♚:37─5─昭和天皇とインド。インド独立の英雄チャンドラ・ボースとA級戦犯・靖国神社。パキスタン地震と自衛隊。1989年〜No.232  @         

日本とインド 交流の歴史 (三省堂選書)

日本とインド 交流の歴史 (三省堂選書)

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗ 
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 昭和天皇と軍国日本は、アジアに夜明けをもたらす希望の星・希望の光であった。
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 韓国・北朝鮮中国共産党政府、アメリカなどの諸外国は、インド独立に貢献した東条英機A級戦犯達が祀られている靖国神社を完全否定している。
 靖国神社は、アジアの独立と深い関係にある。
 靖国神社を否定する事は、アジアの独立を否定する事である。
 韓国・北朝鮮そして中国共産党政府は、靖国神社を否定する事によってアジアの独立を否定している。
 つまり。韓国・北朝鮮そして中国共産党政府は、植民地支配を肯定する植民地主義者である。
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 日本は、古代から、中国や朝鮮よりもインドに親近感を持ち、中国や朝鮮以上に信用し、中国や朝鮮よりもインドに憧れていた。
 日本人は、孔子よりも釈迦を愛し尊敬していた。
 日本人は、中国人や朝鮮人よりインド人と友人として付き合いたいと思っていた。
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 1989(昭和64・平成元)年1月 インドは、昭和天皇陛下崩御の際、昭和天皇と日本軍への感謝を込めて政府関係の庁舎や国会などいたるところに3日〜1週間にわたり半旗が掲げた。
 韓国世論は、暗殺に失敗した昭和天皇の大葬の礼に大統領が出席する事に猛反対した。
 ユダヤ人も、ヒトラーと同盟を結んだ昭和天皇の大葬の礼に首相が出席する事に反対した。
 誰も、昭和天皇の功績を認めない。
昭和天皇崩御の際、国を挙げて喪に服したのは親日国家であるインドとカストロ議長のキューバの二ヵ国のみである。
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 1998年1月20日 S・S・ヤダバ大尉(インド国民軍全国在郷軍人会代表)「我々インド国民軍将兵は、インドを解放する為に共に戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対して最も深甚なる敬意を表します。インド国民は大義の為に命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代に到るまで決して忘れません。我々はこの勇士達の霊を慰め、ご冥福をお祈り申し上げます」(靖国神社にて)
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 2004年 チャンドラ・ボーズを題材とした「ネタジ・チャンドラ・ボーズ 忘れられた英雄」という映画が公開され、大ヒットした。
 この映画で、A級戦犯東条英機はインドの独立に共感し協力してくれた恩人として描かれた。
 ヒトラーは、白人至上主義者としてインド人への人種差別を隠さず、イギリスと戦争していてもイギリスのインド植民地支配を肯定し、インド独立独立運動を白人に対する反逆行為として支援する気はなかった、と描いている。
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 2005年 パキスタン地震ムシャラフ大統領は、被災地を視察し、救援活動を行っている自衛隊に感謝の言葉を述べた。
 「日本の支援ありがとう、君達は素晴らしい活動をしていると聞いている。日本人、特に軍人が来てくれた事をたいへん感謝している。私をはじめ、パキスタン人は日本に特別の思い入れがあるとともに、偉大な国であり、尊敬しています」
 インド人やパキスタン人は、軍国日本とA級戦犯東條英機がイギリスからの独立を支持し、英印独立戦争の為に無謀なインパール作戦を強行し多くの戦死者を出した日本軍人への感謝の念が強かった。
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 2006年3月19日 カルカッタチャンドラ・ボース記念館で、「東條英機に感謝する夕べ」が催された。
 インドでは、A級戦犯東條英機はインド独立に最も協力してくれた日本人として、恩人として感謝されている。
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 クリシュナ・ボース(ボースの姪)「日本の人々がボースの活躍を覚えていてくれるのなら私たちインド人も、ボースがイギリスの植民地支配に抵抗する為にインド国民軍を組織した事を支援したのが、日本だった事を思い出すべきだ」
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 2014年6月22日 産経ニュース「【子供たちに伝えたい日本人の近現代史
(63)インパールも悲惨な退却 ゾウや牛による「補給」かなわず
 昭和18(1943)年11月5日、東京で大東亜会議が開かれた。日本の呼びかけで、大東亜戦争勝利のためアジア各国の団結を目指すものだった。中で話題となったのは、中国南京政府ビルマ(現ミャンマー)、フィリピンなどの首脳に加え、自由インド仮政府チャンドラ・ボース首班がかけつけたことだった。
 インド独立運動家のボースは10月、日本軍が英軍を追いやったシンガポールで、仮政府の樹立を宣言、日本に強い信頼を寄せていた。ボースは奇抜な行動も多く批判も多かったが、独立にかけるいちずな情熱は、会議を主宰する東条英機首相や日本国民に感銘を与えた。だがそれは、悲惨な結末に終わる「インパール作戦」の呼び水ともなったのだ。
 日本軍は昭和17年5月までに、英領インドに併合されていたビルマから英軍を放逐、占領した。目的はインド東北部のアッサム地方からビルマ北部を経由して中国雲南省に向かう米英の援蒋ルート、つまり日本と戦う蒋介石の国民党政府を支援する道を遮断することにあった。
 だがインドの英軍は北の国境から反撃の機会をうかがっていた。そこで日本側に浮上したのが、逆に国境に近いインドのインパールからアッサムまで攻略する作戦である。ビルマの守りを安泰にさせるうえ、インド独立運動を活発化させ、英軍をインドにくぎ付けできると考えたからだ。
 とはいえこの地域の制空権は確保されていない。しかも峻険(しゅんけん)な国境の山や川を越さねばならず、武器や食料の補給に難がある。このため反対論も強く、いったん立ち消えとなった。だが18年3月、ビルマ方面軍が新設され、その下の第十五軍司令官になった牟田口廉也中将は熱心にその必要性を唱えた。問題の補給については、ゾウや牛に荷物を運ばせ、食料が尽きたらそれを食べるとした。
 9月には陸軍参謀本部もアッサムまでは認めないが、インパール攻略の準備を許可した。参謀総長を兼ねていた東条も、大東亜会議でボースが、インパールでの「共闘」を熱心に申し入れたこともあって受け入れ、正式に作戦の実行が決まった。攻撃に当たったのは十五軍麾下(きか)の第三十三、三十一、十五の各師団である。
 三十三師団は19年3月8日、比較的補給も容易な東側のコースを北上し始める。三十一師団は1週間遅れて、北側から国境を越えインパールの北約100キロのコヒマを占領、英軍の補給を断ちながら十五師団とともに南下する。つまりインパールを南北から挟み撃ちする作戦だった。
 しかし実際に攻撃を始めると、英印軍の屈強な抵抗に全滅の危惧を感じた三十三師団の柳田元三師団長は、しばしば攻撃を中断させた。牟田口軍司令官に作戦の中止を具申するほどだった。
 三十一師団は4月6日には首尾よくコヒマを落としたが、その後南下をはばまれ、十五師団もコヒマとインパールの間で孤立してしまう。しかも両師団とも心配された補給不足に直面する。牛のほとんどはチンドウィン川を渡ることができなかったという。
 特に食料不足で戦闘意欲を失っていく兵たちを見た三十一師団の佐藤幸徳師団長は6月3日、独断で退却を開始した。
 これに対し牟田口軍司令官は病気の山内正文第十五師団長を含め3師団長を相次いで更迭し、攻撃続行を命じる異常事態になった。河辺正三ビルマ方面軍司令官も「日印両国の運命がかかっている」と叱咤(しった)したが、補給不足は打開しようもなく7月9日、最終的に撤退を命令した。
 しかし英印軍の追討や食料不足などで、退却戦は容易ではなかった。約3万人に上った戦死・戦病死者の大半は退却中に栄養失調やマラリア赤痢などで倒れたといわれ、この大戦中最も悲惨な戦場となった。
 補給を無視した牟田口の「突撃主義」の破綻だったが、牟田口一人のせいでもなかった。敗色濃いこの時期、日本軍全体を覆っている問題だった。(皿木喜久)
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【用語解説】インパール作戦とインド独立
 インドは1858年以来英国の植民地となった。英国はマレー、シンガポールインパールなどで本国から派遣された師団にインド兵を組み込んだ英印軍を編成、日本軍と戦わせた。これに対しチャンドラ・ボースインド国民軍インパールでは日本軍とともに英印軍と戦ったが、さほど戦果を残せなかった。
 しかし日本が敗退後、英国がこの国民軍の兵士を拘束、裁判にかけたことからインド中に反英・独立運動が激化する。日本やドイツとの戦争で疲弊した英国にもはやこれを抑える力はなく、独立を認めざるを得ず、「独立を30年早めた」とも言われる」
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 2014年10月20日 産経ニュース「第二次大戦インパール作戦で激突 日英の元兵士ら24日靖国参拝
 【ロンドン=内藤泰朗】第二次大戦後期のインパール作戦で日本軍と戦った元英軍兵士らが21日、初めて日本を訪れ、かつての敵である元旧日本軍兵士らと靖国神社を参拝し、双方の戦没者を慰霊する。一行には、激戦の舞台となったインドの映画監督ウタパル・ボルプジャリ氏が同行し、日英印をまたいだ和解の歩みを映像として記録する。
 訪日するのは、インパール作戦の激戦地だったインド北東部コヒマでの戦いに加わった、英退役軍人のロイ・ウェランドさん(93)=英南東部コルチェスター在住=と、現地で英第2師団を指揮したジョン・グローバー少将の家族など英軍関係者ら4人。
 一行は、コヒマの戦いから生還した元日本兵の浦山泰二さん(92)と22日に東京で面会。24日に浦山さんと靖国神社千鳥ケ淵戦没者墓苑を訪れるほか、捕虜として日本で亡くなった英連邦の戦死者墓地(横浜市保土ケ谷区)で献花する。
 さらに、日本陸軍31師団(烈師団)を率いた佐藤幸徳中将の出身地である山形県庄内町を訪問し交流を深める予定だ。同町の代表団は昨年11月に英国を訪問し、日本軍と戦った英軍部隊の関係者らの歓待を受けた。
 ボルプジャリ監督は、インパール作戦インド国民軍を率いたインド独立運動家のチャンドラ・ボースの遺骨がある東京都杉並区の蓮光寺なども取材する。
 1944年5月、コヒマでの戦闘で負傷し1カ月ほど入院した経験があるウェランドさんは訪日を前に、妻のルース・スミスさんを通じ「敵としてでなく日本に行けるのは幸せだ。私たちは未来の世代のために、友人になることができるのではないか」と語った。
 浦山さんの長女で、元英兵たちの初訪日を実現させた英国在住のマクドナルド昭子さん(63)は、「英軍人たちは、今回の靖国神社参拝の意味を理解している。日本と英国、インドは、教育や交流を通じて悲惨な過去を前向きで建設的な関係に発展させることができる」と強調している。
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 2015年9月19日 産経ニュース「インド独立の英雄、チャンドラ・ボーズ「生存説」が再燃 インド・州政府が機密文書開示
 インド独立の英雄で民族運動指導者のスバス・チャンドラ・ボースに関連する機密文書64点をインド東部の西ベンガル州政府が開示した。ボースは1945年8月に台北で飛行機事故により死亡したとされるが、根強い人気から疑問視する声もあり「生存説」論争が再燃しそうだ。インド各紙が18日伝えた。
 文書には、49年にボースの親族が書いた手紙に「ボースが会話を望んでいる」との奇妙なラジオ放送を聞いたとの記述があったり、「46年にボースが生きているとの情報を聞いた」とするスイス人記者の記述が含まれていたりしたという。
 西ベンガル州のバナジー州首相は「45年8月以降も生きていたことを示唆している」と述べ、地元紙などが大きく報じた。
 ボースは1897年生まれ。インド独立闘争で急進路線を取り、穏健派のマハトマ・ガンジーらと対立した。インドでの人気は高く、同国では生死をめぐる論争が絶えない。(共同)」
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 2016年2月19日 産経ニュース「印独立運動チャンドラ・ボースの「ソ連亡命」を日本が終戦直前に容認 
  【ロンドン=岡部伸】第二次大戦中、日本の支援を受けて英国軍と戦い、終戦直後に台湾で事故死したとされるインド独立運動の英雄、スバス・チャンドラ・ボースに対し、日本が終戦のわずか3カ月前に、ソ連に亡命することを認めていた事実が最新の研究で明らかになった。戦局が敗色濃厚となる中、日本は反英独立闘争の継続を呼びかけるボースの意思を尊重して決断したものとみられる。
 ボースの弟サラの孫息子である在英インド系英国人で、英BBC記者や米CNNインド特派員を務めたアシス・レイ氏(64)が25年間、インドや英国、台湾などで関係者から聴取し、公文書館から機密文書を入手して判明した。
 英秘密情報部(MI6)が1945年8月に作成した「ボースの最後の動き」(WO208/3812、英国立公文書館所蔵)によると、ボースは45年5月、自由インド仮政府を中国・延安に移し、中国共産党の力を借りてシベリアのソ連当局と接触することをバンコクで検討した。日本が敗れると、米英に訴追される恐れがあったためだ。
 56年にインド政府が実施した調査報告書(インド国防省所蔵)によると、ボースは米英との新たな角逐が想定されたソ連へ渡り、独立闘争を継続することを決意、ソ連国境に近い旧満州(現中国東北部)行きを望んだ。日本は当初、この案に後ろ向きだった。
 しかし、日本の対英インド独立工作責任者、磯田三郎中将の証言によると、ボースが日本との友好関係を継続する意思を表明したことで、日本政府と大本営がボースの「ソ連亡命」を認めたという。日本がポツダム宣言を受諾する3カ月前の5月中旬頃だった。
 磯田氏はボースに「最大限の支援」を約束、ボースが東京に行き、日本の支援に謝意を伝えた後、満州に渡ってソ連に投降する計画を立案。陸軍のソ連通で、ビルマ方面軍参謀長から大連の関東軍総参謀副長に転出する四手井(しでい)綱正中将にボースを同行させてソ連と交渉させる予定だった。
 しかし、日本軍機に乗ったボースは終戦3日後の8月18日、台北から離陸する直前、事故に遭い死亡したという。
 一方、インドでは、ボースへの根強い人気から事故死を疑問視する声がある。だが、ロシア外務省が調査した結果、ボースが45年以降、ソ連に入国、滞在していないことも判明した。
 レイ氏は「日本がソ連亡命を認めたのは、独立闘争支援を優先させた日本の配慮の表れで、連絡担当だった磯田氏の功績が大きい。日本がインドの解放と独立のために戦ったことは間違いない」と話している。
 ■スバス・チャンドラ・ボース 1897年、インド・オリッサ州の弁護士の家に生まれる。英ケンブリッジ大留学後、マハトマ・ガンジーの反英闘争に参加。国民会議派議長を務めたが、ガンジーらと対立。1941年に軟禁中のコルカタの自宅を脱出しドイツでヒトラーと会談。43年には潜水艦を乗り継いで来日し東条英機政権の後押しで自由インド仮政府を樹立。インド国民軍を率いて日本軍とインパール作戦で英軍と戦った。敗戦後も独立闘争の継続を決意したが、45年8月18日、台北で事故死した。48歳だった。遺骨は東京都杉並区の蓮光寺に保管されている。」
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 2017年4月20日 産経ニュース「【ガンジスのほとりで】中印紛争地で見た日本製ライフル銃6・5MM
 インド北東部アルナチャルプラデシュ州に取材に出掛けた際、1962年の中印国境紛争で戦死したインド軍人を弔う「タワン戦争記念館」で興味深い展示を見つけた。
 「日本製ライフル銃6・5MM」との説明書きがされた2丁の銃が壁に掛けられていたのだ。インド軍高官によれば、「日本から提供され、紛争時にインド軍が使用していたものだ」という。形状からして、日本軍が第二次大戦中などに使用していた口径6・5ミリの三八式歩兵銃とみられる。
 関係者は「大戦中にチャンドラ・ボース率いるインド国民軍に渡されたのかもしれない」と指摘するが、「提供」ではなく、「インパール作戦中に英統治下のインド軍が回収した可能性もある」と推測する。インド軍高官に聞いても、詳しい入手経路は分からなかったが、いずれにしても日本軍が大戦中に使用していた銃をインド軍が大切に保管していて、対中国戦に利用していたのなら面白い。
 日本の支援を受け、インドの英国からの独立を目指したボースは、日本側の記録では、終戦直後に台湾で事故死したとされるものの、インドではボースは死なず、他国へ渡ったと信じている人もいる。まるで「義経伝説」だが、こちらも結論は出ていない。(岩田智雄)」
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 11月9日 産経ニュース「【ロンドンの甃】在英インド高等弁務官の「インドの独立は、英国が日本に勝ったおかげ」発言に鼻白む 
 冷や水を浴びせられた思いがした。インド独立の英雄、チャンドラ・ボースシンガポールに「自由インド仮政府」を樹立して74年にあたる10月、ロンドンのホテルでボースの娘、アニタ・ボース・プファフさんが開いたパーティーで在英インド高等弁務官が「独立は英国が日本に勝って成し遂げられた。ボースの評価が定まらないのは帝国主義、日本と組んだから」と発言したのを耳にしたからだ。
 インド国民軍を指揮して日本軍とともにインパール作戦を戦ったボースは終戦直後、台北で不運な事故でこの世を去った。英国は戦後、インド国民軍を反逆罪で処罰しようとしたが、国民が蜂起して大暴動に発展し、英国は統治権を返還した。インド国民軍の活動が「間接的に300年の植民地支配を終わらせた」とされ、初代インド首相のネール氏も「独立は日本のおかげで30年早まった。この恩は忘れてはならない」と述べている。
 くだんの高等弁務官は駐在する旧宗主国に配慮したのだろうか。英国の歴史観に基づき発言したようだった。
 アニタさんは来年早々、インドのモディ首相に会い、東京・杉並の蓮光寺に眠る父の遺骨を祖国に持ち帰る計画を進めている。しかし、肝心のインド政府の歴史認識が異なれば、日本人として協力する気がうせてくる気がしてならない。(岡部伸)」
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日本を救うインド人 (講談社+α新書)

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日本の危機!中国の危うさ!!―日本とインドの強い絆と可能性

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