ以上の意見表明としての御下問をせず、新たな決定案を裁可した。
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 日本軍部は、統帥権で日本政府と切り離されていた。
 行政府の首相や外務相ら主要閣僚、立法府・議会や司法・裁判所は、軍部の機密軍事情報を一切知らされていなかった。
 日本政府の機密国家情報はアメリカなどに筒抜けであったが、日本軍部の作戦や装備などの機密軍事情報は統帥権で守られていた。
 もし。統帥権がなければ、日本軍の全ての作戦計画が連合軍にバレて、開戦と同時に大敗北していた。
 つまり、真珠湾奇襲攻撃は成功しなかった。
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 日本国籍を持った日本人は、本人の意志に反して強制的に徴兵され、イヤイヤ戦場へ送られ殺し合いを強要された。
 強制による徴兵を拒めば犯罪者として逮捕された。
 だが、日本国籍を持つ朝鮮人には、国民の義務としての兵役は免除され、自由意志による志願制が採用されていた。
 日本国籍朝鮮人は、日本の戦争には参加していなかった。
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 イギリスは、ドイツ軍の侵攻から祖国を守り、ナチス・ドイツに甚大な打撃を与えるべく極秘でバイオ兵器開発を始めた。
 炭疽菌もしくはリシンを仕込んで針3万本を爆弾に詰め込んで、ヨーロッパに落とす計画を進めた。
 アメリカ軍とイギリス軍は、共同でバイオ兵器の研究を極秘で進めた。
 オックスフォード大学は、殺傷力の高い炭疽菌、ヴォリューム1457を開発させてバイオ兵器を完成させた。
 炭疽菌爆弾投下実験は、1942年にグリュナード島で行われ、数日後、島にいた羊など動物は全て死亡して成功した。
 連合軍は、炭疽菌爆弾投下を「ベジタリアン作戦」として準備を進めた。
 カナダは、1943年頃からバイオ兵器爆弾製造の為に大量の炭疽菌培養を本格化させた。
 チャーチルは、50万発の炭疽菌爆弾の開発を命じた。
 カナダは、1944年8月までに全人類を30回以上絶滅させるだけの威力がある、700億人分の致死量に相当する炭疽菌培養に成功し、その後の研究をアメリカ軍に引き渡した。
 チャーチルに送られた炭疽菌爆弾は、約5,000発のみであった。
 ベジタリアン作戦は、途中で頓挫し実行されなかった。
 ドイツ軍は、ヒトラーの毒ガス兵器・細菌兵器開発禁止命令に従って研究を断念していた。
 アメリカは、生物兵器開発に出遅れていた為に、世界でトップクラスの能力があった日本陸軍731部隊の最近開発データが是が非でも欲しかった。
 科学技術力を持っている国は、表向きはジュネーブ議定書(1925年批准)に従って生物・化学兵器の放棄に署名していたが、裏では極秘に研究・開発し生産して保有した。
 国際法で正式に制限されたのは、1972年の生物兵器禁止条約と1993年の化学兵器禁止条約からである。
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 1941年 八木秀次は、電探(レーダー)として軍事利用できる超短波受信用の指向性アンテナの特許更新を申請した。
 商工省と特許局は、軍事利用できる可能性を無視して、特許の取り消しを通告した。
 日本の官界や学界では、明治以来、国際派が主流をなし、日本の民族的独自性を完全否定する西洋礼賛志向が強く、民族的独創を切り捨てて欧米的発想を取り入れる事を最優先としていた。
 日本技術で世界技術を凌駕していたのは、造船と航空の分野であった。
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 陸軍中野学校は、参謀本部直轄の軍学校となり、卒業生を東南アジアやヨーロッパなど世界中に送り出した。
 日本のスパイは、欧米のスパイに劣らず優秀であったといわれ、東南アジア諸国の独立は彼らの活躍によるところが大きいといわれている。
 日本軍の諜報活動が劣っていたわけではなく、非白人という人種の壁が越えられなかっただけである。
 世界を支配していたのは白人キリスト教徒であり、日本軍が戦った相手は白色人種諸国であった。
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 軍令部は、連合国軍の暗号無線を傍受・分析するべく大和田通信隊を強化するべく、大幅な増員を図った。
 太平洋戦争初期段階では、陸海軍の諜報部隊は連合国軍の暗号通信を傍受し解析していた。
 アメリカ軍は、日本軍への反撃戦を開始するにあたり、暗号通信を日本軍に解析されない為に、巨費を投じて最新の暗号通信機器を揃え、優秀な人員を大量に諜報機関に配置した。
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 アメリカ・インディアンのラコタ族の聖地であったラシュモア山に、アメリカ大統領の巨大な彫像が完成した。キリスト教会は、少数民族を改宗させる為に、民族宗教の聖地を破壊し、宗教儀式を消滅させる為に英語のみを教えた。白人は、非白人を人と認めていなかった為に、人として敬意を払うことはなかった。それは、日本人に対しても同様であった。
 中国共産党は、国民党政府の行政機関が消滅した農村部に政治局員を派遣し、労せずして支配した。中国共産党は、表向きに、華北の農村部で日本軍による横暴な食糧略奪が行われていると宣伝しながら、裏では、国民党軍を弱体化させる為に日本軍に食糧を供給した。
 中国共産党は、延安に対日プロパガンダ放送を行う為のラジオ放送局「延安新華公播電台(現・中国国際放送)」を開局し、日本語放送を開始した。
 日本人女性(夫は中国人)の延安ローズが、日本軍に対して厭戦気分を誘う謀略放送を行った。
 中国共産党は、日本人兵士捕虜や拉致した日本人居留民を横暴な天皇と日本軍国主義者の被害者として洗脳し、戦後の民間交流に利用するべく日中友好人士に育成した。
 初頭から、アメリカ軍は日本外務省の暗号電文を全て傍受し解読していた。その写しは、ルーズベルト大統領、ハル国務長官、マーシャル陸軍参謀総長、スターク海軍作戦部長、スチムソン陸軍長官など少数の者のみに提出されていた。 彼等は、国家の指導者として、イギリスに味方してヨーロッパ戦争に参戦する事は国益であると信じていた。
 参戦という国家戦略の為に、日本を利用しようとした。
 ルーズベルトは、民主主義を標榜する合衆国憲法の規定する正規な手続きで、国民の直接選挙で選ばれた大統領である。
 アメリカ軍は、対日開戦に備え、ルーズベルト大統領の許可を得て、戦闘機や爆撃機などの多数の軍用機と必要な地上整備員をイギリス領ビルマに送り込んでいた。
 元旦 スチムソン陸軍長官は、反日派の急先鋒として、ニューヨーク・タイムズに対日強硬論の文書を投稿した。
「過去3年にわたって、アメリカの資源である、特に石油と鉄屑が、日本の極東に於ける悪業を助けてきた。これらの資源について供給源がほかにないから、その責任はアメリカにある。アメリカ国民は日本が中国に対して進めている侵略に、一致して反対しているが、もし、アメリカが悪業を阻止する為に、何か手段を用いたら、日本と戦争を戦う事になると思って、恐れている。それは、何の根拠もない。もしアメリカが、日本による中国に於ける戦争を、止めさせようとするならば、日本が戦争を行なうのに必要としている資材や、資源の供給を停める事である」
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 ドイツ人理論物理学者クラウス・フックスは、ソ連のスパイである。
 フックスは、ドイツからイギリスに亡命してイギリスの原爆開発に深く関わり、後に、アメリカのマンハッタン計画に参加した。
 イギリス人物理学者アラン・ナイ・メイも、ソ連のスパイであった。
 ナイ・メイは、カナダ・モントリオール研究所で原子炉建設に関わりながら、原子力情報をソ連に流していた。
 マンハッタン計画にも、多くのソ連スパイが潜入していた。
 有名なのが、ローゼンバーグ夫婦であった。
 世界中のインテリ達は、共産主義に人類の明るい未来を夢見て、資本主義と自由主義に絶望した者はソ連のスパイになった。
 共産主義者には、下層階級の労働者や農民ではなく、上流階級で高学歴のインテリがなっていた。
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 日本陸軍情報部は、「ドイツ軍は、上陸用舟艇が確保できない為に、イギリス本土上陸作戦の成功の確率は低い」と作戦部に報告した。
 陸軍の超エリート集団である作戦参謀は、自分の作戦に支障を来す恐れのある却下し、自分に都合の良い情報のみを採用して部隊を動かしていた。
 情報軽視は、陸軍や海軍だけではなく日本全体に及んでいたと言われている。
 つまり。日本人は、自分の部署を聖域化し、他の部署を排除して、自分の得た情報は自分だけ情報として共有する事を拒絶する。
 不都合な事実は認めず、無かったものとして破棄した。
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 戦前の大日本帝国憲法は、強力なリーダーシップを持った独裁者を出さない為に、一人の人間に全権力が集中しないように幾つもの合議機関を設けている。
 つまり、最終的責任者がいない無責任な政治システムである。
 突き詰めれば、全ての国民が政府の決定を自分のものとして納得して行動を取る事を強要されていた。
 責任ある独裁者の決定に、無批判で盲目的に従って動けば良いのであればこれほど気楽はない。
 もし、失敗すれば全ての責任を独裁者に押し付けて逃げれば良いのであるから。
 ドイツの戦後処理は、戦争責任とホロコーストの罪をヒトラーとナチ党に押し付けて、国民は洗脳され騙された被害者であり無罪であるとした。
 イタリアも、同様にムッソリーニファシスト党に全責任を擦り付けた。
 だが。日本の戦争責任は、両国とは違って、国家と国民に責任があるとされた。
 その原因は、強力なリーダーシップを持った独裁者を出さず、全責任を全国民が負うという大日本帝国憲法にあった。
 良かれ悪しかれ、日本国民は、国家の決定に責任を持って従う義務が負わされていた。
 これほど過酷な憲法は存在しなかったが、一寸でも気が抜けないという極限的最悪な東アジア情勢の中にあってはやむを得なかったといえる。
 総理大臣には、政府のトップとしての決定権がなく、省庁の官僚の指示で動いている各閣僚の意見を調整して内閣の方針を決めるだけの存在であった。
 官僚で最大の力を持っていたのは、陸軍官僚であった。
 陸軍官僚の意見に従わない総理大臣に対して、操り人形の陸軍大臣を辞職させ、次期陸軍大臣を出さずに総辞職に追い込んだ。
 戦争責任を追及されて自殺した近衛文麿も、A級戦犯としてリンチ的縛り首にされた広田弘毅も、その被害者に過ぎない。
 日本の内閣は、陸軍官僚の横暴で1,2年で交替していた。
 昭和天皇は、軍部の横暴に不快感を露わにして、新たに組閣する総理大臣に軍部を押させ、憲法に従って政治を正して欲しいと希望を述べていた。
 国民の選挙で当選していた政治家は、憲政を守る為に政府を支える責任があったのに、むしろ軍部と結託していた。
 総理大臣は、成りたくて成るのではなく、元老や重臣達が適当な人物を総理大臣候補として天皇に推薦した。
 昭和天皇は、憲法の規定に従って、推薦された人物に組閣の大命を下した。
 総理大臣には、協力な支持母体がない為に、政策の失敗や軍部の突き上げや議会での責任追及で、いとも簡単に総辞職して逃げた。
 昭和天皇は、最終決定権者として、美濃部達吉の「天皇機関説」を支持していた。
 「国體明徴声明」には不満を持ち、天皇親政を目指す昭和維新運動には反対し、天皇を現人神として神格化する事には反対であった。
 そして、日本軍の大陸侵攻には賛成し、アメリカとの戦争には反対であった。
 伊藤博文「欧米には宗教(一神教キリスト教)なるものがあり、これが基軸となって国民の心が一つにまとまっている」
 「日本にも仏教はあるが、昔ほど隆盛はなく人心の拠り所にはなっていない。神道も同様である。唯一、皇室だけが人心の拠り所となっている」
 「だから、憲法草案においては君権を基軸に据えている」
 万世一系男系天皇(直系長子相続)は、日本を分裂させ内戦で崩壊させない為の最善の方法であった。
 日本国民は、総理大臣が誰であれで、政府がどう政策を決定しようと、天皇が裁可して命令を発すればそれに従った。
 日本の戦争責任とは、全ての日本人が負うべきものである。
 日本に突きつけられている戦争犯罪に対する責任は、靖国神社A級戦犯ではあく、日本民族全体に問われている。
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 コミンテルンは、タイ仏印領土紛争が拡大する事を期待し、各地の共産主義者に解放区の拡大を指示した。
 松岡洋右外相は、アメリカやイギリスの介入を阻止すると共に共産主義勢力の拡大を食い止めるべく、両国に停戦を申し込んだ。
 仏印は本国の支援が期待できず、タイも単独で勝利は望めないとして、軍国日本の斡旋を受け入れた。
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 駐米ドイツ大使館のハンス・トムゼン参事官は、ベルリンに、アメリカは日本政府とワシントンの日本大使館との間の暗号電報を傍受し解読している可能性があると報告した。
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 アメリカ軍は、対日戦に備えて、太平洋地域の25ヶ所に通信傍受施設を設置し、日本の外務省と海軍及び陸軍の暗号電報を傍受して最新の暗号解読技術で解読していた。
 だが。機密漏洩を避けるべく、日本語の独特なニュアンスを理解して翻訳できる日系アメリカ人兵士を使用せず、日本人の思考が分からないアメリカ人兵士に翻訳を任せた。
 当然の事ながら、日本とアメリカでは常識も価値観も全てが異なる以上、分かり合えない。
 人の好い日本人は、アメリカ人も日本人同様に戦争を好まず、回避するであろうと勝手に思い込み、誠心誠意、胸襟を開いて話し合えば分かり合えるであろうと確信していた。
 だが、アメリカは分かり合えない事を知っていた。
 暗号解読を行っていたアメリカ人軍兵士は、日本人的な考えではなく、アメリカ人的な考えでアマリカ的な表現で意訳した。
 日本からすれば大半が誤訳であったが、アメリカからすれば分かりやすい訳文であった。
 日本語の遠回しな言い方である「戦争を辞せざる覚悟をもつて」は、ストレートな表現を使う英語では「我々は戦争をする事を決定した」となる。
 日本の暗号電報や政府決定公文書は、日本人向けであってアメリカ人向けではない以上、日本人しか分からない日本語の言い回すで書かれてていた。
 日米外交の失敗とは、暗号電報も、政府公文書も、全て日本語で書いた事である。
 日本人は、取り越し苦労的に、言葉尻から相手の真意を自分に都合が良いように歪曲して深読みする。 
 アメリカ人は、文面を自分に都合が良いように歪曲せず、相手の真意を酌み取る事なく素直に読み解いた。
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 ラダ・ビノード・パール「欧米諸国は日本が侵略戦争を行ったと非難する事で、自らのアジア侵略の正当性を誇示するとともに、日本のアジアにおける17年間の全てを『罪悪』であったと烙印する事が目的であった」
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 1月 日蘭会商の再開。日本側は、交渉を妥結させる為に、380万トンの石油要求量を200万トンに引き下げた。
 蘭印総督府は、石油輸出量で合意したが、ゴムとマンガン鉱の輸出量を削減した。
 日本政府は、国防戦略の充実を図る為に、各官庁の優秀な中級幹部と陸海軍将校をを集めて総力戦研究所を設立した。
 イギリスとオランダは、植民地から軍国日本に対し、石油、ゴム、米などの軍需用物資に転用される恐れのある品目の輸出を禁止した。
 連合艦隊司令長官山本五十六は、及川古志郎海相に日米交渉による戦争回避を切望すると共に、開戦劈頭で真珠湾を航空機で奇襲攻撃する計画案を提出した。
 「日本が必要とする太平洋の天然資源を確保できると思われる6ヶ月間より長く戦うというなれば、アメリカ太平洋艦隊に奇襲を仕掛け、少なくとも6ヶ月、できればそれ以上、艦隊の活動を鈍らせてしまう以外に道はない」
 日本海軍は、日露戦争後、アメリカ海軍との艦隊決戦に備えて強化をはかっていた。海軍の重鎮である山本権兵衛は、天然資源を海外に全面に依存し、主力輸出品である生糸を欧米の植民地で何とか売って経済は支えている実情を踏まえて、海軍部内を「対米避戦」で統制していた。
 アメリカは、対独戦に参戦する為に日本を戦争に暴走する様に、中国や中南米日本製品のボイコット運動と排日運動を煽り、各地の天然物資が日本に輸出できない様に妨害していた。
 ロイター通信は、アメリカ軍がグリーンランドを占領しつつある事を報じた。
 連合艦隊司令長官山本五十六は、及川古志郎海相と大西瀧次郎作戦部長に、対米英戦の開戦と共に真珠湾攻撃を奇襲するという極秘計画を打ち明けた。
 アメリカとイギリスの軍情報機関は、イタリアの日本大使館付き駐在武官への「タラント軍港の地形その他の資料を送れ」という暗号電文を傍受した。
 スターク海軍作戦部長は、真珠湾の太平洋艦隊司令長官に対し「真珠湾への奇襲に備えよ」という命令を発した。
 だが。大半の将校が、真珠湾の水深が12〜15メートルしかないので魚雷を使えない以上、日本軍の攻撃は不可能であると認識していた。
 軍艦は爆弾ではなく魚雷でしか沈められず、魚雷は50メートルの水深がなければ使用できないと言うのが、軍事常識とされた。
 タラント軍港攻撃は、優秀なイギリス空軍であったがゆえに成功したのであって、二流以下の日本空軍で近視的な視力障害を持つ日本人パイロットでは絶対に不可能である、と言うのが支配的な見解であった。
 皖南事件。 
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 1月6日 ルーズベルト大統領は、一般教書演説で、平和を愛する国家として、枢軸国と戦う民主主義諸国に武器弾薬や軍需物資を供与しうる計画案を連邦議会に通告すると発表した。
 共和党員や孤立主義者は、国際法の通念からして中立国が戦争当事国に武器弾薬や軍需物資など戦争必需品を供給する事は戦争行為にあたり、国外の戦争に参加しないという中立法やジョンソン法に違反するとして猛反対した。
 武器貸与法案は、国論を二分して大論争となった。
 ホイーラー上院議員民主党)「いまだかって、合衆国の連邦議会が大統領から国際法に違反せよ、と求められた事はなかった。いまだかって、この国が外交政策遂行するにあたって二枚舌外交を使った事はなかった」
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 1月7日 連合艦隊司令長官山本五十六は、及川海相に、開戦劈頭に真珠湾奇襲攻撃を行うという計画を進めているとの手紙を送った。
 この後。真珠湾奇襲攻撃計画は最高機密とされ、その真相は極一部の幹部のみが知るだけであった。
 軍令部は、荒唐無稽で博打的作戦で成功は望めないとして、10月頃まで同意しなかった。
 東條英機陸相は、「戦陣訓」(当時の畑俊六陸軍大臣が発案)を発表した。
 支那派遣軍は、神聖な武器を持っての逃亡と軍事機密の漏洩、そして敵軍に加わって国家元首昭和天皇皇軍と生死を共にした戦友に銃を向ける、元日本軍兵士の存在に困惑した。
 現地参謀部は「俘虜に関する教訓」を発表し、敵の捕虜になるより名誉の戦死を選ぶ様に再教育をし、捕虜となった者は敵前逃亡とみなして処断するとした。
 日本軍は、世界にも類のない非人道的命令を下し、全日本軍兵士に何が何でも戦死する事を強要し、生きて捕虜になる事を厳禁とした。
 「我が国民教育ないし社会教育の欠陥か、我が国古来の伝統を蝕みつつあるのを認む」
 非人道的軍隊教育として、人格無視の鉄拳制裁によるしごきで人間性を消失させた。その為、他国の軍隊以上に、怪我で死亡する者や自殺する者のが後を絶たなかった。
 日本軍は、責任の所在を誤魔化す為に、不名誉の死を隠蔽し、事故死や病死として処理した。
 伝統的に命を軽視する文化を持っ日本は、日本人の命を赤紙一枚、一銭五厘と軽んじていた。
 抗日中国軍に参加した元日本軍兵士は、軍国日本の大陸侵略と戦った人民の英雄と讃えられた。
 皇軍・日本軍は、前の敵はもとより、後方の敵と、内なる敵と、四面楚歌で戦っていた。
 それだけに、真実を隠蔽し、情報操作を行い、敵軍に味方して大元帥昭和天皇に銃を向ける元日本軍兵士の存在を隠し通した。
 軍国日本は、大本営発表で徹底して情報を統制し、憲兵隊や警察を総動員して真実を語る者を厳しく監視した。
 戦時下の日本には、報道の自由はなく、日本国民には知る権利がなかった。
 アメリカ軍は、すぐ死にたがる命軽視の日本軍とは違って、戦闘中・戦闘外いずれにおいても傷つき自力で脱出できないアメリカ兵の救助は攻撃同様に重要な任務とし、被害を承知で陸海空軍合同救助部隊を編成していた。
 アメリカ政府は、国家の責任と国民への義務として、窮地にある同胞を見殺しにはせず、相手に如何なる犠牲を与えようとも万難を排しても国民の救援に向かう。
 キリスト教は、絶対神への信仰にもとずいた、他人や家族への自己犠牲を尊んだ。
 自分の命が大事で他人を見殺しにする人間は、人間のクズとして軽蔑し、人ではないとして差別した。
 まして、自分の利益の為に窮地にある同胞を裏切り敵に売る者を最も嫌った。
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 1月中頃 山本五十六は、主要幕僚を任命し、春秋湾奇襲攻撃構想を打ち明けた。
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 1月21日 ルーズベルトは、記者会見で、イギリスへの戦略物資の輸送にアメリカ軍艦を派遣しない事を発表し、「護送は発砲を意味し、発砲は戦争を意味する」との見解を明言した。
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 1月27日 グルー駐日アメリカ大使は、東京の駐日ペルー公使シュライパーや日本人情報提供者から、日本軍がハワイの真珠湾を大規模に奇襲攻撃を計画している事を聞き、ワシントンに通報した。
 「駐日ペルー公使が当方の館員に語ったところによれば、ある日本人を含む複数の情報源から、日本がアメリカと紛争に至った場合、全軍を挙げて真珠湾に奇襲攻撃をかける計画を持っていると聞いた。
 その計画は荒唐無稽に見えるが、多くの情報源から聞いたので伝える気になった」
 国務省は、同情報を信憑性はないとしたが、一様は海軍側に伝えた。
 駐日ペルー公使は、横浜のペルー領事館の日本人通訳と東京帝国大学の吉田教授からの情報として、日本海軍の真珠湾攻撃計画の可能性をグルー大使に伝えた。
 アメリカ大使館付き海軍武官スミス゠ハットン少佐は、観光を名目として瀬戸内海から九州方面を旅行し、日本海軍艦艇の動きを偵察した。
 軍国日本は、経済全般でアメリカに大きく依存している為に、アメリカとの友好関係を保つべく最重要レベル軍事機密情報以外での情報収集は大目に見ていた。
 ワシントンにあるアメリカ海軍無線監視傍受局は、太平洋に設置した25箇所の無線傍受局が傍受した日本海軍暗号29種の内解読できた暗号から、各地の艦艇や日本国内外の海軍基地の動きと、ワシントンの日本大使館勤務の海軍武官専用暗号から情報収集を行っていた。
 日本海軍の暗号の幾つかは、アメリカ軍によって解読されていた。
 蒋介石は、安徽省で中止命令を無視して勢力拡大を図る新四軍を、包囲して皆殺しにした。中国共産党への制裁として、軍費や武器弾薬の供給を打ち切り、延安一帯を経済封鎖した。
 蒋介石は、国民党軍内の隠れ共産主義者の協力でアヘンの密売を続けた。
 スターリンは、毛沢東の窮地を救う為に、ワシントンのスパイを動員してアメリカ政府から蒋介石に圧力を加えた。
 ハワイ諸島の商店主達は、真珠湾が太平洋艦隊の母港となって多くの水兵が上陸して豪遊することに歓迎した。だが。長期間、艦艇の多くが海上演習として出港していては商売上具合が悪いと不満を抱き、ワシントンに対してなるべく港を開けずに停泊する様に要請した。
 ルーズベルトは、太平洋艦隊に対して、週末はなるべく出港せず真珠湾内に停泊する様に命じた。同様に、航空部隊も数カ所の飛行場に集中させ、大半の航空機を無防備に滑走路脇に並べた。
 水兵や航空隊員らは、週末事に基地周辺の飲み屋に繰り出し、酔っ払うと陸軍兵士と喧嘩騒ぎを起こしていた。
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 1月28日 ジョーンズ商務長官は、下院銀行通貨委員会で、「我々は、戦争に参加しているのだ。少なくとも戦争に参加しかけているのだ」と証言した。
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 1月29日(〜3月27日) アメリカとイギリスの両国軍は、ワシントンで、大西洋と太平洋における戦争でどう共同行動をとるべきかに関する第一回会議を行い、報告書をまとめた。
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 1月31日 オランダ政府は、アメリカの対日強硬政策に同調して、日本に「蘭印は大東亜共栄圏外にある」と通告した。
 タイとフランス両国は、停戦協定に調印した。
 松岡外相は、平和を快復する為の10ヶ条の提案を行った。
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 2月1日 ルーズベルトは、日本との戦争の為に、対日戦に消極的な太平洋艦隊司令長官のリチャードソン大将を解任してハズバンド・E・キンメル少将を大将に昇進させ新たな司令長官に任命した。
 スターク作戦部長は、日本軍による真珠湾攻撃はありえないが、そういう情報があったとキンメル司令長官に伝えた。だが、日本軍による攻撃を想定した警戒態勢の必要性を示唆しなかった。
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 2月3日 ハルは、ルーズベルトの指示に従って、国務省内に戦後の対日政策を考える「特別研究部」(SR)を新設した。
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 2月11日 野村吉三郎海軍大将は、駐米大使としてワシントンに着任した。 
 ルーズベルトは、日本との緊張が高まるなか、一部の艦隊をフィリピンに派遣する事を命じた。
 スターク部長は、フィリピンでは日本海軍との間で不測の事態が発生する危険があるとして、日本軍の南進抑止が目的であれば蘭印に派遣するべきであると反対した。
 新たに司令長官となったキンメル大将も、大統領が公の場で戦争への参戦を否定するばかりで、戦争をするのか平和を維持するのかその真意を測りかねていた。再三再四、ルーズベルトの腹の内を問う手紙をワシントンのハロルド・R・スターク海軍作戦部長に出していた。
 スターク大将も、明言を避け煮え切らないルーズベルトの態度にイライラとしていたが、戦争に備えるのが軍人の本文として戦争計画に関する指示を与えた。
 軍当局にとって、太平洋と大西洋の二正面戦争を強いられ事が最大の問題であった。
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 民間の憲法学者鈴木安蔵は、ハーバード・ノイマンハーバード大学の博士論文で執筆した、「日本の近代化への過ちは人民抑圧の天皇制度を存続させた為であるから真の民主的近代国家になるには天皇制度を打倒するしかない」という『日本における近代国家の成立』を高く評価する論文を東洋経済新報社刊『現代の本文明史』の附録[月刊]現代文化第5号に投稿した。
 ノーマンは、日本はもとよりアジア全体に戦争を引き起こし平和を打ち砕いて混乱をもたらし、罪もない人民を殺戮して地獄の様な惨劇を生み出している諸悪の元凶は封建的天皇制度にこそあると糾弾していた。
 よって。邪悪な侵略戦争を命じている天皇制度を放置する事は、世界平和の為にならず、人類の不幸であるから廃絶するべきであると。
 これが、アメリカの保守層に支持された「ノーマン理論」である。
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 エドガートン・ハーバート・ノーマン (1909年9月1日〜1957年4月4日)は、カナダの外交官。日本史の歴史学者。日本生まれ。ソ連のスパイの疑いをかけられ自殺した。
 生い立ち
 在日カナダ人宣教師のダニエル・ノーマンの子として長野県軽井沢町で生まれる。父ダニエル(1864年 〜1941年)は1897年に来日し、1902年から長野市に住み、廃娼運動、禁酒運動に尽くしたが、ハーバート自身はシェリー酒を嘗めながら雑誌を読むタイプだった。その後カナダのトロントに移り、父と同じトロント大学ビクトリア・カレッジに入学、この頃より社会主義への傾倒を始める。
 1933年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。歴史学を研究し1935年に卒業。このころは左翼系の学生活動にのめりこみ、共産主義系の数々の学生組織で活動する。その後ハーバード大学に入学し、軽井沢の教会を通じて両親同士が知り合いだったエドウィン・ライシャワーのもとで日本史を研究しつつ、学友で「社会主義者」を自称した都留重人などと親交を結ぶ他、学友を社会主義活動へ勧誘し続けた。英MI5(情報局保安部)がノーマンを共産主義者と断定。
 外交官
 1939年に同大学を卒業し、カナダ外務省に入省、1940年には東京の公使館へ語学官として赴任。公務の傍ら、東京帝国大学明治新聞雑誌文庫を頻繁に訪ね、近代日本史の研究を深めるとともに、羽仁五郎に師事して明治維新史を学ぶ。また、丸山真男らとも親交を深めるなど、充実した日々を送っていた。しかし1941年12月に日本とカナダ間で開戦したために、日本政府によって軟禁状態に置かれ、翌年日米間で運航された交換船で帰国する。
 GHQ
 第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)9月、アメリカからの要請によりカナダ外務省からGHQに対敵諜報部調査分析課長として出向し、同年9月27日からの昭和天皇マッカーサーのGHQ側通訳を担当した。マルクス主義憲法学者鈴木安蔵らに助言して憲法草案要綱作成を促すほか、GHQ指令で釈放された共産党政治犯の志賀義雄や徳田球一らから反占領軍情報を聞き出すなどした。また、政財界・言論界から20万人以上を公職追放した民政局次長のケーディスの右腕として協力したほか、戦犯容疑者調査を担当し、近衛文麿木戸幸一A級戦犯に指名し、起訴するための「戦争責任に関する覚書」を提出した。連合国軍占領下の日本の「民主化計画」に携わるかたわら、学者としても、安藤昌益の思想の再評価につとめ、渡辺一夫中野好夫桑原武夫加藤周一らと親密に交流した。特に重要なのの1946年にGHQが戦前の日本の政党の活動を禁止した中で日本共産党だけはノーマンの助言でこの禁止を受けなかった。これが学生時代の左翼活動と相まってその後のソビエトスパイの容疑に大きく影響する。
 1946年8月には駐日カナダ代表部主席に就任する。その後1951年9月にはサンフランシスコ対日講和会議のカナダ代表主席随員を務め、その後カナダ外務省本省に戻る。
 スパイ
 その後、第二次世界大戦後の冷戦下のアメリカで起きた赤狩り旋風の中で共産主義者の疑いをかけられ、アメリカの圧力を受けたカナダ政府による審問を数回に渡って受ける。そのようなアメリカからの圧力から逃れさせるべく、1953年には駐ニュージーランド高等弁務官に任命され、その後1956年には駐エジプト大使兼レバノン公使に栄転する。同年に起きたスエズ動乱勃発では、盟友のレスター・B・ピアソンを通して現地の平和維持と監視のための国際連合緊急軍導入に功績を残し高い評価を得た。しかし、都留重人を取り調べたFBI捜査官によるアメリカ上院における証言によって「共産主義者」との疑いを再度かけられ、1957年4月4日に赴任先のカイロで飛び降り自殺を遂げた。
 最近では冷戦崩壊後における「ベノナ」などの機密解除や、当時の関係者の記録などからソ連のスパイであったという疑いが確実となっている。実際に学生時代に共産主義者であった事実は確定しており、学者としても、進歩的・左寄りの論調を主張した事実はあるが、ベノナも含めてノーマンがスパイであったとの証拠は見つかっていない。またカナダ政府は生前からノーマンのスパイ説を否定し続けており、なお、カナダ外務省はノーマンの「功績」を称えて、2001年5月29日に東京都港区赤坂にある在日カナダ大使館の図書館を、「E・H・ノーマン図書館」と命名した。
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 2月27日 衆議院本会議。立憲政友会正統派の植原悦二郎代議士は、前年40年10月に発足した大政翼賛会について発言し、大政翼賛会幹部にマルクス主義系知識人エリートが多く参加して国内外の方針を決定していると指摘した。
 風見章などの革新官僚マルクス主義者)や転向組役人(隠れ共産主義者)や革新系知識人らは、統制組織・大政翼賛会を通じて日本をソ連のような共産主義国家にしようとしているのではないかと疑問を発した。
 統制体制に反対する非翼賛系議員は、植原議員の発言に賛同する拍手をおくった。
 植原「私は翼賛会の現状に対して反対する少なくとも3つの理由を持っています、
 その一つは日本の赤化であります、何と言っても翼賛会組織はソ連ボリシェヴィキ又はドイツのナチに酷似しておるものであります、しかもこの組織内には奇矯過激なる言語を敢えてする者が多数存在しております、革新なる美名をかりてソブエトの赤化組織をわが国に移植せんと計画しておる者も存在するのではないかと疑はるる事実があるのであります。国民再組織なる奇怪なる標語も、この間に発生せられております、国家の前途を想う者にして、誰がこの事実を看過することができましょうか。翼賛会は果たして赤化の温床にあらざるか、私共は疑問を抱くものであります……大政翼賛会は政府と表裏一体といいながら、中央に於いても翼賛会の幹部は政府と全く異った外交政策を掲げ、又経済翼賛と称し、社会主義共産主義に類する言辞を弄しておる、しかも彼等の言説は常に他を排撃し、彼等の一団以外に日本を愛する者がなきが如き口調を羅列している……」





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