🎺64:─1─ソ連は、日本領北方領土を占領し、北海道の強奪する事を決定した。1945年8月19日~No.303No.304No.305 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ソ連(ロシア)は、自分に都合の悪い国際法を破る常習犯であった。
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 ソ連・太平洋艦隊軍事評議員会は、日本領北方領土を9月2日迄に占領し、最終目標として北海道の占領を決定した。
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 チャンドラ・ボースは、インド独立の為にソ連の支援を取り付け中央アジアからインドに侵攻するべく活動し始めた矢先に、航空機で台北から大連に向かう途中で墜落事故にあい死亡した。
 「私は生涯を祖国独立に捧げて、いま死ぬ。独立の戦いを続けるよう」
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 内務省警保局は、各都道府県知事に対して、上陸してくる米軍兵士から日本人女性を守る為に「早急に進駐軍むけ慰安施設をつくれ」との無電通牒を発した。
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 8月19日 日本政府は、国民生活の正常化と娯楽機関の復興等を求める昭和天皇の沙汰に従って、灯火管制(警戒準備管制)の解除を決めた。
 戦地の各部隊は、連合軍に対して武装解除に応じた。
 日本政府は、降伏準備の為に代表団をマニラに派遣した。
 日本側代表団とアメリカ側代表団は、8月11日に国務・陸軍・海軍合同委員会(SWNCC)が承認した降伏文書(マックロイ陸軍次官案)の確認作業を開始した。
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 マンハッタン計画は、三発目の原爆を完成させた。
 四発目は9月初旬の予定であり、11月1日迄に7発目まで完成させる予定であった。
 もし。日本がそれまでに降伏しなかったら、アメリカは確実に、容赦なく七発全てを日本に投下した。
 そして。アメリカ世論は、日本人の被害が100万人に達しようとも、アメリカの勝利とアメリカ人青年が助かるのであれば投下に賛成した。
 それが、当たり前の事である。
 近衛文麿「(戦争がどのくらい続いたと思うか)少なくとも年末まで続いたであろう」
 軍国日本は、原爆の被害ではなく、ソ連の参戦で降伏を受け容れた。
 アメリカ軍は、戦後の核戦略から極秘計画として、志願兵による放射能人体実験を開始した。
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 横浜に上陸したアメリカ軍佐官級将校は、丸の内警察署を訪れ、アメリカ軍用慰安婦を調達するように要請した。
 丸の内警察署側は、その様な女性はいないと答えた。
 アメリカ軍将校は、目の前を歩く虚ろな日本人女性を指さして提供を求めた。
 日本人女性は、自分の意志に反して連合軍の娼婦となる事となった。
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 8月20日 特殊慰安施設協会(RAA)は、アメリカ軍の命令に従って、横須賀に上陸したアメリ海兵隊員の為の慰安婦施設「安浦ハウス」を設置し、接客婦として娼婦や戦災被災者女性など356人を半強制的に送り込んだ。
 朝鮮戦争が勃発するや、横須賀には4,000人から5,000人の米軍専用慰安婦による娼婦街が誕生した。
 日本の米軍専用慰安婦は、韓国の米軍慰安婦とは違って占領軍であるアメリカ軍の命令によるものであった。
 陸軍の若手将校による皇居占領計画が発覚した。
 東久邇宮首相は、首謀者2名を呼び出して説得して計画を断念させた。
 「我が国を滅亡せしむるかもしれぬ。そうなれば、諸君の念願する国體護持はできない」
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 ポツダム宣言 第9項「日本軍隊は完全武装解除後、各自の家庭に復帰する」
 中国共産党ソ連は、ポツダム宣言の約束を踏みにじって、日本人兵士捕虜に奴隷的重労働を課し、共産革命闘士洗脳する為に強制連行した。
 中国共産党政府には、ポツダム宣言及びカイロ宣言を語る資格は無い。
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 8月23日 朝日新聞は、社説で「自らを罪する弁」を表明した。
 「(戦争責任は)決して特定の人々に帰すべきでなく、一億国民の共に偕(かい)に負ふべきものであらねばんらぬ。さりながら、その責任には自ら厚薄があり、深浅がある。特に国民の帰趨、輿論、民意などの取扱に対して最も密接な関係をもつ言論機関の責任は極めて重いものがあるといはねばなるまい」
 朝日新聞社内は、GHQ内の対立に連動して二派に分かれて揉めていた。
 保守的な村山長拳(村山龍平の婿養子)社長派は民間検査局(CCD)に、共産主義的な反社長派は民間情報教育局(CIE)に。
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 8月24日 大本営は、マニラのマッカーサー司令部にソ連軍の極秘情報を送った。
 マッカーサーは、ソ連の北海道侵攻計画を初めて知って激怒した。
 「モスクワ放送は、ソ連は近い将来、北海道に空挺部隊を送る予定であると報じている」
 アメリカは、北海道は確保するというトルーマンの決断に従って、千島列島はソ連軍の管轄内として傍観する事とした。
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 トルーマン大統領は、スターリンに対し、北海道北部の支配は認めなかったが千島列島(クリール群島)の占領を認めた。
 アメリカ軍は、ソ連軍の千島列島占領に対して静観する事を決定した。
 スターリンは、日本領千島列島南部(北方領土)の国後島択捉島歯舞諸島色丹島を攻略する南クリール作戦を発動した。
 戦争に於ける降伏とは、降伏する者が敗北を認めて白旗を掲げ戦闘行為を止め武器を捨て両手を挙げようとも、勝者がそれを認めなければ成立しない。
 ソ連は、昭和天皇が行った8月15日の降伏発表を認めてはいなかった。
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 8月25日 アメリカ軍による日本進駐が始まり、アメリカ軍先遣隊の第一陣が厚木飛行場に到着した。
 本土決戦の為に関東平野に配置されていた陸軍の22個師団・30万人以上と海軍の各部隊は、反乱も暴動も起こさずアメリカ軍部隊を静かに受け入れた。
 敗戦国日本は、人種差別のアメリカ軍兵士が戦闘後に行った婦女子への強姦を聞いていただけに、日本人女性を救うべく、戦災出行く所を失った女性を三業地に集めて連合軍兵士用の慰安施設を開設した。
 だが。厚木に到着したその夜、アメリカ軍兵士による強姦事件が起きた。
 後続のアメリカ軍が日本に上陸し、アメリカ軍兵士が増えるや、強姦事件も増えた。
 東京新聞「米兵が中野のアパートに押し込み、制止する男達を殴り倒し、押し入れに隠れた女を襲った」
 世界の常識として、大陸の戦争では勝者は占領地で殺人以外の行為が許されたいた。
 GHQは、アメリカ軍兵士の不祥事が表沙汰になると占領政策に支障を来すとして、日本政府に対して言論統制として報道規制を命じた。
 日本政府は、各新聞社に対して、アメリカ軍兵士による犯罪記事の掲載を中止し、アメリカ軍による美談を捏造してでも報道するように示唆した。
 関東大震災後の、不逞朝鮮人報道と同じ手法が採られた。
 サンフランシスコ講和条約が発効し、日本の主権で治安を手に入れるまでに、アメリカ軍兵士から妻や娘を守ろうとして殺害された日本人男性は2,536人であった。
 朝鮮半島では。朝鮮人は、植民地支配対する復讐として日本人引き揚げ者達を襲撃し、強姦や略奪が行われていたと言われる。
 ソ連軍や抗日中国人からやっとの事で朝鮮半島まで逃げてきた日本人は、同胞と思っていた朝鮮人によって酷たらしく殺害された。
 カナダ人コミュニストのE・ハーバート・ノーマンは、来日し、マッカーサー元帥の最も信頼された政策アドバイザーとして、占領下の日本の民主化改革に携わった。
 役職は、対敵諜報部調査分析課長であった。
 GHQは、日本が国力を回復させてアメリカに敵対し戦争を起こせないようにするべく、明治初期の状態の農業国家に戻すべく、家内工業を奨励し、全ての財閥を解体して重工業を破壊するべく占領政策を断行していた。
 『マッカーサー大戦回顧録』「(日本の)実態は西欧諸国がすでに4世紀も前に脱ぎ捨てた封建社会に近いものであった。……神人融合の政治形態は西欧社会では3000年の進歩の間にすっぽり信用されなくなったものだが、日本ではまだそれが存在していた。……神人一体の天皇は絶対君主であった、……アメリカ人から見れば、日本は近代国家というよりは古代スパルタに近い存在であった」
 「国民の中のほんの一部にしか過ぎない封建的な指導者達が支配の座に座り、他の何千万という国民は進んだ意識を持つ者のわずかな例外を除いて、伝統と伝説と神話と統制の完全な奴隷となった」
 民政局(GS)のユダヤ人ニューディーラ達は、マルクス主義諸政策を実行して、天皇を中心とした支配構造を破壊し、伝統的日本文化や消滅させ、日本人の精神構造を根本から変えようとした。
 日本のアメリカ化の為に、日本凶悪史観と敗北主義を日本人に押し付けた。
 共産主義者の真の狙いは、日本の共産主義化であった。
 ノーマンは、「日本は明治維新以来一貫して専制的な軍国主義国家として、領土拡大の為に大陸侵略を計画していた残虐な犯罪国家である」と主張し、日本人全員に「アジアへの加害責任」を追求する事を求めていた。
 その延長線上に、「南京虐殺」「バターン死の行進」「捕虜虐待」が存在する。
 敗戦で打ちひしがれて自信をなくしていた日本人を洗脳したウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付ける宣伝計画)は、「日本を解体すべき危険な軍国主義国家」というノーマン理論で実施された。
 ノーマンの反日活動を後押ししたのが、アメリカ最大のアジア問題のシンクタンクである太平洋問題調査会(IPR)であった。
 太平洋問題調査会は、アメリ共産党員や国際共産主義運動を目指すコミンテルン工作員の巣窟となって、スターリンの意向で対日強硬政策を提言していた。
 イギリス情報局保安部(MI5)は、1935年頃からノーマンを共産主義者と断定していたが、対ドイツ戦略としてソ連との関係を維持する為に放置していた。
 「初期の左翼主義の危険性があまり問題視されなかった時代に比べて、現在はるかに重要となっている」
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 上坪隆『水子の譜』
 ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ『ヨーコ物語』
 反日に荒れ狂う朝鮮人は、満州から朝鮮に逃げてきた日本人難民達を襲撃し、暴行し、強姦し、楽脱した。
 日本人は、朝鮮人は共に戦ってくれた戦友と信じ切っていたが裏切られた。
 朝鮮人は、植民地支配に対する恨みから日本人避難民を襲った。
 蒋介石は、アメリカの軍事支援を期待して、日本人避難民を保護して日本に送った。
 日本人にとって、朝鮮人とは心許して苦楽を共にできる真の友人ではなかった。
 和やかな笑顔の後ろにあるのは、憎悪に満ちた反日のみであった。
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 トルーマンは、スターリンの8月22日の書簡に対する回答を送り、北海道は日本領としてアメリカ軍が占領すると再度申し込んだ。
 スターリンは、北海道侵攻と東京にソ連軍占領地区を確保する計画を諦めたが、ソ連軍に対して全千島列島の占領を命じた。
 「連合国との紛争と誤解を避ける為に、いかなる船舶もいかなる飛行機も、北海道方面に遣わす事を絶対に禁止する」
 アント−ノフ参謀総長は、アメリカ代表のディーン将軍に対して、北海道上陸は作戦計画のほんの一部に過ぎなかったと説明した。
 ソ連軍は、ノモンハン事件占守島攻防などの教訓から日本軍への潜在的恐怖心がある為に、南樺太の大泊に千島列島南部攻略部隊を集結させた。
 北方領土や千島列島から北海道に避難するべく乗船していた漁船等は、荒波で転覆して多くの犠牲者を出していた。
 日本軍は、無条件降伏を受け入れていたが、各地で犯罪行為を繰り返すソ連軍に対して抗戦意欲を失わなかった。
 ソ連軍は、無条件降伏して喜んで捕虜となったドイツ軍兵士とは違って、一人になっても戦い抜こうとする日本軍兵士を見て驚いた。
 もし、日本軍が世界常識的に降伏して捕虜となっていたら、ソ連軍は容赦なく北海道を軍事占領して自国領に編入していた。
 日本を救ったのは、「生きて捕囚の辱めを受けず」という戦陣訓であった。
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 8月26日 アントーノフ参謀総長は、アメリカが提示した降伏文書に対して修正を要求した。
 ソ連軍の支配地域においての占有権と日本占領政策への参加権と昭和天皇の処分及び天皇制度に関する権利であった。
 共産主義者は、昭和天皇の戦犯裁判による厳罰(死刑)と天皇制度の廃止を望んでいた。
 ソ連の真の目的は、ロシア帝国以来の国防策として、傀儡的親ソ政権を樹立する事であった。
 ロシアの安全保障の為に、日本から武器の一切を取り上げて非武装化して国防能力を無力化する事であった。
 つまり。日本の無力化は、アメリカの対日戦略ではなく、ソ連地政学から望んだ事である。
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 ソ連軍は、北海道に上陸侵攻する名分を得るべく、日本軍の目の前で一般の日本人引き揚げ者(女子供)を大虐殺した。
 日本軍が女子供の引き揚げ者が大虐殺されているのを助けるべく反抗してくれば、ソ連軍はそれを言い訳にして北海道に侵略する秘めた計画であった。
 が、日本軍は、大虐殺されている女子供を守る事なく見殺しにした。
 もし日本軍が女子供をソ連軍から守る為に攻撃すれば、北海道はソ連軍に占領され、ソ連領となっていた。
 そして、ロシア領に。
 現代のロシアは、北方領土問題でその正当性を認めろと恫喝している。
 つまり、ロシア人兵士による日本人大虐殺(女子供)は当然の権利であったと。 
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 8月27日 関東軍から大本営宛ての極秘電報「原子爆弾保管ノ件。長崎ヨリ東京ニ持帰リタル不発原子爆弾を速ヤカニ『ソ』連大使館内ニ搬入保管シオカレ度」。主任 瀬島。
 トム・クランシー「(ソ連兵は)強姦しか趣味がない」
 朝鮮仁川港に進駐していたオーストラリア軍などの連合軍兵士は、満州からソ連軍と中国共産党ゲリラの襲撃を逃れて辿り着いた日本人難民に対して、金銭を要求し、そして女性を要求した。
 意気消沈として卑屈になっていた日本人男性は、自分と自分の家族を守る為に戦争未亡人や家族を失った娘を、強姦される事を知りながらソ連兵や連合国軍兵士に差し出した。
 現代でも同様に、サムライではない日本人男性は威張り腐ってもしょせんはその程度で、強者には弱く弱者には強い。
 現代日本人権派は、「公権力と戦う」と豪語して、殺されたり強姦されりした被害に同情する事なく、今そこに生きている加害者の人権を保護しそこにいない被害者の人権を踏みにじる。
 スターリンは、ハリマン大使から9月2日に降伏文書の調印式が行われる事を聞き出し、ソ連軍に千島列島の占領をそれまでに完了するように命じた。
 ソ連軍は、アメリカ軍が千島列島に軍隊を上陸させていない事を確かめながら南下していた為に、占領作戦は予定よりも遅れていた。
 マッカーサーは、陸軍省に対し、アントーノフ修正案を受け入れる事は日本占領政策を混乱させるだけであるとして、拒否すると報告した。
 アメリカ軍は、日本占領の準備に追われて、ソ連軍の千島列島南下に対応する余裕はなかた。
 トルーマンは、千島列島はソ連の固有の領土をほのめかしたスターリンの8月22日書簡に対する抗議の返事を送った。
 「貴下はこの要求(アメリカの千島列島に於ける着陸権)が征服された国か、自分の領土を防衛する事のできない同盟国に対する要求であると述べているが、貴下は明らかに私のメッセージを誤解している。私は、ソ連共和国の領土について言及したのではない。私は日本の領土であるクリール諸島について言及したのであり、その帰属は講和会議で決定されなければならない」
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 8月28日 東久邇宮首相「事ここに至ったのは勿論政府の政策がよくなかったからであるが、また国民の道義の廃れたのもこの原因の一つである。この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。全国民総懺悔する事が我が国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」
 一億総懺悔論は、戦争責任として開戦責任ではなく敗戦責任を取り上げている。
 敗戦責任は、昭和天皇ではなく軍官民、国民全体にあるとしている。
 それ故に、一億総懺悔し、国民全てが一致協力して敗戦の苦難を乗り越え、国家を再建し、子孫の為に日本の未来を切り開かねばならない、と。
 それが生き残った者に課せられた責務で有り、その責任を負う事が戦死して靖国神社に祀られている英霊に対する義務であると。
 マニラのマッカーサー司令部は、日本軍が本当に降伏して抵抗しないかを確かめるべく、テンチ大佐率いる先遣隊を東京に派遣した。
 アメリカ軍第10空挺師団の先遣隊150人は、ダグラスC46輸送機13機が厚木に着陸した。
 ラッキー操縦士が操縦する輸送機は、数日前まで日本軍機と死闘を繰り広げ、カミカゼ特攻を始めた日本海軍航空基地に着陸する恐怖心から、6回のバウンドをし車輪を折って暴走してオーバーランしてようやく着陸した。
 同機に乗っていたパワーズ少佐らアメリカ兵達も、勝利者とは言え、降伏を拒否して徹底抗戦し最後は万歳突撃で玉砕した日本軍の中に降り立つ事に恐怖心で震え上がっていた。
 「我々はひどく興奮し、怯えていた」
 日本陸軍右翼団体の一部に進駐してくるアメリカ軍への暴動の気配があったが、昭和天皇の命令であるとして中止させられた。
 ソ連の太平洋艦隊軍事評議員会は、千島列島南部の軍事占領を9月2日迄に完了する事を決定した。
 ソ連軍上陸部隊は、択捉島を軍事占領した。
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 大蔵省の池田勇人主計局長は、特殊慰安施設協会(RAA)を設置する為に5,000万円を貸し付けた。
 東京の特殊慰安施設協会は、大森海岸の小町園を進駐軍慰安所第一号として開業した。
 『内外タイムズ』「彼等は部屋に入ると、人前でもおかまいなし」
 『RAA協会沿革誌』「従業員と慰安婦の見境もつかず、手当たり次第にねじ伏せ、それを阻止しようとした通訳や従業員にケガをする者が出た」
 血気盛んな一部のアメリカ兵は、進駐軍慰安所に入るや、性欲を抑えきれず日本人慰安婦を見るや強姦するように性行為を行った。
 進駐軍兵士に対して進駐軍慰安婦の数が少なかった為に、日本各地でアメリカ軍兵士による一般女性への強姦事件とそれに伴う死傷事件も絶えなかった。
 アイケルバーガー「第一線のジャングルから出てきたばかりの兵隊なんだ。小学生が教室から出てきた時みたいに、広う運動場で飛び廻りたくて仕様がないんだ」
 戦争で被災した若い日本人女性で、生活に困ってアメリカ兵に体を売る街娼婦(パンパン)が増えた。
 アメリカ軍兵士は、性病治療薬としてペニシリンが普及した事に安心して、一般人女性への強姦やいかがわしい商売女との性行為を愉しんでいた。
 アメリカ議会は、1944年9月27日に、戦地で性病に罹ると退役後の特権が剥奪されるという「復員軍人規正令第10号」を改正し、「自ら軍医に告げ、治療を受ければ、退役後の特権を失わない」という法律439号を承認した。
 GHQは、アメリカ国内での評判を気にして、東京都衛生局長与謝野光を呼び出して進駐軍慰安所の増設を厳命した。
 日本政府は、占領軍の要請に従って、全国約1万1,000人の公娼を進駐軍慰安婦とする事を認めた。
 進駐軍MP(憲兵)は、進駐軍慰安婦を確保する為に街頭で街娼婦(パンパン)狩りを強行し、一般女性も一緒にトラックに押し込めて病院へ強制連行して、性病検査に合格した女性を進駐軍慰安所に送り見込んで、不合格だった女性は治療をしてから進駐軍慰安所に送った。
 一般女性で、進駐軍慰安婦にさせられた者は少なくなく、精神異常をきたして死亡した女性や自殺した女性が少なからずいた。
 MPによる街娼婦狩りは、日本人警察官が立ち会う場合もあるが、街娼婦を逃がす可能性があるとして日本人警察官を除外して行われる事もあった。
 敗戦国内では、進駐軍の命令が法であり、進駐軍が行う行為は全て合法とされた。
 日本軍憲兵隊は、日本軍兵士が占領地で現地人用娼婦や一般人女性に手を出さないように監視を強化していた。
 日本軍は、軍管理の慰安所で働く慰安婦の性病検査を義務付けていたが、慰安所の外で現地人用娼婦や一般人女性の強制検診を行った事はない。
 だが。アメリカ陸軍は、1952年に「アメリカ軍には、売春を行ったりまたはこれに関係する日本人を取り締まる管轄権はない」という公式見解を出し、具体的事例として同年8月の静岡県の件を報告した。 
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 8月29日 昭和天皇は、木戸幸一内大臣に、戦争責任者を戦争犯罪人として連合国に引き渡して処罰させるには忍びないので、自分が戦争責任を引き受けて退位してどうかと相談した。
 木戸は、退位しては戦争犯罪者として裁判にかけられどんな判決が出るか分からず、皇室が戦争を始めたとして廃止される恐れがあるとして、「十分慎重にお考えあるべき」と述べて反対した。
 連絡将校は、アメリカ軍は兵士専用慰安施設を帯同していなかった為に、進駐するアメリカ軍兵士の為に売春婦を確保するべく、警視庁を訪れ「娼家の施設」を見せるように命じた。
 警視庁係官は、連絡将校を向島に案内した。
 連合軍の最初の仕事は、アメリカ軍兵士用慰安所の場所選定と衛生施設の点検であった。
 公衆福祉局のサムス大佐は、都内にある5ヵ所の花柳界と17ヵ所の特飲街のうち千住を残して全てを進駐軍慰安所と指定し、慰安婦の人数確保と性病対策は日本側が行う事と命じた。
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 8月30日午後2時 マッカーサーは、厚木飛行場に到着した。
 マッカーサーは、日本占領軍総司令官の権限で法手続を無視して、対敵情報部長E・ソープ准将に東條英機の逮捕と監禁を命じた。
 個の時点において、軍国日本を裁く罪状も法律もなかった。
 戦勝国は、敗戦国を裁く新たな法律を作る作業に取り掛かった。
 アメリカは平和を望み、軍国日本は戦争を計画していた事を証明する証拠として、ルーズベルト昭和天皇に送った親書の行方を調査する様に命じた。
 アメリカが戦争を欲し、日本が戦争回避を望んでいたという、事実を隠蔽する工作が始まった。
 昭和天皇は、平和の為に戦の回避を望まず、むしろ戦争を命じた戦争犯罪者とされた。
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 日本海軍航空部隊の一部に不穏な行動が見られたが、昭和天皇の命令であるとして中止させられた。
 国體護持の為に玉砕覚悟で戦ってきた日本軍将兵は、昭和天皇の命令に逆らえず、悔し涙を流した。
 彼らの胸の内は、戦争が終わって死ぬ事がなくなったという安堵感ではなく、死んでいった戦友や一般市民が無駄死になるのではないかという悔しさのみであった。
 サムライ・武士は、命を大事にして無様に生き残るよりも、崇高なる大義の為に潔く戦って死ぬ事を名誉と信じていた。
 つまり。自分達は、死をも恐れない勇ましいサムライ日本人、愛国心を持った日本民族日本人でなくなる事への悔しさのみが残った。
 故に、泣き崩れたのであり、生き残った幸運に喜んで泣いたのではない。
 そうした泣き方は、サムライである事を誇りとする日本民族日本人にはなかった。
 アメリカ軍は、日本国内に収容されている連合国将兵捕虜と民間人抑留者の救出作戦を開始した。
 ウィロビー「日本軍の連合国側捕虜に対する扱いは国際協定をはなはだしく逸脱したものだった。ナチのユダヤ人に対する仕打ちと同一だったなどとは決して言わないが、とても捕虜に対する〝待遇〟とはいえないひどいものだったと、多くの連合国側将兵たちは証言している。……敵側の犯した残虐行為にかんがみて、『生ぬるい』という批判が起こるのも理解できないではない。……東京のはずれにあった大森と品川の収容所の収容状態は言語道断なものであった。さらに大船(神奈川県)の第三収容所は、日本のゲシュタポ・センターであった。これらの虐待と残虐行為の記録文書が作成され、日本側の責任者はもちろん直接手を下した者たちは逮捕されて、戦犯裁判にかけられたことはいうまでもない。」(『GHQ 知られざる諜報戦』P.74〜77)
 スターリンは、トルーマンの8月27日付け書簡に対する回答を送り、千島列島帰属問題に触れず、千島列島での着陸権を認める見返りにアメリカが領有するアリューシャン列島の着陸権を要求した。
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 8月31日 ソ連軍は、ウルップ島を軍事占領して千島列島中央部占領作戦は完了した。

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 軍国日本は、国益の為に、東南アジア諸民族の独立派を支援していた。
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 東條英機は、大東亜会議で、「アジアの解放」を大義に掲げて、フィリピンとビルマを独立させ、ベトナムインドネシアは戦争が終了したときに独立させる事とした。
 インドネシアは、インドネシア人がオランダから守るべきであるとして、募集に応じたインドネシア人青年層に武器を与え、高度の軍事教練を施して、郷土防衛義勇軍(ペタ)が発足させた。
 連合国は、植民地が独立を宣言する前に、阻止する必要があった。
 1945年8月17日 日本軍は、オランダに軍政を引き渡す前に、約束通りにインドネシアの独立を承認した。
 スカルノ民族主義者は、ジャカルタで独立を宣言した。独立宣言文は、日本への感謝を込めて日付に皇紀を用いた。
 オランダは、植民地支配を回復させるために軍隊を派遣した。
 インドネシア独立戦争の勃発である。
 日本軍によって軍事教練を受けた青年らが中心とした人民の非正規の軍事組織が、オランダ軍に対して日本軍式ゲリラ戦を仕掛けた。
 インドネシア人は、オランダ人から受けていた差別と搾取に対する恨みから戦意は高かった。
 都市部では、オランダ人に協力して経済を支配して中国人への犯罪が急増して治安が悪化した。
 日本軍人と軍属(約2,000人)は、「強きを挫き、弱きを助ける」という義侠心から、インドネシア人に協力してオランダ軍と戦った。1,000人の日本人が、独立戦争で戦死した。
 イギリスは、植民地解放を阻止するべく軍事介入した。
 中国人華僑・華人は、白人の植民地支配を支援する為に協力した。
 独立戦争は、4年間続き、インドネシア人約80万人が殺された。
 アメリカが仲裁に入り、独立を承認する条件として、植民地放棄の代償として60億ドルをオランダに支払う事、アジア解放に「殉じた日本」を消して代わりに「残虐な侵略者日本」を残す事を要求した。
 スカルノは、独立の為に2条件を呑み、ジャカルタの独立記念塔にオランダ人の過酷な植民地支配の記録ではなく日本軍が資源や労働力を搾取した事を記した。
 独立戦争は、オランダ・イギリス連合軍ではなく日本軍との戦いに置き換えられた。
 スカルノは、独立条件として、繊維中に日本軍が行った非人道行為を公表し、日本に対して戦争犯罪に対する賠償を要求した。
 敗戦国日本は、告発を無条件で受け入れ、国家予算の3分の1に当たる莫大な賠償金を支払った。
 インドネシアの歴史教科書は、悲惨なオランダ植民地支配を教えず、日本軍軍政下の残虐行為を強調して教えている。
 日本は戦争犯罪国家の烙印を押され、日本を弁護する国は世界中で一ヵ国もない。
 そして、昭和天皇は極悪非道な戦争犯罪者とされた。
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 現代日本には、浪花節的、薪を背負って火に飛び込み様な、損を承知での義侠心は存在しない。


  
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