🎺28:─2─マダガスカルの戦い。第二次世界大戦のターニングポイント。1942年5月5日より11月6日〜No.137No.138No.139 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 連合軍は、日本軍がマダカスカル島を占領し、軍事基地として、アフリカ東岸に上陸する事を恐れていた。
 もし、日本軍がマダカスカル島を軍事占領したら、第二次世界大戦は枢軸国側の勝利となった。
 中東やアフリカには西洋列強の植民地が多く虐げられてきた為に反西洋独立派が存在し、同時に知日派も存在する為に、日本軍が優勢になれば戦局が大きく変わり連合軍が不利になる恐れがあった。
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 イギリス・ 南ローデシア南アフリカ連邦の連合軍は、仏領マダガスカルを守るヴィシー・フランスと日本海軍を撃破してマダガスカル全島を制圧し、アフリカ東沿岸とインド洋の海上輸送路を確保した。
 第二次世界大戦の雌雄はこのとき決し、ドイツ軍の敗北とナチス・ドイツの崩壊が始まった。
 ドイツ軍は、優勢であったアフリカ戦線でもソ連・東欧戦線でも、敗北間近の敵軍に新たな援軍と大量の軍事物資が届き反撃してきた為に劣勢となり敗走を始めた。
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 歴史が理解できない現代日本人には、悲惨な戦闘を語れても、残酷な戦争を語れないし、真の姿の平和も語れない。
 そうした歴史力のない現代日本人は、高学歴出身知的エリートに多い。
 そうした高学歴出身知的エリートが語る歴史は、架空、空想、理想に近い歪曲・捏造・改竄された日本を貶める自虐物語である。 
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 1942年(昭和17年)4月18日 ドーリットル空襲。アメリカ陸軍航空爆撃部隊による日本本土初空襲。
 6月5日 -6月7日 ミッドウェー海戦。太平洋戦争のターニングポイント。
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 ウィキペディア
 マダガスカルの戦いは、アフリカ大陸の南東、インド洋西部に位置するフランス植民地のマダガスカル島第二次世界大戦中の1942年5月5日より11月6日まで行われた、ヴィシー政権側についた駐マダガスカルフランス軍(ヴィシー・フランス軍)と大日本帝国海軍の枢軸国陣営と、イギリス軍と南アフリカ軍を中心とした連合国軍陣営の間におけるマダガスカル島とインド洋のシーレーン奪取を目的とした戦いのことである。なお、この戦いはアジアとヨーロッパで別々の戦いを繰り広げていた枢軸軍において唯一の共同作戦であった。

 背景
 仏領マダガスカル
 1940年代のマダガスカル島はフランスの植民地で、第二次世界大戦が始まるとフランス本国との貿易量が激減しマダガスカル経済は深刻な状況となった。その後フランス本国がドイツの侵攻で占領されると、フランスはドイツに休戦を提案し、親ドイツのヴィシー政府が誕生した。当時のマダガスカル総督は連合国軍への降伏を選択せず、ヴィシー政府の支持を表明した。
 このころ地中海および北アフリカの戦況はドイツ軍とイタリア軍を中心とした枢軸国側に有利であり、その為に中東及びインド方面、さらにインドを経由してオーストラリアなどへ軍事物資の補給などのために向かう連合国側船団は、地中海-スエズ運河ルートではなく喜望峰 - インド洋のルートへ迂回していた。
 マダガスカル島はこの迂回ルートの途上に位置しており、マダガスカル島の港や飛行場が日本軍に占拠されると、連合国軍のヨーロッパと中東及びインド、オーストラリア方面との補給路が絶たれる恐れがあった。

 日本海軍のインド洋制圧
 詳細は「セイロン沖海戦」を参照
 日本軍は1941年12月の開戦以降、1942年3月の末までに東南アジア全域(イギリス領マレー半島や蘭印、アメリカ領フィリピンなど)を制圧し、続いてアメリカ本土への空襲やオーストラリアへの空襲を行ったほか、イギリス植民地のビルマ南部まで攻略を行い、さらに西進を行うことが可能であった。
 この頃、日本海軍の潜水艦はインド洋で完全に制約を受けずに活動でき、3月には日本海軍の機動部隊がイギリス領セイロン島攻撃を行った。そのため、イギリス海軍の東洋艦隊はモルディブ諸島のアッドゥ環礁に退避したが、日本海軍の更なる攻撃によって手持ちの空母他多くの艦船を失い、イギリスの植民地であるケニアのキリンディニまで撤退した。この全面的な撤退により、イギリス海軍および連合国軍は、日本海軍がマダガスカルをインド洋およびアフリカ大陸攻略への前進基地として使用する可能性に対処しなければならなくなった。つまり、イギリス海軍は次のような情勢展開を危惧した。
 ヴィシー政府は日本と同盟関係にあり、ヴィシー政権下にあったマダガスカル島フランス軍基地を日本海軍も使用できるようになると予想される。日本海軍は航空機や潜水艦を配備するであろう。さらにその基地をドイツ海軍やイタリア海軍も使用し、そうなれば連合国軍にとってさまざまな脅威が生じる。まず、連合国の太平洋、オーストラリアから中東、南大西洋の範囲に広がる海上交通網に影響する。また、守りが手薄であった西インド洋や南大西洋はおろか、アフリカ大陸東岸やペルシャ湾まで日本海軍の攻撃にさらされる。最悪、日本陸軍によるアフリカ大陸上陸と、その末には日本陸軍とドイツ陸軍による二面作戦すら予想される。
 しかし実際には、対英米開戦後に勝利を重ねてアメリカ本土やオーストラリア本土にもその前線を広げていた日本軍にとって、イギリス軍をはじめとする連合国が勢力を保っていたアフリカ大陸中部へその戦線を広げることは、戦略上からいっても殆ど重要視していなかった。
 
 アイアンクラッド作戦
 航空母艦イラストリアス
 しかしイギリス軍を中心とする連合国は、この様な事態が起きることを想定して仏領マダガスカル島ディエゴ・スアレス攻略作戦「アイアンクラッド作戦」(en:Operation Ironclad)の実行を決めた。イギリス陸軍、イギリス海軍を中心とする連合軍部隊の指揮はロバート・スタージェス少将が取り、空母イラストリアス、インドミタブル、戦艦ラミリーズを基幹とする艦隊が上陸作戦の援護を行うこととなった。
 上陸作戦
 南アフリカ空軍機により何度も偵察が行われた後、英第5歩兵師団第17歩兵旅団、第13歩兵旅団、英第29歩兵旅団、5つの奇襲部隊、イギリス海兵隊は1942年5月5日、ディエゴ・スアレス西のクーリエ(Courrier)湾およびアンバララタ湾へ上陸した。マダガスカル島東海岸で陽動攻撃も行なわれた。上陸に空母艦載機や少数の南アフリカ空軍の航空機が援護した。この作戦の際、イギリス軍はコルベット艦オーリキュラを触雷で失った。

 モラーヌ・ソルニエMS406
 アルマン・レオン・アネ(en:Armand Leon Annet)総督率いるヴィシー・フランス軍は約8000名で、うち約6000名はマダガスカル人で残りは大部分がセネガル人であった。1500から3000名がディエゴ・スアレス周辺に集中していた。
 海軍の戦力は仮装巡洋艦1隻、通報艦2隻、潜水艦4隻などであったが、このうち通報艦1隻と潜水艦3隻はイギリス軍による攻撃時には在泊していなかった。フランス軍のほかの戦力は沿岸砲8門、モラーヌ・ソルニエMS406戦闘機17機、ポテ 63.11偵察機6機、少数のポテ 25TOEとポテ 29であった。フランスの戦力は本国からの供給が久しく途絶えていたこともあり少なかった。
 艦艇は最初の空襲で仮装巡洋艦ブーゲンビルとルドゥタブル級潜水艦ベヴェジエが撃破され、それを逃れたブーゲンヴィル級通報艦ダントルカストーも攻撃を受けて座礁した。さらに洋上にあったルドゥタブル級潜水艦ル・エローとモンジュも撃沈され、ブーゲンヴィル級通報艦ディベルヴィルと潜水艦ル・グロリューのみがマダガスカル南部に逃れた。
 上陸したイギリス軍と南アフリカ軍を中心とした連合軍の大規模な攻撃後、最大都市のディエゴ・スアレスは5月7日に降伏したが、ヴィシー・フランス軍の主力は南へ後退し体制を整えようとした。

 作戦参加艦船
 F部隊
 主力艦:戦艦ラミリーズ、空母イラストリアス
 巡洋艦:デヴォンシャー、ハーマイオニー
 駆逐艦:アクティヴ、アンソニー、ダンカン、インコンスタント、ジャベリン、ラフォレイ、ライトニング、ルックアウト、パケナム
コルベット:オーリキュラ、シクラメンフリージア、フリティラリー、ジェニスタ、ジャズミン、ナイジェラ、タイム
 掃海艇:Cromarty、Cromer、Poole、Romney
 東洋艦隊
 主力艦:戦艦レゾリューション、ウォースパイト、空母フォーミダブル、インドミタブル
 巡洋艦:カレドン、ドラゴン、エメラルド、エンタープライズニューカッスル
 駆逐艦:デコイ、フォーチュン、フォックスハウンド、グリフィン、ホットスパーネスター、ノーマン、パラディン、パンサー
 Y船団
 Bachaquero、Empire Kingsley、Mahout、Martand、Nairnbank、Thalatta、Derwentdale、Easedale
 Z船団
 Duchess of Athpll、Franconia、Karanja、Keren、Oronsay、Royal Ulsterman、Sobieski、Winchester Castle
 その他
 病院船Atlantis

 日本海軍による攻撃
 目標設定
 伊10
 枢軸国側は、フランス軍からの依頼を受けたドイツ軍による増援要請を受けて[要検証 – ノート]、インド洋一帯からイギリス軍をはじめとする連合国軍を放逐した日本海軍の潜水艦伊10、伊16および伊20がマダガスカル沖に現れた。
 日本軍の潜水艦は伊30が1942年4月22日に、伊10と甲標的を搭載した伊16、伊18、伊20が1942年4月30日にペナンを出撃した。南アフリカのダーバン港のほか、北方のモンバサ港、ダルエスサラーム港、そしてディエゴ・スアレス港への攻撃を検討した結果、伊30と伊10がアデン、ダーバンなどを偵察したが有力艦艇は確認できず、1942年5月21日に攻撃目標が最大の都市でありまた連合国軍が占領したディエゴ・スアレスに決定された。
 ディエゴ・スアレス攻略後イギリス軍の艦船の多くはすぐに去ったが、戦艦ラミリーズ(リヴェンジ級戦艦)はディエゴ・スアレスに留まっていた。

 撃沈
 ディエゴ・スアレス湾でのラミリ―ズ(1942年5月)
 1942年5月30日(イギリス側記録では29日)には伊10の搭載機がディエゴ・スアレス港を偵察し、クィーン・エリザベス級戦艦1隻、巡洋艦1隻などの在泊を報告。5月31日に伊16と伊20から甲標的が発進した。なお、伊18はうねりによる浸水が原因で攻撃には参加できなくなっていた。
 甲標的の攻撃によりラミリーズに魚雷1本、油槽船ブリティッシュ・ロイヤルティ(British Loyalty、6,993トン)に魚雷1本が命中し、ブリティッシュ・ロイヤルティは撃沈された。
 ラミリーズは左舷のA砲塔前部に被雷し、前部15インチ砲の弾薬庫などが浸水、大破したが、ディエゴ・スアレス港にて応急修理を施した後ダーバンへ向かい、そこでの修理後イギリスに戻ってさらに修理を受けた。ラミリーズが再就役したのは約1年後の1943年5月のことであった。

 地上戦移行
 特殊潜航艇の乗務員
 日本海軍の特殊潜航艇による攻撃が行なわれると湾内は大混乱に陥り、翌日の昼頃までイギリス軍による爆雷攻撃が繰り返され、防潜網が展張された。
 伊20から発進した甲標的は上記のように雷撃に成功し大きな戦果を挙げたが、後に艇がノシ・アレス島で座礁したため、艇長の秋枝三郎大尉(海兵66期)と艇付の竹本正巳一等兵曹の2名は艇を放棄し、マダカスカル島のアンタラブイ近くに上陸して、付近を通りかかった漁師の助けを受けて母潜との会合地点に徒歩で向かった。
 6月2日に2人は、会合地点付近のアンドラナボンドラニナという小集落に到着したものの、地元の店で食料を調達した際に怪しんだ地元住民からの通報を受けて探索を行っていたイギリス軍部隊に発見された。
 両名はイギリス軍による降伏勧告を拒否し、15人のイギリス軍部隊を相手に軍刀と拳銃で戦いを挑み2人とも戦死した。なおこの戦いでイギリス軍側も1人が死亡し5人が重軽傷を負った。戦死日は英側資料では6月2日、現地の目撃証言では6月4日である。その後2人の亡骸はイギリス軍により現地に埋葬された。

 戦果
 ディエゴ・スアレスでの戦いを報じる新聞(1942年5月)
 日本海軍によるマダガスカル方面への攻撃は、戦艦1隻大破、大型輸送船1隻撃沈。地上戦でのイギリス軍兵士の損害と一定の戦果を挙げたが、先に実施されたセイロン沖海戦における勝利によりイギリス海軍をインド洋東部から放逐し、この時点における最大の目的を達成していた日本海軍にとって、マダガスカル方面は主戦場から遠く離れており、これ以上の目立った作戦行動は行われなかった。
その後日本軍の援護攻撃が行われなかったこともあり、イギリス陸軍第5師団は日本軍に よる新たな攻撃が予想されたイギリス領インド帝国へ移された。また、1942年6月に第22東アフリカ旅団が到着し、その翌週、第7南アフリカ連邦自動車化歩兵旅団と第27ローデシア歩兵旅団が上陸した。
 その後も日本軍によるヴィシー・フランス軍への支援及び援助行動は行われなかったこともあり、戦力が枯渇したヴィシー・フランス軍と、イギリスを中心とした連合国軍との間の交戦は数ヶ月間低レベルの状態で続いた。

 その後の作戦
 トアマシナ港に上陸する連合国軍
 第29旅団および第22旅団は1942年9月10日、雨季に先立つ連合国軍の再攻撃のためマジュンガに上陸した(ストリーム作戦)。直接攻撃はほとんどなかったが、連合国軍はヴィシー・フランス軍によって主要道路に設置された多くの障害物に遭遇した。また、牽制作戦としてモロンダバへの上陸(タンパー作戦)も行われた。続いて9月18日にはタマタブ攻略作戦(ジェーン作戦)が実施された。
 その後は、ヴィシー・フランス軍の戦力が枯渇し連合国軍へ攻撃が全く行われなかった上、連合軍が恐れていた日本軍の援護攻撃も行われなかったこともあり、連合国軍は、最終的にほとんど抵抗を受けずに首都のタナナリブおよびアンバラバウ(Ambalavao)の町を占領した。
 ヴィシー・フランス軍とイギリス軍の最後の大きな戦闘は1942年10月18日にアンドリアマニャリーナで行われた。アネット総督は11月5日にフィアナランツォア(Fianarantsoa)の南、Ilhosy近くで降伏し、これにより連合国軍の全島占領が完了した。なお、ディエゴ・スアレスの上陸で連合軍は約500人の死傷者を出し、1942年9月10日以降の作戦では30人が戦死、90人が負傷した。

 戦後の慰霊
 1976年に在マダガスカル日本大使館が現地に秋枝三郎中佐と竹本正己特務少尉の慰霊碑を建立し、1997年には有志が前述2名と岩瀬勝輔大尉、高田高三兵曹長の4名の日本軍人の慰霊碑をアンツィラナナ(旧名ディエゴ・スアレス)に建立している。
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