🎺54:─5─ナガサキ。プルトニウム型原爆投下実験。アメリカ合衆国の核爆破実験と生体実験。ソ連対日戦参戦。1945年8月9日~No.268No.269No.270No.271 @ ㉟

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昭和天皇は、ソ連が日ソ中立条約を破って侵攻したとの報告を受けるや、自ら戦争終結=降伏交渉に動く事を決断した。
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 カナダは、日本人の上に投下する原爆の材料であるプルトニウムを造ってアメリカに提供した。
 プルトニウム型原爆は、カナダが協力しなかったら完成しなかった。
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 広島・長崎で原爆の犠牲となった者の中で、軍関係に勤労動員されていた少年少女達は「公務死」と認定して靖国神社に合祀している。
 靖国神社とは、国家の命令で祖国を外敵の侵略から護る為に戦死した日本人を神として祀る神社である。
 祖国を守って戦う事が、軍国主義として否定された。
 それが、諸外国から非難される、靖国神社参拝問題であり歴史認識問題である。
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 ブラッケット教授(イギリス)「原子爆弾の投下は、第二次世界大戦の最後の軍事行動であったというよりも、寧ろ目下進行しつつあるロシアとの冷たい外交戦争の最初の大作戦の一つであった」
 マーティーン・J・シャーウィン教授(アメリカ)「原爆が第二次世界大戦終結をもたらしたというより、むしろ戦争終結を遅らせたという事だ」
 バートン・バーンスタイン教授(アメリカ)「一発目の原爆投下の必要性をどうのように考えるかはともかく、8月9日に長崎に落とされた二発目の原爆は、ほぼ間違いなく不必要なものだった」
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 グローブス将軍は、11日に予定されていた二発目の投下を、天候の悪化を理由にして9日に繰り上げるように命じた。
 アメリカは、意地でも、軍国日本が降伏したのは原爆投下によるものであるとの歴史的証拠を残そうとしていた。
 ソ連軍の参戦が降伏の理由とはしたくなかった。 
 グローヴス少将は、軍人として原爆2発を日本に投下した理由を軍事戦略的に説明した。
 第一は、ウラン型とプルトニウム型の二種の破壊力と殺傷能力の効果を確かめる為。
 第二は、ソ連に対して大量破壊兵器・原爆の保有を示す為。
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 アメリカ軍とユダヤ人科学者は、原爆の開発強化の為に、放射能や熱線や衝撃波ではなく爆風(マッハステム)の破壊力を知る必要があった。
 ナガサキ原爆投下実験は、マッハステムで都市に最大の被害を出せる高度が計算されて爆発させた。
 長崎と日本人は、核兵器開発の為の実験体に過ぎなかった。
 アメリカ軍とユダヤ人科学者は、敗戦後直ちにヒロシマナガサキに入り、原爆の破壊力をくまなく調査した。
 そこに存在するのは、白人による日本人に対する人種差別であった。
 白人は、日本人を人間ではなく実験動物と見なし、原爆投下実験の為に罪の意識を感じる事なく虐殺した。
 ナガサキの原爆投下は、アメリカ軍とユダヤ人科学者の強い希望によって実行されてもので、日本が如何様に行動しようとも避けられないものであった。
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 8月9日 朝日新聞「敵の非人道、断乎報復 新型爆弾に対策を確立
 敵は口に正義人道を唱へつ々無辜の民衆を爆殺する暴挙に出ている」
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 8月9日 ソ連(ロシア人)は、おぞましい程に陰険であった。
 共産主義者など、元から信用できる人間ではなかった。
 午前2時(モスクワ時間8日午前5時) モロトフ外相は、佐藤大使に、ソ連軍が日本軍に対して軍事行動を開始すると通告した。
 東郷外相は、一縷の望みとして、ソ連(ロシア人)を通じての和平に期待を掛けていただけに、裏切り的な宣戦布告に絶望した。
 日本は、窮地に追い込まれていたとはいえ、信用できない天皇打倒の共産主義者を信用した事が愚かな間違いのもとであった。
 共産主義者は、ロシア皇帝一家同様に昭和天皇とその一族を皆殺にし、ロシア帝国同様に神国日本を滅ぼす事しか考えはいなかった。
 午前3時 関東軍司令部は、全部隊にソ連軍の侵攻に備える様に作戦命令を発した。
 ザバイカル時間8月9日零時 ソ連軍約150万人は、三方向から満州に侵入を開始した。
 ソ連軍司令官ペロボロドフ大将は、占領地に「夜間外出禁止」の張り紙を貼った。
 同時に、「日本人の生命財産は保証しない」事を暗黙の了解事項とした。
 ソ連軍内の囚人部隊は、各地で日本人避難民団を見付けるや襲いかかり、暴行、強姦、強奪を勝利者の当然の権利としておこなった。
 共産党員政治将校は、犯罪集団である囚人部隊の残虐行為を黙認した。
 中国人や朝鮮人等も、ソ連軍に負けないように、日本人難民団を見付けしだい襲撃して虐殺、強姦、略奪を行った。
 敗残者には、一切の権利がないのが大陸に於ける戦争の実態である。
 関東軍は、71万3,000人の兵力を持っていたが、内実は緊急召集した開拓民でまともな武器も持っていなかった。
 午前4時頃 日本政府は、タス通信のモスクワ放送やアメリカのサンフランシスコ放送などでソ連の宣戦布告を初めて知った。
 外務省は、南京、北京、上海、広東、モンゴル・張家口、バンコクサイゴンハノイの在外公館に、ソ連が中立条約を破って宣戦布告した事を伝えた。
 イギリスの政府暗号学校(ブレッチャー・パーク)は、極秘暗号電報を傍受し解読して最高機密文書「ウルトラ」に保管した。
 電報「ソ連は8月9日宣戦布告した。正式な布告文は届いていないが、宣戦文の全文と日本政府の声明がマスコミで報道された」
 関東軍は、モスクワ放送を受信し為てソ連の宣戦布告を知り、直ちに東京の大本営に通報した。
 大本営は、対ソ戦略を即座に「満州防衛」から「皇土朝鮮保衛」に切り替えた。
 関東軍総参謀長秦彦三郎中将は、大本営ソ連軍侵攻を知らせ、対応指示を求めた。
 大本営は、ソ連は中立を守って参戦しないとの判断で本土決戦作戦を立案していた為に、大混乱して判断不能に陥っていた。
 関東軍は、長期抗戦を名目として、全部隊に後退を命じた。
 満州の開拓民達は、荷造りに手間取って退避する時機を逸してソ連軍の攻撃を受けた。
 ソ連軍は、日本軍であれ、日本人避難民であれ、日本人と見れば容赦なく殺害した。
 関東軍が撤退した所では、満州軍が反乱を起こし、中国共産党軍も市民や学生を動員して混乱を煽っていた。
 抗日中国人は、南を目差して逃避行している日本人避難民を容赦なく襲っていた。
 トルーマンは、8日午後3時に、ソ連の参戦を伝える記者会見を行った。
 バーンズ国務長官は、ソ連の参戦は、43年のモスクワ宣言の第五パラグラフと国連憲章第103条及び第106条によって正当化されるとの公式見解を発表した。そして、世界平和を回復し国際正義を招来するという現実問題から日ソ中立条約には違反しないとの見解を示した。
 トルーマンは、日本の降伏は明らかとなったが、日本に二発目の原爆を投下する為に飛行しているBー29爆撃隊に中止命令を出さなかった。
 原爆投下司令部は、原爆を搭載したB−29を投下させず帰投させる事は、安全着陸が出来るかどうかわからず、原爆の海上投棄は政治的に無理であると判断した。
 つまり、「原爆投下あるのみ」というのが最終判断であり、原爆投下が完了するまでは日本の降伏は受け容れないと決定された。
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 アメリカ空軍は、大阪や福岡などに原爆投下予告ビラ160万枚を撒き、小倉への安全投下する為の牽制行動をとった。
 長崎の原爆投下予告ビラは、原爆が投下された事を知らない別のB29が撒いた。
 原爆投下を見聞したファレル准将、パースンズ陸軍大佐、アシュワース海軍中佐、ラムゼイ博士の四名は連名で、ワシントンに対して、日本軍の高射砲や戦闘機の反撃で原爆機は危険に晒されつつあると報告し、今後の原爆投下の成功は覚束ないと警告した。
 サイパンの航空司令部は、三発目以降の原爆を取りB29二機を本国に派遣した。
 ワシントンは、原爆投下実験の予想以上の大成功から更なる増産を命じた。
 だが。トルーマンは、広島や長崎の原爆被害報告を読み、大量破壊兵器である原爆の無差別殺傷能力に始めて気付いて恐怖し、二度と原爆投下命令を出さない事を誓った。
 そして、日本が降伏できる様に無条件を緩和して「国體護持」を認めた。
 世界常識は、国家元首昭和天皇の身の安全と祭祀王家・皇室の存続を保障しないポツダム宣言を無条件で受諾しなかった、軍国日本に責任があるとされた。
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ナガサキ原爆
 イギリスは、原爆の威力を知る事とイギリス人兵士200人以上が小倉の捕虜収容所に収容されている為に、第二回原爆投下実権部隊に2名の使者を同乗させた。
 アメリカ軍諜報部は、日本国内の協力者から、「小倉造兵廠は毒ガス兵器を生産し、大量の毒ガス弾を地下タンクに貯蔵している」との極秘情報を得ていた。
 午前2時56分 原爆を搭載したスウィーニー少佐の操縦する77号機(旧名、ロスト・パラダイス。失われた楽園)が、テニアン島を飛び立ち、三機編隊で第一次目標であった京都の代替地とされた小倉に目差して北上した。
 午前6時頃 日本軍の各諜報部隊は、広島に原爆を投下した爆撃隊と同じコールサインを発する特殊任務部隊が日本に接近している事を電波傍受で掴み、大本営に報告した。
 先発の気象観測機は、小倉は快晴と報告した。
 午前6時 陸軍参謀本部参謀次長河辺虎四郎中将は、ソ連参戦の第一報を受け取った。 「ソは遂に立ちたり!余の判断は外れたり」
 早朝 外務省首脳は、皇室安泰の一条件でポツダム宣言受諾しかないとの結論に決定した。
 東郷外相は、鈴木首相宅を訪れ外務省決定の承諾を得るや、海軍省に向かって米内海相の承諾を得た。
 河辺は、梅津参謀総長に対して、全国に戒厳令を敷き、必要であれば軍部独裁政権を樹立し、本土決戦に備えるべきであると意見具申した。
 梅津参謀総長は、優柔不断に、同意とも反対とも意思表示を避けた。
 河辺は、梅津説得を諦め、阿南陸相に賛同を求めた。
 阿南は、好意的な態度を示して一任する様に答えた。
 8時 大本営において、ソ連参戦を受けて今後の作戦を協議したが、日ソ中立条約は有効である以上はソ連を敵にすることは好ましくないとして、対ソ宣戦布告はしない事を決定した。
 9時 陸軍省は、ソ連を中立の立場に戻しすべく外務省に努力させ、国體護持を勝ち取るまで徹底抗戦する事を決定した。
 だが、戦争に勝利するという確信を持つ者は一人もいなかった。
 日本人エリート集団の、状勢を、冷静に判断できず、的確に決断できず、迷わず実行できないという、他人任せの無責任な愚劣さが暴かれた瞬間であった。
 何時の時代も、こうした世間知らずのエリート集団によって日本は悲劇を迎える。
 午前10時頃 77号機は、原爆投下をする為に高度9,500メートルに変更して小倉に侵入した。
 小倉造兵廠防衛の高射砲隊19式高射砲は、照準を合わせながら砲撃を開始した。
 陸軍防空戦闘機「五式戦」は、迎撃する為にターボエンジンを全開にして高速で急上昇し、爆撃のタイミングを狂わせる為に追撃しつつ撃墜を試みた。
 陸軍無線傍受隊は、敵爆撃編隊から洩れてくる無線を拾っていた。
 小倉造兵廠や八幡製鉄所などの工場群は、空襲警報と共にコールタールを燃やし発煙筒など点火して目視投下を妨げた。
 77号機は、45分間で3度の原爆投下を試みたが目視投下でできなかった為に、10時30分に第二目標の長崎に向かった。
 長崎の捕虜収容所には、1,400人のアメリカ兵捕虜がいたといわれている。
 スウィーニー少佐は、無線封止を破って、陸軍航空本部に長崎の捕虜収容所の存在を問い合わせた。本部は、作戦続行を命じた。
 日本側の陸海軍の通信傍受部隊は、この交信を傍受していたといわれている。軍部は、長崎に対して緊急警報を発しなかった。同様に、長崎防衛の任にあった高角砲部隊は沈黙し原爆搭載機の通過を黙認した。
 大村の海軍戦闘機部隊には、B29を撃墜できる最新鋭戦闘機「紫電改」が配備され、優秀な戦闘機乗りが集められていたが、出撃命令はもちろん待機命令も出されていなかった。
 当然、長崎市内には空襲警報が出されたが、広島を教訓とした退避命令は出されなかった。
 海軍側の原爆投下に関する傍受記録は、敗戦と共に焼却されて残っていないといわれている。
 更に、アメリカ海軍機動部隊と行動していたイギリス海軍空母部隊もこの事は知っていたといわれている。
 10時10分 木戸内大臣は、鈴木首相に、「ポツダム宣言を利用して戦争の終結」を願う昭和天皇の意向を伝えた。
 和平派は、国體護持は皇室の存続のみとしてポツダム宣言受諾で戦争を終結させるべく、各方面を説得して回った。
 大半が、日本を共産主義化させない為にも、速やかに一条件で降伏を受け容れるべきであるとして同意した。
 軍部内の良識派は、事ここに至っては降伏もやむを得ないが、皇室の存続以外に自主的武装解除、自主的戦争犯罪裁判、部分的占領の四条件を国體護持に加える様に要求した。
 午前10時30分頃から午後2時30分頃まで、宮中で最高戦争指導会議が開かれたが結論は出なかった。
 東郷外相と米内海相終戦派は、「国體護持」のみを譲る事のできない絶対条件としてポツダム宣言を受け入れるべきであると主張した。
 阿南陸相と梅津参謀総長と豊田軍令部総長ら抗戦派は、「国体護持」はもちろんであるが、「戦争犯罪人の処罰」に関して、不公正になりやすい戦勝国主導の裁判ではなく日本の立場が通るような裁判を要求した。
 豊田副武原子爆弾の惨禍が非常に大きい事は事実であるが、果たしてアメリカが続いてどんどんこれを持ち得るかどうか疑問ではないか」
 日本人の判断は、自分に都合のいい方向に向き、情報を軽視し、情報を生かそうとせず、全てに於いて甘かった。
 堀栄三(陸軍特殊情報部)「8月9日も同様にキャッチしたが、処置なし。後の祭りとなる」
 11時少し前 皇居の地下室で最高戦争指導会議が開かれた。出席者の全員が、原爆とソ連参戦という事態に至ってはポツダム宣言の受諾で戦争を終結させるしかない事は、個人の意見として理解していた。
 米内「皆黙って居ても致し方がない。話しを進めて行く順序としてこんな問題を取り上げて研究してみたらどうだろう。即ちポ宣言を受諾するにしても無条件でいいのか。あるいはこちらからも条件を出すか。条件を付けるとすればどんな条件を列べるか。私の思い付きであるが次の四つの項目について研究してみたらどうかと思う」
 1,天皇制。
 2,武装解除
 3,戦争犯罪人
 4,保障占領。
 阿南陸相は、陸軍省内の徹底抗戦派若手エリート参謀団の突き上げを受けていた為に、降伏反対を主張した。
 梅津参謀総長と豊田軍令部総長は、沈黙し、阿南発言を支持しなかった。
 阿南は、戦争継続を断念し、有利な条件での降伏に同意した。
 会議は、昭和天皇が希望する様に、ポツダム宣言受諾による降伏が承認された。
 議題は、降伏条件として、連合国に「皇室の安泰」のみの一条件を求めるのか、「国體護持」として四条件を求めるかで激論となった。
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 午前11時1分 77号機(旧名、ロスト・パラダイス)は、日本海軍の高角砲隊や航空隊の妨害を受ける事なく、長崎に二発目の原爆を投下した。
 長崎投下は、三菱兵器工場などの軍事施設ではなく、一般住民の多い市中心部であった。
 軍部は、国體護持と本土決戦の為に、原爆投下を見逃し、長崎市民を見殺しにしたといわれている。
 被曝した長崎市民を積極的に助けたのは、同胞の日本軍兵士ではなく、敵のイギリス人軍兵士捕虜などであったといわれている。キリスト教の隣人愛を信仰する彼等にとっては、当然の義務であった。
 武田友助(長崎市役所防衛課長)「私は、軍・民の連繋がいかにまずかったか、また軍があまりにも秘密主義にこだわったため、原爆による被害を、特に大きくしたのではないかと、悔やまれてならなかった」
 古川愛哲「収容所と作業場への監視兵は陸軍だが、長崎への原爆攻撃を知っていたのではないか。 むろん、証拠になる文書の記録はないが、陸軍の行動がすべてを物語っている。米軍のビラも、中波の日本向け放送の『サイパン放送』も盛んに警告をしていたからである。 かように長崎でも、広島と同じ醜態と醜悪な同胞への犯罪が繰り返された。捕虜でさえ同情するほどの困苦に耐えて戦争を支えていた長崎市民は、県庁幹部の内務省官僚にも陸軍にも裏切られたのでる。 この日本の恥部ともいえる事実を私は記さなければならない。身を切られる思いはするが、歴史的事実は事実として苦渋を込めて書かねばならない。 その責にある高官や官僚だけが自らの安全を確保し、情報を秘匿して、市民を犠牲にする。そのようなことが繰り返されるのも、原爆投下に際しての歴史的事実が、世の語られないからである」(『原爆投下は予告されていた』P.182・183)
 『長崎俘虜収容所』「原爆が長崎に落とされた時爆心地から1,700メートル程の幸町の俘虜収容所第14分所には24人のオーストラリア人を含む169人の俘虜がいた」
 佐々野松一「無表情に、バケツで水をかけてくれるアメリカのこの捕虜の姿に、敵性国人の意識感情を越え、人間と人間の結びつきを覚えた。彼等に心の中で手を合わせた」(『日本の原爆記録 9』)
 長崎新聞(1997年9月17日)「捕虜達は自ら大やけどを負っているにもかかわらず、私達を畳に座らせ水筒を差し出してくれた。それまで学んだ怖い外国人のイメージとは違いとても親切で、涙が出るほどうれしかった」
 長崎に原爆投下。死者7万人以上。
 トルーマンのラジオ声明「我々は、爆弾を開発して使用した。真珠湾で我々に警戒する事なく攻撃した相手に、アメリカ人捕虜を餓死させ、殴打し、処刑した相手に、そして、戦時国際法を遵守する素振りさえかなぐり捨てた相手に、原爆を投下した。我々は戦争の苦しみを早く終わらせる為に、数多くの命を、数多くのアメリカの青年を救う為に、原爆を投下したのである」
 日本嫌いのアメリカ国民世論は、真珠湾で卑怯な騙し討ちした極悪人日本への懲罰として原爆投下を全面的に支持した。
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 アメリカ軍は、国民世論を意識して、長崎の捕虜収容所にいるアメリカ軍兵士を原爆から助ける為に、原爆投下を日本側に事前警告したといわれている。
 日本陸軍特殊情報部は、原爆を搭載したB29が日本に接近しているという情報を上層部に報告した。 
 日本海軍は、原爆投下を知りながら、市民の避難を行わなかったという。
 軍首脳部は、アメリカが一瞬で大勢の市民を殺す様な原爆投下をまた行うとはないと、自分に言い聞かせる様に報告していた。
 日本のエリートは、欧米列強のエリートに較べて非情冷徹であっただけに、国民の命を軽視して大義の為に見殺しにした。それが、役人根性といわれた日本の官僚組織の本質であった。
 長崎の捕虜収容所にいた連合国軍捕虜数人が死亡したが、アメリカ人兵士捕虜は奇跡的に無傷で被爆を免れた。
 長崎は、軍港であると共に、多くの殉教者を出したキリシタンゆかりの聖地である。
 徹底抗戦派は、「国體護持」を理由にして、本土決戦と一億総玉砕を主張した。
 天皇は、御前会議で、政府が機能を失った為に、ポツダム宣言を受諾するという聖断を下した。「当時、私の決心は第一に、このままでは日本民族は亡びてしまう、私は、赤子を保護する事ができない。第二には、国體護持の事で木戸も同意見であった」
 全米キリスト教会協議会G・オックスナム議長とジョン・フォスター・ダレスらは、原爆投下は犯罪行為に当たるとして使用停止を求めた。その頃すでに、2発目が投下されていた。
キリスト教徒の国家であると自称する我々が原子力エネルギーをこの様な方法で使う事に道徳的な疑問を感じないとしたら、他の国の人達もそれに倣う事であろう。核兵器は戦争の通常兵器であると見做され、人類は突然、最終的な破滅を迎える舞台が整ったと言えよう」
 トルーマンは、日本人の狂信的徹底抗戦を理由にして、「多くの若いアメリカ人の命を救う為に原爆を投下した」と宣言した。
 新聞や雑誌やラジオ放送は、民間人の殺傷を回避する為に原爆が使用された事を称賛し、戦争終結に有効であると肯定的に報道した。
 トルーマン「世界は、最初の核爆弾が軍事基地である広島に投下された事に注目するでしょう。それは、我々がこの最初の攻撃において、民間人の殺戮をできるだけ避けたかったからです。もし日本が降伏しないならば、爆弾は日本の軍需工業施設に投下されなければならなくなるでしょう。そうなれば、不幸にして、多数の民間人の命が失われるでしょう」(8月9日)
 アメリカは、ソ連が参戦して共産主義を拡大する前に、日本政府が渇望していた「天皇の安全」をようやく保障した。
 天皇は、2600年続いた皇統と国民の命が守られるとして、ポツダム宣言受諾する事に聖断を下した。
 連邦キリスト教会評議会は、トルーマンに対し、原爆は無差別の破壊であり人類の未来に危険をもたらすと多くのキリスト教徒が苦悩しているという電報を打った。
 トルーマンは、日本人に投下した原爆の正当性を伝えた。「彼等には、爆弾という言葉でわからせるしかない。獣を扱うときにはそれなりの方法を取らねばなりません」
 ザ・クライシス誌(全国有色人種向上協会)「誰が野蛮人で、誰が文明人なのか?」
 良心的な非白人の間から、原爆投下は白人のドイツ人ではなく非白人の日本人に投下された事から、背景に人種差別があったのではないかという疑問の声が起きた。そして、如何に敵とは言え日本人を動物扱いする事は人の尊厳を踏みにじる行為であると非難した。
 だが、日本人と古代から敵対関係にあった中国人や朝鮮人は、侵略者日本人の上に原爆を投下した事を熱烈に歓迎した。
 さらに、強制連行されて被曝した韓国人は、日本政府に対して慰謝料と治療費を請求する裁判を起こした。
 人道派日本人弁護士と左翼・左派系市民団体は、韓国人被爆者の裁判闘争を支援し、戦争を早期に止めなかった昭和天皇の犯罪を子供達に教えた。
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 ロシア革命やドイツ革命を教訓として、徹底抗戦派若手将校団のクーデターや共産主義革命を避ける為に、極秘で降伏交渉を開始した。
 ソ連は、あと1年の有効期限がある日ソ中立条約を破棄して、日本が降伏する前に慌てて宣戦布告した。
 ソ連軍は、中国の合意を得る前に、満州に侵攻して弱体化した関東軍を攻撃した。
 ソ連軍兵士達は、ドイツのベルリン同様に満州各地で殺戮と略奪と強姦の限りを尽くした。
 ソ連軍と行動を共にした日本人共産主義者は、被害に遭っているのは軍国主義者や天皇信奉者であり、彼らは中国人民を抑圧した犯罪者であるとして黙認した。
 日本人共産主義者は、日本を共産主義化する為に、アメリカ軍より前にソ連軍を日本に上陸させようとしていた。彼等は、日本をソ連に売り渡そうとしていたのである。
 日本軍兵士や日本人非戦闘員約60万人(一説に100万人)を強制連行して、奴隷的重労働を強いながら洗脳教育を行った。
 日本の政府宣伝機関である同盟通信社は、長崎の惨状をありのままに世界中に配信し、原爆の非人道的虐殺を訴え、残留放射能の恐怖を伝えた。
 マンハッタン計画に携わった科学者は、残留放射能を否定し、放射能による被害は日本の謀略であると報告した。
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 大本営陸軍部「東京では9日、ソ連の意外の参戦によって、戦争指導に混乱的様相を呈し始めた。長崎の原爆がそれを深めた事は確実であるが、これはパニックの主因ではない」
 最高戦争指導会議の激論途中で、長崎に対する原爆投下の報告が入ったが、二発目の原爆は議事進行に影響を与えなかった。
 東郷外相は、戦争を終結させる為に一条案を主張した。
 阿南と梅津は、戦争犯罪人問題と保護占領問題を強調した。
 豊田は、武装解除は慎重に進めないと暴発する危険があるので、連合国側との協定を結ぶべきであると主張した。
 東郷は、四条件を付けて拒否されたら戦争を継続するしかないが、軍部は勝てる見込みがあるのか問い質した。
 阿南は、勝つとは確信を持ってはいえないが、まだ一戦は出来ると答えた。
 東郷は、敵軍を本土に上陸させないだけの成算があるのかと聞いた。
 梅津は、上手くゆけば撃退できるが、戦争は作戦通り上手くゆくとは限らないと述べた。
 東郷「上陸部隊に大損害を与えても或いは一部は上陸して来ると言う事になる訳だ、尚又或る時期を経た後に第二次の上陸作戦が予想せらるる訳だ、しかも第一の上陸に際しての戦闘に於いて、日本の方は飛行機その他の重要兵器を失って其の後短期間に補充する見込みは立たない事になる。それでは原子爆弾の問題は別とするも第一次上陸戦終了の後に於ける日本の地位は全く弱いものになってしまうではないか。そうすればその戦闘によって相手に損害を与え得ると言う事は別問題として、上陸戦後に於いて相手国の地位と日本国の地位と比較して、我が方は上陸戦前よりも甚だしく不利なる状況に陥るものというべきである」
 会議は結論がでずに午後1時に一応休会し、午後に予定されている閣議後に再開する事となった。
 大西滝治郎軍令部次長は、陸軍省内の継戦派と協議し、四条件による国體護持を主張して本土決戦に持ち込む事で意見が一致した。
 午後1時半 鈴木首相は、木戸内大臣に、会議の経過報告をした。
 細川護貞は、近衛文麿の内意を受けて軍令部の高松宮を訪れ、四条件では皇室と日本民族は破滅すると説得した。
 高松宮は、木戸に電話をかけて、皇室の安泰以外の条件を除外する様に意見を述べた。
 木戸は、軍部を押さえて戦争を終結させる為には四条件はやむを得ないと答えた。
 軍部内の若手参謀エリート集団は、ポツダム宣言受諾を承認した首脳部への不満が噴出し、本土に於ける最終決戦を行う為に「国體護持」を声高にわめき散らしていた。
 2時半〜5時半 首相官邸で緊急閣議が召集された。米内海相は、物理的精神的に戦争継続は不可能である以上は、一条件のみでポツダム宣言を受諾すべきであると主張した。
 阿南陸相は、アメリカ軍兵士捕虜の尋問による報告として、アメリカ軍は原爆を100発以上持ち、次に東京を標的にしていると発言した。だが、軍部としては屈辱的な降伏を受け容れるよりも徹底抗戦を求めると譲らなかった。
 3時 近衛は、木戸と親しい関係にある重光葵と会い、木戸を説得する様に要請した。
 昭和天皇は、木戸から鈴木の報告を聞き、国家の名誉を守る為にポツダム宣言受諾に四条件を付帯する事を承認した。
 木戸は、昭和天皇に責任が及ばない様にする為の工作を始めていた。
 4時 重光は、木戸に会って、軍部を押さえて戦争を終結させる為には昭和天皇の勅裁しか方策がない事、時間を浪費するとソ連軍が北海道に上陸し占領する恐れがあり、戦後の占領政策天皇制度廃止論のソ連が影響を及ぼす恐れがあると訴えた。
 松平康昌は、高木惣吉海軍少将、松谷誠陸軍大佐、加瀬俊一ら和平派との協議結果を木戸に「ソ連共産主義の脅威」が迫っていると報告した。
 4時35分〜5時20分 木戸は、昭和天皇に拝謁して協議し、国體護持を「皇室の安泰」という一条件案にする最終決定の承認を得た。
 そして、今夜開かれる御前会議で勅裁を持って申し渡す事となった。
 世にいうところの「聖断」である。
 日本独自の伝統である天皇制度を維持し、日本を共産主義化しない為には、これ以外に手段がなかった。
 閣議後。迫水久常内閣書記官長と松本俊一外務次官は、軍部の継戦派を押さえて戦争を終結させるには聖断しかないとの意見で一致した。
 鈴木首相は、木戸内大臣閣議が紛糾している事を報告した。
 木戸は、昭和天皇が一条件でポツダム宣言の受諾を支持し、御前会議を開く事に同意してる事を告げた。
 6時半 第二回閣議。国體護持をめぐり、東郷と米内は一条件案を主張し、阿南は四条件案を譲らなかった。
 安井国務相、松坂法相、岡田厚相、阿倍内相らは、四条件案を支持した。
 東郷は、マリク駐日ソ連大使からの会見要求を多忙を理由にして拒否した。
 10時半 鈴木首相は、意見がまとまらない為に討議を中止した。昭和天皇に経過報告し、さらに最高戦争指導者会議で協議する事告げて休会した。
 10時50分 木戸内大臣は、約3分間、昭和天皇に拝謁した。
 鈴木と東郷は、昭和天皇に拝謁して討議の経過を報告した。
 鈴木は、最高戦争指導会議を御前会議として開催する件と、異例の措置としてその席に平沼騏一郎枢密院議長を出席させる事の許可を要請し、昭和天皇の承認を得た。
 迫水は、事前に、梅津参謀総長と豊田軍令部総長に虚偽で御前会議の招集に同意する署名花押を得ていた。
 陸軍軍務局長吉積政雄中将と海軍務局長保科善四郎中将ら陸海軍の継戦派は、迫水に「約束違反である」と怒鳴り込んだ。
 阿南は、迫水の執務室を訪れ、両者の間に入り、迫水の嘘の説明で納得してその場を鎮めた。
 11時50分 御前会議。迫水が、これまでの討議の経過説明をし、一条件案と四条件案の内容を報告した。そして、「三国共同宣言に挙げられたる条件中には日本天皇の国法上の地位を変更する要求を抱合しおらざる事の了解の下に日本政府はこれを受諾する」という甲案が配られた。
 鈴木、東郷、米内、阿南、梅津、平沼、豊田と所信を述べた。
 鈴木は、討議を重ねても意見がまとまらないとして、昭和天皇の聖断を仰いだ。
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 ウィリアム・L・ローレンス「(見ならし作戦)彼等は当時、……B29の小編隊を日本人に見馴れさせる為に模擬爆弾を積んで訓練飛行をしていた。日本人が原爆機に注意を払わなかった理由はこれであった」(『0の暁』)
 リチャード・ローズ「訓練出撃の目的は……戦闘訓練を積む為と、護衛なしで高い高度を飛ぶB29の小編隊に敵を慣れさせる為であった」(『科学と国際政治の世界史 原子爆弾の誕生 上下』)
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 2015年6月10日 産経ニュース「長崎の悲劇「避けられた」 原爆投下、技術者も反対
 米フロリダ州の自宅でインタビューに応じるジェームズ・ショーキ氏(共同)
 米国が原爆を開発した「マンハッタン計画」に技術者として参加したジェームズ・ショーキ氏(91)は9日までに米フロリダ州の自宅で共同通信の取材に応じ、市民を巻き込む原爆の実戦使用には反対だったと証言、少なくとも「長崎への投下は避けられたはずだ」と述べた。
 マンハッタン計画には、科学者のほか技術者、兵士などピーク時には約12万5千人が参加したといわれる。原爆の破壊力を熟知した科学者の間では実戦使用をためらう声があったことが知られているが、ショーキ氏の発言は現場の技術者の間でも消極的な意見が広がっていた実態を裏付けるものだ。
 ショーキ氏は特に長崎への投下について「二つ目の原爆に動揺した。日本政府は(広島投下で)混乱しており、もう少し時間を与えるべきだった」と指摘。広島投下だけでポツダム宣言の早期受諾に結びついたはずとの認識を示した。
 さらに「(1945年7月の米西部ニューメキシコ州)アラモゴードでの(人類初の核)実験で、原爆がすさまじい兵器だと知った」と振り返り、投下には反対だったと語った。(共同)」
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 2015年8月9日 産経ニュース「対日宣戦布告時、ソ連が公電遮断 英極秘文書
 ソ連が対日宣戦布告したことを日本の外務省から在外公館に伝える電報を解読した最高機密文書「ウルトラ」。しかしこの時点で、ソ連から正式な布告文は届いていなかった(英国立公文書館所蔵)
 ■1時間後に満州樺太侵攻…日本政府は4時間後に報道で把握
 昭和20年8月9日にソ連が日ソ中立条約を破って参戦した時点で、ソ連の宣戦布告が日本政府に届いていなかったことが8日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。宣戦布告を通告された佐藤尚武(なおたけ)駐ソ連大使が日本の外務省宛てに打った公電がソ連当局によって電報局で封鎖されていたためだ。ソ連は宣戦布告から約1時間後に満州中国東北部)や樺太などで一斉に武力侵攻を開始。その約4時間後にタス通信の報道などで参戦を知った日本は不意打ちされた格好となった。(編集委員 岡部伸)
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 日米開戦における真珠湾攻撃で対米宣戦布告が約1時間遅れたことで、日本はだまし討ちをする卑怯(ひきょう)な国と東京裁判などで汚名を着せられたが、終戦直前の意図的な闇討ちで、北方領土を奪ったスターリン首相の背信行為が改めて明らかになった。
 秘密文書は20年8月9日、日本の外務省から南京、北京、上海、張家口(モンゴル)、広東、バンコクサイゴンハノイの在外公館にソ連の宣戦布告を伝える電報で、英国のブレッチリー・パーク(政府暗号学校)が傍受、解読したもの。この文書は英政府の最高機密文書「ウルトラ」として保管された。
 電報を要約すると、「ソ連は8月9日に宣戦布告した。正式な布告文は届いていないが、(日本がポツダム宣言受諾を拒否するなど、対日参戦の趣旨と理由を書いたソ連の)宣戦文の全文と日本政府の声明がマスコミで報道された」などと書かれている。外務省がソ連による正式な宣戦布告ではなく、マスコミ報道をベースにソ連の侵攻を在外公館に通知したことが分かる。
 ソ連モロトフ外相はモスクワ時間の8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)、クレムリンを訪問した佐藤大使に宣戦布告文を読み上げ手渡した。モロトフ外相が暗号を使用して東京に連絡することを許可したため、佐藤大使はただちにモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。
 しかし、外務省欧亜局東欧課が作成した「戦時日ソ交渉史」によると、この公電は届かなかった。モスクワ中央電信局が受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかったためだ。
 ソ連佐藤大使への通告から約1時間後のモスクワ時間8月8日午後6時(日本時間9日午前0時)に国交を断絶し武力侵攻を開始。日本政府がソ連の宣戦布告を知るのは日本時間の9日午前4時で、ソ連が武力侵攻を開始してから4時間がたっていた。タス通信のモスクワ放送や米サンフランシスコ放送などから参戦情報を入手したという。
 正式な宣戦布告文が届いたのはマリク駐日大使が東郷茂徳外相を訪問した10日午前11時15分。ソ連が侵攻してから実に約35時間が経過していた。
 日本が8月15日にポツダム宣言を受諾し、降伏文書が調印された9月2日以降も、武装解除した北方四島などに侵攻したソ連が一方的な戦闘を停止するのは9月5日。日本は最後までソ連に宣戦布告していない。」
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 2018年4月7日 産経ニュース「【昭和天皇の87年】熾烈を極めたソ連軍の砲撃 関東軍は完全に不意を突かれた
 関東軍最後の戦い(1)
 中国黒竜江省虎林市の郊外、中露国境のウスリー河を望む丘陵の地下に、約80年前につくられた巨大なコンクリート建造群が今も残る。
 虎頭要塞−。第二次世界大戦の直前、まだ物資が豊富な時代に4年余の歳月をかけて完成した、関東軍の地下要塞だ。猛虎山、虎東山、虎北山、虎西山、虎嘯(こしょう)山、平頂山の6つの陣地で構成され、主陣地猛虎山の地下数十メートルには鉄筋コンクリートのトンネル網が縦横に延びる。
 大戦初期、要塞には東洋最大の41センチ榴弾(りゅうだん)砲1門、射程50キロの24センチ列車砲1両、30センチ榴弾砲2門、24センチ榴弾砲2門、15センチ加農(カノン)砲6門が設置され、第4国境守備隊8000人がソ連軍の侵攻に備えていた。
 だが、戦局の悪化にともない守備兵力の大部分が他の戦線に転用され、終戦直前の昭和20年7月に再編制された第15国境守備隊の兵力はわずか1400人にすぎなかった。
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 同年8月9日午前零時、この虎頭要塞に向けて、戦力十倍以上のソ連軍部隊が突如砲撃を開始した。その瞬間を、主陣地から離れた地点で警戒任務についていた七虎林監視隊の後藤守少尉が、こう書き残している。
 「突然南の方向で異様な光景が起こった。それは虎頭正面の『ソ』軍陣地から一斉に猛烈な砲撃が始まり遠く闇の彼方(かなた)に幾条かの光芒(こうぼう)が我が要塞に集中している。生まれて初めて見る壮大な光の束が一方向にウスリー河を越えているのだった」
 東部戦線のソ連軍にとって、シベリア鉄道を射程に収める虎頭要塞は最大の脅威だ。開戦直後に要塞を制圧しなければ、鉄道による補給路が断たれてしまう。このため砲撃は熾烈(しれつ)を極めた。
 一方、戦力寡少の要塞は完全に不意を突かれた。しかも守備隊長の西脇武大佐は作戦主任参謀らを連れて牡丹江(ぼたんこう・現中国黒竜江省牡丹江市)の第5軍司令部に出張中だった。
 かわって指揮をとった砲兵隊長の大木正大尉が第5軍司令部に開戦を急報。これが関東軍総司令部に伝わり、ソ連侵攻の第一報となった。
 ソ連軍の集中砲火は明け方の午前5時まで続き、猛虎山一体の山肌を深く削り取った。
 だが、関東軍は、なす術もなく蹂躙(じゅうりん)されたわけではない。
 突然のソ連侵攻を受け、満州の首都新京(現中国吉林省長春市)にある関東軍総司令部は当初混乱したが、午前6時、虎頭要塞を含む国境の各部隊に向けて、ついに「侵入し来る敵を破砕すべし」の作戦命令を発令する。
 準備を整えた要塞の各砲が、午前11時を期して一斉に火を噴いた−。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
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【参考・引用文献】
防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍(二)関特演・終戦時の対ソ戦』(朝雲新聞社)
○平田文市編『ソ満国境 虎頭要塞の戦記』(全国虎頭会事務局)
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ソ連侵攻 日本とソ連は昭和16(1941)年4月、相互の領土保全や不可侵などを定めた日ソ中立条約(有効期間5年)を締結した。しかしソ連は20年4月、日本が求めていた同条約の延長を拒否した上、同年8月9日午前零時、有効期間が残っていた同条約を破り、突如として満州に侵攻した。関東軍ソ連の侵攻を予想していたが、早くても秋以降になると楽観しており、戦術的にも戦略的にも急襲を受ける形になった
関東軍 日露戦争後、日本の租借地となった中国・遼東(りょうとう)半島南端の関東州と南満州鉄道(満鉄)の権益保護のため、中国東北部に駐屯した日本陸軍の部隊。のちに満州全域を管轄し、ソ連軍と対峙(たいじ)するため精鋭が集められた。しかし南方戦線が悪化した昭和18年以降、精鋭部隊が次々と引き抜かれて弱体化。終戦前には、ソ連の侵攻兵力が兵員157万人、火砲2万6100門、戦車・自走砲5500両、航空機3400機だったのに対し、関東軍は兵員70万人ながら3割強は補充兵で、火砲1000門、戦車200両、航空機200機にすぎなかった。」



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