♝:50─2─ヒロシマ。一発目。ウラン型原爆投下実験成功。 アメリカ人兵士捕虜の被曝と死。1945年8月5日No.304No.305 @           

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
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 アメリカ大統領が、反共産主義トルーマンではなく、反日親中国派にしてソ連共産主義勢力との宥和政策をとるルーズベルトであったら、日本はもっと悲惨な状況に追い込まれ地獄と化していた。
 ルーズベルトよりもチャーチルの方が、にほんいとってはらかにましである。
 トルーマンチャーチルよりルーズベルトを選ぶ日本人は、歴史が見えない。
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 エドワード・テラー「愚かな実験」 
   ・   ・  【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】 ・   
 アメリカは、原爆投下の正当性、「凶悪な戦争犯罪を繰り返し、戦争を止めようとしない好戦的な軍国日本を、一刻も早く叩きのめして崩壊させる必要があった」と説明した。
 100万人のアメリカ青年を助ける為には、女子供を中心とした日本人民間人を焼き殺しても良いとされた。
 原爆投下による日本人大虐殺は、軍国日本を無条件降伏させる為の「必要悪」であった、と。
 つまり、結果が良ければ、如何なる手段も許される、と。
 原爆投下による大虐殺を正当性する理由として挙げられたのが、真珠湾騙し討ち攻撃、南京大虐殺バターン半島死の行進、泰緬鉄道などである。
 原爆投下とは、軍国日本に対する「正義の鉄槌」とされた。
 国際連合と国際司法機関は、「正義の鉄槌」を否定しないどころか容認している。
 ゆえに。核兵器は非人道的大量破壊兵器として製造・保持・使用を禁止されていない。
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 原爆慰霊碑「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しません」
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 バチカンは、原爆投下は「神の摂理」に反する行為で、「神のみわざ」ではなく「人間のしわざ」として非難した。
 ローマ・カトリック教会は、原爆を否定した。
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 『フーバー回顧録』「日本が、再三平和への移行を示したにもかかわらず、原爆投下を行った事はアメリカの歴史上並ぶ事のない残虐行為である。これは、アメリカ人の良心に対して永遠に重くのしかかってうるであろう」
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 2014年 フーバー研究所のヘンリー・ミラー「原爆投下は正しかった。なぜならあの時期、日本軍はアジア各地で毎月25万人の無辜の民を殺し続けていた」「アメリカ側に何ら倫理的な問題もない」
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 『アメリカ政府の核実験リスト』
1,地名、ニューメキシコ州アラモゴルド。核爆弾の種類、プルトニウム型。実験タイプ、塔の上に固定。……
2,地名、広島。核爆弾の種類、ウラン型。実験タイプ、空中投下。規模、1.5トン。状況、戦時下。……
3,地名、長崎。核爆弾の種類、プルトニウム型。実験タイプ、空中投下。……
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 ティベッツ「広島には何度も偵察機を飛ばした。市民が慣れて警戒を忘れたという報告を受けていた。広島市民を騙し、何時もの様に通過するだけだと思わせるのが狙いだった」
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 日本爆撃に出発する兵士全員が、カトリック・プロテスタンに分かれて、従軍している神父・牧師のミサを受けた。
 ユダヤ教徒は、神のご加護を受けた。
 絶対神は、異教徒の犯罪者である日本人を焼き殺す事を神聖な使命として、焼夷弾や原爆も祝福した。
 すべてが、絶対神の意志であった。 
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 8月5日 埼玉県浦和市は、爆撃予告ビラが撒かれた事に反応して、市民に空襲に備える様に警告を発した。
 第二総軍司令部の上級幕僚と広島市長ら民間人は、新任参謀長の歓迎会を偕行社で行った。出席した第二軍総軍上級幕僚で、2名以外は原爆での爆死を免れた。
 陸軍通信隊内で、明日6日に広島に新型爆弾が投下される恐れがあると噂されていた。
 スターリンは、モスクワに帰国するや、モロトフ、ヴィシンスキー、ベリヤ、クズネツォーフ海軍人民委員、ミコヤンなどの政府と軍の指導者を集めて、対日戦参戦と原爆使用の可能性について協議した。
 ソ連首脳部の最大の関心は、敗戦国日本からどれだけ多くの領土を奪えるかであった。
 グローブス将軍は、「広島にはアメリカ軍兵士の捕虜はいない」との報告を受けるや、広島を第一の投下目標にする事を陸軍航空部隊参謀次長ハンディ将軍に伝えた。 
 午後2時。グアムの第21戦略爆撃航空軍カーティス・ルメイ将軍は、「ミッションは8月6日に達成せられる事を確認」した。
 アメリカ軍は、広島周辺都市を爆撃する予告ビラを撒き、その幾つかを爆撃した。
 誘い出し作戦。広島は爆撃されないと信じ込ませ、一般市民が防空壕に避難せず安心して普段の生活が送れる様に仕組んだ。
 広島の周辺都市を破壊する事で、原爆被害者への食糧及び医薬品の補給と被爆者の救護及び治療を困難にさせた。
 リーフレット心理作戦は、原爆投下実験が成功する為に行われた。
 見馴らし作戦。一機で各都市の上空を定期的に通過させ、単機では爆撃しない事を信じ込ませた。
 広島は安全という神話。アメリカに移住した日本人移民の多くは広島出身であり、アメリカ軍に志願して戦っている二世部隊の祖先は広島県人であった。よって、アメリカ軍は、広島を爆撃しない。
 当時。広島は、人口全国6位の大都市(約28万人)であり、本土決戦の為に西日本を統括する第二総軍司令部が設置され、約4万3,000人の大部隊が配置された軍都であった。
 広島市民は、その噂を何の根拠もないままに信じ普段通りの生活を続け、日本国中で空爆に曝されている諸都市の不幸に同情し、空爆されない広島に住んでいる事に安堵していた。
 その為に。昼間、定期的に、上空を通過していく一機のB29に慣れきって警戒もせず見あげていた。
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 バン・カーク航法士「理科系の人間だったら核分裂について何らかの知識はあるはずだ。核分裂について知っていれば、核兵器というものが技術的には可能だという事は分かるはずだ。プラス訓練中はずっとその当時のトップクラスの原子物理学者達に囲まれていた。それが何なのか察する事は難しい事ではなかった」 
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 MI5(英国情報局保安部)ガイ・リッデル副長官日記「スイスで日本は、ヤコブセン国際決済銀行顧問を通じ、ダレス米戦略情報局欧州総局長と試験的和平交渉を始めたが、アメリカは無条件降伏に固執しながら、必ずしも皇室廃止を含んでいないとの多くのヒントを投げかけている」
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 2015年1月20日 朝日新聞「原爆で妹失う 今も自責の念
 主婦 吉川公子 (広島県 73)
 広島に原爆が落とされた時、私は4歳だから断片的な記憶が残る。
 70年前の8月6日朝8時過ぎ、爆心地から2キロほど離れた比治山本町の自宅の庭で、2歳だった妹と遊んでいた。空を見上げると灰色の『怪物』が私へ向かってきた。原爆を積んだ飛行機だったのだ。私は『怖い』と思ってあわてて家に入り、その数秒後に原爆が落とされた。
 庭にいた妹は頭から血を流して倒れ全身やけどを負っていた。家の中にいた母はガラスの破片を浴びた。火の手が迫り、母は妹を片手に抱えて比治山へ向かった。全身焼けただれた大勢の人も登ってきて悲惨な有り様だった。
 薬がもらえると聞き、母は妹を背負い、私を連れて山を下りて向かったが、死にそうな人や死者で足の踏み場もなかった。治療といっても赤チンを塗るだけ。妹は翌7日死亡。父は妹を庭の隅で荼毘に付した。母は我が子が灰になるのを見ておられず、背を向けて黙って泣いていた。
 なぜあの『怪物』をみたとき妹を連れて家に入らなかったのか、今も申し訳なく自責の念に駆られている。戦争は人殺し以外の何物でもない」
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 アメリカ軍は、広島にはアメリカ人捕虜がいないとの情報から、ヒロシマを原爆投下実験場に決定した。
 しかし、12人のアメリカ人捕虜が広島にいた。
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ヒロシマ原爆
 アメリカ軍とユダヤ人科学者達は、純度の高いウランを使用する為に原爆投下実験は成功するとの確信から、起爆試験を省略していきなりヒロシマに投下する事に決めた。
 8月6日 原爆投下は、どれだけの被害を出し、どれだけの人間を殺傷できるか、緻密な計画で実施された。
 ユダヤ人科学者は、今後の破壊力の強化の為に実験データを欲しがっていた。
 ユダヤ人は、日本人がどれだけ死のうが、幾人が生き残ろうが、どうでも良かった。
 被害者数が、数万人であろうと、数十万人であろうと、単なる統計数値にしか過ぎなかった。
 人の死ではなく、数であった。
 ユダヤ系国際資本も、莫大な利益を生む、原爆及び水爆開発と原子力産業の支配の為に、実験データを喉から手が出るほどに欲しがっていた。
 零時 テニアンのティベッツ陸軍大佐は、参加隊員との最後のブリーフィングを行った。
 従軍牧師は、原爆投下実験の成功と隊員の無事な帰還を、全能の神に祈った。
 「全能の父よ。貴方の御許天国の高い空を飛び、我々の敵との戦いを遂行する者達と共に居られせられます様に」
 航空医官は、ティベッツ機長に自決用として乗務員全員分の青酸カリのカプセルを手渡した。
 アメリカ軍は、乗務員が捕虜となり原爆情報が漏れる事を恐れて、ティベッツに墜落したさい青酸カリのカプセルを呑むのを拒否したら射殺する様に命じた。
 午前2時過ぎ 東京の特種情報部と広島の第二総軍無線傍受室など各地の通信隊傍受班は、エノラ・ゲイ号がテニアン時間午前2時45分にテニアン基地を離陸し、三機編隊で日本に向かった事を無線傍受で探知した。
 エノラ・ゲイ号のティベッツ大佐ら搭乗員は、機密保持から、不時着して日本軍に捕まり捕虜になりかけたら自殺する様に、拳銃と青酸カリを渡された。
 エノラ・ゲイ号の名は、ユダヤ語の一つイディッシュ語で読むと「天皇を抹殺せよ!」と言う意味になると言われている。(モルデカイ・モーゼ『日本人に謝りたい』) 
 四国の早期警戒レーダーは、北上して来るエノラ・ゲイ号の編隊を捕らえ追跡を開始した。
 呉鎮守府の海軍19式高角砲(最大射程1万8,000メートル)8基16門は、8,000メートルで広島に向かうエノラ・ゲイ号に照準を合わせて追尾した。
 呉高角砲部隊は、中央司令室の撃墜命令がなかった為に、エノラ・ゲイ号を撃墜できたのに見逃した。
 『原爆搭載機「射程内ニ在リ」』「つまり、呉の防衛についてなんら脅威でないと判断したからでしょう。軍とはそんなものです。まず自分たちを守る。一般の民衆を守ろうなどという発想はない。 戦争をやっているのに、敵機を見て一発も撃たない軍とは何なのでしょう。おかしいでしょう。軍は一般の国民にとって何の役にも立たなかった」
 午前7時30分頃 広島は、警戒警報も空爆警報も解除され、無防備状態になっていた。
 広島市民は、アメリカ軍の巧妙な「リーフレット心理作戦」「誘い出し作戦」「見馴らし作戦」によって爆撃はないと信じ込まされ、普段通りの生活を始めようとしていた。
 午前8時15分 原爆投下。
 広島には、アメリカ人捕虜12名がいて爆死した。アメリカ政府は、この事実を1983年まで機密扱いとして公表しなかった。
 陸海軍は個別に、被爆地広島に偵察隊を送り込んだ。
 軍部は、本土決戦を最優先として、被曝者の救護活動をせずに多くの犠牲者を見殺しにした。
 帝国軍人は、戦闘の為であれば敵軍に紛れ込んだ同胞にも銃弾を撃ち込み、進撃の為であれば前を遮る同胞を踏みつけても前に進んだ。それが、日本軍人の本質であった。
 被曝した民間人は、軍隊からも日本政府からも見捨てられた為に、お互いに助け合った。
 被曝した医師や看護婦も、自分の怪我の治療よりも、医薬品を焼失した中で運び込まれる夥しい被曝者の治療にあたった。努力むなしく、被爆者はもちろん、医師や看護婦らも、原爆の放射線障害で被爆死した。
 広島に原爆投下。
 広島人口は、民間人約30万人、軍人約4万3,000人、44年頃に強制連行された朝鮮人労働者4万5,000人、日系アメリカ人の子弟数千人、連合国軍兵士捕虜若干名。
 この時までに、朝鮮から200万人以上が日本に強制連行されていたと言われている。その中に、朝鮮独立派活動家や日本人共産主義者が相当数紛れ込んでいた。
 だが、200万人以上の朝鮮人を暴動を抑えながら強制連行するだけの輸送船と兵隊がいたとは、不思議な事であった。
 即死約14万人内軍人2万人。45年末までに約14万人が死亡し、それ以降も死亡者が絶えなかった。
 生き残っても死ぬまで原爆病で苦しみ、生まれた子供も白血病など罹って苦しんだ。
 広島周囲の捕虜収容所に約2,900人の連合国兵士捕虜が収容され、アメリカ人兵士捕虜12名が被爆死した。
 アメリカ軍は、大量の民間人が死ぬ事を知りながら、日本人は軍人はもとより一般市民まで全てが野蛮で残虐な民族で根絶やしにする相手であるという人種差別意識から、警告を発する事なく原爆を投下した。
 エノラ・ゲイ号は、広島上空を一端は素通りし、空襲警報が解除されて市民が防空壕を出た頃を見計らい、引き返して原爆を投下した。それは、被害の大きさを知る為に仕組まれた実験であった。
 ルメイ「純粋に民間人といえる者などいない」
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 近在の旧制中学や高等女学校の学生達が、死体処理の為に動員されて広島入りして放射能による二次被曝を受けた。
 海軍は江田島海軍兵学校の学生を貴重な戦力として、広島救済に派遣しなかった。 
 海軍幹部「エリート達が無用の戦力ダウンに陥ったら国家的損失である」
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 夕方。昭和天皇は、広島が新型爆弾による攻撃で壊滅したという報告を受けたが、この時の気持ちを知る者は誰もいない。
 蓮沼蕃「原子爆弾がそれ程大きな衝撃を陛下に与えたとは思われません。もっとも陛下は科学者であらせられるから、原子爆弾の威力を熟知して居られたでしょう。しかし8月8、9日迄には未だ広島の情報は十分解りませんでした。従って陛下にそれ程大きな衝撃を与える迄に至っていなかったと思います」
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 現代に於いて、日本の国内外で昭和天皇を弁護する声はなく非難する声のみが渦巻いている。
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 ユダヤ人科学者は、原爆投下実験が成功した事を喜び、ホテルに祝賀会のテーブルを予約した。
 原爆開発関係者も、失敗したら、20億ドルの公金を無駄にしたとして訴追される事を恐れていた。
 20億ドルは、当時の日本の円相場で約85億円で、日本の国家予算の9割強であった。
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 トルーマンが乗船する巡洋艦オーガスタ号は、大西洋上をアメリカに向けて航行していた。
 トルーマンは、ホワイトハウスから原爆投下実験の成功を知らせる第一報を受け取り、苦渋も後悔の念もなくただ歓喜した。
 薄汚い野蛮なイエロー・モンキーの日本人を大量に殺した事に対して、シャンパンで祝杯をあげて祝い、ドンチャン騒ぎで沸いた。
 「大きな爆弾がワシントン時間8月5日午後7時15分広島に投下された。最初の報告によれば、先の実験よりもより顕著にして完全なる成功であった事が明らかである」
 ホワイトハウスのエベン・アイヤーズ報道官は、あらかじめ用意されていた大統領声明を発表した。
 「この爆弾は、日本が真珠湾攻撃によって戦争を開始した行為に対する報復である。……原爆はさらに製造されており、より強力な爆弾が作られている……7月26日の最後通牒が出されたのは日本の人々を完全なる破壊から救う為であった。しかし、彼らの指導者は直ちにこの最後通牒を拒否した。もし彼らが我々の条件を受け入れないならば、今だかってこの地球では見られなかった様な空からの破壊の雨を予期しなければならない。この空からの攻撃に続いて海と陸からの攻撃がなされるであろう。そしてその数と力は彼らがこれまでに知っている戦闘技術をはるかに上回るこれまで見た事のないものであろう」
 アメリカは、原爆投下は真珠湾騙し討ちとバターン死の行進等に於ける捕虜虐待に対する、日本人への報復であると正当化した。
 アメリカ世論は、民間人を大量に殺戮した原爆使用を支持した。
 後年。トルーマンは、アイヤーズのインタビューを受け、原爆投下の成功で戦争は早期に終結したと答えた。
 「彼は、広島の人口について質問したところ、6万人であるという回答を受けたと述べた。彼は25万のアメリカ兵が戦死するよりも、6万人の日本人が死ぬ事の方がはるかに良い事であると語った」
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 アメリ陸軍省は、原爆投下についての声明を出した。
 各新聞は、原爆投下は、真珠湾の騙し討ちと捕虜の餓死に対する報復であると、その正当性を報道した。
 アメリカ国民世論も、戦争の早期解決の為に原爆投下を支持した。
 バチカンは、原爆の被害が尋常ではなかったとの報告を得るや、直ちに抗議声明を発した。
 だが。トルーマンの勇気を称える国と国際機関は多く、原爆投下を非難する国と国際機関はほんの少数に過ぎなかった。
 第509混成群団隊史「6日 第20航空軍は、原爆投下を妨げる防衛行為を牽制する目的で日本の諸目的を攻撃していた」
 チャーチル「日本軍の即時無条件降伏を要求する最後通牒は……拒否された。そこでアメリカ空軍は原子爆弾を広島と長崎に投下する計画を立てた。……人命の損失を最小限に為るために、7月27日ビラで、日本の都市は強烈な空爆に曝さる……という警告を与えた。翌日、6都市が攻撃された。7月31日、さらに12都市に警告……8月1日、4都市を空爆。最後の警告は8月5日になされた。それまでにB29重爆撃機は、毎日150万枚のビラと最後通牒の写し300万枚を撒いたといわれる。最初の原子爆弾は8月6日まで投下されなかった」
 8月6日夕方 NBCラジオニュース解説者H・V・カルテンボーン「ことによると、我々はフランケンシュタインを創ってしまったかもしれない。今に見ていろ、そのうち今の兵器がもっと進化したものが我々に対して使われるかも知れないのだ」
 世界に「核の恐怖」が走り、世界は「核の恐怖」に脅えて核開発競争に突入して行った。
 セントルイス・ポストディスパッチ紙「(科学は)哺乳類の世界の死亡証明書にサインし、廃墟となった地球を蟻達に譲り渡した」
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 サイパン島アメリカ陸軍航空部隊は、軍国日本の降伏を認める前にもう一発の原爆投下実験を速やかに実行する為に準備を急いだ。
 日本への原爆投下は、昭和天皇や軍国日本が回避を求めても避けられない運命であった。
 原爆投下実験は、ルーズヴェルトの意志とトルーマンの決意によって実行された。
 だが、その責任は昭和天皇と軍国日本に負わされた。
 昭和天皇と軍国日本の戦争責任とは、ルーズベルトチャーチルトルーマンスターリン、さらにはアメリカ、イギリス、ソ連、中国などの連合軍・国際連合の戦争責任を免罪する為に存在する。
 故に、日本と日本人は戦争責任から逃れる事は永久にできない。
 それは、国連の敵国条項が絶対に許さない。
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 翌46年 アメリカ空軍は、原爆投下実験を成功させたエノラゲイ号を記念し保存すべく、スミソニアン博物館に寄贈した。
 スミソニアン博物館は、科学史原子力発展に偉大な功績を残した同機を大切に保管した。
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 広島。「原爆供養塔」には、身元不明の無縁仏約7万人の遺骨が納められている。
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 2015年5月26日 産経ニュース「「一瞬で死ねたら…」 被爆死米兵、故郷で追悼式 広島で収容の捕虜
 25日、米東部ローウェルで開かれた式典で、広島で被爆し死亡したノーマン・ブリセットさんの写真を示し追悼の言葉を述べる参列者(共同)
 広島に原爆が投下された1945年8月6日、米兵捕虜として広島市内で収容されていたために被爆し、約2週間後に死亡した米海軍艦載機の搭乗員ノーマン・ブリセットさん=当時(19)=らを悼む式典が25日、ブリセットさんの故郷、米東部ボストン北郊ローウェルで行われた。
 ブリセットさんは米空母タイコンデロガの艦載機で銃撃手を務めていた。45年7月28日、広島県呉市付近の日本海軍艦艇への攻撃作戦中、搭乗機が損傷して海に不時着。被爆時には広島城近くで収容されていたとみられ、放射線の影響で同8月19日、収容先の陸軍病院で死亡したという。
 妹のコニー・プロベンシャーさん(81)は「一瞬で死ねたら良かったのに、嘔吐を繰り返して苦しんだ」と兄の悲劇を振り返り目頭を押さえた。(共同)」
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 2016年8月6日 産経ニュース「広島原爆、写真のきのこ雲は火災の煙か 米研究所が指摘
 米軍機が撮影した、広島に投下された原爆のきのこ雲とされる画像。1973年に日本に提供された「返還資料」に含まれていた
 広島への原爆投下時に撮影された有名な写真に写るきのこ雲が、爆発直後にできたものではなく、しばらく時間がたって地上の激しい火災によって発生した煙や雲とみられることが分かった。原爆を開発した米ロスアラモス国立研究所が、このほど明らかにした。
 ニューヨーク・タイムズ紙は、オバマ大統領の広島訪問に先立つ5月、写真について「実は“きのこ雲”でなかった」と驚きを交え報じた。
 同研究所のロアーク報道官によると、爆発直後のきのこ雲は数分程度で消える。写真の規模の雲が直後にできたとすると、広島の原爆とは比較にならない威力が必要で「火災による煙の柱」と分析した。
 写真は1973年、米国が日本に提供した「返還資料」の中にあった。複製を展示する広島の原爆資料館は「米軍機より撮影したきのこ雲。松山市上空から撮影」と説明している。(共同)」






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