🎺34:─1─日本軍部の国際法違反。軍用病院船の違法使用。~No.158No.159No160 @ ㉑

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 アメリカ軍の日本軍用病院船を攻撃した原因をつくったのは日本軍部である。
 軍国日本にとっては、自業自得であった。
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 国際法
 近代戦時国際法のもとでは、病院船は一定の標識を行い、医療以外の軍事活動を行わないなどの要件をみたすことで、いかなる軍事的攻撃からも保護される。今日では1949年のジュネーヴ第2条約が明文規定を定めている。時期によって若干の変遷はあるものの、その基本的要件は以下のようなものである。
 船体の塗装 - 船体は白色とする。軍用病院船は緑色、民間病院船は赤色の帯を引く。
 赤十字標識 - 赤十字(または赤新月)の旗を掲げる。船体や甲板にも標識し、夜間は電飾する。
 非武装 - ただし船内の秩序維持などのための小火器を除く。
 軍事的活動の禁止 - 兵員・軍需物資の輸送、軍事情報の発信などには利用しない。
 交戦国への通知 - 船名等の基礎データを通知する。
しかし、実際には保護されるべきはずの病院船が、敵艦から意図的に攻撃を受ける事件もあった(ぶゑのすあいれす丸撃沈事件、オプテンノール拿捕など)。 過失による撃沈を防ぐ為に病院船は夜間も明かりを灯し病院船である事を主張した。 純白の美しい外観、病院船という任務目的からか、付近の味方艦船乗員の心理的安堵感が増し、気が緩んだ隙に病院船周囲を周回している敵の潜水艦に撃沈されるという凄惨な例もあった。
 また保護を悪用して、病院船を軍需輸送に使用する例も発生した(橘丸事件など)。
 国際法上の保護要件を満たすには目立つ外観となり船団航行に向かない、軍需輸送に容易には転用できないなど運用上の困難があるため、一部の病院船は白色塗装や通知などをあえて行わないことがある。太平洋戦争時の大日本帝国陸軍保有していた病院船には、このような国内限りの病院船が多く存在した。こうした病院船については、当然、軍事的攻撃も禁止されない。
 このほか、戦時に病院船と同様の保護を受ける地位(安導権)を与えられる船がある。捕虜などへの救恤物資を輸送する船と、交換船が代表例である。こうした船についても、阿波丸事件のように攻撃を受ける例があった。
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 橘丸事件は、1945年(昭和20年)に日本陸軍国際法に違反して病院船「橘丸」(東海汽船、1,772トン)で部隊・武器を輸送した事件である。日本陸軍創設史上最も多い約1,500名の捕虜を出すこととなった。
 ここでは本編に先立って事件に至るまでの背景などを「前史」として解説する。「橘丸」の船歴については当該項を参照とのこと。
 前史
 しかし、陸軍病院船は作戦の合間に運送船から転用されたり、また運送船に戻ったりしている。しかとは言えぬが、国際赤十字社に登録された海軍病院船と異なり、日本の陸軍病院船は国際的に未認知であったようである このことが本船の最期に関わったとも推測される。また本船には軍医と看護兵は乗船していたが、輸送船の機能しかなかった。これは、海軍病院船が手術室まで完備していたのと対照的である。看護婦の乗船勤務はシンガポール辺りまでの航海に限られ、これ以遠への航海には乗せていなかったといわれる
 ??野間恒、『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』148ページ
 1943年(昭和18年)12月当時、日本軍が運用し連合国側に通告済みの病院船は、日本陸軍が「橘丸」を含めて17隻、日本海軍が4隻であった。
 なお、日本陸軍ではこの17隻の通告済み病院船の他に、未通告のまま病院船と称する船舶を何隻か運航させていた。そのうちの1隻、「はるぴん丸」(日本海汽船、5,167トン)は1942年(昭和17年)1月10日にアメリカ潜水艦「スティングレイ」 (USS Stingray, SS-186) に撃沈される。この事は昭和17年1月14日の大本営発表で公表され、当時の新聞は「国際條約を蹂躙」「天人倶に許すべからざる非人道的行為」と書いて、いわゆる「アメリカ軍の非人道性」を大いに批判した。しかし、「はるぴん丸」撃沈の実態は、「「ハルピン」丸ハ船体黒塗ノママ赤十字標識ヲ附シアリ 敵国ニ対シ病院船トシテ通告モナシアラザリシモノニシテ国際法上ノ病院船トシテノ資格ナカリシモノナリ」と、日本海軍が記すように、登録はおろか”(目立つ赤十字のマークがあったとしても)病院船としての正規な塗装”を行っていなかった。
 これ以降も連合国軍による通告済みの日本の病院船への攻撃は収まらず、そのたびに「通告済み病院船が攻撃される→大本営発表で公表→米英非難報道→米英が釈明、もしくは事実上の謝罪」のパターンが繰り返された。ついには、昭和18年11月27日に「ぶゑのすあいれす丸」(大阪商船、9,625トン)がカビエン近海でアメリカ軍のB-24の爆撃を受けて沈没し、その写真が公にされるという事態が起こる。なお本船は、上記の野間の記述とは違い1942年(昭和17年)11月23日に外務省経由で病院船として連合国への通告が行われ、12月に入ってからスイス、スウェーデンおよびスペイン経由で連合国側に通告され受理されていた。さらにアメリカ軍機は救命ボートで漂流していた生存者を機銃掃射で殺傷した。
 冒頭に掲げた野間恒の記述は、日本陸軍の病院船に関するある一面を表現している。連合国側への通告の点では「はるぴん丸」の例はさて置いても間違っているものの、17隻の通告済みの陸軍病院船の中で終戦時に残存したのは、この項の主役である「橘丸」だけであり、他はすべて連合国軍による攻撃、または触雷で失われた。「輸送船の機能しかなかった」という一文に関しても、実際に陸軍病院船に関しては病院船というより「還送患者輸送船」といった感じで病院船を運用していた節がある。もっとも、海軍病院船がそういう使われ方をしなかった、というわけではない。
 上記のように連合国軍による通告済み病院船への攻撃が多数行われたものの、それに対して日本軍は条約を遵守して通告済み病院船に対して全く手出しをしなかったのかといえば「否」で、スラバヤ沖海戦直前の昭和17年2月26日のオランダ病院船「オプテンノール」(6,076トン)の抑留と、昭和18年5月14日の伊号第一七七潜水艦(伊177)によるオーストラリア病院船「セントー(英語版)」(3,222トン)撃沈が、日本軍が病院船に手出しした例として挙げられる。前者は味方艦隊の行動海域を航行していることが「怪しい」と判断され、臨検の結果「とがむべき点は認められなかった」ものの、その後の航路指示に従わなかったことから結局抑留・接収され、日本側が使用することとなった。オランダ政府はこれに抗議し、日本側の病院船の不承認をちらつかせたりもした。後者は伊177が「セントー」を「病院船とは気付いていなかったらしい」が、生存者は「日本の病院船への攻撃に対する報復」と受け止めていた。それほどに、連合国側の通告済み病院船への攻撃が多発しており、連合国側の将兵が皆その事実を知っていたことを窺わせる。あえて太平洋戦争時以前まで遡って例を挙げるならば、日露戦争での日本海海戦ロシア帝国海軍の病院船「オリョール」(4,500トン)が抑留され、その後の捕獲審判において条約上禁止される軍事目的に使用されたことを理由に没収されている。この際は病院船「コストローマ」も同時に抑留されているが、こちらはそのまま解放されている。病院船の臨検自体は交戦国の権利として認められるものであり、さらに病院船の航路を指示したり、特に必要な場合には抑留することも条約上で認められた行為である。これにより、オプテンノートの事例はオプテンノート側に非があり、日本軍側が非を働いたとは言い難いものとなるが、旧日本軍はこれを違法と判断されることを極度に恐れていた節が窺われる。詳しくは「オプテンノート」の項目参照。
 昭和20年に入ると、日本の何隻かの病院船の行く手行く所で水上艦艇による臨検(臨検行為は条約内)および、航空機による威嚇飛行(条約違反)が繰り返されるようになる。昭和20年3月25日、基隆に停泊中の陸軍病院船「ばいかる丸」(東亜海運、5,243トン)は、大本営命令によりアパリ(英語版)に向かう。2日後にアパリに到着するも昼夜分かたぬアメリカ軍機の威嚇飛行を受け、バドリナオ岬に移動しても状況は変わらず、「ばいかる丸」はバドリナオ沖から去って3月30日に基隆に帰投した。「ばいかる丸」のこの時の任務が何であったかについて駒宮真七郎は、「患者収容に見せかけ、特命の人員を台湾に連れ戻す」のが目的であり、その「特命の人員」とは「「翼を失った戦闘機の搭乗員」若しくは「特攻隊員」との見方が本命」と駒宮は推測している。7月には、海軍病院船「高砂丸」(大阪商船、9,347トン)が船倉に食糧を搭載して、当時孤立無援の状態だったウェーク島に向かったが、ウェーク島到着前日にアメリカ海軍駆逐艦「マリー」 (USS Murray, DD-576) の臨検を受け、食糧にチェックが入った。これにより、軍用物資でもある食糧の陸揚げが出来なくなり、7月4日にウェーク島に入泊した高砂丸は患者輸送しか行えなかった。その患者を乗せる際にも上空からの監視があり、出港後にもまた臨検された。その「高砂丸」には燃料輸送用のタンクが設置される計画もあったが、これは「良識派の意見が通」って工事直前に中止になった。「高砂丸」や、国際法をたてに軍部からの要請を再三にわたって退けた海軍病院船「氷川丸」(日本郵船、11,622トン)のように良心が邪心を退けたために、結果的に戦禍から逃れることができた例もあったが、臨検や威嚇飛行の段階に至らなくても、日本軍には国際法によって病院船が禁じられている武器弾薬や将兵の輸送行為を、連合国側に発覚されることなく行った事例が実際に存在する。海軍病院船「朝日丸」(日本郵船、9,326トン)は戦艦「金剛」、「榛名」宛の弾薬560発を輸送し、「橘丸」も拿捕前に、アンダマン諸島およびニコバル諸島から傷病兵に健全兵を「混ぜて」スラバヤに輸送した疑惑がある。真偽は定かではないが、野間恒によれば「関係者の話」として、「ぶゑのすあいれす丸」も「内地から南方への航海には陸軍将兵を偽装して輸送したり」、「ラバウルからパラオに転進する将校が白衣を着て乗船していた」。
 「オプテンノート」、「ばいかる丸」、「高砂丸」の事例は、通告済み病院船といえども国際法違反の行為の疑念を抱かれた場合、警戒が厳しくなる事を表す。「オプテンノート」抑留はその正当性に関して判断が分かれているが、「ばいかる丸」は威嚇飛行だけに留まり、「高砂丸」は臨検を受けたが“シロ”と認定された。しかし、「橘丸」は国際法違反を冒していた状態で早々に敵側にマークされており、臨検を受け、“クロ”と認定されて拿捕された。
 事件
 モルッカ諸島の一部を成すカイ諸島には、第五師団(山田清一陸軍中将)歩兵第十一連隊第一および第二大隊、歩兵第四十二連隊一個中隊の総勢1,562名が駐屯していた。しかし、戦局がフィリピンの戦いもほぼ終わってボルネオの戦いに移ると、この方面の兵力は戦略的価値が事実上失っていたも同然だった。そこで南方軍(寺内寿一元帥陸軍大将)は第二軍(豊嶋房太郎陸軍中将)に対し兵力の集約を行うよう命じ、命を受けた第二軍は遊軍と化していた第五師団をカイ諸島から引き揚げさせて、近いうちに連合軍が上陸してくるであろう昭南(シンガポール)かジャワ島の防衛に宛てることとした。この手の兵力後退輸送は、それ以前にも重巡洋艦「足柄」や軽巡洋艦「五十鈴」などが実施していたが、「足柄」も「五十鈴」も任務中途で撃沈されており、兵力輸送用船舶として、「唯一安全なアクセス」として病院船に白羽の矢が当たったわけである。
 「橘丸」による兵力後退輸送任務は「光輸送乙号作戦」と命名され、命を受けた「橘丸」は海上トラック「広瀬丸」という偽名をもらい、7月27日に昭南を出港して7月31日にトアールに入港する。1,562名の将兵たちは白衣を着て患者を装い、軍服や各種武器等は赤十字社の標章を付して梱包していた。臨検された場合に備えたのか、適当な内容のカルテまで準備された。翌8月2日、「橘丸」はトアールを出港するが、この時すでにPBYカタリナが上空で張り付いていたのである。
 8月3日早朝、アメリカ海軍駆逐艦「コナー (DD-582)(英語版)」 (USS Conner, DD-582) と「チャレット (駆逐艦)(英語版)」 (USS Charrette, DD-581) は、バンダ海を航行中の「橘丸」に対し国際信号旗 “S” “Q” “1” (停船せよ、さもなくば攻撃する)を掲げて停船を命じる。「橘丸」を挟み込むように接近した「コナー」と「チャレット」から臨検隊が送り込まれたが、臨検隊に踏み込まれた「橘丸」の対応は墓穴を掘るばかりであった。「なぜ看護婦が乗っていないのか」とか「なぜ怪我患者がいないのか」という質問にまともに答えられず、「患者」の名前とその病名ですら答えることができなかった。決定打は食堂下の船倉に収められていた赤十字の箱から出てきた小銃、40トンの弾薬および曲射砲2門で、ついに「橘丸」は国際法違反により拿捕された。
 拿捕された「橘丸」には星条旗が掲揚され、捕虜となった将兵は周囲から銃が突きつけられたサロンへ収容される。将兵のうち、将校クラスは暴発を警戒して「コナー」と「チャレット」に移された。8月8日、「橘丸」はモロタイ島に到着し、ここで将兵と乗組員は収容所送りとなった。このうち将兵は貨物船に押し込められ、フィリピン・マニラのモンテンルパ捕虜収容所に移送された[28]。乗組員は「橘丸」に戻され、8月14日にマニラに入港。乗組員もモンテンルパ収容所に収容されたが、終戦後に安田喜四郎船長を除く乗組員は無罪として釈放された。その後の「橘丸」は、パラオからウェーク島に回航され、ウェーク島からの復員兵第一陣700名を乗せて10月20日に浦賀に帰投した。
 日本側が「橘丸」拿捕を知ったのは、少なくとも8月6日朝に連合軍側の放送、あるいはオーストラリア放送を傍受した時とみられ、第五師団長の山田中将と同参謀長浜島厳郎大佐は8月15日に自決したが、それは「国際法違反」の責めによるものではなく、「将兵を無抵抗裡に敵手に委した」という理由からであったという。
 裁判
 橘丸事件の裁判は、アメリカ第8軍司令官が招集した軍事委員会が主催する横浜法廷(場所:横浜地方裁判所)で行われた。審理は1948年(昭和23年)3月に開始され、同年4月133日に判決が出された。
 起訴された人物と判決
 沼田多稼蔵 中将(南方軍総参謀長):重労働7年
 和知鷹二 中将(南方軍総参謀副長兼南方軍交通隊司令官):重労働6年
 渡辺三郎 少将(第三船舶輸送司令官):無罪
 長野祐一郎 中将(第十六軍司令官):無罪
 豊嶋房太郎 中将(第二軍司令官):重労働3年
 森康則 中佐(第5師団参謀):無罪
 大森繁 軍医少佐(第五師団軍医):無罪
 安川正清 少佐(歩兵第十一連隊第一大隊長):重労働1年半
 安田喜四郎 軍属(橘丸船長):無罪


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