🎺57:─3─玉音放送。昭和天皇は、2回目の聖断を行い、終戦詔書を詠んだ。徹底抗戦派のクーデター未遂事件。1945年8月14日~No.283No.284No.285 @ ㊲

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昭和天皇「当時、私の決心は第一にこのままでは日本民族は亡びて終ふ、私は赤子を保護する事ができない。第二には国體護持の事で木戸同意見であったが、敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神品の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国體護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った」
 三笠宮「この狭い島国における共同生活では、伝統的な風習を守らないと村八分にされる恐れがある。そこで普段から目立たない言動をし、控え目に振る舞う事が身に付いてしまったのですね。それを端的に表しているのは腹芸でしょう。日本人のコミニュケーションには、言葉以外のコミニュケーションが非常に多いでしょう。
 戦時中、中国には、心から中国人の為に良かれと活動していた日本人もたくさん居ました。ところが、中国人側から見ると、不愉快に感じた事が少なくなかったのです。誠に残念でした」
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 小森陽一昭和天皇ヒロヒトとその側近が『終戦』=ポツダム宣言受諾を巡って、原爆投下を誘引してまでも引き延ばしをはかった『国体護持』の、その『国体』観念それ自体が、『満州』をめぐる一連の大元帥ヒロヒトの判断と統合しながら形成されていった事実を私たちはここで思い起こしておかなければならない」「特別高等警察が自らを『天皇の警察』として自負し、過剰なまでに『非国民』と『国賊』の摘発に血道をあげたように、ポツダム宣言を受諾するか否かの最終局面で、ヒロヒトが自ら『万世一系』の『統治権』を証明する唯一のものである、『三種の神器』を、どう守れるのか、ということだけしか考えることができなかった、という権力者自身が生みだした神話的妄想にからめとられてしまう事態が生じていた」
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 ロバート・ギラン「日本人の性格は、悲劇の幕が閉じた際にもわれわれに最後の驚きを与えた。七千五百万の日本人は、最後の一人まで死ぬはずだった。一介の職人に到るまで、日本人たちは自分たちは降伏するくらいなら切腹すると言い、疑いもなくその言葉を自ら信じていた。ところが、涙を流すためにその顔を隠した日本人が再びわれわれにその面を示したとき、日本は落ち着いて敗戦を迎えたのである。彼らが敗戦を受け入れた態度には意表をつく容易さがあったように思われた。日本人は明らかな葛藤を示すことなくページをめくり、久しい間見ることがなかった輝きを顔に浮かべさえしたのである。あの日本人の微笑だ」(『日本人と戦争』)
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 昭和天皇「元来東條は、話せばよくわかる、それが圧政家の様に評判が立ったのは、本人が余りに多くの職を掛け持ち、忙しすぎる為に、本人の気持ちが下に伝わらなかった事と憲兵を余りに使い過ぎた」
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 8月14日 ソ連ファシスト中国は、友好同盟条約を結んだ。
 毛沢東は、ソ連の同盟国であるファシスト中国を攻撃して満州その他の旧日本軍占領地を手に入れるわけにはいかず、林彪率いる中国共産党軍を地元人民の自発的軍隊と偽った。
 アメリカは、民衆の軍隊と戦う蒋介石を非難した。
 中国共産党は、ソ連の支援を受け、事態の本質が分からないアメリカを手玉に取りながら勢力を拡大してった。
 軍国日本が恐れ阻止しようとした、共産主義支配地域が急速に広がっていった。
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 軍首脳部は、中央の東京から地方の役場まで、国内外で戦争に関する公文書を焼却するように命じた。
 機密公文書の焼却は、軍国日本だけが特別ではなく、何処の敗戦国でも行う当然の行為であった。
 それを非難する者は、世界の戦史が理解できない者である。
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 8月14日早朝 アメリカ軍は、日本政府が条件付ポツダム宣言受諾の8月10日声明とそれに対するバーンズ回答文を印刷したビラを東京中に散布した。
 午前8時半 木戸内大臣は、予め決めていた手順に従って、昭和天皇に拝謁して御前会議開催の裁可をとった。
 御前会議開催は、首相、参謀総長軍令部総長の三名の署名がないと不可能であったので、今回は昭和天皇が直接召集する事とした。
 異例の御前会議であり、日本の将来決定する重要な会議となる為に、最高戦争指導会議の構成員以外に全閣僚と平沼枢密院議長も出席させる事とした。
 10時20分 畑俊六、杉山元永野修身の三元帥が、宮中に参内して昭和天皇に拝謁した。
 杉山と永野は、日本軍にはまだ余力があり、上陸してきたアメリカ軍を撃退できると上奏した。
 畑のみが、撃退できるか自信がなく、ポツダム宣言の受諾はやむなしと述べた。
 昭和天皇は、「戦局急変してソは参戦し、科学の力は特攻も対抗し得ず。よってポツダム宣言を受諾するの外なき事となれり」と説明し、「戦争を続ければ形勢はますます悪化し、国家を救済する事はできない」と説明した。
 三元帥は、昭和天皇の連合国側からの「皇室の安泰」に関する確約があるとの言葉を受け、昭和天皇の採取決定に従う事を伝えた。
 10時50分 御前会議が始まり、梅津、阿南、豊田は鈴木首相の指名を受けて意見を述べた。
 正午 昭和天皇は、国家と国民に対して責任を果たす国家元首として、屈辱に耐えても停戦すべきとの決意から、軍部に対してポツダム宣言を受諾する事を再び「聖断」を下した。
 第二回目の聖断。昭和天皇「私の考えはこの前に申した事に変わりはない。私はこれ以上戦争を継続する事は無理だと考える。国體問題についていろいろ疑義があると言う事であるが、私はこの回答文の文意ンを通じて先方は相当好意を持っておるものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応はもっともだが、私はそうは疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し込みを受諾してよろしいと考える」
 そして、全将兵と国民を説得する為ならば自らマイクの前に立って呼びかけてもよいと語った。
 「私自身はいかようになろうとも、私は国民の命を助けたいと思う。この上戦争を続けては結局我が国が全く焦土となり、万民にこれ以上の苦悩を嘗めさせる事は私として実に忍びない。祖宗の霊にお答えできない」
 天皇は落涙し、御前会議に列席した全員も涙を流した。
 阿南は、陸軍省に帰り、集まった若手将校らに聖断を伝え、暴発を厳に慎む様に命じた。
 梅津も、参謀本部に戻り、昭和天皇の命令を遵守する様に告示した。
 日本軍将兵は、個人の信念より天皇の意思に従う義務があるとの軍事教育を受けていた。
 陸軍大臣参謀総長教育総監、第一総軍司令官杉山元元帥、第二総軍司令官畑俊六元帥、航空総軍司令官は、「皇軍は飽くまで御聖断に従ひ行動す」るという契約書に署名した。
 陸軍は、昭和天皇の聖断に従って終戦準備費はいった。
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 近衛師団の将校を中心とした過激な将校達は、政府と軍部が協議して合意し、昭和天皇が裁可した本土決戦という約束を実行させる為に行動を起こした。
 クーデター強行派は、陸軍省の訓示を無視し、東部軍と近衛師団を決起させるべく奔走した。
 東部軍司令官田中静壱大将は、クーデター計画に猛反対し、軍事政権樹立の為に東部軍を出動させる事を拒絶した。 
 軍事政権を樹立するというクーデター計画は、軍首脳部の支持を得られず失敗した。
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 迫水久常「先ずは数多くの将軍に接してきたが阿南さんを越える名将に接した事がない。阿南さんが徹底抗戦論者である筈が絶対無い。諸君らアバレ陸軍の総意を一身に受けて陛下にも上奏したが、お聞き及びでなかったというプロセスを経なかったら諸君は納得せず容易に矛を収めなかっただろう」
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 午後4時 閣議終戦詔書の草案が話し合われが、聖断の正当性は枢密院の承認を必要とするかどうかの法手続で紛糾した。
 法制局は協議して、「聖断は枢密院の承認を必要としない」との結論を出した。
 天皇は、国家元首であったが独裁者ではなかった為に、発言や行動は憲法の制約を受け、政府の承認がなければ意思を国政に反映できなかった。
 夕方 近衛文麿は、木戸を訪れ、近衛師団内で反乱が起きるという噂を伝えた。
 近衛師団長森赳中将は、蓮沼侍従武官長の問い合わせに、そうした不祥事は起きないと答えた。
 8時 閣議は、三ヶ所の字句を修正して終戦詔書を決定した。
 昭和天皇は、終戦詔書を承認した。
 全閣僚が署名して、終戦詔書が正式文書となった。
 近代的法治国家日本では、如何に国家元首と言えども憲法の制約を受けていた。
 この時も、天皇の鶴の一声では物事が決められず、政府と軍部がダラダラと時間を浪費して話し合いを続けて決めていた。
 昭和天皇は、前戦の部隊が停戦の詔書に従うように説得するべく、竹田宮恒紱殿下ら3宮将軍を各方面軍に派遣した。
 11時 東郷外相は、スイスのベルンとスウェーデンストックホルムに、昭和天皇が条件付きポツダム宣言を受け入れたという電報を送った。
 11時15分 昭和天皇は、終戦詔書の録音を行った。世にいう、玉音である。
 クーデター強行派は、近衛師団を動員する為に森師団長の説得に努めたが、拒否され、逆上して惨殺した。八・一五宮城占拠事件である。
 徹底抗戦派による、クーデター未遂事件。森赳近衛師団長惨殺事件。
 第509混成群団は、模擬爆弾パンプキンを愛知県の豊田市春日井市に投下した。
 アメリカ軍航空部隊は、14日夜から15日未明にかけ、秋田市、伊勢佐市、熊谷市小田原市を爆撃し、多くの日本人を焼夷弾で焼き殺した。
 熊谷爆撃。Bー26の編隊は、市郊外にある建物39棟からなる大規模軍需工場の熊谷航空工業ではなく、中小町工場や住宅がひしめき合っていた市街地を無差別に爆撃した。
 市街地の約3分の2を無差別爆撃され、266人が焼け死んだ。
 アメリカ陸軍航空部隊は、熊谷の爆撃目標を決める為に同年3月24日に航空写真を撮影し、6月15日付けで「機能分析報告書」を作成し、8月4日付けで最終的な「標的情報報告書」を提出した。
 機能分析報告書では、熊谷航空工業の社名を中島飛行機・熊谷部品工場とし、「熊谷部品工場では、……(ゼロ戦の)翼の戦端など機体の小部品を生産していると報告されている」と記した上で「報告された小部品を製造している確証はないが、それらの製品が作られうる施設と言う事は出来る」として、爆撃目標になり得るとした。
 だが。実際に爆撃されたのは、一般市民が多く住んでいる市街地であって軍需工場地域ではなかった。
 アメリカ海軍艦艇は、日本の港湾都市を軍港に関係なく、市街地に対して艦砲射撃と機銃掃射を行い、一般市民を殺傷した。
 アメリカは、日本が降伏する事を知りながら14日一杯、攻撃の手を緩めなかった。
 連合国軍は、天皇を守る為ならば玉砕も辞さないという、日本人の抗戦意欲に恐怖を感じていた。
 もし、日本がいとも簡単に降伏していたら、124代続いた神の裔・天皇は排除され、2000年以上受け継がれてきた皇室は消滅していた。
 そして、本当の意味での国民主権となり、天皇・皇室のいない共和国制日本が誕生し、最終的には一党独裁共産主義国日本になっていた。
 昭和天皇は、伝統ある天皇中心の民族宗教を破壊する共産主義革命を恐れ、皇室の安泰のみを条件として降伏を受け容れた。
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 ワシントン時間で14日午後3時 バーンズ国務長官は、日本が正式にポツダム宣言受諾したというを外交暗号電文の解読情報を受け取った。
 4時5分 ベルンからワシントンに、日本政府からの正式回答を受け取ったという電話連絡があった。
 アメリカは、戦前から日本の暗号を全て解読していた。
 7時 トルーマンは、記者会見場で、日本政府が無条件降伏を受諾し、太平洋戦争が終結したという声明を読み上げた。そして、全軍に攻撃的行動を停止する様に命じた。
 トルーマン「砲は沈黙した。戦争が終わった」
 だが、ソ連の対日戦は終わってはいなかった。
 ソ連軍は、北海道占領の為に、南樺太侵攻に続いて千島列島侵攻作戦を決行した。
 ワシレフスキー元帥「天皇によって日本軍に軍事行動を停止し、武器を置く事が命令され、この命令が実行された時にのみ、日本軍は降伏したとみなされる」
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 満州・興安県の寺院・葛根廟。ソ連軍は、中立条約を一方的に破棄し、相互不可侵の約束を破り、数千人の日本人避難民を攻撃して皆殺しにした。
 中国人暴徒は、命辛々逃げてきた日本人難民を襲い虐殺し、身包みを剥ぎ、死体を棄てた。
 日本人女性は、少女から老婆まで例外なく強姦されてから殺された。
 共産主義者は、武器が有ろうと無かろうと、非戦闘員の女子供や老人であろうと、降伏を一切認めず、日本人であるという理由だけで虐殺した。
 それが、大陸に於ける世界史の常識である。
 島国の日本人は、世界の常識が理解できない。 
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 モーリス・パンゲ「何世紀にもわたってこの日本列島の男達、女達を<意志的な死>に誘ってきたさまざまな道筋を注意深く観察した結果、私は今ではハッキリと言う事ができる──日本人の持つあらゆる徳の中でもひときわ優れて美しい徳はその生命力である」
 「ヒトラーと阿南、何れが高貴であるか、いうまでもない。責任を逃れない者こそ高貴なものだ。
 阿南の偉大な魂はヤヌスの如く、過去と未来と、平和と戦争を、エラーと許しを切り結び地点に立っている。ヒトラーはどうか、石油のススで死体を分からなくした行為に表れた通り、亡霊として生き続け、永遠に歴史に祟ろうとしたのではないか。
 一方、日本軍は容易に敗北を認めなかったが、時至るや堂々とそれを受け入れ、逃げも隠れもしなかった。来るべき時代の到来を妨げず、完全に己を没し去った。多くの日本人が自ら命を断ち、残された人々は、沈黙と勤労のうちに耐える道を選んだのだ」(『自死の日本史』) 
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 8月15日 偽命令で宮城を占拠した近衛第二連隊は、宮内省の建物を占拠して録音盤を探したが発見できなかった。
 午前4時 東部軍司令官田中大将が、近衛師団司令部に乗り込んで秩序を回復し、継戦派によるクーデターは失敗した。
 昭和天皇は、藤田侍従長から、皇居占領のクーデターが鎮圧されたとの報告を受けた。
 「私の切なる気持ちが、どうして、あの者達には、分からないのか」
 5時半頃 阿南陸相は、自刃し、1時間以上苦しんでから介錯を得て絶命した。
 辞世の句「大君の 深き恵みに 浴びし身は 言い遺すへき 片言もなし」
 遺書「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」 
 正午 終戦玉音放送(4分41秒)。昭和天皇は、大元帥として全軍に戦闘を中止する様に命じた。
 終戦詔書は、日本の戦争が自衛とアジアの安定の為であり他国の主権と領土を侵す意図はなかった事と、原爆の様な大量破壊兵器が使用されれば民族は死に絶えるから共同宣言を受諾したと事を説明した。
 放送員・和田信賢は、玉音放送後に、詔書を改めて朗読し、ポツダム宣言受諾の経緯を説明して終戦を知らせた。
 国體が護持された以上は、安心して国家の再建に取り組んで欲しいと諭した。
 そして、これが昭和天皇の意思であるから尊重する様に命じた。
 全ての日本軍は、昭和天皇の命令に従って武器を置き、抗戦意欲がない事を表明した。
 天皇の命令に従わない日本兵士は、誰もいなかった。
 自決。杉山第一総軍司令官。大西軍令部次長。本庄元関東軍司令官。その他。
 侍従の岡部長章は、昭和天皇の命を受けて朝日新聞社に走って、玉音放送を聞いた抗戦派による暴動が起きていないかとの情報収集を行った。
 昭和天皇は、岡部から「何もありません。大丈夫です」との報告で安心した。
 午後3時20分 鈴木内閣は、最後の内閣告論を発表して、総辞職した。
 そして、アメリカ政府に対して「原爆使用は国際法違反」であるとの抗議文を送った。
 アメリカ政府は、原爆開発に約20億ドルを費やした以上、納税者の国民への説明責任から、日本の抗議を無視した。
 つまり、原爆を使用せずに終戦を迎えては、政治責任が問われる恐れがあったのである。
 アメリカ国民は、人種差別から、非白人の日本にどれだけの被害を与えようとも原爆使用の正当性を認めた。
 大本営は、大陸命第1381号を発し、全部隊に対し終戦詔書に従って積極的侵攻作戦を行わない様に命じた。
 北海道札幌の第5方面軍司令部は、南樺太守備部隊である第88師団に対して、ソ連軍は北海道侵攻の意図を持つ為に最後まで防衛する様に命じた。
 マッカーサーは、モスクワにいるディーン代表を通じて、ソ連参謀本部に「日本軍に対する攻撃的行動を呈するよう」に伝えるよう訓令を発した。
 トルーマンは、スターリンに、「一般命令第一号」を送った。
 第一項b「満州、緯度38度線以北の朝鮮、樺太における陸・海・空と之に付属する全ての日本軍と日本の上級司令官は極東ソ連軍総司令官に降伏する」
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 日本軍は、降伏するにあたって、東南アジア諸民族に再び植民地支配されない為に独立を促した。
 インドネシアは、1945年8月15日に独立宣言を行った。
 元日本軍兵士約2,000人が、インドネシア人のオランダからの独立戦争に参加して半数が戦死した。
 公式記念日には、日本への感謝を込めて、西暦でも、イスラム暦でもなく、日本の皇紀天皇暦)2605年を使用した。
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 インドネシア共産党過激派は、降伏した日本軍から武器を奪い、中部ジャワ地区の防衛司令官邸を襲撃して寺垣俊雄旅団長等を拉致して監禁した。
 日本軍歩兵第42連隊は、拉致された日本人の軍人軍属や民間人を救出する為に、降伏に伴う武装解除を無視して出動した。
 インドネシア共産党過激派は、日本軍の猛攻に耐えきれず徹底する時、スマランのブルー収容所に収容している日本人130人を無残に惨殺した。
 寺垣俊雄の血による遺書「大義に死す」
 その他に、「インドネシア独立万歳」など。
 共産党は、日本人軍国主義社に対する正義の鉄槌として処理した。
 日本軍人の中には、アジアの解放やインドネシアの独立を支援して死んだ者がいた。
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 極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は、スターリンの指示に従って戦闘継続を全軍に命じた。
 満州樺太の日本軍や国民義勇隊は、残虐なソ連軍の猛攻から日本人難民を救う為に絶望的な抵抗を続け、その多くが玉砕した。
 ソ連軍兵士は、軍律なく血に飢えた野獣の様に日本人避難民を襲い、暴行や略奪や強姦を繰り返していた。
 日本人は、改めて弱者・敗者の対する共産主義者の非情さを知った。
 ソ連軍は、「降伏文書に調印されるまでは戦争状態である」との認識から日本侵略を続行した。
 ソ連中国共産党は、ポツダム宣言の「日本国軍隊は、完全なる武装を解除されたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営む機会を与えられるべし」の勧告を完全無視し、捕らえた日本人兵士を共産主義革命闘士とする為の洗脳教育を行った。
 満州では、ソ連軍兵士や中国共産党軍や朝鮮人テロリストらによる、日本人難民への襲撃が繰り返され、多くの日本人が虐殺されていた。
 親日的な満州人は、日本人難民を助ける為に奔走していた。
 満州在住の日本人居留民約160万人中虐殺された者約17万4,000人、行方不明者約3万人。
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 「力こそが正義」というのが、永遠に変わる事のない世界常識である。
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 鈴木貫太郎「真に国運を左右する非常事態に立ち至ったとき、国の元首たる陛下のご裁断を仰ぐべきが、真の忠誠の臣のなすべき道である。これに関しては、輔弼の責任者たる総理は命を投げ出してかからねばならない」
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 ニューヨーク・タイムズ紙は、伝統的に親中反日を社是とし、人種差別(レイシズム)的記事を掲載して日本叩きを行っていた。
 「この怪物は倒れはしたが命を失ってをらず、まだ非常に危険な存在だ。よってこの怪物の牙と骨を徹底的に抜き去り、解体しなければならない。この作業は戦争に勝つよりも難しいかも知れないが、我々はアメリカの為に、世界の為に永久にでもこの作業を続けなければならない」
 日本バッシングの為ならば、事実をねじ曲げ改竄し、些細な事を大袈裟に膨らませた。
た。
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 8月15日 厚木事件。海軍厚木基地の三〇二航空隊司令小園安名大佐は、隊員に総員集合を命じ、熱血に満ちた訓辞を行った。
 「降伏の勅命は、真の勅命ではない。ついに軍統帥部は敵の軍門に降った。日本政府はポツダム宣言を受諾した。ゆらい皇軍には必勝の信念があって、降伏の文字はない。よって敵司令官のもとに屈した降伏軍は、皇軍とみなすことはできない。日本の軍隊は解体したものと認める。ここにわれわれは部隊の独立を宣言し徹底抗戦の火蓋を切る。今後は各自の自由な意志によって、国土を防衛する新たな国民的自衛戦争に移ったわけである。ゆえに諸君が小園と行動を共にするもしないも諸君の自由である。小園と共にあくまで戦わんとする者はとどまれ。しからざる者は自由に隊を離れて帰郷せよ。自分は必勝を信じて最後まで戦う。」
 誰一人として、その場を去る隊員はいなかった。
 8月16日 小園司令は、厚木航空部隊の独立宣言を海軍の各部隊宛に緊急電報で発信するとともに、陸軍や国民に向けて檄文のビラを用意した
 「国民諸子に告ぐ。」
 「神州不滅、終戦放送は偽勅、だまされるな。いまや敵撃滅の好機、われら厚木航空隊は健在なり。必勝国体を護持せん。勤皇護国。」
 「皇軍なくして皇国の護持なし。国民諸君、皇軍厳として此処にあり。重臣の世迷言に迷わざることなく吾等と共に戦へ。之真の忠なり。之必勝なり」
 このビラは、零戦(首都圏)、月光(関東・東北)、彩雲(中部)、銀河(北海道・中国・四国)によって各地に撒布された。
 8月16日 小園司令は、米内海相から翻意をうながす意向が伝えられたがこれを拒絶した。
 三航艦司令長官寺岡中将は、米内海相の命令で小園の説得を行ったが失敗した。
 8月17日 連合軍は、日本政府にマッカーサー厚木基地への進駐期限を通達した。
 昭和天皇は、降伏をを拒絶して暴動を起こそうと為ている将兵に対して隠忍自重する勅語を発した。
 米内海相は、昭和天皇の言葉に従い、横須賀鎮守府に厚木の断固強硬鎮圧を命じた。
 寺岡司令長官は、内戦に発展する恐れがあるとして猛反対し実行はされなかった。
 8月20日 菅原中佐と吉野少佐の二名は、高松宮殿下から「陛下の御心」を伝えられ、抗戦態勢の終結を決意し、三〇二航空隊の士官を説得した。
 8月21日 小園司令は、強制連行され海軍野比病院に監禁された。
 降伏を拒否する一部の将兵達は、零戦・彗星・彩雲など32機にのって厚木を脱出した。
 零戦18機は陸軍狭山飛行場へ、彗星など13機は陸軍児玉飛行場へ降り立った。
 しかし、翌日には、全機厚木に連れ戻された。



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