♛:43─7─ソ連軍の千島占領と米ソ極秘共同作戦『プロジェクト・フラ』と『マイルポスト作戦』。カムチャツカ半島。〜No.269 @ ❿    

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 1706年頃 ロシアは武力でカムチャツカ半島を占領し、アイヌ人や和人(日本人)を支配した。
 ロシアの、東方、アジア、日本への侵略。
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 1798年 江戸幕府は、蝦夷地に調査隊を派遣した。
 一行中の近藤重蔵、翌年、最上徳内を案内人としてエトロフ島に到達し、ロシア人の立てた十字架を引き倒した後「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。
 幕府はエトロフ島のアイヌ人にロシアとの交易を禁止した。
 当時、択捉島アイヌの中にはロシア正教を信仰するものがあったが、幕府は島民の持っていた聖像を取り上げ、キリスト教を厳禁した。
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 文化露寇(ぶんかろこう)。ロシア側からはフヴォストフ事件 文化3年9月11日(1806年10月22日)と文化4年4月23日(1807年5月30日)〜5月1日(6月6日)。
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 1811年(文化8年) ゴローニン事件。
 幻の国境画定交渉(ウィキペディア
 リコルドは、イルクーツク県知事から国境画定と国交樹立の命令を受けていたが、日本側の姿勢を判断するに交渉は容易ではなく、箱館での越冬を余儀なくされ、レザノフの二の舞になる懸念があることから、ゴローニンと相談し日本側への打診を中止した。ただし、箱館を去る際、日本側の役人に、国境画定と国交樹立を希望し、翌年6−7月に択捉島で交渉したい旨の文書を手渡した。
 幕府は国交樹立は拒否し、国境画定に関してのみ交渉に応ずることとした。そして、択捉島までを日本領、シモシリ島(新知島)までをロシア領として、得撫島を含む中間の島は中立地帯として住居を建てないとする案を立て、1814年春、高橋重賢を択捉島に送った。しかし、高橋が6月8日に到着した時には、ロシア船は去った後であった。このため国境画定は幕末のプチャーチン来航まで持ち越されることとなった。
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 松前奉行所吟味役・高橋重賢。
 ディアナ号副艦長のピョートル・リコルド。
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 ロシア帝国は、ナポレオン戦争の真っ只中であった為に日本・江戸幕府との戦争を避けた。
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 1821年9月4日 ロシア皇帝アレキサンドル一世、勅令により、アメリカ西海岸からロシア領の北の島々近海での、外国人の捕鯨や漁業を禁止。禁止区域に、ウルップ島以北の千島諸島が含まれていた。この頃、ロシアでは、ウルップ以北がロシア領であるとの認識が確立しつつあったことが分かる。
 択捉島国後島などの北方領土四島は、日本領と認めた。
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 2018年12月8日 msnニュース 毎日新聞「露外相「第二次大戦の結果を認めよ」 日本に、平和条約締結で
 【モスクワ大前仁】ロシアのラブロフ外相は7日の記者会見で、今後の対日交渉について「平和条約を締結するということは、まさに第二次大戦の結果を認めることを意味する。絶対的に譲れぬ最初の一歩だと日本には伝えてきた」と語った。北方四島が当時のソ連領となり、ロシアが継続した点を認めるべきだと主張し「そのような一歩が実現しなければ、他の問題を議論できない」と言明した。
 ラブロフ氏は早ければ今月末に始まる対日交渉の責任者であり、厳しい要求をしてくる姿勢を鮮明にした。
 日露両国は11月の首脳会談で今後の交渉について「日ソ共同宣言」(1965年)を基礎として取り組む点で一致。宣言には「平和条約締結後に歯舞群島色丹島を引き渡す」と記されているが、ロシア側は「どういう条件で引き渡すのか、主権の引き渡しなのかを議論すべきだ」(ガルージン駐日大使)などと主張している。
 ラブロフ氏は従来も北方四島の帰属確認に先立ち、第二次大戦の結果を認めるべきだと繰り返してきたが、11月の首脳会談後では初めての発言となった。一方で日本政府はロシアを刺激することを憂慮し、対露政策に関する発言を控えている。」
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 昭和天皇と軍国日本そして日本軍は、戦争を終結させるべく、中立条約を結んでいるソ連アメリカへの降伏交渉の仲介を依頼した。
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 ロシア人共産主義者は信用できない。
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 ソ連共産主義者は、日本の領土を強奪し、昭和天皇を殺し、天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を消滅させ、日本を共産主義化する為に、親切な友人の顔をして、和やかに微笑みながら日本を欺いていた。
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 1945年6月 昭和天皇と日本は、これ以上の犠牲が出る事を避けるべく戦争終結と平和を望んだ。
 1944年10月 ソ連・ロシア人共産主義者は、戦勝国の権利と収穫を得るべく平和を拒否して戦争継続を望んだ。
 その結果が、北方領土四島返還問題と日本人女性子供大虐殺問題の核心である。
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 「第二次世界大戦の結果を認める」と言う事は、ロシア人共産主義者による日本人女性子供大虐殺を正当行為であったと認める事である。
 つまり、「当時の日本人は、女性も子供も殺されて当然であった」と、現代日本人が承認する事である。
 それは、ヒロシマナガサキでの原爆投下実験における大量虐殺と同じ論法である。
 「日本人は殺されて当然の人間である」と言う事である。
 同じ論法は、中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人の日本人奴隷交易でもあてはまる。
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 戦争終結をめぐる日本の戦略
 ――対ソ工作を中心として
 庄司 潤一郎
 はじめに
 1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発すると、3日後の 11日同盟国の独伊両国も米国に対して宣戦布告を行った。一方、ソ連独ソ戦を戦う と同時に、42年1月連合国共同宣言に参加した。その結果、日本とソ連は、各々相対 峙する枢軸国と連合国の陣営に属することになったが、他方日ソ両国は中立条約を締結 し正式な外交関係を維持するという、米国の歴史家アレクサンダー・レンセンが「奇妙 な中立」と評した、極めて曖昧な関係が形成されていた1。また、ソ連は連合国共同宣言 に参加したとはいえ、完全に米英側に属する姿勢を明確にしておらず、大国であるソ連 がいずれの陣営に属して参戦するかは、両者のパワー・バランスにおいても決定的な意 味を有していたのである。 一方、日本は単独の武力で米英に勝利することは不可能であることは認識しており、 武力による勝利が困難であれば、戦争終結のために外交を駆使することが求められた。 したがって、戦争期の日本の戦略にとって対ソ外交は重要な意義を有しており、開戦時 の東郷茂徳外相は、「今次戦争に於ける外交戦は『ソ』連の争奪にあって、ここが外交上 に於ける関が原」2と指摘していたのである。そのため、開戦直後、ソ連との外交経験が 豊富な佐藤尚武元外相が駐ソ大使に任命されたのであった。 そこで本発表では、戦争終結をめぐる日本の戦略を、対ソ工作を中心として、特に戦 争終末期に焦点を当てて、これまでの研究3を踏まえつつ再検討することを目的とする。


 おわりに
 参謀本部のロシア課長を経て、開戦時駐ソ武官を務めていた山岡道武大佐は、「独『ソ』 和平ニヨリ『ソ』ヲ和平陣営、枢軸陣営ニ引入レルカ、日独『ソ』戦ニヨル徹底的覆滅 ニヨルカ、両者何レカニヨラサレハ大東亜戦争最大最後ノ『癌』ハ『ソ』ニ在リト」71と 記していた。 日本は開戦当初、対ソ開戦ではなく、独ソ和平を模索し、ドイツが一貫して対ソ参戦 を要求し、斡旋を拒否していたにもかかわらず、独ソ和平に執着、それは日本の戦争指 導と外交を拘束していった。さらに戦争末期は対ソ工作による中立・対日参戦回避を追 及したが、それは米英との直接和平、さらに終戦の選択を遅らせる結果を招き、ソ連の 対日参戦をまって、漸く終戦という結末を迎えるのである。山岡大佐が指摘したいずれ の路線をも貫徹することなく、まさに『癌』として残り、日本は敗北したのである。さ らに、「捷号」作戦の実施に象徴されるように、ソ連要因は戦争指導にまで大きな影響を 及ぼし、歪めていった点も否定できない。 では、なぜソ連に対してここまでの期待を寄せたのであろうか。第一に、自力で米英 に勝利し得ないに日本にとって、残された道は自律的な外交工作の展開であり、その唯 一の対象はソ連であった。さらに、戦争末期においては、米国の反攻とドイツの敗北に よって、ソ連の中立は戦争遂行上不可欠の条件となり、ソ連に対する接近・工作が行わ れたのであった。 第二に、ソ連の意図、及び米英ソ三国関係をはじめとする国際情勢認識について誤っ た情勢判断を行ったことである。その要因として、不十分な情報活動のほか、日本の脆 弱な国力から生じる希望的観測が指摘できる。ある大本営参謀は、「情勢が困難になるに 伴い、とかく作戦準備を可能ならしめるぎりぎりの情勢判断が行われる傾向がある」72と 述懐していたが、ソ連の軍事力に対する脅威と、参戦すれば日本の本土決戦が成り立た ないとの判断が、希望的観測をもたらしたのであった。特に関東軍にそれは顕著であっ た。さらに、陸軍のみならず、鈴木首相も、「『スターリン』首相の人柄は西郷南洲と似 た者があるやうだし、・・・悪くはしないやうな感じがするから和平の仲介も蘇連に持ち 込むことにしたらいいだろう」73と述べていたのである。 第三に、連合国が無条件降伏に執着する以上、連合国との直接的な和平交渉は、特に 陸軍の受け入れるところとならず、ソ連の仲介による条件付の降伏が模索されたのであった。その意味で、和平を模索するに際して、ソ連による仲介は本土決戦を主張してい た陸軍を含めた政府内の合意形成において唯一可能な方策であったとも言えよう74。 こうした要因から、ソ連天皇を中心とした日本の「国体」とは相反するイデオロギ ーを有する最大の仮想的であったにもかかわらず、近衛元首相が上奏文において、やや 国内の共産化の危険に警鐘を鳴らさねばならないほど、甘い認識が広まっていったので ある75。 こうして、外交史研究家の細谷千博が表現した「幻想の外交」76が展開されていった。 「幻想」の結末とはいえ、戦後ソ連によってなされたシベリア抑留という結末は、終戦 までの日本の対ソ認識を考えた場合、まさに「皮肉な」悲劇であった77。

 71 防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本営陸軍部<4>』朝雲新聞社、1972年、126−127頁。 72 『戦史叢書 関東軍<2>』336−337頁。 73 『時代の一面』319頁。
74 戸部良一「和平運動と終戦工作」奥村房夫監修・近藤新治編『近代日本戦争史 第四編 大東亜戦争紀伊 國屋書店、1995年、672−673頁。 75 さらに、陸軍軍人では、米国に対する嫌悪感が反射的にソ連に対する好意的感情に連なっていたという指摘 もある(保阪正康『占領下日本の教訓』朝日新書、2009年、283頁)。 76 細谷「太平洋戦争と日本の対ソ外交」304頁。 77 『一億玉砕への道』269−270頁。
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 2018年12月7日号 週刊金曜日「多くの日本人の記憶から抜け落ちたソ連軍の千島占領と米ソ極秘共同作戦   佐々木洋
 1945年のソ連南千島占領には米国の貸与艦船10隻を含む17隻が参加していた。そのうえ貸与艦船を引き渡す米軍基地で、ソ連将兵が訓練を受ける極秘の米ソ共同作戦『プロジェクト・フラ』も存在していた。この知られざる米ソ共同作戦が今年初め、北海道根室振興局により、明るみにされた。
 日本には1945年8月14日の天皇『聖断』で『終戦』となり、9月2日の東京湾ミズーリ艦上の降伏文書調印で、大戦が一切終えたと考える人々がいるようだ。
 千島と根室の人々の見方は些(いささ)か異なる。ペトロパブロフスクから来たソ連軍部隊が8月18日未明占守(しゅむしゅ)島を強襲、激戦を経て22〜23日、日本軍が降伏。以後、千島の日本軍は抵抗せず、幌筵(ぽらむしろ)島から順次武装解除され、31日に得撫(うるつぷ)島まで北千島と中千島の占領が完了。ウラジオストクから来た別の部隊が、南千島択捉島に上陸したのが28日、国後島色丹島は9月1日。歯舞諸島上陸の完了が5日だった。
 その意味で、根室振興局が今年1月に道立北方四島交流センターニ・ホ・ロで開催した企画展『北方4島〜運命の9日間』は、歴史の風化を問い質す格好の試みだった。米ロの研究を突き合わせ、ソ連軍の南千島占領に、米国の貸与艦船10隻を含む17隻が参加したこと以外に、上陸戦の背景に、貸与艦艇を引渡す基地が、搭乗するソ連将兵の訓練を施す、米ソ極秘の共同作戦である『プロジェクト・フラ』(Project Hula)が存在した事実を提示したからだ。
 本稿では、ソ連の千島占領を世界史の動きに即して眺めてみたい。
 米は若者の犠牲回避で
 独ソ戦開始後、米国は41年10月、ソ連と米ソ武器貸与協定を結び、以後、北極海/中央アジ/太平洋経由で、航空機やトラック、ジープ、戦車、機関車、大砲、食糧などを供与した。
 東西挟撃を恐れたスターリンに対し、南進後対米戦に苦闘する日本は、二正面対決を避けるべく、ドイツの敵=ソ連との中立条約を維持。『対ソ静謐(せいひつ)』に努め、太平洋経由のソ連向けレンドリース(Lend−Lease)船団を黙認するに至る。43年8月、大本営は、ソ連向け船団への干渉を厳禁。以降、日本軍守備隊は石油・食糧・弾薬を満載する長蛇の船団を見守る。
 ヒトラー政権の胎動期に、欧米軍民にはまだ先の大戦の凄惨さが焼き付いていた。これがミュンヘンの対独宥和を規定した諸国民の気分だった。ドイツ国防軍が第二次大戦の火蓋を切り、独ソ戦が勃発しても、米国は依然、中立主義を崩さず、英・ソ支援の武器貸与はしても、参戦はしなかった。
 米国の厭戦気分が跡形もなく消え去り、第二次大戦が真の世界大戦に拡大した転機が日本の真珠湾攻撃だった。今次大戦全体の犠牲者は前大戦の比でないが、仏・英は逆である。

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 第一次大戦と第二次大戦の主要交戦国の最大動員時兵力と犠牲者の比較(万人)
 第一次大戦       総兵力   戦死兵       傷病兵
 米           436    13        23
 英           890   111       209 
 仏           841   138       427
 帝政ロシア     1,200   170       495
 伊           562    65        95
 日            80     0.49      0.09
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 独         1,100   205        425  
 墺・洪(ハンガリー)  780   120        362
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 第二次大戦
 米         1,236    41         67 
 英           509    35.4       28
 仏           700    16.6       39
 ソ連        1,250 1,360        500  
 中国          500   132        176  
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 日本          826   230         30
 独         1,000   553        600  
 伊           450   38.9        12
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 英米軍が北アフリカ戦線を優先した結果、欧州で専ら独軍を食い止め、反撃にでたのがソ連赤軍であり、犠牲もその分夥(おびただ)しい。
 米軍は機動力と物量で圧倒し、西太平洋の日本軍を駆逐。44年6〜7月にはサイパンテニアンを陥落させB29の本土空襲が始まったが、硫黄島沖縄本島では多大な犠牲を伴い、日本本土となれば、米地上軍死傷が数十万に及ぶとの推測もあった。米国の若者の犠牲を極力避ける切り札がソ連軍の対日参戦である。満州には無傷の関東軍100万がいた。
 スターリンが対日参戦の条件としてローズベルトに呑ませたのが、樺太南部の返還と千島の『引き渡し』、満州の2鉄道及び遼東半島の諸権益だった。
 ソ連は見返り確保のため
 ヤルタ密約に先立つ44年10月にスターリン赤軍の極東集結と物資補給に関する要求リスト作成を指示、ハリマン駐ソ大使に米ソの共同作戦にも言及した。同月に、対日参戦分の食糧・装備備蓄の米ソ極秘共同『マイルポスト作戦』(Milepost Operation)が策定され、同年末には早くも同作戦の積荷がソ連極東諸港に到着し始めた。引渡し基地に米国のダッチハーバー(Dutch Harbor)。
 同年末にマイルポスト作戦とは別枠でソ連太平洋艦隊に、米国艦船の引渡し基地で、ソ連将兵に訓練を施すプロジェクト・フラの原型が出来上がる。ただしクズネツォフソ連海軍人民委員とキング米海軍作戦部長がダッチハーバーの安全性に懸念を表明。より安全な半島端部のコールドベイ(Cold Bay)を選ぶ。45年2月のヤルタ会談の期間中のことだ。両提督とも首脳会談の随員だった。実際日本軍は42年アッツ島攻略の際、ダッチハーバーを空襲したことがある。
 米軍は同年5〜9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、警備艦28隻など計145隻をソ連に供与。4〜8月に米軍要員1,500人が同基地に張り付き、ソ連から通訳団40人余も常駐、搭乗艦の種別ごと、ソ連将兵1万2,000に、順次訓練を施した。このことを元米軍士官の歴史家R・ラッセルが『Project Hula』で明らかにしている。
 トルーマンは、日本降伏後の8月15日に『日本軍がソ連軍に降伏すべき地域』に千島列島を含めるのを『失念』した。8月18日には『降伏すべき地域』に北海道北半分を含めるのを峻拒(しゅんきょ)した。
 それゆえスターリンは、ヤルタで約束された見返りを確保するには、いかなる犠牲を払おうと、参戦せねばならず、まして参戦前に終戦を迎える訳にはいかない。
 海上自衛隊に貸与
 トルーマンの本心とは別に、ラッセルは本作戦を、『大戦中の武器貸与計画中、米ソ両軍水兵が相互に協力し合った最も野心的な事業』と評価する(ラッセル前掲書)。
 クズネツォフも回想記で語る。米国は『計250隻以上のフリゲート艦、掃海艇、・・・・上陸用舟艇を送る約束。海上の戦闘行為を控え、これら艦船は誠に好都合だった』。45年春夏に受領した艦船は『敵が占領する港湾と島々に上陸作戦部隊を運用するのに適していた』、と(『勝利への道』)。
 プロジェクト・フラをめぐるラッセルとクズネツォフの指摘には齟齬がない。根室振興局の突き合わせはこの点でも成功している。
 企画展は主に、ラッセル前掲書、B・スラヴィンスキー著『千島占領 1945年夏』、I・サマリンの紀要論文『上陸作戦艦船──1945年8月サハリンとクリル諸島の上陸作戦に参加した軍艦と補給船舶の注釈付きリスト』を参照した。
 米軍は、戦後ソ連が返却し横須賀港に係留していたフリゲート艦27隻を、朝鮮戦争の勃発に伴ない急遽同海域に出動させた。このうち18隻が草創期の海上自衛隊にくす型PF護衛艦として貸与される。根室の企画展はくす同型護衛艦『なら』のパネルも展示した」
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 日本の軍国主義路線は、ロシアの侵略に備えてであった。
 それ故に、ロシアは日本の軍国主義を口汚く罵る。
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 北方領土四島問題の原因を作ったのは、アメリカのルーズベルト大統領であった。
 北方領土四島返還交渉を邪魔しているのも、アメリカであった。
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 日本にとって、共産主義ソ連も民主主義のアメリカも陰険な陰謀を巡らす同じ穴の狢であり、日本国の主権と国益そして日本国民の権利と自由を平然と侵害し踏みにじる不定な輩であった。
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 アメリカは、ソ連共産主義・ロシアと戦う日本を攻撃していた。
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 ナチス・ドイツは、日本の利敵行為の為に敗北し滅亡した。
 その意味で、軍国日本はソ連の滅亡の危機を救い、日本軍はソ連軍の大祖国戦争勝利に貢献した。
 日本は、ソ連を助けた恩人である故に感謝されこそすれ、非難され、裏切られ、攻撃され、殺されるいわれはない。
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 日本にとって、反天皇反日を掲げる共産主義マルクス主義)・ソ連・ロシアは信用できないおぞましい敵である。
 ロシア人の甘言に騙されると1000年先まで禍根を残す、油断も隙もない陰険・陰湿な敵であった。
 日本人にとって、ロシア人共産主義者は血も涙もない、人間の姿形をしているが人の心を持たない強姦魔・虐殺魔・猟奇的殺人鬼であった。
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 北方領土四島を放棄する事は、ロシア人共産主義者による数十万人の逃げ惑う日本人女性や子供に対する強姦・虐殺を容認した事になる。
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 日本軍は戦死者(靖国神社の軍神)を出しながら、ロシア赤軍から数百人のロシア人戦争孤児を助け出していた。
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 ロシア人共産主義者は、日本軍の誠意を踏みにじって恥じなかった。
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 江戸時代後期から、日本が恐怖して怯え軍事力を強化したのは、ロシアとキリスト教による日本侵略であった。
 江戸時代の下級武士や庶民は、ロシアとキリスト教の侵略から日本天皇と日本国を守る為に戦ってきた。
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 北方領土四島は、日本の固有の領土である。
 日本の下級武士や庶民は、北海道と北方領土をロシアの侵略から命を捨てても守ろうとした。
 賤民や部落民達も勤皇派・尊皇派として日本天皇・皇室を守る為に戦い死んで行った。
 それが、靖国神社である。
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 ペリーの黒船艦隊来航から幕末を考えるうちは、日本人には歴史の真実は見えないし、理解できない。
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