⛿105」─1─日本封じ込めのワシントン体制。日本の軍縮と中国の軍拡。1919年No.453No.454  *    

天皇の戦争責任

天皇の戦争責任


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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 軍国日本は、苦渋の選択として、世界平和に貢献させるべく不利なワシントン海軍軍縮条約を受け入れた。
 軍部は、不満であったが、軍需予算を決めるのが政府である以上は、政府の決定に従った。
 この当時。統帥権は、行政権、立法権司法権と同列に扱われていた。
 大正天皇裕仁皇太子は、平和の為に軍縮を裁可した。
 軍国日本は、平和を望んだ。
 アメリカやドイツなどの国際資本系軍需産業は、中国の軍拡に協力した。
 日本の民族資本対欧米の国際資本の資本対決。
 日本は望んでいなかったが、国際資本は日本資本を倒すべき敵と認識していた。
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 ビスマルク「政治とは妥協の産物であり、可能性の芸術である」
 「国際法は、力のある国家同士が創っているのであって、力のない国が主張したとしても受け入れられないのは明らかである。だから、そのような発言をしたいのなら力を付けてからするしかない」
 現代世界で、自己主張したいと志す国家は先を争って核兵器開発を行っている。
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 ジョージ・ケナン「(アメリカの)外交活動の大半は、他の諸国ことに日本が、我々の好まない特定の行動を追究するのを阻止しようという狙いをもっていた」
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 日本国内の総人口は、約7,000万人
 第一世界大戦後、世界各国は二度と戦争という悲惨な過ちを繰り返さない為に軍縮を行った。
 アメリカは、開通したパナマ運河の独占支配を守るべく、脅威となる日本海軍を弱体化する為に軍縮を提案した。
 日本は、外国依存度が強いだけに、国際協調を国是として、アメリカとの友好関係を優先して国防を犠牲にした。
 中国とソ連は、平和を求める国際世論を無視して、アメリカやイギリスのユダヤ人金融資本から莫大な融資を得て大規模な軍拡を行った。
 日本軍部は、国家防衛の責任から周辺諸国との軍事バランスを保つ為に、常識の範囲内での兵員の増強と装備の機械化を主張した。
 政府は、国際協調を国是とし、軍部の国防強化の要求を平和主義時代に逆行するものとして却下し、経済発展を優先して軍縮を断行した。
 議会も、反軍国主義から国民の生活を守る為に軍事費を大幅に削減した。
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 1900年初頭 アメリカの安全保障上の最大の懸念は、太平洋方面の日本と大西洋方面のドイツ帝国であった。
 アメリカ海軍には、日本とドイツの両艦隊と戦うだけの海軍力はなかった。
 アメリカは、二正面作戦を回避する為に、先ずドイツ海軍を殲滅する事として、日本を懐柔する為の宥和政策を取った。
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 1914年 第一次世界大戦
 第一次世界大戦において、ドイツ帝国は敵となり、日本は味方となった。
 日本海軍は、イギリスとフランスからの度重なる要請を受けて、インド洋の海上輸送路を警備し、地中海で連合軍輸送船がUボートの攻撃を受けない様に護衛した。
 チャーチル日本海軍は、必ず上手くやってくれると信じていた」
 ポール・メスエル卿(マルタ総督)「我々の同盟関係に神の加護あれ。流された血で、両国の関係はますます強固になった」
 日本政府は、世界大戦に参加するに当たり、イギリスとの間の密約で山東省のドイツ権益と太平洋南洋諸島ドイツ領の委託統治を認めさせ、北京の袁世凱政権ともドイツ権益の移管についての条約を取り交わしていた。
 日本は、国際法に則り、外交交渉で万全な準備を整えてから参戦した。
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 1917年4月 アメリカ海軍は、太平洋艦隊を大西洋に移し、太平洋方面の警戒行動を日本海軍に委託した。
 ドイツ海軍の巡洋艦Uボートは、太平洋の植民地諸島を拠点として太平洋やインド洋で行動していた。
 戦艦・肥前巡洋艦・浅間は、ホノルル港に逃げ込んだドイツ巡洋艦ガイエルを湾内に封じ込めた。
 戦艦・金剛は、アメリカ領ミッドウェー島の通信施設を防衛した。
 巡洋艦・出雲は、メキシコ太平洋沿岸の防衛任務を全うした。
 日本は、国際協調から連合軍の一員としての義務を果たすべく、同盟国イギリスと友好国アメリカやフランスに対して、可能な限りの協力を積極的に行った。
 列強がヨーロッパ戦線で中国を留守にしてる間に、日本が領土拡大の為に大陸を侵略したというのは酷評すぎる。
 10月 ランシング国務長官は、日本の海軍力を利用するべく、反日派を宥めて、日本の華北における特殊権益を容認する石井・ランシング協定を結んだ。
 アメリカの基本的対日戦略において、大戦中だけ日本を宥め利用する為に表面的に理解を示しただけで、海軍大国日本を仮想敵国としている事には変わりはなかった。
 アメリカ外交は、自国に都合よく臨機応変にコロコロと変化するが、根本的な反日は不変であった。
 1918年11月 ドイツ帝国が降伏して、第一次世界大戦終結した。
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 1919年 アメリカは、大艦巨砲主義に基づき大艦隊を編制し、日本に備えるべく艦隊を分割して太平洋と大西洋に配置した。
 6月28日 ベルサイユ条約の締結。
 プロテスタント宣教師エドワード・ウィリアムスは、国務省アジア外交顧問としてベルサイユ会議に参加していた。
 中国代表団の顧維鈞駐米公使は、中国から日本を締め出す為に、ウィリアムス神父ら反日親中国派の協力を得て日本に山東省利権の破棄を要求した。
 イギリスとフランスは、日本との密約と日本と袁世凱政権との鉄道建設借款の前借りなどで、中国側の要求を却下した。
 アメリカの親中国派は、日本外交の前に敗北した。
 中国も、伝統的な夷を以て夷を制する外交で、アメリカを利用して日本を制しようとしたが失敗した。
 顧維鈞や王正廷ら欧米留学経験者は、欧米諸国での人脈を利用して支援者を拡大するとともに、人ネットワークを拡大する為に有能な中国人青年の海外留学を奨励した。
 日本人青年は、明治初期と比べて、国内に安住して海外への留学を希望しなくなった為に、国際社会へのプレゼンテーション能力を弱めた。
 国益・公益より個人益・民益優先の風潮が日本人に広がり、その結果として昭和初期の戦争という悲劇が日本を襲った。
 日本外務省は、アメリ国務省が親中国化して対日外交が反日に変化し始めている事に警戒を強めた。
 だが、アメリカ政府や国務省は、
 ドイツ帝国は崩壊し、ドイツ経済は天文学的賠償要求で立ち行かなくなり、大西洋を席捲しようとしたドイツ海軍は消滅した。
 イギリスは、大戦への出費で疲弊してアメリカ資本の支援を受ける迄に経済はし、損害激しい海軍を再建する財力がなかった。
 アメリカの安全保障における残された脅威は、太平洋の日本であった。
 ドイツ海軍の脅威がなくなった以上、太平洋有事には、大西洋艦隊を太平洋に派遣する事が可能となった。
 アメリカは、真の狙いを隠して日本に宥和政策を取る必要がなくなり、日本を激怒させ困惑させ屈服させる為の強硬政策を遠慮容赦なく採用できるようになった。
 日本は、親米として、対等な関係での友好を望んだ。
 アメリカは、反日として、従属的関係を強要した。
 日本人は、アメリカに憧れ、建国の父ワシントンや奴隷解放リンカーン日露戦争時のセオドア・ルーズベルトらを世界の偉人として尊敬して、彼等の伝記を愛読した。
 だが。白人至上主義のアメリカ人は、宗教的人種差別から日本人を「イエロー・モンキー」と蛇蝎の様に嫌っていた。
 ジェフリーレコード(2009年アメリカ陸軍戦略研究所の博士論文)「他文化に対するアメリカの無理解は、我が国の外交政策を未だに蝕んでいる。ベトナム戦争イラク戦争の例でも分かる様に、我が国の姿勢は日本とのあの大戦の頃と何ら変わる所がない。恐らく、先進国の中で外国語を一つも話せない人間でも有識者と見なされる唯一の国がアメリカであろう」
 日本が戦勝国の一員として、国際連盟常任理事国となり、世界の五強国となって浮かれているうちに、世界情勢が激変した。
 ランド・パワーの時代が終わり、シー・パワーの時代に突入した。
 海洋覇権をめぐる日米の対立が始まった。
 国力が脆弱な日本は国家戦略からそれを望まなかったが、国力の強大なアメリカは世界戦略からそれを望んだ。
 孤立主義者は、人種差別撤廃条項を主張した日本が理事国となっている国際連盟への加盟には猛反対した。
 カレイ・マックウィリアムス「連盟にアメリカは加入してはならない。日本は連盟の場で必ず人種は平等であると主張する。アメリカがメンバーになったらやり込められる」
 孤立主義者と人種差別主義者は、中国市場を独占しようとするユダヤ系国際資本の資金支援を受けて、アメリカから日本を締め出す為に反日世論を誘導した。
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 1920年7月12日 移民問題を調査する移民・帰化委員会は、日本人移民等の聞き取り調査をカリフォルニアで行った。
 カレイ・マックウィリアム「平和をもたらすはずのベルサイユ条約調印のインクが乾きもしないのに、アメリカは日本との戦争の危機を迎えたのだった。こんな状態になるとは誰も想像していなかった」
 11月 上院議員選挙。選挙公約に「日本人排斥」を加えると確実に票につながる為に、各候補は日本人移民排斥を声を大にして訴えていた。
 民主党のジェームズ・フェラン上院議員候補は、白人至上主義者からの支持を得る為に、「日本はカリフォルニアを奪う為に移民を送り込んでいる」との危機感を煽り、「日本人排斥」を選挙の争点として遊説を続けた。
 ジェームズ・フェラン「日本人は実に不道徳な人種である。我が民族の雑種化を図り、退廃させよと目論んでいる。カリフォルニアはそうした脅威に晒されているのだ。命を狙うという脅しまでかかっていきている。ボルシェヴィキの思想に染まった日本人を叩き出し、そうしいった危ない思想からカリフォルニアを護らなければならない」
 議会に於いて、審議される予定の日本人移民に対する人種差別的土地保有規制法案についての選挙民用ガイドブック。「本法案の趣旨は市民権を持つ事のできない東洋人に、わがカリフォルニアの肥沃な農地を支配させない事にある。東洋人、中でも日本人は我が州の支配を固めようとしている」
 選挙結果の得票数は、共和党候補49%、民主党候補41%で、日本人排斥に急先鋒であったフェラン候補は落選した。
 カリフォルニア州議会は、日本人移民への危機感から「アジア人全体に人頭税を課す法案」と「市民権を持たない外国人の土地所有を規制する法案」を、賛成多数で可決した。
 カリフォルニア東洋人排斥連盟などの反日市民団体は、西海岸で日本人移民が無制限に増えるとカリフォルニア州は日本に奪われると危機感を煽っていた。
 西海岸の白人至上主義諸団体は、日本人排斥運動を中西部や東部に広める為に活動家を派遣した。
 反日感情が異常に高いカリフォルニア州は、ワシントンに対して「日本人排斥」を繰り返し陳情していた。
 アメリカ海軍も、軍事予算の増額を狙って日本排斥運動を支持していた。
 投資家は、日本脅威論で軍需産業が儲かると信じて関連株を購入していた。
 アメリカの安全保障政策は、対日宥和から対日封じ込めに180度転換した。
 ワシントンの親中国派は、国務省極東部から親日派を締め出し、アジア政策の主導権を握るべく議会でのロビー活動を始めた。
 対日強硬派の中心人物は、スタンリー・ホーンベッグで、日米開戦時には国務省極東部長として対日強硬政策を陣頭指揮した。
 キリスト教会は、中国での布教活動を行う為に、中国人の反天皇反日感情を煽った。
 ユダヤ系国際資本は、中国市場独占の為に日本資本を締め出すべく、ファシスト中国や共産主義者及び民族主義者を反日暴動へと焚き付けた。
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 アメリカ政府は、世界的建艦競争で英仏両国に与えていた戦時貸付金の回収が滞る恐れが出た為に、海軍軍縮を呼び掛けた。
 それが、ワシントン会議の真の目的であった。
 世界平和の為の海軍軍縮ではなかったのである。
 アメリカ海軍は、日本の海軍力をできる限り削減するべく、日本の外交暗を傍受して情報を仕入れていた。
 日本側全権が戦艦保有量を対米7割を強硬に主張しても、暗号解読で日本海軍がギリギリ6割まで譲歩する事を知っていた。
 中国と親中国派アメリカ人は、中国における日本の行動を封じ込める為に、海軍軍縮会議に山東省問題を含む中国問題を持ち込むに成功した。
 ウェステル・ウィロビー(国務省顧問)「現実に物理的占領が完了している中で、日本が山東省返還に応じた。これは、中国の完全勝利といえる」
 ヒューズ国務長官らは、軍縮問題に中国問題を持ち込み、日中問題アメリカが巻き込まれる事を警戒したが、親中国派への考慮し補助的課題として話し合いの場を設ける事に同意した。
 ウィリアム神父は、中国側の代理人的立場でワシントン会議に参加した。
 幣原喜重郎駐米大使は、軍縮会議で中国問題が取り上げられ親中国反日で進行する恐れがあると、東京の内田康哉外相に至急暗号電を打って警戒を促した。
 「ウイリアムが、パリ会議の際、アメリカ委員付顧問の職にありながらたえず支那委員に助言を与え、これを扇動して日本に反抗する行動をとらしいめたる、蔽う可らざる事実にして、支那問題が非常なる紛糾に至りたるは、少なからず彼一派の行動に原因す。就いては、同氏の如き先天的偏見を有する者が、仮令一の属僚たる地位とはいへ、支那問題に関する専門家として会議の要職に参与せしむるは、一般空気を陰険ならしめ会議の成功を期する所以にあらず」
 日本政府は、国際協調を国是とし、ワシントン会議を紛糾させてアメリカ側に迷惑を掛ける事を避けるべく、山東半島利権放棄などの大幅な譲歩を決定した。
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 中国の伝統的交渉とは、一つの些細な譲歩を引き出し、それを足掛かりとして第二、第三の譲歩を要求し、最終的には全てを奪う事である。
 中国への配慮としての譲歩は、破滅の元であった。
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 アメリカの対アジア外交方針は、国務省内の親中国派(パンダハンガー)対親日派(クリサンセマム。菊)との意見の対立で左右されていた。
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 ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー中国駐在アメリカ公使「列強諸国の文字通り真摯で誠実な努力──各国が中国と協力して不平等条約の状態を解消させ、ワシントン会議の精神に具体的な成果を与えようとする努力──を挫折させてしまったのは、ほかならぬ中国自身であった」
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 欧米列強は、自国一国で中国の利権を独占できない為に、パワーバランスとして、中国における自国の利権を守り他国が独占する事を防ぐことに合意した。
 中国の主権と中国人の民族自決を守る為ではなかった。
 中国の国家主権や民族自決を侵害するような戦争は違法行為としたが、自国の権益を守る自衛権範囲での「戦争に至らない武力行使」は認めた。
 「戦争に至らない武力行使」とは、宣戦布告のない戦闘、つまり事変であった。
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 1921年・22年 ワシントン軍縮会議。 アメリカの対日外交は、1,海軍力を海上輸送力防衛に必要な最低限に削減する、2,国際的地位の拠り所である日英同盟を破棄させる、3,日本経済の発展に欠かせない満蒙の特殊権益を無効にする、の基本方針のもとにで展開された。
 マハンの海洋地政学にもとずき、軍国日本から海軍力を奪って極東に封じ込め様としていた。
 アメリカは、国際外交で主導権をとる為にワシントン会議を主宰し、アジアを自国有利なワシントン体制下で管理しようとした。
 ハーティング大統領は、日本やイギリスとの建艦競争での巨額な軍事費が国家財政を圧迫するとして、軍事費の支出を抑制する為に軍縮会議を呼びかけた。
 12月 太平洋方面に於ける島嶼たる属地及び島嶼たる領地に関する四ヵ国条約。アメリカは、日本の安全保障の根幹である日英同盟を解消させる為に、アメリカとフランスを加えた四ヵ国条約を呑ませた。
 日本は、国際社会での最大の後ろ楯を失い、支援国を失って孤立化した。国際協調路線に基づく欧米での同盟国を失った為に、アジア主義を拠り所としてに中国政策にのめり込んでいった。外交基本方針が米英協調路線から中国協同路線へ変更され、国民気運も西洋から東洋へとアジア重視となり、内戦で混乱する分裂国家中国に深入り過ぎた事が日本の悲劇の最大原因となった。
 軍部は、イギリスとの同盟関係の消失と国際的軍事情勢に即応した軍事力整備が制限された現状に、資源なき国状で経済制裁・経済封鎖されたときを考慮しての国防方針再検討を開始した。結論として、国家滅亡を回避する為には、石油や鉄鋼などの必要資源を中国などの大陸で確保するという積極的大陸政策が検討された。その際、同盟国や友好国は考慮されず、あくまでも日本単独による軍事行動が予想された。
 後の、日本中心とした大東亜経済・金融圏構想である。
 ここに、戦争犯罪国家日本の誕生である。
 日本側の意図は、領土拡大によるアジア征服・世界制覇が目的ではなく、「円」をアジアの基軸通貨とした自給自足体制の確立であった。
 日本の貧弱な国力を正確に知る当時の日本人は、巨大な国力のあるアメリカと張り合っても勝てない事は知っていた。そので、独立国家として生き残る道を必至で探っていた。
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 1922年2月6日 海軍軍備制限に関するワシントン条約海軍軍縮条約)。アメリカは、各国の建艦競争を止め、主要艦艇の保有量を制限する条約を取りまとめた。
 日本は、屈辱的主力艦対米英比6割を呑まされ、アジアに於ける力の均衡で劣勢に追い遣られた。
 主力艦保有量「米国10‥イギリス10‥日本6」
 アメリカ軍首脳部は、日本海軍と中南米諸国の反米勢力が接近する事に警戒した。同様に。フィリピンの反米ゲリラ勢力に、日本の反白人主義系右翼が独立を支援し、その右翼に日本陸軍が武器を提供していると分析していた。
 国際金融資本と石油業界は、メキシコ油田から独自ルートで石油を獲得しようとしている日本を排除する様に、ワシントンに圧力をかけた
 アメリカは、アジアの利権と中米油田の独占を守る為に日本の影響力を排除しようとした。
 日本は、アメリカからの莫大な投資と大量の原材料を得る為に、アメリカとの協調を優先した。そして、二十一箇条要求の一部を撤回し、山東半島の権益を日本に返還した。
 中国は、日本が国際世論の外圧に弱い事を知るや、大陸における日本の権益全てを剥奪するべく、民衆に中華ナショナリズムを煽り立てた。民族主義者は、各地で日本製品不買運動反日暴動を起こし、日本人居留民を襲った。
 武器を持たない日本人居留民は、抵抗して身を守るという正当防衛を放棄して、中国人暴徒に惨たらしく虐殺されていた。
 中国は、如何なる国際条約をも遵守する意志はなかった。
 加藤友三郎海軍大臣は、「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得るべきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし」として受諾した。
 日本海軍は、対米6割の屈辱的な要求であったが、「外交の大権」を持つ政府が決定した軍縮条約を受け入れた。伝統的国防戦略である「八・八艦隊」構想を放棄し、(1)超大型戦艦の建造、(2)潜水艦隊の活用、(3)航空部隊の増強(世界初の機動部隊新設)の三点を新たな基本戦略に加えた。
 東郷平八郎は、ハワイ王国の悲劇を目の当たりにし、セオドア・ルーズベルトの露骨な反日政策を肌で感じてきただけに、アメリカの横暴に危機感を抱いていた。
 ダブル・スタンダードアメリカは、自国の利益の為ならば自分に都合のいいルールを勝手に決め、相手の不利益にかまうことなく押しつける所があると警戒していた。
 アメリカの押しつけたルールによって、相手が破滅しようと、相手が滅亡しようと、人種差別のアメリカ人は気にしないし、罪の意識も感じなかった。
 東郷平八郎は、傲慢で身勝手なアメリカを信用していなかった。
 東郷平八郎英米が口に不戦を唱え、国際連盟をいうなら、ハワイやシンガポールの防備や兵力の集中は何の為かと言え!……世界平和は結構、且つ万人の声なること幣原のラジオの如くなれど表と裏がある。幣原はああでもいわねばならないかもしれないが、吾々はその裏を考え用意堅固にせねばならぬ」
 イギリスは、アジアにおける日本の国力が増大した為に、日本を牽制するべくアメリカの提案を受け入れた。イギリスとアメリカは、太平洋で利害が一致していた。「力の均等」外交から、日本を切り捨てる為に日英同盟を破棄した。
 ソ連は、会議に参加せず条約の部外者であった為に、独自行動をとり軍事力を強化した。
 日本陸軍は、1922年から25年にかけて、9個師団が削減され、1,000人以上の将校が予備役に強制的に編入され、7万人以上の兵士が削減され兵役期間も短縮された。
 軍縮の結果、日本軍の兵力は約30万人で世界第八位に後退し、かっての帝国軍隊の面影を無くした。
 同月 中国に関する九ヵ国条約。アメリカ、日本、イギリス、中国、フランスなど九ヵ国は、中国大陸の門戸開放や機会均等を厳守する事を約束し、中国の主権・独立・領土的行政的保全を尊重する事を決めた。
 日本が、日清・日露両戦争で獲得した特殊権益の内で同条約に違反するものは否定された。同時に、1915年の対華14ヵ条の要求、1917年の石井・ランシング協定、1919年のパリ講和条約すべてが破棄された。
 第一次世界大戦で日本に認められたのは旧ドイツ領であった南洋諸島であったが、それとても領土としてではなく、信託統治であった。
 アメリカにとては、西海岸からハワイを経由してフィリピンに至るの西進航路を遮断する障壁であった。アメリカが太平洋で自由航路を確保しようとした時、やはり日本の海軍力は目障りであった。
 国際連盟は、アメリカの太平洋の平和利用の原則に従って、日本に南洋諸島の非軍事利用を承諾させて軍事基地の建設を認めなかった。
 日本政府は、国際協調方針で、軍部に対して台湾以南での軍事基地建設を許さなかった。
 アメリカ海軍は、自国の領土となったハワイ・ミッドウェー・グアムなどに対日戦用の軍事基地を建設し、海兵隊を守備隊として配置し軍需物資を蓄えた。
 アメリカ陸軍と海軍は、フィリピンに対日戦に備えてそれぞれ堅固な軍事基地を建設し、いざという時の為に大量の武器弾薬を貯蔵した。
 イギリスはシンガポールを、オランダはジャカルタを、日本の南下に備えて要塞軍港都市に強化して部隊を派遣した。
 アメリカを中心とした、対日包囲網はすでにこの時から始まっていた。
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 ワシントン軍縮会議は終了し、日本側が軍縮要求を受け入れて条約が締結された。
 ヒューズ国務長官は、日本側が勇気を以て英断を下し、中国に譲歩してくれたお陰で会議が無事に終わった事に感謝した。
 親中国派は、日本脅威論で日本人移民排斥運動を盛り上げていただけに、日本海軍の海軍力が制限された事で反日運動の根拠の一つを失った。
 イギリス全権のバルフォアは、譲歩した日本の体面を傷付け、これ以上の中国利権を損なわない様に、今後は不要な外交圧力を日本に掛けない様にヒューズ国務長官との間で合意した。
 イギリスは、日本が主張する様に、中国の政治・経済などにおける無政府的混乱を憂慮していた。
 アメリカ議会は、日本に譲歩させた事で、クーリッジ大統領の政治力とヒューズ国務長官の外交力を高く評価した。
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 日本首席全権の山梨半造陸相は、「日米戦うべからず」の信念から軍縮会議を成功に導き、陸軍兵力10万人削減を断行した。
 山梨半造「国防は国力に相応する武力を備うると同時に、外交手段により戦争を避くる事が、目下の時勢に於いて国防の本義なりと信ず」
 東郷平八郎ら対米艦船維持派とて、国力差からアメリカとは戦争をする意思はなかったが、ハワイ王国消滅などで示したアメリカの傍若無人な領土拡大が日本の安全を脅かしているとの警戒心から、可能な限り保有できる海軍力を保持するべきであるして譲らなかった。
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 堀悌吉海軍中佐「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。……国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養(かんよう)し、一方外交手段により戦争を避くる事が、目下の時勢において国防の本義なりと信ず」
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 ワシントン体制は、中国を対象にした集団安全保障体制であると同時に日本封じ込め体制であった。
 国民党(ファシスト中国)と中国共産党は、ワシントン体制を悪用して日本に対する挑発的反日暴動を繰り広げていた。
 アメリカの策略で日英同盟を解消させられた為に、日本には共に戦ってくれる同盟国はいなくなっていた。
 日本は、国家の責任として、中国に於ける利権と自国民を反日暴動から保護の為に一国で防衛力を強化した。
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 ワシントン体制は、アジアの混乱の元凶であるソ連を加えていなかった為に不完全なものであった。
 ソ連は、中国共産党日本共産党などを使って暴動や戦乱を起こしていた。   ・   ・   ・   
 6月 満身創痍となった日本軍は、3,500人の犠牲を出してシベリアから撤退した。
 反共産主義のロシア人は、残虐な共産主義者の虐殺を恐れて日本と満州に逃亡した。
 彼等の多くは、栄光あるロシア帝国が衰退し滅亡した原因は日露戦争にあると信じ込んでいただけに反日的であった。
 反日派ロシア人は、日本と天皇を嫌って上海に移り住んだが、上海経済を支配するユダや人商人や他人の弱味に付け込む中国人商人によって貧困生活を余儀なくされた。
 その為に、ロシア人犯罪者とロシア人娼婦が急増したといわれている。
 国際都市上海は、中国人の秘密結社が支配する、犯罪とアヘンと人身売買で大金が動く魔都と化した。
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 相澤理「ワシントン会議に臨むにあたって、首席全権である加藤友三郎海軍大臣)が政府から言い渡された方針は3つありました。
 第一に、軍縮です。日本経済は第一次世界大戦中の好況(大戦景気)から一転、列強の回復とアジア市場への復帰により戦後恐慌に陥っていました。『平民宰相』原敬内閣の積極政策の失敗もあって財政難の状態であった日本政府にとって、列強どうしの建艦競争を終わらせて、膨張する軍事費を抑制することは急務でした。
 第二に、アメリカとの円満な関係の保持です。戦前(第二次世界大戦前)の日本は、石油・鉄などの重要資源をアメリカからの輸入に依存していました。また、財政難の解消のため外国債を発行した際にも、購入に応じてくれたのは戦争のダメージが残るヨーロッパ諸国ではなくアメリカでした。
 首席全権の加藤は、アメリカとの戦争には大金が必要だが『米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず』と発言していますが、これは日本の置かれた状況を見事に言い当てています。アメリカが日本の領土的野心に抱く不信感を払拭する必要がありました。
 そして第三に、中国とりわけ満州における権益の確保です。国内市場が狭く……、国際競争力も乏しかった戦前の日本経済において、満州は重要な輸出市場であり、また、石炭や鉄などの供給地でした。
 第一次世界大戦中には、満州経済の中核的な国策会社であった満鉄(南満州鉄道株式会社)によって鞍山製鉄所なども建設されています。会議で日本がやり玉にあげられrてば、こうした権益も危うくなりかねますん。
 それゆえ加藤は政府から、『帝国過去の施措政策のみを批判せんとするが如き形勢を生ぜしめざる様、臨機応変の措置をとらるべし』と指示されていました。……
 1920年代の日本外交は、この枠組みの下で対米英協調と対中国不干渉主義を堅持していく、協調外交の道を選びました。
 ここで注意すべきは、協調外交は中国(満州)における経済的権益を確保するための手段であった、ということです。中国の内政には口出ししない、その代わり、協調姿勢を示すことで経済的権益に関する列強からの支持を取りつける。その意味で、協調外交とはその名前とは裏腹に、きわめて帝国主義的な外交政策でした」(『東大のディープな日本史』P.243.〜P.245)
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 1923年9月1日 関東大震災
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 ワシントン体制は、国際協調体制として、四ヶ国条約と九ヶ国条約から成り立っていた。
 四ヶ国条約は、アメリカ、イギリス、日本、フランスが締結した条約で、太平洋諸島に関して加盟国の相互権利を尊重するというものであった。
 九ヶ国条約は、中国、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ポルトガルが締結した条約で、中国の主権・独立・領土保全の尊重と、中国における門戸開放・機会均等を定めたものである。 
 1924年 ソ連は、日本・中国・アジアを共産主義化する為に、ワシントン体制を無視して傀儡国家・モンゴル人民共和国を建国し、全ての外交勢力を締め出して国境を閉鎖した。
 共産主義国家は、ソ連の強力な指導の下で、旧王侯貴族や資本家及び土地持ち農家など保守派を人民の敵、反革命分子として弾圧し、女子供に関係なく処刑して、その財産を没収した。
 日本軍部は、共産主義勢力の膨張を脅威と覚えて、日本天皇と軍国日本を共産主義の侵略から守るべく、1932年に反共国家・満州国を建設するべく暴走した。
 清朝の残党である張景恵ら満州族は、民族自決の権利を訴え、漢族支配から独立して民族国家を樹立するべく日本軍部の野望に協力した。
 軍国日本は、自存自衛措置として戦争犯罪を始めた。
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 1924年7月 アメリカ議会は、人種差別法「排日移民法(ジョンソン・リード法)」を可決し、アメリカ市民権を取得する資格のない人種の移民を禁止した。
 アメリカ市民権の取得は、自由白人とアフリカ出身者とその子孫に認めたが、、アジア人種に認めなかった。
 この時代、アメリカに移住していたのは日本人であっただけに、排斥される対象は日本人だけであった。
 これまでの日本人差別法案は、カリフォルニア州だけの州法であったが、連邦議会で成立させた事でアメリカ合衆国の連邦法となった。
 アメリカ自体が、国家として排日を宣言したのである。
 日本人の多くは、アメリカが掲げる自由と民主主義という理想主義に憧れていただけに失望をし、前年の関東大震災の被害からの復興に全力を挙げている最中での法案成立に怒りを感じた。
 狂信的差別主義者の右翼・右派は、反米を唱え、アメリカへの憎悪を公言した。
 鄕見祐輔「日本が塗炭の苦しみに喘いでいるまさにそのときに、長きにわたって日本人に開かれていたドアをパタンと閉めたのだ。日本は、アメリカがこうした挙に出るなどとは思いもしていなかった。その動機も全て理解できなかった」
 ロバート・オーラ・スミス「これまでアメリカ政府は、カリフォルニア州がどの様な態度で臨もうが、合衆国は日本との強い友好関係の保持を希求すると繰り返し表明してきた。しかしこの法律の成立で、政府の主張はもはあ意味を成さなくなった。日本人移民に対するアメリアの態度が両国間の外交関係に重大な悪影響を与えると結論付けざるをえないのである」
 9月 クーリッジ大統領は、悪化した日米関係を修復する為に、シカゴの法律家であるエドガー・バンクロフトを第9代駐日大使に任命して日本に派遣した。
 12月 皇室や重臣達そして渋沢栄一ら経済人も、日米関係の悪化を憂慮し、来日したバンクロフト大使を通じて日露戦争時の両国関係に立ち戻る事を切望した。 
 バンクロフト大使は、相互理解の為には人的交流が重要であるとして、日本人青年のアメリカ留学計画を積極的に推し進めた。
 「両国民に必要なのはお互いを知る事、お互いを同情を以て理解する事である。今こそその知識を広げる時期にあ。我々はさらなる理解を広げる為には、あらゆる努力を惜しまない」
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 1925年7月28日 人的交流で日米相互理解に努めていたバンクロフト大使が、軽井沢で急死した。
 日本政府は、アメリカ国民への敬意と友好の証しとして、バンクロフト大使の遺骸を軽巡洋艦・多摩に乗せて、本国に送った。
 大正天皇は、横浜を出港する際に15個の花瓶を贈り、棺桶の周囲に置いて最初は生花を、枯れたら造花を代用してその死を悼んだ。
 8月22日 軽巡洋艦・多摩は、軍艦旗旭日旗」を翻してサンフランシスコ湾に入港するや、礼砲を発射してアメリカ国歌を演奏した。
 アメリカ軍も礼砲を発射し、日本国歌君が代」を演奏して答えた。
 如何に関係が悪化している国家間でも、戦争をしていなければ、国際礼儀として、相手の国の国旗や軍旗には敬意を払い、相手の公式国歌は演奏した。
 相手の国の国旗や軍旗を破り燃やし毀損したり、相手国の国歌を拒否して侮辱する行為は、国際的常識がない野蛮人とされ、如何なる理由があれ戦争を望む果たし状とされた。
 国歌と国旗及び軍旗には、それ程の重みがある。
 国際社会で認められている、日本の国歌は「君が代」であり、国旗は「日の丸・日章旗」であり、軍旗は「旭日旗」である。
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 1927年10月1日 日本政府は、アメリカとの良好な関係を修復する事き祈願し、バンクロフト大使の遺徳を偲んで下田の玉泉寺に石碑を建てた。
 不幸に日米戦争が始まり、アメリカ人への憎悪が最高潮に達しても英文顕彰碑は破戒される事なく守られた。
 日本の宗教観において、死んだ者は味方でも敵であれ、被害者でも犯罪者でも、分け隔てなく平等に、魂を仏として弔い、霊を神として祀った。
 中国や朝鮮とは違って、憎き相手の墓を暴き、死骸を引きずり出して辱める事は決してしない。
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 1928年 バンクロフト大使の遺産と弔慰金を基にバンクロフト基金が設立され、アメリカに留学する日本人青年の奨学金に充てられた。

 

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国家神道と民衆宗教 (歴史文化セレクション)

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