🛲¦5─3─インパール作戦。協力したインド人独立派と裏切ったビルマ人独立派。1944年~No.36No.37No.38 @     

インド独立史 (中公新書 298)

インド独立史 (中公新書 298)

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗ 
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 インド人独立派は、軍国日本に感謝し、昭和天皇東条英機を英雄とし、イギリスの対日戦勝記念式典に抗議して暴動を起こした。

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 マハトマ・ガンジー「ネタージ(チャンドラ・ボーズ)はそのインドへの貢献によって永久に不滅である」
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 インドでは、インパール作戦を命じたA級戦犯東条英機靖国神社)は英雄である。
 軍国日本は、アジアの光であった。 
 日本軍は、インド独立派の強硬派と協力していた。
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 イギリス兵士捕虜の生還率は、ドイツ軍捕虜収容所では95%、日本軍捕虜収容所では75%であった。
 日本軍による敵兵捕虜の扱いは、戦時国際法を無視した過酷であった。
 イギリス軍は、日本軍への報復として激烈で容赦せず。日本軍兵士の捕虜は最小限として、情報を得る日本兵士以外は殺害した。
 捕虜にする条件は、英語が話せる日本人であった。
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 インパール作戦の失敗の原因は、ビルマ人がイギリスに寝返り、日本軍情報をイギリス軍に知らせていたからである。
 ビルマ人がイギリスに内通した理由は、日本軍が、歴史的民族的な宿敵であったインド人に味方して軍隊を組織したからである。
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 イギリス軍は、ネパール山岳民族グルカ人計20万人を徴兵しインパール作戦撃破から反撃戦に投入したが、戦後、勝利に貢献したグルカ兵士に永住権も年金も与えず放置した。
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 1944年 インド国民軍(INA)は、イギリスの軛からインドを解放する為に総兵力が4万5,000人に増加した。
 1月 大本営は、東条英機首相の強い要望を受けて、無謀で無意味なインパール攻略作戦実施を命じた。
 韓国光復軍は、インパール作戦ビルマ工作に参加するべくイギリス軍に8〜13人を派遣し、日本陸軍内の朝鮮人将兵への逃亡を促す敵対放送や捕虜尋問、敵文書翻訳など心理戦を行った。
 連合軍は、韓国光復軍には戦闘能力はないと判断して雑用を任せ、戦場には決して出さなかった。
 宗教的白人種至上主義者は、韓国人をインド人以下の醜い動物と見下していた。
 韓国人は、事大主義的に自分は連合軍の一員という優越感から、人種差別的にインド人やビルマ人を野蛮人として馬鹿にしていた。
 インド人やビルマ人は、白人に媚びへつらう韓国人を軽蔑していた。
 軍国日本は、「アジアを白人植民地支配から解放する」という大義の為に孤独で絶望的な戦争を続けていた。
 その時、中国人と朝鮮人は白人の植民地支配を守る為に戦っていた。
 反日中国とは、ファシスト中国と中国共産党である。
 3月8日 牟田口司令官は、麾下の師団長達の反対を押し切り、制空権も無く、食料や弾薬の補給が困難である事が分かっていながらインパールへの進撃を命じた。
 日本軍約8万人。インド独立軍約2万人。ビルマ防衛軍約3万人。
 日本軍は、インド独立軍をインドに侵攻してから利用するべく後方の安全地帯に下げていた。
 ビルマ部衛軍も、実戦には役に立たないとして前戦にはなるべく出さなかった。
 インパール作戦の失敗はビルマ国民の日本への見る眼を変え、ビルマの独立を守る為に連合軍に味方するべきであると言う意見が出始めた。
 連合軍による無差別爆撃は激しさを増し、ビルマでの被害が拡大した。
 反日ビルマ人は、日本軍が国内にいるから攻撃される以上、日本軍を追い出すべきだと訴え始めた。
 ビルマ世論は、急速に反日に変わり始めた。
 バー・モウ「今や物語は半分しか語られなくなった。反英国的なものは全て拭い去られ、物語は初めから終わりまで、戦争の最後の時期の反日暴動と、溢れるほどの憎悪に満ちた反日感情反日のこだまで綴られていった」
 インド国民は、日本軍とインド国民軍が敗走したとは言え、国境を越えて攻めてきた事で独立への勇気を得た。
 4月26日 チャンドラ・ボースは、インパール作戦が失敗したと分かるや、ラングーンからシンガポールに移った。
 5月15日 大本営の秦彦三郎参謀次長は、インパール作戦の戦況を視察して帰国し、陸軍省部首脳会議で「インパール作戦の前途は極めて困難である」と報告した。
 東條英機首相兼陸相は、凄まじい剣幕で「戦いは最後までやってみなければ分からぬ。そんな気の弱い事でどうするか」と叱責した。
 会議後、東條英機自身も作戦の失敗を自覚していたが、自由インド仮政府のチャンドラ・ホースに日本政府として約束した手前、死屍累々の犠牲者を出していたが退くに退けず頭を抱えた。
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 インパール作戦は、餓死した日本兵で白骨海道を造るほどの犠牲を出したが、自由インド仮政府への信義を貫いた。
 アジア諸民族への信義を尽くした事において、インパール作戦は悲劇であったが悲惨ではなかった。
 日本軍戦死者は、5万人〜5万4000。
 戦傷や戦病死を合わせた消耗率は、70〜80%。
 インド国民軍の戦死・戦病死は、3000〜2000人。
 餓死や病死した日本人将兵は、白人の植民地支配からアジア人を解放しようとした英雄である。
 彼らは、植民地下で苦しむアジア人に希望と勇気を与えた以上、中国や韓国・北朝鮮が猛反対する靖国神社に祀られて当然の英霊である。
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 敗走する日本軍は「落伍者捜索隊」を派遣し、手を貸せば歩ける者は助け、歩けない者に自決を強要し、応じなければ射殺した。
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 イギリス軍は、戦争の勝利を優先し軍事行動の邪魔に捕虜を作らない為に、行く先々で飢えと病気で動けなくなっている日本軍兵士を処分しながら進撃した。
 宗教的人種差別主義者にとって、人権を持った人間は白人のみであり、非白人の日本人を人間とは認めず、日本兵士をジュネーブ条約の対象外として捕虜収容所に収容して助ける事はしなかった。 
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 インドでは、A級戦犯東條英機独立運動に支持・協力してくれた日本の英雄であり、日本軍は独立戦争を支援してくれた解放軍であった。
 マニプル州の住民は、州内の2926高地にインパール作戦で戦死した日本軍兵士の為に「日本兵の慰霊塔」を建て、毎年、日本軍に感謝し日本人兵士の霊を供養する為の慰霊祭を行っている。
 「日本の兵隊さんが我々を守ってくれた」
 「戦闘開始の直前に、村の一軒一軒を回って逃げるように言ってくれた」
 生き残った老人達は、日本軍の規律・軍規が厳しく略奪も暴行もなく、日本人兵士は礼儀正しく勇敢に戦って戦死したと、賞賛した。
 対して。連合軍兵士は、婦女暴行や略奪などを行ったと非難した。
 モヘンドロ・シンハ(マニプール州ロトパチン村村長)「日本の兵隊さんは飢えの中でも、実に勇敢に戦いました。そしてこの村の彼方此方で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動の全ては、みんなインド独立の為の戦いだったのです。私達は何時までもこの壮絶な記憶を若い世代に残していこうと思っています。その為にここに兵隊さんへの御礼と供養の為に慰霊塔を建て、独立インドのシンボルとしたのです」
 激戦地コヒマに群生する紫の花を、インド人は「日本兵の花」として大事にしている。
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 藤原岩市「これより先、作戦の進展に疑念を抱いた大本営は5月初め、秦彦三郎参謀次長をラングーンに派遣して戦況を視察させた。そして作戦の前途に大きな危惧を抱いて帰京した。5月15日、関係者多数列席の作戦室で東条総長に報告せんとする矢先き、南方軍からこれを否定するような電報が届いた。
 これを見た次長は控え目に不安を示唆する報告を行った。この作戦に大きな期待を寄せ、楽悲両様の報告に迷っていた総長は、遂に次長の報告に耳をかさなかつた。こうして作戦中止の一転機が失われた」
 「(6月5日)本作戦を主唱した牟田口軍司令官は方面軍司令官に対して、遂に作戦中止を申言する決断をためらった。方面軍司令官も亦これを訊すに堪え得なかった。新に南方軍より増援された第4師団の一部と戦車、重砲部隊をパレル方面に傾注して、最後の努力を試みることを約して沈痛の会談を終えて袂を分かった。その時に第二の転機が失われた」(『インド進攻の夢破る』)
 牟田口廉也「作戦不成功の場合を考えるのは、作戦の成功について疑念を持つ事と同じであるがゆえに必勝の信念と矛盾し、したがって部隊の士気に悪影響を及ぼす恐れがあった」
 日本軍は、作戦の成功だけを考え、失敗した時の対応策を考えなかった。
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 インド南西部にあるロトパチン村の住民は、インド独立の為に日本軍がイギリス軍と戦ってくれた事に感謝を込めて、レッド・ヒルの激戦で戦死した数百人の日本人兵士の為に慰霊碑を同丘の麓に建てた。
 インド人で、日本軍の侵略を目の当たりにした古老のほとんどが日本軍に感謝し、日本兵の優しさと勇敢さに惜しみない賛辞を送っている。
 「日本兵は、インドの為に戦ってくれた」
 タオレム・ゴラムホン・シン「自分が死ぬかもしれないのに、なぜか優しいのか」
 「日本兵が眠るこの丘を見守り続けます」
 アコイマチャ・クマム「私の自宅は日本兵に使われていたが、衣服や食器は側溝に保管されていた。日本が復興できたのは、戦争中でも常識を忘れなかった日本人ならではだと思う」
 アランバン・シン「旧日本軍の動きがなければ、イギリスからのインドの独立の気運は高まらなかっただろう。日本兵の優しさを受け止め、記憶をつなげたい」
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 1943年 イギリス軍は、ビルマ方面で日本軍と激しい攻防戦を繰り返し、日本語ができ人員を派遣するように大韓民国臨時政府に依頼した。
 国民党政府は、自分の許可を得ない所でイギリスと大韓民国臨時政府が直接接点を持つ事を嫌った。 
 5月 民族革命党の金元鳳は、駐印英国軍代表コリン・マッケンジー雇用契約を結んで朝鮮民族軍宣伝連絡隊をインドへ派遣した。
 任務は、日本軍内部の朝鮮人兵士に対する謀反を促すラジオ放送及びビラ作成、朝鮮人捕虜を抗日軍に引き込む為の洗脳教育、押収した日本軍の文書や日本軍兵士の日記などの翻訳であった。
 6月 国民党政府は、イギリスと朝鮮独立党との雇用契約大韓民国臨時政府に切り替え、派遣人員を朝鮮民族軍から光復軍に入れ替えた。
 隊名も、朝鮮民族軍宣伝連絡隊から光復軍工作隊と改められた。
 派遣された隊員は、9名であった。
 任務は、後方支援で最前線で戦う事ではなかった為に、後世に残すような輝かしい軍功や功績はなかった。
 1944年 アメリカ軍諜報部は、日本占領地にあった慰安所から解放された朝鮮人慰安婦から話を聞いて報告書を提出した。
 1945年 イギリス軍は、ビルマに侵攻して日本軍を撃破して破竹の進撃を続けるにつれて日本人捕虜が増え始めた。
 当初は、進撃を優先して負傷や病気で動けなくなっていた日本軍兵士を捕虜にする事なく殺害していたが、勝利が近くなるにつれて、戦後の対日占領政策を有利に展開する為に日本軍兵士を捕虜として収容し始めた。
 日本人捕虜が増える事によって日本語が話せるスタッフを必要としたので、第二隊追加派遣を朝鮮民族革命党に要請した。
 朝鮮革命党は、イギリス軍の要請を受け入れて16名を追加派遣するべく人選に取りかかった。
 国民党政府は、民族主義左派の突出した活躍をされては、支援している民族主義右派の力が弱まると懸念して両派から平等に隊員を選抜する事に変更させた。
 蒋介石は、朝鮮人がイギリス軍に協力して功績を上げられては中国人の面子が潰されると考えて、追加派遣に猛反対して実行させなかった。
 国民党政府は、光復軍は悪までも国民党軍の指揮命令下の一末端組織であるとしながらも、不平不満で騒ぎ立てえる朝鮮人の傲慢さに辟易し、朝鮮人を宥める為に光復軍の一部を前線に投入する計画を立てた。
 国民党軍内部で依然として光復軍は実戦には不向きであるとして、戦地後方任務を割り当てる事で調整に入った。
 だが、光復軍が前線に送られる前に軍国日本が有条件降伏した為に、光復軍は連合軍の一員として戦う事がなく終わった。
 インド・ビルマ戦区に派遣された光復軍工作隊(9名)も、事務的業務で戦闘には参加する事なく帰還した。
 イギリス軍に協力したのは、民族主義左派の朝鮮革命党であって民族主義右派の韓国独立党ではなかった。
 大韓民国臨時政府と光復軍は金九によって表面的には統一されたが、その実は各党派でいがみ合いが酷くまとまりを欠いていた。
 連合国は、自分勝手の傲慢さでまとまりのないだらしなさに呆れ返り、戦後、大韓民国臨時政府の後継を持って正統性を主張する韓国を戦勝国に加える事を拒絶した。
 それに引き替え、敗北し戦犯とされたが、絶望の中で甚大なる被害を出しながらよく戦った軍国日本と日本軍を素晴らしい軍人であったと絶賛した。
 世界は、戦う人間を勇気ある素晴らしい人間と絶賛し、戦わない人間を卑怯でつまらない人間と軽蔑した。
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 1945年8月15日 軍国日本は、ポツダム宣言の有条件降伏を受け入れて降伏した。
 シンガポールの坪上大使は、チャンドラ・ボースに日本の降伏を伝えた。
 チャンドラ・ボースは、サイゴンに飛んで、南方総軍司令官寺内大将に会って支援を要請した。
 「閣僚と国民軍首脳を従えてソ連入りを果たしたい、その場合、残した閣僚は私の後を追って来られるようご手配を頂きたい」
 寺内軍司令官は、インド独立の為に出来る限りの協力を約束した。
 8月17日 チャンドラ・ボーズは、戦後は米ソ対立が激化すると予想し、インド独立の為にソ連の支援を受けるべくモスクワ行きを決意してた。
 台湾・満州経由でソ連に向かうべく、バンコクから日本の航空機で飛び立った。
 8月18日 チャンドラ・ボースは、給油の為に立ち寄った台湾の松山飛行場で、離陸に失敗して大火傷をして死亡した。
 「もう助からないと思う。君が国に帰ったら私は自由・独立の為、最後まで戦ったと言ってくれ。もはや何人たりよも我々を束縛しておく事はできない。我々は戦い続けねばならない。そうすれば遠からずインドの自由はやって来る。……天皇陛下と寺内さんによろしく……安眠したい」
 遺骨は、日本に運ばれ、東京・杉並の連光寺に埋葬された。
 8月18日 チャンドラ・ボーズは、台湾・台北の飛行場で、日本陸軍の97式重爆撃機で離陸しようとした時に事故で死亡した。
 9月8日 イギリス・インド軍は、シンガポール進駐するや、日本軍の侵略戦争に協力したINAの記念碑をダイナマイトで破壊した。
 11月 イギリスは、大英帝国の権威を誇示する為に、ヒンズー教徒・シーク教徒・イスラム教徒から各一名のINA将校3名を反逆罪で訴追し裁判を行った。
 独立派への見せしめで処刑する事は、最初から決まっていた。
 藤原岩市は叛逆工作の責任者として、戦犯ではなく証人としてデリーの軍事法廷に召喚されたが、「アジアの解放」という理想から司法取引的にイギリス側に迎合する証言を拒否した。
 「我がインド工作は、単ある謀略ではない、陛下の大御心に添い、建国の大理想を具現するべく、身をもって実践したものである事を強調しなければならぬと思った」
 イギリス軍事法廷は、各地の反英独立暴動の激化を沈静化させるべくINA将校3名に無期懲役を宣告したが、即座に刑執行停止として釈放した。
 藤原岩市は、F機関責任者として拘束されシンガポールの戦犯法廷に送られたが、持論を正々堂々と主張して無罪を勝ち取った。
 藤原岩市「私の最も侘しく思った事は、次の事であった。そもそもこの工作は、軍は勿論、国を挙げて展開された工作である。汪精衛工作に匹敵する大工作であった筈である。しかるに終戦、戦犯追及が囁かれる様になると、分けて私がこの度の召喚に接してからは、軍中央関係者の誰一人として、国の為、進んでその責を負い、我が国の本工作に対する所信を明らかにしようとする人士がみられなかった事である。のみならず、この工作は一少佐の藤原がやった仕事だと云わんばかりに、関わりを回避するかの冷たい風さえ看取らされた」
 戦後の日本は、戦前の日本を凶悪な戦争犯罪者とする平和教育を徹底し、軍国日本が行った各国の独立派支援を侵略行為と完全否定して、軍部と軍国主義者が行おうとしたアジア独立を歴史の闇に葬った。
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 戦後。イギリス軍は、インド国民軍を指揮してインパール作戦に参加したセイガー、シャヌワーズ、クローバック・シンの3名を裁く為に軍事裁判を開廷し、反逆罪で処刑しようとした。
 同時に。捕らえた元インド国民軍将兵400人も、抗命・通報・利敵などの叛逆罪で処罰する事を発表した。
 戦前のインドであれば、イギリスの決定は絶対的命令として実行され、不満を持って起きる反英運動は武力を持って鎮圧されたであろう。
 だが。戦後は、全てのインド人が民族主義に目覚めていた為に、戦前の様な強権的白人支配は通用しなくなっていた。
 イギリスは、INA将校3人への極刑を含む将兵2万人を、英国王への反逆罪で裁こうとした。
 インド国民は、軍国日本に協力したネタージ・チャンドラ・ボースを祖国解放の英雄とし、其の遺志を受け継ぐ被告3名の解放を求めて焼き討ちなどの実力行使に立ち上がった。
 イギリス軍は、各地で起きている暴動を鎮圧する為に銃器を使用し数百人の死傷者を出したが、暴動はインド全土に拡大した。
 イギリス海軍のインド人水兵は、INA海軍を宣言した。
 ボンベイ港ではイギリス軍艦ナバタ号他20隻が、カラチ港でもイギリス軍艦ヒンドスタン号が、インド人水兵によって占拠され、イギリス軍が武力弾圧を続けるのなら砲撃して応戦すると宣言した。
 インド人独立派は、独立を勝ち取り為に、一斉蜂起して激しい市街戦を起こした。
 イギリス政府とインド総督府は、暴動の沈静化を図る為に、軍事裁判で軍国日本に協力した被告3名を禁固15年に減刑した。
 イギリス軍司令官は、同日付で、執行停止と即時釈放を宣言した。
 インド国民の民族主義運動の勝利で有り、インド独立への大いなる一歩であった。
 パラバイ・デサイ主席弁護士「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本の御蔭で30年早まった。これはインドだけではなく、ビルマインドネシアベトナムも……東亜民族共通である。インド国民はこれを深く肝に銘じている。日本の復興にはあらゆる協力は惜しまない」
 イギリスは、インド独立は避けられないが、インド独立が軍国日本のアジア解放宣言とは無関係で有るとするべく、西欧留学組をインドに送り込んで情報操作を行った。
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 P・N・レキ最高裁弁護士「太陽の光がこの地上を照すかぎり、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない」
 S・S・ヤダバ元INA大尉(INA全国在郷軍人会代表)「われわれINA将兵は、インドを解放するために共に戦った戦友として、戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対してもっとも深甚なる敬意を表わします。インド国民は大義に生命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまでけっして忘れません。我々はこの勇士たちの霊を慰め、御冥福をお祈り申し上げます」
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 1946年3月7日 イギリスは、対ファシスト戦争の勝利を祝うべく、デリーで対日戦勝記念式典を開催した。
 インド人独立派は、インド独立を支援してくれた軍国日本と植民地支配への抗議から、猛反対して出席を拒否した。
 大規模な抗議デモが各地で起き、デリー市内は大混乱に陥った。
 かって。インド人達は、白人に逆らっても叶わないと諦め忠実な下僕として行動していたが、昭和天皇と国家と民族の名誉の為に負けると分かっている戦争を行い勇敢に死んでいった日本軍を目の当たりにして、決然と、殺されても構わないとして植民地支配から独立する為に立ち上がった。
 インド人独立派は、独立を支援する為に戦死した日本軍将兵靖国神社)に感謝し、対ファシスト戦争勝利の対日戦勝記念式典はその日本軍将兵靖国神社)を冒涜する行為として猛反対した。
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 1947年8月14日 イスラム教徒は、イギリス領インド帝国から独立し、イギリス国王を元首に頂くドミニオン(英連邦王国パキスタン)を建国した。
 8月15日 デリーの赤い城でネルーは、ヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言し、イギリス国王を元首に戴く英連邦王国であるインド連邦が成立した。
 イギリスは、インド独立令を発令してインドの独立を認めた。
 インド国民は、インド独立旗と共に日本国旗「日の丸」を掲げて独立を祝った。
 この後。インドの要人が来日すると、必ず、東京都・杉並区和田にある連光寺内のチャンドラ・ボースの墓に参拝している。
 インドが独立するや、ヒンドゥー教徒イスラム教徒による激しい宗教紛争がおき、内戦に近い暴動が頻発し、夥しい犠牲者が出た。
 ガンディーは、インドをヒンズーとイスラムが融合した理想国家にしようとした。
 P・N・レキ(インド最高裁弁護士)「太陽の光がこの地上を照らす限り、月の光がこの大地を潤す限り、夜空に星が輝く限り、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない」
 10月13日 ジャワハルラル・ネルー首相「仏陀の使命が人類に平和をもたらす様に祈ります」
 10月21日(〜48年12月31日) 第一次印パ戦争。
ムスリムパキスタンは、インドから分離独立した。
 1948年1月30日 ガンディーは、ニューデリーのビルラー邸で狂信的なヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の一人ナートゥーラーム・ゴードセーらによって暗殺された。
 1965年8月(〜9月23日) 第二次印パ戦争。
 1871年12月3日(〜12月16日) 第三次印パ戦争。東パキスタンバングラデシュとして分離独立した。


 


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知られざるインド独立闘争―A・M・ナイル回想録

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