₩71」─6─中国共産党政府と韓国による新たな反日歴史戦。旅順虐殺事件。〜No.322〜No.323 *    

旅順虐殺事件

旅順虐殺事件


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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・  

 敗走する清国軍(中国軍)の方が、進撃する日本軍よりも残虐で、各地で虐殺と略奪を繰り返していた。

 アメリカのキリスト教会は、反天皇反日本で親清国(親中国)、親朝鮮であった。

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 安重根はテロリストである。
 朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を殺すべく付け狙っていた。
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 アメリカには、政治・経済そして国民世論に影響力を与える新中国反日派勢力が存在していた。
 日本軍旅順虐殺事件は、アメリカ国内の親中国反日派勢力によるデマあった。
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 中国共産党は、反日であり、敵日である。
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 2018年3月8日 産経ニュース「【藤本欣也の中国探訪】軍港・旅順は二〇三高地だけではなかった! 中韓歴史戦の新たな舞台か
 旅順監獄の共同墓地跡。安重根は処刑後、この地に埋葬されたとの説も(2月7日、藤本欣也撮影)
 中国・遼東半島の軍港、旅順。日本人には日露戦争の激戦地として知られるが、近年、韓国人の観光客が増えているという。伊藤博文元首相(1841〜1909年)を暗殺した安重根(アン・ジュングン、1879〜1910年)が刑死した終えんの地だからだ。訪問すると、中韓の“反日”観光の拠点になりかねない、そんな危うさが漂っていた。
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 中国初の国産空母が建造されている港湾都市、大連市内から、車で約50分の距離に大連市旅順口区がある。目指すは二〇三高地−。
 明治日本の帝国陸軍が1904年、難攻不落とされた露軍構築の旅順要塞を攻略、多大な人命を失いながらも同高地を占領し、観測所を設けて旅順港内の露艦隊に砲撃を加えた。
 占領直後、現地の児玉源太郎陸軍大将が「そこから旅順港は見えるか!」と、架設された電話線を通じて二〇三高地将兵に確かめた話は有名だ。
 司馬遼太郎が小説「坂の上の雲」でこう記している。
 「旅順攻撃は、維新後近代化をいそいだ日本人にとって、はじめて『近代』というもののおそろしさに接した最初の体験であったかもしれない」
 実際、長い坂道を上って標高203メートルの旧二〇三高地の丘陵地に立ってみると、旅順の市街地とともに港が見渡せた。隣では、ウオーキング途中の初老の男性も同じように景色をながめている。
 「ここに来るのが日課なのです」
 日露将兵が死闘を繰り広げた戦地も今では住民の憩いの場となっていた。
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 日露戦跡めぐりで旅順を訪れる日本人は多い。ただ、地元観光業者によると、最近は韓国人の旅順観光が増加しているという。
 旅順口区には外国人別観光客の統計がないため、大連市全体で調べてみた。2009年に日本人51万人、韓国人17万人だった観光客数は昨年、日本人33万人に対し、韓国人は23万人に増加している。
 旅順に来た韓国人が必ず訪れるというのが、旧旅順監獄だ。二〇三高地の激戦から5年後、中国東北部ハルビン駅頭で伊藤博文を暗殺して逮捕された安重根が収監、処刑された場所である。当時、多数の中国人も拘置されていた。
 「韓国人観光客には安重根の写真や書の掛け軸が人気だね。韓国から学生の団体がやってくることもある。今日? 真冬はオフシーズンだよ。自分の国で五輪でも見ているんじゃないのかい」
 隣の商店で土産物を売っていた男性が笑った。
 「安重根は1909年10月26日、ハルビン駅で日本の元首相、伊藤博文を射殺し、死刑を宣告された後、1910年3月26日午前10時、この刑務所で絞首刑に処されました」
 安重根が拘置されていた旅順監獄内の独房前では、女性解説員が中国人観光客たちを相手に淡々と説明していた。
 大連から7歳の長女と一緒に来たという中国人主婦(36)に話を聞いた。
 「テレビではいつも抗日のドラマを放映しているので、娘からその時代のことをよく聞かれます。だから実際に当時の歴史を見せようと思って連れて来ました。安重根? 今日まで知らなかったですね。勉強になりました…」
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 安重根をめぐっては2014年、中国の習近平政権が韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領(当時)の要請を受けて、ハルビン安重根記念館を設立。日本に対する中韓共闘の歴史戦の一環として関心を集めた。
 処刑後、どこに埋葬されたのか分からない安重根の遺骨に関しても15年11月、韓国の黄教安(ファン・ギョアン)首相(同)が中国の李克強首相との会談で、大規模な現地発掘調査に向けた協力を要請。李氏も安重根について「中国国民にとっても英雄だ」と応じ、双方は協力方法を検討していくことで合意した。
 その後、両国関係は米軍の高高度防衛ミサイル(THAAD)の韓国配備で悪化したものの、韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領が昨年末に訪中し、現在は改善に向かいつつある。
 しかも来年は、朝鮮半島出身者たちが抗日の「大韓民国臨時政府」を上海に設立して100周年。さらに、安重根伊藤博文暗殺から110年の節目でもある。旅順で遺骨発掘に関する中韓の協力事業が動き出し、歴史戦が再燃する契機になるかもしれない。そう考えるのは、旅順に“反日”の下地があるためだ。
 「私たちの世代は、旅順といえば『旅順大虐殺』を思い起こすわ」
 港近くのファストフード店で、母親とハンバーガーを食べていた地元の女子大生(25)が言った。
 中国、特に旅順の子供たちは学校で「旅順大虐殺」を教え込まれる。1894年の日清戦争に際し、旅順に入城した日本軍が敗残兵を掃討する過程で、住民を「虐殺した」などと学ぶ。
 「日本人が旅順で歓迎されると思う?」。女子大生の母親の表情は硬かった。
 旅順港内には、軍の艦船3隻が停泊していた。核・ミサイル開発を続ける北朝鮮は目と鼻の先だ。港の周りには監視カメラが至るところに設置されている。
 軍港のイメージが色濃く残る旅順の街に、新たに“反日”色が加わるかもしれない。そう感じた。(中国総局長)」
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 日本は、世界に近代国家である事を認めて貰う為に、各派遣軍司令部に国際法の専門家や各国軍隊の観戦武官の同行を認めていた。
 戦争は、公開されていた。
 1887(明治20)年 博愛社は、日本赤十字社と改称した。
 昭憲皇后は、皇室伝統の「慈愛の精神」で日本赤十字社の庇護と発展に力を貸した。
  1894年7月 日清戦争日本赤十字社は、多くの医師や看護婦を戦場に派遣した。
 従軍看護婦は、献身的に日本兵士も清国(中国)兵士も手当てし看病した。
 だが。清国軍は、負傷した自国兵士の治療を放棄して戦場に捨て、捕らえた日本人兵士を陰惨な方法で惨殺していた。
 中国大陸には、儒教価値観で人権も人道も存在せず、儒教身分制度で貧しい者は単ある生きた道具として酷使され虐げられ虫けらのように殺されていた。
 昭憲皇后は、出征軍人や傷病兵に下賜品を与え慰問使を送り、各地に設けられた敵味方関係なく収容され治療を受けている軍病院への各種支援を続けた。
 日本軍は、明治天皇・昭憲皇后両陛下の御稜威に従って中国軍捕虜を保護していた。
 それは武士道精神であった。 
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 欧米列強の政府は、勝つであろう清国(中国)に協力しても、負けるであろう小国の日本に同情はしても助ける気はなかった。
 国際資本も、将来性を考えれば巨大消費地である豊かな清国(中国)に投資しても貧しい日本には見向きもしなかった。
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 2018年7月2日 産経ニュース「【藤本欣也の中国探訪】習近平国家主席が視察先に選んだのは…日清戦争博物館だった 大敗した「国恥」の歴史から何を学ぶ?
 清・北洋艦隊の旗艦「定遠」を復元した船=中国・威海市(藤本欣也撮影)
 中国の山東半島黄海の出入り口に位置し、対岸の朝鮮半島に突き出た歴史的な要衝だ。中国共産党中央軍事委員会主席を務める習近平国家主席が6月12日、山東半島のとある博物館を視察した。「訪れたいとずっと思っていた」と言わしめたその博物館とは、「甲午戦争」つまり日清戦争(1894〜95年)に関する博物館だった。中国人民解放軍の最高司令官が「国恥」の場所を訪れた理由とは何か、探訪した。
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 山東省威海市は日清戦争当時、威海衛と呼ばれ、清朝の誇る北洋艦隊の基地があったことで知られる。
 1894年7月、朝鮮半島をめぐる対立から日清戦争が勃発すると、日本軍は黄海海戦の勝利を経て11月に旅順を占領。95年1月には威海衛攻略戦に乗り出した。北洋艦隊は東洋一の巨艦とうたわれた戦艦「定遠」の30・5センチ砲などで応戦したが、日本軍は2月中旬までに威海衛と湾内の劉公島を制圧。定遠は大破し北洋艦隊提督の丁汝昌が自決、艦隊は壊滅した。
 「教えを受けるために、ここを訪れたいとずっと思っていた」
 視察の際に習氏がこう述懐したと中国メディアが伝えたのが、威海市の劉公島にある「中国甲午戦争博物館」だ。
 習氏は6月12日、上海協力機構首脳会議のため滞在していた青島から、わざわざ列車と船を乗り継ぎ島に上陸したのである。
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 6月下旬の週末、同博物館は中国人の行楽客でにぎわっていた。
 「1894年、日本はかねてから、たくらんでいた中国侵略戦争を発動した…中国の軍民は血みどろになって抗戦し、崇高な愛国精神を表した」との説明から始まる館内の展示は、中国語と英語のほか、隣国の韓国語でも表記されていた。
 平壌会戦、黄海海戦、旅順攻略戦、威海衛の戦いについて、当時の写真や絵画、遺品などによる説明が続く。北洋艦隊だけでなく日本の連合艦隊も紹介。「天皇をはじめとする国家を挙げた献金活動により海軍を拡充した」とあった。
 旅順攻略戦のコーナーでは「日本軍は捕虜や市民を大虐殺し約2万人が犠牲になった」などと、その数字の根拠を示さないまま記述されていた。
 「国恥民辱」コーナーでは、下関条約により巨額の賠償金の支払いと領土の割譲を余儀なくされ、「中国の半植民地化がさらに進んだ」とあった。
 小学生の男の子の手を引きながら、若い母親が話しかけている。
 「私たちは戦争に負けたのよ。負けたらどうなると思う? お金をたくさん払わないといけない。おまえももっと強くならないとね。“落後すれば踏みにじられる”と言うでしょ」
 出口のフロアには、迷彩服姿の習氏の大きな写真が掲げられていた。
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 参観者の中に、青島の基地に所属する海軍軍人の男性(28)がいた。
 「悲痛な歴史ですね。当時の軍隊はたるんでいて戦闘能力が劣っていました」
 「でも今は違います。私たちは自前の空母を保有している。今後、2隻の原子力空母を含む4つの空母打撃群を運用できれば中国の海軍力は強大になる」
 劉公島の対岸の桟橋には「定遠」が浮かんでいる。観光用に復元されたものだ。ガイドが中国人団体客の前で説明していた。
 「120年前、日本のお母さんはこう言って子供のしつけをしたそうです。『泣き止まないと、定遠がやって来るよ』」
 当時の日本にとってこの定遠はオオカミのように恐ろしかったのです、と説明してこう続けた。
 「現代の遼寧(中国初の空母)のような存在ですね」
 島の波止場に大きな看板があった。習氏の重要講話が記されている。
 「強軍思想を貫徹し、世界一流の海軍を建設せよ」
 近代中国の「国恥」をあえて展示することで、国民に強軍建設の重要性を理解させるという習政権の狙いは明白だ。
 しかし、それだけではなかった。
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 劉公島内に奇妙な展示施設があった。「歴史選択展館」という。
 真新しい施設内に入って驚いた。威海にも日清戦争にも関係のない資料がずらりと並んでいたからだ。中国共産党の歴史である。
 「1840年のアヘン戦争以降、中国は半植民地・半封建的な国家となり社会発展が遅れた。甲午戦争は中国の衰退を加速させ、亡国の危機を招いた」「一体、誰が中国人民の先頭に立って、民族独立、人民解放をなし得るのか」と説明した上で、こう記す。
 「歴史は中国共産党を、社会主義を選択したのだ」
 習政権の狙いは、強軍だけでなく中国共産党の正当性を強調すること、つまり党の権威付けにもあった。
 北洋艦隊の提督、丁汝昌が服毒自殺を遂げた「北洋海軍提督署」跡で、丁汝昌の5代末裔(まつえい)という男性(56)に会った。
 丁家にまつわる話を聞きながら、「現在の中国海軍の力を丁汝昌はどう見ているでしょうね」と笑いながら問いかけると、急に「それは政治に関する話だ。政治の話はしない」と言って口をつぐんでしまった。
 習氏の陣頭指揮のもと、中国共産党に忠誠を誓う人民解放軍の強大化と、そのための国民教育が進んでいる。(中国総局長)」
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 旅順虐殺事件。
ウィキペディア
 旅順虐殺事件は、1894年(明治27年)11月日清戦争の旅順攻略戦の際、市内及び近郊で日本軍が清国軍敗残兵掃討中に発生したとされる事件で、ピューリツァーのニューヨークワールド紙特派員ジェイムズ・クリールマンなどがセンセーショナルに報道した。この事件の報道に関するアメリカのジャーナリズム史研究では、クリールマンはこの報道で扇情主義報道(イエロー・ジャーナリズム)のやり方を身につけて、4年後の1898年の米西戦争でスペインとの開戦世論誘導で活躍したため、「虐殺」と呼ぶことに疑義がだされている。

 概要
 1894年(明治27年)より朝鮮半島の覇権をめぐり日清戦争が勃発したが、軍備の優位など諸要因によって日本軍が戦況を有利に進めた。黄海の海戦勝利の後、10月に入るといよいよ清朝の国内に攻め入り、当初は旅順の攻略にすら五十以上の軍艦と十数万以上の軍人が必要だと言われていた旅順を11月に攻略しようとした。当時遼東半島の先端に位置する旅順は、対岸の威海衛とならんで 北洋海軍(李鴻章の実質私兵)の基地となっており、それに加え清朝海上輸送ににらみをきかすためには是非とも落とさねばならない要衝であった。旅順攻略にあたったのは、大山巌率いる第二軍であった。11月18日、土城子という旅順近郊での戦闘では、秋山好古少佐の騎兵第一大隊が清軍と遭遇し、死者11名・負傷者37名を出すなど苦戦を強いられた。しかし11月21日の攻撃では旅順の大部分を占拠するに至った。日本は当初から諸外国との不平等条約改正を悲願として国力強化に邁進していたが欧米には敗北してもアジアでは最強とされていた清の東洋のジブラルタルといわれた旅順の攻略は、大変な困難を極めるだろうという欧米側の予想を裏切る迅速さであった。なお、この第二軍には幾人か著名人も参加していた。たとえば軍医として派遣された森鴎外。そして事件直後には記者として国木田独歩が旅順の土を踏んでいる。西洋画家として著名な浅井忠も新聞画家(新聞の挿絵を描く)として参加している。後に袁世凱の顧問となる有賀長雄は国際法顧問として参加し、活与している。編成・装備・訓練が統一されておらず、動員・兵站・指揮のシステムも近代軍として体をなしていなかった清軍に対し、近代化された日本軍は基本的に終始優勢に戦局を進めて遼東半島を占領した。

 報道の経緯
 9月16日に母港威海衛から出てきていた戦艦14隻と水雷艇4隻の北洋艦隊は陸兵4,000人が分乗する輸送船5隻を護衛するため、大連湾を離れた。同日大狐山での陸兵上陸を支援した北洋艦隊は、翌17日午前から大狐山沖合で訓練をしていた。索敵中の日本海軍の連合艦隊は午前10時過ぎに互いに発見した。連合艦隊は、第一遊撃隊司令官坪井航三海軍少将率いる4隻を前に、連合艦隊司令長官伊東祐亨海軍中将率いる本隊6隻を後ろにする単縦陣をとっていた。12時50分には樺山軍令部長を乗せた西京丸と「赤城」の二隻も、予定と異なり戦闘に巻き込んで、横陣の隊形をとる30.5センチ砲を持つ北洋艦隊の旗艦「定遠」と距離6,000m離れた日本の連合艦隊との戦端が開かれた。海戦の結果、無装甲艦の多かった連合艦隊は全艦で134発被弾したものの、船体を貫通しただけの命中弾が多かったために旗艦「松島」など4隻の大・中破と戦死90人、負傷197人にとどまった。それに対して、装甲艦を主力とする北洋艦隊は、連合艦隊の6倍以上被弾したと見られ、「超勇」「致遠」「経遠」など5隻が沈没し、6隻が大・中破、「揚威」「広甲」が擱座した。なお海戦後、北洋艦隊の残存艦艇が戦力温存のために威海衛に閉じこもったため、制海権を完全掌握のために威海衛攻略を目指す日本が旅順のある遼東半島付近の制海権をほぼ掌握した。9月21日、海戦勝利の報に接した大本営は、「冬季作戦大方針」の1)旅順半島攻略戦を実施できると判断し、第二軍の編成に着手した。その後、まず第一師団と混成第十二旅団(第六師団の半分)を上陸させ(海上輸送量の上限)、次に旅順要塞の規模などを偵察してから第二師団の出動を判断することにした。10月8日、「第一軍と互いに気脈を通し、連合艦隊と相協力し、旅順半島を占領すること」を第二軍に命じた。21日、第二軍は、海軍と調整した結果、上陸地点を金州城の東・約100Kmの花園口に決定した。第一軍が鴨緑江を渡河して清の領土に入った24日、第二軍は、第一師団の第一波を花園口に上陸させた。その後、良港を求め、西に30Km離れた港で糧食・弾薬を揚陸した。11月6日に第一師団が金州城の攻略に成功した。14日には第二軍は、金州城の西南50Km旅順を目指して前進し、18日に偵察部隊等が遭遇戦を行った。この事件発生は大きく分けて二段階ある。すなわち占領直後とそれ以降である。

 第一段階(11月21日午後?夕刻)
 午後二時、第二軍司令部は旅順陥落と判断し、これを受けて第一師団師団長である山地元治中将が市内掃討を歩兵第二連隊連隊長の伊瀬知好成大佐に命じた。伊瀬知好成大佐は歩兵第一師団配下の歩兵第二連隊と同十五連隊第三大隊を率いて任務を遂行した。この部隊は、土城子戦後に日本軍死傷者に加えられた陵辱行為であった鼻や耳をそがれた生首が道路脇の柳や民家の軒先に吊されているのを、二つの部隊が掃討の際に目撃していた。大山巌は「我軍は仁義を以て動き文明に由て戦ふものなり」という訓令を発している。これ以後旅順の日本軍は文明とは反する敵討ち的感情にとらわれたのだろうなど戦後に推測している者もいる。旅順市内に入り掃討作戦に二つの部隊は従事したが、このとき日本軍側は清兵が軍服を捨てたゲリラの掃討作戦を行った。ただこの掃討戦は同じ日に行われた旅順要塞(市街の背面に位置)への攻撃と連動した作戦であり、清兵も全く戦意喪失していたわけではなく、市街でも激しい抵抗が試みられていた点は考慮を要する。そのため事件第一段階が戦時国際法に明確に悖る行為がどの程度あったかについては、研究者の間でも分かれている。特に報道にて問題とされたのは以下に述べる第二段階である。

 第二段階(11月22日以降)
 事件の第二段階は第一段階の翌日から数日間にかけて起こった。この時旅順市内および近郊は、「旅順市街は昨夜(21日夜)既に攻略し了(おわ)り」というように、すでに清兵の組織的な抵抗はなくなってきており、そのような中で発生した事件第二段階は第一段階よりもいわれる状況に近づいている。この段階で掃討任務を引き継いだのは歩兵第十四連隊及び第二十四連隊(両部隊とも混成第十二旅団所属)という九州で徴兵された部隊であった。こうした残存する抵抗する兵士を伴う掃討作戦によって、市内には清国軍兵士らがまばらに退却したため民間人に危険性が起きかねない状況となり、第二軍司令部は各人・各家の安全を保証する措置を講じることとなった。すなわち紙あるいは布に「此者殺すべからず、何 々 隊」、「此家男子六人あるも殺すべからず」といった文もまちまちな書き付けを中国人に与えたて民衆の落ち着きを取り戻させようとしたのである。ただこうした措置は新嘗祭にあたる11月24日以降に出されたため、その遅さが民間人を巻き込みかねない不作為だったとして、後に一部の外国人従軍記者に弾劾されることになる[6]。そしてこのことは、このような書き付けがなければ、清国軍残党が身をひそめる市街が非常に危険であったことを示している。総攻撃後での日本軍の勝利後は、約12,000人のうち約9,000人が新募兵の清軍の士気などが低いこともあり、22日の堅固な旅順要塞を占領し後の両軍の損害は、日本軍が戦死40人、戦傷241人、行方不明7人に対し、清軍が戦死4,500人、捕虜600人だった。第二軍の第一波が遼東半島に上陸した24日には、陽動部隊が安平河口から、21時30分に架橋援護部隊が義州の北方4km地点から、鴨緑江の渡河を始めた。翌25日6時頃には予定より2時間遅れで、本隊通過用の第一・第二軍橋が脆弱で、臼砲6門と糧食の通行が後回しにされたものの完成させた。6時20分には九連城から4.5Kmの地点に野砲4門が虎山砲台を設置して砲撃を開始し、歩兵の渡河が続いた。清軍の反撃で日本軍の戦死34人、負傷者115人が発生するような抵抗されたものの、虎山周辺の抵抗拠点を占領した。翌26日早朝、第一軍は、九連城を総攻撃するため、露営地を出発した。しかし、清軍が撤退しており、無血入城となった。その後、第三師団は、鴨緑江下流にそって進み、27日に河口の大東溝を占領し、30日には兵站司令部を開設した。11月5日には補給線確保のために黄海沿岸の大狐山を占領し、11日に兵站支部を開設している。第五師団は、糧食の確保後に内陸部に進み、要衝鳳凰城攻略戦を開始した。10月29日、騎兵ニ箇小隊が鳳凰城に接近すると、城内から火が上がっていた。14時50分に騎兵は城内に突入し、清軍撤退を確認した。このため、主力部隊による攻撃が中止された。

 死傷者数について
 旅順陥落後の基本的に民間人及び戦闘終了後の捕虜、戦闘放棄した者の死傷者の数については諸説ある。死傷者は後に墓碑にて葬られ、その碑には「一万八百余名」と記されているが、他の中国側の主張ではこれは「一万八千余名」とし、大陸の諸研究でもこの数を支持している。これは事件を生き残って死体処理に当たったという中国人の証言に基づいている。
 一方その他の証言は大きくそれを下回る。
 有賀長雄『日清戦役国際法論』・・・・500名
 『タイムズ』(1894、11、28)・・・・200名
 『ニューヨーク・ワールド』(1894、12、20)・・・・2,000名
 フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年)・・・・1,500名
 日本占領後の清国人の旅順行政長官から大山巌第二軍司令官への報告・・・・1,600名
 以上は事件発生当時からさして年数が経過していない期間の証言であるが、現代の中国側の研究では2万名弱という数との主張が定説となっている。一方で、日本の研究では200名弱から最大6,000名という風にかなり人数にばらつきがある。被害者数の認定に大きな差異が生じているのは、いつ亡くなった者が不明の者や誰に殺傷された人か不明瞭な者、さらには証拠のなしの証言での人数までも認定するかについて大きな懸隔があるからである。

 欧米メディアの報道
 最初の報道
 旅順での事件を目撃した外国人ジャーナリストたちは、記事を打電するために日本に引き揚げていた。彼らは第二軍に従軍し取材していた記者達で、この事件報道に深く関わるのは『タイムズ』の特派員トーマス・コーウェン、『ニューヨーク・ワールド』のクリールマン(James Creelman)、『ヘラルド』のA・Bド・ガーヴィル(ゲルヴィル)、『スタンダード』及び『ブラック・アンド・ホワイト』のヴィリアースの4人である。11月26日以降、旅順占領が報じられるようになる。タイムズはイギリス極東艦隊のフリーマントル中将に同行して旅順に上陸した将校の目撃談や、旅順から戻ったコーウェン記者の記事を発表し、事件が海外に知られることとなった。しかし注目を集めるようになったのは12月12日の新聞『ニューヨーク・ワールド』のクリールマンの記事によってであった。「日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷にほとんど全ての住民を虐殺した。無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた」と扇情的な報道がされている。その後も彼は旅順占領後の報道を続けた。彼の扇情的な報道にその他の新聞・雑誌も追随し、日本政府は苦境に立たされることになる。最もセンセーショナルな報道は『ノース・アメリカン・レヴュー』 1895年3月号におけるフレデリック・ヴィリアース(ウィリアース)の「旅順の真実」記事で、「三日間の虐殺によって僅か36人の中国人だけが生き残った」と書いている。

 反対証言
 ゲルヴィルによる証言
 旅順陥落を目撃したニューヨークヘラルド特派員のアメデ・バイロ・ド・ゲルヴィルは、1895年1月3日のレズリーウィークリーで、クリールマンの報道するような虐殺は発生していないと証言し、さらにゲルヴィルは1904年の著書『Au Japon』で虐殺は捏造されたものであったと論じた。
 ダネタン報告
 また、ベルギー公使アルベール・ダネタンの本国への報告調査では、事件は「ニューヨーク・ワールド紙の記者によって多分に誇張されたもの」で、フランス武官ラブリ子爵は、殺された者は軍服を脱いだ中国兵(便衣兵)であり、婦女子は殺されていないし、旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであったと述べている。
 明治政府の対応
 明治政府首脳陣の伊藤博文陸奥宗光が頭を悩ませたのは、事件そのものの有無と実際の差よりも当時進行中であったアメリカとの不平等条約改正交渉への影響で、アメリカで躓けば他国との条約交渉にも影響を与えかねなかったことだった。事件の報道後、アメリカやロシアの駐日公使が陸奥を訪ね善後策を問い質し、アメリカの上院では調印された日米新条約の批准に反対する声が少し上がり始めた。明治政府は事前の清国の実情から勝つのは確実だとして、圧倒的に勝った時に起こる日本に批判的な国際世論対策を戦争当初から想定しており、陸奥宗光と各国公使も外国の新聞の報道を報告していた。日本についての情報対応は明治政府に雇われていた欧米人が担っていたのであるが、旅順での事件の対応についても日本はマスコミ対策を積極的に活用しようとした。欧州における対外情報収集活動を担ったのは、青木周蔵公使とお雇い外国人のシーボルトであったとされる。『タイムズ』の報道以後、日本政府は情報収集に努めつつ、報道に対し逐一反駁を行い、反論に努めた。口火をきった『タイムズ』の報道に対し、11月29日付けの『セントラル・ニュース』は正当な戦闘以外での殺傷はなかったと報道した。これも陸奥の意を受けた内田康哉(駐英臨時代理公使)が工作した結果であったと推測している。
 しかし、当初はマスコミ対策は功を奏せず、アメリカの新聞の中には不平等な条約改正延期もやむなしという論調が出てくる。これに対し、伊藤博文は政府として正式な弁明をすることを以下の通り決定した。
 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡
 旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった
 住民は交戦前に逃亡していた。
 逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令されていた。
日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。
 日本側は軍紀を守っていた。
 クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容に驚いている。
 旅順が陥落した際捕らえた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、二三日のうちに東京へ連れてこられることになっている。
 この伊藤らが作成した弁明書は、第七項を省いたものが12月の17日・18日の両日にアメリカの各新聞に掲載された。陸奥が直接アメリカの新聞に弁明するというやり方は、アメリカ側から好感を以て迎えられた。一方の疑惑がかかった第二軍への処分であるが、やはり海外マスコミ対策に動いていた伊東巳代治が井上馨に書き送ったものには「戦捷の後とて何となく逡巡の色相見え候」とあるように、難攻不落と見られていた旅順を落とし意気軒昂な軍隊をこの事件で処分することは不可能と政府首脳は判断した。伊藤博文も「取糺すことは危険多くして不得策なれば此儘不問に付し専ら弁護の方便を執るの外なきが如し」との断を下している。結果、欧米諸国は自国の過去の疑惑と比較して非難を継続することに自国に逆に跳ね返ってくる恐れがあり、予測を覆して清国を圧倒するなど着実に国力を高めてきている日本批判に国益はないとして騒動は収まった。
 
 事件の終息
 海外の論調は次第にこの旅順での事件のようなものは戦争ではつきものであって、欧米でも例がないわけではないという風に変化していったと、対応に当たった伊東巳代治は報告している。ただ事件が殺傷そのものがあったことが「虐殺」ではないことは認められ、アメリカにおける報道は無くなっていった。最大の懸案であったアメリカとの条約改正は、1895年2月5日にアメリカ上院で批准された。これは同時に明治政府首脳にとっての旅順事件の騒動の終焉を意味するものであった。4月17日には下関条約が締結されると有賀長雄はフランスに飛び、著作‘La Guerre Sino-Japonaise au point de vue du droit international.1886,Paris’(和名『日清戦役国際法論』)を刊行し、日清戦争及びこの事件が正当なものであると論じた。

 評価と研究
 報道は真実であったとする見解
 便衣兵以外が殺害されたのは0ではないから、虐殺だとして史実であると主張する研究者もいる。
 大江志乃夫は「(死者の)過半数約六〇〇〇以上が戦闘と関係がない無辜の住民であることは絶対に動かしようがない事実である」と主張している。
 一ノ瀬俊也『旅順と南京』や原田敬一『日清戦争』(吉川弘文館、2008)は、『征清従軍日記』の「山地将軍より左の命令あり。・・・今よりは土民といえども我軍に妨害する者は不残殺すべしとの令あり」との証言を引用して虐殺であったとする。菊池秀明は日本軍は多数の市民を「虐殺」したとする。
 
 イエロー・ジャーナリズムと扇情主義報道
 「イエロー・ジャーナリズム」を参照
 一方、欧米でのジャーナリズム史研究では、旅順の「虐殺」を報道したクリールマンや、掲載された新聞ニューヨークワールド紙がライバル紙と競い合って、イエロー・ジャーナリズムと呼ばれた扇情主義報道を行っていたことが定説となっている。
 ニューヨークワールド紙はピューリツァーによって経営され、ハーストのニューヨーク・ジャーナル(ニューヨーク・モーニング・ジャーナル)紙との扇情主義報道で競争し、両紙はイエロー・ジャーナリズムと呼ばれていた。ニューヨーク・モーニング・ジャーナルやニューヨークワールドの戦争特派員はギリシア、東南アジア、キューバ南アフリカに派遣され、センセーショナルな報道を互いに競い合った。またハーストは特に日本に対する戦争ヒステリー(War Histeria)を盛り上げるのに精力を傾け、ファシズムや人種的憎悪を育成させ、殺人や婦女誘拐や酔っぱらいの喧嘩や全ての不道徳な行為に対する病的な好奇心を激励させていると非難された
 ニューヨークワールド紙でのクリールマンの毒々しい旅順での報道は、グアムとフィリピンをスペインから戦勝で獲得することになる4年後の1898年の米西戦争でのスペインへの国民の敵意と国際世論を煽る扇情主義報道の先駆であり、旅順の「虐殺」報道でクリールマンは扇情主義報道のやり方を身につけることとなったと述べている。クリールマンの、毎日のように中国人の男、女、子供の人肉は切り刻まれ、ほとんどの住民は虐殺され尽くされた、とのセンセーショナルな報道は、ゲルヴィルによってそのような虐殺は一切なかったとの反論を受けている。ゲルヴィルはニューヨーク・タイムズで「私は現地にいたが、女性や子供の遺体は一切見なかった。したがってクリールマンたちのいうような虐殺があったことを信じることはできない」と述べた。クリールマンの報道を耳にしたベルギー公使が現地にいたフランスの武官に尋ねたところ、「女子供の死傷者はいない。住民はほとんど避難しており、軍服を脱いだ兵士らがいた」と否定した。ベルギー公使のその後の「虐殺」の否定で日本への誹謗に反論していることから扇動報道だったと指摘されている。
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