🎵04:05:─1─清朝(中国)は、弱小国日本を屈服させるべく軍事的恫喝・脅迫・威嚇を行った。琉球処分。巨文島事件。1860年 No.6No.7No.8No.9 * 

小説 琉球処分(上) (講談社文庫)

小説 琉球処分(上) (講談社文庫)


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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博・   
 日本と中国は、ごく短期間の友好関係は存在したが、残りの大半は敵国関係であった。
 個人的な金儲けの交易は存在したが、国家としての交流はなかった。
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 欧米列強は、アヘン戦争太平天国の乱、急速に軍事力を付けた清国軍を恐れていた。
 イギリスやドイツの軍需産業は、清国に武器弾薬や軍需物資を大量に売って大金を稼いでいた。
 イギリスの軍需産業は、同時に、日本にも軍艦を高値で売っていた。
 中国市場に出遅れていたアメリカは、欧州諸国に対抗する為に日本に肩入れしていた。、
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 中国は、現代においても、未來においても、朝鮮同様に徹頭徹尾、反日である。表面的に親日を装っていても、本心は憎悪で煮えたぎった反日であるある。
 過去に親日的であったのは、唐の玄宗皇帝の一時期と南宋に一時期のみである。あとは、全て反日である。唐や宗の時代の中国人と共産党が支配する現代の中国人は、縁も縁もない別の中国人である。
 中国の面子は、けっして親日的にはならない。もし、中国が面子を捨てるのであれば親日と言える。
 中国の「天から与えられた明白な使命」は、日本討伐による日本の領土化と日本人の奴隷化である。
 其の使命は、過去も未来も変わりはない。中国海軍の増強は、その計画を実現する為である。
 その証拠が、1886年8月13日の長崎事件である。軍事大国中国の圧倒的な海軍力に日本が屈服した、国辱の日である。その雪辱戦が、1894〜95年の日清戦争である。
 中国は、反日で有り、けっして親日ではない。
 古代から、中国は、日本に対して対等な関係での友好を認めてはいなかった。
 中国は、日本に対して「上下関係での共生」をたえず強要していた。
 中国人は、孫子の古代から謀略に長けた民族であり、「利」にも「徳」にもならない「信義」や「誠実」は見向きもしない。
 儒教でいう「徳」の本質とは、そういう「徳」である。
 当然の事ながら、中国には朝鮮と同様に、サムライはいないし、武士道も存在しない。
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 日本と中国は、古代から敵国同士でって、朝鮮と同様に決して友好国ではなかった。
 日本が平和で安定していた時代は、中国や朝鮮と国交を断絶していた時だけである。
 日本は、古代から、孤立無援で敵国に囲まれていた。
 何時、周辺諸国から侵略されるかわからない様態にあった。
 軍事力を放棄して、周辺諸国の属国として生き残るか。
 軍事力を持って、独立を守か。
 日本は、何時の時代でも、二者択一を強要されていた。
 戦前の日本は、国家防衛の為に、軍国主義化して全世界を敵にまらして戦って、戦争犯罪国家とされた。
 戦後の日本は、その反省から軍備を所有しないという平和憲法を受け入れ、国家の安全を周辺諸国の善意に委ねた。
 つまり、自主独立国家として自衛権を放棄したもである。
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 植民地大帝国清朝・中国による弱小国日本への大艦巨砲の軍事的恫喝
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 清国の総人口
 1781年……2億7,755万人。
 1791年……3億0,435万人。
 1801年……2億9,750万人。
  白蓮教徒の乱。1796年〜1804年
 1811年……3億5,861万人。
 1821年……3億5,554万人。
 1831年……3億9,582万人。
 1841年……4億1,346万人。
  アヘン戦争。1840年〜42年
 1851年……4億3,216万人。
 1861年……2億6,689万人。
  太平天国の乱。1851年〜64年。
 1871年……2億7,235万人。
  山川出版社『詳説 世界史研究』
 中国大陸は殺戮が絶えない、地獄であった。、
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 1860年 中国における洋務運動。
 清国は、対外紛争のアヘン戦争アロー号事件の敗北、国内紛争のキリスト教徒による太平天国の乱とその他の騒乱で、正規軍の弱体化を痛感して軍事力の強化策を推し進めようとした。
 漢族の中級階級出身若手官僚等は、清国も日本の様に近代化しないと領土が蚕食されて滅亡するという憂国から、青年皇帝を担いで変法運動を始めた。
 科挙に合意した有能な官僚は、正統派儒教価値観を抜け切らなかった為に、中国式洋務運動の「中対西用」は空理空論として限度があり、失敗する事は目に見えて明らかであった。
 漢族将軍等等は、満州族将軍等の力を削ぐ為に、地元で徴収した税金は国防と治安を担う軍隊の維持に使用するとして北京への送金を止めた。
 そして自分らの地位を守る為に、西太后を担いで変法運動を潰し、若手官僚を政権中枢から締め出し閑職に追いやった。
 満州族大臣や将軍等は、税収確保の為に徴収権を回復しようとしたが、西太后が漢族将軍等あら多額賄賂を貰って反対した為に失敗した。
 清国はもちろん中国には、古代から国家意識はなく、あるのは自分一人という個人意識のみであった。
 漢族将軍の中で時代の流れが読めた李鴻章等ら少数の者は、軍閥化の為に、自分に有利な洋務運動を推進した。独自の民間外交で、徴税権や鉱山開発や鉄道施設などの諸権利を担保にして、欧米諸国から借款をえ、欧州系国際金融資本から融資をえた。集めた大金を外国企業に渡して、支配地に軍需工場や製鉄所や造船所などの工場を建設させた。
 李鴻章は、全権大臣や欽差大臣などの要職を歴任し、自分の軍隊を強化する為に「官督商弁」を隠れ蓑にして利権の多くを外国資本に売り渡した。
 外国資本から得た上納金は、清朝ではなく、そうした漢族将軍等の懐に入っていった。
 漢族将軍等は、自分らの不正を正当化して誤魔化す為に、西太后ら有力皇族に多額の賄賂を送っていた。
 中国は人治社会として、上級階級のコネを得る為に賄賂が日常的に行われていた。
 つまり。賄賂は、中国では認められた必要悪であり、伝統文化であった。
 日本の殖産興業という近代化と中国の産業誘致という近代化とは、本質的に違い、その違いは労働を美徳とする神道と労働を蔑視する儒教の違いである。
 欧米諸国は、話が分かる相手として西太后李鴻章を選んだ。
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 清国軍の総兵力は、100万人以上であり、戦時の動員数は、数百万人とされていた。
 だが、近代兵器を装備せれていた兵力は、極少数であった。
 清国海軍は、近代的艦隊として南洋艦隊と北洋艦隊の二個艦隊を建設していた。
 南洋艦隊は、清仏戦争で消滅していた。
 だが、北洋艦隊だけでもアジア一の海軍力であり、日本海軍を圧倒していた。
 北洋艦隊の主力艦は、大型戦艦2隻、装甲巡洋艦6隻、巡洋艦2隻で、その他を入れると数十隻になる。
 清国軍は、アヘン戦争の屈辱船を行う為に、近代戦に耐えられる軍備を整えるべく、軍事費の増額を要請していた。
 最高権力者である西太后は、女性として、予算を軍備強化ではなく宮廷費に流用した、
 植民地帝国清国は、巨大な軍事力を見せて脅せば、属国朝鮮同様に尻尾を丸めて平伏すとみくびっていた。
 植民地帝国清国は、アジア一の軍事力を保持しているとの自信から、日本と戦う意志はなかった。戦わなくとも、日本は詫びを入れ、属国として臣下の礼をとってくるであろうと確信していた。
 小国日本は、独立を守る為に清国との戦争を覚悟して、国家と国民が一丸となって軍備強化を進めた。
 直隷総省北洋大臣李鴻章は、朝鮮を挟んで日本と対陣していただけに、日本との戦争は避けられないと確信していた。
 だが、西太后にしろ北京政府にしろ、日本との戦争の為の予算増額を認める意志はなかった。
 反李鴻章派高官らは、李鴻章を強大化させる事には反対であった。西太后も、李鴻章が政治力を付ける事を好まなかった。
 李鴻章は、孤立化していた。政治力を強化し、地位を安定させる為に、手兵である北洋軍の近代化に私財を投じた。
 西太后と反李鴻章派は、北洋軍を弱体化させる為に日本との戦争に追い込む為に、対日強硬発言を繰り返していた。
 古代から、中国の外向的強硬発言の多くは、国内の政争の延長線上で発せられる事が多い。 
 小国日本に勝ったとしても自慢にはならなかったが、負ければ面子がつぶれて不名誉となる恐れがあった。
 李鴻章は、清国軍の正規軍からの支援がなくとも、北洋軍だけで日本に勝てると自信がった。
 イギリスは、敵国ロシア帝国がアジアに侵略してくる事を恐れていた。東アジアの不安材料である朝鮮の混乱を鎮める為に、眠れる獅子と恐れられた植民地帝国清国に味方し、対日戦の為に船舶を輸送船として使用する目的で貸し出した。
 李鴻章は、北京での政争に負けない為にも、犠牲者を最小限にして戦争を早期で解決する必要があった。
 日本は、国運をかけて植民地帝国清国に対して戦いを挑んだ。
 清国は、小国日本と戦う意志はなかったが、アジアの支配者としての面子から戦いに望んだ。
 日本軍は、平時編制として7個師団と後備軍からなり、その総兵力は約7,000人である。戦時には、約2万人が動員可能とされていた。
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 琉球処分
1876年 琉球支那党(中国系琉球人)は、日本国内の内乱を好機と捉えて清国に軍隊の派遣を要請した。
 清国は、日本が内部崩壊する可能性があるとして傍観し、琉球派兵と軍事占領を見合わせた。
 1977年 西南戦争
 1879(明治12)年 中国系琉球人は、北洋軍閥として海軍力を強化しつつある李鴻章に救援を依頼した。
 日本は、清国の属国であった琉球王国に、軍隊を派遣して強引に沖縄県を設置し、強制的に日本領とした。世に言う、強奪的琉球処分である。
 清国は、明国時代からの300年以上続く伝統的な宗主権を主張し、日本の悪辣な侵略であると強く非難した。
 アメリカのグラント前大統領は、極東アジアの平和の為に両国の戦争を回避するべく、「沖縄は日本領、先島諸島は清国領」とする調停案を示した。
 清国は、キリスト教の欧米列強からの侵略を防ぐ為に、周辺諸国を自衛の盾にする必要があり、属国を失う調停案を拒否して琉球と周辺諸島の領有を譲らなかった。
 日清戦争の原因の一つに、この琉球帰属問題が存在した。
 もし、両国の戦争を話し合いで解決するのであれば、琉球・沖縄における清国の支配権を認め、清国に無条件で返還する必要があった。
 だが、日本は、清国・中国との戦争になろうとも、国際貿易に必要な海上輸送路を確保する為に沖縄を手放すつもりはなかった。
 李鴻章は、「以露制日」政策の上奏文を提出した。「日本に譲歩しても、日本はロシアの侵入を防ぐ力はないのだから、むしろロシアに譲歩して日本を抑さえされた方が得である」
 文廷式は、1894年頃、李鴻章の対露接近策を批判し、ロシア帝国の南下を食い止める為に、日本とイギリスと手を組むべきであるとの上奏文を提出した。
 井上馨外相「西暦700年代より南島の朝貢を受け、日本が之を管治した。琉球国王は日本の後胤(こういん)である。明や清との朝貢冊封は虚礼だった」
 最終的には、清国は、琉球を日本領である事を黙認した。      
 琉球(沖縄)には、日本の支配から脱出して清国(中国)の領土に編入する事を切望する琉球人(沖縄人)が多数存在し、日本に見つからないように中国(中国共産党)と接触していた。
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 2013年5月9日 「沖縄の領有権「日本にはない」 中国共産党機関紙が論文
 8日付の中国共産党機関紙、人民日報は第2次大戦での日本の敗戦により「琉球の領有権」は日本になくなったとした上で、沖縄の「領有権」問題を議論すべきだと訴える論文を掲載した。中国では最近「日本は沖縄に合法的な主権を有していない」との主張が出ているが、党機関紙に掲載されるのは珍しい。対立が深刻化している沖縄県尖閣諸島(中国名・釣魚島)をめぐる問題を沖縄県にまで拡大し、対日攻勢を強める狙いがありそうだ。
 論文は政府系の中国社会科学院の研究員らが執筆。琉球王国が歴代の中国王朝に対して朝貢を行う「冊封国」だった経緯を説明した上で「琉球王国は明清両朝の時期には中国の属国だった」とした。その上で「(当時は)独立国家だった琉球を日本が武力で併合した」とし、尖閣と同様、日本が敗戦を受け入れた時点で日本の領有権はなくなったとの認識を示した。
 尖閣については「歴史的にも台湾に属している」と指摘した。」(共同)
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 2013年5月10日 「新たな対立の火種に 沖縄帰属めぐる人民日報論文 
 【北京=矢板明夫】中国共産党機関紙、人民日報が8日、沖縄県の帰属は「歴史上の懸案であり、未解決の問題だ」などとする論文を掲載した問題で、菅義偉官房長官は9日、「(論文が)中国政府の立場であるならば断固として受け入れられない」と抗議したことを明らかにした。中国外務省の華春瑩報道官は同日、「申し入れや抗議を受け入れられない」と反発、日中間の新たな対立の火種となりつつある。
 論文掲載は、習近平指導部の意向によるものである可能性が高い。尖閣諸島沖縄県石垣市)をめぐる日本との対立が長期化するなか、膠着状態の打破に向けて新たな揺さぶりをかける狙いがあるとみられる。
 習近平指導部は尖閣諸島に関し、日本に「国有化前の状態に戻すこと」「領土問題の存在を認めること」の2点を関係回復の前提条件として突きつけた。しかし、安倍晋三政権が要求を無視したため、対日外交は袋小路に陥っている。
 共産党筋によれば、汪洋副首相に代表される党内の改革派からは「対日関係を改善すべき」との意見が高まりつつある一方、軍や保守派からも「日本に対し何もしないのか」といった批判が上がっている。
 中国政府系シンクタンクの研究者によると、「沖縄地位未定論」を主張する中国の歴史研究者は90年代から台頭。最近は影響力を拡大しているが、研究者の間ではいまでも傍流だと認識されている。
 こうしたなか、人民日報が論文を掲載したのは、在日米軍基地移転問題で日本政府に不満がある沖縄の一部住民の間から、「琉球独立」の主張が出たことを意識した可能性もある。この動きに支持を示唆して日本政府に圧力を加え、尖閣問題で譲歩を引き出すという計算だ。習政権の主な支持基盤である国内の保守派に対日強硬姿勢を誇示する狙いもあったとみられる。
 論文は沖縄の帰属が「未解決」としているだけなのに、多くの中国人が「沖縄は中国領」だとあおり立て、インターネット上には「沖縄奪還」を求める意見が殺到している」
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 中国は、中華帝国朝貢していた全ての属国は中国領である主張している。
 それが、中国の本心である。
 日本国内に、中国の主張に同調する者が少なくとも存在する。
 彼らは、戦争はもちろん、言い争う事も、嫌っている日本人である。
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 中国は、沖縄と尖閣諸島そしてその海域を手に入れようと狙っている。
 中国共産党政府は、公船や軍艦を派遣して威嚇している。
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 1880年 山県有朋参謀本部長は、清国・北洋艦隊とロシア帝国軍の侵略から日本国土を防衛する為に、北は千島列島から南は沖縄・先島諸島尖閣諸島までの沿岸防衛の強化が急務であるという意見書を、明治天皇に上奏した。
 海軍による攻撃力が増した帝国主義時代において、長大な海岸線を持つ島国日本にとって、日本周辺海域は天然の防塞ではなくなった。むしろ、何処を攻められ、何処から侵略されるか分からない無防備国家となり果てていた。
 帝国主義時代とは、キリスト教欧米列強による植民地獲得戦争時代であった。アフリカやアジアは植民地とされ、西欧文明に無縁であった非白人非キリスト教の原住民は奴隷とされた。
 日本が植民地にならず奴隷にならず、一個の人間として尊厳を守って生き残るには、軍事国家となり、侵略してくる外敵に刃向かうしか途がなかった。
 清国・中国は、欧米列強の侵略に対抗する為に、朝鮮、琉球、安南など宗属関係にある国々への支配を強化し、場合によっては領土として併呑する事を計画していた。
 1882年 山県有朋参謀本部長は、清国とロシア帝国によるイリ紛争、朝鮮国内の壬午軍乱によって親中国反日勢力が政権を掌握した事等、日本を取り巻く国際情勢の変化を踏まえて兵備拡充を訴えた。
 1884年 清仏戦争。清国は、属国であった安南(ベトナム)の阮朝を侵略して来たフランスに対して、懲罰戦争を仕掛けた。フランス軍は、清国軍を撃退し、安南を戦利品として植民地とした。
 清国は、欧米列強に敗れるたびに宗属関係にあった属国が奪われた。
 朝鮮も、その危険に晒されていた。
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 巨文島事件
 朝鮮王国は、政治や経済は賄賂と横領で不正が蔓延り、生活環境は汚れに汚れ、社会も体たらくに乱れに乱れていた。
 1885年 ロシア帝国は、日本海を内海として支配するべく混乱する朝鮮に対して、半島北部の日本海側に位置する元山沖の永興湾を租借する事を条件に全面支援を申し込んだ。
 真の目的は、黄海から東シナ海に出る不凍港を確保する為に、朝鮮を植民地とするか領土とする事であった。
 イギリスは、ロシア帝国の南下を阻止するべく、宗主国清国の許可を得て朝鮮海峡の要所である巨文島を軍事占領した。
 ロシア軍とイギリス軍は、朝鮮を挟んで対峙した。
 当事者である朝鮮は、国内の陰惨な政争に明け暮れ、国防問題を自力で解決する意思がなかった。この無責任さが、東アジア全体の混乱の原因であり、東アジアに戦争を引き起こした。
 日本には、両者を仲介して朝鮮の平和と独立と中立を守り、日本海からロシア帝国の脅威を排除するだけの軍事力はなかった。
 時代は、弱者を武力で征服して植民地とする帝国主義の時代である。
 武力のない弱小国の生存権は、無きに等しい時代である。
 軍事力の伴わない話し合い・外交は、意味がない時代であった。
 日本は弱小国と差別され、国力なきがゆえに国際社会で信用がなく、軍事力がなきがゆえに諸外国から責任がとれる普通の国とみなされず相手にされていなかった。
 軍事大国清国は、朝鮮の宗主権を認めさせる為に、仲介者としてロシア帝国に朝鮮不侵犯の声明を出させた。
 イギリスは、アジアの利権を守る為に、清国を東アジアにおける盟主として認めて巨文島から撤兵した。
 清国は、「夷を持って夷を制す」の基本戦略から、アジアでの領土拡大を目差すイギリスとロシア帝国を張り合わせる事で、「漁夫の利」を得ようとしていた。
 同時に、清仏戦争で失った南シナ海の海洋権を補う為に、東シナ海黄海の海洋権を確保する為に台湾を省に格上げし、かっての属国琉球を宗属関係に復帰させようとした。
 アメリカは、1890年に国内でのフロンティアを失うや、太平洋への西方侵出を国策として国益の拡大に乗り出していた。アメリカの日本接近は、平和的な友好の為ではなく、あくまでも利益追求の国家戦略からであった。
 そこには、話し合いによる平和などは存在しなかった。
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 日本は、事大主義の朝鮮が救いようがないほどの無能無策で、自力で国難を乗り切り主権と国益を守ろうとしない事に絶望した。
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 1885年3月 天津会議。伊藤博文は、李鴻章と朝鮮問題処理で協議した。
 李鴻章は、清国は朝鮮の宗主国であり東洋の盟主であるという面子から朝鮮の指導権を堅持しようとしたが、日本への配慮から、日清以外の第三国が朝鮮に侵攻した時は朝鮮を守る為に両国が同時に派兵する事を提案した。
 伊藤博文は、日清提携論に対して、朝鮮の近代化の為には同意したが、軍事的提携は軍事小国・日本は軍事大国・清国の指揮下に組み込まれる恐れがあるとして即答を避けた。
 日本の国防は、朝鮮に自主権を持って独立させ、自衛軍を組織させて共同でロシア帝国の南下を防ぐというものが基本戦略である以上、朝鮮の独立を妨げる中国の宗主権を強化する提案には同意できなかった。
 在清国公使榎本武揚(旧幕臣で賊軍の大将であった)は、朝鮮の統治能力がない現状で独立させる事は「百害あって一利なし」とし、朝鮮の政局不安定がロシア帝国の付け入る隙を作るのみであるとして、朝鮮の保護目的で日清提携を支持した。
 6月 日本政府は、イギリスの巨文島軍事占領など活発化する西洋列強の朝鮮侵出に対抗するべく、日清提携の弁法8ヶ条を提案した。
 清国は、朝鮮に対する宗主権を制限する提案を嫌っていた。
 伝統的「夷を以て夷を征する」戦略から、欧米列強の力の均等を利用して国土防衛と属国支配を維持しようとしていた。
 ロシア帝国の南下に対して、イギリスに各地の租界と鉄道建設などの利権を与えて提携を進め、イギリス軍による巨文島占拠を表面的に抗議しても内面では歓迎した。
 朝鮮支配の為に、むしろロシア帝国の軍事力を利用して日本を半島から駆逐するべく暗躍していた。
 日本は、国力不足を実感する為に、対ロシア戦略から朝鮮改革の為に清国との提携を模索した。
 朝鮮は、万年属国として清国の指導を受けると共に、対日本戦略からロシア寄りのメルレンドルフを政治顧問として意見を聞いていた。
 清国による、対日包囲網は確実に姿を現し始めていた。
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 日本の国家戦略は、日本を侵略しようとしているロシア帝国から如何に祖国を防衛するかであった。
 朝鮮や中国に対する外交政策は、全て対露戦略が元になっている。
 日本の国防戦略に中国や朝鮮が妨害するとあれば、日本は中国や朝鮮と戦争する以外に選択肢はなかった。

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