?:37─10・B─パンジャーブ州飢餓。戦前の日本人達は、インドの植林活動を行い食料増産に貢献した。1965(昭和40)年。?No.237        

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   ・   ・  【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】 ・ 
 日本民族日本人の歴史とは、多発する自然災害で発生した大飢饉と疫病から生き残る為の死闘の歴史である。
 日本民族日本人が生き残る唯一の術は、各分野での生産性を向上させ経済を発展させる事であった。
 人類史・世界史において、自然災害が原因の飢餓と疫病と戦い、おびただしい犠牲者を出しながら、苦難の末に克服してきたのは日本民族日本人だけである。

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 ローカルな日本民族宗教の最大の関心事は、食べて生きる事であった。

 グローバルなキリスト教は、パンよりも隣人愛の信仰を優先して、食を重視する日本民族信仰を否定した。
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 昔の日本人=武士は、殺し合っている敵国であっても、敵の庶民が困っていれば「人の道」として塩を送って助けた。
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 日本文化とは、1/fゆらぎやマイナス・イオンに満ち溢れた、花鳥風月プラス虫の音さらに苔と善玉菌の自然文化で、怒り、恨み、苦しみ、悲しみ、切なさをなど水に流して明日に持ち越さないネアカ(ポジティブ)文化、笑い浮かれる陽気な文化である。
 男性は亭主関白とタヌキで粋と男伊達であり、女性はカカァ天下とキツネで大和撫子と山の神であった。
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 食糧は兵糧で、戦争を始める為の必要不可欠の軍需物資である。
 兵士は、兵糧がないと戦争ができない。
 武士が得意とする戦法は、飢餓に追い込む兵糧攻めと寝返り・裏切りを誘う調略であった。
 古代から、食糧は武器である。
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 日本の米は、天皇家・皇室の稲神話から神聖視され、生命賛歌という民族宗教の核心であり、命を繋ぐ信仰の対象であった。
 つまり、日本の稲・米は、民族宗教であり生命信仰であり、そして日本天皇・皇族であり日本天皇家・皇室である。
 故に、穢してはならない「神聖不可侵」であった。
 日本民族日本人にとって、稲・米は食べずに捨てる生ゴミではなかった。
 稲作は、日本民族日本人が行おうが、外国人農業労働者が行おうが、AI自動農作業ロボットが行おうが、全てが神事である。
 稲作神話の正統性は、伊勢神宮(女性神天照大神)にあり、天照大神からの正統な血統にある。
 伊勢神宮を否定する事は、稲作神話と現天皇家・皇室そして天皇制度(国軆)を否定する事である。

 それを知っていて、あえて伊勢神宮を否定する反天皇反日的日本人が少なからず存在する。

 外国人移民(主に中国人移民)が増えれば、そうした人口が増加する。

 日本における、アイデンティティーやナショナリズムの消滅である。
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 2019年3月号 正論「小説 台湾 明治日本人の群像  渡辺利夫
 第3回 インドの飢餓救済に奔走する杉山龍丸
 旅立ち
 バンコクドンムアン空港を飛び立った飛行機が、ミャンマー国境の深い密林地帯を越えると、やがてインド洋に出る。インド洋を北上してしばらくすると、眼下はバングラデシュである。ヒマラヤ山系に発して南下するブラマプトラ河と、ヒンドゥスタン平原を流れるガンジス河とが合流するあたりに、広大なデルタがみえる。
 ブラマプトラ河とガンジス河が合流して生まれた膨大な量の水が周辺に溢れ、あらゆる形状で蛇行を繰り返し、中小の無数の支流となってインド洋に注ぐ。デルタを過ぎると飛行機はガンジス河沿いに進み、ヒンドゥスタン平原の上に出る。はるか右手には7,000メートルを超える、千古の雪を頂くヒマラヤの峰々が連なる。ガンジス河を上がっていくと、灰白色の地肌をみせる平原が始まる。森林らしきものは見当たらない。
 平原の東方、パンジャーブ、ラージャスタン、グジャラートの三州にまたがるタール砂漠は、デカン高原から流出した土砂が長い時間をかけて堆積された地域である。ヒマラヤ山系に発する水が、平原の深部を大量の伏流水として流れ、その流れが飽和し地表に溢れ出てインダス河の無数の河川群となる。
 ガンジス河やインダス河は、豊かな水が悠然と流れる大河のようにイメージされる。しかし、実際には、雨期と乾期の2つしかない。雨期は6月から10月まで、乾期は10月から12月までである。雨期には天の底が抜けたように激しく降る一方、乾期には大地は干上がり、砂は踵を没するほどの高さになる。風が吹けばつむじ風が砂塵を天空に舞い上がる。
 雨期には洪水が襲う一方、乾期には水が地表から姿を消して地下に潜り、ガンジス河の支流は河床までも乾き切ってしまう。人間の体温を上回る40度以上の日が何日もつづくと、体温は労働に耐えられない。ガンジー翁の生地であるアラビア海に近いグジャラート州のポールバンダルにいたっては、室内でも50度前後、室外は赤熱である。強烈な太陽光線で平原も山脈も炎熱で白く輝き燃えている。
 杉山龍丸は、サルボダヤ・サンメンランの大会が開かれマハラシュトラ州のベドチィ村を拠点に、昭和37年(1962)11月から乾期のヒンドゥスタン平原を精神的に歩き回った。乾期の平原にも地下に伏流水があることを、龍丸が初めから知っていたのではない。
 パンジャー州半砂漠のとある昼下がり、まばらな樹林の木陰で一服していたところ、龍丸は不思議な光景を目にした。20匹ほどの野牛の群れが樹木の下ではなく、太陽の照りつける砂漠の1カ所に集まり、じっと腹ばいなっている。この暑さの中でどうしてそんな行動をとるのか。野牛に近づくことは危険だと知りつつも、吸い寄せられるように十数メートルあたりにまでにじり寄った。
 野牛は腹ばいになる前に、砂の表面を暗褐色の土が出てくる30センチほどのところまで足で激しく掻き上げ、地表の下の湿り気のあるところを露出させ、そこで腹ばいになっている。
 表土30センチくらいまで掘れば、地下の水分が蒸発する時に熱を奪われ、ひんやりとしているのであろう。野牛が寝そべってる表土の下に『ワジ』と呼ばれる涸れ川があるにちがいない。龍丸はそう直感する。樹木の枝をナイフで切って丸棒を作り、地上から20センチから30センチまでを掘ってみた。確かに暗褐色の土が出てきて、手にわずかに湿り気を感じる。
 ついでに、まばらに生えてる草を引っこ抜いてみようとするが、根は相当に深い。両手で一杯の力を込めて引っ張る。駄目だ。丸棒で地面を根気よく掘っていくと、みすぼらしい草なのに、その根っこの長さは何と2メートル以上である。3メートルほどの雑草もあるらしい。動物も植物も地下水の存在を本能的に知っていて、これを頼りに生きるすべとしているのであろう。本能とはすごいものだ。
 パンジャーブ州のあちらこちらを調べ歩くうちに、砂漠や乾燥地域の地下には幾重にも堆積した地層があって、その中に伏流水が存在していることを龍丸は確かに知るようになった。地表の水分と水流は太陽の直射によって蒸発しているが、地下には豊富な伏流水がある。これを利用して植林に成功すれば、植生を変えることができるのではないか。龍丸は、この発見と着想に高揚するところがあった。パンジャーブ州の村のあちこちを歩き、村の長(おさ)にその話をして歩くのだが、怪訝な顔をされるだけであった。
 パンジャーブ州総督との対面
 1つの幸運が訪れた。龍丸の熱意がどういう伝手(伝手)でかはわからないが、州総督ペトラマ・タヌ・ピラトの耳に入り、州都のチャンディーガル総督府を訪ねてきてほしい旨の手紙が、パンジャーブ州を旅する途次、とある村の村長を通じて龍丸に渡された。龍丸は鉄道を乗り継いで、急ぎ州総督府に向かう。チャンディーガルヒマラヤ山脈山麓部の丘陵地帯に位置し、海抜300メートルを超える町である。
 インドにきてから、英国のインド統治時代に建てられたこんんあに重厚な建物に入るのは、龍丸には初めてのことだった。英国植民地時代の支配者が、権威と権力においてどんなに高く強いものであったかをうかがわせていた。この建物の主が龍丸に会いたいという。本当のことなのかと、州総督府のゲートの前に立っても、龍丸はまだ不可解な面持ちだった。
 ピラト総督は、ビハーリー・ボースの支援のために奔走した龍丸の祖父・茂丸のことを、ガンジーアシュラムの幹部を通じて知らされていた。総督はビハーリー・ボースに深く傾倒しているようであった。龍丸がマハラシュトラ州でサルボダヤ・サンメランの大会に、ネール首相やデサイ副大統領から招待された人物だということも知っていた。
 分厚い絨毯の敷かれた廊下を執事に案内されながら、2階の奥まった総統の執務室に招き入れられた。総督は龍丸に握手を求め、こう切り出す。
 『あなたはインドの開発に関心をもっていると聞いているが、大変嬉しいことです。インド人の生活向上のためには何から手をつけていいのか、そこのところについて日本人であるあなたのパンジャブ州での観察からおうかがいしたいのです。あのように発展した日本と私どもインドの違いは、どうして生まれるのでしょうか。率直な意見をお聞きしたいのですが』
 突然の問いかけに一瞬戸惑ったものの、龍丸は真っ正直に答えた。
 『日本人は森を大切にしています。日本人はどんなに貧しい状態にあっても、山の植林や間伐を怠ったことはありません。ところが、ヒンドゥスタン平原では山林をみかけることは滅多にありません。現在のインドにとって重要なことは、工業化だとは私には思われません。パンジャーブ州の人々の全エネルギーを植林に注ぎ、植林を通じて植生を変え、そうして食糧の自給を達成すること、これがまずはやらねばならないことなのではないでしょうか』
 『自分もそう考えているのだが、どんな樹をどこに植えたらいいのか、パンジャーブの州政府にも住民にも、その知恵がないのです。何か助言は得られないものでしょうか』
 龍丸ははっきりと、
 『ユーカリです』
 と答え、持論を展開する。
 『ユーカリは、オーストラリアの南西部からニュージーランドタスマニアなどを原産地とする樹木です。その最大の特徴は、植樹してから成木になるまでの時間が5年もかからないということです。ユーカリより生長の速い樹木は他にありません。この乾燥地でもよく育ちます。と申しますのも、ユーカリの根の深さは、成木になると地表の高さの三倍ほどにもなるのです。
 この根が地中を張りつめてヒマラヤ山系から流れる伏流水を堰き止めます。伏流水を吸い上げれば、乾燥地を緑地に転換させることができると私は考えます。ヒマラヤ山系からの伏流水の最も多い地域を選んで、ここにユーカリを植樹すれば、5年ほどでユーカリの根による伏流水のダムが地下にできる、と私は予想しております。堰き止められたダムの周辺に水を供給されれば、米や麦や野菜、芋類などの増産が可能となります。その上、ユーカリの成木は、木材として、さらにはパルプの原料として商品化することもできます』
 ピラト氏は、必死に語る龍丸のこなれていない英語にじっと耳を傾ける。
 『それではユ-カリをどこから手に入れたらいいのでしょう。何よりユーカリを植える場所はどこがよいでしょうか』
 『ニューデリーからアムリッツアルに向かう国際道路は、ヒマラヤ山系とほぼ並行して470キロメートルにわたって走っています。あのヒマラヤから無数の伏流水がこの国際道路沿線に向かって流れているはずです。道路の沿線の両側に40メートル間隔で1本ずつのユーカリを植えて、20メートルほどの幅の街路樹林帯を造成するという案です。まず40キロメートルの長さでやってみてはいかがでしょうか。うまくいけばこれをさらに延ばして、国際道路の全体に植樹林帯を延長する、というのが私の提案です』
 ユーカリ購入の資金調達
 『そうはいっても、苗木の購入資金や農民への支払いはどうしたものか』
 ピラト氏の悩みは深い。総督と直々にこうやって会見する機会など、またいつやってくるかわからない。龍丸は一歩でも前に出なければと考え、思いを定める。
 『わずかでよろしければ、私が何とかしてみましょう。見通しがついたところでまた連絡申し上げます』
 ピラト氏は、立ち上がって龍丸の手を固く握りしめた。
 この時、龍丸は資金調達についてはもう決意を固めていた。泰道からすでに龍丸に相続されていた福岡県香椎の杉山農園の売却である。
 杉山農園を開園したのは、興亜主義者の祖父・杉山茂丸である。龍丸は自分のこの決断は、祖父の茂丸、茂丸の遺志を継いで杉山農園を守り拡充した泰道の遺志に違うものではない、と考えたのである。
 ……
 龍丸の予想はあたり、40キロメートルにわたってユーカリが深く根を張り、地下で伏流水のダムを造り、沿線のあちらこちらのワジに水が溜まり、そして地表を流れ始めた。水量の豊かなところでは水田が、次に麦畑が、水のわずかなところでは根菜や芋類などが収穫できるようになった。農民の増産意欲が高まっていくのをみて、龍丸の胸は高鳴った。全長470キロまで達するにはまだまだ時間がかかるが、後は農民が努力さえすれば、食料増産、地価上昇、商品作物化による所得向上によって、この植林運動はいずれ自律的な運動に転じていくことになるのではないか、予想が一部ではあるが的中して、龍丸の気分はいつになく高揚していた。
 龍丸、磯永吉と会う
 ……
 飢饉発生
 インド・パンジャーブ州でのユーカリの植林、それにともなう伏流水の地上への流出によって、米、麦の耕作も比較的順調に進められていた。実際、入手した米国航空宇宙局(NASA)の人工衛星ランドサットの写真でみても、インドの北方を東西に走るヒマラヤ山系に並行するニューデリー・アムリッツアル間の国際道路の北側は濃い緑で覆われ、植生が変化していることが確認できた。
 しかし、この頃を見計らうかのように、インド全域で大規模な飢饉が発生し、無数の餓死者を出したという惨劇のニュースが、福岡の国際文化協会で執務する龍丸に伝えられた。同協会は日本でインド救済のための同士を糾合する目的で、龍丸が設立した慈善団体である。龍丸は、いてもたってもいられない気分に陥り、ともかくも惨状を自分の目で確認しようと、再度のインド訪問を思い立った。
 ビハール州が最も酷い状況だと伝え聞き、まずはそこに向かうことにした。ビハール州というば、干魃による飢饉がしばしば起こる地域として知られる。龍丸も前回のインド滞在中にこの州を訪れたことがある。英国のインド支配の時代、1873年から翌年にかけて、ビハール大飢饉として知られる、州を全域的な規模で襲った飢饉では、周辺諸州を含めて20万人以上の餓死者が発生した、という事情を龍丸は知っていた。
 州都パトナからラジギール、ブッダガヤと、釈尊が悟りを開いた仏教の聖地をみて回った龍丸は、その苛烈な現実に打ちのめされた。ガンジス河に近く、かつては華やかに栄えたであろうこの地域の大飢饉は、顔をそむけたくなるような酷さだった。ガンジス河からは、辛くも細く水が流れているものの、この地域は見渡す限り四方の地平線にいたるまで完全に乾上がりきっていて、砂漠のような風景が延々と広がっている。灼熱の大地から幾条ものを砂塵の柱が、天に向かい、くねっている。
 太陽が落ちる頃になると、その残光の中を、砂塵が紫色から赤茶色に変じながら不気味な唸り声を響かせている。夜の帳が下がると風は止み、漆黒の闇の中からガンジス河を下る船にちらちらと灯る明かりがみえる。餓死者を運び出す船上の担架の四辺に灯された魔除けの灯のようだ。目を凝らすと何百もの灯が点々とみえる。
 ビハール州は、もう3年も連続して雨がまったく降っていない。水が地表を流れるはずもない。ヒマラヤ山系から流下する豊かな水のすべてが、ビハール州の地下40メートルから50メートルの地下層に潜り込み、伏流している。森林はいくら眺め回しても目に入らない。樹木がないために、根を通じて大地の土壌から有機物を提供することがでいない。
 樹木だけではない。草さえ生えていない。草は生えるや、痩せさらばえた牛や山羊が根っこまで争って食いちぎってしまう。牛や山羊の糞は大切な肥料である。糞を固め乾かしたものが人々の唯一の燃料でもある。3年も旱魃がつづくと、この肥料と燃料すら手に入らなくなってしまう。
 森林がなければ木炭はなく、木炭がなければ鍛冶屋が鉱石から金属類を精製・加工することができず、金属製の道具が手に入らなくなる。道具はもとより、ビハール州の貧困層の人々の家には包丁さえない。農家の納屋のいくつかを覗いてみるが、鋤(すき)の先端に尖らせた小さな金属片を釘付けしたものがあれば、まだいい方である。
 仏教のこの聖地には、往事、豊かな森林があったはずだ。インダス文明は、ガンジス河沿岸の森林を切り開きながら生成発展した、と史書には書かれてある。釈尊を描く仏教画をみても、森は不可欠の背景である。だが、いま龍丸の前には緑はまったくない。どうしてなのか。ブッダガヤの大菩薩寺は、煉瓦構造の建設様式で豪壮な姿をなお残している。中小規模のものであれば、菩提寺は無数といっていいほどビハール州の全域に点在している。これらの寺院群を建立した時に、膨大な量の煉瓦を火で焼くために、周辺の森林が次々と姿を消していったのであろう。人々の宗教への深い信仰が、これほどまでに環境を手酷く破壊してしまうものかと、龍丸はその不条理に戦慄とする。
 餓死者は貧困層に集中している。小作農はまだいい方だ。彼らは、地主の土地を耕作して小作料を支払い、その後に残った収穫物を手にする。最も悲惨な人々が、農民に雇用されてわずかに賃金を、多くの場合、現物で受け取って糊口(ここう)を凌ぐ農業労働者である。もともと人口過剰のインドの中でも、人口密度の高いところがケーララ州、次にビハール州である。農業労働者の比率はここにおいて最も高い。農村世帯の中で、おそらく6割くらいの人々が農業労働者であろう。
 3年も降雨がなく、大地が極度に乾燥してしまうこの時期、みずからを雇ってくれる者のいない農業労働者は、炎熱の大地の上に土を固めて造った穴倉のような家の中にたたずみ、エネルギーの消耗を避け、そして死を待つより他ないのであろうか。農業労働者の多く、おそらくはその半分ほどが、かつては不可触賤民といわれ、その後は指定カーストとか指定部族と呼ばれるようになった人々である。
 龍丸はビハール州で無数の餓死者をみた。指定カーストや指定部族には、戸籍がなかったり不明だったりする。龍丸が餓死者をみたことは紛れもない現実であるのに、インド政府の国連への餓死者報告はゼロであった。
 パンジャーブ州での植林活動の方は、軌道に乗ったようだ。まず、はここでの成功を期し、これをモデルにして、その成果をインドの他の地域に拡大していくより他ない。幸いにしてパンジャーブ州は飢饉を免れている。ニューデリー・アムリッツアル間のユーカリの植林もまずまず、3メートル幅のユーカリの植樹帯の周辺には伏流水となって流れ始めている。
 ここに単収の高い改良品種の稲の導入に成功することができれば、道は開かれるかもしれない。よし、今度こそ、磯永吉に会って、蓬莱米について詳しく話を聞いてみよう。
 磯永吉への懇請
 磯永吉は、中華民国台湾省農林庁技術顧問を定年で辞し、45年の長い台湾での仕事を終え日本に帰国していた。小沢太郎の薦めによっての帰国であった。小沢は、台湾総督府で農政を担当、帰国後に山口県知事となり、さらに自由民主党の国会議員となった。磯は、周防灘を臨む防府に住まいを整えてもらい、山口県農事試験場顧問として防府分場に3年間勤務、その後、縁あって横浜・井土ヶ谷転居、ここで老後を過ごしていた。
 ガンジー翁の第1弟子の長男で、日本にきて農機具の研究に携わっていたモハン・パトリックを同道して、龍丸は井土ヶ谷を訪ねた。台湾で会った時に比べて磯は明らかに憔悴していた。これが磯に会える最後の機会かもしれない。
 龍丸は磯に訴える。インドの飢饉は自分の想像をはるかに超えている、これを見放しておいていいはずがない。何とかして蓬莱米をインドに根付かせたい。パンジャーブ州の国際道路の周辺にはユーカリが樹林帯となって、伏流水が地上を潤し、水のコントロールは可能とはっている。何とか蓬莱米の技術をインドに移植したいのだが、協力してもらえないか。モハン・パトリックは押し黙り、哀訴の目で磯をみつめる。
 よし、それならと、磯はいい、一冊の自著を本棚から取り出す。龍丸は、10年前に磯の自宅でみせられた、あの糸綴の分厚い本のことを思い出していた。
 『杉山さん、パトリック君、これが今の私にできるすべてのことです。インドの土壌、気象条件、水利状況などに合わせ考え工夫を重ねれば、蓬莱米はインドの米穀生産の拡大に役に立つと私は思いますよ』
 震える手でこの書をパトリックに渡す。パトリックは両手を合わせて頭を深く下げて押しいただいた。龍丸とパトリックは、夜に日を継いでこの著作に読み耽り、読み終えて愁眉が開かれる思いであった。
 まったく思いもかけないことに、ある手紙が龍丸に届いた。インド飢餓救済のために、福岡に『国際文化福祉協会』を設立して、そこで磯永吉の論文の解読に集中していた頃であった。
 孫文生誕100年祭に、蒋介石総統の国賓の一人として龍丸を招きたいという招待状であった。龍丸の祖父・茂丸が孫文の日本での活動を支えた重要人物であり、日本から招待する賓客としては、孫文の革命を支援した日本人、宮崎滔天の遺児・龍介、柳原白蓮などと並んで、龍丸がふさわしいと考えたのであろう。招待状の差出人は何と蒋介石その人である。龍丸の胸は高鳴った。
 龍丸の台湾再訪である。孫文生誕100年祭は、昭和41年11月12日であった。
 蒋介石との接見の時間はごく限られている。簡潔に語るより他ない。握手を求める蒋介石をじっとみつめて、龍丸はこう伝えた。
 『私は、祖父・杉山茂丸の遺志を継承する現在の日本の志士として、インドの貧困救済に全力を注いでおります。磯永吉博士の開発した蓬莱米をインドの貧困層救済のために使わせてほしいのであります』
 蒋介石の顔に、ちらりとした変化を龍丸は感じた。
 その夜、日本人招待客の招宴が開かれた。国民政府の政府高官も数多く卓を囲んでいた。
 挨拶に立った龍丸は、台湾の指導者に次のように語りかけた。
 『私はインドの貧困を救うために、現在、パンジャーブ州を中心に治水事業に取り組み、これが成功を収めようとしております。しかし、インドの米作では単収があまりに低い。唯一の救済の道は、蓬莱米の導入にあります。台湾がインドと国交断絶していることは私もよくしっております』
 さらに、つづける。
 『しかし、蓬莱米は台湾だけのものではありません。アジア独立の志士たちが、私欲を捨てて孫文先生を助けたことが辛亥革命につながったのではありませんか。英国による過酷な支配の軛(くびき)を切って独立したのがインドであります。しかし、経済的な独立は未完です。中華民国の先生方、どうか蓬莱米によってインドを救済していただけないものでしょうか』
 汗を滴らせながら着席したところ、円卓の何人かから握手を求められ、少しは事情が理解されたらしいことを龍丸は察した。
 翌日、招宴にも参加した重要人物の一人、李嗣總監察院長から急ぎ自分のオフィスに向かうよう連絡が入った。
 龍丸は、中山南路の監察院に急いだ。李は、
 『交渉はこれからですが、国際食糧農業機構を通じて20トンの蓬莱米をインドに送る意思を、蒋介石総統が固めてくださった。杉山さん、おもでとう』
 というではないか。龍丸は緊張から解き放たれ、へたりへたり込みになった。李はさらにこういう。
 『バンドン会議以来、インドは中国と兄弟のように親しい関係にあって、台湾とは縁がない。そのインドに貴殿の要請により蓬莱米を20トンも送ろうというのだから、まことに残念なことだが、その見返りに、貴殿には、今後6年間の台湾入国禁止の措置を取らざるを得ない。そうしないと、国民党や政府内の指導者にしめしがつかないのですよ。どうか、その約束だけは守ってほしい』
 複雑をきわめる国際関係や国内政治上の理由であれば、ここでは確かに承知しました、というしか龍丸には応じようがなかった。
 その後、蓬莱米は台湾から国際食糧農業機構へ、同機構からインド政府へ、さらに中央政府からパンジャーブ州へと送られた。龍丸は、パンジャーブ州ガンジー・アシュラムを拠点として、ニューデリー・アムリッツアル間の国際道路沿いのユーカリ植林帯の周辺から湧出する水を用いて田圃を、次いで田圃に苗代を造り、苗代に種籾(たねもみ)を撒き、育った稲を圃場に植え直し、雑草を抜く、といった一連の作業を逐一指導していった。ガンジー・アシュラムのスシル・クマールの強力な指導のもとで当地の農民は、最初は半信半疑だったが、龍丸やクマールの熱意に動かされ、次第に協力的になっていった。
 蓬莱米の生育は早く、ところによっては三期作も可能となった。成果に目を見張った農民の増産意欲は高まりをみせた。インド原産地米と蓬莱米の交配を重ねながら3、4年のうちに、パンジャーブ州の国際道路沿いの蓬莱米生産は、龍丸の予想以上の成果を期待できそうであった。
 やはり蓬莱米がより高い成果を上げるには、インド原産地米との交配実験を引きつづき繰り返さなければならない。スシル・クマールもこの助言を受け入れ、アムリッツアルの近くに農業技術研究所を設立、農業技術者を育成しながら交配実験をつづけ、その成果がパンジャーブ州全域に、次いで隣接するヒンドゥスタン平原の諸州へと広がっていった。
 インド政府は、龍丸の実績に対して、龍丸の故郷の福岡に、インドの仏塔の原型であるストゥーパ様式を模した仏舎利塔を進呈することにした。この仏舎利塔は、現在でも福岡県の北西部、玄界灘に突出した糸島半島妙見山の山上に据えられている。
 しかし、周辺は深い樹林に覆われ、仏舎利塔にいたる道も定かではない。木の根が食い込んで台座が崩れかけ、白壁が剥離し、塔の全体が傾き始めて今にも倒壊してしまいそうである。
 龍丸は、戦後日本のアジア開発に偉大な貢献をなした人物である一方、すでに『忘れられた日本人』となりつつある。昭和62年9月20日、脳溢血により福岡で死去。享年68。」
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 戦前の日本人は、悪い事もしたが、善い事もした。
 つまり、日本軍は、抵抗する敵を攻撃して戦争犯罪をしたが、命を捨てても人道貢献も行っていた。
 日本民族日本人は、嘘偽りや卑怯・卑劣な振る舞いを嫌い、たとえ口約束でも守り、清廉潔白、潔く、浄くを信条とし、遵法精神と道徳心で行動していた。
 つまり、「弱いの者イジメはしない」「弱い者を泣かせない」「強きを挫き、弱きを助ける」である。
 底抜けの「お人好し」から、騙されても騙さない事である。

 日本民族日本人は、「性善説」として、殺されても人を信じ切るであった。
 人として、「お天道様(天皇、祖先神)」に恥じないように生きて死ぬ事であった。
 戦後の日本、悪い事をしないぶん善い事もしていない。
 そして、現代日本人は、自分は世界で信用され信頼され、好かれ愛されていると、独り善がりに信じ込んでいる。
 世界は、中国や韓国の日本告発を100%近く信じ、歴史的事実に基づく日本の発言、説明、弁明の半分以上を嘘偽りとして聞かない。
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 現代日本は、「性悪説」に傾き始めて、憐憫の情や惻隠の情もなく、薄情で、冷淡で、冷血で、非情で、えげつない。
 その証拠が、中国共産党や中国軍のチベットウイグル内モンゴルその他の少数民族に対するジェノサイド、そして北朝鮮における人命無視から目をそらし続けている。

 「人を見たら泥棒と思え」である。

 騙す人間より、騙される人間の方が悪い。
 現代の日本人は、命は金で買え、命は消耗品である、と信じ始めている。
 現代日本で善人や良心的な人間と言われている左翼・左派・ネット左翼の日本人は、心が凍るほどにおぞましい。
 彼らは、戦前の日本人や日本軍・日本軍部が「命を犠牲にして」まで行った人道貢献を歴史の闇に葬ろうとしている。
 他人の善い事は奪って自分の手柄として自慢し、自分の悪い事を他人に押し付けて知らぬ存ぜぬを押し通している。
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 戦前の日本人は、信念を持ち、自己責任で、自助努力と自力救済で甘えを排して生きたが故に、毒にも薬にもなった。
 戦後の現代日本人は、他者に依存して信念を持たず、自分への甘えで生きている為に、毒にもならないが薬にもならない。
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 戦後の日本人、特にリベラル派、革新派、人権派護憲派、エセ保守派そして一部の保守派そしてメディア関係者は、空理空論の口先だけの徒として、有りもしない理想を語っても人命を助ける人道貢献を行った事がない。
 彼らが行った人助けあげるとすれば、暴力と死の恐怖体制を行っている中国共産党政府や北朝鮮政府への金・食料・技術支援であり、それは中国人民や北朝鮮人民への人道支援ではなかった。
 左翼・左派・ネット左派は、中国共産党北朝鮮少数民族や自国民への人命無視・人権蹂躙・軍拡に猛反対もしなければ激しい抗議もせず、目をそらして黙認している。
 彼らには、国を助け、国民=日本民族日本人を救う意思はない。
 彼らは、信念なき口先の徒で、空虚や虚無で中身がない空洞人間である。
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 戦後の日本人は、嘘をつき、騙し、偽り、誤魔化しても恥じないくせに、甘えて、ネガティブである。
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 戦前の右翼・右派と現代の右翼・右派・ネット右翼は別物である。
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 現代の日本人は、エコノミック・アニマルと軽蔑され嘲笑された。
 日本経済は、経済発展を優先しして日本国内の自然を破壊し、そしてさらなる経済発展の為に世界中の自然を破壊した。
 日本の豊かな生活は美食に顕著に表れ、世界中から大金を払って買い込み、その多くを生ゴミとして捨てている。
 世界中で飢餓に苦しみ餓死している人々がいるのに、現代の日本人は金を出して買った消費者の特権としてまだ食べられる食べ物を惜しげもなく捨てている。
 日本における特権階級とは、金を持った消費者である。
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 日本人はサイレント・マンと呼ばれていたが、人の為、世の為、人類の為、世界の為において、戦前の日本人は存在意義があったが、戦後の日本人には存在意義がない。
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 明治天皇を祭神とする明治神宮の杜は、1915(大正4)年に起工され1920(大正9)年に竣成し人工樹林である。
 日本の植樹は、200年後、400年後の姿を想定して行われる。
 長期的な計画を可能にしているが、2000年以上の歴史を持ち、血統と皇統を正統とする万世一系男系天皇制度(直系長子相続)である。
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 日本民族日本人の歴史を縄文人まで遡れば、数万年。
 日本天皇家・皇室の歴史を神話の時代まで遡れば、約3000年。
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 日本列島は、中国大陸平野部や朝鮮半島に比べて森林に覆われた緑豊かな人工林地帯(植林地帯)であった。
 日本の自然を護ってきたのは、日本天皇の日本中心神話や天孫降臨神話であった。
 天皇制度廃絶とは、反宗教無神論に基づき、日本中心神話や天孫降臨神話を無意味無価値として葬り去る事である。
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 日本民族日本人は、平地に定住しても、その本質は海の民であると同時に森林の民であり河川の民であった。
 日本民族は、温暖地南方系海洋の民(舟の民)を主とした寒冷地北方系森林の民(馬の民)と乾燥地西方系草原の民(徒歩の民)とが乱婚して生まれた混血の雑種民族で、単一の純血ではない。
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 日本人は、唐(中国)や朝鮮よりも天竺(インドやネパール)が好きで、インド人やネパール人を信用しても中国人や朝鮮人は信用しなかった。
 天竺のインドやネパールは、親日知日であった。
 中華の中国や朝鮮は、反日敵日であった。
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 日本民族日本人は現実的合理的行動を好む為に、あるがままをあるがままに受け入れる仏教を取り入れたが、儒教(特に中華儒教)をキリスト教のように拒否した。
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 日本天皇(国軆)を命を捨てて守ったのは、公家や上級中級武士などの特権階級ではなく、下級武士、百姓や町人などの庶民、エタ・非人・河原乞食などの賤民、海の民・河の民・山の民などの部落民達であった。
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 日本人兵士の戦場での死は、3分の1が戦死であったが、3分の2は餓死・病死などであった。
 日本軍の占領地では、戦闘はあっても飢餓や疫病蔓延は少なかった。
 朝鮮や台湾でも、飢餓・餓死や疫病・病死は少なかった。
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 中国共産党ソ連コミンテルン(ロシア人共産主義者)などの共産主義勢力は、戦争犯罪という悪事ばかり行い、人道貢献という善事を1つもした事がない。
 共産主義マルクス主義)は、血の湖と死体の山を幾つも築いていた。
 戦前の日本は、共産主義と孤独に戦争を続けていた。
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 戦前までの日本には、自己判断・自己責任・自助努力・自力救済・自立孤立そして自裁の武士道・士道と神・仏・人の三位一体の多様性を含んだ一本道があった。
 武士道精神、日本精神、大和魂、大和心、日本の心・志は、「人は人、自分は自分」である。
 つまり、日本民族日本人は、浄く潔く、恥や穢れのない事であった。
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 武士道・士道では、弱い者や病人、女性や子供を、自己満足でイジメたり虐待したり暴力を振るう事は「男の恥」とされた。
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 戦後の日本人と現代の日本人とは違う。
 現代日本には、武士道・士道がなく、武士道精神・日本精神・大和心・大和魂そして日本の心・志は存在せず、弱い者をイジメたり虐待しても「恥」とはされていない。
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