🛲¦5─9─ナガランド州独立運動と旭日旗。地獄のインパール作戦は戦術で失敗、戦略で成功。~No.53No.54No.55No.56 終わり。 ④  

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 関連ブログを6つを立ち上げる。  
   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・   
 日本軍の旭日旗は、インドや東南アジア諸国にとって希望の旗であり解放の旗であって、韓国・北朝鮮、中国が怨嗟の声を上げる戦争犯罪の旗・非人道の旗ではなかった。
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 日本民族日本人の祖先は、南方系海洋民が主流で、インドや東南アジア諸国民の血が濃く流れている。
 対して、西方草原民である中国や朝鮮は、傍流で、血は薄い。
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 日本に対する影響で、インド文明・インド発祥・中央アジア経由の仏教は、黄河文明・中国発祥の儒教よりも強かった。
 朝鮮の日本への影響は、インドや中央アジアに比べると微々たるものだった。
 日本に伝来した仏教は、インド・中央アジア・中国で高度に成熟したが、朝鮮では進歩発展しなかった。
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 日本陸軍は、希望の星・希望の光であった。
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 シュルホゼリ・リジエツ(ナガランド州政府前州主席大臣)「ナガランドの人々は日本軍に大いに刺激を受け、啓発された。日本軍の存在がなければ、戦後の独立闘争はなかった。人々は、日本軍の最新武器を目のあたりにし、攻撃の方法を学び、日本軍によって学校や病院も建設された。 
 日本軍が来て良かったことばかり。悪いことは一つもなかった。」
 「(ナガランドの人々は)日本軍の勝利を望んだ。あきらめず自らを犠牲にして渾身の戦いを続ける日本軍兵士を見て、必ず自分たちを幸せにしてくれると確信したからだ」
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 アーノルド・トインビー「日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残した。日本人が歴史上に残した業績の意義は日本が200年の長きにわたってアジア、アフリカを支配してきた白人の帝国主義植民地主義に終止符を打った点にある」(英紙「オブザーバー」1956年10月28日)
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 ウィキペディア
 インド・ ナガランド州
 ナガランド州(英語: Nagaland)は、インドの東部にある州の一つ。 州都はコヒマ、州内最大の都市で経済・交通・軍事の中心となっているのはディマプル。 2011年の人口は197万8502人。
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コヒマ(英語: Kohima、ヒンディー語: कोहिमा)は、インド北東部のミャンマーとの国境地帯にあるナガランド州の州都である。人口8万人(2001年)。ナガランド州のコヒマ県に位置し、ディマプル、モコクチュン(英語版)とともにナガランド州で市の地位を持つ三つの町のひとつである。主にインド北東部からミャンマーから住むモンゴロイド系ナガ族のアンガミ・ナガ部族(英語版)が多く住む。日本では、インド国道39号線(英語版)は「白骨街道」の名で知られている。
 イギリスの統治
 19世紀前半はビルマの侵入を受けたこともあったが、イギリス軍のビルマ軍撃退とアッサム地方制圧に伴い、イギリス支配下になった。ナガ人は部族同士の争いが多く、捕虜らに対する首狩りの習慣もあったが、イギリス人による禁止と宣教師によるキリスト教布教によって収束した。現在はキリスト教が受け入れられているがアニミズムの信仰も残っている。
 インパール作戦
 1944年、第二次世界大戦中に、日本軍によるインパール作戦の一環として南に位置するインパールと同時にコヒマにも進撃し、実際に佐藤幸徳陸軍中将率いる日本軍第31師団はコヒマを制圧した。しかし連合軍の抵抗は頑強であり、その上連合軍の強力な反撃でインパール方面が瓦解し無残な状態となり、佐藤中将はあくまでコヒマに留まれという牟田口廉也陸軍中将の命令に反発し、独断でビルマ方面に撤退している。このインパール作戦が東南アジア戦線の転換点となり、アウンサン率いるビルマ軍の反乱を呼ぶなどこの方面での日本軍の優位は失われた。コヒマでの白兵戦では双方が大きな被害を出し、日本軍はインドの平野部に入るための重要な高地を制圧できなかった。テニスコートの戦い(英語版)で知られるコヒマの激戦地「ギャリソン・ヒル」の斜面には現在、これらの戦いで命を落としたイギリス連邦出身者など連合軍兵士の大きな墓地がある。
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 ナガランド人民戦線(ながらんど じんみんせんせん、Nagaland People's Front/Naga People's Front: NPF)は、インドの政党。地方政党の1つとして位置づけられ、ナガランド州で活動する。現党首は同州選出のローク・サバー(連邦下院)議員であるネイフィウ・リオ(英語版)。
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 在インド日本国大使館
 大使からのメッセージ
 インパール作戦70周年記念行事出席
 3月22日から24日、インド北東部のマニプール州に出張し、インパール作戦70周年記念行事に出席するとともに、州首相をはじめとする同州関係者と面会しました。
 インパール作戦は、第二次世界大戦中、インド北東部の都市インパールの攻略を目指して1944年3月から7月にかけて、日本軍により行われた作戦のことで、日本軍と、英国を中心とする連合軍、合わせて20万人以上の兵力が投入されました。日本軍はインパール北方のコヒマ(現在のナガランド州州都)まで進出し、インパール間近にも迫りましたが、結局、7月には撤退を決定、この作戦における日本軍の死者は3万人とも、あるいは、それ以上とも言われています。また、スバス・チャンドラ・ボースが率いていたインド国民軍がこの作戦に参加したことも(約6000人が参加したとされる)、日印関係の歴史の一ページとして忘れることができません。
 私は、着任以来、ぜひ機会をとらえて、インパールを訪問したいと願っていましたが、今回、「マニプール観光フォーラム」と「第二次世界大戦インパール作戦財団」の主催、マニプール州政府の協力で、一連の70周年記念行事が3月から6月にかけて行われることとなり、3月23日にオープニングの式典が開催されたため、これに出席したものです。
 式典では、主催団体関係者からインパール作戦の史実についてプレゼンテーションがあった後、マニプール州政府高官から、インパール作戦戦没者への追悼、今後の州開発の考え方(特に観光分野)などを内容とする挨拶が行われました。私からは、戦没者への追悼の意を表するとともに、長きにわたってマニプール州関係者・団体がインパール作戦記念碑等を維持・管理してくれたことへの謝意を述べ、さらに最近の日印関係の発展ぶりにも言及しました。
 また、式典に先立って、インパール郊外のロクパチンにある二つの記念碑を訪れました。ロクパチンはインパール作戦の中でも最も激しい戦闘が行われた場所で、記念碑は「レッド・ヒル」と呼ばれた小高い丘の麓に建てられています。一つは1994年に日本の旧厚生省が建立した「インド平和記念碑」、もう一つは1977年に地域住民により建立されたもので、後者には、戦後、長くマニプール州で日本語教育などに尽力された故牧野財士氏による慰霊の短歌が刻まれています。記念碑は現在も州政府と地域住民によって良好に維持・管理されており、滞在中のいろいろな機会に、私から現地関係者の方々に対して謝意を表明しました。記念碑訪問時には、1944年当時ロクパチンに住んでいたという方も来られており、通訳を介してではありましたが、当時の模様につき話を聞くことができました。
 インパール付近は、今でこそのどかな農村・田園風景が広がっていますが、この地が70年前に激戦の場となり、多数の方々が命を落とされたことを想い起こし、大変に厳粛な気持ちを禁じえませんでした。また、戦争の歴史にもかかわらず、現地の対日感情は基本的に非常に良好であると思われます。これからも、日印関係全体の発展を図る中で、マニプール州を含む北東部にも配慮していく必要があると感じました。
    駐インド日本国特命全権大使 八木毅
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 在インド日本国大使館
 平松大使のコヒマの戦い75周年記念式典出席
 平成31年4月4日掲載
 平成31年4月4日、平松大使は、ナガランド州コヒマにおいて開催されたコヒマの戦い75周年記念式典に、リオ・ナガランド州首相、アスキス駐印英国大使ほかと共に出席しました。平松大使は、挨拶の中で、戦没者に対する心からの哀悼の意を捧げるとともに、今回の式典が和解の機会となったことに感謝しつつ、未来を見据え、人的交流を始め、ナガランド州を含む北東部との関係強化に尽力していく決意を表しました。(添付:挨拶全文)
 平松大使は、同式典出席に先立ち、コヒマ戦没者墓地を訪問し、献花を行いました。式典終了後には、リオ・ナガランド州知事と会談し、日本とナガランド州との関係強化に向けて意見交換を行いました。平松大使は、コヒマ戦生存者及びコヒマ戦没者遺族一同による碑文奉納がなされているコヒマ聖堂を訪問したほか、日本人の遺骨収集に長年尽力された関係者に対する在外公館長表彰の授与を行いました。
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 2019年8月6日 産経新聞「【一筆多論】激戦地で聴いた「日の丸の旗」 岡部伸
2019.8.6 10:10コラムその他
 ♪白地に赤く 日の丸染めて、ああうつくしや、日本の旗(はた)は…。
 75年前、インパール作戦で旧日本軍が英軍を相手に壮絶な戦闘を繰り広げたインド北東部ナガランド州コヒマ近郊の激戦地で、93歳の老人から、日本語で唱歌「日の丸の旗」を聴いた。
 日本人そっくりの顔立ちの老人は3000メートル級の山間部の村落に住む少数民族ナガ族だ。16歳だった1944年4月、佐藤幸徳中将率いる第31師団が進行、地元教会に設立した「日本教育センター」で毎日、「シロキ」兵士から日本語を習い、唱歌も教わった。
 現地では、戦いの歴史を後世に伝える動きが広がり、日本財団の支援で今年6月、同マニプール州の州都インパールに「平和資料館」が開所したのを機に、インパールとコヒマを訪ねた。
 ミャンマーバングラデシュ、中国と国境を接するインド北東部の住民は、肌黒いアーリア系と異なり、アジア系のモンゴロイド人で日本人に親近感を持つ。
 「日本人はナガ族と兄弟だ」。老人は、日本軍が撤収した44年6月までの2カ月間、毎日「シロキ」兵士から、「あいうえお」を手始めに日本語と日本文化を教わった。今でも忘れぬ唱歌を歌いあげ、何とも嬉(うれ)しくありがたい思いになった。
 老人は、年長者に従い、自分を律して誠実に生きる日本精神も学んだ。これが戦後、地元高校で技術教師として教壇に立ち続けた際に大きく役立ったという。
 「『シロキ』さんから学んだことが人生の精神的支柱になった。お礼をいいたい」と目を輝かせた。『特務機関の謀略-諜報とインパール作戦』(山本武利)によると、コヒマで英軍が押収した光機関将校日記に、「4月10日、白木班長に中国語で放送するように指示」との記述がある。『シロキ』とは光機関で宣伝、宣撫(せんぶ)工作を担当していた白木班長とみられる。
 「光機関」は本隊に先駆け前線に潜入、住民の協力が得られるように「日本」を伝えた。周辺集落では日本語が話せる老人が多い。
 200万人のナガ族はじめ8州に400を超す少数民族を中心に約5千万人が住み、マニプール王国はミャンマーにまたがる地域を支配した。しかし英国がインドを植民地とした1877年以降、インドに統合され、英国に支配された。1947年インドの独立直前に、自治権を回復したが2年後、インドに併合され、56年までインド政府と独立や自治権拡大を求めて民族闘争を続けた。
 「日本軍の勝利を期待し、食料や米を提供した。英国の圧政から解放してくれると信じたからだ。敗れたとはいえ、日本軍の勇敢さと規律正しさを尊敬している。その姿に目を覚まさせられ、英国から独立、インド政府と独立闘争も戦えた」
 故郷が戦火にまみれ、甚大な被害を受けたにもかかわらず、老人の日本への視線は好意に満ちていた。
 コヒマでは死闘の中、弾薬も尽きながらも、力を合わせ、敵に立ち向かった日本兵が倒した英軍の戦車を勇気のシンボルとして大事に保存している。兵站(へいたん)を軽視したインパール作戦は、日本兵3万人が戦死、4万人が戦病死する凄惨(せいさん)な失敗に終わったが、今も解放に身をもって努力した日本に感謝する人々がいる。インド独立に歴史を残した、もう一つの真実を忘れてはならないだろう。(論説委員)」
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 PSIA公安調査庁
 ナガランド民族社会主義評議会(NSCN)
  National Socialist Council of Nagaland
 主な活動地域
  インド(ナガランド州),ミャンマー
 組織の概要
  「ナガランド民族社会主義評議会」(NSCN)は,1980年,ナガ人による独立国家樹立を目的として設立された武装組織である。1988年,インド政府との和平交渉をめぐり,イサク・ムイヴァー派(NSCN-IM)とカプラン派(NSCN-K)に分裂し,さらに,2011年,NSCN-Kからコレ・キトヴィ派(NSCN-KK)が分派した。NSCN-IMは,1990年代中頃からインド政府との対話を開始し,1997年8月に停戦に合意した後,2015年8月,インド政府と和平協定を締結した。また,NSCN-KKは,2012年4月,インド政府との停戦に合意し,以後,停戦合意を更新している。
  NSCN-Kはミャンマーに拠点があるとされ,度々ミャンマー軍による掃討を受けていたが,2012年4月,同国政府との停戦に合意した。一方,インド政府に対しては,軍などへの攻撃を繰り返しており,2017年6月には,インド北東部・マニプール州チャンデル地区で,武装集団が,同国軍の車列を待ち伏せ攻撃し,兵士18人が死亡した事件に関して犯行声明を発出した。また,同月,NSCN-Kのカプラン議長が病死し,カンゴ・コニャック副議長が議長に昇格したものの,2018年8月に,同人は規律違反で更迭され,新議長としてユン・アウンが就任した。その後,コニャックは,側近と共に組織を離脱した。ナガ族の居住地区がインド・ミャンマー両国にまたがっていることから,NSCN-Kでは,両国出身者にそれぞれ役職が与えられていたが,コニャック及びその側近の更迭・離脱によって,同組織指導部はミャンマー出身者のみによる構成になったとされる。
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