🎺46:─1─日本の陸軍と外務省は、戦争終結の為にスイスでOSSと国際決済銀行を通じてアメリカと極秘工作を始めた。1945年3月~No.210No.211No.212 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昭和天皇は、戦争の早期終結を望んでいた。
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 アメリカ陸軍戦略爆撃隊は、日本占領に鉄道網を利用する為に線路、駅舎、鉄橋などの鉄道関連施設への爆撃を避け、客車や貨車を機銃掃射しても機関車は見逃した。
 陸上輸送網はほぼ無傷で残されたが、海上輸送網は徹底して破壊され、小型の漁船まで容赦なく撃沈された。
 アメリカ軍の攻撃は、日本軍とは違って合理的に計画を立てて行われていた。
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 3月頃 リッベンドロップ外相は、政務局長を通じて、大島浩駐独大使にヤルタ会談の情報を伝えた。
 外務大臣、作戦本部、関東軍は、ソ連がドイツ降伏後に日本戦参戦という約束をしたヤルタ会談の密約情報を公表する事は好ましくないとして、隠蔽した。
 本土決戦用に、関東軍から7箇師団を日本本土と南部朝鮮に配置転換した。
 関東軍は、戦力低下を補う為に、満州移民団に根刮ぎ動員を命じて人数だけは集めて24箇師団としたが、実戦に堪えられるのは8箇師団分以下であった。
 河辺虎四郎「予は、スターリンが東洋に新しき戦場を求むるの決意あるを信じえず。これただ予の希望のみか」
 ナチス・ドイツ内の一部勢力は、祖国の完全崩壊を避けるべく、スイスに駐在するアメリカOSSの欧州担当総局長アレン・ダレスに和平交渉を持ちかけていた。
 ソ連はは、スイスで、米英とナチス・ドイツが戦争を終結する為の極秘交渉を行っているという情報を得ていた。
 スターリンは、ヨーロッパの広範囲をソ連軍の占領下におさめる為に早期和平には反対であった。
 ドイツ国民と軍隊は、ソ連軍が占領地で虐殺と強姦を行っているという情報を得るや、西に逃亡して米英軍に投降した。
 スターリン「前戦の兵士達には、少しは慰めも与えてやる必要ががある」
 ソ連軍は、将兵による虐殺、強姦、略奪を黙認した。
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 3月 大本営は、本土決戦として「決号」作戦を採択した。
 日本軍は、ベトナム人の安南王朝再興という明号作戦を発動しベトナム独立派を支援して仏印植民地政府を打倒した。
 日本軍は、旧仏印植民地政府所管の食糧庫を開放して、被災民救済の為に全ての米を放出した。
 安南政府は、旧政府に関係していたフランス人、ベトナム人、華僑の私産を没収し、治安回復として華僑と共にアヘン密売や人身売買で暴利を得ていた盗賊の掃討戦を行った。
 ベトナムは、中国に幾たびも侵略されて虐殺と略奪を受け、1000年以上にわたって中国の属国もしくは植民地として苛酷な搾取を受け、儒教価値観による徳化という中国化を強要された。
 儒教価値観の国家・地域は、人治支配として、例外なく、賄賂と横領が蔓延る腐敗堕落した汚職社会へと転落した。
 ベトナム人は、フランス人に協力して暴利を得た中国人への憎悪を爆発させた。
 日本軍支配下で、200万人以上の餓死者が発生した。
 戦後。この大量餓死は日本の戦争犯罪とされた為に、日本政府は「日本軍の非人道的軍政が原因で起きた餓死である」として謝罪した。
 ルイス・アレン「ベトナム人は日本人が立つと攻撃を止めた。そのうち立哨する日本兵の間を抜けてフランス人を襲う様になった。日本兵達はその間、夜空を見上げていた」(『日本軍が銃をおいた日』)
 ベルリンの大島浩駐ドイツ日本大使は、東京の本省に対して「ロシアが適当な時期に対日戦に参戦する」という電報を打った。
 日本国内の隠れマルクス主義者である革新官僚や軍人は、日本を共産主義国家に改造し天皇制度を廃止する為の「敗戦革命」工作を進めた。
 革新官僚は、転向を誓った偽装者であった。
 陸軍の統制派軍人の多くも、内心ではマルクス主義を信奉し、ナチス・ドイツ同様にい国家社会主義政策を支持していた。
 国家総動員体制が目指していたのは、統制経済に基ずく社会主義社会の実現であった。
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 憲兵隊は、本土決戦の為にクーデターを計画していた一部の中野学校出身を全員逮捕した。
 陸軍当局は、クーデター未遂が表沙汰になる事は好ましくないとして不問にふして、歴史の闇に葬った。
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 ドイツ大使館付海軍武官藤村義朗中佐は、大阪商船ドイツ駐在員津村重美と共に、アメリカOSSスイス支局長アレン・ダレスと早期終戦工作を行うべく、連合軍の攻撃の中をスイスに逃れた。
 当時。ベルリンの海軍武官室には、野村直邦大将、阿倍勝雄中将、横井忠雄少将、小島秀雄少将、扇一登大佐、酒井直衛秘書官等が配属され、ドイツ、スイス、スウェーデンポルトガル、スペインなどでの情報収集を行っていた。
 スイスに亡命していたドイツ人フリードリヒ・ハックは、旧知の小島秀雄少将に連合国情報を伝え、アレン・ダレスが日本との和平交渉の意思があり、日本は速やかに極秘に終戦工作を始めるべきであると助言した。
 スイス当局は、イギリスのBBCラジオ情報から小島少将が秘密任務を帯びてUボートでドイツ入りした事を知っていた為に、入国を拒否した。
 海軍武官室は、緊急を要するとして藤村義朗中佐を代理として派遣した。
 小島秀雄少将は、ドイツ語と英語が話し、イギリス人を妻に持ち、ヨーロッパ事情に詳しい津村重美駐在員を藤村義朗中佐に付けた。
 藤井中佐は、ベルンに着くや、津村駐在員と共にスイス公使館付海軍武官西原市郎大佐のもとに身を寄せた。
 同じ頃。海軍武官室は、スイス工作の他にスウェーデン工作の為に扇大佐を派遣した。
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 日本の大本営は、フィリピンのマッカーサーの司令部に対して沖縄戦の前に停戦を申し込んだ。
 小磯国昭首相が、停戦交渉を知っていたかどうかは不明である。
 小磯国昭は、これといった罪状もなく、単に適任者がいなかった為に首相に指名され、A級戦犯として告発されて有罪判決を受けた。
 侵略戦争の共同謀議に参加などしていない。
 獄死した為に靖国神社に祀られて、現代日本から戦争犯罪者として人格全てを否定されている。
 広田弘毅同様に、運が悪いと言うしかない不運な軍人であった。
 ルーズベルトは、原爆の都市投下実験を日本で実施する為に、日本からの和平交渉の提案を拒絶した。
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 ルーズベルトは、ヤルタからの帰途、戦艦クインシーで硫黄島の被害報告を受けその甚大さに衝撃を受けた。
 フォレスタル海軍長官は、硫黄島の激戦地を観戦し、夥しい両軍将兵の死傷者を目の当たりにして精神に異常をきたしたと言われている。
 帰国したルーズベルトは、沖縄戦と日本本土上陸作戦の為に厭戦気分を引き締める演説を行った。
 「東京への道は、ベルリンへの道より遠く険しい」
 アメリカ軍は、対独戦はヒトラーとナチの一味との戦いと見なしていたが、対日戦は昭和天皇日本民族との死闘と覚悟していた。
 ルーズベルトは、原爆の都市実験を日本で実施する為に、チャーチルと協議の上で日本からの和平交渉の提案を拒否する事を決定した。
 日本・日本人への原爆投下は、最終決定された。
 ルーズベルトは、日本18都市への原爆投下命令書に署名した。
 原爆投下の第一目標として京都を選び、通常爆弾での空襲を禁止した。
 東京は、原爆投下の対象ではなく、焼夷弾による無差別絨毯爆撃で焦土と化す運命とされた。
 アメリカ軍は、原爆投下候補都市への爆撃を取り止め、原爆の威力を最大限に引き出すべく町の保存に努めた。
 ウラン爆弾は、ロックフェラー・メロン・ハリマンの財閥連合が協力して完成させた。
 プルトニウム爆弾は、ロスチャイルド・モルガン・デュポンの財閥連合が完成させた。
 ユダヤ財閥は、弱肉強食の市場原理による利益を得る為に、日本と天皇制度を破壊する為に競争していた。
 アメリカ軍は、日本に運ばれる途中のウラン560キロを没収し、日本に投下する原爆の原料の一部とした。ナチス・ドイツが精製したウランが、日本で使用された。 
 日本軍は、仏印におけるフランス統治を終了させ、フランス軍を追放し、植民地支配の象徴であったギロチン刑を廃止した。
 ライフ誌「アメリカ人は、ドイツ人を憎む事を学ばなければならないが、ジャップに対しては憎しみが自然に湧いてくる。これは、かってインディアン達と戦った時と同様に自然なものだ」
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 日本と欧米の都市人口構造は、異なる。
 日本は国土が狭い為に、工場周囲に木造住宅が建ち並び、工場労働者の大半がそこに住んでいた。商店街も、人が密集して住んでいる工場地帯の住宅地に近接していた。
 対して。欧米は広大な土地があり交通機関も発展していた為に、最下層の貧困労働者以外は、工場から離れた所に住宅地を設けて住んでいた。
 この都市構造ゆえに、高高度から軍需工場を狙った精密爆撃はヨーロッパでは可能であったが、日本では不可能であった。
 日本への爆撃が、都市の工場群を攻撃するとき、一般市民をも巻き込んだ無差別絨毯爆撃にならざるを得なかった。
 また。欧米と違って、日本の工場群が都市に隣接している為に爆撃が容易であったし、その大半が対空防衛態勢のない無防備都市であった。
 カーチス・ルメイ「我々の目的は、日本の工業力を破壊する事だった。工場はもちろんだったが、労働者を工場に近づけない様にする事も目的であった。工場の労働者も戦闘員であると見なした」
 カーチス・ルメイ「日本の各都市に対する爆撃は原爆と違って、あくまでも日本の軍事産業とそこで働く労働者に対するもので、東京大空襲心理的な打撃を狙った作戦だった」
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 アメリカは、日本に対する原爆投下実験としての、プロジェクト・アルバータ(プロジェクト・A)を始動させた。
 ロスアラモス研究所のテラー博士ら一部の研究者は、人間に対して原爆を使用する事は人体実験に等しいとして強く反対した。
 ルーズベルト「犬の飼い主が悪ければ、犬も罰しなければならない。日本の指導者の残虐で不法な行為の責任は、日本国民が受けるのは当たり前だ」
 日本への原爆投下と、日本人一般市民の大量死は、避けられない運命にあった。
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 3月1日 A級戦犯の小磯首相は、戦争終結を切望する昭和天皇の希望を叶えるべく、まず中国との和平交渉に取り掛かった。これが、繆斌工作である。
 日本政府は、日中戦争の和平交渉は、ナチス・ドイツとの単独和平交渉禁止協定に違反しないと判断した。
 重光外相は、戦争終結交渉には賛成したが、繆斌なる中国人は信用できないし、素人の民間外交は日米交渉の前例を見ても有害で得る所はないとして反対した。
 蒋介石は、日本との停戦交渉などは最初からする気はなかったが、アメリカから寄り多くの軍需物資を獲得する為の外交カードに利用すべく応じた。  3月26日 スターリンは、沿海州軍司令官と極東戦線司令官に日本軍に対する防衛強化を命じた。
 スターリンは、ヒトラー同様に約束を守らない事で有名であった。
 重光外相は、ナチス・ドイツに見つからない様に、極秘で駐日スウェーデン大使バッゲに対英和平工作の斡旋を依頼した。
 中立国のスウェーデンやスイスなどは、現時点で日本の和平工作の依頼を受ける事は連合国の機嫌を損ねるとして、言葉を濁して拒否した。
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 3月3日 木戸幸一内大臣は、宗像久敬日銀総裁に極秘情報を打ち明けた。『宗像久敬日記』
 木戸「ソ連仲介工作を進めれば、ソ連共産主義者の入閣を要求してくる可能性があるが、日本としては条件が不面目でさえなければ、受け入れてもよい」
 宗像は、共産主義者と手を組む事は国體と皇室を守る為に戦っている国民を裏切る事になる、ソ連を当てにするよりアメリカと直接接触するべきだと反論した。
 木戸「今の日本の状況からすればもう構わない。ロシアと手を握るがよい。英米に降参してたまるものかという気運が有るのではないか。結局、皇軍はロシアの共産主義と手を握る事になるのではないか」
 宗像は、「木戸は、陸軍内の親ソ・強硬派に籠絡さ、ソ連との連携を希望する陸軍内の意見に支配されている」との感想を日記に書き残した。
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 3月9日 日本政府は、仏印単独防衛宣言を発し、仏印の施政権を仏印総督から奪取した。
 フランスの植民地支配が消滅した為に、ベトナム(安南)は3月11日に、カンボジアは同月13日に、ラオスは4月8日に、相次いで独立を宣言した。
 日本軍は、ベトナム北部の飢餓民数百万人を救済する為に、仏印政庁が蓄えていた食料庫の穀物を放出した。
 連合軍は、対日戦争を日本が主張する人種間戦争とするわけにはゆかず、アジア各国を軍国日本の傀儡国家と非難しても、戦争が終わるまで独立国家としての主権を否定するわけには行かなかった。
 さらに、アジアを共産主義化してソ連支配下に追い遣るわけにもゆかなかった。
 ソ連は、軍国日本が帝国主義で占領地を植民地化して支配するの事を望んだが、まさか本気で諸民族の希望を叶えて独立国家を作るとは思わなかった。
 ソ連コミンテルンの全アジアの共産化といういう野望は、軍国日本の捨て身の奮闘で頓挫した。
 それは、東條英機が開催した「大東亜会議」のアジア民族独立の信念の勝利といえた。
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 3月10日 日露戦争奉天会戦に勝利した「陸軍記念日」である。
 アメリカ軍は、皆殺し作戦と言われた焦土作戦を実行し始めた。
 東京大空襲。Bー29爆撃機329機は、東京上空に侵入したが爆撃せず房総沖に抜け、市民が空襲警報が解除されて安心して防空壕から自宅に戻った頃を見計らって東京に再進入した。
 計画道理に、人々が逃げださないように退路を焼夷弾で焼き、囲い込んでから焼夷弾の雨を降らせた。
 実験結果通り。木と紙からできた民家は燃え上がり、猛烈な火災旋風が巻き起こり、逃げ惑う一般市民を焼き尽くした。
 人道を無視した無差別殺戮で、約10万人の女性や子供を含む非戦闘員が死亡し、100万人以上が家を失った。そして、生活に必要な全ての物資が一瞬で灰となった。
 地方に疎開していた学童で、家族を失った子供達は孤児となり、帰京しても引き取り手もなければが行く当てもない為に浮浪児となって上野の山や駅に集まって生活した。
 これ以降、日本軍航空隊は無力となり、日本の都市は無防備となり焼夷弾で焦土となった。
 皇居も爆撃を受け、昭和天皇一家も非難した。
 昭和天皇は、密かに宮内省の屋上に立って大空襲の炎を無言で凝視していた。
 此の後も、東京は無差別爆撃を受け焼け野原となった。
 ルメイ「日本に戦争を止めさせる任務を全うしただけだ」
 日本の航空部隊には、日本の上空を守る為の反撃力は既になかった。
 東久瀬宮稔彦陸軍大将「グアムやテニアンから飛んで来るBー29に対応する術は全くなかった」
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 東京大空襲の煙は、1万5,000メートルの成層圏まで達した。
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 陸軍航空隊司令官ヘンリー・アーノルドは、ルメイに電報を打った。「おめでとう!この任務で君の部下達はどんな事でもやってのける度胸がある事を証明した」
 アメリカ軍兵士は、日本兵士とは違って、自由意思で上官の命令を忠実に実行していた。
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 アメリカ軍は、人口密集地であれば、軍事都市だろうが非軍事都市だろうが関係なく全てを焼き払い、軍事人であろうが非戦闘員であろうが皆殺しにした。
 戦時国際法は、連合国による戦略爆撃を違法行為とはしていない。、
 一部の都市無差別爆撃は、原爆投下を成功させる為に、投下データーを集めとして様々な条件下で実験的に行われた。 
 その焼夷弾の開発に携わったのは、ナチス・ドイツから亡命したドイツ系ユダヤ人達であった。
 原爆投下目標予定都市とされた、広島や小倉や長崎、そして京都や奈良や鎌倉などは、原爆の破壊力を調査する為に無差別爆撃の対象から除外された。
 ルメイ「戦場にいる兵士達の実際的な立場から、敵をどの様に殺すかは問題ではない。誰もが心配しているのは、自分自身の命を失う事である」「当時、我々は彼等の生命を考慮しなかった」
 亡命ドイツ系ユダヤ人科学者は日本を効率よく焦土化する為の兵器開発を行い、亡命ドイツ系ユダヤ人技術者はその性能を上げるべく技術革新を繰り返していた。
 欧米のユダヤ系財閥は軍隊と協力して、弾薬を大量生産し、前線に運んで、爆撃機に積み込んで日本に投下した。
 大量破壊兵器の開発は全てキリスト教世界で行われ、キリスト教諸国の兵器産業が紛争地域に武器弾薬を途切れることなく輸出していた。
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 スチムソンは、原爆開発に累計で19億5,000万ドルを費やした以上、原爆を実戦で使用しないと議会は承知しないだろうし、国内で実験的な爆発で留めたり、警告として日本の領土内の小島にデモンストレーションとして投下し被害を少なくするなどの使用に留めると、納税している国民の納得はえられないと考えた。
 つまり、日本の人口のあるどこかの都市に投下する事に賛成した。
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 3月10日(陸軍記念日) 東京大空襲。死亡と行方不明を含めて10万人以上。
 昭和天皇は、陸軍大学校長に就任した賀陽宮に、無条件降伏と戦争責任者の処罰以外は戦争終結の条件になり得る考えを明らかにした。
 天皇中心の国體が維持できるのなら、海外領土を放棄して日清戦争以前に戻るの止むなしと。
 昭和天皇は、三国同盟を締結した松岡洋右白鳥敏夫を嫌ったが、戦争回避に全力を尽くした東條英機東郷茂徳らを高く評価していた。
 それゆえに、戦争を指導した東條英機らを救いたいと思っていた。
 戦争を終わらせなければならない事は分かっていたが、早すぎるとドイツ帝国崩壊のように軍部がクーデターを起こして内乱状態になる恐れが有り、遅すぎるとロシア帝国滅亡のように犠牲者が増大して共産主義者の革命が起きる危険があった。
 機が熟すまで、犠牲者が増えても我慢して待つしかなかった。
 出来れば、軍部が主張するようにもう一度戦果を上げて有利な条件で終戦交渉に入る事に、一縷の望むを托した。
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 国民は、戦時制定の「防空法」に従って自分の町は自分達で守るとして、退避比する事なく焼夷弾が降り注ぐ中で懸命に消火活動を行った。
 逃げず消火活動を行った事が、甚大な被害を出すという傷ましい結果をもたらした。
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 3月11日 朝日新聞「B29約130機 昨晩 帝都市街を盲爆」
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 3月12日 名古屋大空襲。
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 3月14日 朝日新聞「(罹災地の実態に対する記者の感想)
 記者1。あれを見て泣かん奴があるか、あれを見て憤激しない奴があるか。
 記者2.国民があれを知らないでいていいものではない、この際国民にはっきりと知らせ、新しい認識の上に立っのでなければ敵にぶつかって行く事はできぬ。
 記者3.罹災地を見て昨日までの自分という者が実に恥ずかしかった、敵愾心の何のといいながら昨日までの自分の敵愾心が、敵愾心と言えるほどのものでなかった事を痛切に感じるのだ。
 記者4.全く同感だ。本当に宮城の前に額づいて、昨日までの自分をお詫び申し上げたいと思った。……僕など今まで爆撃されたところを度々見て回ったものだが、今度始めて敵の企図する爆撃に遭遇し、大東亜戦争の真相にぶつかった気がした」
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 3月17日 神戸空襲。
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 3月22日 ベルリンの大島浩ドイツ大使は、リッベントロップ外相から聞いた情報として、東京の外務省に「ヤルタでスターリンが対日参戦を約束した」事を知らせた。
 イギリスの通信傍受機関ベレッチリーパーク(政府暗号学校)は、各国の外交暗号電報を傍受し解読していた。
 大島電報も、ストックホルムの小野寺電報も、全て傍受されていた。
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 3月26日 アメリカ軍は、沖縄の慶良間列島に上陸した。
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 3月27日 硫黄島玉砕。
 アメリカ軍は、半個師団の日本軍守備隊を撃破するのに一個師団を犠牲にし、2万8,000人の損害を出した事に恐怖して、日本本土上陸作戦の延期を決めた。
 アメリカ陸軍航空軍は、日本と大陸との食糧輸送を遮断する「飢餓作戦」を開始した。
 Bー29大編隊は、8月半までに、日本の主要港湾や海峡及び大陸との海上輸送路に、磁気機雷と音響機雷を約1万2,000個を敷設した。
 敗戦までに、日本船舶293隻が触雷(しょくらい)で沈没した。
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 3月末 政府・大本営調整会議で、戦争終結の仲介をソ連に頼む為の特使を誰にするかで話し合った。
 これまで、日本とソ連の間を外交伝書使(クーリエ)として機密文書を持って極秘に往き来していたのは、参謀本部瀬島龍三中佐であった。
 瀬島龍三中佐は、ソ連から帰国後、陸軍作戦参謀で有りながら海軍との意思疎通を図る為に連合艦隊参謀を兼務する特異な役職に就いていた為に、特使採用案は見送られた。
 部外者でありながら会議に出席していた木戸幸一内大臣は、姪(和田正子)の婿である外交官である経済学者の都留重人を推薦した。
 都留重人は、3月29日に、特命を受けてモスクワに向かった。
 都留重人は、ハーバード大学に留学している時にカナダ人留学生のハーバート・ノーマンと知り合い、マルクス主義を共通の話題として親交を深めた。
 ノーマン「僕と同じ様な考え方をしている日本人について、貴方に話したでしょうか。彼は僕が今まであった中で最も進んだ、有能なマルクス主義者の一人で──最も知識を備えたマルクス主義者です」(実兄への手紙)
 ノーマンは、宣教師の子供として、長野県軽井沢に生まれていた。
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 テラー博士らは、原爆を人間に対し使用する事には強く反対し、実験は公開すべきであうと提言した。
 ルーズベルトは、原爆を日本人の頭上に落とす事を決定し、原爆の秘密を公開する事には反対した。
 「原爆投下ありき」がアメリカの基本戦略であり、日本が降伏をも申し込もうとも原爆投下を中止する意思はなかった。




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