🎵21:─1─日清戦争は、清国(中国)と朝鮮にとっては懲罰戦で、日本にとっては対露戦の前哨戦であった。高陞号事件。1894年。〜No.43No.44No.45 * 


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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 中国は、日清戦争を日本の大陸侵略であると非難している。
 日本にとって、日清戦争は、中国から日本を守る為の自衛戦争であった。
 日本は、正当防衛の戦争に勝利し、台湾を領土とし賠償金を得た。
 国際法は、日本の権利を認めた。
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 日本が最も恐れた強敵はロシアであった。
 ロシアの侵略から如何にして母国日本を守るか、それが軍事戦略であった。
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 2014年7月25日 msn産経ニュース 「安倍政権は「120年前をほうふつ」 「日清戦争開戦」に絡め中国メディア [日中関係
 日清戦争(1894〜95年)開戦120年に当たる25日、中国各紙は「歴史をかがみに警笛を鳴らそう」などと主張する社説を掲載した。国営通信の新華社は「侵略の歴史」に絡め、安倍晋三政権の安全保障政策への警戒を呼び掛ける論評を発表。習近平指導部は「屈辱の歴史」や「日本の脅威」を強調することで、一層の軍拡を正当化していくとみられる。
 新華社は、安倍政権は「積極的平和主義」などのスローガンを掲げつつ集団的自衛権行使容認を閣議決定するなど「『富国強兵』を進めており、120年前をほうふつとさせる」とした。共産党機関紙、人民日報は日清戦争での敗北を教訓として「(中国の)核心的利益」を守るために十分な戦力が不可欠と主張。一方で、敗北は「清朝末期の深刻な腐敗も原因」と指摘した。(共同)」
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 福沢諭吉「今まで、一度も戦争をして勝った事のない、逃亡ばかりしていた清国兵が勝ちに乗じたとき何をするか、その残酷無比を考えたら、中国と戦争する以上は、必ず勝たねばならない」
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日清戦争(1894年8月〜95年4月)
 1894年 明治天皇も、伊藤博文らも、ロシア帝国に備える為に清国との戦争は極力避けたいとして、話し合いによる外交を続けていた。
 だが。強国意識の強い清国は、軍事力で威嚇して話し合いによる平和的解決を拒否した。
 清国の対日強硬派は、西洋文明に感化された日本を、儒教価値観による中国中心の東アジア体制の支配下に隷属させるべきだ主張し、日本への懲罰戦の決行を求めた。
 世に言う、東征論である。
 清国高官の多くは、アジア最大の大国であるという驕りから、優勢な武力を見せつければ日本は戦わず降伏すると高を括っていた。彼等の多くが、日本と直接的に関係を持っていなかっただけに、日本と戦う意志はなかった。
 李鴻章は、北洋大臣として朝鮮をめぐって日本との利害関係が深かった為に、朝鮮の主導権をめぐって戦わざるを得ないと腹をくくっていた。
 北洋軍の幕僚らも、日本との戦争の為に軍備強化を進め、開戦時期を決めるのは日本ではなく清国であると決め込んでいた。
 朝鮮の袁世凱も主戦派であったが、軍隊の陣容が調わない現状においてその時ではないと考え、日本との衝突回避に朝鮮に圧力をかけた。
 朝鮮の親中国派は、日本勢力を半島から完全追放する為に清国軍2,400人の駐留に協力した。
 朝鮮政府は、袁世凱の要請に従い、大鳥圭介公使に対してこれ以上の日本軍増派は無用であると抗議した。
 東学党・農民の反乱鎮圧に派兵を要請したのは、宗属関係にある清国であり、日本ではないと言い切った。
 清国と日本が朝鮮に関してどの様な条約・約定を交わそうとも朝鮮政府には関係なく、大軍派遣は朝鮮国の主権を踏みにじる不法行為であると抗議した。
 大鳥公使は、東京の陸奥宗光外相に、日本軍の増派は清国軍との武力衝突の危険があるとして、しばらくの間で日本軍の輸送を差し止めるべく要請した。
 清国は、事後承諾として、朝鮮出兵を日本に伝えた。
 陸奥宗光外相は、清国の文書に朝鮮を「保護属領」とする文言があった事に対して、清国に厳しく抗議する様に主張した。
 伊藤博文ら首脳陣は、清国と戦争に不同意な明治天皇の意向に従って、清国を刺激しない様に「日本は朝鮮を属領とは認めていない」との語調を抑えた抗議文を送った。
 だが。大国意識と強い清国は、日本側の思惑を完全無視し、朝鮮に関する抗議に一切耳を貸さず、朝鮮はおろか日本を属国として中国中心の中華体制に組み込もうとしていた。
 日本は、自主独立国としての名誉から中国の軍事圧力を拒絶した為に、両国の戦争は避けられなくなった。
 当時の日本は、戦争を嫌う現代日本とは違って、祖国防衛の為ならば戦争をし如何なる犠牲を出そうとも厭わない覚悟があった。
 林外務次官「如何にして平和に事をまとむべくかというを議するにあらずして、如何にして戦いを起こし、如何にして勝つべきか」
 陸奥宗光外相「今日我が朝鮮に対する勢力は、未だ支那の積威に及ばざる観ある」
 日本は、ロシア帝国の侵略から祖国を防衛する為に朝鮮の独立を目指していた。
 清国は、伝統的華夷秩序による中華体制でアジアの指導権を再確立しようとしていた。
 両国の思惑の相違によって、協調や提携は不可能となり、問題解決は武力以外になくなった。
 朝鮮は、清国軍が救い主となって侵略してきた日本軍を殲滅し、中華皇帝が西洋かぶれした儒教的不道徳な蛮族日本を消滅するのを高見の見物した。
 何時の時代でも、朝鮮は日本を滅ぼす為に大陸国の軍事力を利用していた。
 日本の不幸は、日本を絶えず敵視し隙あらば滅ぼそうと企んでる朝鮮を隣国に持ち、その朝鮮によって祖国の安全を脅かされていた事にある。
 日本と朝鮮の間には、友好の文字は存在しなかった。
 日本軍は、李鴻章同様に、すでに開戦の決断をして軍隊の手配を進めていた為に、今さら派遣を中止する事に同意しなかった。それよりも、開戦の口実を作るように外務省に強く要望した。
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 6月2日 日本政府は、公使館警護と在留邦人保護を名目に、朝鮮への派兵を決定した。
 明治天皇は、本心では不同意であったが派兵を裁可した。
 6月5日 在朝鮮国公使大鳥圭介は、一時帰国していたが、非常事態に備えて海軍陸戦隊の警護で朝鮮に戻った。
 6月6日 李鴻章は、日本との戦争を避けたかったが、朝鮮からの派兵要求を受けて北洋陸軍2,500人を半島に送った。
 6月下旬 陸奥宗光外相は、駐日清国公使に、両国共同で朝鮮の国政の大改革を提案を行った。
 閔妃派政権に農民暴動の責任を取らせた退陣させ、大院君を復権させて新たな政権下で国を治めさせるというものであった。
 清国側は、日本提案を朝鮮の宗主権への侵害として拒否したが、日本主導の国政改革は反日派の猛反対で成功しないと踏んで口を出さなかった。
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 7月10日 大鳥圭介公使は、朝鮮政府に、清国軍の引き揚げを要請するように圧力をかけた。清国軍は、同時撤兵しない限り、単独での撤兵はありえないと拒否した。
 7月15日 大鳥圭介公使は、朝鮮政府に、清国との間にある全ての条約を破棄するように要求し、回答期限を48時間以内と区切った。
 7月16日 日本は、イギリスとの条約改正の調印に成立し、新しい日英通商航海条約が成立した。
 ロシアは、イギリスが日本に接近した事に警戒し、戦争に介入する意欲をなくした。
 日本は、ロシアに日英合意で満州・朝鮮に介入しないと分析して、軍事行動を進めた。
 7月20日 袁世凱は、日本側の不穏な行動を察知して漢城を脱出した。
 7月23日 日本軍が朝鮮王宮・景福宮を占領して日清戦争が始まった。
 日本連合艦隊は、佐世保港を出撃した。
 日本軍は、清国との戦争は避けられないとの判断から、清国派とも言うべき閔妃派を政権から追い出す事を要請した。
 午前3時 大鳥圭介公使は、回答がなかったとして、海軍陸戦隊と巡査隊を出動させ武力で王宮を占領した。閔妃派政府要人を退陣させ、大院君を担ぎ出して無理やり執政に据えた。
 開化派金弘集は、日本の支援を受けて政権を発足させ、朝鮮の近代化の為に守旧派の反対を押し切って大規模な政治改革を断行した。甲午改革である。
 近代化の障害となっていた科挙身分制度、人身売買、拷問などを廃止した。
 午前11時 日本海軍の連合艦隊が、佐世保軍港を出港して朝鮮海域に向かった。
 午後 イギリス国籍の貨客船高陞号は、清国軍第二次増援部隊1,400人を朝鮮に運ぶ為に、中国永定河河口の大沽を出港した。
 7月24日 大院君は政敵の閔妃を処分しようとしたが、大鳥圭介公使はこれ以上の混乱は好ましくないとして閔妃を庇った。
 日本側は、反日的な朝鮮政府軍を後方においては清国軍と戦えないとして、大院君に対して政府軍の武装解除を命じた。
 大院君は、日本側の不当な要求に屈し、政府軍に対して武装解除を命じてた。
 政府軍は、日本軍の横暴に煮えくり返る様な怒りを感じたが、政府の命令に従った武器を日本軍に引き渡した。反日派は、秘かに、日本軍の動向を清国軍に伝え、反日武装闘争を計画した。
 大鳥圭介公使は、大院君に内政と外交を司る機関として軍国機務処の設置を命じ、初代総裁に親日派金弘集を就任させた。さらに、近代国家の体裁を整える為の改革案を押し付けた。世に言う、甲午改革である。
 日本政府は、軍国機務処と大日本大朝鮮政府盟約を結び、朝鮮国内で日本軍が自由に軍事行動をする権限を得た。
 「日本国は清国に対して攻守の戦争の任し、朝鮮国は日本兵の進退および其の兵糧準備のため、及だけ便宜を与うべし」
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 石光真清「眠れる獅子と言われていた清国に、東海の一小国が宣戦布告をしたのであるから、世界各国は驚いた。実のところ私たち青年将校も顔色を変えて驚いたのである。世界最強のロシアでさえが、清国と衝突をさけて……傍観態度に変わったのである。……東洋一の大国である清国に戦いを宣して容易に勝てる確信はなかった」
 日本の歴史上、中国と戦って勝った経験がなかった。
 日本人は、古代から、禽獣の住む野蛮国として中国から高度な文物や技術を学んで来たと言う自覚から尊敬し、文明国となる為に模範とすべき儒教聖人君主の国であった。
 常識ある日本人であれば、清国と戦っても勝てないと意気消沈していただけに、清国との戦争は避けたいと願っていた。
 清国は西欧列強が認める巨大国家であり、日本は国際世論が認める弱小国であった。
 国家存亡の危機であるとして、キリスト教徒の内村鑑三らは日清戦争は義戦、正義の戦いであると訴えた。
 各地の旧士族は、愛国心から義勇兵を結成し、朝鮮に渡ろうとした。
 福沢諭吉は、「日本臣民の覚悟」を説いて、1万円(現在の1億円)を軍費の足しにする為に献金した。
 帝国議会では、与野党が、「国家とは、平時は政府に従い、戦時は軍部に従う」の鉄則から、挙国一致で国難を乗り越えるべしとして政治的休戦を申し合わせた。
 強大国である清国の復讐に恐怖する日本人は、今後日本には手を出せないと思わせるまで徹底的に攻撃するべきであると、半狂乱となって好戦的な主張を繰り返していた。
 政府や警視庁は、中国の報復を恐れて、「虚偽無根の事を説き少年婦女子を惑わし、または血気の壮年輩を激昂せしめざるよう」にと、中国人を侮辱して戦意を煽る行為に注意をした。
 アジア主義者は、西洋列強の侵略から東洋を守る為には日本、清国、朝鮮だ大同団結して対抗すべきであると、「大東合邦論」を訴えていた。
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 清国の国力は、欧米列強より少ないといっても、日本の国力と比べれば雲泥の差があった。
 清国海軍も日本海軍よりも遙かに強力で、三等国並みの貧弱な日本艦隊では世界最大級戦艦を保有する二等国並みの北洋海軍に対抗するだけの攻撃力はなかった。
 日本軍首脳部は、彼我の海軍力を考慮し、制海権を奪われて日本と半島の兵站輸送輸送が遮断され、清国軍が日本本土に侵攻するという最悪の事態を想定して秘かに本土防衛の作戦を策定した。
 サムライは、生き死に賭けて戦う以上、考えられるだけの攻めと守りを考えていた。
 言霊を信じて、敗走や敗北を口にすると現実に起きるかも知れないから、口には出さないとか考えないという非現実的な狂人的なサムライは誰もいなかった。
 そう考えるのは、戦争を考えない、戦略どころか戦術さえ思い付かない無能な現代日本人だけである。
 サムライ軍人は、天皇の大権である軍隊を動かし、天皇の臣下である国民を戦場に送り出す以上は、失敗すれば責任を取って切腹して果てるという覚悟の元で戦争を始めた。
 サムライ軍人にとって軍隊は、中国の様な権力者の私兵ではなく、大元帥天皇の公兵であるがゆえに勝手に動かせるものではなかった。
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 7月25日 午前7時52分 豊島沖海戦日本海軍の巡洋艦三隻は、清国海軍の巡洋艦二隻を発見するや、国際法に則り表敬の礼砲を準備した。
 中国海軍軍艦は、自分の方が有利と判断し、国際法を無視していきなり砲撃を加えた。
 日本海軍軍艦は、正当防衛として猛反撃した、一隻は戦意を喪失して逃走し、もう一隻は座礁して自爆した。
 中国は、自分都合の良い法律を事後法として作り、都合の悪い国際法は一切無視した。
 高陞号事件。
 10時40分 浪速艦長東郷平八郎は、近くを航行していた砲艦一隻を拿捕し、高陞号に投降を命じた。
 英国ロンドン所在インドシナ汽船会社代理店ジャーディン・マセソン・コンパニー(怡和洋行)所有の高陞号は、清国兵約1100人、大砲14門、その他の武器を牙山に輸送中であった。
 午後1時45分 浪速艦長東郷平八郎は、国際法の手順に従って高陞号船長ゴールズワージーと2時間に渡って問答を繰り返した後に、抑留が不可能と判断して「撃沈」を命じた。
 「撃ち方始め」の命令とともに水雷が発射され、砲撃が開始された。
 浪速の端艇は、泳いで浪速に向かってきたヨーロッパ人船員士官全員を救助した。
 浪速は、溺れている清兵達を見捨てて立ち去った。
 イギリス世論は、自国の民間船が日本海軍の攻撃で撃沈された事に激怒し、溺れている清国兵を見殺しにした事を非難した。
 イギリスの国際法学者トーマス・アースキン・ホランドとジョン・ウェストレーキは、タイムズ紙に、高陞号問題に対して日本側に違法行為はなかったと掲載した、
「高陞号の沈没したのは戦争が開始されたあとである。戦争というものはあらかじめ宣言せず始めても、少しも違法ではない。これは英米の法廷で幾度も審理され確定している。高陞号の船員は初め戦争が起こったことを知らなかったに違いない。だが、日本の士官が船に乗り込んできたときこれを知ったとみなさざるをえないし気づくべきであった。このとき英国旗をかかげていたか否かは重要ではない。戦争が始まったのであれば交戦国の艦艇は公海上ならあらゆる船を臨検し交戦国の船、第三国の船でも相手国向けの戦時禁制品が積んであればこれを没収、あるいは破壊・処分し、必要なら撃沈するというのは艦長に認められる権利だからである。日本水兵が乗船しても捕獲することは不可能と認められるので、日本の(浪速)艦長が、いかなる暴力を用いようとも、それは艦長の職権である。また沈没後に救助された船員は規則通り自由になることができたので、この点でも国際法に背馳していない。それゆえ日本政府が英国に謝罪する義務は生じない」。
 7月29日 日本軍の大島混成旅団約3,000人は、牙山の清国軍約2,000人を攻撃して敗走させた。
 大院君は、緒戦での清国軍の敗走に衝撃を受けたが、最後には大国清国が勝利する事を確信していた。 捕らえている東学党を釈放して、日本軍の後方から攻撃しさせるべきだと献策した。
 さらに、政敵の閔妃の操り人形となっている高宗を廃止して、王族の李筇鎔を新たな国王にするべく画策した。
 李筇鎔謀反事件である。
 朝鮮の権力者は、国家の存亡よりも、党利党略を優先し日本、清国、ロシア帝国を利用していた。
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 軍事大国清国・中国対軍事小国・日本の戦争。
 世界常識は、清国の勝利、日本敗北。
 日本の基本戦略は、ロシア帝国の侵略から祖国日本を守る事であった。
 その為に、朝鮮を清国・中国の2000年の属国から独立させて主権国家にする事であった。
 清国の基本戦略は、弱小国日本を懲らしめて属国化し、朝鮮を領有する事であった。
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 ジュネーブ条約は1899年に改訂され、戦時下で漂流者を発見しても救助せず立ち去る行為は戦争犯罪とした事に変わりはなかったが、敵の攻撃が予想される状況下では自衛行為として救助せず放置して立ち去る事を認めた。
 亦、敵意を見せている敵兵の漂流者を救助して暴動を起こす危険性がある時は、敵兵の漂流者を放置して立ち去る行為も違法ではないと認めた。
 東郷平八郎の行動は、戦時国際法上合法と認められた。
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 第一次世界大戦時。ドイツ海軍潜水艦は、イギリス海軍巡洋艦を雷撃で撃沈した。
 イギリス海軍の僚艦2隻は、沈没した巡洋艦から脱出して漂流している味方の将兵を救助する為に、現場し停船して救助のあたった。
 ドイツ海軍潜水艦は、その内一隻も撃沈した。
 イギリス艦艇は、味方の漂流者を救出しようとした為に更なる犠牲者を出してしまった。
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 8月1日 日本政府は、清国に対して宣戦布告をおこなった。
 明治天皇は、「朕の戦争に非ず、大臣達の戦争なり」
 日清戦争の勃発である。
 日本軍36万人対清国軍130万人以上。
 参加兵力。日本軍24万人。戦死者1,132人。病死者1万1,894人。戦傷病者3,758人。対。清国軍63万人。死傷者3万5,000人。
 清国側は、大国という自意識から、小国の日本は恐怖して謝罪し従属を表明するこそすれ、まさか戦争を仕掛けてくるとは信じていなかった。
 李鴻章は、朝鮮内の内通者の情報を得て対日作戦を練り、軍隊と艦隊を移動させた。
 清国は、日本側の挑発であると非難して、国際世論を反日化させて味方に付けようとした。
 日本は、宣戦布告前に、騙し討ちや不意打ちといつた卑怯な行為を行う国であるというのが、世界常識となった。
 日本は、戦死した日本人を全て靖国神社に神として祀った。
 清国は、戦死した有力者の子弟である将校を手厚く弔ったが、そり以外の身分低い庶民出身兵士は見捨てた。
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 日本軍は、近代国家の軍隊である事を証明する為に、国際法専門家や諸外国の観戦武官を引き連れて転戦し、負傷して捕虜となった清国軍兵士の傷を手当てし、他の捕虜と一緒に武装解除して故郷に返した。
 戦死者は、敵味方関係なく平等に葬り、石碑を建立して冥福を祈った。
 だが。清国軍は、伝統的戦場の作法に従い、捕虜となった日本人兵士を世にも恐ろしい手段で虐殺し、死体への尊厳を示すことなく放置して鳥や獣の餌とした。
 進軍する日本軍は、各地で放置された同胞の惨殺死体を見るにつれて、中国人への憧れ的な幻想を捨て、中国人を憎み「チャンコロ」と蔑称で呼び捨てた。
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 9月 執政大院君は、近代化の名目で伝統的王朝体制を破壊する日本に嫌悪し、清国側に日本軍の情報を流し、ロシア帝国に朝鮮への干渉を有利にする為に日本側の情報を伝えた。
 朝鮮は、日本を滅ぼす為に清国とロシア帝国を利用しようとした。
 日本にとって、朝鮮とは、古代からそうした存在であった。
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 9月16日 日本軍第一軍1万7,000人は、清国軍1万2,000人が守る平壌城を攻撃し、多大なる犠牲を出して勝利を収めた。日本軍は、敗走する清国軍を追って国境を越えて、遼東半島の大連と旅順の攻略に向かった。
 新たに第二軍がが編制され、旅順攻略の為に日本を出発した。
 9月17日 黄海海戦。日本艦隊は、軍艦11隻、総砲門数大口径砲11門を含む220門。清国艦隊は、軍艦14隻、総砲門数大口径砲21門お含む162門。戦力は、清国艦隊の方が優性であった。
 日本軍艦は数多くの砲弾を受けて被害は甚大であったが、沈没は一隻もなかった。清国海軍は、沈没3隻、座礁2隻の被害を受けて敗走して、威海衛に逃げ込んだ。
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 東学党は、日本人を朝鮮から追い出すべく第二次蜂起を決行した。各地の農民達は、反日闘争に参加した。農民軍の総兵力は、11万人以上であった。
 日本軍は、東学党の不穏な行動を察知して、漢城周囲の守備を固めた。
 10月24日 日本軍第一軍は、清国軍を追って国境を越えて進軍した。補給部隊などの少数部隊は朝鮮北部に集中し、南部では日本軍部隊はいなかった。
 朝鮮政府は、厳格な儒教秩序を破壊し、伝統的な身分制度を危うくするものとして討伐軍を派遣した。
 漢城の日本公使館は、農民軍討伐の為に、朝鮮政府軍内の親日派将兵約1,400人に武器を返還した。
 日本政府も、清国との戦闘中の事であり、事態の深刻さを痛感して予備兵力を治安用に派遣した。この結果、日本軍の兵力は底を突いた。
 10月26日 日本政府は、大院君の利敵行為を封じる為に、李氏朝鮮王朝に同情的な大鳥圭介公使を解任し、内務大臣の井上馨を後任公使として漢城に送った。
 井上馨公使は、大院君を執政の座から追放して高宗を復権させた。
 王宮の奧で身を潜めていた閔妃も、高宗の復権と共に政務に関与し、追放されていた閔妃派を集めて政権復帰を画策し始めた。
 閔妃は、反日派として、清国の最終勝利を信じて日本の情報を李鴻章に流し、ロシア公使ウエーバーに反日活動への協力を得るために接近した。
 日本軍第一軍は、九連城を陥落させ、さらに幾つかの城塞を奪いながら清国領内へと進軍を続けた。
 日本政府は、戦争を早期で解決する為に、極秘で講和の道を探り始めた。但し、弱気と取られ交渉が不利になる事を恐れ、軍部は北京まで進撃して清国皇帝に城下の盟を強要すべきと息巻いた。
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 11月 日本軍と朝鮮政府軍の連合軍は、農民軍に比べて兵力は少なかったが、近代兵器を装備していた。
 連合軍は、公州で北上してきた農民軍を激闘の末ね撃退した。
 朝鮮政府軍は、治安回復の為に、敗走する農民軍残党を反逆者として各地で掃討し、参加した農民や蜂起に賛同した者への弾圧を強めた。
 農民軍に参加しようがしまいが関係なく、農民軍がいた地域での農民狩りを大々的に行った。捕らえた者は、女子供に関係なく、全て惨たらしい方法で処刑した。
 その地域にある地主や豪商の家を襲撃して、家具調度など手当たり次第略奪し、止めにかかった家人は反逆巣あの一員として猟奇的な方法で惨殺した。 
 残党狩りは、この後、10年以上続いた。殺害された者は、40万人以上と言われるが、実数はさらに多いとされている。
 朝鮮人民は、朝鮮政府軍の執拗な弾圧を日本軍の所為として、虐殺は日本の差し金として日本を呪った。
 東学党員の一部は、日本に亡命して天道教を興し、反日活動を続けた。
 東学党の農民蜂起は、フランス革命に匹敵する快挙とされている。
 11月6日 第一師団は、金州城を攻略した。
 大陸における戦争で、殺戮と略奪と強姦は当然の事であった。 
 中国では、中国人住民が傷付いた清国兵を襲撃し斬殺して、身包みを剥いで死体を野良犬の餌とした。
 中国人は、戦争がある度に虐殺を行っていた。
 11月21日 大山巌(下級武士出身)大将率いる第二軍は、1万3,000人以上の清国兵が守る旅順要塞を攻撃したが、清国軍は戦わずに敗走した為に無血占領した。この時、日本軍による大虐殺が起きたとされている。
 日本軍は、兵站線が延びて補給が困難となった事を理由にして進軍を停止し、冬を越す為の野営を張った。
 ニューヨーク・ワールド紙は、日本軍による残虐行為があったと報道した。
 「日本軍は旅順で6万人市民を虐殺した」
 駐日ベルギー公使アルベルト・ダネタンは、残虐行為があったかどうかを検証し、アメリカ紙の報道は「悪意ある」デマであると公表した。
 12月28日 金琫準は、逃亡に疲れ報奨金に目が眩んだ部下の裏切りによって捕らえられた。翌95年4月23日に、仲間と共に処刑された。
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 仏フィガロ紙「(清国兵は)逃げながら朝鮮人の家々に押し入り、略奪、強姦、虐殺をほしいままにした」
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 清国軍は、日本人捕虜を取らず猟奇的陰惨な手段で処刑した。
 中国では、古来、敵か味方かの2者しか存在せず、味方につかない者を帰国させると敵軍兵士として攻撃してくるので殺した。
 日本軍は、清国軍は自分達同様に捕虜を取り戦争が終わるまでは収容所に収容すると思っていたが、中国人には国際常識が通用しない事を知った。
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 秋山好古への報告「(日本軍兵士を捕虜にした清国兵士は)日本兵の耳を削ぎ、鼻を削ぎ、さらに顔の皮を剥ぎ、男根を切り落とした上で、鈍刀で首を切り落とした」
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 中国人が法を守らず、残虐行為を行う事は、誰もが認める所であった。
 日本人は、そうした中国人になりたいとは思わなかった。
 但し、大陸人である中国人に憧れ、中国人の様になりたいと思う日本人は昔からいた。
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 山縣有朋は、清国軍の捕虜になると身の毛もよだつような虐待を受け、猟奇的方法で惨殺されるとして、捕虜になるくらいなら自決せよとの戦陣訓を全軍に通達した。
 「軍人といえど降る者は殺すべからず(民間人ならなおさら)。然れどもその詐術(偽りの降伏)にかかるなかれ。かつ敵国は古きより極めて残忍の性を有す。誤って生擒(せいきん、捕まれば)に遭わば必ず残虐にして士に勝る苦痛を受けついには野蛮な惨毒の所為をもって殺害せらるるは必然なり。決して生擒(中国人の捕虜)する所と成るべからず。むしろ潔く一死を遂げもって日本男児の名誉を全うすべし」
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 東條英機「生きて虜囚の辱めを受けず」など、中国戦線で中国軍と戦った軍人の全てが、部下の将兵に中国人の捕虜になると非人道的な扱いを受け、見るも無惨に惨殺を受けると訓示した。中国人兵士は、日本人には想像もつかない常軌を逸した残忍な敵であり、息絶えるまでじわじわといたぶられなぶり殺しにされるよりは、むしろ戦死するまで戦えと。
 但し。降伏してきた中国人兵士は、強制的に兵士に仕立てられた哀れな良民であるから、天皇の御稜威で保護し、この後は銃を持って戦わず生業に励むように諭して帰郷させよと命じた。
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 日本の人間観は、個人と集団をハッキリと峻別する。銃を持って戦う敵兵・中国兵と、銃を持たない敵国人・中国人は、別の人間である以上は扱いを変えると。こうした個別に分ける人間観は、日本だけの常識であり、世界では通用しない非常識である。
 日本の神道は、「罪を憎んで人を憎まず」の性善説をとっていた。
 日本人はよく騙されそして裏切られる、それでも相手を信じて止まない。
 国際常識は、キリスト教性悪説である。
 気弱な日本は、気の強い清国・中国以上に、国際社会の評判・評価を病的なほどに気にし、まともな近代国家であろうとした。

 


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日本人のこころ -神道-

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