🎺81:─2─東京裁判の開廷。国際世論は、人道貢献をした昭和天皇の処刑を求めていた。1946年4月~No.359No.360No.361 @ ㊿

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 世界は、昭和天皇A級戦犯達・日本軍部がユダヤ人難民を助け保護した事は知っていた。
 だが、ユダヤ人難民を助けたという人道貢献は無視された。
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 国際世論は、天皇の安全を保障したポツダム宣言を無視して昭和天皇の厳罰(処刑)と天皇制度の廃絶を望んでいた。
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 東條英機は、自決に、女婿の古賀秀正少佐が自決に用いたコルト32口径を使った。
 自決後に、アメリカ軍が遺体写真を撮る事を予想し、頭部ではなく心臓を打ち抜く事に決め、かねてより心臓の位置に墨で印を付けていた。
 東條は左利きであった為に、左手では角度的に心臓を撃つ事が難しく、やむなく右手で撃った為に自決に失敗した。
 GHQは、東條をA級戦犯として軍事法廷で裁き絞首刑にするべく、全力で救命措置を行い一命をとりとめた。
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 4月 朝日新聞は、森恭三と田中慎次郎論説副主幹の下で左翼・マルクス主義路線を隠す為に民主主義を隠れ蓑とし、ソ連中国共産党に好意的な記事を掲載した。
 後の1923年に、スイス・ベルン特派員をしていた生粋のマルクス主義者である笠信太觔が帰国し、論説委員に就任した。
 森・田中・笠による左翼報道は、親中・親ソとして反米・反吉田を鮮明にし、同年12月18日の新聞に「民主戦線結成の好機」を掲載して社共連合勢力の育成を促した。
 東京にマッカーサー元帥の諮問・助言機関として対日理事会が設置され、第一回協議が開かれた。
 対日理事会は、アメリカ代表、ソ連代表、中国代表、イギリス・オーストラリア・ニュージーランド・インド連合代表の4名で構成されていた。
 ソ連代表のデレビヤンコ将軍は、対日強硬発言を繰り返し、GHQの占領政策を寛容すぎると激しく抗議していた。
 ソ連は、東京の大使館や報道機関に多数の工作員を送り込み、日本の無法化・無秩序化の為に日本人共産主義者に対して反天皇反米デモ運動を起こす様に示唆した。
 マッカーサーは、極東委員会も対日委員会も無視して、独自の占領政策を推進した。
 「ソ連代表の発言は真実の点からいっても、また現実に照らしても、如何なる正当性もなく、極めて無責任なソ連の宣伝としか思えない。それは、基本的にはソ連が日本を共産主義に染めようとして果たせなかった為である。その怒りと挫折感が、この様に途方もない卑俗な表現となって表れたのであり、これは宣伝の失敗をハッキリと証明している」
 アメリカ連邦会議聴聞会。ファーガソン上院議員は、スチムソン陸軍長官日記の「41年11月25日にホワイトハウスで開かれた会議」について、スチムソンやマーシャルら出席者に質問した。
 ハリー・バーンズ(1966年)「マーシャルこそはFDRが求めていた忠実な協力者であった。彼はウエストポイント(陸軍士官学校)の出身ではなく、トップクラスの軍人に友人がほとんどいなかった。彼のFDRに対する忠誠は、祖国に対する忠誠を凌いでいた。彼にとってFDRはほとんど神の如き存在だった。
 というのも、それには理由があった。かって参謀総長だったマッカーサーhさ、有名な第八連隊の職にあったマーシャルを、その任に非ずとして解任し、イリノイ国防軍の一教官に左遷した。その彼をFDRが拾い上げ、三十数名からなる先任将校を乗り越えて昇進させ、参謀総長への名誉ある道を歩かせたのである。マーシャルの起用については、FDR夫人エレノアが大きな役割を果たしたといわれている」
 「彼(スチムソン)は好戦的、意志的執拗さにおいてFDRにつぐ人物だった。大統領は日本に関してスチムソンの政策を良しとした。彼は激しい恐日病患者で、フーバー大統領に売り込んだ対日強硬政策をソデにされると、今度はそれをFDRに売り込んだ。
 しかし、FDRがスチムソンに、彼の計画を打ち明けたかどうかは定かではない。高度に秘密な情報を扱うについて、FDRは極めて柔軟で融通の利く、頼りになる協力者を必要とした。スチムソンは自信家で傲慢な人物だった。危険が近付くにつれて、FDRは議論や勧告よりも完全な服従を欲し、かつ必要としたのである。
 とはいえスチムソンは、キンメルやショートに対して『あまりに簡単、あめりに遅い警告』を発する事は、マーシャルと共に画策したと、いまでは見られている」
 「これまでに公にされた記録文書には、FDRが日本の真珠湾攻撃を知っていたという事を決定的に証拠立てるものはない。おそらくそのような証拠は、FDRとチャーチルの間に交わされた夥しい数の秘密通信が、研究者に公開されるまでは見つからないだろう。最も、有罪を証拠立てそうな書類はファイルから取り除かれているだろう。特にアメリカ側のコピーからは、
 イギリス政府は、11月30日から12月2日の間に、日本が7日に真珠湾を攻撃するだろうという情報を得ていたという事だが、これについて極東に於けるイギリス情報部からの信頼すべき情報源がある。もし本当だとすれば、チャーチルはそれをFDRに伝えた事は疑いない」
 イギリス情報部は、日本海軍の暗号JN─25を開戦以前に解読に成功し、南方に向かっていた日本海軍艦艇の行動を把握していたという。
 アメリカ海軍には、真珠湾攻撃以前の日本海軍暗号解読記録は存在しない。
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 4月3日 本間雅晴は、マニラ軍事裁判で戦犯として処刑された。
 辞世の句。
「甦る 皇御國の祭壇に 生贄として命捧げむ」
「栄えゆく 御國の末疑わず こころゆたかに宿ゆるわれはも」
「恥多き 世とはなりたりもののふの 死ぬべき時を思ひ定めぬ」
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 4月10日 戦後第1回総選挙。ソ連やGHQ内部のマルクス主義者は、敗戦革命として日本共産党が大躍進すると期待したが、日本共産党は5人しか当選させられなかった。
 戦前の皇国教育を受けた日本人は、天皇制度を廃絶を目指す共産党の躍進を警戒し、社会の変革を天皇制度と共存を図ろうとする社会党に投票した。
 日本のマルクス主義者は、穏健な社会主義を採用したが、急進過激な共産主義を切り捨てた。
 日本共産党は、天皇制度を廃絶し日本を共産主義国家にするには選挙ではなく実力行使しかないとして、人民革命の準備を極秘に始めた。
 自由党、141議席。進歩党94議席社会党、93議席共産党、5議席
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 4月13日 ソ連検事は来日して、昭和天皇戦争犯罪者として訴追する事を求めた。
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 キーナン首席検察官「極めて少数の人間が、私刑を加え自己の個人的意志を人類に押しつけんとした。彼等は文明に対し宣戦を布告した。彼等は民主主義とその本質的基礎すなわち人格の自由と尊重を破壊せんと決意した。彼等は人民による人民のための人民の政治は根絶されるへきで、彼等のいわゆる『新秩序』を確立されるべきだと決意した。
 そしてこの目的の為に彼等はヒトラー一派と手を握った」
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 4月17日 東京裁判において、A級戦犯容疑者は30名とされたが、法廷の被告席に座れる人数が28名で合った為に2名を削った。
 日本政府は、GHQ草案に基づいた内閣草案を作成し、大日本国憲法の手続きに従って枢密院と議会での審議と修正を経て成立させた。
 昭和天皇は、10月29日に国事行為として裁可して正式な日本国憲法となった。
 4月22日 進歩党総裁幣原喜重郎首相は、第1党が政権を担うべきという憲政の常道に従って辞任し、第1党の鳩山一郎総裁に内閣組閣を委ねた。
 GHQ内部のマルクス主義者は、日本の共産主義化の為に保守的な鳩山一郎の組閣を阻止するべく、日本人協力者から鳩山一郎公職追放する理由となる個人情報を集めた。
 幣原喜重郎首相は、GHQから鳩山一郎公職追放令に該当するとの通達を受けたので、安倍能成文相に首相就任を打診したが辞退され、やむなく吉田茂外相に就任を要請した。
 4月29日(昭和天皇の誕生日) ソ連側は、マッカーサーに対して、重光葵A級戦犯として起訴する事を強硬に要請した。
 当初。GHQは、東郷茂徳同様に重光葵A級戦犯容疑者名簿に加えていなかったが、ソ連の強い要請を受けて逮捕・起訴した。
 A級戦犯重光葵の逮捕・起訴は、広田後期や東郷茂徳らと同様に何らかの手違いで、東條英機らのような重罪犯罪がない為に有罪は有り得ないと思われていた。
 ソ連にとっては、罪状が有ろうが無かろうが関係なく、東郷茂徳同様に重光葵A級戦犯として有罪にしなければ腹の虫が治まらない事があったのである。
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 スターリンの失敗は、南樺太や千島列島への上陸ではなく、全海軍兵力を投入し多大なる犠牲を出す事を覚悟して北海道・佐渡対馬に上陸する事であった。オセロゲーム効果として、北海道・佐渡対馬を軍事占領すれば南樺太と千島列島は自然とソ連領となり、日本海を手に入れる事ができた。
 その時、チャーチルトルーマンも抗議はするが、スターリンから取り上げる事は出来なかった。
 日本人共産主義者は、自己の信念の実現から、その事を望んでいたはずである。彼等には、天皇・国家・国民は眼中になかったからである。
 北海道・蝦夷地が日本領と意識され始めたのは、江戸の中期、田沼意次蝦夷地開拓計画からである。それ以前は、日本領ではなかった。
 ロシア軍船の来航による紛争の多発により、江戸幕府蝦夷地防衛を奥州各藩に命じていた。
 日本人が、蝦夷地・北海道を正式に日本領としたのは、琉球・沖縄同様に明治に入ってからである。
 ソ連は、シベリヤ抑留者の中ら、共産主義革命に利用できそうな日本人を洗脳して早期に帰国させた。
 陰謀が得意な共産主義者は、目立たない様に、悟られない様に、日本各地に彼等を配分した。
 シベリアや中国で洗脳された隠れ共産主義者は、日本国内に潜伏していた偽装転向組と協力して反戦平和市民団体を組織し、昭和天皇の戦争責任を追及し、日本の国防を無力化する為に活動を始めた。
 その革新派的流れは、現代日本にも流れている。
 彼等は、共産主義大義の為に、日本の国益を無視して、ソ連中国共産党の利益になる様に行動した。
 後に、その一部の者あるいは影響された日本人が北朝鮮の日本人拉致に協力した。
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 5月 GHQは、米ソ冷戦が本格するや日本占領方針を変更し、革新派を後押ししていた民間情報教育局のダイク局長を更迭した。
 蒋介石の国民党軍は、毛沢東中国共産党軍を撃破し、共産主義者の息の根を止めるべく満州へ進軍を開始した。
 5月1日 11年ぶりに労働者の祭典メーデーが復活して、50万人以上の左派系労働者が皇居前広場に集まって赤旗を振って気勢を上げた。
 左翼・左派のマルクス主義者は、天皇制度を打倒し、日本を共産主義化する為に全国で労働争議や農民運動を指導した。
 5月3日 極東国際軍事裁判東京裁判の開廷。
 A級戦犯東條英機等に対する起訴状の朗読が始まった。
 東條英機東京裁判における宣誓供述書)「国家の生存に要する物資は英米蘭の封鎖以来致命的打撃を受けている。殊に液体燃料に於いて然りである。もし此の儘推移すれば、就中、海軍と航空は二年を出ずして活動を停止せられる。これは国防上重大な危機である」
 マッカーサーは、昭和天皇の戦争責任を審理させないようにキーナン主席検事に指導した。
 オーストラリアのウエッブ裁判長は、「犯罪を進めた者と犯罪を犯すよう命令した者とは、同列にあるはず」との共同謀議罪を適用して「天皇の戦争責任」を問う事を譲らなかった。
 A級戦犯達は、自分が処刑されても昭和天皇を守るとの決意から「天皇には責任がない」と証言した。
 もし。誰か一人でも、処刑を逃れる為に司法取引して「全責任を昭和天皇にある」と証言すれば、昭和天皇の命はなかった。
 裁判費用27億円は、日本政府が支出した。
 ブレイクニー弁護士(アメリカ人)「戦争は犯罪ではない。もし戦争が犯罪なら、原爆を投下した者、作戦を指揮した司令官、その命令にサインをした国家元首の名も挙げられる。彼らは、この法廷の何処にいるのか」
 5月12日 日本共産党活動家は、赤旗を掲げてデモ隊を誘導して坂下門から宮城に乱入した。
 マッカーサーは、冷戦でソ連との対立が鮮明になるにつれて、天皇制度を廃絶を主張する日本共産党の勢力拡大に警戒心を抱き始めた。
 5月16日 吉田茂は、鳩山一郎から幾つかの条件をのませて自由党総裁となり、首班指名を受けて組閣に取り掛かった。
 衆議院尾崎行雄「私ども申し訳ない事は、初期議会以来ここに列席しておりますけれども、立憲政体の運用はほとんど跡形のないまでに壊してしまいました。その極点がついに政府指名の候補者に全国大多数の選挙人が投票を致して、そして遂に無条件降参という所までこぎつけたのであります。……ここに陥った原因の重大なるものは、……今日は軍部官僚のみを咎めております。無論悪い。非常に悪い。しかしながらここに列席した我々の同僚代議士はほとんど全会一致でこの後押しを致したのであります。……しかしその代議士は全国人民が選んだのでありますから、全国人民もまた亡国の手伝いを致したという事実は弁解の余地はない。ここにおいて上下こぞって悔悟致して、……」
 5月19日 全国で米の配給の遅配に対する改善要求集会が起きていた。
 宮城前広場に集まった労働者は食糧メーデーを開き、飯米獲得人民大会のデモ隊は首相官邸を包囲する様に座り込んだ。
 吉田茂首相は、GHQへ出向き、マッカーサーに食糧の緊急輸入を陳状した。
 「450万トンの食糧の輸入がないと餓死者が出る」
 当時。世界は、戦争による荒廃と天候不順で食糧不足に陥り飢餓状態にあった。
 トルーマン大統領は、国民に消費制限を要請し、対外食糧救済運動を展開していた。
 ハーバート・フーバーは、トルーマンから要請を受け、世界各地の食料事情を調査するべく旅立ち、飢餓状態にある地域で食糧支援と難民救済の活動を開始した。
 吉田茂首相は、煽てられて人民革命を連呼する労働者らに「社会秩序保持声明」を出し、遅配に対しては「食糧非常時宣言」を発して、鎮静を図った。
 来日中の、ハーバート・フーバーは日本の混乱を目の当たりにしたが、食糧支援の優先順位の上位は連合国として敗戦国の日本は後回しにした。 
 アメリカの食糧支援が遅れた為に、戦争孤児の多くが餓死した。
 5月31日 マーシャルは、中国共産党を救う為に、蒋介石に対して進撃を中止する様に圧力をかけた。
 「政府軍が東北進撃を継続している現下の状況では、私の立場に重要な疑義が生じる局面に立ち至っている事を、繰り返し申し上げざるをえません。従って、政府軍による進撃、攻撃、追撃を終了させる命令を直ちに出されるよう、重ねて要請するものであります」
 蒋介石は、妥協して二週間の停戦に合意して、国民党軍を満州に移送する作戦を延期した。
 マーシャルは、さらに圧力をかけて4ヶ月近く引き延ばした。
 ソ連軍は、戦車や大砲のどの大量の武器弾薬を中国共産党軍に送り届けた。
 毛沢東は、アメリカとソ連の支援で、日本によった重工業地帯に発展していた満州支配下に置いた。
 これによって形勢は逆転して、中国共産党軍は攻勢に転じ、国民党軍は敗走し始めた。
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 6月 民間情報教育局(CIE)内において、大規模な人事異動が行われ、反共主義者が主要ポストに就任した。
 日本外務省は、GHQに対して、尖閣諸島は南西諸島に属し沖縄の一部であるとの報告書を提出した。
 中華民国は、中国共産党との内戦でアメリカの支援を得る必要から、尖閣諸島を日本領とする事に反対しなかった。
 沖縄に軍事基地を持つアメリカ軍は、尖閣諸島は日本領であるとして実弾の演習場に利用した。
 中国側は、沖縄にアメリカ軍が駐屯している間は、軍事バランスから尖閣諸島帰属問題には口を出さなかった。
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 日本共産党は、「日本人民共和国憲法草案」を発表した。
 前文「天皇制支配体制によってもたらされたものは、無謀な帝国主義侵略戦争、人類の生命と財産の大規模な破壊、人民大衆の悲惨に満ちた窮乏と飢餓とであった。この天皇制は欽定憲法によって法制化されていた様に、天皇が絶対権力を握り人民の権利を徹底的に剥奪した。それは特権身分である天皇を頂点として、軍閥と官僚によって武装され、資本家地主の為の搾取と抑圧の体制として、勤労人民に君臨し、政治的には奴隷的無権利状態を、経済的には植民地的に低い生活水準を、文化的には曖昧と偏見と迷信と盲従とを強制し、無限の苦痛をあたへてきた。……このような屈辱と苦痛に満ちた専制政治を廃棄し、人民に主権を置く民主主義的制度を建設する事が急務であると確信する。この方向こそかつて天皇制のもとに等しく呻吟(しんぎん)してきた日本の人民と近隣諸国人民との相互の自由と繁栄にもとづく友愛を決定的に強めるものである……天皇制はそれがどんな形をとろうとも、人民の民主主義体制とあ絶対に相容れない。天皇制の廃止……」
 共産主義こそが、世界に平和と安定をもたらし、人民に幸福と繁栄を与えられると謳っていた。
 日本の共産主義化を画策していたのは、ソ連であった。






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