🎺48:─2─アメリカ・イギリス・カナダは、原爆投下実験を日本で行う事に合意した。日本本土上陸作戦計画。花岡鉱山暴動脱走事件。1945年6月16日~No.229 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本政府と軍部は、これ以上の犠牲者を出さない為に戦争終結交渉の仲介をソ連に依頼する事を決定した。
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 アメリカ、イギリス、カナダは、自由と民主主義の国であり、国民の世論を尊重し、国民の総意に従って行動していた。
 大本営発表で国民を騙していた軍国日本とは違って、真実を国民に知らせる事を心がけていた。
 マスコミは、政府や軍部が真実を隠し国民に不利益をもたらさないように監視し、偽りがあれば国民の「知る権利」で隠蔽された真実を暴いて報道した。
 アメリカ、イギリス、カナダに於ける自由度は、軍国日本と比べると雲泥の差ほどの開きがあった。
 アメリカ、イギリス、カナダの聡明で賢い国民は、軍部に騙されていた軍国日本の愚かで分別のない国民に比べて遙かに真実を知っていた。
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 日本人の女性や子供は原爆における人体実験のモルモットにされた。
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 白人がアジア人に軽蔑する時に吐き捨てる「黄色い猿(イエローモンキー)」は、人種差別用語である。
 反日本人が日本人を罵る時に吐き捨てる「ジャップ(Jap)」は民族差別用語、蔑称である。  
 日本民族日本人に対する差別用語は禁止されていない。
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 アメリカ軍は、日本占領に必要な建物として第一生命ビルや帝国劇場などを残しながら空爆を行った。
 アメリカ軍戦闘機パイロットは、度胸試しとして、低空飛行をして車輪に稲の穂を引っかけて飛び去った。
 アメリカ軍攻撃機は、橋梁や鉄道、列車やトラック、駅舎や学校や病院、見かけた一般市民さえも攻撃した。 
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 コルネット作戦(関東方面地上決戦計画)。アメリカ軍は、相模湾九十九里浜の二正面に上陸作戦を決行するに当たり、館山海軍航空隊基地を中心とした房総安房周辺を一大防衛拠点(東京湾要塞)と認め、優先的攻撃対象としていた。
 先ず枯れ葉剤を散布し、焼夷弾及び飛散性爆弾を使用して、航空基地や沿岸砲台など陸上施設を破壊沈黙させ、部隊を上陸させ制圧する。
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 6月16日 スイス公使館付武官西原市郎海軍大佐は、ドイツのウィースバーデンにいるダレスの秘書官から聞いた話を暗号電報で海軍省に送った。
 「戦局の大きな変化によって、今、日本政府と国民は、国體の運命を決める重大な局面を迎えている。ダレスがトルーマンの召還に応じてワシントンに帰った時、この事を議論して事は明らかだ。アメリカ合衆国の指導者は、日本の国體を変える事を考えてはいないようだ。しかしながら、イギリスや中国とも議論する必要があるのだから、現時点で秘密裡に同意したり、そのように伝えたりする事はできない」
 マジックは、7月21日に解読した。
 グルーは、トルーマンに対して、フーヴァー書簡に関連付けて「将来の政治体制の性格については日本人の決定に任せる」との声明を出す事を訴えた。つまり、「天皇の地位の保障と昭和天皇の安全」を明快にするべきであると。
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 7月16日 スチムソン陸軍長官は、原爆爆破実験が成功した事をチャーチルに伝えた。
 チャーチル付き主治医のチャールズ・ウィルソン(モラン卿)は、チャーチルが原爆は軍事目標ではなく一般人が多く住む都市に投下されるだろう、と言う興奮気味の言葉を聞いた。
 「それは日本に使われる事になるだろう。軍隊ではなく都市に。ロシアに通告せずに使うのはよくない。だから今日向こうに伝えるのだ」
 チャーチル首相は、トルーマン大統領に会って、軍国日本に突きつけている無条件降伏を緩和して、原爆を使用せず降伏させる為に昭和天皇の身の安全・地位の保障そして天皇制度の存続など認めてはと説得した。
 トルーマン大統領は、故ルーズベルト大統領の基本方針であり、無条件降伏の方針を踏襲すると議会で約束し、国民がナチス・ドイツ同様に軍国日本に無条件降伏以外の戦争終結を望んでいない、として拒否した。
 費用対効果で、巨額の予算を投じて完成させた原爆を軍国日本に投下せず戦争を終結する事は不可能であった。
 アメリカ軍首脳部、原爆開発軍需産業群、原爆開発の科学者と技術者は、実践に於ける原爆の威力を知る為の投下実験を熱望していた。
 ワシントン、ホワイト・ハウスは、戦後の対ソ戦略として、ソ連に対する威嚇として原爆の威力を見せつける必要があった。
 日本への原爆投下実験は、戦争終結を早めて人的被害を減らす戦術ではなく、高度な政治的外交戦略して実行する事がすでに決まっていた。
 原爆使用は、世界平和の為ではなくアメリカの国益の為であった。
 だが。残虐行為を比べた時、ロシア人兵士のソ連軍が行った日本人民間人(女性・子供・老人達)に対する大虐殺よりは幾分かはましであった。
 トルーマンアメリカ軍首脳部は、昭和天皇や東京の政府・軍首脳部がソ連を通じて有条件降伏を申し込んでいる事は知っていた。
 トルーマンは、スターリンに原爆の事を伝える事は先送りすると返答した。
 スターリンは、極秘計画のマンハッタン計画や第一回ケベック協定の極秘条項を、ワシントン内部のスパイから情報を得て知っていた。
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 6月17日 広田弘毅は、毎日の如くマリク大使との会談を申し込む電話をしていた。
 ソ連大使館は、大使は多忙で時間がないとして拒絶したが、日本側が仲介要請を断念しない様に期待を持たせるべく好意的な伝言を伝えた。
 第21爆撃機集団司令官カーティス・ルメイ少将は、東京や大阪など七大都市爆撃作戦の終了で、中小都市爆撃を開始した。
 ローマ教皇が、都市への無差別絨毯爆撃に抗議した。
 アメリカ軍は、日本軍の防空体制を攪乱する目的も兼ねて、「日本国民に告ぐ」という爆撃予告ビラを撒く事とした。戦史に残る、リーフレット心理作戦である。
 予告した12都市のうち4都市を、翌日に爆撃した。
 爆撃予告都市の中に、原爆投下予定都市は含まれてはいなかった。
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 6月18日 木戸内大臣は、梅津参謀総長と豊田軍令部総長の説得を諦め、強硬派の阿南陸相終戦試案に反対しない事を約束させた。
 最高戦争指導者会議は、終戦行程として、9月までに戦争を終結するように、7月末までにソ連に仲介の斡旋を要請する事を決定した。
 「ソ連を通じて和平交渉に入り、米英との間に少なくとも国體護持を包合する和平をなす事が適当」との考えで一致した。
 グルーは、ホワイトハウスでの軍事会議に出席する前に、トルーマンと会って無条件降伏の修正を求めた。
 トルーマンは、同問題はポツダムに於ける三巨頭会談で討議するとして即答を避けた。
 アメリカは、戦時に於いて大統領権限が強化される為に、政府高官が平和の為に和平工作を行おうとしても、大統領の戦争継続の鶴の一声で全てが決定した。
 誰も、国民の総選挙で選ばれたアメリカ大統領の暴走を止める事ができなかった。
 アメリカ国内で、軍国日本に原爆等での悲惨な結末を避けさせる為に、早期に戦争を終結させるべく無条件降伏の修正を行おうとした事実があってとしても、それは自衛戦争を戦っている昭和天皇と軍国日本には無関係であった。
 トルーマンは、ホワイトハウスで、原爆開発が手間取っているとの報告を受けて、日本本土上陸作戦計画を話し合う為に特別軍事会議を開いた。
 ホワイトハウスの最高軍事会議は、九州上陸作戦「オリンピック作戦」を11月1日に実行し、中国の日本軍を釘付けにする為にソ連に参戦させる事を決定した。来年3月1日予定の関東平野上陸作戦「コルネット作戦」の決定は、見送られた。
 統合軍事作戦委員会は、本土上陸戦でのアメリカ軍の予想死傷者は約19万3,500人と報告した。
 軍当局は、上陸作戦にともなう戦死者数の予想を答えなかったが、内部の研究で2万5,000人から4万6,000人との試算を出していた。
 スチムソンは、上陸作戦を実行するれば日本を徹底抗戦に追い込む危険があると発言した。
 レーヒーは、被害予想が余りにも多い為、無条件降伏にこだわると日本は自暴自棄になり得策ではないと発言した。
 「大統領は九州侵攻作戦を承認した。……私の意見は、今なら日本が受け入れられる条件で日本の降伏を取り決めできるというものだ。このような条件で日本を降伏させる事ができるなら、それは将来太平洋を越えてアメリカに対してなされる攻撃へのアメリカの防衛上の十分な備えとなるだろう」
 マックロイ陸軍次官補は、昭和天皇天皇制の維持は降伏後に日本民族が自ら決める権利があるという趣旨の声明を出し、軍国日本が提案を拒否したら原爆保有を明らかにし、それでも降伏しなければ日本人の上に原爆を使用する事を提案した。
 条件付き降伏派は、これ以上の流血を避ける為に、無条件降伏の要求を緩和して天皇制存続を認めれば、日本は降伏するだろうから上陸作戦もソ連参戦も原爆投下も必要ないと訴えた。
 トルーマンは、会議をまとめる為に政治的解決として、宥和的和平案をバーンズと相談する様にマックロイに命じた。
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 6月19日 バーンズは、マックロイに、ヒロヒト天皇戦争犯罪者として裁く事が正義の実行であり、原爆使用は決定事項であり、よって現時点で戦争を終結させるような無条件降伏の修正はないと断言した。
 それは、亡きフランクリン・ルーズベルトの遺志が生きている証拠であった。
 無条件降伏派のバーンズ国務長官は、まだ完成はしていないものの、巨額の国費を投じて開発している原爆を使用せずに戦争を終結させる事をこの時点で決める事には反対であった。 
 三人委員会。グルーとスチムソンは、日本本土上陸作戦前に、無条件降伏の要求を緩め天皇制度を残す可能性のある表現で降伏を促す警告を発する事に合意した。
 レーヒー、キング、ニミッツら一部の軍首脳も、現在戦われている沖縄攻防戦での日本軍と民間人の狂気的抵抗から日本本土上陸は避けるべきであるとして、修正最後通牒案に賛成した。
 グルーは、アジア地域に共産主義が蔓延する事を恐れ、ソ連を日本降伏に関与させない為に、日本に早期降伏を促すべく無条件降伏の修正を訴えていた。
 トルーマン大統領は、バーンズ国務長官同様に、無条件降伏を条件付き降伏に変更するか、ソ連の対日参戦を求めるかの、その最終決定をポツダム会議まで持ち越し、原爆の完成を待つ事にした。
 原爆投下回避は、昭和天皇の聖断や軍国日本の決断ではなく、トルーマン大統領が日本の降伏を認めるかどうかであった。
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 レーヒー = リーヒ
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 東郷外相は、ベルンでのOSS欧州総局長アレン・ダレスとのアメリカ側との秘密和平交渉に望みを託していた。
 参謀本部次長河辺虎四郎中将は、対ソ仲介による和平交渉を東郷外相に申し込むべく、有末精三第二部長を伴って外相官邸に押しかけた。
 「特使は大物中の大物、……できれば外相ご自身か近衛公……。大物が直接スターリンに合って、欲するものを欲するままに与えるという条件ならば動きます。一世一代の大工作に賛成して頂けますんか。ソ連への引き出物は書類にしてお目にかけます」
 参謀本部は、参謀本部第二十班(戦争指導班)が4月29日に作成していた「今後の対ソ施策に対する意見」と「対ソ外交交渉要綱」を、東郷外相に提出した。
 意見書は、対米英戦争継続の為に対ソ戦を回避するべきであると強調し、対ソ依存度を強めて日ソ同盟を締結して、ソ連の要求を全て受け入れて日ソ中(延安の中国共産党政権)連合の道をとるべきだと主張した。
 そして、「ソ連の言いなり放題になって眼をつぶり……満州遼東半島やあるいは南樺太、台湾や琉球や朝鮮をかなぐり捨てて、日清戦争前の態勢に立ち返り、対英米戦争を完遂せよ」と。
 要綱では、対英米戦争を完遂の為にソ連中国共産党に全てを引き渡し、英米の世界侵略を阻止する為に日ソ中(中国共産党)三国が共同で戦うべきであると。
 中国共産党の延安政権を、中国の正統政府と認めて傀儡の南京中華国民政府などを解体し、要求のあった地域の日本軍を撤退させ、統治権を強化させる事に協力する。
 ソ連に対しては、日露戦争で手に入れた満州南樺太そして千島列島の権益を全て譲渡する。
 軍部中枢は、1922年のソ連とワイマール・ドイツが交わしたラッパロ秘密協定を真似て新たな日ソ同盟案を模索していた。
 それを、推進させていたのが革新官僚達であった。
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 三田村武夫『戦争と共産主義』(25年出版)の序文。岸信介支那事変を長期化させ、日支和平の眼を潰し、日本を対ソ戦略から、対英米仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連スターリンが始動するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実であった」
 「近衛文麿東條英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うに及ばず、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったと言う事になる」
 「私は東京裁判A級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪者は、スターリンでなければならない。然るに、このスターリンの部下が、東京裁判の検事となり、判事を務めたのだから、まことに茶番というほかない」
 「(軍部中枢に共産主義が滲透したか)何故それが出来たのか、誰しも疑問に思うところであろう。然し、考えてみれば、本来この両者(右翼と左翼)は、共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点で同類である。当然、戦争遂行の為に軍部がとった政治は、まさに一党独裁、計画経済であり、驚くべき程、今日のソ連体制と酷似している。ここに先程の疑問を解く鍵があるように思われる」
 現代日本でも、歴史学界や新聞・雑誌・放送などマスメディアに存在し、非暴力・無抵抗・非武装などの反戦平和活動を指導し、子供達の成長に強烈な影響を及ぼしている。
 当然、政界や官界や財界にも深く根を張っている。
 靖国神社問題、従軍慰安婦問題、昭和天皇の戦争責任問題などは、天皇制度を崩壊させ日本を解体して中国共産党政府と一体化させようとする反日派日本人で或る彼らの意図的行動である。
 社会主義経済とは、富を生むような経済活動を禁止し、完全平等の原則に従って物不足で長蛇の列に並んで貧困を分け合う事で在った。
 つまり。マルクス主義が目指す理想社会とは、「不足の経済」であり、党・政府・国家が人権を無視して強権を持って人民の生活から仕事まで多方面を統制する事であった。
 社会主義国家の実態は、共産党員という「赤の貴族」が独り占めする地獄のような恐怖社会であった。
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 6月20日 ワシントンのイギリス大使館で公使を務めていたサー・ジョージ・サンソムは、戦前に長期にわたって駐日イギリス大使館勤務して日本研究で有名となり、アメリカのグルーとも親しい関係にあった。
 サンソンは、5月29日にグルーから初期対日方針の内容を知り、イギリス独自の対案造りに取り掛かった。
 天皇制度維持と間接統治方式をとる事を求めた、日本に配慮した内容の覚書を提出した。 
 「天皇の持つ憲法上の大権を停止するより、連合国は、むしろ天皇の大権や現在の統治機構を通じて活動する方が、悪法の廃止、政治結社の解散、教育の改革、言論・宗教の自由といった要請達成の上で効果的であろう」
 イギリス側は、スチムソンにハイドパーク会談のメモを書き写しを送った。
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 6月21日 ワシントンで原爆に関する暫定委員会(原爆を含む原子力の利用について協議するアメリカ大統領の為の諮問委員会)議事録。
 「ケベック協定の第二項について
 この時点で、バンディ氏(スチムソン陸軍長官の部下)が、委員会に出席し、互いの同意成しに署名国はこの兵器(原爆・TA)を第三国に対して使用しないとしたケベック協定の問題を提起した。
 少し議論したあと、バード氏(アメリ海軍次官)は、暫定委員会は陸軍長官に適当な手段によってケベック協定の第二項を取り消す事が望ましいと助言すべしとする動議を提出した。道議は全員一致で認められた。
 ……
 巨頭会談におけるこの議論の位置づけ
 委員会は三巨頭会談(ポツダム会議)で大統領がこの計画(マンハッタン計画)に関して発言しそうな案件を熟慮したうえで、委員会は考慮に入れておくべき重要案件を長きにわたって議論した。
 ……
 委員会は、適切な機会があれば、大統領がロシアに対し、この兵器の開発はあらゆる点において良好に推移している、それを日本に対して使用するつもりであると告げてもらうと、アメリカの立場は極めて有利になるという点で意見が全員一致した。
 これ以上大統領がいうとしたら、彼らはこの兵器を必ずや世界平和の達成の助けとしなければならないという点から将来話し合うことを望んでいる、というべきだ。委員会は、もしロシアがさらに詳細な情報を求めてきたなら、今はこれ以上の情報は出せない、と彼らに告げるべきだと考える。また委員会は、ケベック協定にしたがって、会談の前に首相とこの問題全体について協議すべしという点で意見が一致した」
 事務方エリート集団である合同運営委員会は、大量破壊兵器・原爆を独占し、どう使用するかはイギリスやカナダの同意を得る事なくアメリカが独断できるようにするべく、ケベック協定第二項を取り消す事を、スチムソン陸軍長官に要望した。
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 6月22日 日本の外務省、海軍、陸軍は、ヨーロッパの情報網から独自に「ヤルタ会議で、ソ連が対日戦に参戦する」という情報を得ていたが、その事についての情報交換をしなかった。
 最高戦争指導会議。昭和天皇、最後の勝利を信じて戦争を継続する事は当然であるが、これ以上の戦争継続は日本の破滅になるとして時局収拾も考慮する必要があると発言し、戦争終結の外交を求めた。
 「これは命令ではないが、今後本土決戦の用意をする事はぜひ十分にやってもらいたいが、同時に考えて貰いたい事は戦争をできるだけ早く終わらせるように工夫して貰いたい事である」
 出席者は、昭和天皇の強い希望を受けて終戦工作を開始する事を決めた。
 皆、捨て身の覚悟で日本の行く末を想い、国家と民族を残す為になるべく早く戦争を終結させるべきだと考えた。
 阿南惟幾陸相は、出席者のみで極秘工作を行う事を提案した。
 阿南惟幾陸相は、昭和天皇が希望する戦争終結を叶える為に、陸軍内の強硬派を押さえるべく「わざと」強硬な発言をして鈴木首相や東郷外相らと激論を交わした。
 阿南陸相が最も恐れたのが、終戦工作を知った徹底抗戦派が2・26事件以上のクーデターを起こして、昭和天皇を幽閉し秩父宮を即位させて戦争継続内閣を組閣する事であった。
 或いは、自分に圧力を加えて陸相を辞任させ、次期陸相を出さず鈴木内閣を倒閣して、軍部内閣を組閣させる。
 それ故に、終戦工作に難癖を付け妨害する様な発言を繰り返しても辞職をしなかった。
 全てが、本音を隠して建て前を押し通す日本的な「腹芸」であった。
 その事は、昭和天皇はもとより政府高官や軍首脳部は口に出さなくても分かっていた。 御前会議はもとより最高戦争指導会議や閣議の話は、徹底抗戦派に漏れていた。
 建前と本音の日本的腹芸は、日本国内はおろか世界でも理解されづらいし、誤解を招く元である。
 東郷茂徳外相は、ソ連軍がソ満国境に兵力を集結させ9月頃に侵攻してくるとの陸軍情報を得て、ソ連を仲介者とするのではなく、蒋介石を仲介者としてアメリカと直接交渉する事を提案した。
 最高戦争指導者会議で、4月から検討してきたソ連中会和平案を国策として正式に決定し、近衛元首相をモスクワに派遣する計画を具体化する事にした。
 鈴木貫太郎首相「ソ連に対して和平の仲介を頼んでみたらいかがですか。スターリンという人は西郷南州に似たところもあるようだし、悪くはしないような感じがする」
 東郷外相ら外務省側は、ソ連に和平仲介を依頼する事に乗り気ではなかったが、ベルン工作の進展がない以上は近衛特使派遣計画を認めざるを得なかった。 
 昭和天皇は、一撃論を廃しても戦争を早期に終結させるべき事を希望した。
 東郷外相は、交渉の仲介者として、バチカンとスイスは消極的で、重慶カイロ宣言に拘束され、スウェーデン王国もあてにならない、残るは危険性を承知でソ連に依頼するしかないと説明した。
 軍部が戦争終結を計る手段としてのソ連斡旋案に同意した為に、和平工作を始める事を正式に決定した。
 木戸内大臣、米内海相、東郷外相ら和平推進派は、昭和天皇の御意思に従って行動を開始したが、徹底抗戦派の若手将校団に知れると2・26事件の様なクーデターが起きる危険性があると警戒した。
 陸軍の若手将校達は、御前会議の決定を知るや、近衛文麿重臣達を訪れ、国體護持の為にも本土決戦をして一撃和平に持ち込むべきであるとの持論を訴えた。
 日本の悲劇は、学業優秀な若手将校らの暴走に日本が引きずられた事にある。
 昭和天皇や和平派は、軍部首脳が抗戦派の若手将校団を説得し、反乱を起こさず、無事に戦争終結ができる事を希望した。
 昭和天皇の裁可を得て、終戦工作を開始した。
 東郷外相は、帰国していた守島伍郎駐ソ公使に、極秘で行ってきた広田・マリク会談を打ち明けて協力を要請した。
 守島公使は、モスクワの佐藤尚武大使はソ連との交渉には賛成しないと抗議し、約束を平然と破る常習犯のソ連を信用する事には反対であると伝えた。そして、ソ連を頼るにはこれまで問題となった以上の譲歩案を提示する必要があると意見を述べた。
 東郷外相には、対ソ強硬派に考慮して、ソ連が求める全てを与える意思はなかった。
 いずれにしても、45年末までには戦争を終結せる事には、誰も反対はしていなかった。
 後は、いかに軍隊と国民を納得させ、子孫への希望をつなぐ為に「潔く」降伏するかであった。
 戦前の日本人は、大人として、イタリアやドイツの様な惨めな降伏は、子孫への責任として受け入れるわけにはゆかなかったのである。
 日本の決定から7時間後。
 イギリス軍諜報機関は、スイス・ベルンの中華民国政府駐在陸軍武官から重慶・軍参謀本部への暗号機密電報を傍受した。
 駐在武官は、同情報の入手先をベルンのアメリカ情報機関からの最高機密情報と伝えた。
 「国家を救う為、現在の日本政府の重要メンバーの多くが完全に日本の共産主義者達に降伏している。あらゆる分野部門で行動する事を認められている彼らは、全ての他国の共産党と連携しながら、モスクワに助けを求めようとしている。日本人は、皇室の維持だけを条件に、完全に共産主義者達に取り仕切られた日本政府をソ連が助けてくれるはずだと提案している」
 情報源は、アレン・ダレスかその部下とされている。
 ベルンの国民政府駐在武官は、日本がアメリカと極秘で和平交渉を行っている事も、日本がソ連を仲介として停戦を申し込んでいる事も、アメリカ側からの情報提供で知り重慶に伝えていた。
 コミンテルンは、日本の中枢に滲透し、日本を破滅へと誘導していると分析していた。
 日本の共産主義者が、「ソ連参戦」という機密情報を政策に反映させないように取り仕切っていると見なされていた。
 スイスやスウェーデンバチカンの日本外交官は、極秘で、昭和天皇の免責と地位の保全を最低条件として戦争終結の交渉を開始していた。
 アメリカ軍情報部は、日本の外交暗号を全て解読し、早い時期から日本の終戦工作を熟知していた。
 日本軍は、負けると分かっている戦いを、より有利な条件で降伏できるように玉砕と特攻を繰り返していた。
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 アメリカと直接に終戦交渉しなかったのには二つの理由がある。
 一つは、アメリカは無条件降伏を軍部と軍隊に求めると発言しているが、皇室と政府を含まないとは断言していない事。
 二つ目に、アメリカとの直接交渉が徹底好戦派に漏れるとクーデターが起きる恐れがある事。
 軍国日本が求めていたのは「国體護持」の一点だけで、「国體護持」が確保できればあとの事は譲るつもりであった。
 軍部は、ソ連もそう遅くない時期に米英に味方して日本を攻撃してくると分析していた。
 外務省内でも、ソ連を仲介として終戦交渉を始まるかどうかで二派に分かれて紛糾した。 東郷茂徳外相も、最初は反対であったが、ザガライアス放送やトルーマン声明、ナチス・ドイツの降伏で、これ以上時間はムダに出来ないとしてソ連仲介を決めた。
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 6月22日 ワシントンにいたイギリス陸軍のヘンリー・メイランド・ウィルソン元帥は、暫定委員会の情報を得て、イギリス側の原爆開発問題についての助言者であるロンドンの大蔵大臣ジョン・アンダーソン卿に電報を打った。
 「イギリス政府のTA(原爆)の実戦配備についての同意を記録として残すのに合同運営委員会の議事録がベストか、合同参謀会議の決定がベストかについて、間もなくスチムソンかマーシャルから相談があるだろうとグローブスが私に教えた」
 スチムソン日記「彼(トルーマン)は、この(原爆実験成功)報告書を読んだあとで会議に来た時、すっかり別人になっていた。彼はロシア人(スターリン)にどこで乗り、どこで降りるかを指図していた。そして会議全体を仕切っていた。
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 6月23日 ウィルソン元帥は、アンダーソン大蔵大臣に電報を打った。
 「バンディはマーキンズ(駐米イギリス大使館参与)に、スチムソン(陸軍長官)はその兵器を使用する決定を合同参謀会議の議事録として残す事に賛成で、しかもなるべく通常の軍事上の決定に見せるようにしたがっている、といっている。彼は次のように付け加えている。この議事録は、合同運営委員会に報告し、そこで各委員にメモしてもらい、それを記録として取っておいてもらうようにしたい、と」
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 6月24日 広田・マリク第二回会談。広田は、東郷外相の意向に反して、戦争終結の仲介斡旋をせず、ソ連の中立的立場の再確認とそれに対する日本側の譲歩項目を提案した。
 マリク大使は、ソ連参戦までの時間稼ぎとして、公式説明をして終えた。
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 6月25日 海軍軍務局長保科善四郎中将は、省内の主戦派による遅延行為で藤村第一報を約20日遅れて受け取った。
 大西瀧治郎軍令部次長は、多くの若者を天皇陛下の為に特攻させているのに、天皇制度存続の言質を得ていないのに和平交渉を行う事は、特攻隊員に対する背信行為であるとして反対していた。
 海軍軍令部第一部長富岡定俊中将「総長から次長を説いて貰って海軍が一致して藤村電の趣旨を実現させるべきだと決心した」
 軍務局の高木惣吉少将は、米内光政海相に「スイス電が本物ならば、私を派遣していただきたい、本土上陸だけでも食い止められる気がする」と意見具申した。
 海軍首脳部は、交渉開始の極秘電を打ってきたのが小島少将や西原大佐ではなく藤村中佐である事と、アメリカ側の担当者が交渉を始める前にベルンを離れるのは敵の謀略である可能性が大である以上、ワシントの出方を見る事にした。
 大本営は、沖縄作戦の終結を発表した。
 アメリカ軍 戦死者1万2,520人。戦傷者3万7,000人。
 日本軍 戦死者9万人。島民非戦闘員 犠牲者10万人以上。
 日本軍の組織的な戦闘は6月23日で終わったが、降伏を認めない一部の日本兵士はゲリラとなって9月7日まで抵抗を続けた。
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 6月26日 三人委員会は、天皇制度維持の保障をほのめかしたマックロイ草案を承認して、無条件降伏の原則を緩和して天皇の地位の安全と現在の皇統の存続を認める内容の大統領声明原案を作成する事決定した。
 さらに内容を煮詰める為に、陸軍省内に小委員会を設置して討議を続ける事とした。
 対日降伏要求交渉は、本土上陸作戦と原爆投下作戦とソ連参戦が絡んで、文官の国務省から軍人の陸軍省に移った。
 スチムソン「私は個人的に、もし現在の皇室の下での君主制の維持を排除しないと明記するならば、日本がこれを受け入れるチャンスはかなり大きくなると思う」
 反日意識の強いサンフランシスコで、日本とナチス・ドイツに宣戦布告した50ヶ国は国際憲章に署名した。名称は連合国国際機関とされ、簡略して連合国といわれた。
 日本は、反日色を誤魔化し中立性を強調する為に「国際連合=国連」と意訳した。
 アメリカ、イギリスなど連合諸国は、国連憲章に署名し、締約国は国家間の紛争解決目的で武力を行使しないという原則を遵守する事を誓った。
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 6月27日(26日) モスクワで、ソ連共産党、政治局、軍の合同会議が開かれ、対日戦作戦が協議された。
 最大の課題は、太平洋に出る航路上にある宗谷海峡と千島列島を確保する為に、北海道をどうするかであった。
 メレツコフ元帥は北海道占領を主張し、フルシチョフは北海道領有を支持した。
 ジューコフ元帥は、ノモンハンで日本軍と戦った経験から、日本領土に深入りすべきではないと慎重論を唱えた。
 ヴォズネセンスキー将軍は、日本を占領したアメリカ軍との軍事衝突が懸念されるとして反対した。
 モロトフは、北海道占領は他の連合国から、ヤルタ条約違反と非難される懸念があると説明した。
 スターリンは、日露戦争の復讐として北海道の割譲を望み、ジューコフ元帥に北海道軍事占領に必要とされる兵力数を質問した。
 ジューコフ元帥は、最低でも4箇師団は必要であると答えた。
 合同会議は、対日戦開始を8月と決定したが、北海道占領計画の決定は持ち越した。
 スターリンは、親ソ派のルーズベルトから反ソ派のトルーマンに変わってアメリカ外交が変化した事を実感していただけに、北海道領有をアメリカが承認してくれるか不安になっていた。
 そして。ノモンハンで日本軍に大勝したジューコフ元帥が、対ドイツ戦と違って消極的な発言をした事でさらに不安に駆られた。
 バード海軍次官は、原爆の無警告使用に反対するメモをスチムソンに提出した。
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 6月28日 高松宮と米内海相は、国體を護持し皇室の安泰を図り、日本を共産主義化しない為に戦争終結問題を協議した。
 スターリンは、極東戦線司令官、沿海州軍司令官、ザバイカル湖戦線司令官の三司令官に対して、攻撃開始日の8月20日から25日の間までに対日戦準備を完了する様に命令を発した。
 北海道侵攻ミッションは、依然としてソ連軍内で意見が分裂していた為に言及しなかった。
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 6月28日 ウィルソン元帥からアンダーソン大蔵大臣への電報。
 「合同運営委員会を7月4日に開催するように手配した。カナダ代表としてハウ氏(軍需大臣)が出席する。
 取り上げられる問題の1つは、日本に対するその兵器の使用に関するケベック協定第二項の適用についてだ。この適用に関して合意し、それを委員会の記録として残すと確約していただければ幸いだ」
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 6月29日 広田・マリク第三回会談。広田は、先回の提案以上の譲歩を提示したが、それは日本側に有利でソ連に魅力的な譲歩案ではなかった。
 モロトフは、マリク報告から、日本は窮地に追い込まれて敗北は時間の問題であると知るや、ソ連が参戦して多くの戦利品を日本から獲得するまで交渉を引き延ばす様に命じた。
 広田は、必要にマリク大使との会談をソ連大使館に要請したが、その都度病気を理由に拒否された。
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 アメリカ側は、トルーマンの意向に従って、イギリス側に原爆日本投下実験での合意を打診した。
 原爆の合同運営委員会は、アメリカ提案を討議し、7月4日にチャーチルが合意する事を決断した。
 カナダは、アメリカとイギリスの決定に従った。
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 6月30日 花岡事件秋田県大館市花岡鉱山で、強制連行された966名の中国人は食糧及び賃金等の待遇に不満を持ち、国民党将校耿諄の指揮の下で日本人補導員4名を殺害して逃亡を図った。
 日本軍と警察は、中国人労働者の反乱蜂起と見なし治安回復のために武力鎮圧し、418名を殺害した。
 本土決戦を目前にしていた軍国日本は、国内での中国人や朝鮮人(200万人)の暴動に恐怖を感じた。
 後年。東京裁判は、花岡事件は人道に対する犯罪と認定した。
 生き残った中国人やその遺族は、日本政府と鹿島建設謝罪と賠償を要求して裁判を起こした。
 一部の現代日本人、日本の戦争犯罪として裁判を支援している。
 陸軍省軍事課や軍務課に所属するエリート軍人官僚達は、「国體護持」の為に本土での徹底抗戦を主張していたが、頓挫した。
 軍上層部の「一撃和平論」も、国内の不安要素から断念せざるを得なかった。
 日本国内には、朝鮮独立活動家や日本人共産主義者も多数潜入していた。
 軍国日本は、本土決戦どころではなくなっていた。
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 アメリ陸軍省は、「ソ連の参戦は日本の完敗が不可避であるという事を、ようやく日本に分からせる事になるだろう」との報告書を提出した。
 グルーは、「天皇制度維持を認める」という内容のポツダム宣言草案をトルーマンに提出した。
 トルーマンは、バーンズと協議して無条件降伏を緩める事は「日本に弱味を見せる」としてその部分を削除し、現時点で日本に降伏の機会を与える事には不賛成であった。
 国民世論の多数派は、昭和天皇侵略戦争を始めた張本人であり、一般市民や捕虜を虐殺する様に命じた戦争犯罪人である以上、ヒトラーと同罪として死刑を含む極刑を科す事を望んでいた。
 自由と民主主義を求める民意は、軍国主義の象徴である天皇制度は廃止する事べきであると主張していた。
 バーンズは、政権内のルーズベルト派を政策決定や原爆関連から遠ざけ、トルーマンの全面的信頼を基にして独断で全てを取り仕切った。
 対ソ威嚇政策という政治的理由から、不退転の決意で原爆を日本投下を実行しようとしていた。
 歴史家は、原爆は使用する為に20億ドルを投じて開発・製造された兵器であり、「使う理由に比べて、使わない理由の方が少なかった」としている。
 戦争は、政治の一部であり、外交の一手段である。
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 6月30日 ロンドンのアンダーソン大蔵大臣は、ウィルソン元帥と駐米大使ハリファックス卿(エドワード・ウッド)の両名あてに返電を送った。
 「その兵器の使用に同意するよう貴方達に指示する許可を私は首相に求めた。しかし首相はこの問題はとても重要なので大統領と直接議論しなければならないと感じているようだ。できるだけ早くこの点について電報する」
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 6月末(〜8月8日) ロンドンでアメリカ、イギリス、ソ連、フランスの4ヵ国は会議を開き、国際軍事法廷を開廷する為に「侵略戦争戦争犯罪であり、平和に対する罪を構成する」という解釈を確認し、アメリカ代表のジャクソンが提唱する「共同謀議」理論を採用する事に同意した。
 侵略戦争とは、先に手を出す、進んで仕掛ける、先制攻撃する、そして騙し討ちにする事とされた。占領し征服するは、戦争の終結の結果であって戦争犯罪にはされなかった。戦闘終了後に引き起こされた人種及び宗教に基づく住民虐殺は、戦争犯罪と認定された。





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