🎺12:─2─昭和天皇は、戦争を回避する為に、明治天皇の御製を詠み和平交渉成立を切望した。1941年9月~No.61No.62No.63No.64 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昭和天皇は、国家の平和と国民の安寧を切望し、対米英蘭戦争にも、日中戦争にも反対であった。
 最も恐れたのが、ソ連(ロシア)・コミンテルン日本共産党など天皇制度打倒を掲げる共産主義勢力による日本侵略であった。
 軍国日本は、天皇制度を守る為に戦っていた。
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 9月頃より、太平洋艦隊司令部は、真珠湾防衛に必要とする偵察機の増派を要請していた。
 ワシントンの軍需物資割当委員会(ハリー・ホプキンズ)は、イギリスへの支援を優先して、太平洋艦隊に約束しても実行しなかった。
 海軍司令部は、太平洋艦隊の度重なる出港要請を許可しなかった。
 ドイツのトムゼン参事官は、ニューヨークの弁護士マルコ・ロヴェルを通じてCOI(アメリカ情報調査局)長官ウィリアム・ドノヴァンと情報交換をしていた。
 ドノヴァンは、トムゼン情報をルーズベルトに報告し、ナチス・ドイツと軍国日本との戦争に備えて情報を収集していた。
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 9月 軍部は、対米戦争もあり得る深刻な局面に突入した為に、の御前会議報道の中止を申し込んだ。
 政府は、軍部の圧力に屈して、国民の知る権利を奪った。
 国民は、国の進路がどうなり、自分達の運命がどうなるのか分からなかった。
 新聞各社は、政府や軍部の内部情報を得られない為に、政治家や軍人の間を飛び回って集められる限りの情報を集めて、検閲に引っ掛からない言葉で報道していた。
 フーバーFBI長官は、極東の調査官から、日本軍は真珠湾かフィリピンのクラークフィールドの何れか、あるいは両方を同時攻撃する可能誌があるという警告を受け取った。更に、別のルートからも同様の情報を入手した。
 ルーズベルトは、フーバー長官から日本軍情報を聞いた上で「この事は私以外の誰にも言うな」と釘を刺し、「知らせる必要のある人には私から話す」と話した。そして、ハワイのキンメル提督やショート将軍に伝える必要はないと命じた。
 満州鉱業開発は、満鉄、満州石油、日本石油などの協力を得て47本の油井を掘削したが、遂に石油を得る事ができなかった。
 日本政府と軍部は、満州で石油を見つけ出す事を諦め、採掘を断念して掘削機を南方に運び始めた。
 戦後。満州各地で油田が発見された。
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 9月3日 ホワイト・ハウスのスティーブン・アーリー大統領報道官は、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙が報じた「太平洋上で、ルーズベルト=近衛直接会談予定」を公式に否定し、会談の為の招待状は届いていないと発表した。
 アメリカは、首脳会談を拒絶した。
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 9月4日 アメリ海軍省は、グリアー号事件を発表した。
 アメリカ海軍は、参戦する為にドイツ海軍を挑発していた。 
 昭和天皇は、杉山参謀総長と永野軍令部総長を召し、近衛首相の立ち会いのもとで、日米戦争を回避する事を希望して外交交渉を優先する様に求めた。
 明日の御前会議の案件について懸念を問い質すべく、近衛首相についで杉山元参謀総長永野修身軍令部総長をお召しになった。
 杉山参謀総長と永野軍令部総長は、戦争回避を願う昭和天皇の詰問に対して、統帥部は「外交を主とし、戦争を従とする」事と、外交が不成立となった時に改めて開戦の協議を為て決定すると奉答した。統帥部としても、戦争を好むものではなく、何がなんでも開戦を強行しようとしていない事を誓った。
 昭和天皇は、なをも日米戦争開戦への不安があったが、この日は両総長の説明で納得した。
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 9月5日〜11月6日 日本軍約4万人は、湖南省省都長沙を守る中国軍30万人以上を攻撃した。
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 9月5日 近衛文麿首相は、単身で皇居に参内し、明日開かれる御前会議の内容を昭和天皇に説明した。
 昭和天皇は、外交と戦争準備とどちらに重きを置くのか確かめるべく、杉山元参謀総長永野修身軍令部総長を急遽、召された。
 杉山元「日本としては半年や一年の平和を得ても、続いて困難が来るのではいけないのであります。20年、50年の平和を求むべきであると考えます」
 昭和天皇は、苛立つように「ああ、わかった」と大声を発して不満を表明した。 
 永野軍令部総長は、大坂冬の陣での和議で勝てない状況に追い込まれ、夏の陣で豊臣家が滅ぼされた、戦史を述べ、日本は今まさにその状況に追い込まれつつあると説明した。
 絶対に勝てるとは確約できないが、座して死を待つよりは勝ちを信じて撃って出て日本の決意を示さしな、と。
 昭和天皇としては、戦争は避けたいが、やれるだけやって外交交渉が不調に終われば、自主独立国家の存続をかけて「開戦」もやむを得ないと覚悟した。
 昭和天皇は、無辜の国民の命を守る為に平和を切望していたが、国家元首の責任として自衛の為の「戦争」を放棄するつもりもなかった。
 戦争より平和を望んだが、短絡的に戦争を放棄する平和主義者ではなかった。
 軍国日本は、アメリカに追い詰められたとはいえ、負けるかも知れない事を知りながら、日本男児として和戦を主体的に決断した。
 昭和天皇は、専制君主として、単純な平和主義者でも反戦主義者でもなかった。
 英明な君主ゆえに、軍部に騙され、軍部に押し切られ、軍部の暴走を許したわけではない。
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 9月6日・7日 御前会議。
 原嘉道枢密院議長は、戦争回避を切望する昭和天皇に代わって、議案についても質問を行った。
 原議長「戦争が主で外交が従と見えるが、外交に努力をして万やむを得ない時に戦争をするものと解釈をする」と問い掛けた。
 及川海相「第一項の戦争準備と第二項の外交とは軽重なし。しこうして第三項の目途なき場合には戦争の決意まで行うのである。而し之を決意するのは廟議で允裁を戴く事となる」と返答した。
 原議長「本案は政府統帥部の連絡会議で定まりし事ゆえ、統帥部も海軍大臣の答えと信じて自分は安心致しました。……どうか本案の御裁定になったら首相の訪米使命に適するように、且つ日米最悪の事態を免るるよう御協力を願う」
 昭和天皇は、原議長の確認質問に対して及川海相のみが答えて、統帥部の杉山総長と永野総長が返答しなかった事に不満と不信を持ち、異例中の異例として突然発言した。
 「ただ今の原枢相の質問はまことに尤もと思う。これに対して統帥部が何ら答えないのは甚だ遺憾である」とて懐中から紙片を出して、明治天皇の御製を二度読み上げた。
 「四方の海みなはらからと思う世に などあだ波風のたちさわぐらむ」
 メモを持つ手は、緊張で震えていた。
 「朕は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せんと務めておるものである」
 昭和天皇は、御製を意図的に「荒波」を「あだ波」に替えたといわれている。
 出席者全員が緊張して沈黙し、会議は重苦しい空気に包まれたが、永野軍令部総長昭和天皇の発言に答えた。
 「統帥部に対するお咎めは恐懼に堪えません、実は先程海軍大臣が答弁致しましたのは、政府、統帥部双方を代表したものと存じ独決しておりました次第であります。統帥部としても勿論海軍大臣のお答え致したる通り外交を主とし、万やむを得ざる場合戦争に訴えるという趣旨に変わりはございません」
 昭和天皇は、「君臨すれども統治せず」の英国流沈黙のルールに立ち戻り、それ以上の発言を差し控えて退席した。
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 昭和天皇は、海軍部内で行われていた「対米戦は敗北」という極秘図上演習結果を知っていた。
 昭和天皇は、官僚的答弁で明言を避けて逃げようとする軍部の曖昧さに激怒して、「原の質問はもっともである。なぜ統帥部は答えないのか!」と一喝した。
 そして、外交交渉で戦争を回避し和平をもたらす事を希望して明治天皇の御製を二度も詠んだ。
 「四方の海みなはらからと思ふ世になだ波風の立ち騒ぐらむ」
 昭和天皇「余は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述(しょうじゅつ)せんと努めておるものである」
 近衛首相ら政府は、昭和天皇の発言を聖断と利用して議案を白紙還元する機会があったが、好機を見送った。
 軍部は、昭和天皇の希望を無視して、議案を有耶無耶のうちに可決させた。
 東條陸相は、陸軍省に戻るや、緊張した面持ちで部下を集めて「聖慮は平和にあられるぞ」と告げた。
 武藤章陸軍省軍務局長は、昭和天皇の平和への希望発言で、戦争も辞さずの強硬派から戦争回避の慎重派に転向した。
 石井秋穂中佐ら軍務局の高級課員は、武藤局長から「何が何でも外交を妥協せよという御意だ。俺は結局戦争になるものと達観しておるが、天子様に押し付けてはいけない。外交に万全の努力を傾け、天子様がお諦めになって御みずから戦争をご決意なさるまで精出さねばならぬ。俺はこの事を大臣にもいっておく」と申し渡された。
 陸軍省は、如何に和平交渉をしても、アメリカが譲れない条件を日本にゴリ押して無条件で鵜呑みせよとする限り成立しないが、昭和天皇が絶対不戦を望む以上は外交交渉に全力で当たる事になった。
 鈴木貫太郎「もしあのとき、総理が死を覚悟して御聖断を仰いだならば、太平洋戦争は起こっていなかったかもしれない」
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 昭和天皇は、日本が戦争を回避する為に外交交渉を行おうとしているのに、アメリカが頑なに拒否する為に戦争へと追い詰められているという、悔しさがあった。
 そして。戦争の回避が出来なければ、国益を守る為に開戦もやむを得ないとの覚悟を固めた。
 サムライは、命よりも名誉を重んじ、侮辱を受けたら死を覚悟して戦う。それが、武士道であった。
 昭和天皇「私は平和努力というものが第一義になる事を望んでいたので、その明治天皇の御製を引き用したのです」(昭和60年4月15日の記者会見)
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 夜。近衛首相とグルー大使の極秘会談。
 近衛首相は、首脳会談を開催の条件とされたルーズベルトの4原則を無条件で受け入れると、グルー駐日大使に伝えた。
 日本は、アメリカとの破滅的戦争を何としても避ける為の話し合いを望んでいた。
 近衛首相は、話がまとまるまで会談内容は口外しないように依頼した。
 グルー大使は、日米戦争を回避する為に、近衛提案を極秘案件としてルーズベルト大統領とハル国務長官だけに報せた。
 ハル国務長官は、野村吉三郎大使に、近衛首相から極秘提案があった事を打ち明けた。
 アメリカ側は、4原則を発表した当時と今とは状況が違う以上、別の諸原則にも合意する必要があると回答し、首脳会談の前に事務的予備会談の開催を逆提案した。
 ハル国務長官は、報道陣に、日本側が提案してきた調停目的の太平洋会談は知らないと発言した。
 野村大使は、寝耳に水の話で驚き、東京の豊田外相に報告した。
 豊田外相は、グルー大使を呼び出して極秘提案の件を問い質した。 
 アメリカ軍は、日本政府と外務省の狼狽ぶりを暗号解読で知っていた。
 アメリカは、暗号を見ながら対日外交を戦争へと誘導していた。
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 昭和天皇は、国家と国民を救う為に、戦争を避け平和をの望んだ。
 ルーズベルトは、国益の為に参戦を決断し、日本を戦争へと追い込む為の謀略を仕掛けていた。
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 9月7日 東久邇宮稔彦王陸軍大将は、近衛首相から日米首脳会談に消極的な東條英機陸相の説得を依頼された為に、東條英機に来訪する様に伝えた。
 東條陸相は、東久邇宮邸に参上し、前日の昭和天皇の外交重視発言を踏まえて首脳会談に対する、天皇陛下への忠節と陸軍大臣の職責から強硬な所見を話した。
 『東久邇宮日誌』「東條曰く
 陛下の日米問題に対するお考え、近衛、ルーズベルト会見に関するお考えは良くわかれり。米国の日本に対する要求は、せんじつめて云えば、日本は独伊枢軸より離脱して英米の方にはいれとの事なり。
 若し日本の協力を得て独を撃退したる後、更に日本打倒に向い来るならん。
 ……
 日本が大譲歩をなして日米会談を成立しても、日米関係の平和なるはここ2、3年のみなり、米が軍備完了したるの後は、日本に戦争をしかけてくるならん。
 来年の秋迄は米国は日本に対し勝ち目なし。故にそれ迄はなんとかして日米戦争を避け日本の力を弱めんと努めつつあり。
 陛下の近衛、ルーズベルト会談に対するお考は良くわかりたれば、陸軍大臣としてこの会談が成立するが如く努力するつもりなり。
 東條は近衛、ルーズベルト会談の成功は10分の3位に考えおれり。
 少しでも日米会談成功の望みあればこれを行うを可とす。
 日米会談の不成功に終わりたる場合には、日本は日米国交調整これ程迄に努力せしも終に不成功に終りし事を日本国民に知らしめ、日米戦争の場合、日本国民の奮起と一致団結を要求し得べし、故に近衛、ルーズベルト会談が不成功に終りても、以上の利益あり。
 日米国交調整に関する陛下のお考えは良くわかれり。しかし陛下が日本の不利をしのぎて迄も、如何にしても日米国交を調整せんとお考えになり、東條はその事が国家百年のために不利なりと考うれば、どこまでも諫め申し上ぐべし、それでもお聞きにならなければ辞職するより外なし、これ即ち陛下に対し奉り忠節を完うする事と考うればなり」
 東條英機が、戦争を欲しているルーズベルトの真意をあるていど見抜いていたと言って良い。
 石井秋穂中佐は、参謀本部の意見を聞く為に作戦課長の服部卓四郎大佐を訪れた。
 参謀本部は、対米戦開戦を決意し、戦争を回避する為に外交努力をしようとしている陸軍省の軟弱ぶりを罵倒した。
 服部卓四郎「俺は、もう戦争を固く決意し絶対に変えない。今陸軍大臣のなすべき事は連日連夜でも参内して開戦の必要な理由を言上する事だ。貴様、帰って大臣に具申せよ」
 日本外務省は、御前会期の決定を予想して、ワシントンの野村大使に対して日米交渉の調印期限を今月25日と定めるとの電報を打った。
 アメリカ軍情報部は、電文を傍受し暗号を解読して、話し合いによる和平交渉の破綻が近い事を察知していた。
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 9月8日 杉山元参謀総長は、統帥部の責務として戦争準備を続ける為に、「御前会議の決定に伴う動員計画」案を、昭和天皇に上奏した。
 昭和天皇は、外交重視を求めた自分の意図は関係なく戦争準備が進められる事に不満を持ち、幾つかの文言に注意を与えた。
 9月9日 杉山参謀総長は、昭和天皇の指摘を踏まえて動員に関する上奏を行った。
 昭和天皇は、やむなく裁可した。
 「しかし、動員しても対米交渉が上手くいったら動員は止めるだろうね」
 杉山総長は、交渉が成立すれば最悪の事態は回避すると誓った。
 陸軍は、昭和天皇の許可を得て、遅れていた南方作戦準備に取り掛かった。
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 9月10日 東條英機陸相は、戦争忌避という昭和天皇の気持ちに添うべく、陸軍側の条件が受け入れられる形で和平に努力する事を表明した。
 昭和天皇は、軍部に対して、日米開戦となった場合にソ連の動きはどうか聞いた。
 統帥部は、南方作戦発動中は冬季でソ連軍は動けないであろうとの予測を奉答した。
 ハル国務長官も、首脳会談実現の前に両国の意見を聞く必要があり、東京の言う様に調停の為の予備的合意を成立させる前の首脳会談は時期早々であると発表した。
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 9月11日9時25分(〜10時30分) 東条英機陸相は、昭和天皇に対米作戦準備に関して奏上した。
 昭和天皇は、6日の御前会議で発言した「戦争忌避」の気持ちは変わらないと伝えた。
 東条陸相は、戦争に備えるという陸軍大臣の職務を果たしているが、戦争を回避する為に交渉妥結に極力努力する旨を説明した。
 大元帥たる昭和天皇は、開戦の可能性がある以上は戦争準備を怠りなく行うべきとは思うが、国家元首としては国民に戦禍の苦しみを与えない為に戦争回避を切望した。
 東条英機も、陸軍大臣の立場として強硬な発言を繰り返していたが、昭和天皇の「平和愛好の精神」を十分理解し、戦争回避の念いを叶えたいと思っていた。
 だが。昭和天皇東条英機も、国家を武力で守る軍人として、平和を希求する手段が尽き戦争しか残されていないとなれば、迷わず開戦を決断する覚悟は持っていた。
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 9月中旬 FBIは、ポポフ情報であるマイクロドットを解読した。
 フーバー長官は、ニューヨークに行き、FBIニューヨーク支部ポポフを呼んで話を聞いたが、ポポフの素行を徹底して調べ個人的嫌悪を深め信用せず、真珠湾情報を疑った。
 「君ら二重スパイは皆同じだ。ドイツの仲間に売る情報が欲しいだけだろう。それで大金を稼いで、プレイボーイになる」
 マスターマン卿「トライシクルのアメリカへの質問状には……その後起こった真珠湾奇襲に対する、地味だが見過ごされた警告があった。……したがって、FBIは、質問状にあった情報はすべて所持していたのである」
 アメリカ側が、ポポフ情報を信じて真珠湾攻撃に備えていれば、日本海軍機動部隊の奇襲攻撃は失敗していた。
 何故、信用しなかったのか?
 それは謎である。
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 9月17日 連合艦隊司令長官山本五十六は、昭和天皇との食事で、米英との戦争が起きれば帝都空襲の有りうると説明した。
 昭和天皇は、木戸幸一内大臣東條英機陸相らと、東京が空襲された時に皇太子を何処に避難させるかを話し合った。
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 9月18日 開戦を望む右翼活動家は、戦争回避の極秘提案を聞いて激怒して、自宅を出ようとした近衛首相を殺す為に襲ったが失敗した。
 グルー大使も、反米的右翼の襲撃に備えて身辺警備を強化し、拳銃を携帯した。
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 9月19日 近衛首相は、「英米を敵に回したら、何処から物資を入れる事ができるか」と尋ねた。
 星野直樹企画院総裁は、「英米は民主主義、自由主義の国だから、両国政府は合意しなくとも、民間とは話が付けられる」と返答した。
 革新官僚は、戦争に消極的な空気を払拭する為に、米英両政府と距離を置く中間的資本家から戦略物資は購入できると吹聴して回っていた。
 一部の統制派軍人は、石油獲得の為に蘭印侵攻計画の検討を始めていた。
 隠れマルクス主義者である革新官僚と転向右翼は、軍部に偽情報を伝えながら対米戦へと導いていた。
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 9月25日 ホワイト・ハウスは、極秘に戦争計画である「勝利の計画」を完成させた。
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 9月29日 グルー大使は、ハル国務長官宛てに、日本政府は本心から首脳会談を切望し、宮中の穏健派が「中国大陸での防共駐兵を放棄する」と譲歩する姿勢を示しているとのる報告書を送った。戦争を回避する為に、アメリカはこの好機を逃してはならないと訴えた。
 日本の国内情報として。昭和天皇と近衛首相は、本心からアメリカとの戦争を回避する為に首脳会談を望んでいる。だが、国内には両国の戦争を望む勢力がいて、平和会談を阻止しようとしている。もし、首脳会談が実現しなければ最悪の事態は避けられないと伝えた。
 「近衛公はルーズベルト大統領との直接交渉にあたって、その遠大な内容のため間違いなく、合衆国を満足させられる様な保証を大統領に提示できる立場にある」
 ルーズベルトとハル国務長官は、近衛首相との首脳会談を受諾するとも拒否するとも明言せず、新たな原則を要求して返答を引き延ばした。
 アメリカ側は、これまで日本政府と合意しても全て軍部によって裏切られてきた経験から、侵略戦争を続けながら平和提案をする昭和天皇と近衛首相を信用しなかった。
 ルーズベルトは、グルー大使の「速やかに、平和を回復する為の首脳会談を開催する」という意見具申を退けた。
 ハル国務長官は、グルー報告書を握りつぶし、平和を回復する為の如何なる行動も起こさなかった。
 ハル「大統領と私は、ワシントンにあって極東問題の顧問らとともに世界中から情報が送られてくる中で情勢を見ていた。我々は日本が侵略と征服の政策に頑なに固執し、これを推進する一方で、合衆国政府がその基本的立場を譲歩しない限り、日本政府が[太平洋で]会談して合意に到達できると真剣に期待して提案しているわけではないと判断した。我々は、事前の審問で日本政府を十分に試した結果として日本がその立場を頑なに譲るつもりのない事を知っていた」
 国務省を支配する親中国派は、日本を追い詰める為の強硬策が推し進めていた。


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