🎺28:─1─シンガポール陥落と中国人ゲリラ・スパイ虐殺事件。ドーリットル爆撃部隊。シドニー港攻撃計画。シンガポール独立。ローマ法王庁への特使。1942年~No.135No.136No.136 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 激戦が続く戦場で。
 数十日間、昼夜なく戦い続けた異常心理で冷静さを失っていた日本軍兵士による過剰反応としての中国人便衣隊及び中国人協力者殺害は、人道に対する戦争犯罪とされた。
 戦場でもない安全地帯で。
 計画的に行われた中国共産党軍と便衣隊及び中国人暴徒による幾つかの日本人居留民(女性や子供)大虐殺は、正当防衛で無罪とされた。
 日本人居留民虐殺事件は、中国人便衣隊及び中国人協力者殺害事件より先に起きていた。
 第2回南京事件シンガポール殺害事件は、第1回南京事件満州ピクニック惨殺事件、済南事件、通州事件など一連の日本人居留民虐殺事件よりも後に起きた事件である。
 虐殺は、軍国日本ではなく中国共産党が先に行っていた。
 国際社会は、軍国日本の日本人居留民保護目的の報復行為を禁止し、懲罰的軍事行動を侵略戦争として非難した。
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 東條英機首相は、陸軍省軍務局に対し、「この戦争はいつ終わるか?」という予想の報告書の提出を命じた。
 軍人エリートである高級課員の石井秋穂と藤井茂は、他力本願的なこうあって欲しいという願望を込めた「戦争終末促進に関する腹案」を起草した。
 要約すると「ドイツがイギリスを抑えるので、イギリス国民が厭戦思想を持つ。日本が徹底的に中国を叩き、アメリカがいくら援助しても無理だと考え、アメリカ国内にも厭戦思想が広がる」、といった内容であった。
 頭脳明晰で頭の回転が早く、数値に基づいた事務処理能力が優れたエリートでも、時々刻々と変化する現実を正確し、どういう状況でどういう結果のもとで集結するかを予想することはできなかった。
 分からない事を表現する時、考えられる一番最悪な絶望的予測をたてて恐怖に戦いて日々を過ごすより、願望を込めた明るい妄想を想像し安心して生活したいと考えたくなる。
 人の一生は「一寸先は闇」であるだけに、絶望し諦めて生きるより、楽観し諦めず生きる事で安心する。
 日本人的思考は、考えられる方策を全て行った後は、運は天に任せるしかないと思い定めた。
 言葉は意思の伝達であり、文字は文化の成熟度を表す鑑である。
 美しい言葉と美しい文字は、その人となりを表す鏡である。
 だが、言葉も文字もその人の本当の心根を表すわけではない。
 詐欺師や扇動者ほど、美しい文字を書き美しい言葉を並べ立て人の心を虜にする。
 レーニンも、ヒトラーも、毛沢東も、気力が萎えた人を熱狂させ奮い立たせる名演説家であった。 
 日本には、民衆を惑わし洗脳する名演説家は存在しない。
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 宣教師の息子ヘンリー・ルースは、『フォーチュン』『タイム』写真雑誌『ライフ』などでファシスト蒋介石を支援する為に、昭和天皇及び軍国日本を激しく非難する維持を掲載した。
 ライフ誌は、中国国民党謀略機関から提供された南京大虐殺としょうする偽写真と捏造記事を掲載し、ブラック・プロパガンダで国民世論を反日へと誘導していた。
 情報操作の成果として、国民世論は、昭和天皇の極刑を支持していた。
 フォーチュン誌は、2月号「日本人奴らの現人神の中世主義を破壊しなければならない 首狩り族は公式の教義を持たないから、数世代で救う事ができる。しかし、西洋人はいかにして日本人の心から幽霊を追い出すか。現人神の制度を叩き出すこと自体はアジアの平和を保障しない。なぜならアジア問題の霊的核心は、日本人の魂だからである。
 あるいは、あの魂が政治、イデオロギー面から生産や財の使用を見詰めている限り、西太平洋地域の経済再建を論じるのは無意味だ。しかし、皇帝の玉座は、手に触れられないものの霧の中では、掴む事のできる、目に見え触れる事ができる一つの中心物である、これを除け」
 宣教師の真の目的は、日本をキリスト教国に生まれ変わらせ、悪魔的宗教に惑わされている迷える日本人に「隣人愛」という正しい道を教えて導く事であった。
 日本人に洗礼を施すには、日本人の心に棲みついている悪魔的霊魂を完全に消滅させねばならない、その手段として異教徒・昭和天皇を処刑し異教の天皇制度を廃止する事が最善の手段と考えていた。
 H・J・ティンパリーンは、中国国民党の情報工作員としてアメリカでの反日プロパガンダーに深く関与し、数ヶ月後にファシスト中国から提供された資料を基に『世界の問題──日本』を出版した。
 序文「この本は1935年と1936年に、支日戦争の不可避性を訴える本を書く為に集めた」
 国務省極東問題顧問スタンレー・K・ホーンベックは、ティンパリーンやルース等、駐米大使胡適重慶のオーエン・ラティモアからも情報を仕入れて対日強硬政策を推進していた。
 偽情報を流して謀略戦を仕掛けていたのは、重慶にある諜報機関の国際問題研究所所長王芃生と日本人共産主義者の青山和夫であった。
 王芃生は、日本留学の経験がある日本専門家であった。
 日本人共産主義者の目的は、昭和天皇を処刑し、天皇制度を廃止し、日本を共産主義化して、ソ連の衛星国としてソ連軍の支配下に置く事であった。
 ファシスト中国の諜報機関は、ナチス・ドイツプロパガンダから戦略テクニックを学んだ。
 ドイツ軍諜報機関は、第二次世界大戦で敗北した謀略戦の失敗をファシスト中国に教えた。
 元々。中国人は、信義無き国民性として、相手の裏を掻き、騙し陥れて利益を得るという謀略に長けていた。
 儒教価値観の中国人は、日本に留学して日本人と接する事で親日・知日になるどころか、その逆で多くは反日・敵日となった。
 中国人が謀略の為に日本に留学していたとう事は、明治から既に起きていた。
 その事を知らないのは、脳天気な日本人だけであった。
 日本に来る政府派遣中国人の留学生は、表面的には両国の友好を口にするが、真の目的は敵国である日本の国情調査であった。
 南京大虐殺という虚構は、こうして歴史的事実とされた。
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 軍国日本の軍需産業の生産量は、アメリカなど敵国に比べて少なかった為に、全ての戦場で激戦を続ける日本軍から要求された量を送る事は不可能であった。、
 必要量の補給が得られない日本軍は、敵軍から獲得した武器や敵兵の武装解除で得た武器を使って戦っていた。
 軍国日本は、開戦当初から連合軍と戦える状態ではなかった。
 戦争中盤以降では、全の兵士に武器を持たせる事も銃弾を配る事もできなくなっていた。、
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 日本陸軍は、日清戦争以来、幾度も外国軍と戦いその都度多くの敵軍兵士を捕虜とし、戦時国際法に従って収容所に入れて管理した経験があった。
 対して。日本海軍には、敵捕虜を取り扱う経験もなければ知識もなかった。
 日本海軍中央は、具体的な捕虜収容計画を示さず簡単で曖昧な方針を現地司令部に伝え、捕虜に対する責任も出先の現場に押し付けて逃げていた。
 この露骨なほどの責任逃避によって、戦後の捕虜虐待に対するB級・C級戦犯容疑に問われたのは中央ではなく現場であり、有罪となって処刑されたのは捕虜と接してい現地の将兵であった。
 我妻源二郎「結局、多くの捕虜が死んだ責任を、とにかく関係者に被せようとしたのだ」
 日本軍部は、日清戦争以来、天皇の意向に従って敵捕虜を収容所に保護し、傷や病気を治療し。戦争が終われば責任を持って祖国・家族の元に送り届けていた。
 捕虜を全て虐殺していたのは、中国軍であった。
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 ジョセフ・スティルウェル中将は、連合国中国戦域総司令官になっている蒋介石を輔佐する為に参謀長として重慶に派遣されていたが、蒋介石とは意見が合わず、蒋介石の指示を無視して独自で行動していた。
 アメリカ陸軍は、統制の取れていない中国軍の無能さと軍紀・軍律を守らない中国人兵士の自堕落に嫌悪し、中国軍と軍事行動を共にする事を嫌った。
 OSSも、国民党政府のファシスト体制や中国軍の腐敗堕落ぶりを目の当たりにして蛇蝎の如く嫌っていた。
 アメリカ陸軍とOSSは、国民党を見限り中国共産党に接近していた。
 アメリカ海軍情報機関のミルトン・マイルズ大佐は、日本海軍の支援で近代化した中国海軍に好感を持ち、中国が面子を保てる様に協力した。
 マイルズ大佐は、中国情報機関「軍統」を率いる戴笠と協力し、米中共同の情報機関「中美特殊技術合作所」(SACO)を設置して対日謀略を行った。
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 1942年1月11日 日本海軍落下傘部隊は、セレベス島メナド飛行場を占領した。
 1月31日 山下奉文将軍率いる第25軍約3万5,000人は、戦車やトラックや自転車を利用して、41年12月8日にマレー半島に上陸してから55日でイギリス軍の防衛陣地を攻略しながら1,100キロを踏破して、マレー半島シンガポールを隔てるジョホールバルに達した。
 日本軍と戦ったのは、イギリス人兵士ではなく植民地人であるインド兵やグルカ兵であった。
 イギリス軍が出動した時は、全ての植民地防衛陣地は壊滅していた為に、日本軍と戦わずにシンガポールに帰還した。
 少数派である独立派は、祖国を独立させる為に日本軍の侵略に協力した。
 多数派である中国系マレーシア人や混血系マレーシア人らは、白人の植民地支配を守るべく植民地軍に協力して日本軍に抵抗した。
 多数派にとって、日本軍は解放軍ではなく、侵略軍であった。
 イギリス軍は、日本軍の快進撃に動揺して防衛体制を強化すると、インド人兵士が多数占める軍隊の士気を低下させ、アジア人に弱みをむせる事になるとして、滑稽なほどに虚勢を張って平和な日常生活を続けていた。
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 マレー半島に移り住んだ華僑達は、英国人ら白人に仕え、錫の露天掘りや農園のゴム採取で働くマレー人労働者の監督などの仕事をし、マレー人の賃金を巻き上げる為にアヘンを売り女をあてがった。
 マレー人は、白人の威を借りて威張り散らし、金に汚く、礼節もなく不潔なだけの華僑を嫌っていた。
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 現代日本は、日本軍を侵略者であったと認め、反省と謝罪を行い賠償金を払い、日本を背負って立つ子供達に日本軍の犯罪行為という正しい歴史を教えている。
 2014年 マレーシアにおける日本好感度は86%で、日本嫌いは中国系マレーシア人が大半であった。
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 2月 アメリカの戦略情報局(COI)の調査分析部(R&A)は、日本を詳細に分析した「日本の戦略的概観」という報告書を提出した。
 蒋介石は、重慶で開かれた国民政治審議会の第二回予備会議で、戦後の対日要求に関する重要事項を承認させた。
 そして、台湾、沖縄、北方領土を含む千島列島、南樺太小笠原諸島など日本本土以外の島嶼及び南太平洋の信託統治領を放棄させると。
 口には出さなかったが、将来的に日本本土の一部を割譲させる為に中国軍を駐屯させる計画を考えていた。
 日本の報復を封じ込める為には日本を解体して消滅が最善の方法と、中国は考え、アメリカにも日本解体計画を共有させるべく工作を行っていた。
 伝統的中国は、奪い尽くせる物は全て奪い尽くそうと貪欲に考えていた。
 日本は、オーストリア・ハンガリー帝国オスマン・トルコ帝国と同じ解体消滅の運命が待っていた。
 日本軍航空部隊は、ダーウィン空軍基地などオーストリア北部にある軍事施設に対して空爆を開始した。
 オーストラリア北部に対する空襲は、43年11月まで計58回行われた。
 日本陸軍にはオーストリア侵攻計画はなかったが、海軍にはオーストラリア攻略論が存在していた。
 日本軍部の対オーストラリア作戦は、連合軍がオーストリアを反撃拠点として利用する事を防ぐというもので、其の為にアメリカとの海上輸送路を遮断するべくガダルカナルに飛行場を建設する事にした。
 2月14日・15日 日本陸軍空挺部隊は、スマトラ島最大の大油田地帯パレンバン強襲し、地元住民の手引きで油田施設を無傷で占領した。
 日本軍は、各地で地元民の協力を得ながら進撃を続けていた。
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 2月15日 日本軍は、シンガポール要塞を攻略するにあたって弾薬や食糧が底を突きかけていて、長期攻防戦は不可能であった。
 山下将軍の日本軍は、航空機530機と戦車・大砲の支援で一週間集中攻撃して、イギリス軍約10万人が守るシンガポールをを陥落させた。
 マレーシア航空の畿内雑誌『GOING PLACES』「日本のイギリスに対する勝利は、長くヨーロッパの植民地でありアジア人の意識の中にあったヨーロッパ列強諸国の無敵神話を見事に粉砕したのである」
 日本軍は、マレー人の協力を得て電撃作戦を行った。
 日本軍には、兵力的に劣勢な上に、補給がなく撃つべき弾薬が底をつき、敗走一歩手前での勝利であった。
 イギリスのシンガポール防衛軍には、数年、立て籠もっても抗戦できるだけの弾薬と食料があった。
 山下泰文中将は、中国戦線を教訓として、婦女暴行や強奪など防ぐ為にイギリス軍降伏直後で野戦軍シンガポール進駐を許可しなかった。
 各師団から派遣された兵士は補助憲兵として第2野戦憲兵隊と協力して、帯同していた慰安婦達が開業できるように慰安所を設営した。
 山下泰文は、慰安所が完成してから野戦軍の進駐を許した。
 同様な措置は、現地人独立派の支援を得る為にインドネシアやフィリピンやビルマでも実施された。
 国力の弱い軍国日本が、米英など圧倒的な兵力や戦略物資を持つ連合軍を相手に戦うには、如何にして現地人の協力や支援を得るかが重要な鍵であった。
 ヒトラーは、白人至上主義者として日本人を軽蔑していただけに、イギリス軍が日本軍に勝つと信じていたのに、シンガポールが陥落した知らせを受けて落胆した。
 ゲッペルス「ドイツ軍20個師団を送って黄色い連中を追い払いたい」
 ドイツの本音は、反日・敵日である。
 シャルル・ド・ゴールシンガポールの陥落は、白人植民地主義の長い歴史の終焉を意味する」
 山下将軍は、20日に、敵味方に関係なく戦死した全ての将兵と戦闘に巻き込まれた市民を弔う為の慰霊祭を執り行った。
 山下奉文中将は、ブキバトックの丘陵に戦闘で戦死した日本軍将兵を顕彰する為に沼南忠霊塔を建て、その裏側に、戦死したイギリス軍兵士の霊を弔う為に高さ3メートルの十字架を合わせて建てた。
 最も勇敢に死んだオーストラリア兵士200人が葬られたジェマールアンの丘に、一本の巨大な木製の十字架が建てられた。
 「私達の勇敢な敵、オーストラリア兵士の為に」
 多くの華僑達は、シンガポールが陥落するやタイやインドネシアに逃亡した。
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 2月19日 日本軍は、シンガポールで適性華僑(華僑抗日義勇軍・中国系マレー共産党員)の掃討を行った。
 敵性華僑は、18歳から50歳までの男性で約20万人。
 掃討作戦を指揮したのは、作戦参謀の辻政信であった。
 もし敵性華僑がゲリラはスパイであれば、戦時国際法で保護すべき対象から除外され、戦争捕虜ではなく犯罪者としてそく処刑する事が認められる。
 辻政信「何をぐずぐずしてるんだ。もっと効率よくやらんか。俺はシンガポールの人口を半分に減らそうと思っているんだ。そのつもりで、もっとしってしっかりやれ」
 シンガポール虐殺は、現場部隊の拒否で徹底されなかった。
 某少佐「残忍な辻がやりそうな事だ。彼は君らに命令する権限なんかありゃせん。その住民等は即刻退散させよ」
 命令に背く部隊は敵性華僑を解放し、命令に忠実な部隊は処刑を行った。
 虐殺された敵性華僑は、6,000人から4万人と言われている。
 イギリス人兵士捕虜の死亡率は、欧州戦線では5%であったが、アジア戦線では25%であった。
 戦後。イギリス軍軍事法廷は、華僑粛清事件で、昭南警部司令官の河村参郎陸軍少将をリンチ的縛り首にし、戦闘に参加した近衛師団長の西村琢磨陸軍中将を終身刑とした。
 西村琢磨中将は、1951年6月にオーストラリア軍裁判でリンチ的絞首刑に処せられた。
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 マレーシアのマハティール・ビン・モハンマド「もし日本が戦っていなければ、ヨーロッパの世界支配は永遠に続いていただろう」
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 2018年2月19日 産経ニュース「旧日本軍の豪空襲で慰霊式 ダーウィン州首席「われわれのかつての敵は今や最も親しい友人」
 旧日本軍のオーストラリア・ダーウィンへの空襲開始から76年の現地慰霊式典=19日(共同)
 旧日本軍が1942年にオーストラリア北部ダーウィンへの空襲を開始してから19日で76年となり、現地で慰霊式典が開かれた。出席した北部特別地域(準州)のガナー首席大臣は「亡くなった市民、この町を守った兵士たちに敬意を表する。われわれのかつての敵は今や最も親しい友人だ」とあいさつした。
 式典はダーウィン中心部の戦争記念碑周辺で行われ、竹若敬三駐シドニー総領事や、地元の交流団体「北部準州豪日協会」のメンバー、42年1月にダーウィン沖で沈没した旧日本軍潜水艦の兵士の遺族らも出席した。
 空襲が始まった時間帯には警報のサイレンが鳴らされ、海に向けて大砲や銃で迎撃する実演も行われた。
 ダーウィンは第2次世界大戦時、連合国側の拠点で、二百数十機の旧日本軍の爆撃機は42年2月19日、2回にわたって空襲、240人以上が死亡した。オーストラリア本土が他国の軍隊から攻撃を受けたのはこれが初めてで、旧日本軍によるダーウィンへの空襲は43年まで60回以上続いた。(共同)」
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 2月20日 日本軍は、ポルトガル政府に対し、ディリに捕らわれている在留邦人の救出を目的として東ティモールの上陸する許可を得て、1,500人を上陸させた。
 日本軍は、連合軍が蘭領西ティモールに撤退していた為に、無血でディリを占領して、監禁されていた日本人を救出した。
 日本部隊600人が、蘭印のバンドン要塞を攻撃して占領した。5万人の連合国軍兵士が捕虜となり、非白人である日本人兵士の銃剣に恐怖ですくんだみすぼらしい姿を、植民地住民の前に晒した。
 蘭印全体で、7万人以上のオランダ人兵士が捕虜となった。
 日本軍政は、日本語を公用語とし、ジャカルタ語を標準語として教えた。そして、自国は自国民で守るべきであるとして、インドネシア人による軍隊を作る事に協力した。
 インドシナには、100種類近くの地方語が存在していた。
 共通語を得たインドネシア人は、お互いの意思疏通が初めてできるようになり、キリスト教徒白人への見方が変わった。
 蘭印領西ティモールは、日本軍政によって構造改革が行われた。
 ポルトガル東ティモールは、ポルトガルの植民地支配が続けられ、ハーフカス(混血児)がポルトガル人に代わって税の徴収を行っていた。
 ポルトガル人、510人。混血児、3,000人。住民、46万人。
 その苛酷な収奪によって、住民はまともな家具を持てず、財産らしい財産もない貧しい生活を送っていた。
 住民は、ポルトガルによる長年の圧政への不満から暴動を起こし、ポルトガル人や混血児等を襲って多くの死傷者を出した。
 ポルトガル人達は、日本軍に保護を求めた。
 日本軍は、ポルトガル側の治安維持の要請に従って安部支隊を駐屯させ、少数部隊の為に住民の反感を買わないように人頭税や塩税など不当な税を廃止させた。だが、まともな戸籍調査がされていなかった為に正確な住民数がわからなかった。
 支配層は、日本軍の横暴に反感を抱いたが、その軍事力の脅迫に屈した。
 部隊の主力は、残敵掃討に出動し、実数600人程度が東ティモールに駐屯していた。
 戦後。3年半の日本軍支配下で、600人の日本兵士が3万人以上の住民を虐殺したといわれている。
 朝日新聞「通報者への極刑、あるいは餓死などで島民4万人の死者が出たとポルトガル側資料は伝えている」
 北海道新聞「旧日本軍による虐殺や強制労働、食糧供出による犠牲者は4万人にのぼるといわれる」
 タイム誌「日本軍の占領期間に5万人の島民が死んだ」
 ニューヨーク・タイムズ「東南アジアで日本軍は残虐な行為をした」
 ロサンゼルス・タイムズ、英国誌インディペンデント、オーストラリア紙マンチェスター・ガーディアンなど世界中の報道機関が、日本軍の犯罪行為を非難し、国家元首である天皇の道義的倫理的責任を追及した。
 オランダは、インドネシアから撤退する時、町を造り、港湾施設や運河を建設し、鉄道を敷設した、開発に投資した約60億ドルを請求した。
 オランダは、支配者オランダ人の為にしたのであって、原住民の為にしたわけではなかった。
 それでも、国際常識においては、旧宗主国は独立国に対して謝罪し賠償金を払う義務はないとしていた。そして、植民地に投資した資金を独立国に請求する権利を認め、旧宗主国の公的・私的財産の没収は違法行為としていた。
 それどころか、植民地から独立した政府は、一人前の国家として請求されたらそれを払う義務があった。
 日本軍は、連合国との戦争に精力を集中するべく、地元の事は全住民に任せる為に学校を建て、行政を教えた。治安を守る為の警察と権利を守る為の軍隊「ペタ」を創設し、自分の事は自分達で解決するように指導した。
 後藤乾一「日本軍は、スマトラのブキティンギの村人に防空壕を掘らせ、完成後に底なし穴に3,000人全員を生き埋めにした」
 インドネシア独立記念塔「オランダ軍が降伏すると、日本軍はインドネシアの資源や労働力を搾取した」
 戦後。オランダの戦争犯罪裁判は、法律に関係なく裁判長の裁量一つでB・C級戦犯236人の日本人戦犯が処刑された。
 オランダの捕虜収容所では、日本人兵士捕虜に対する虐待と拷問が日常的に行われていた。
 1958年 日本政府は、戦争犯罪を認め戦後賠償として総額6億3,000万ドルと経済借款を行った。
マイク・ホンダ下院議員「日本軍はアジア女性20万人を性の奴隷にした」
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 2月27日 スラバヤ沖海戦。
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 3月 日本海軍は、イギリスのアジア艦隊を殲滅する為にインド洋に進出し、セイロン島(現スリランカ)占領作戦の検討に入った。
 インド独立派も、インドをイギリスの植民地支配から解放する為に、日本軍によるセイロン島占領を望んだ。
 イギリスは、破竹の勢いで攻めてくる日本海軍を食い止めるだけの海軍力も空軍力もなかった為に、インド洋の出口にあるセイロン島を奪われる事は、アジアにある全ての植民地を失う恐れがあった。
 3月1日 今村均将軍率いる第16軍約5万5,000人は、インドネシア人の協力を得て、一週間でジャワ島を占領した。
 オランダ・アメリカ・イギリス・オーストラリア連合軍約9万8000人は、無条件降伏した。
 3月下旬 日本海軍の機動部隊(空母5隻)は、セイロン島に集結している戦艦5隻・空母3隻を主力としたイギリス東洋艦隊を叩く為に、インド洋に向かった。
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 2015年10月23日 産経ニュース「英、日本公館閉鎖のためイラン首相に賄賂 第2次大戦
 英国が第2次大戦中の1942年、敵対していた日本の在イラン公使館の閉鎖を働き掛けるため、イランのソヘイリー首相(当時)に対し、1万ポンドの賄賂を約束していたことが23日、機密解除された英政府文書で判明した。
 1万ポンドは現在の貨幣価値に換算して約42万ポンド(約8千万円)に相当。イランは当時、英国とソ連の共同占領下に置かれていた。
 42年3月14日付の文書には、英高官が日本公使館を「イランでの枢軸国による情報活動や陰謀の中心」と見なし、閉鎖に向けて贈賄を検討するよう指示、1万ポンドは「安い額」と指摘したことが記されている。
 ソヘイリー氏は賄賂をすぐに受け取らなかった。52年9月18日付の文書によると、当時ロンドンに居住し、困窮していたソヘイリー氏が賄賂の全額を要求。英高官が支払いを承諾したと書かれている。(共同)」
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 4月 イギリス海軍東洋艦隊司令長官ソマービル大将は、主力艦艇を日本海銀機動部隊の攻撃から守る為に、修理中の艦艇や老朽艦を囮として残し、後方に避難させた。
 アメリカは、エジプトのイギリス軍と反撃準備中のソ連軍への支援物資をインド洋経由でペルシャ湾と紅海に揚陸していた。
 ドイツ海軍Uボートは、連合国の南大西洋からインド洋にいたる輸送網を破壊するべく活動していた。
 アメリカ軍は、イギリスの要請に従い、日本海軍をインド洋から太平洋に引き戻す為の手段として日本空襲を計画した。
 それが、ギャンブル的なドーリットルの東京初空襲である。
 真珠湾攻撃が博打であったように、戦争とは、伸るか反るか、生きるか死ぬかの博打であった。
 4月3日〜12日 本間雅晴中将率いる第14軍は、バターン半島を攻撃して占領し、コレヒドール島要塞を陥落させた。
 アメリカ・フィリピン連合軍は降伏した。
 4月18日 日本初空襲。アメリカ軍は、日本占領で、昭和天皇を象徴として利用する為に皇居への爆撃を避けた。
 政府は、昭和天皇の安全を図って東京から退避するように奏上した。
 昭和天皇は、「初めての経験」ではあったが、国家元首の責任から「国民と共にありたい」との希望で疎開を拒否し、防空施設のある御文庫に移り東京に留まった。
 皇室と日本民族・日本国民は一体であり、いつ如何なる時も苦楽を共にする事を示す為に、逃げださなかった。
 皇室を敬う日本人は、昭和天皇の民を想う姿を見て安心し、国體を守る為に戦った。
 昭和天皇が自分の命大事に東京から逃げだしたら、日本国民は昭和天皇を見捨て天皇制度を廃止した。
 だが。昭和天皇が逃げださなかった事で、日本人は戦争を止める事ができず、数百万人が犠牲となった。
 昭和天皇が、無責任に、国民を見捨てて逃げていれば戦争は早期に終わっていた。
 ドーリットル中佐指揮下の爆撃隊16機は、東京・名古屋・四日市・神戸を爆撃した。
 出撃した爆撃機は16機で、東京に13機、名古屋に2機、ユダヤ人難民を助けた神戸に一機。
 空爆後は、ウラジオストックと中国沿岸に向かった。
 東京の被害。牛込、淀橋、品川、荒川、王子、大塚地域に、爆弾9発と焼夷弾465発投下された。
 被害家屋95軒。罹災者249人。死傷者数は、戦時下の為に不明とされた。
 朝日新聞「我が猛爆に敵機逃亡 軍防空部隊の士気旺盛
 名古屋、神戸の被害も軽微
 鬼畜の敵、校庭を掃射 避難中の学童1名は死亡」
 軍部は、無残な罹災現場が知れ渡ると戦意喪失につながるとして、国民の写真撮影を禁止した。
 警視総監・坂信彌(のぶよし)は、情報統制に隠れて、警視庁職員・石川光陽に罹災現場の撮影を命じた。
 石川光陽は、憲兵隊や警察の厳しい監視に隠れて写真を撮影した。
 戦後。GHQは、アメリカ軍の戦時国際法違反の証拠写真になるとしてネガフイルムの提出を命じた。
 支那派遣軍は、中国に不時着した搭乗員8名を捕らえた。
 日本軍は、不時着した爆撃機の搭乗員4名を捕らえ、非戦闘員の殺害は戦時国際法違反であるとして軍法会議にかけた。
 軍部は全員の死刑を望んだが、東条英機首相は反対であった。
 爆撃を命じた士官のパイロットのみを有罪として処刑し、残りは禁固刑として死刑を免除した。
 戦後。アメリカ人兵士捕虜を処刑した日本人兵士は、S級C級戦犯として処刑された。
 アメリカに帰国できたのは、80人中71人であった
 神戸は、非軍事の国際港として、ナチス・ドイツの迫害から逃げてきたユダヤ人難民数万人を無償で受け入れた。神戸市民の多くは、天皇の御稜威・大御心を想い、人種差別の右翼や親ドイツ派日本人からユダヤ人難民を庇った。そして、パレスチナアメリカなど安住の地に旅立つその日まで、同じ人間として温かく接し、僅かな路銀をなるべく使わせない様に配慮した。疲れた心を和らげる為に、京都や奈良を観光させ、温泉地で保養もさせた。各地の日本人は、ユダヤ人に偏見を持たず、苦境にある彼らの身の上に同情し、心からもてなした。
 戦前の日本人は、人として、情緒的に、心から、金儲けに走る事なく、苦境にあるユダヤ人難民を家族の様に助けた。神道的惻隠の情は、自己犠牲的に、損得勘定を度外視した。
 連合国軍は、日本人であれば女子供に関係なく無差別爆撃を実行し、木と紙で出来た燃えやすい家屋に住む一般庶民を生きたまま焼き殺した。
 ライフ誌「アメリカ人は、ドイツ人を憎む事を学ばなければならないが、ジャップに対しては憎しみが自然と湧いてくる。これは、かってインディアン達と戦った時と同様に自然なものだ」
 名古屋市の被害、死者8人。負傷者31人。
 神戸市の被害、資料焼失の為に死傷者は不明。
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 東条英機首相は、昭和天皇の希望を受け入れ、ローマ法王庁との親善強化と戦争終結の仲介工作の為に、原田健を特命全権公使としてローマ・バチカンに派遣した。
 昭和天皇「私はローマ法王庁と連絡のある事が、戦の終結時期に於いて好都合なるべき事、又世界の情報蒐集の上にも便宜あること竝にローマ法王庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なること等を考えて、東条に公使派遣方を要望した次第である」
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 2月23日 元首相の阿部信行を会長に戴いた翼賛政治体制協議会が結成された。
 4月30日 衆議院代議士は29日に任期満了を迎えた為に、第21回衆議院議員総選挙が行われた。
 改選数は466人。
 選挙制度中選挙区制
 立候補者は1,077人。
 選挙人は25歳以上の男性。
 有権者は1,459万4,287人。
 翼賛政治体制協会は、候補者議員定数の466人を選考・推薦した。
 投票率は全国平均83.1%(前回比+9.85%)。
 協議会推薦の候補者は381人が当選し、全議席の81.8%を獲得した。
 非推薦の候補者は85人が当選し、非推薦候補は35%近い得票を集めた。
 政府や議会では、戦時中にもかかわず東條内閣に批判的な非推薦候補が少なからず当選した事に衝撃が走った。
 岸信介は、軍部の反対を押し切って、商工大臣の身分で地元山口から立候補し、約3万票を獲得してトップ当選した。
 東条英機首相は、岸信介の出馬に反対するどころか賛成し、満州アヘンで手に入れた裏金資金から選挙資金として約5万円を提供した。
 陸軍の機密費は、年額2億円を越えていた。現代の貨幣価値で1,000億〜2,000億円。
 東条英機首相は、政情不安を避けるべく、より多くの味方を増やす為に機密費をバラ撒いていた。
 軍部や国粋主義者達は、岸信介マルクス主義的政策の信奉者で天皇の現人神を支持せず天皇制度の絶対化に反対している事が気にくわなかった。
 岸信介は、1930年にヨーロッパの鋼材調査でドイツに滞在し、同時に第一次世界大戦を研究して、ドイツ帝国が敗れた原因は軍部が現実の経済を認識しなかった事が敗因であったと結論付けた。
 その考えを基にして政治活動を開始し、革新官僚やエリート青年将校らに賛同者を広めた。
 5月7日 東條英機首相は、議会内の批判勢力に対抗する為に、政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用した。
 5月14日 現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として、会名・綱領・規則を発表して新組織「翼政会」への参加要請状を各界要人に発送した。
 翼政会は、挙国的政治力を結集して翼賛議会を樹立し、大政翼賛会との密なる連携と大政翼賛運動の徹底が綱領に掲げられた。
 戦争遂行・戦争勝利の為め提出される政府法案を、無修正で速やかに可決させる事が帝国議会議員の義務とされた。
 東条英機は独裁者ではなく、軍部は議会の承認を得なければ軍事予算がえられなかった。
 これが、軍国日本の実態であった。 
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 5月 日本軍は、快進撃してビルマを完全占領した。
 イギリス軍は、ビルマ防衛を放棄してインドのインパールへ敗走した。
 珊瑚海海戦。
 5月2日 大山法務局長は、陸軍省会議でフィリピンを占領している第14軍の軍規が乱れていいたので改善に努めたと報告した。
 「南方軍の犯罪件数237件、支那事変に比べて少ない、第14軍には強姦が多い。女が日本人向きなるを以て……厳重な取り締まりで減少した」
 だが、同年8月12日の会議で「南方の犯罪610件、強姦罪多し」と綱紀粛正が進んでいない事を認めた。
 現地での強姦を減らす為にも、慰安婦所の増設が急がれた。
 5月21日 ホーンベックは、ノースカロライナ大学で「我々は、何故、何を目指して戦うか」と題した講演を行い、如何に昔から軍国日本が世界征服を企んでいた邪悪な国であるかを力説した。
 「1578年、日本帝国の最初の建設者である秀吉は、彼の主人の支配下に属さない日本の様々な島々を征服した時、『朝鮮へいって取るつもりだ』と語った。さらに『朝鮮人部隊を用いて朝鮮全体を我が支配下に置く。座布団を持ち上げて脇に挟むぐらい易々とやってみせる』と続けた。その後、彼は自分の帝国をインド、ペルシャ、その他当時の日本人が知っていた南太平洋の島々に広げるつもりだった」
 5月30日 特殊潜航艇によるシドニー港攻撃計画は、マダガスカルの戦いと連動した、イギリス連邦間の通商破壊を目的したシドニー港停泊中のオーストラリア海軍艦船を攻撃する作戦であった。
 特殊潜航艇甲標的を搭載した潜水艦伊22、伊24、伊27の3隻はシドニー沖に到着した。
 もう1隻の伊28は、5月17日にアメリカ海軍潜水艦トートグの雷撃で撃沈された。
 5月31日午後4時21分 伊22搭載艇が発進した。28分に伊27搭載艇が、40分に伊24搭載艇が発進した。
 午後9時30分頃 伊27搭載艇は、シドニー港入り口で防潜網に絡まり自爆した。
 伊24搭載艇は、港内に在泊していたアメリカ海軍重巡洋艦「シカゴ」を発見し魚雷2本を発射したが外れた。
 1本は岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦「クッタブル」の艦底を通過して岸壁に当たって爆発し、これにより「クッタブル」は沈没し19名が戦死した。
 伊24搭載挺は、任務を終了し、投降する事なく潔く自爆した。
 自爆した2隻の特殊潜航艇は、6月4日、5日に引き上げられた。
 6月9日 イギリス海軍シドニー要港司令官ジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍少将は、白豪主義のオーストラリア国民の反対を押し切り、祖国に為に勇敢に戦って戦死した乗員4名(松尾大尉・中馬大尉・大森一曹・都竹二曹)に敬意を表して海軍葬を行った。
 オーストラリア海軍は、行方不明となっていた伊22搭載挺を平成19年に発見し、潜航艇攻撃で戦死したクッタブルの乗務員19名と日本海軍軍人6名の合同慰霊式典を執り行った。
 イギリスとオーストラリアの海軍には、第一次世界大戦時に、インド洋と地中海での輸送任務で日本海軍の支援を得た返礼の意味もあった。
 イギリス、オーストリア、日本は、故あって敵味方に分かれて戦う事になったが、軍人として正々堂々と戦う事に心掛け、戦死者には敬意を払っていた。
 日本は武士道精神で、イギリスは騎士道精神で。
 敵戦死者への敬意を持たなかったのは、反宗教無神論共産主義者と利己主義の中国軍であった。
 共産主義者も中国軍も、人道や人権という概念がなく、敵は皆殺しにし、裏切って味方になれば助けて、味方にならなければ容赦なく殺した。
 グールド少将のラジオ演説「このような鋼鉄の棺桶で出撃する為には、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人達は最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人達が払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」
 戦死した4名の遺骨は、中立国ポルトガル領東アフリカのロレンソ・マルケスで日本側に引き渡された。
 10月9日 遺骨を乗せた第一次日英交換船の鎌倉丸は、遺族らが待ち受ける横浜港に到着した。
 143年3月27日 日本海軍は、特殊潜航艇の乗員を二階級特進させ、軍神として靖国神社に祀った。
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 1942年 マレーシア・スンガイル村虐殺事件。日本軍は、中国系住民368人を虐殺した。
 反日感情が広がる。
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 ニューギニア島攻防戦で、オーストラリア軍兵士約2万2,000人が捕虜となった。
 泰緬鉄道建設など過酷な労働を強いられて、約8,000人が死亡した。
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 2015年5月5日 産経ニュース「【首相米議会演説】
 シンガポール紙が酷評 「ごまかしがある」「歴史修正主義者の傾向露呈」
 5日付のシンガポール紙ストレーツ・タイムズは、安倍晋三首相が先月の米議会での演説で、歴史問題をめぐる謝罪に直接言及しなかったことについて「多くのごまかしがある」と指摘し、「歴史修正主義者の傾向が露呈した」とする論説記事を掲載した。
 安倍氏の演説について「戦時中の残虐行為への謝罪をしなかっただけでなく、日本が(アジア)地域への侵略戦争を起こしたことすら認めなかった」と批判。
 過去に安倍氏が侵略の定義は「定まっていない」と国会で答弁したことも問題視。侵略の定義は、1974年の国連総会決議で明白になっていると主張した。(共同)」
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 ノエル・バーバー「言い古された言葉ながら、あらゆる禍の後に福が来る〟の喩えの通り、白人至上の伝説を打破して、アジア全域を究極の独立に導く一連の事件の動機となったのは、日本軍の戦勝なのだから、今やシンガポールを自らの国とするアジア人達は、皮肉な事だが、日本軍へある程度は感謝すべきである。
 だから、連合軍が復帰して、諸国を解放したのは事実だとしても、それは決して以前と全く同じ姿ではなかった。白人基地(トアン・バザール)を取り巻く畏敬の念と神秘的な雰囲気は永久に失われてしまった」(『不吉な黄昏──シンガポール陥落の記録』)
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 1963年 シンガポールは、マラヤ連邦サラワク州と共にマレーシア連邦を結成した。
 シンガポール華人とマレー人の平等政策を主張し、マレーシア政府はマレー人優遇(ブミプトラ)政策を採用して、両者は対立した。
 1965年 マレーシア政府は、華人とマレー人は一緒には住めないとして、国内の華人シンガポールに移住させ、シンガポールを切り離して独立させた。
 シンガポールは、総人口190万人で、水・食料・天然資源のない岩の上の都市国家として独立した。
 リークアンユー(李光輝)は、日本を手本にしてシンガポールの国作りを行い、がさつで信用されない華僑達を日本人の様に再教育した。
 表面的に華僑の都市という印象を消し去るべく、公用語を中国語ではなく英語とし、街や通りの名に中国名を付けなかった。
 1970年代 タイ政府は、マレー半島中央部のタイ領クラ地峡に南シナ海とインド洋を直結する運河開削計画を協議した。
 シンガポールは、クラ運河が完成すると国際海運の要という位置を失う為に、タイの華僑系政治家や官僚達に賄賂を配って中止させた。
 その後も、運河開削計画が持ち上がるや、その度に巨額に賄賂をばらまいて自然消滅させた。
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 2017年2月5日 産経ニュース「日本びいきのアイリッシュ 大戦「シンガポール陥落」…首都では日本領事囲み祝賀会
 潮田淑子さん(岡部伸撮影)
 日本と3月に外交関係樹立60周年を迎えるアイルランドが第二次大戦中、英連邦下の独立国として中立を守り通し、ひそかに日本を支援していたことはあまり知られていない。日本が1942年2月に開戦70日でマレー半島を攻略、大英帝国の栄華に終止符を打つことになった「シンガポール陥落」の日、首都ダブリンでは駐在の日本領事を囲み盛大な祝賀会が開かれたという。ダブリンに住んで半世紀余りの潮田淑子さん(85)に「日本びいきのアイリッシュ」の思い出などを聞いた。(ダブリン 岡部伸)
 ■仇敵を破って喝采
 「マリンズ氏は、自分たちが倒せなかった敵をやっつけて降伏させた日本を味方と思い、喝采をあげて喜んだそうです」
 ダブリンの日本大使館で64年に催された天皇誕生日のレセプションに、ダブリン大名誉教授で夫の哲さんと出席した潮田さんは、同席したアイルランド上院議長、トム・マリンズ氏から聞いた話を目を細めて振り返った。
 マリンズ氏はアイルランド独立戦争から内戦に至る20年代、「アイルランド共和軍」(IRA)を率いた元リーダー。アイルランド弾圧を指揮し「最も凶暴な反アイルランド主義者」と忌み嫌われ、懸賞金まで掛けられた英陸軍指導者アーサー・パーシバル・エセックス連隊第1大隊中隊長(当時)の暗殺を何度も試みたことでも知られる。
 そのパーシバル氏は約20年後の42年2月、連合軍の司令官として「難攻不落」といわれたシンガポール要塞に立て籠もり、捕虜13万人を出して日本軍に「大英帝国史上最悪の敗北」を喫した人物でもある。「イエスかノーか」と迫る「マレーの虎山下奉文中将に降伏する写真は世界中の注目を浴びた。
 アイルランドを徹底して弾圧し、苦しめた英国の降伏−。潮田さんは「マリンズ氏はダブリン中の米を買い集め、ダブリン駐在の別府節弥領事と市橋和雄副領事を囲み、日本食で盛大にお祝いをしたそうです」と語った。アイルランド人は一貫して、英国の敵を応援したため、「『敵の敵は味方』で日本びいきだったのです」とも語った。
 ■「大戦下の籠城者」
 一方、別府氏はこれに先立つ39年、35歳で英国のリバプール領事になっていた。翌40年には、イースター蜂起が導火線となって連合王国から分離したアイルランド自由国(37年からはエール)の首都ダブリンに民家を借り、領事館を設立した。大戦中、苦境に直面した別府氏について、司馬遼太郎氏は「街道をゆく 愛蘭土(アイルランド)紀行II」で「大戦下の籠城者」と表現した。
 戦時下で日本からの送金も途絶えがち。潮田さんは「アイルランド政府はスイスの大使公邸に極秘の屋根裏部屋を設け、日本から別府氏への送金を仲介してくれました。76年に同公邸を訪問しその部屋を拝見しました」と、当時を感慨深げに振り返った。
 戦後、ダブリンの領事館にあった資産や文書は連合国によって没収された。終戦から3年後に帰国した別府氏は外務省に「英国に占領され、ひどい目にあったから、アイルランド政府は同情的で非常に親切にしてくれた」と話したという。」
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