🛲¦5─4─ベンガル飢饉、餓死者約300万人。日本軍の食糧支援表明。インド暴動で1万人の死傷者。〜No.39No.40No.41 @   

飢饉・疫病・植民地統治―開発の中の英領インド―

飢饉・疫病・植民地統治―開発の中の英領インド―

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗ 
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・  
 国際法は、戦勝国である連合国が行った殺戮・虐殺は戦争犯罪ではないとして裁かない。
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 マルクス「イギリスはインド社会の全骨格を、復興の兆しさえ見えないまでに破壊してしまった」(『インドにおけるイギリスの支配』)
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 1988年9月20日 サッチャー「私たちヨーロッパ人は植民地化の事業について何にも謝る必要はない」
 欧米列強の植民地支配は、日本の植民地支配に比べて正しかったとされている。
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 イギリスは、植民地インド経営で、19世紀だけでインド人2,000万人以上を餓死させ、虐殺したといわれるが、正確な人数は不明である。
 イギリスの植民地支配は、人民の愚民化と貧困化で、反英派や独立派は徹底的に弾圧し、インド人に密告・誣告を奨励して告発されたインド人は冤罪であっても女子供でも容赦なく叛逆罪として処刑した。
 それが、世界常識であった。
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 日本の侵略戦争とは、祖国を植民地化されない為に世界常識に叛逆した事である。
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 ウィンストン・チャーチルは、戦争の英雄である。
 東條英機は、極悪非道な戦争犯罪者とされ、人権は踏みにじられ、人としての尊厳は認められず、霊魂の安息は許されず、靖国神社の祭神から抹消する事を要求されている。
 エリザベス二世は、世界で最も愛されている君主である。
 昭和天皇は、ヒトラー同様に憎まれる君主で、死刑を含む極刑を求める声が多かった。
 崩御されてはや27年、今もってなお昭和天皇の戦争責任追及の声が止むどころか、せらに声高となっている。
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 ナチス・ドイツは、平時で、ユダヤ人の大虐殺、ホロコーストを行った。
 軍国日本は、戦時下で、ゲリラ・スパイ・破壊工作員などの便衣隊とその協力者・支援者を処刑した。
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 キリスト教における「罪人は許される」とは、偽りであり、偽善であり、ペテンである。
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 戦争の勝利が、全てに対して優先される。
 戦争の勝利の為には、如何なる手段も正当化される。
 勝者は裁かれる事はなく、敗者のみが全ての責めを負う者である。
 連合国のイギリスは勝者であり、枢軸国の軍国日本は敗者である。
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 1949年 ジュネーブ条約 
 第55条 「占領国は、利用する事ができる全ての手段をもって、住民の食糧……供給を確保する義務を負う。……占領地域の資源が不充分である場合には、必要な食糧……を輸入しなければならない」
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 イギリスには、天災や戦災によって夥しい餓死者を出し始めた飢餓地帯への食糧救済をする義務も責任もなかった。
 それが、欧米列強の植民地支配であった。
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 18世紀から20世紀までのイギリスのインド統治全期間を通じて、インドで発生した飢餓は約40回で、餓死者は約5,873万人にのぼる。
 西洋列強の植民地は、キリスト教による地上の楽園ではなかった。
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 19世紀にインドで起きた飢饉。
 18世紀 大飢饉3回 死者数不明。
 1800〜25年 大飢饉5回 死者100万人。
 1826〜50年 大飢饉2回 死者40万人。
 1851〜75年 大飢饉6回 死者500万人。
 1876〜1900年 大飢饉18回 死者1,600万人。
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 独立派は、弾圧され、拷問され、処刑された。
 独立運動は、投入された軍隊によって武力で鎮圧された。
 真の独立派は、幾ら犠牲者を出しても独立運動を止めはしなかった。
 独立を求める戦争は、正しい戦争であった。
 歴史に於いて、正しい戦争は存在する。
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 1942〜44年 イギリスの植民地インドのベンガル地方で、150万人〜300万人の餓死者を出したベンガル飢饉が発生した。
 ベンガル地方は、過去にも何度も大規模な飢饉を繰り返し、夥しい餓死者を出す慢性的な食糧不足地帯であった。
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 1942年1月 インド・ビルマ相レオポルド・エイマリーは、「日本軍によるインド侵略に備えよ」というウィンストン・チャーチルの命令を受け、インド総督府(イギリスの出先機関)に対して、焦土作戦として広範囲わたるビルマ・インドの国境地帯にある産業・交通施設の完全破壊を指示した。
 インド総督リンリスゴー侯爵は、チャーチル以上の人種差別主義者であったが、インフラ整備を完全破壊すると地元住民の反発を買い、独立派を利するのみであるとして反対した。
 イギリス政府は、破壊地域をベンガル地方に限定し、地元住民の意思を尊重するという名目として否認を許可した。
 インド総督府は、否認政策として地元住民が生活に欠かせない小船の破壊を否認するという申し立てを受け入れたが、それ以外の交通や輸送のインフラ整備を完全破壊して陸の孤島とし、食糧源として大事な沿岸漁業をも壊滅させた。
 地元住民が米を否認した為に、田畑を焼き払われる事はなかったが、それに代わって自家消費分以外の米をイスラム商人の言い値で買い上げられた。
 イギリス軍は、日本軍の侵略に備えて、インド人所有の船舶や牛車を押収したり破壊した。この結果、インド国内の流通網は完全に破壊された。
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 5月 日本軍は、全ビルマを占領し、インドへの米輸出を遮断した。
 インド総督府とイギリス軍は、米の主要輸出国だったビルマを奪われた為に、兵士や軍需労働者にしか備蓄食糧を開放しなかった。
 イスラム商人らは、米価格が高騰する事を見込んで買い占めを行った。
 インド国内では、米不足と米価格の急騰でパニック買いが起きた。
 イスラム教徒はイスラム商人から安く米を購入し、ヒンズー教徒はイスラム教徒から高い米を買わされていた。
 イスラム教徒は金を稼いで安定した生活をし、ヒンズー教徒は金がなくその日暮らしの貧しさで喘いでいた。
 戦場から遠いカルカッタなどの西部にある都市部は、戦争景気で豊かになって食糧価格が高騰しても食糧に困らなかった。
 だが、軍需産業を持たない地方都市や農村部は所得が伸びず、諸物価が高騰で貧困化が深刻になっていた。
 インド総督府は、貧困者対策として食糧の購入に補助金を付けたが、地方都市部のみでより貧しい農村部には支給が行き渡らなかった。
 農村部の低所得者は、米が買えずず飢え出はじめた。
 宗教間の不平等や貧富の格差が、食糧不足を悪化させ社会崩壊につながっていった。
 インド総督府は、ベンガル地方ビルマからの米輸入しなければ安定供給ができない事を知っていたが、地元住民のコメ栽培を抑制する為に商用・軍用作物としてジュード栽培を強要した。
 イギリス政府は、インドに対して、中東やアフリカに駐屯するイギリス軍やインド軍隊への食糧輸出を義務付けていた。
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 8月 インド国民会議は、「イギリスのインド撤退要求」を決議し、不服従運動を展開した。
 マハトマ(聖者)・ガンジーは、非武装非暴力の対英全面対決路線として「インドから立ち去れ」運動を開始した。
 インド総督府は、騒乱を鎮圧める為に、ガンジーと独立派幹部4万人を逮捕し、弾圧して1万人以上の死傷者を出した。
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 10月 大型のサイクロンがベンガル地方を襲い、僅かに生産していた農作物に大打撃を与え、飢餓が発生した。
 食糧を失った地方の貧困者は、食べ物を求めて豊かな都市部に流れ込んだ。
 その為に、都市部のスラム街が拡大して、不衛生となって疫病が蔓延し、治安が悪化した。
 インド総督府は、イギリス政府に対して、災害の甚大被害によって食糧事情が危機的状況に陥り、広範囲に飢餓が発生する恐れがあると報告した。
 インド担当相とインド副王のアーチボルド・ウォヴェルは、イギリス政府に対して、インドからの食料輸出停止と小麦等の穀物緊急輸入措置を要請した。 
 イギリス政府は、要請を受けて翌43年7月迄に約60万トンの食糧提供を約束したが、植民地救済より戦争の勝利を最優先して、インドへの食糧支援を最小限(7月迄に3万トン)とし、インドからの米7万トンを戦地に運ぶ出した。
 ベンガル飢饉は、天災で起きたが、300万人に之被害を拡大させたのは人災であった。
 さらに。ベンガル飢饉が知れ渡ると独立派の反英運動が暴動化する恐れがあり、日本軍に付け込まれ危険があるとして極秘扱いとした。
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 1943年 イギリスは、対ファシズム戦争でソ連と同盟関係になった事で、インド共産党を合法化した。
 1月 カサブランカ会談。ロジャー・ルイス「カサブランカ会談への旅は、フランクリン・ルーズベルトの植民地問題に関する見解に大きな影響を与えた」(『瀬戸際の帝国主義』)
 2月10日 ガンジーは、獄中でインド独立運動弾圧に抗議して断食を始めた。
 インド国民会議派は、各職場でサボタージュ活動を始め、洪水被害のある主要路線でも輸送業務を拒否した。
 イギリス政府内から、ガンジー独立運動の英雄として餓死せる事はインド支配に不測の事態を引き起こす恐れがある為に、ガンジーと妥協を図るべきであるとの声が上がった。
 インド総督府も、イギリス寄りのインド人総督参事会メンバーが辞任して独立派が政治力を付ける事を心配した。
 イギリス軍は、日本軍が反英派を徴用してインド内部へ侵略してくる事を恐れていた。
 だが、チャーチルは助言や忠告を一切無視した。
 「数人の〝黒んぼ〟が辞めたとして、それがどうしたというのか。支配しているのは我々だという事を全世界に示す事ができるではないか」
 (南アフリカ首相ヤン・スマッツへの電文)「ガンジーは全く死ぬつもりなどないと思うし、私が先週食べたものより良いものを食べているに違いない」
 リンリスゴー総督は、チャーチルに、「ガンジーは医師が勧めるブドウ糖投与を拒否して水しか飲まない」と報告した。
 チャーチル「なぜガンジーはまだ死んでいないのか」。
 チャーチルは、白人至上主義者として、非キリスト教徒で非白人を殺したい程に嫌っていた。
 ジョン・コルヴィル(チャーチルの祕書。日記45年2月23日)「首相に言わせると、ヒンドゥー教徒とは汚らわしい人種である。『単に多産であるがゆえに、破壊して当然のところを救われているにすぎない』」
 ラルフ・レイコ「ウィンストンに節操というものはなかったけれども、彼の人生にはひとつだけ変わらないものがある。それは戦争への愛である」
 チャーチルは、味方には寛大として一人でも多くを助けようとしたが、敵には非情に徹して一人でも多くを殺す事を望んでいた。
 そして白人至上主義の彼は、白人支配に挑戦するインド人を敵と見なして、ベンガル地方を見せしめのために見捨てた。
 イギリスの伝統的基本戦略は、勢力均衡と人種序列であった。
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 夏 インドの英字新聞「ステーツマン」は、ベンガル飢饉を報道した。
 ベンガル地帯は、大飢饉に襲われ300万人近い餓死者を出していた。
 8月14日 シンガポール(日本名・昭南)のインド独立連盟(IIL)は、日本軍の協力を得て緊急食糧支援の用意があると言うラジオ声明を発表した。
 スバス・チャンドラ・ボース「日本軍占領地域からインドへの米の輸送は本来できない事である。しかし、イギリス政府が申し込みを承認し、送られた食糧が軍事用に貯蔵されたり、インドから再輸出されたりしない善処するのであれば、連盟は米を送る用意がある」
 軍国日本にとって、西方からの攻撃を防ぐにおいてインドは欠かせない戦略拠点である以上、インド人を味方に付ける為のベンガル支援には喜んで賛同した。
 南方戦略が終了したとはいえ、占領地での敵残存勢力鎮圧と敵反攻に備えての拠点建設に軍隊を動かせない為に、ベンガル支援は人道的配慮として食糧支援にとどめる事にした。
 軍国日本が戦っているのは、インドを植民地として圧政を敷いているイギリスであって、植民地とされているインド人ではなかった。
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 几帳面で、事細かい事まで気にする事務屋的軍人エリート官僚の東條英機首相が、ベンガル飢饉とベンガルへの食糧支援計画を知っていたかどうかは不明である。
 日本軍は、情報の重要性が理解できず、情報収集能力と分析能力がなく、折角の情報を作戦に生かす事が出来なかったといわれている。
 つまりは、ベンガル飢饉を知らなかったとされている。、
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 インド連盟は、日本軍と協議して10万トンの米と輸送方法を提案した。
 インド総督府は、イギリス政府とイギリス軍の指示に従って、日本軍のプロパガンダであるとして黙殺し、食糧支援を拒絶した。
 ベンガル飢饉を知ったオーストラリアやカナダなど英連邦参加国家は、イギリスが輸送船を手配してくれたら、インドが必要とする小麦を提供すると提案した。
 オーストラリアの輸送船は米を満載して、インド経由で地中海地域へ向かっていた。
 チャーチルは、全船舶を戦争勝利の為に出動させている今、たかが植民地への食糧輸送の為に一隻でも貴重な輸送船を回す事には同意しなかった。
 コーデル・ハル国務長官は、食糧支援を申し出たが拒否された。
 『ハル回顧録』「インドにおける食糧供給の責任はイギリスに任されていると強く主張した為、我々は『やむをえず』従わざるをえなかった」
 アメリカは、チャーチルの対インド強硬姿勢がインド人の親日化をもたしかねないと警戒した。
 アドルフ・バーリ(国務次官補)「自分達が与えられていない自由を守る為に、なぜインドが戦わねばならないのか」
 フランクリン・ルーズベルト「イギリスのインド防衛はインド人自身の充分に熱意ある支持を受ける事はないだろう」
 ウェンデル・ウィルキー「他民族による別の民族支配は自由ではなく、我々が戦って守るべきものではないという事に、世界はついに目覚めたのだ」(『ワン・ワールド』)
 アメリカの反植民地主義の理想主義者は、イギリスの非人道的植民地支配に反対していた。
 ウォール街の国際金融資本は、世界市場をアメリカ・ルールで独占する為に、閉鎖的な植民地を解体する事を求めていた。
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 1944年3月8日 インパール作戦開始。
 ビルマ方面の日本陸軍航空部隊主力は、戦況悪化に伴い太平洋方面へ転出していた為に制空権を失い、インパールで戦う日本軍への航空補給はできなかった。
 イギリス空軍は、ビルマへ侵攻するイギリス・インド軍の進撃を支援するべく、補給を航空輸送で届けていた。
 インパール作戦の失敗は、航空輸送による補給支援がなかった事である。
 8月4日 エイマリー印度相は、チャーチルのインドに対する強硬姿勢に強く抗議した。
 「私は我慢ならず、彼とヒトラーの考え方には大差ないと直言せずにはいられなかった」
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 マドゥシュリー・ムカージー(インド人作家) 「彼がよく批判されるのは、ドイツ市民に対する爆撃についてだが、ベンガル飢饉でこれだけ多くの犠牲者が出たことついて直接の責任を問われたことはまったくない。しかし、これこそがチャーチル最大の汚点だと思う」(『チャーチルの秘密の戦争』)
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 2010年9月11日 AFP BB NEWS「チャーチルのインド人嫌悪、歴史的飢饉の原因に 印新刊が告発  発信地:ニューデリー/インド
 【9月11日 AFP】第2次世界大戦中の英首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)が、インド人に対する人種的嫌悪感から、飢饉にあえぐインドへの援助を拒み、数百万人を餓死に追いやったと主張する本が出版された。
 第2次大戦中、日本軍がインドへのコメの主要輸出国だった隣国ビルマを占領した後も、英国人が支配する植民地総督府は、兵士や軍需労働者にしか備蓄食糧を開放しなかった。パニック買いでコメ価格は高騰。また日本軍が侵入した場合に植民地内の輸送船や牛車が敵の手に渡ることを恐れた総督府は、これらを押収したり破壊したりしたため、流通網も破壊された。
 こうして1943年、「人為的」に起きたベンガル飢饉では300万人が餓死し、英植民地インドにおける暗黒の歴史となっている。インド人作家マドゥシュリー・ムカージー(Madhusree Mukerjee)氏(49)は最新刊『Churchill's Secret War』(チャーチルの秘密の戦争)で、この大飢饉の直接的な責任はチャーチルにあることを示す新たな証拠を暴いたと語る。
 ■度重なる支援要請を拒否
 第2次大戦の英政府の閣議記録や埋もれていた官庁記録、個人的なアーカイブなどを分析した結果、当時、オーストラリアからインド経由で地中海地域へ向かう航路の船は輸出用のコメを満載していた。しかし、チャーチルは緊急食糧支援の要請をことごとく拒否し続けたという。
 ムカージー氏は「チャーチルに対策が無かったわけではない。インドへの援助は何度も話にあがったが、チャートルと側近たちがその都度、阻止していたのだ」と指摘する。「米国とオーストラリアが援助を申し出ても、戦時下の英政府がそのための船を空けたがらなかった。米政府は自国の船で穀物を送るとまで申し出たのに、英政府はそれにも反応しなかった」
 ■強烈なインド人嫌悪
 チャーチルはインド人を蔑む言葉をよく口にしたという。チャーチル内閣のレオ・アメリー(Leo Amery)インド担当相に対して、「インド人は嫌いだ。野蛮な地域に住む汚らわしい人間たちだ」と述べ、またあるときは、飢饉はインド人自らが引き起こしたもので、「ウサギのように繁殖するからだ」とののしった。
 特にインド独立運動の指導者マハトマ・ガンジー(Mahatma Gandhi)について「半裸の聖者を気取った弁護士」だと愚弄(ぐろう)し、援助を求める総督府の英高官らに対し、「なぜガンジーはまだ死んでいないのか」などと返答したという。
 ナチス・ドイツと戦う指導者として歴史に名が残るチャーチルだが、アメリー担当相はチャーチルのあまりの暴言に、ある時ついに「首相とヒトラーの考え方に大きな違いがあるとは思えない」と直言したこともあった。
 ■インド史から消された災厄
 チャーチルの伝記はこれまでに数え切れないほど執筆されているが、ムカージー氏の新刊は新情報を発掘したという意味で画期的な成果だと、著名な歴史ジャーナリストのマックス・ヘイスティングス(Max Hastings)やインドの作家たちが称賛している。
 ムカージー氏は「チャーチルを攻撃しようと思って調査し始めたわけではない。ベンガル飢饉について調べていくうちに徐々に、チャーチルが飢饉で果たした役割が浮かび上がってきた」と言う。
 現在はドイツ人の夫とともに独フランクフルト(Frankfurt)に在住しているインド出身のムカージー氏は、ベンガル飢饉については小学校の教師からも両親からも習ったことはなく、インドの歴史からも消去されてきたと批判する。それは「インド社会の中流に、罪の意識があるからだ。彼らは(総督府下で)仕事に就いていたから、つまり配給を割り当てられていた。けれど田舎の人間はいなくなっても構わないとみなされたのだ」
 7年の歳月をかけて執筆したムカージー氏は、インド奥地の村々に散るベンガル飢饉の生存者から生々しい話を取材で聞くにつれ、チャーチルに対する強烈な批判意識が生じたという。「彼がよく批判されるのは、ドイツ市民に対する爆撃についてだが、ベンガル飢饉でこれだけ多くの犠牲者が出たことついて直接の責任を問われたことはまったくない。しかし、これこそがチャーチル最大の汚点だと思う」(c)AFP/Ben Sheppard
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 ウィキペディア
 アマルティア・センベンガル語:??????? ???、ヒンディー語:??????? ???、英語:Amartya Sen、1933年11月3日 - )は、インドの経済学者。哲学、政治学倫理学社会学にも影響を与えている。アジア初のノーベル経済学賞受賞者。1994年アメリカ経済学会会長。
 ベンガルで生まれ、9歳の時に、200万人を超える餓死者を出した1943年のベンガル大飢饉でセンの通う小学校に飢餓で狂った人が入り込み衝撃を受ける。またこの頃、ヒンズー教徒とイスラム教徒の激しい抗争で多数の死者も出た。これらの記憶や、インドはなぜ貧しいのかという疑問から経済学者となる決心をしたと言われる。無神論者。
 功績
 飢饉の分析
 彼の著書で示されている、飢饉が食料不足から起こるだけではなく、不平等からも起こるという指摘は、食物を分配するためのメカニズムを基にしている。彼は、1943年にベンガルに飢饉が起こったとき、価格が上昇し、食物を入手するための通貨がイギリス軍による獲得、パニック購入、貯蔵、およびぼったくり(その領域の戦争に関連づけられたすべて)を含む要素のため急速に無くなったこと、田舎の肉体労働者と都市のサービス提供者を含む人々の適切な食物供給量が有ったことをデータに提示した。例えば、ベンガルでは飢饉の前よりも食糧生産量があった。多くの社会的経済の要素として減退する賃金や、失業や、上昇する食品価格や、不十分な食品流通などのこれらの問題はあるグループ社会で飢餓につながった。ベンガル飢饉では、食物を買う田舎の労働者のネガティブな状態は民主主義の影響を受けなかった。彼らには社会参加の権限がなく、飢えや滋養の機能、病的状態から逃れることが出来なかった。
 一方、センは1943年以降インドでは壊滅的な大飢饉が起こっていないことを指摘している。独立に伴って自由なメディアと民主主義が整備されたことによって、飢餓で最も影響を受ける貧しい人々の声が政府に届きやすくなり、一方で野党やメディアの批判にさらされる民主主義下の政府には彼らの声を聞くというインセンティブが発生するために食糧供給や雇用確保などの政策を行い、飢饉は回避されるとした。センは同時期の中国の大躍進時の大飢饉や、その他の権威主義的な政権のもとでの各国の大飢饉と比較し、飢饉は自然災害などの現象の影響よりも、飢えを回避するために行動しようという政府が欠如していることの影響がより大きいとしている。」
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 イギリス東インド会社が支配するようになって、インド人は重い税負担に苦しんだ。また、インド農民に小麦など食糧をつくるべき畑で、綿花や綿布の染料に使う藍や、アヘンの原料となるケシなどの栽培を強制した。綿花は特定の一次商品を宗主国イギリスに輸出し、完成消費財を輸入するという経済構造に変質したため、従来の自給型農業が決定的な変化を被った。その結果、田畑の減少や失業者の増加により、飢饉に際して多くの犠牲者を出す地域が現れた。インド各地域で飢餓がおこっても、イギリス政府は、まともに救済はしなかった。一部の関係者は、トマス・ロバート・マルサス理論を主張し、飢饉は人口抑制のために自然の方法であることを主張した。1770年のベンガル飢饉で死者約1000万人。1800年 - 1825年大飢饉5回 死者約100万人。1826年 - 1850年大飢饉2回 死者約40万人。1851年 - 1875年 大飢饉6回 死者約500万人。1876年 - 1900年大飢饉18回 死者約1600万人。1943年ベンガル飢饉で死者約300万人。イギリスによる過酷な植民地統治時代に頻発した飢饉の死者数は推計で5000万人を越える。
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貧困と飢饉

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