🎵29:─1─囚人道路建設は後の泰緬鉄道敷設に似ている。鎖塚。網走監獄。網走刑務所。~No.68No.69No.70 @ 

北の螢 [DVD]

北の螢 [DVD]

  • 発売日: 2007/05/21
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ロシアとの戦争に備えて、如何なる犠牲も厭わず強行された建設の為に強行された悲劇であった。
 国家の存続の為には、人間は犠牲にされた。
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 日本は、国防を最優先にして、自由民権運動を弾圧し、自由民権運動家らを囚人道路建設に投入した。
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 囚人道路建設は、死人を出して完成させた非人道的地獄の難工事であった。
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 日本は、北から侵略してくるロシアから母国日本を守るべく、国民に犠牲を強いても軍備強化を強行していた。
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 明治時代の日本人が1流であったとすれば、昭和前期の日本人は3流であったが、1980年代、2010年以降の日本人は評価不能の4流以下・・・。
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 明治時代の日本人は、母国日本を守る為に、国土を守る為に、家族や友人を守る為に武器を取って戦争に出征し、敵・侵略者と戦った。
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 鎖塚(くさりづか)は、北海道で行われた苛酷な囚人労働を物語る遺跡である。
 囚人道路
 明治時代の北海道では南下政策をとるロシアとの対抗上軍用道路が急ピッチで建設された。札幌から大雪を越え網走市に達する中央横断道路(北見道路。端野まではほぼ、後に開通した石北本線に沿っている)もその一つである。この道路は釧路集治監網走分監(現:網走刑務所)と空知集治監の囚人約1,000人を使役して建設され囚人道路と呼ばれた。明治政府は年内に160Kmを完成させよと典獄に厳命し、石狩北見間が1891年5月着工、12月には完成した。一方、劣悪な環境と深夜に及ぶ苛酷な労働によって、212名に上る囚人が死亡した。逃亡しようとしたものは「タガネ」を用いて罰した(耳に穴を開け、足と耳とを鎖で結ぶ)。
 鎖塚はこのようにして死んだ囚人工夫の上に土をかぶせてできた土まんじゅうで、かつては多く見られたが、開拓と共に減少した。それでもなお北見市端野町緋牛内では、囚人道路が国道39号に出る手前に三基が残っている。囚人は二人ひと組で足を鎖に結ばれ、場合によっては死ぬ時も鎖を付けたままであった。従って、これらの土まんじゅうからは人骨と同時に鎖が出土する。鎖塚の名はここに由来する。
 なお、囚人道路の経路は、上川〜北見峠〜遠軽佐呂間町栄〜丸山峠〜留辺蘂〜北見〜緋牛内〜卯原内〜網走である。国道および道道として改良・現存している(国道333号〜道道103号〜国道39号〜道道104号)。
 慰霊碑
 開道100周年に当たる1968年、当時の端野町長であった中澤廣は同地に鎖塚の由来を記した立札を設置、5年後に地蔵尊を建立し囚人達の供養に努めた。1976年10月17日、鎖塚慰霊奉賛会によって鎖塚供養碑が建立され、鎖塚保存会も結成された。
 北海道の夜明け
 囚人労働は北海道各所で行われ、命を落とした中には思想犯とされた自由民権派の思想家もいた。また、後のタコ部屋労働の母体ともなった。鎖塚、常紋トンネルやイトムカ鉱山でのタコ労働を題材に、小池喜孝は第29回青少年読書感想文全国コンクールの課題図書ともなった児童生徒向けの本である、『北海道の夜明け-常紋トンネルを掘る』(1982年、国土社)を著わした。
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 北海道月形町
 月形歴史物語
 開拓の基盤を作った囚人道路
 月形潔の跡を継いで二代目典獄となったのは、長州藩出身の安村治孝やすむらはるたかでした。安村は、1844(弘化元)年長門国阿武郡萩江村(現・山口県阿武町)生まれ。明治になって奥羽鎮撫総督府兵部省東京府、警視庁などに奉職しました。警視庁の時代には、小隊長として西南戦争(1877年)に出陣しています。このとき敵の総大将西郷隆盛と、最後の城山(鹿児島市)の戦い(1877年9月24日)で組み合って死闘を演じた、といった伝説の持ち主でもあります。人は安村を、小兵であったが酒豪にして豪胆の人であったと語り継ぎました。その後市ヶ谷囚獄で署長に就きましたが、当時毒婦と騒がれた凶悪殺人犯、高橋お伝の打ち首の検視(1879年)を務めたことでも知られます。
 1883(明治16)年に安村は集治監典獄となり、1885(同18)年8月、月形村に赴任しました。この直前の7月、彼の月形での針路を決定づける出来事がありました。時の最高実力者である伊藤博文(この年の12月に初代内閣総理大臣就任)の側近であった太政官大書記官金子堅太郎が、北海道各地を視察した上で政策を建白したのです。当時の北海道は、開拓使が廃止されたあと三県一局(札幌、函館、根室県と、農務省事業管理局)の行政区分となり、縦割り行政の弊害や、大蔵卿松方正義が行った緊縮財政(松方デフレ)などによって、開拓の諸事業は停滞していました。金子来道の目的は、そうした状況の打開にありました。

 米国ハーバード大学法学部を卒業し、のちに大日本帝国憲法(1889年発布)の起草にも関わった金子は、このときの調査でまとめた「北海道三縣巡視復命書」の中で、札幌農学校豊平館、葡萄酒製造、師範学校などを 「最モ殖民地ノ急務ヲ鑑ミザルモノト云フベキナリ」と指摘し、北海道には過ぎたるもの、と決めつけています。さらに注目すべきは、囚徒の使役に関する一節です。金子は、「囚徒らは道徳にそむいている悪党であるから、懲罰として苦役させれば工事が安く上がり、たとえ死んでも監獄費の節約になり、一挙両得である」という意味の主張をしました。

 1886(明治19)年1月、三県一局が廃止されて北海道庁が設置されると、樺戸集治監は道庁長官の指揮下に入ります。この時点で北海道には、市来知いちきしり(現・三笠市)に空知そらち集治監、標茶しべちゃに釧路集治監ができていました。同年4月、北海道庁初代長官岩村通俊は安村に、市来知と忠別太ちゅうべつぶと(現・旭川市)のあいだ約88キロを結ぶ上川仮道路の開削を命じました。現在の国道12号の前身です。岩村もまた、囚人に対して月形や金子と同じ考えを持っていました。翌87年5月には、全道郡区長会議において全道基幹道路の計画が発表されました。そこには、第一に札幌を起点として空知・上川から釧路・根室にいたる道路、第二に樺戸から日本海側の北増毛にいたる道路、第三に釧路から網走に至る道路の新設がうたわれていました。上川道路は、第一の計画の一部です。工事の主役は、樺戸、空知、釧路、各集治監の囚徒たち。こうして千古斧鉞せんこふえつの原始林や人跡未踏の湿地をぬって、日本の土木工事史上もっとも苛烈な囚人道路の工事が着工されました。

 上川道路は空知集治監との共同事業となりました。石狩川の大支流である空知川を境に、そこから忠別太までは樺戸集治監が、空知川から市来知までは空知集治監が担当します。作業は200人の囚人を一団として、3里ごとに外役所を設けながら突貫作業で進められました。夜も眠れぬほどおびただしい糠蚊ぬかかやブヨが襲来するなか、クマやオオカミにおびえながら全て人力による工事が進められます。満足な食料も与えられず劣悪な衛生環境もあってケガや病人が続出しました。石狩川のカムイコタンはとりわけ難所続きのために、現場からはたまらず迂回の願いが出ましたが、安村典獄は頑としてゆずらず、ひたすら突き進めと指示を出し続けました。そうして上川道路は、わずか4カ月あまりで仮道が全線開通。そんな条件下で翌1887(明治20)年から本工事が行われ、正確には記録もない数の犠牲者を出しながら、3年ほどで開通しました。

 上川道路ができると次はオホーツク方面、旭川から北見峠を越えて網走へと北見道路の工事が進められます。明治政府には、近代国家建設のために北海道開拓を一刻も早く進め、北方からのロシアの脅威に備える必要がありました。この工事もまた空知集治監と共同で進められ、1890(明治23)年に釧路集治監分監として設置された網走囚徒外役所(最寄村・現網走市)からも多くの囚徒が動員されました。樺戸の囚徒たちは主に橋や舎屋の建設に当たりました。

 全長217キロ以上に達したこの道は、上川道路にも増して難工事の連続。囚人労働史上最も悲惨な事例とされています。ここでも200人を一団として3〜4里を一区域としましたが、割り当てを早く終えた組に次の工区の選択権を与えるという方法が取られました。結果、空知と釧路の各組の看守間で激烈な競争が起こったのです。囚人たちは夜明け前に叩き起こされ、逃走防止のために二人一組の連鎖をかけられました。看守たちはピストルとサーベルで威嚇します。あげくに寒さや食糧不足から水腫病が大量発生。北見ではわずか半年間に、出役した1,150人のうち900人以上が発病して180人以上が死亡。逃走を企てて斬殺される者も続出しました。屍はしばらく、風雨にさらされるままにされたといいます。やがて土がかぶせられましたが、のちにそうした「土まんじゅう」が掘り返されると、土に帰りつつある骨と共に、まだ原型を保った鉄の鎖が出てくるのでした。

 安村は1889(明治22)年1月から、樺戸、雨竜、上川三郡の郡長を兼務することになり、監獄の責任者に加えて地域の行政のトップともなります。この時期上川道路や網走道路のほかにも、樺戸と市来知を結ぶ樺戸道路、月形と増毛を結ぶ天塩道路などが樺戸集治監の囚徒たちの手で開かれていきました。

 安村典獄の在任期(1885〜1891)は、北海道開拓の最初の屋台骨となる幹線道路が急ピッチで開かれた時代であり、 その大部分を担ったのは、「赤い人」、すなわち集治監の囚徒たちでした。

 1891(明治24)年に上川の永山、翌年には東旭川、93年には当麻に、それぞれ屯田兵400戸ほどの入植がありました。上川以北にようやく開拓の斧が下ろされるようになったのです。それを可能にしたのは、囚徒たちが命と引き替えるように造った上川道路でした。札幌と旭川が鉄路で結ばれたのは、1898(明治31)年のことにすぎません。札幌の月寒で編成された陸軍第7師団が旭川に進出したのも、鉄道に先がけて囚徒によって拓かれたこの道があり、旭川が道北の中心地として歩み始めていたからなのです。北見、網走地方においても、屯田兵や開拓団が入るための最初のインフラを整えたのは、同様に集治監の囚徒たちでした。

 私たちはこの事実と意味を、決して忘れてはならないでしょう。過酷をきわめた労働によって今日の北海道の礎いしずえを築いたのは、樺戸をはじめとした集治監の「赤い人々」だったのです。
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 博物館 網走監獄
 監獄秘話
 第3話 囚人が開いた土地
 映画「網走番外地」ですっかり有名になった網走刑務所ですが、現在使われているのは昭和59年から平成22年度までに建て替えられた近代的な建物で、明治以来使われてきた古い獄舎は天都山のふもとに移築保存され、「博物館網走監獄」として皆さんのお越しをお待ち申し上げている訳です。
 今日はひとつ、この監獄にまつわる歴史や人物をご紹介し、刑務所とは何ぞやーということを今一度考えたいと思います。え?刑務所なんて私と関係ないですって、はたしてどうでしょう さあ、ひとまず先へ進みましょう。
 その昔、北海道はエゾ地と呼ばれ、江戸時代には、和人の定住が始まりました。明治維新後、エゾ地は北海道と名を改め北海道開拓使によって本格的に開拓される時を迎えます。しかし、オホーツク海沿岸は厳しい寒さと流氷にはばまれ、夏の間漁場が開かれるだけで開拓から取り残されていました。 和人が初めて冬を越したのは、明治12?3年頃だと言われています。どうしてそんな不便なところに監獄を建てたりしたんでしょうね。実はそこには北海道開拓にまつわる暗く悲しい歴史が隠されているのです。
 明治の初めはご存じの通り幕藩体制から天皇制に変わったばかりで、国中が大きく揺れ動いていた時代。そのため、佐賀の乱西南の役など各地で反乱が相次ぎ、「国賊」と呼ばれる時代の産んだ罪人が大量に出た時です。さらに度重なる戦乱で国民は困窮し心がすさみ犯罪を犯す者があとを絶たないため国中の監獄はパンク寸前で、つぎつぎと新しい監獄を作らなければなりませんでした。 また開国したばかりの日本は、欧米の列強諸国に一日でも早く追いつき追い越そうと必死に富国強兵政策をとっており経済的に大きく発展するためには、未開の地北海道の開拓がぜひとも必要だったのです。
 不凍港を求め南下政策をとるロシアの脅威から、日本を守るという軍事上の理由から北海道の開拓は大至急行わなければならず、そのためにはまず、人を運び物を運ぶための道路を作らなければなりませんでした。しかし、国の財政にそんな余裕はない。そこで考え出されたのが、増える一方の囚人を労働力として使うことです。
 開拓のために道を作るといってもこの原始林では民間に頼めばとんでもない賃金となるだろう、だが囚人を使えば費用は半分以下ですむし、悪人なのだから作業で死んでも悲しむ者もない、囚人の数が減れば監獄費の節約にもなる、まさに一挙両得であり今後も困難な作業は、囚人を使うべきだ。
 というわけで開拓のために北海道各地に監獄を作る計画はどんどん進められます。明治14年に現在の月形町に樺戸集治監が作られたのを皮切りに明治15年空知集治監、明治18年に釧路集治監と、次々に作られ北海道に囚人が集められました。網走刑務所は最初「網走囚徒外役所」と呼ばれ中央道路開削工事のため明治23年1200人もの囚人が送り込まれました。
 道無き道を進む囚人の旅は険しい地形と熊との戦いだったと言います。道央とオホーツク沿岸を結ぶ道路の開削工事が、千人を超える囚人により昼夜兼行で強行されました。逃亡を防ぐため囚人は二人ずつ鉄の鎖でつながれながら(連鎖という)の重労働でした。工事現場が山中深く移動するにつれ食料運搬がうまく行かなくなり栄養失調やケガなどで死亡者が続出困難を極める難工です。 あまりの苦痛に耐え切れず逃亡を企てて看守に抵抗しようとした者は、その場で斬り殺されたのです。たとえ首尾よく逃げられたとしても食料もなにもない山の中のこと、結局、戻って来るしかありませんでした。
 死んだ囚人たちは、現場に埋葬され目印に鎖を墓標のそばに置いたと言い伝えられ、そこで誰言うともなしに囚人たちの墓を「鎖塚」と呼ぶようになりました。昭和30年頃から郷土史を研究する人々や住民を中心にこれらの遺骨を発掘する作業が熱心に進められ今では追悼碑やお墓が建てられるまでになりました。千人の従事者から看守も含め、二百人以上の犠牲者を出したというのです。北海道での囚人労働は炭鉱や硫黄採取などでも行われ、そのつど多数の犠牲者を出していました。特にここは犠牲者が多く、囚人道路と呼ばれています。「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきか」と、国会で追及されるに及びついに明治27年廃止されたのです。
 しかし、この囚人労働の歴史はその後もタコ部屋労働に引き継がれ内地(本州)で食いつめた労働者や外国人を巻き込み大正、昭和と押し進められるのです。今日の北海道の繁栄は尊い犠牲の上になりたっていることをどうか忘れないでください。
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 第1話 北海道集治監の誕生と網走監獄
 第2話 網走監獄のはじまり
 第3話 囚人が開いた土地
 第4話 建物の歴史
 第5話 ここは地の果て
 第6話 受刑者の生活
 第7話 受刑者が恐れたもの
 第8話 寺永法専
 第9話 監獄を支えた人たち
 第10話 監獄・網走に関する映画  
 第11話 番外地の生みの親

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囚人道路 (講談社文庫)

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