🎺51:─3─スターリンの対日戦参戦命令。トルーマンの原爆投下実験実施命令。1945年7月21日~No.246No.247No.248 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昭和天皇の戦争終結希望は砕かれた。
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 軍国日本は、ソ連に戦争終結の希望を託した。
 昭和天皇は、共産主義を嫌っていたが、戦争を終結する為に嫌々ながらソ連を仲介とする案に同意した。
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 軍国日本は、スウェーデン王国終戦の為の事前交渉も行っていた。
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 アメリカにとって、まず原爆投下実験ありきであり、軍国日本の降伏はその次であった。
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 ソ連は、戦勝国に加わり、日本領である南樺太、千島列島、北方領土、北海道を戦利品として強奪するべく軍事行動を準備した。
 信用に値しないソ連(ロシア)や共産主義者に希望を託した昭和天皇と軍国日本は愚かであった。
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 グローブス「トルーマンの決定は不干渉によるものであった……既存の計画を覆す事はしないという事だ。時間が経過し、多額の予算と開発努力が注入されるに付け、政府はますます最終的な爆弾使用の方に傾いていった」「トルーマンはイエスともノーとも余り言わなかった。あのときノーというには大した度胸が必要だったろう」
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 昭和天皇は、7月末から8月初にかけて、宇佐神宮香椎宮に勅使を派遣し、徹底抗戦の姿勢を示した祭文を奉納した。
 各新聞社は、祭文を掲載して、国民に一億玉砕の覚悟を促した。
 昭和天皇は、降伏するにせよ本土決戦を行うにせよ、全ての国民が自分を信じて付いてきてくれる事を信じていた。
 反天皇マルクス主義者以外の国民は、臣民として、昭和天皇を守る為に最後の一人になるまで戦いきる事を決意していた。
 反天皇マルクス主義者は、天皇制を廃止し、昭和天皇を「逮捕監禁するか」「国外追放するか」「処刑すれば」戦争を終結できる事を知っていた。
 反天皇マルクス主義者にとって守るべきは、昭和天皇の命でもなく、天皇制度の維持でもなく、人民の命であった。
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 7月21日 ザガライアス放送「日本の指導者には選択肢が2つあります。1つは完全なる破壊とその後の強いられた和平です。もう1つは無条件降伏で、これには大西洋憲章に書かれている恩恵がともないます。この2つの選択肢のうち無条件降伏だけが日本に平和と繁栄をもたらす事ができるのです」
 ザガライアス放送が伝えた情報は、トルーマンの承認を得たものではなく、大統領軍事顧問リーヒが日本軍との戦闘で甚大な犠牲を強いられている海軍の惨状を憂慮した個人的な見解であった。
 トルーマンは、正当な大統領ではないという負い目から国民世論を意識して、軍国日本に有利な条件で無条件降伏を認める気はなかった。
 ナチス・ドイツは、戦争に敗北し軍事占領され、ナチ党政府が瓦解して政治と軍事に於ける統治機構が完全に崩壊し、国家の主権と国民の諸権利も保障される事なく完全に消滅していた。
 軍国日本は、国家元首昭和天皇の総覧の下、正統政府は国家の主権を持って停戦交渉を行っていた。
 ザガリアスら親日派アメリカ人は、本気で天皇制度を残して戦争を終結できると確信していたが、ホワイト・ハウスはその意志はなかった。
 トルーマンは、亡きルーズベルト同様に陰謀ではなく国家戦略として行動していた。
 陰謀好きなソ連中国共産党とは違って、自由と民主主義の正義を掲げるアメリカには陰謀は存在しない。
 アメリカにあったのは、陰謀ではなく国家戦略である。
 よって、ルーズベルトの陰謀は存在しない。
 日本の和平派は、ザガリアス海軍大佐のプロパガンダ・ラジオ放送を真に受けて戦争終結の手段として望みを託した。
 彼らは、冷静さを失っていた為に、全ての権限がアメリカ大統領一人の手に握られている事を忘れていた。
 東郷外相は、佐藤大使に、ソ連終戦の斡旋を依頼する事と近衛文麿を特使として派遣する事は、昭和天皇の意思によるものだと返電した。
 徹底抗戦派は、無条件降伏には国體護持は含まれていないとして猛反対し、ザガリアス放送は抗戦意欲を打ち砕く陰謀であると主張した。
 和平派としても、昭和天皇の安全と皇室の存続が保証されない限り降伏を受諾できないが、大西洋憲章を基礎とする平和回復であれば降伏できると考えていた。
 スチムソンは、グローヴス将軍から原爆実験成功の詳細な報告書を受け取り、トルーマンとバーンズに伝えた。
 グローヴス「我々のゴールがまだ先にある事を我々はしっかり認識している。日本との戦争における実戦効果こそが最も重要な目的である」
 アメリカの対ソ政策は、協調から対決に転換された。
 スチムソンは、グローヴス将軍が命令に逆らって、京都を原爆投下第一標的候補に復活させた事に激怒し、ワシントンのハリソン特別補佐官に京都を外す様に電報を打った。
 スイス公使加瀬俊一は、東郷茂徳外相に、グルー声明に皇室や国體が盛り込まれていなかった事情に関するワシントン情報を知らせた。
 「グルーの声明文は約1ヶ月前ダ(ダレス)がワシントンへ帰った時、グ(グルー)が練りに練った草案を作っていたもので、ダも相談に与った由比も声明書中に些少も日本の皇室並に国體に触れ居らざる点を見逃さないで欲しいとヤ(ヤコブソン)はいう」
 ペール・ヤコブセンは、国際決済銀行幹部。
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 戦争を止めるかどうかは、勝っている国が決める事であって、負けている国が決める事ではない。
 決定権のない日本は、アメリカの決定に従うしかなかった。
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 グローブス准将は、スチムソン陸軍長官に対して、京都は軍事都市であるとの情報をまとめた報告書を提出した。
 マンハッタン計画関係者は、京都における原爆投下実験を何としても実施させるべく働き掛けていた。
 原爆投下目標「京都」。投下地点、京都駅近くの梅小路操車場上空500メートル。
 京都の人口約50万人で、軍需工場はなく、市民のほとんどが女性、子供、老人などの非戦闘員であった。
 京都が原爆投下実験の目標とされたのは、人口が多く、都市としての広さと人口密度があり、盆地の中にある為に爆風による破壊がより発揮しやすく、原爆の実用試験の破壊効果が正確に現れ測定しやすいからであった。
 そして、日本人にとって特別な町であり破壊する事によって抗戦意欲の低下が期待でき、ヒロヒト天皇と政府及び軍部の指導者に早期降伏を促す事ができる。
 アメリカ軍は、京都への爆撃を禁止したが、警戒心を与えない範囲での戦闘機による機銃掃射は許可していた。
 Bー29が、日本陸海軍の本土上空防衛部隊による攻撃で被害が出ている為に、偽装工作として、京都などの原爆投下候補地への単機偵察を繰り返した。
 日本軍迎撃機は、単機は偵察目的の飛来で空襲をしないと慣れ、燃料節約の為に出動せず見送っていた。 
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 7月22日 海軍省は、スイスの藤村義朗中佐に和平交渉に関する極秘電は外務省に回し、所在の公使と緊密に提携して事に当たるようにとの訓電を送った。
 ベルリンの日本大使館海軍武官室とハックによる組織的和平工作は、トルーマンに直接連絡が取れるアレン・ダレスとスイスの日本公使・日本陸軍のラインに引き継がれて役目を終えた。
 アメリカ側は、東京と在外公館の暗号電報や欧州駐在の日本人外交官・軍人達の行動から、日本が戦争終結を望んでいる事を知っていた。
 トルーマンは、対ソ封じ込め政策から、日本への原爆投下を最終決定したといわれている。
 原爆投下実験が最優先事項とされ、日本の降伏はその後とされた。
 そして。日本の降伏は、ソ連の参戦ではなく原爆投下によってもたらされたとするべく、ソ連の参戦よりも先に原爆を投下する必要があった。
 昭和天皇と日本政府の降伏の希望は、こうして踏みにじられた。
 長谷川毅「もっとも重要な事実は、トルーマン自身はこの命令を発してはいないということである。ハンディー参謀副長官はマーシャルとスティムソンのみの承認を要請したが、大統領の承認を要求しなかった。マーシャルもスティムソンも大統領の許可が必要だとは考えていなかった。それは純粋に軍事的決定だとみなされていたからであろう」(『暗闘 スターリントルーマンと日本降伏』P.259)
 ジョージ・エルシー海軍情報将校「トルーマンは如何なる決定もなさなかった。というのはなすべき決定は無かったからである……彼は線路の上を走ってくる汽車を止める事が出来ない様に、これを止める事は出来なかった」
 バーンズは、ソ連の参戦を遅らせる為に、中ソ交渉を行っている国民政府の宋子文外相に合意を先延ばしする様に電報を打った。
 「赤軍が、満州に押し寄せる前に戦争を終わらせる手段」
 中国共産党と日本人共産主義者は、神国日本を共産主義化して天皇制度を打倒する為に、ソ連の一刻も早い参戦を望んでいた。
 左翼・左派のマルクス主義者は、敗戦国日本を、資本主義のアメリカではなく、共産主義ソ連に占領して貰う事を切望していた。
 スチムソンは、ハリソンからの報告を受けて、トルーマンに投下候補から京都を除外する様に要請した。
 トルーマンは、大量破壊兵器・原爆を手に入れた自信から気前よく同意した。
 スチムソンは、アーノルド空軍司令官の同意を得て、グローヴス将軍に京都を投下候補から外す様に命じた。
 スチムソンは、反日強硬派の急先鋒として、満州事変に対日戦を念頭に置く経済制裁を発動しようとし経歴を持つだけに、本気で京都の文化遺産を救おうとしたかは疑わしい。
 日米戦争の端緒を開いた張本人が、ハーバート・フーバー大統領時代に国務長官を勤めていたスチムソンであった。
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 ポツダム宣言(正式名称は「日本の降伏条件を定めた公告」)。
 ポツダム宣言は、日本人の頭上で2発の原爆投下実験を行う命令の後に発表されたのであって、前ではない。 
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 7月23日 東京の東郷茂徳外相は、アメリカで提示した降伏条件をスイス公使加瀬俊一の極秘電報で受け取った。
 ポツダム宣言東郷茂徳外相「予は米国放送による本宣言を通読して第一に感じたのは、これが〈我等の条件は左の如し〉と書いてあるから、無条件降伏を求めたものに非ざることは明瞭であって、これは大御心が米英にも伝わった結果、その態度を幾分緩和し得たのではないかとの印象を受け、また日本の経済的立場には相当の注意が向けられると認めた」
 松本俊一外務次官「我々にとっては突然の様でもり、又当然来るものが来た様にも感ぜられた。何故かというとポツダム会議前からザカリアス少将の名で、無条件降伏の条件らしいものを連日に亘って放送されていたが、今回発表された宣言は少しきつくはなっているが、大体同じラインのものだったからである」
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 陸軍戦略空軍司令官スパーツ将軍は、ヨーロッパからグアムに赴任する途中でワシントンに立ち寄り、陸軍参謀次長ハンディー将軍から原爆投下作戦の説明とグローブス将軍から原爆の破壊力の予想を聞いた。
 スパーツ将軍は、個人としては、10万人もの民間人を準戦闘員として無差別に殺傷する原爆投下には反対であったが、軍人としては、個人的意見・信条よりも上官の命令を「やむなく」優先した。
 そして、私的な人間としての個人的良心を「やむを得ない」と納得させる為に、公式な原爆投下命令の書面での発令書を要求した。
 アメリカ軍の認識では、祖国防衛を放棄して逃げる敵国人は戦争難民として扱ったが、逃げ場を失って日本軍と共に万歳突撃して来る日本の民間人を義勇兵・ゲリラと見なしていた。
 連合軍は、日本人を日本軍兵士と日本人義勇兵のみとして民間人はいない判断し、女子供に関係なく殺すべき敵と認定していた。
 日本本土焦土作戦は、日本人民間人不在論によって実行されていた。
 戦後。東京裁判に於ける、民間人への攻撃を禁じた戦時国際法における法的解釈もこの認識に立っている為に、原爆投下や無差別絨毯爆撃も問題とはされなかった。
 それは、他の国際司法機関や国際組織でも同様である。
 ハンディー将軍は、公式命令書を出す事に同意した。
 原爆投下を知っている制服軍人で、戦場で日本軍と直接戦っている将軍や提督の多くは日本を敗北させる為に「原爆投下は不要」と考えていた。
 ハリマン駐ソ大使は、スチムソンを訪れて、ソ連が対日戦参戦を理由にして要求を拡大させ朝鮮の単独統治を求める可能性があると報告した。
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 トルーマンは、原爆がいつ使用可能になるのか問い合わせる為に、バーンズをスチムソンのもとに送った。
 バーンズは、スチムソンと原爆投下日程について協議した。
 スチムソンは、トルーマンに原爆投下についてのハリソン報告を伝えた。
 アメリカ首脳は、原爆投下をソ連の参戦以前に行い、ソ連が占領地を拡大する前に日本に降伏を受諾させる、そして対日最後通牒は原爆投下前に日本に送りつける事で意見が一致した。
 つまり、日本への原爆投下は避けられないミッションとなった。
 ソ連の戦闘開始日は、「8月15日前後」と予想された。
 スチムソンからハリソンへの電報「我々は、手術が8月1日以降いつでもできると仮定している。もしもっと正確な日程が確定できたら、これは焦眉の急なので、一刻も早く我々に通報されるよう要請する」  
 アメリカ軍は、ソ連の参戦は「8月10日」という極秘情報も得ていた。
 二発の原爆投下実験は、8月10日迄に完了される必要があった。
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 7月24日 日本海軍は、降伏受諾後に残存艦艇を連合国に引き渡さない工作として、戦艦3隻、巡洋艦軽巡洋艦駆逐艦など多数を自沈させ、空襲で撃沈されたと発表した。
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 陸軍通信情報局のマジック(暗号電報解読情報)は、昭和天皇が早期停戦を切望しているという情報をトルーマンやバーンズ等に伝えていた。
 ハリソン第二電報「手術は8月1日の夜、患者の準備の状態と気候状態によって、いつでも可能である。患者の状態という観点からのみ考慮すると、8月1日から3日までは、ある程度のチャンス、8月4日から5日までは、良好のチャンス、そして、何か不測の事態が起こらない限り、8月10日までにほとんど確定的である」
 スチムソン陸軍長官は、トルーマンと会談し、ポツダム宣言天皇の身の安全と皇室の継続の保証を挿入すれば日本は終戦交渉に応ずであろうが、バーンズは戦後の対ソ政策から反対していると伝えた。
 トルーマンは、その件はすでに蒋介石にも話して了承を得ており、最後通牒草案の署名を待つだけで、今さら変更できないと念を押した。
 スチムソン「マーシャルは彼がそう言うだろうと思っていた事、つまり、新しい兵器によって、我々は日本を占領するのに、もはたソ連を必要としないと述べた」
 原爆開発責任者グローブス将軍は、ワシントンに原爆投下の準備が整った事を伝えた。
 原爆の完成により、軍事的にソ連の参戦は必要ではなくなった。
 アメリカによるソ連封じの「原爆外交」が、この時から始まった。
 トルーマン日記「ソ連が入る前に日本は手を上げると信じる」
 原爆を開発した科学者達は、放射能被爆の安全基準の見積もりについて協議するが、「低レベルの放射能は安全」とする楽観派と「甘い基準は危険」とする深刻派とが激しく対立した。
 評価すべきデータがない為に、白熱した議論を重ねても被爆基準値が出せなかった。
 被爆基準数値の判定は、日本投下後の人体被害データを収集してからとされた。
 同じ頃、医師のチームは、体内被曝が健康にどういう悪影響を与えるかの研究を続けていた。プルトニウムを注射された被験者から、癌や原因不明の病気の発病が報告された。
 現代の、国際的放射線被爆基準値はこうしたデータを基にして作成された。
 後年。クリントン大統領は、マンハッタン計画の一環として人体への被爆研究が行われていた事を認めた。
 そのデータの多くが、原子力産業の育成を指導した国際金融家のバーナード・バルークの手に渡ったといわれている。そして、ユダヤ系国際資本に渡された。
 合同軍事委員会。アントーノフ参謀総長は、ソ連は8月下旬に戦争に参加すると言明した。
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 第八回ポツダム会談。トルーマンは、休憩を利用して、スターリンに「我々は尋常ならざる破壊力を有する新兵器を持っている」と耳打ちした。
 スターリンは、本国の原爆開発担当者に一日も早く完成させる様に督促し、対日戦参戦を繰り上げる為に準備を急がせる様に厳命した。
 チャーチルは、マウントバッテン卿に、原爆が8月5日に日本に投下され、15日には日本は降伏するであろうと話した。
 スチムソンは、トルーマンに会い、昭和天皇や東郷外相らが条件付き降伏を望んでいる以上、降伏し易い様に「昭和天皇の身の安全」と「皇室の存続」を認める文言を対日最後通牒に復活させる様に嘆願した。
 トルーマンとバーンズは、スチムソン案草案から「現在の皇室の下での立憲君主制を維持」を保障する文面を削除し、日本が昭和天皇と皇室を守る為に降伏要求を拒否するであろうポツダム宣言最終案を承認した。
 チャーチルとイーデン外相は、トルーマンらの猛反対にあって、君主制を残すというイギリス案を取り下げて無修正の無条件降伏要求案を承認した。
 連合国は、昭和天皇と軍国日本が唯一の降伏条件としていた「国體護持」を却下した。
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 蒋介石は、皇室維持条項を削った警告文(ポツダム宣言)案に同意する電報をトルーマンに送った。
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 軍国日本が「皇室維持条項」のない警告文(ポツダム宣言)を受諾為ない事は、誰でも理解できた。
 スチムソンは、原爆投下やソ連の参戦前に、日本が宣言文を受諾して降伏する事を祈った。
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 トルーマン大統領は、18発の原爆投下を承認した。
 日本を焦土とし、日本人を焼き殺す為に、9月から12月にかけて計16発の原爆を投下する事を命じた。
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 スチムソンは、特別顧問ジョージ・ハリソンに問い合わせた。
 ハリソンは、8月初めであると回答した。
 スチムソンは、レスリー・グローブスが作成した原爆投下指令書を承認するとマーシャルに電報で伝えた。
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 スチムソン日記「これこそ私が欲しかったものだ、とても嬉しい、これで警告をだせる。蒋介石に宣言に加わるかどうか聞くために蒋介石に送ったところだ。蒋介石の承認があり次第、警告を出そう。そうすればハリソンから受け取った日程とタイミングが一致する」
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 軍国日本は、唯一の条件である「政治的な国家元首であり、宗教的な祭祀王であり、精神文化的な神の裔である昭和天皇の地位保全」を認めてくれれば降伏すると申し込んでいた。
 連合国は、軍国日本の唯一の悲願を拒否し、降伏の申し込みを却下した。
 アメリカは、原爆投下と目標都市を決定した。
 軍国日本の降伏と原爆投下の阻止は、不可能であった。
 アメリカが降伏の条件としたのは、昭和天皇の処分であった。
 軍国日本が降伏し原爆投下を阻止する唯一の方法は、昭和天皇を、オーストリア皇帝のように退位させるか、ドイツ皇帝のように国外に追放するか、ロシア皇帝のように処刑するか、の何れかしかなかった。
 臣民である日本人は、天皇中心の「国體」を守る為に命を犠牲にして戦っていた。
 専制君主打倒を目指す自由人日本人は、日本人の命を助ける為に昭和天皇を切り捨て、日本の歴史、伝統、文化、宗教、精神など日本的なもの全てをドブに捨てようとしていた。
 これは、民族を愛する日本民族日本人と民族を嫌う無国籍日本人の戦いでもあった。
 同時に、祖先神・氏神の人神を信仰する日本人と神を呪う反宗教無視論の日本人の戦いでもあった。
 日本人の敵は、国外ではなく国内にいた。
 そして、現代に於いてもその状況は変わらない。
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 ギャラップ世論調査では、30%近くが、真珠湾攻撃や捕虜虐待などの戦争犯罪昭和天皇の死刑を望んでいた。
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 7月25日 アメリカ軍機は、大分県津久見湾に浮かぶ保戸島国民学校空爆し、児童124人を含む127人が死亡した。
 小型戦闘機は、各地を機銃掃射して一般市民を殺害していた。
 木戸内大臣は、昭和天皇に、本土決戦になれば皇居と大本営は敵の空挺部隊の強襲で占領され三種の神器が奪われる恐れがあると上申し、緊急に講和を進める様に訴えた。
 東郷外相は、佐藤駐ソ日本大使に、天皇制度存続の可能性のある大西洋憲章に基づく無条件降伏の受諾の用意があるとして、近衛特使派遣を日本の正式要請として申し込む様に命じた。
 モロトフは、日本をあやして時間稼ぎをする必要は無くなったとして、モスクワのロゾフスキーの意見具申に不要と返答した。
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 トルーマンは、無警告による原爆投下の命令書にサインをした。但し、7月25日付けの日記には「兵士と軍事目標だけを狙い、女性や子供は対象にしない……目標は純粋に軍事的なものにして、警告文書も出す」と書き記した。
 さらに、原爆の事を「ノアとその素晴らしい方舟の後、ユーフラテス渓谷時代に預言された滅亡の火に当たるかも知れない」と書き記した。
 マンハッタン計画に携わっている一部の原子力科学者は、ホワイト・ハウスに対して、原爆を使用うれば際限のない核兵器開発競争が始まると警告した。
 バーンズらは、ソ連が参戦しアジアに共産主義圏を確立する前に、日本をアメリカに降伏させるべく事前警告なしに原爆投下を急いでいた。
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 トルーマン「私は、それを使う事に疑念は持たなかった」
 チャーチル「(使用に関して)問題ですらなかった」
 米英両国の首脳は、原爆を日本に落とす事に何ら躊躇いがなかった。
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*『原爆投下命令』
 原爆投下命令書。「第20空軍第509混成軍団は、1945年8月3日以降、天候が目視爆撃を許す限りなるべく速やかに広島、小倉、新潟、長崎の内の一つに、最初の特殊爆弾を投下せよ。特殊爆弾関係者による諸準備の完了次第、二発目を前記目標に投下せよ。前記以外の目標を選定する場合は別に指令する。この兵器の対日使用に関する一切の情報を発表する権限は、陸軍長官及び合衆国大統領だけにある。現地指揮官の発表は、許可なしに行ってはならない。一切の報道記事は陸軍省に送付する。上記の命令は合衆国陸軍長官及び参謀総長の承認のもとに発せられる。貴官は写し一通をマッカーサー将軍に、他の一通をニミッツ提督に送付されたい。陸軍参謀総長代理参謀本部トーマス・ハンディ」
 速やかに原爆を二発を続けて、目視で投下する事を命じていた。
 原爆投下実験は、二発がワンセットなっていて、一発だけで終了とはならなかった。
 なぜなら、ウラン爆弾とプルトニュウム爆弾が各一発づつだったからである。
 二発の原爆を、無差別絨毯爆撃を避けてきた非軍事都市で、非戦闘員の日本人に投下する事は、単なる軍事作戦として決定されていた。
 マーシャル参謀長は、原爆で10万人以上の民間人(女子供に関係なく)が死ぬ事と無警告で投下する事を知っていただけに、命令書への署名をハンディ次長に任せて、最初の原爆投下を命じた責任を逃れようとした。
 同様に、グローブスは命令書の受領証を書かなかった。
 トルーマン大統領も、10万人の民間人を殺す原爆投下の命令書に関する日記付きメモを廃棄した。
 トルーマン日記で、原爆投下目標を軍事拠点に限定する様に指示したとという記述が発見されたと言われる。
 現地指揮官のスパーツ将軍も、原爆二発を投下して甚大なる被害を出す恐怖から逃れる為に、上層部の命令で実行した事実を残そうとした。
 アメリカ側は、原爆投下実験命令の責任を隠蔽しようとしたが、失敗した。
 トルーマン回顧録「この命令によって、軍事目標に対する原子爆弾(単数)の最初の使用の為の車輪が動き出した。私は決定を下した。私はスチムソンに、この命令は我々の最後通牒に対する日本の回答が受け入れられるものである事を貴下に伝達するまで有効である事を伝えた」
 スチムソン陸軍長官は、「日本に立憲君主制を認める」という無条件降伏の修正が不可能と判るやポツダムを離れて帰国した。
 科学者は、原爆を確実に目標に投下する為に有視界爆撃と、原爆の威力を観測し記録をとる為に科学者の搭乗を求めた。
 マーシャル参謀長は、科学者の希望を容れて、有視爆撃が可能な天気に最初の特殊爆弾を広島、小倉、新潟、長崎に投下し、第二発目は準備できしだい残りの目標に投下するように命じた。
 軍当局は、国際法違反になるとして難色を示したが、最高軍司令官命令とあっては「やむなし」として同意した。
 何れの国の軍隊も、上官の命令は絶対であり、拒否は出来なかった。
 陸軍参謀次長ハンディー将軍は、スチムソン陸軍長官とマーシャル参謀総長の承認を得て陸軍戦略空軍司令官スパーツ将軍に原爆投下命令書をわたした。
 同時に、マッカーサー将軍やニミッツ提督に原爆投下の詳しい情報が伝えられた。
 だが。マッカーサーやミニッツは、敗色の強い日本はもうすぐ降伏すとの戦略分析から、大量殺傷兵器である原爆を投下する必要はないと猛反対した。
 原爆投下は純然たる軍事行動である以上、大統領の承認は必要では無かった。
 アメリカ軍は、最高司令官の大統領から戦闘で戦争に勝利する事を命じられた以上、持てる兵器を有効活用して日本を降伏させる事が至上命題であった。
 原爆投下は、戦争を勝利に導く為の有力な一兵器にすぎなかった。
 戦争は、勝つ事が重要なのである。
 原爆であろうとも、生物兵器でも、戦勝国は問題にはされない。
 戦犯として裁かれ、有罪となり処刑されるのは、敗戦国だけである。
 戦勝国が、戦争犯罪国家として裁かれ、有罪となり、処刑者を出す事はない。
 それが。リアリティーの国際社会である。
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 日本は、無能にも正確な情報を得られず情勢分析ができなかったのではなく、逼迫した状況下で対抗手段がないとうい絶望感から安全スパイラルに陥っていたのである。
 安全で危機感を持たない軟弱な現代の日本より、生きるか死ぬかの絶体絶命の状況に追い込まれていた当時の日本の方が数段優れていた。 
 英語が話せる話せないという、どうでも良いくだらない低次元的問題ではない。
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 7月26日 戦争終結派の宮中派と東郷茂徳外相らは、第10条と第12条を根拠にポツダム宣言受諾を主張した。
 第12条「日本国国民が自由に表明した意思による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすべてに記載した条件が達成された場合に、占領軍は撤収する」
 東郷茂徳「予は米国放送による本宣言を通読して第一に感じたのは、これが〈我等の条件は左の如し〉と書いてあるから、無条件降伏を求めたものに非ざることは明瞭であって、これは大御心が米英にも伝わった結果、その態度を幾分緩和し得たのではないかとの印象を受け、また日本の経済的立場には相当の注意が向けられていると認めた」(『時代の一面』)
 松本俊一(外務次官)「我々にとっては突然の様であり、又当然着たるものが来た様にも感ぜられた。何故かといえばポツダム会議前からザカリアス少将の名で、無条件降伏の条件らしいものを連日に亘って放送されていたからで、今回発表された宣言は少しきつくはなっているが、大体同じラインのものだったからである」
 ユダヤ人のヘンリー・モーゲンソー財務長官ら反日強硬派は、日本が二度と戦争を出来なくする為に、最貧零細農業国に落として工業生産力を奪い製品輸出で外貨を稼がないようにすべきであると主張していた。
 参謀本部ロシア課長白木末成大佐は、満州から帰還して最新のソ連軍状況を報告した。
 ソ連軍の兵力約150万人。戦車3,400台。航空機5,400機。ソ連軍が満州に侵攻するとすれば9月から10月頃と判断するが、個人的所見では8月中とする報告書を提出した。
 軍部作戦部エリートは、ソ連の参戦はあり得ないと判断し、本土決戦作戦に固執した。
 日本人エリートの習癖として、窮地に追い詰められると恐怖に脅えて冷静さを失い、自分に都合の良い情報のみを掻き集め、客観的な分析をせず、あれこれと思い悩んで判断できず無駄に時間を浪費する。逃げられなくなると、短絡反応として、拙速な判断の下で、自暴自棄的に落ち着きをなくして盲目的な行動に暴走する。
 広島の憲兵隊は、撃墜したB−29爆撃機の生存者2名を捕らえて尋問した。
 2名の捕虜は、「広島が8月6日に空爆されて焼け野原になる」ことと、アメリカ軍が「広島・小倉・長崎」の爆撃を禁止したことを、供述した。
 同情報は、広島の第二総軍と中国管区司令部に報告された。
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 連合国は、枢軸国の戦争指導者を如何に裁くを協議した。
 イギリスは、裁判が長期化するとナチスプロパガンダの場になるだけとして、即時処刑を主張した。
 ヘンリー・スチムソンは、法的・道義的正当性が保障される裁判方式を主張し、ソ連とフランスが賛同した。
 イギリスは、国際軍事裁判方式に同意した。
 スチムソンは、犯罪行為の立証が難しいとされた為に共同謀議罪を提案した。
 国際軍事裁判では、通常の戦争犯罪の他に平和に対する罪と人道に対する罪を加える事が決められた。


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