🎺75:─1─A級戦犯達の開戦と終戦。岸信介。~No.338No.339No.340 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 A級戦犯達は、平和を願う昭和天皇の大御心を叶えるべく、アメリカとの絶望的戦争を回避するべく粘り強い外交交渉・話し合いを続けていた。
 アメリカと戦って勝てると思っていた日本人は、誰もいなかった。
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 2016年8月号 Hanada「岸信介かく語りき。 聞き手、加地悦子。
 ……
 開戦、そして終戦
 加地 先生、開戦の時、日本が本当に勝つと思って、東條さんにいわれて入閣されたんですか。
 岸 いや、いちばん始めに東條さんから私になれという、お話がありましてね。まだ戦争が始まらんうちですよ。『いったい、日米関係はどうなるんでしょうね?やるんですか、やらないんですか』と言ったら、東條さんは『極力やらないように努力する』と。
 『戦争は回避しなきゃいかん。全力を挙げて、そうするつもりだ』というお話ですからね。私は戦争すべきもんじゃないという、意見だったもんですからね。『東條さんがそういうお考えなら、入りましょう』と言って、入ったんです。そして東條内閣ができてからも、東條さんはらゆる努力をされた。
 最後に開戦に至ったのは、アメリカの無理強(むりじ)いに日本が乗せられた感じですよ。日本としては極力、戦争を回避するために努力したのが、事実ですよ。もちろん、戦争に勝つという自信はなかったと思うんだけれども、とにかく日本が生きていくためには、どうしたって、屈服するわけにいかない、ということだった。始めから、アメリカ本土を攻めて、アメリカをとっちまえなんていう考え方は、これほどもない。ただ、日本を守るためですよ。
 それだから、問題は、戦争をいつやめるべきかという、戦争指導を間違ったと思うんですよ。
 加地 東條内閣の時にお辞めになったのは、どういう経緯(いきさつ)で、お辞めになったんですか。
 岸 私は東條さんと、非常に激論になりましたのは、サイパンが陥(お)ちるか、陥ちないかという時ですよ。
 その頃、明治憲法の下では、統帥権というものが、独立と言われているんですよ。軍が直接、陛下に申し上げて、一般の国務大臣の権限外、国務大臣はそこに口を出すことができないっちゅうのが、明治憲法のあり方なんです。
 それで、東條さんが『お前はそういう軍の統帥に関する問題、どこで決戦するかということは、軍が決めるんだ、文官のくせに口を出すとは、憲法違反だ』と言うんだ。
 私は『憲法の議論だったら、実はあなたより私のほうが専門家だから、よく知ってるんです』と。
 それで、私はこう言った。
 『私は軍については素人だから、「お前、そう言うけど、サイパンで決戦するよりも、台湾沖で、あるいは沖縄でやることのほうが、作戦上有利なんだ。サイパンじゃ、うまくやれないけれども、沖縄なら、うまくやれるんだ」ということをおっしゃるのなら、私は頭を下げる』
 サイパンをとられたら、2月か、3月の間に、日本の軍需生産の大事なものは、全部破壊されちまう。戦争ができなくなると。
 だから、とにかくここで、あらゆる全力を挙げて、最後の戦いをして、残念ながら敗れたら、手を挙げて。それでなけりゃ。国土がほんとうに焦土に化して、救う手がないと。もし敗けたら、我々が、そら腹切ってもなんでもしてもいいから、陛下にお詫びする方法はいくらでもあるんだから、手を上げるべきだと。
 大佐を一喝
 加地 で、どうなったんですか。先生が東條さんにおっしゃって・・・。
 岸 聞かない。そうしたらね、結局、東條さんが東條内閣を改造して、私に辞めろっていうことなんだ。
 私は、辞めないっていうんだ。いまの内閣では、大臣っていうのは、総理が任命するんですから、言うこと聞かなけりゃ、すぐクビ切れるんです。
 ところが、戦前は、大臣の任命は憲法上、陛下が直接任命されまして、そうして国務大臣たるものは、陛下に対して輔弼(ほひつ)の責任があったんです。したがって、輔弼の責任の点においては、元の憲法では、内閣の総理大臣と国務大臣というものは、同格なんです。言うこと聞かなけりゃ、クビ切るっていうのは、明治憲法じゃあ、できないわけだ。ですから、結局、総辞職ということになる。
 そうしましたらね、ちょうど東京憲兵隊の隊長をしておられた、四方(しかた)という大佐がおりましてね、それが、私のところへ会いに来ましてね。
 『東條さんが辞めろって言ったら、辞めれたらいいじゃないか。そういうことだと、国が乱れるんだ』と、言いますからね、
 『なにをお前、兵隊! 俺は国務大臣だ。お前ら兵隊が、俺の輔弼の責任について、口を出すっていうことは、許されないことだ。だいたいお前らのようなやつがいるから、東條さんを誤らせるんだ。日本で右向け右って言やぁ、どんな場合でも、右向かなきゃならん、左向け左って言やぁ、どんな場合でも、左向かなきゃならんのは、上(かみ)御一人(天皇)だけなんだ。
 それを、東條さんが命令すればだな、無条件に聞けなんていうようなことを言う兵隊が、東條さんについているから、東條さんを誤らしてるんだ。下がれ!』ちゅったんですよ。
 そしたらね、あの頃の長い刀を、ガチャンと床下について、『憶えとれ!』と、こう言いやがるんだ。
 加地 でも、先生ね、そういうふうに激論をなさったのに、あおのあと巣鴨で、また、元に戻ってらしたわけですね。
 岸 東條さんにお目にかかって、『最後に自分があなたの意見に従わなかったことは自分としちゃあ、あなたに別に恨みだとか、あなたに含むところがあって言ったんじゃない』と。
 加地 国のことを考えたら、当然ですね。
 岸 国のことを考えて、なにしたんだと言ったら、東條さんが『いや、君の心根はよう分かってる』ということでね。あそこへうかがって、そういう話をしたことがあるんです。」
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 革新官僚は、マルクス主義者として弱者の救済を使命として、貧富の格差を是正するには富の再配分し、富裕層の私有財産を制限する為に個人の自由を統制するしかない確信していた。
 彼らは、「国家は経済であり、政治も経済である」として統制経済を推し進めた。
 革新官僚は、天皇制度に対する認識で二派に分かれていた。
 天皇を中心とした国體を護持しようとした民族派社会民主主義者と、人民独裁の為に天皇制度を打倒しようとした国際派共産主義者である。
 前者の代表が岸信介であり、後者の代表が風見章とソ連のスパイであった尾崎秀実である。
 後者は、敗戦革命を起こして天皇制度を廃絶すべく、戦争ができない統計数値を戦争可能と改竄して軍部を煽った。


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