🎺21:─1─日本軍の緒戦の快進撃は、アメリカ・イギリスにおける日本軍の過小評価が原因であった。~No.113No.114No.115 @ ⑬

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 2018年2月16日 産経ニュース「チャーチル元英首相、見誤った日本観 マレー作戦を予測→日本軍を過小評価しシンガポール陥落
 1941年11月28日に開催された英内閣合同情報小委員会報告書。日本軍が軍事行動をとる可能性がある場所として、タイやマレー、蘭印(オランダ領東インド)などを列挙している=英国立公文書館所蔵(岡部伸撮影)
 【ロンドン=岡部伸】日米開戦の発端となった1941年12月8日の真珠湾攻撃とほぼ同時にマレー半島に日本軍が上陸し、わずか55日間で南下した後、シンガポールを陥落させてから15日で76年を迎えた。当時のチャーチル英首相が、マレー作戦をはじめ日本の軍事作戦を予測する情報がありながら日本軍の実力を過小評価し、「大英帝国史上最大の悲劇であり、大惨事」(チャーチル『第二次大戦回顧録』)を招いたことが、英国立公文書館所蔵の英内閣合同情報小委員会報告書などで示されていた。チャーチルの誤った日本観が英国による植民地支配の終焉の始まりとなったといえそうだ。
 同報告書によると、米ワシントンで日米交渉が佳境に入った1941年11月18日に同小委員会が開催され、「日本の意図」として、「日本政府は英米と戦火を交えるリスクを冒す決断に至っていないが、交渉が決裂すれば、英、米、オランダと戦端を開く進攻作戦を行う判断を迫られる」と日本の軍事作戦を予測した。
 進攻先として、「aタイbマレーc蘭印(オランダ領東インド=現在のインドネシア)dロシア(ソ連沿海州」を挙げた上で、「日本は対英、おそらく対米開戦の予備的作戦として最初にタイに進駐する。タイ占領後、マレーさらに日本が最も不足している石油を求めて蘭印に進攻するだろう。日本の石油備蓄量は9カ月から12カ月分だからだ」と石油資源獲得目的で英領ボルネオから蘭印に進むと予測。一方、伝統的な敵であるロシア(ソ連)への進攻(北進)に対しては、「圧倒的な優位性がないため、極東ロシア軍が弱体化するまで据え置かれる」と否定した。
 さらに米国側が事実上の最後通告となるハル・ノートを出した2日後の同11月28日に開催した同小委員会では「日本軍が取る可能性のある軍事行動」と題して、「マレーと蘭印作戦を進めるため、タイへの進駐はほぼ確実。ワシントンでの交渉決裂直後に実行されるかもしれない」とタイ進駐が差し迫っていることを予測した。
 さらに「マレー進攻はおそらく北の陸上から実施され、半島最南端のシンガポール強襲も海上から行われない」とし、マレー半島を南下してシンガポールを攻略する作戦の概要を把握していた。ただ、タイ進駐からマレー進攻までは少なくとも2カ月の準備期間を要するとした。
 また、同館所蔵の英情報局保安部(MI5)副長官のリッデル日記の同12月6日付には、「米国は日本がタイに進駐すれば、完全に英国をサポートすることに同意した。日本の軍艦に護送された輸送船がタイに向かっている。進攻は差し迫っている」と記し、2日後に控えたマレー作戦開始をリアルタイムで捉えていた。
 しかしケンブリッジチャーチル文書記録センター所蔵の文書によると、英政府内で日本軍がマレー進攻に向けてタイへ進駐するとの見方が支配的となった同年12月2日、チャーチルはイーデン外相に、「日本がタイに進駐しても英国への攻撃は差し迫っていない。基地化には数カ月かかる」と述べ、日本軍による危機の観測を見誤っていた。
 同館所蔵の内閣安全保障委員会議事録によると、チャーチルは同5月にも、「日本は、英国が敗北することが明らかになったときに参戦し、危険が及ばなくなった段階で戦利品をかすめ取るだろう」と発言。日本の軍事的脅威を軽視しており、同4月の同委員会では日本には戦力を遠くに配置する余裕はなく「シンガポール攻撃の可能性は低い」と断言していた。日本は英国を攻撃する力を持つ国ではないとの固定観念を持っていたとみられる。
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固定観念ぬぐい去れず」
ロンドン大経済政治学院(LSE)のアントニー・ベスト准教授
 英国は、日本軍が米国との交渉が決裂すれば、タイ進駐を手始めにシンガポールを攻略するマレー作戦や蘭印作戦を準備していることを事前に正確に把握していた。戦争回避ではなくルーズベルト米大統領にアジア、欧州で英国支持を確約させることを外交目標としていたチャーチル英首相は日本の軍事作戦を予測しながら、「日本軍には英国を攻撃する力はない」と実力を過小評価する固定観念をぬぐい去れず、シンガポール陥落などの大惨事を招いた。(聞き手 岡部伸)
■マレー作戦 1941年12月8日、日本陸軍が英領だった旧マラヤ北部のコタバル(現マレーシア)に上陸し、マレー半島タイ領のシンゴラ、パタニにも上陸して英軍と戦闘を開始。英国の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈した。作戦の目標は、英国の重要な植民地とされていたマレー半島の南に浮かぶシンガポールだった。強力な要塞を築いていたため、日本軍は海上からではなく防御の弱いマレー半島を南下し、42年2月15日には英マレー軍司令官のパーシバル中将が日本陸軍山下奉文(ともゆき)中将に無条件降伏した。」

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