🎺43:─2─ヤルタ極東密約。ルーズベルトはスターリンに、日本人の生殺与奪の権を与えた。1945年2月 ~No.200 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ヤルタ密約に於ける日本条項は、日本分断国家約束であった。
 日本は、ドイツ同様に、分断され、解体された。
   ・   ・   ・   
 ロシアは、旧ソ連アメリカと交わしたヤルタ密約を根拠に、北方領土の不法武力強奪と、民間の日本人避難民(女性や子供)の大虐殺を正当化している。
 国際法など如何なる国際的法律や条約に於いても、大国ロシアが行った非人道的な民間人(女性や子供)の大虐殺は罪には問われる事はない。
 敗戦国日本は、女性や子供の自国民がロシア人に大虐殺されても、抗議はできず、ただ泣き寝入りるしかない。
 国際法で裁いた戦争犯罪国家日本がロシア人によって無慈悲に大虐殺をされても、同情し擁護してくれる国も地域もなく、国連さえ冷たく見放している。
 それが、国際正義の真の姿である。
   ・   ・   ・   
 隣組の御上さん達は、特高憲兵隊の厳しい監視に隠れて、「日本は負けている」と囁き合っていた。
 徹底抗戦を主張する軍部とは違って、市井では厭戦気分が広がり始めていた。
   ・   ・   ・   
 2月 広田弘毅東條英機ら首相経験者と牧野伸顕重臣等は、今後の事について意見を奏上した。
 広田弘毅は、ソ連との中立条約を維持する事は必要であると。
 東條英機は、「ソ連の抱き込みも今日まで成功しおらず」と奏上し、昭和天皇からソ連の対日参戦の可能性を下問されて「五分と思考する」と奉答した。
 昭和天皇は、皇統を絶やす危険と国益を損なう「無条件降伏」による終戦工作を拒否し、軍部の示した最後の一撃戦を積極的に支持した。
 昭和天皇「帝国がもう一度軍事的成果を得ない限り、極めて困難となるであろう」
 高松宮や木戸内大臣ら宮廷は、戦争が負ける事を薄々感じ取り、敗戦から皇室を救うべく終戦工作を始めた。
 日本の大本営は、昭和天皇の命を受けて、非公式にフィリピンのマッカーサー将軍に対して、国體護持などの有条件降伏を申し込む報告書を提出した。
 日本外務省条約局は、戦争を終結する為に連合国の情報を仕入れて報告書を提出した。
 日本の和平派は、国體護持の為に、ルーズベルト大統領ら反日強硬派ではなくグルー国務次官ら知日派を利用すべきであると確信していた。
 ルーズベルトは、原爆の完成が間近という報告を得ていただけに、天皇制度を残して無条件降伏申し込み書への署名を拒否した。
 アメリカ世論は、昭和天皇に対して死刑などの厳罰を要求し、グルーら知日派を宥和主義者と批判した。
   ・   ・   ・   
 シカゴ・トリビューン紙のO・ドワイヤー記者「ヤルタ会談のあいだ、大統領は椅子に腰掛けているものの、しばしば数秒から数分のあいだは意識を失っていた。チャーチルスターリンに会っていて、かつアメリカにとって最も重要な会議を開催しているときに一定の間隔でこの状態が発生していた」
 ニューヨーク・タイムズ紙のターナー・カトレッジ記者「(ルーズベルトは)目はうつろ、口はだらりと開き、言葉は途中で口をぽっかり開けて黙り込んだ」
 ルーズベルトの、健康は最悪であり、精神状態も普通ではなく、本来であれば重要な国際会議に参加できる状態ではなかった。
 正常な判断能力を失たルーズベルトの下で、議事進行を仕切り、全ての文書を管理していたのが、ソ連軍情報局(GRU)の工作員であったアルジャー・ヒスであった。
 国務省の一幹部にすぎないアルジャー・ヒスに会議を委せたのは、ルーズベルトの側近ハリー・ホプキンスであった。
 アメリカ代表団で外交能力が高かったのはアヴェレル・ハリマンであった。
 北海道東半分・北方領土・千島列島をソ連に割譲する事と中国を共産化する密約を認めたのは、ルーズベルトではなくホプキンスであった。
 アルジャー・ヒスは、ソ連が最大の利益を得られるようにヤルタ会議を進行させた。
 スタントン・エヴァンス「ヴェノナ文書などを総合すれば、アメリカ政府に侵入し、その機密を盗み、その政策を歪めようとする共産主義者の執拗な動きがあったことはほぼ確実である」
   ・   ・   ・   
 マッカーサーは、日本側の和平提案を含む覚書をルーズベルトに送った。
 ルーズベルトは、日本側の和平提案を拒否した。 
   ・   ・   ・   
 ヤルタ会議において、ドイツ敗戦後3ヶ月後にソ連が対日参戦する事も、北方領土を含む千島列島と南樺太ソ連に引き渡す事など、極東に関する件が正式に議論あれたわけではなく、当然、極東密約が会議で決められたわけではなかった。
 2月4日 ヤルタ会談ルーズベルトは、大統領選挙に当選する為に外交成果を得るべく、大西洋憲章に謳った原則を大幅に破り、スターリンに譲歩して言われるままに要求を受け入れて密約を交わした。
 国際条約と国際信義を踏みにじる極東密約のヤルタ議定書は、絶対非公開の極秘文書として厳重に保管された。
 ルーズベルトは、戦後戦略として、アメリカ・イギリス・ソ連・中国を加えた「4人の警察官」構想を打ち出した。
 そこには、日本は存在しない。日本を解体し、絶海の孤島に押し込め農業国として弱体化させ、今後は三等国として再出発させるというものであった。
 ソ連は、ヤルタ会議で対日戦への参戦を約束し、見返りとして日本領の一部を自国領とする事を認めさせた。世に知られた、日本分割案である。
 ルーズベルト「日本との本土決戦に関わる米兵士の損害を考えるならば、安い買い物だった」
 アメリカ軍とイギリス軍は、ドイツ侵攻を目の前にして、どちらが先にベルリンに侵攻するかで対立して進撃は停まった。
 ソ連軍は、アメリカから大量のトラックを供与され、甚大な犠牲を出しながら猛スピードでベルリンへ進撃した。
 ドイツ軍は、殺戮、略奪、強姦を行いながら進撃してくるソ連軍を阻止する為に、大軍を西部戦線から東部戦線に投入した。 
 ドレスデン爆撃により、13万5,000人が犠牲となる。
 スチムソン「恐るべき事だ。必要だったのか」
 ソ連は、ヤルタ会談における「対日参戦」という密約を利用し、日本占領分割を有利にするべく、クズマ・N・デレビヤンコ陸軍少将を団長とする軍事使節団をマニラに派遣した。
 日本が必死になってソ連を通じて講和を望んでいる事は、軍情報部は掴みワシントンはもちろん前線の各司令部に報告していた。
 マニラのアメリカ太平洋陸軍総司令部は、日本国内の悲惨な情報を得ていた為に、ソ連の参戦がなくとも、封鎖を続ければ、本年暮れか来年春には日本は降伏すると分析していた。
 現場の武官・制服組は、ソ連の狙いが日本を含むアジアの共産主義化であると警戒し、ワシントンの文官・背広組の無分別を疑い苛立った。
 2月7日 米ソ軍事派遣団会議。
   ・   ・   ・   
 ルーズベルトは、スターリンと、対日戦参戦への確約と国際連合参加への見返りとして密約を交わした。
 国際法上合法的な「日ソ中立条約」は、大国の意向で破棄される事が決まった。
 ルーズベルトの提示案。領土の割譲として、日本領である北海道の半分、北方領土を含む千島列島、南樺太など。スターリンは、本州への領土拡大を狙っていた。
 スターリン「我が国の犠牲者はすでに2,000万人を超えている。日本とは平和状態にある。なのに日本を攻めるとなれば、それなりの理由が必要だ。日露戦争で失ったものを回復するという理由なら、国民も納得するでしょう」
 アメリカとソ連は、日本を分割する事で合意した。
 軍事資金援助として、115億ドル。
 トラック40万台、ジープ6万台、戦車7,000台、航空機1万5,000機。
 70箇師団分(約160万人)の装備と武器弾薬。
 戦後、アメリカから供与された軍需物資の大半が中国共産党に引き渡された。
 ポーランドヨハネ・パウロ2世は、1978年にヤルタ密約を「現代の道徳破壊の象徴」と厳しく非難した。
 ローマ教皇の声明に対して、日本政府は沈黙を守った。
   ・   ・   ・   
 チャーチル「極東問題は、ヤルタにおける正式の討議においては、何ら触れられなかった」(『第二次世界大戦回顧録』)
   ・   ・   ・   
 ヤルタ会談とは、スターリンのインテリジェンス(諜報)の勝利であった。
 ハリマンは、国際法で認められた日本領である北方領土を含む全千島列島をスターリンに引き渡す事は好ましくないと、ルーズベルトに再考を促した。
 ルーズベルトは、「ロシアが対日戦の助っ人になってくれる大きな利益に比べれば、千島は小さな問題だ」として、ハリマンや国務省の提言を退けた。
 スターリンは、ワシントンに送り込んでいた200人以上のコミンテルンのスパイや情報提供者からの報告で、ホワイト・ハウスや国務省の動向を全て把握していた。
 NKVD(内務人民委員部、後のKGB=国家保安警察)長官ベリヤは、アメリカとイギリスの両代表団の宿舎に盗聴器を仕掛、ルーズベルトチャーチルらの会話を盗聴録音し、盗聴記録をスターリンに報告していた。
 スターリンは、盗聴によるルーズベルトの発言とワシントンからの報告で、アメリカは日本領土である南樺太北方領土を含む全千島列島をソ連に差し出す事を会談前に知っていた。
 そして、最高機密情報である大統領の健康情報を入手し、ルーズベルトのアルヴァレス病は悪化し、体力・気力ともに萎え、集中力に欠け正常な政治判断ができない状態にある事も知っていた。
 ルーズベルトの側近中の側近であるアルジャー・ヒス国務長官主席顧問は、ソ連参謀本部情報総局(GRU)のスパイであり、日本に潜入していたゾルゲより大物であった。
 ヒス等は、冷静な判断能力を欠く重病のルーズベルトに歪曲した情報のみを伝え、スターリンにの意向に沿うように会談を進め、ソ連に有利なような協定草案を作成した。
 草案には、スターリンの要望を取り入れて、ソ連の要求は「軍国日本の降伏後に異論なく完全に達成される」との文言が書き加えられた。
 スターリンは、北方領土だけではなく北海道の一部をも手に入れ、あわよくば日本を共産主義化してソ連の衛星国に組み込んで支配する野望を抱いた。
 日本に関するヤルタ協定は、戦勝国による報復的日本解体に過ぎなかった。
 アメリカは、ヤルタ秘密軍事議定書で、アメリカ人青年の犠牲者を少なくして対日戦争に勝つという目的の為に、日本に北方領土領有の歴史的正当性を十分認識しながら日本から強奪してソ連に与えた。
   ・   ・   ・   
 毛沢東は、スターリンヤルタ会談で対日戦参戦を密約した事により、日本軍との蜜月関係を破棄して南京の汪兆銘政権への攻撃を強め、国民党との内戦に備えてアメリカとの友好関係も距離を置いた。
 中国は謀略国家として、指導者が基本方針を変更するや一瞬にして全てが変わり、昨日まで味方が今や敵となる。
 中国人の豹変ぶりは、天才的である。
   ・   ・   ・    
 1952年 アメリカ上院は、サンフランシスコ講和条約の批准に当たって、付帯決議として、ヤルタ会議で国際法の手続きに則って成立していない極東密約を否決して無効とした。
 ソ連北方領土軍事占領は、不法行為、犯罪行為とされた。
 1955年10月5日 ヤルタ文書スキャンダル事件。国務省は、歴史課で外交文書の編纂をしていたドナルド・ドウザー教授が、ルーズベルトにとって都合の悪い文書を公開しないようにとの命令に従わなかったとして解任した。 
 1956年 共和党上院議員で外交委員会のカール・マントは、公開された外交文書から「ヤルタ文書」というパンフレットを作成した。
 1956年 共和党アイゼンハワー政権に於ける、の国務省声明「(ヤルタ秘密軍事協定は)ルーズベルト個人の文書であり、アメリカ政府の公式文書ではなく無効」
 アメリカは、北方領土問題を作った張本人ではあるが、仲介はおろか調停する事もせず日ソ・日露における二国間の領土問題として責任を隠蔽した。
   ・   ・   ・   
 プーチン大統領「ロシアが積極的な役割を果たして達成したヤルタ合意こそ世界に平和をもたらした」
 ロシアは、日本領土であった北方領土・千島列島・南樺太の割譲と日本人捕虜のシベリヤ抑留を暗黙の了解で認めたヤルタ会談の正当性を譲らない。
 つまり。戦争犯罪と言える、60万人以上の日本人をシベリヤへ強制連行し、奴隷的重労働で6万人以上を死亡させ、共産主義革命闘士への洗脳教育を、軍国主義との戦争で合法行為と主張している。



   ・   ・   ・   



 2月 近衛文麿は、2月14日に昭和天皇に拝謁して渡す戦争終結を求めた上奏文の下書きを、湯河原の別荘で和平グループの吉田茂らと書き上げた。
 「国體護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起きることあるべき共産革命に候。つらつら思うに我国内外の情勢は、今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候」
 同時に、死を決意して、1月20日頃に青酸カリ化合物を入手していた。
 2月9日 梅津美治郎参謀長は、昭和天皇に対して、条件付きで天皇制度廃止を採択した1月6日の太平洋問題調査会の提案をアメリカ側の政策と判断する軍部の見解を伝えた。そして、昭和天皇ソ連との提携を奏上した。
 「大本営の意見では、アメリカの方針が、日本の国體を破壊し、日本を焦土にしなければ飽き足らぬのであるから絶対にアメリカとの講和は考えられない、ソビエトの後援の下に徹底抗戦して対米戦を続けなければならない」
 白人を嫌う人種差別主義者は、アングロ・サクソン民族よりもアジア人の血が混じるスラブ民族に親近感を持ち、ソ連に傾斜し共産主義を味方と信じ込もうとしていた。
 石原完爾は、対ソ強硬派として、梅津美治郎ら親ソ寄りの陸軍統制派を厳しく批判し、軍部内の隠れ共産主義者が軍国日本を破滅に導いていると嫌悪した。
 英米合同軍事会議。チャーチルは、戦争を早期に終結する為に、日本に対して無条件降伏の緩和を要求した。
 ルーズベルトは、強硬な反日派として無条件降伏の原則を堅持する事を譲らず、ヒロヒト天皇と軍国日本を滅ぼす為にソ連の参戦を希望した。
 「世界で起きている事についてまったく無知であり、いまだに満足できる譲歩が得られると考えている日本人に、その様な条件緩和を行う事が効果のあるものとは思わない。」
   ・   ・   ・   
 2月10日 参謀本部瀬島龍三は、モスクワ主張から帰国した。
 高橋照次「瀬島参謀の任務はモスクワに在る日本大使館へ、日本と米英両国との講和について、ソ連に斡旋を依頼する訓令を持って行った特使です。私共は総司令部に於いて竹田宮を初めとして密かに壮行の宴を持って、瀬島参謀の重大使命の成功を祈ってお別れしたのですが、不幸にして不成功に終わった事は皆様ご承知のとうりです」(『歩兵第十四連隊史』)
 それ以前にも、参謀本部の高級将校は頻繁にモスクワに出頭していた。
 戦後。陸軍高級将校にソ連のエージェントがいた事が判明し、その多くが敗戦と共に捕虜収容所で共産主義教育を受け、帰国して日本共産党社会党に入党して政治家になった。
   ・   ・   ・   
 2月11日 西田幾太郎は、近衛文麿高松宮と親しい細川護貞ソ連共産主義を礼賛する談話を残した。
 「将来の世界はどうしてもアメリカ的な資本主義的なものではなく、やはりソビエト的なものになるだろう。ドイツのやり方でもソビエトと大差はないし、又ソビエトでも資本主義こそ許さぬが、それ以外のものは宗教でさえも許している有様だから、結局はああいった形になるのだろう。日本本来の姿も、やはり資本主義よりも、ああいった形だと思う」
 スウェーデン駐在武官小野寺信は、ロンドンにあるポーランド亡命政府との連絡役である情報将校フェリックス・ブルジェスクウィンスキーから得たヤルタ会談情報を、「ブ情報」として大本営参謀次長秦彦三郎に打電した。
   ・   ・   ・   
 2月13日 佐藤大使は、重光葵外相に、ヤルタ会談に関する情報分析を知らせた。
 「1,三国会議公表は、従前の諸会議に比し著しく力頭く、軍事政治両方面に亘り完全に協定せるを思わしむるものなり。
 2,公表文より見れば会議は対独問題、純欧州問題に限られたり。取り扱われたる問題の範囲、量及びその重要性に鑑み、8日間の仕事としてはこれだけにて手一杯なりしなるべく、極東問題までは事実手が伸びざりしものと判断せらる。
 3,ただし、中立条約の維持は却って困難となりたるにあらずやと感ぜらる。尤もこの場合においてもソ連は現下の情勢において今直ちに対日断行乃至宣戦等に出ずるにある。
 4,三者会合は対枢軸戦時外交攻勢として、成功と言われざるを得ず。この強力なる攻勢は自然世界各国へ大なる印象を与うべく、この大勢に刃向かうこと頗(すこぶ)る困難となる」
 現実的には日本は尤も困難な状況に追い込まれていたが、人間の弱さゆえに、希望的観測で安全スパイラルに陥った。
   ・   ・   ・   
 2月14日 近衛文麿元首相は、昭和天皇に早期終戦を求める上奏文を提出し、共産主義が政府や軍部に蔓延り、敗戦と共に共産主義革命を起こす計画が進行していると警告した。
 近衛文麿は、少年期から五摂家筆頭という家柄の重圧に苦しみ、青年期にはいるや身分や階級で人が差別される社会の不条理からマルクス主義に傾倒した。社会改革を行うには革新的な社会主義しかないとして、革新官僚や左派的知識人と交わり昭和研究会を設立した。その認識の甘さが、コミンテルンに付け込まれ、国體を破壊する暴力的共産主義革命の危険を増大したと、国政を預かった身の不明を恥じ昭和天皇に謝罪した。そして、ドイツ革命の様に、敗戦から共産主義革命となり、陰謀をめぐらす共産主義者に操られて日本人同士が殺し合う内戦にならない様に、早期講和を訴えた。
 大本営は、最高戦争指導会議に『世界情報判断』を提出した。
 昭和天皇は、梅津美治郎参謀総長に早期講和を求める近衛上奏文について意見を求めた。
 梅津は、早期講和は国體の存続を危うくするとして、軍部の総意は有利な条件を引き出すまで徹底抗戦すべきであると答えた。
 他の重臣ら(東條英機広田弘毅平沼騏一郎若槻礼次郎牧野伸顕岡田啓介)も、軍部の抗戦論を支持し。
 近衛上奏文「少壮軍人の多数はわが国體と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、……
 最も憂うべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候。
 つらつら思うに我国内外の情勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存候。
 特に憂慮すべきは、軍内部一味の革新運動に有之候。共産分子は国體と共産主義の両立論を以て、彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。
 彼等の主張の背後に潜める意図を充分に看取するに能わざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。
 敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争をこれ以上継続するのは、全く共産党の手に乗るものと存候。
 此の一味を一掃し、軍部を立て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉存候。」
 全ての元凶は、暴力的共産主義革命を起こす為に右翼・右派や軍国主義者に潜り込んでいた共産主義者であると告白した。
 日本を破滅させたのは、隠れマルクス主義者であった革新官僚と転向右翼であったと。
 そして、ソ連のスパイであった尾崎秀実らの意見に従った自分の責任であると謝罪した。
 ベルン在住ポーランド外交官は、日本外交官との情報交換から「軍部上層部がソ連と手を組もうとしている」という内容を、ロンドンの亡命ポーランド政府に伝えた。
 「日本はドイツ敗戦後中立国との外交が一層重要になる。ソ連との関係がカードとして身を守る保険として重要になる。日本とソ連は結合してアングロサクソンに対抗、アジアの影響力と利害を分け合う関係に変わるかもしれない。日本の軍部では、いまだに、東京─ベルリン─モスクワで連携して解決する幻想を抱いている。ここでベルリンとは、共産党政府もしくはソ連に共感を抱く政府の事である」
   ・   ・   ・   
 2月14日 木戸幸一内大臣は、近衛上奏文を梅津美治郎参謀総長に直接渡した。
 梅津美治郎参謀総長は、近衛上奏文に関わった者の内偵を憲兵隊や中野学校に命じた。
   ・   ・   ・   
 4月15日 吉田茂は、大磯の別邸で憲兵隊によって逮捕された。
 中野学校は、自由主義吉田茂の身辺を監視する為に、永田町の本宅と大磯の別荘に諜報員を潜り込ませていた。
 憲兵隊は、近衛上奏文に関係した岩淵辰雄と殖田俊吉を逮捕し、近衛文麿元首相、樺山愛輔伯爵、小畑敏四郎予備役陸軍中将、真崎甚三郎予備役陸軍大将、小林躋造退役海軍大将らを監視下においた。
 梅津美治郎参謀総長ら軍上層部は、憲兵隊や中野学校を使って反共産の和平派潰しを行っていた。
   ・   ・   ・   
 2月16日 アメリカ軍は、対日宣伝として空爆するBー29を使って「伝単」とぴうビラをまき始めた。内容は、「空襲の予告」や軍部が公表せず隠している「敗戦状況」などであった。
 憲兵隊や警察当局は、読む事を禁止し、読めば厳罰に処すと命じてビラを押収した。
   ・   ・   ・   
 2月19日(〜3月17日) アメリカ軍は、硫黄島に上陸した。
 硫黄島の激戦のさなか。アメリカ軍は、部下の戦死者が増加して弱気な言動をした現場指揮官を更迭し、部隊全体に厭戦気分が蔓延する事を防いだ。
 如何なる国の軍隊も、戦争に勝つべく悲惨な戦場を知らせない為に、日本の大本営発表のような情報操作を行っていた。
 陸軍は、アメリカ軍の本土侵攻を8、9月頃と予想し、本土決戦準備の為に40箇師団を急造し根刮ぎの大動員を図った。
 日本国内には、200万人の朝鮮人と数万人の中国人が住んでいた。
   ・   ・   ・    
 2月22日 モスクワの佐藤大使は、モロトフ外相にヤルタ会談を尋ねた。
 佐藤大使は、モロトフに対して、日本政府は中立条約をさらに5年間延長する方針を伝えた。
 モロトフは、スターリンが対日戦参戦を決定している事を知りながら、日本政府の方針を歓迎した。
   ・   ・   ・   
 2月中旬 スウェーデン駐在武官の小野寺信は、ヤルタ会談ソ連が対日参戦を密約したと言う情報を、ポーランド亡命政府の参謀本部から得て東京の参謀本部に伝えた。
 参謀本部の作戦参謀は、ソ連を仲介にして戦争終結を進めていた為に、自分に不都合な情報である「ソ連参戦」と「ソ連軍シベリアに移動中」という情報をないものとして無視した。
 安全スパイラルで情報を軽視するというのは、日本人エリート集団の悪癖と言われている。
 日本人エリートは、先送りと事勿れ主義で自分の殻に閉じこもって情勢判断を誤る事が多いともういわれている。
 つまり、日本のエリートは、丸暗記の秀才で、基礎は強いが応用力が弱い役立たずという事である。
 つまり。軍国日本は、負けるべくして負けたのであると。
   ・   ・   ・   
 2月23日 佐藤大使は、モロトフ外相から聞き出したヤルタ会談の内容を重光葵外相に伝えた。
 「斉藤 本夕お訪ねしたるは今回の会議について若干の『インフォメイション』を得たく考えたる次第にて、……本使の関心を持つは今回の会議が極東問題にも関係ありや否やの点なり。
 モロトフ 会議にては多数の問題審議せられたり。
 佐藤 米英両国は極東にて戦争しおるものなれば、ソ連を味方に引き込まんとするするは当然の事なり。……我々の安心のため正確なるお話を伺わるれば幸いなり。
 モロトフ ソ連の日本に対する関係およぶ米英の対日関係は、それぞれ別個のものなり、米英の対日関係は戦争なるに反し、日ソ間は中立関係なり。
 佐藤 日本側としては、中立条約が従前通り厳存すること明らかとなり安心せり、唯ここに一つの問題あり。条約には来る4月25日の廃棄通告に関する期日ある事なり。日本政府はこの条約延長の意図を有するものにして……ソ連政府の見解を明確にせられん事を希望するものなり。
 モロトフ 本問題に関するソ連の態度については後日再びお話すべし。この問題は欧州問題にも関係し、また多くの問題とも関係するものなり」
   ・  ・   ・   
 2017年1月8日15:00 産経ニュース 【ヤルタ密約】チャーチルの署名は不本意だった…「米ソが頭越しで決定した」「合意後に昼食会で知らされた」
 1953年、英国のチャーチル首相からイーデン外相に宛てた書簡。ヤルタ密約への署名について釈明している。末尾に「WSC」のサインがある=英国立公文書館所蔵(岡部伸撮影)
 【ロンドン=岡部伸】旧ソ連とロシアが北方四島領有の根拠としてきた「ヤルタ密約」について、英国のチャーチル首相が「米ソ首脳が頭越しで決定した。両国との結束を乱したくなかった」と、不本意ながら署名したことを示唆する個人書簡が英国立公文書館で見つかった。チャーチル首相が密約の有効性に疑問を抱いていたことをうかがわせる。
 書簡(PREM11/432)は1953年2月22日付で、チャーチル首相からイーデン外相に宛てたもの。
 この中でチャーチル首相はヤルタ密約について、ルーズベルト米大統領ソ連スターリン首相が「直接取り決めた」とし、「全ての事項がすでに(米ソで)合意された後に昼食会で知らされた」「私たちは(取り決めに)全く参加しなかった」と主張。英国の頭越しに米ソ間で結ばれたと強調している。
 一方で、密約に署名した45年2月の時点では、連合国は欧州ではヒトラーのドイツとの戦いで最終局面を迎え、対日戦線でも結論が見通せなかったため、米ソ両国との「結束を乱したくなかった」と述べ、融和を優先したと釈明している。
 イーデン外相はこの2日前の53年2月20日付でチャーチル首相宛てに書簡を送っており、今回見つかった首相の書簡はこれに対する返信と位置づけられる。
 外相の書簡は、アイゼンハワー米大統領が53年2月の演説などを通じ、共産主義による民衆の「奴隷化」を招く秘密協定は全て破棄する方針を打ち出したことを伝えている。これを受けて出された書簡でチャーチル首相は、「ヤルタで起きたことは詳(つまび)らかにすべきだ」との見解を示している。
 チャーチル首相は、「米国務長官だったステティニアス氏ですら、(密約に関して)相談されなかった」との見方を書簡に記しており、大戦中のルーズベルト米大統領が独断でスターリン首相の要求に応じたと考えていることを示している。
   ◇    
 ■ヤルタ密約 1945(昭和20)年2月4日から11日まで、クリミア半島ヤルタで米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連スターリン首相による連合国3カ国首脳会談が開かれた。ルーズベルト大統領はソ連による千島列島と南樺太の領有権を認めることを条件に、スターリン首相に日ソ中立条約を破棄しての対日参戦を促した。会談では、ドイツ降伏後2カ月または3カ月でソ連が対日参戦することが秘密協定としてまとめられた。また、国際連合創設を協議し、ドイツと中・東欧での米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定。東西冷戦幕開けのきっかけにもなった。」
   ・   ・   ・    
 1月8日15:00 産経ニュース「【ヤルタ密約】チャーチル英首相は密約協議の「蚊帳の外」だった…ロシアの領土根拠に疑義
 【ロンドン=岡部伸】米英ソの3首脳が署名した「ヤルタ密約」に対し、チャーチル英首相が消極的な立場だったことを示す個人的な書簡が発見された。書簡の発信は署名から8年後の1953年のことで、その直前には米国でアイゼンハワー大統領が就任し、密約を事実上否定する方針を打ち出していた。第二次大戦から米ソ冷戦に至る激動の中、英国を率いたチャーチル首相の真意に注目が集まりそうだ。
 チャーチル首相のイーデン外相宛書簡(53年2月22日付)に従えば、アジア太平洋の軍事戦略の主導権を米国に委ねていた首相は、45年2月にクリミア半島のヤルタで開かれた会議で、米ソ首脳による密約協議の蚊帳の外に置かれていた。
 しかし、協議に参加した米国のハリマン駐ソ大使の「覚書」によると、チャーチル首相は密約の合意が成立すると、自分も文書に署名すると割り込み、会談最終日に署名したという。「極東における英国の権益保護」が目的だったとされる。
 それから8年後の53年2月。アイゼンハワー大統領は演説で、共産主義ソ連を念頭に「あらゆる人々の奴隷化」に同意せず、ヤルタ密約など外国との秘密協定の有効性を認めずに破棄する立場を表明。チャーチル首相が密約から距離を置く考えを書簡にしたためたのは、この直後のことだった。
 ロシアのプーチン現政権は、「北方領土は第二次大戦の結果、ソ連(ロシア)領になった」といった主張を繰り返している。今回見つかった書簡は、ロシア側がその有力な根拠の一つとするヤルタ密約が、署名したチャーチル首相その人によって疑義が持たれていた可能性があることを示している。
   ◇   
 ■領土移転 歴史的な過ちに弁明 中西輝政京都大学名誉教授の話
 3巨頭の一人としてヤルタ会談に参加したチャーチル英首相は、自分の頭越しにスターリン首相とルーズベルト大統領が大西洋憲章カイロ宣言で定めた「領土不拡大の原則」を犯し、領土を移転させた歴史的な“過ち”に、自分は関与していないと歴史の審判に弁明したかったのだろう。裏返せば、署名したチャーチルも密約の正当性に疑念を抱いていたとみられる。アジアの権益確保のため署名に加わったものの、責任回避することで「密約」を無効とした米国のアイゼンハワー政権の姿勢に英国も事実上、同調していたことがうかがえ、ヤルタ協定を根拠とするロシア側の北方領土占有の主張は根拠を失うだろう。」
   ・   ・   ・    


 
   ・   ・   ・