🎺58:─1─涙の聖断。昭和天皇は戦争を嫌う平和主義者であり、数多くの人道貢献を行った。~No.286No.287No.288 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昭和天皇は、世界で最も嫌われている天皇であり、特に中国、韓国・北朝鮮、ロシアではその傾向が強い。
 国内外における、昭和天皇に対する戦争責任と戦争犯罪を告発する声が絶えない。
 天皇の中で命を狙われ続けた天皇は、昭和天皇であった。
 昭和天皇を殺そうとしたのは、キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義者であった。
 昭和天皇ほど悲劇の天皇はいない。
 戦後、カナダ、オーストラリア、ソ連(ロシア人共産主義者)、中国、フィリピンなど諸外国は、昭和天皇戦争犯罪者として死刑にする事を強く求めた。
 共産主義者マルクス主義者)は、日本を共産主義化する為に天皇制度を廃絶しようとしていた。
 天皇、皇室、天皇制度を守ろうとしたのは、世界広しと言っても、数多の民族が存在しても、日本国の日本民族日本人だけであった。
 日本民族日本人は、国際社会の中で孤独で、世界で助けてくれる味方はいなかった。
 全ての国が、全ての民族が、敵であった。
 その中に存在していたのが昭和天皇である。
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 2018年5月19日 産経ニュース「【昭和天皇の87年】前例なき御前会議 陸海軍両総長は泣きながら抗戦を訴えた
 涙の聖断(1)
 帝都に空襲警報が鳴り響く昭和20年8月13日の夕刻、空から落ちてきたのは、爆弾ではなく紙だった。
 「日本の皆様 私共は本日皆様に爆弾を投下するために来たのではありません。お国の政府が申込んだ降伏条件をアメリカ、イギリス、支那並にソビエット連邦を代表してアメリカ政府が送りました回答を皆様にお知らせするために、このビラを投下します」
 翌14日の早朝、米軍機B−29がビラを散布したとの情報を得た内大臣木戸幸一は愕然とした。政府の正式発表より前に降伏が広く知られれば、国内は大混乱となり、それに乗じて抗戦派などが暴発する恐れもある。
 首相の鈴木貫太郎も、同じ思いだった。もはや事態は一刻の猶予も許されず、内閣から正式な手続きをとって御前会議を開くのでは間に合わない。
 鈴木は急ぎ木戸を訪ね、相談の上、昭和天皇の決心にすがることにした。
 以下、『昭和天皇実録』が書く。
 《(14日)午前八時三十分、(昭和天皇は)御文庫において内大臣木戸幸一に謁を賜い、米軍機がバーンズ回答(※1)の翻訳文を伝単(宣伝ビラ)として散布しつつありとの情報に鑑み、この状況にて日を経ることは国内が混乱に陥る恐れがある旨の言上を受けられ、戦争終結への極めて固い御決意を示される。引き続き、特に思召しを以て内閣総理大臣鈴木貫太郎及び内大臣に列立の謁を賜う》(34巻43頁)
 戦前は「宮中・府中(政府)の別」が厳しく、首相と内大臣が並んで拝謁するのは初めてだ。
 昭和天皇もまた、非常の覚悟だったのだろう。
 このとき鈴木は、内閣からの奏請ではなく、天皇の意向による御前会議開催を求め、その場で許された。これも前例のないことだった。
 続いて昭和天皇は、在京の陸海軍元帥を宮中に集めた。
 《午前十時二十分、御文庫に元帥陸軍大将杉山元・同畑俊六、少時遅れて参殿の元帥海軍大将永野修身をお召しになり、三十分にわたり謁を賜う。終戦の御決心をお示しになり、三名の所見を御下問になる》(34巻44頁)
 これに対し杉山と永野は徹底抗戦を主張、畑は交渉継続を求めたが、昭和天皇は《戦争終結は深慮の末の決定につき、その実行に元帥も協力すべき旨を仰せになる》(同)
  × × ×
 同日午前10時50分、昭和天皇の異例の「思召し」により、全閣僚と陸海両総長、両軍務局長、枢密院議長ら政府軍部の全首脳が御文庫附属室に集められた。閣僚らは正装する間もなく、まちまちの背広姿だったという。
 御文庫附属室は、皇居の地下10メートルにある堅固な防空施設だ。10トン級の超大型爆弾にも耐えうる構造で、会議室2つ、控室2つが、厚さ1メートルのコンクリート壁で仕切られている(※2)。
 この日、会議室の正面に小机と玉座が置かれ、向かい合って椅子が3列。前列には首相、枢密院議長、外相、陸海両相、両総長らが、中列には残りの閣僚らが、後列には内閣書記官長、総合計画局長官、陸海両軍務局長らが座った。
 これから始まる帝国最後の御前会議で、日本の運命が決まるのだ。外光の届かない地下の空間を、静寂と緊張が満たした。
 午前11時2分、侍従武官長を従え、昭和天皇が入室する。一同は起立し、首相の鈴木が玉座の前に進んだ。
 《首相は前回の御前会議以後の最高戦争指導会議及び閣議の経過につき説明し、この席上において改めて無条件受諾に反対する者の意見を御聴取の上、重ねて御聖断を下されたき旨を言上する》(34巻44〜45頁)
 鈴木から発言を促され、梅津美治郎参謀総長阿南惟幾(これちか)陸相は、連合国の回答では国体護持に不安があること、再照会すべきであること、聞き入れられないなら抗戦して死中に活を求めることを、声涙で訴えた。
 豊田副武(そえむ)軍令部総長も泣いていた。
 「今日までの戦争遂行において、海軍の努力の足らなかったことは認めます。陸海軍の共同も決して十分ではありませんでした。これからは過ちを改め、心を入れ替え、最後の奮闘をいたしたいと思います。本土決戦の準備はできております。いま一度、戦争を継続することをお願い申し上げます」
 三人の発言のあと、再び静寂。
 しばらくして、昭和天皇が口を開いた−−。
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
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 (※1)バーンズ回答 国体護持(天皇の地位の保全)を唯一絶対の条件とし、ポツダム宣言を受諾するとした日本政府に対する連合国の回答。対日強硬派で知られる米国務長官ジェームス・バーンズの書簡として発表されたことから、この名がついた。ポツダム宣言を補足する5つの条項が示されたが、このうち第1項の「天皇は連合軍最高司令官にsubject to(従属)する」と、第4項の「日本の政治形態は日本国民の自由に表明する意思により決定される」との文言が、国体護持の条件を拒絶したとも受け取られ、政府と軍部は大混乱に陥った。
 (※2)御文庫付属室 日米開戦前の昭和16年9月、陸軍築城部本部が皇居の吹上御苑内に造営した防空施設。陸軍は当時、昭和天皇の住居を兼ねた地上1階地下2階の防空施設「御文庫」の建設を進めており、それが完成するまでの予備施設として、付属室がつくられた。17年7月に御文庫が完成。500キロ爆弾に耐えうる構造で、付属室との間に地下道も作られたが、米軍がヒトラーの山荘を10トン爆弾で空襲したとの情報があり、陸軍は20年6〜7月、付属室の補強工事を実施。超大型爆弾にも耐えうる日本最強の防空施設とした
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 【参考・引用文献】
 ◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
 ◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)
 ○下村海南『終戦秘史』(大日本雄弁会講談社
 ○池田純久『日本の曲り角 軍閥の悲劇と最後の御前会議』(千城出版)
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 5月20日産経ニュース「【昭和天皇の87年】「万民の生命を助けたい」…天皇は何度も手袋で眼鏡をぬぐった
 涙の聖断(2)
 《天皇は、国内外の現状、彼我国力・戦力から判断して自ら戦争終結を決意したものにして、変わりはないこと、我が国体については外相の見解どおり先方も認めていると解釈すること、敵の保障占領には一抹の不安なしとしないが、戦争を継続すれば国体も国家の将来もなくなること、これに反し、即時停戦すれば将来発展の根基は残ること、武装解除戦争犯罪人の差し出しは堪え難きも、国家と国民の幸福のためには、三国干渉時の明治天皇の御決断(※1)に倣い、決心した旨を仰せられ、各員の賛成を求められる》(昭和天皇実録34巻45頁)
 昭和20年8月14日の正午前、真夏の太陽が届かない地下10メートルの御文庫附属室で厳かに下された、戦争終結を告げる聖断−−。『昭和天皇実録』には要約しか記されていないが、この聖断の一字一句を、内閣情報局総裁として出席した下村宏が、ほかの出席者の手記やメモとも照らし合わせて戦後に書き残している。
 周囲がしんと静まる中、昭和天皇はこう言った。
 × × ×
 −−外(ほか)に別段意見の発言がなければ私の考えを述べる。
 反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申したことに変わりはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。
 国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹(いちまつ)の不安があるというのも一応はもっともだが、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申入れを受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰(もら)いたい。
 さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪え難いことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局我が邦(くに)がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗(な)めさせることは私としてじつに忍び難い。祖宗の霊にお応えできない。和平の手段によるとしても、素より先方の遣り方に全幅の信頼を措き難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。
 私は明治大帝が涙をのんで思いきられたる三国干渉当時の御苦衷をしのび、この際耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力将来の回復に立ち直りたいと思う。今日まで戦場に在って陣没し、或(あるい)は殉職して非命に倒れた者、またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。
 この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合動揺も甚(はなはだ)しかろう。陸海将兵にはさらに動揺も大きいであろう。この気持をなだめることは相当困難なことであろうが、どうか私の心持をよく理解して陸海軍大臣は共に努力し、よく治るようにしてもらいたい。
 必要あらば自分が親しく説き諭してもかまわない。この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。
 以上は私の考えである−−
  × × ×
 御文庫附属室のコンクリート壁をも震わす玉声。出席者の誰もが泣いていた。激しく嗚咽(おえつ)する者もいた。
 昭和天皇もまた、白い手袋で何度も眼鏡を拭った。
 聖断は下された−−。
 下村は書く。
 「陛下は席をたゝれた。一同は涙の中にお見送りした。泣きじやくり泣きじやくり一人々々椅子を離れた。長い長い地下壕をすぐる間も、車中の人となつても、首相官邸へ引き上げても、たまりの間にも閣議の席にも、思い出してはしやくり上げ、涙は止め度もなく流れる……」
 (社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
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 (※1)三国干渉時の明治天皇の御決断 1894〜95(明治27〜28)年の日清戦争で勝利した日本は、清国との講和条約により遼東半島の割譲を受けたが、これに反発するロシアが領有を放棄するよう日本に勧告。ドイツとフランスも追随した。日本は御前会議を開いて対応を協議し、イギリスなどに働きかけて3国の干渉を排除しようとしたが、武力を誇示するロシアの圧力に抗しきれず、遼東半島の返還を決定。明治天皇詔勅で国民に告げた。以後、日本は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンに国力の増強に努め、1904〜05(明治37〜38)年の日露戦争でロシアの陸海軍を撃破。三国干渉の雪辱を果たし、アジアの強国となった
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 【参考・引用文献】
 ◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
 ○下村海南『終戦秘史』(大日本雄弁会講談社

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