🛲¦12─1─親日国家ペルシャ(後のイラン)のパーレビ国王~No.100No.101    

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   ・   ・  【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】 ・   
 江戸時代、ペルシャと日本はともに世界七大帝国の一つであった。
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 日本の文明・文化・宗教など多方面で、ペルシャ中央アジアの影響を受けていた。
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 日本陸軍は、対ソ戦略として、満州から内モンゴル中央アジアペルシャ・トルコに至るイスラム教徒を利用して防共回廊を建設しようとした。
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 昔の日本人は、現代の日本人よりも、地政学や戦争学そして情報戦や謀略戦に優れていた。
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 2019年8月1日 週刊新潮「変見自在 高山正之
 知らない イラン
 日本とイラン(ペルシャ)には深い誼(よしみ)があった。
 昭和14年、皇太子パーレビとエジプトの王女フォージェの結婚式に日本は三菱双発輸送機『そよかぜ』で天皇特使をテヘランに派遣した。
 独、伊などからも慶祝(けいしゅく)の特別機が飛んできたが、パーレビには日本機に特別の感激があったという。
 イラン人は西欧人と同じアーリア系なのに妙に差別されてきた。白人なのにイスラムというのも嫌われる理由の1つで、ハリウッド映画『300』はイランを魔物の国に描いている。
 侮蔑は現代も生きる。結婚式の翌々年、独がソ連に侵攻するとソ連への物資輸送に便利だからと連合軍はイランを占領し、父レザ・シャーはインド洋に島流しにされた。そこらの土人国並みの扱いだった。
 傲慢な白人が世界を仕切る中で、日本は自力で工業化を果たし、白人しか作れない飛行機まで作ってここに飛ばしてきた。
 日本機は『イラン王室の特別要請で結婚祝賀の分列飛行に特別参加』(大日本航空社史)している。
 パーレビ自身も特別な体験がある。父を追放された後、彼は連合国管理下で皇帝に即位する。昭和16年末、その挨拶回りを終えてパンアメリカン機で帰国の途次、あの真珠湾攻撃に遭遇する。
 乗機はハワイ島ヒロに降りるが、彼はそこでいつも偉そうに振る舞ってきた白人どもが青ざめ逃げ惑う姿を確かに見た。
 戦後、パーレビは祖国を停滞させてきたイスラムの縛りを断って『アジアの西の日本たれ』と工業国化を推し進めた。
 当時の農民は税を免れるため農地をモスクに寄進してその小作人になっていた。モスクは肥えていた。
 米国がモスクの親玉ハメネイ師に経済制裁を科したが、対象の個人資産が十数兆円超もあったのはそういう背景があったからだ。
 近代化にモスクは財政上も障害だった。皇帝は当時のモスクも親玉ホメイニ師と深刻に対立した。
 欧米はしかし皇帝を見捨てた。中東に『日本』は要らない。お前らはイスラムの澱(おり)にまみれ、石油だけ出していればいい。
 ホメイニ師の抵抗はむしろ歓迎され、国外追放された師の説教はBBCが丁寧にイランに流し続けた。ホメイニ師はモスクの財産を守り切ったが、それで満足はしなかった。オレたち坊主でこの国を乗っ取ってみるか。
 彼の手先になったのがシーア派狂信者集団、革命防衛隊パスダランだった。
 彼らは敵対する共和党派を殺しまくり、企業も大学も役所も支配下に置いた。
 その上で『イスラム坊主を指導者と崇め、民は良きイスラム信者となる』憲法草案を国民投票にかけた。
 もし通ればコーランに従い飲酒、賭博が禁じられる。女は髪も素顔も夫以外に見せてはならない。何より不倫をすれば最も残酷な石打刑に処される。
 民はそっぽを向いたが投票に前後してパスダランが米大使館を占領し、館員を人質に取った。
 米のミサイルが今にも飛んできそうな不安が覆う中で国民投票は『坊主専制憲法は99.8%の民が承認した』と発表された。インチキだと言えば即座にしょっ引かれて殺された。
 翌日から本当に不倫女が公開処刑され、酒を隠し持った男が鞭打たれた。それがもう40年続く。日本人が知るイランはとっくに消え去っていた。
 イランの新しい顔パスダランは先日、日本のタンカーを爆破し、米軍の無人偵察機を撃ち落とした。英タンカーを拿捕した。彼らの狂気はまあ健在なことを示している。
 ボルトンは狂気の宗教支配に抗(あらが)う市民を支援してきた。『ハメネイが国を変えないなら政権を転覆させるしかない』と公言もした。
 あのときホメイニ師を黙認した米国にも一端の責任があると考えている。
 この問題を朝日新聞の社説は『トランプが悪い』と書く。それはちょっと違い。ときには滅ぼした方がいい政権もあることを知ろう」
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 現代日本は、イスラムの事も中東の事も理解できず、親日的な人々を裏切り見捨てた。
 その象徴的な事件が、イラン・イラク戦争時にテヘランに取り残された邦人救出の為に民間機も自衛隊機も派遣する事に猛反対した護憲派日本人達であり、トルコが自国民を犠牲にして助けてくれたのに感謝もしなかった恩知らずの人権派日本人達である。
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 他人の命より自分の命が大事という平和主義の日本人達。
 彼らは、非情と冷酷に徹して、平然と他人を見捨てる。
 それが、戦後平和教育が育てた、公より私を優先する個人主義の日本人である。
 現代日本人は、悪い事はしないが善い事もしない。
 戦前の日本人は、悪い事もしたが善い事もして、シベリアで、満州で、華北で、数百人、数十万人、数百万人、1,000万人の、ロシア人を、ホーランド人を、ポーランドユダヤ人を、中国人を、命を犠牲にして助けた。
 現代日本人は、善い人間だがつまらない人間でもある。
 そうした日本人は、高学歴出身知的エリートのメディア関係者や解説者・評論家に多い。
 味も素っ気もない無味乾燥、個性もなければ特徴も特性もない、無色無臭のキレイが現代日本人の実態である。
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 航空機は、最先端技術が詰まった白人専用兵器であり、欧米の軍需産業が独占するかのようせ生産していたが、日本の軍需産業は大半を独自技術で開発生産で挑戦していた。
 日本の戦闘機「ゼロ戦」や「隼」は、一時、アメリカやイギリスの戦闘機を駆逐し、東アジアや太平洋の大空を支配した。
 日本の一点豪華主義は、誇るべき功績を残したが、技術は日進月歩で新しく更新される為に他を圧倒できる期間は短かった。
 欧米の軍需産業は、世界兵器市場を独占する為に日本の軍需産業を潰す必要があり、多額の政治資金・選挙資金を提供している政治家を通じて政府や議会に対日強硬政策の実行を強要した。
 それが、日本資産の凍結や日本への石油禁輸である。
 日本の軍需産業は兵器生産の為に、在外日本資産で必要物資を購入し、石油を使って輸入し工場を稼働させて生産していた。
 諸外国政府を裏で支配していたのは、ユダヤ系国際金融資本と軍需産業、石油産業、化学産業であった。
 日本が挑戦した相手とは、そうした世界の裏の支配者であった。
 戦前の日本が、「世界に挑戦し、世界で孤立化した」とは、軍事行動ではなく科学技術であった。
 戦後、アメリカは日本を支配し、日本の航空産業を潰し、航空機の研究・開発・生産を禁止した。
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 現代日本人よりも戦前の日本人の方が、幾分かは優れている。
 現代日本人は、自分では何も決められず、あれこれ屁理屈を捏ねて狼狽し、強力なリーダーシップを持つリーダーに無理矢理、強制的に決めてくれる事を心の中で願っている。
 そして、リーダーに対して不平肥満を並べたて自由と民主主義の敵だと激しく非難してて潰す。
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 西洋列強の植民地にされていたり、屈辱的な保護国・属国にされている地域の住民にとって、日本機は憧れであった。
 唯一、苦々しく眺めていたのが中国人とアジアに住む華僑や華人達であった。
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ウィキペディア
 モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(ペルシア語: محمدرضا شاه پهلوی, ラテン文字転写: Mohammad Rezā Shāh Pahlavi、1919年10月26日 - 1980年7月27日)はパフラヴィー朝イランの第2代にして最後の皇帝(シャーハンシャー、在位:1941年9月26日 - 1979年2月11日)である。パフラヴィー2世とも呼ばれる。亡命前後の日本の報道ではパーレビ国王と呼ばれることが多かった。
 父である先代の皇帝レザー・シャーの退位により即位し、「白色革命」を推進してイランの近代化を進めたが、イラン革命により失脚した。

 生涯
 皇太子時代
 1919年、ガージャール朝の軍人レザー・ハーンの長子としてテヘランに生まれた。1925年に父がレザー・シャーとして皇帝に即位しパフラヴィー朝を開くと、皇太子となった。
 その後、上流階級の子弟が通うスイスの私立寄宿学校「ル・ロゼ」へ留学した。なお、同校においてはその後アメリカのCIA長官となるリチャード・ヘルムスら同級生からの信頼も厚く、多くの友人を作った。

 即位
 1941年、議会にて皇帝即位の宣誓を行うモハンマド・レザー・シャー
 1939年9月1日に勃発した第二次世界大戦中には、レザー・シャーがイラン国内に居住するドイツ人の追放を拒否し、連合国に鉄道の使用を拒否するなど、イランは急速に枢軸国のドイツに傾斜した。
 このために連合国のイギリスとソビエト連邦は、1941年8月25日に鉄道を含む補給路と、石油などの豊富な資源の確保のためにイランへの侵攻を行った。この侵攻を受けてレザー・シャーは、連合国の一国でイランとの関係も深かったアメリカ合衆国フランクリン・ルーズベルト大統領に仲介を求めたものの拒否され、9月17日にはイラン軍は制圧された。その後イランは両国による共同進駐を受け、両国の圧力を受けて退位した父に代わり、モハンマド・レザーはモハンマド・レザー・シャーとして皇帝に即位した。

 結婚
 同年にムハンマド・アリー朝エジプトの国王フアード1世の長女ファウズィーイェ・ビント・フォアードと結婚したが、のちに不和となり1948年に離婚した。
 次いで1951年にイラン南部のバフティヤーリー族 の貴族の長女ソラヤー・エスファンディヤーリー・バフティヤーリーと再婚したが、後に彼女が不妊症であることが発覚し、帝位継承の安定のため、1958年にやむなく離婚した。そして1959年にイラン軍軍人の一人娘ファラー・ディーバーとみたび結婚した。
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帝国陸軍 知られざる地政学戦略 見果てぬ「防共回廊」 (祥伝社新書)
帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」