29─コメント Q&Aー1 =間違った歴史にもの申す〜No.321               

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☆ Q&A─1
取得日 2010/11/09 21:17:35
間違った歴史にもの申す (116.82.228.154)
『>ポーランド軍は、貴族将校によって指揮され、将兵は封建体制下で強制徴兵された農民兵や市民兵であった。
とありますが、戦間期ポーランドが封建体制であったとは初めて聞きました。出典はありますか?
>だが、ポーランド軍も反共産主義反ユダヤ主義から、報復として、各地でユダヤ人や反ポーランド派への虐殺を繰り返していた。
とありますが、論拠となる資料はありますか?
また、ソ連やドイツの行っていた虐殺と同等に語られるほどの巨大な規模でその「虐殺」とやらは行われていたのでしょうか?
スケールがあまりに異なる2つの罪を取り上げて同列に語ることでスケールの大きなほうの罪を恣意的に相対化するというのは詭弁術における正当化法のひとつで、まさか今回はそういうことではないだろうとは思いますが、念のため。
よろしくお願いいたします。』
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『nisikiyama2-14です。
 ご指摘ありがとうございます。
「間違った歴史にもの申す 2010/10/15 13:09」(No.1)のご指摘に対して、お答えしたいと思います。
1,「ポーランド軍は、貴族将校によって指揮され、将兵は封建体制下で強制徴兵された農民兵や市民兵であった。とありますが、戦間期ポーランドが封建体制であったとは初めて聞きました」
 新生ポーランドは、1919年に独裁的指導者ピウスツキによって、王制の復活ではなく共和制のもとで建国されたのは事実です。そして、ソ連が日本やアメリカなどの多国籍軍とシベリアで戦い、各地で白衛軍の反乱で苦戦している間隙を突いて、翌20年にウクライナに侵攻しました。建国間際のポーランド共和国が、国際戦争に参戦するには、それなりに強力な軍隊が必要なはずです。独立を勝ち取って安堵した都市住民が、1年も経ずして対外戦争に志願して征けるものでしょうか?その疑問から、ポーランド軍兵士の大半は日本軍兵士と同じ農村出身者ではないかと考えました。
 ロシア、ドイツ、オーストリアの三大帝国の支配を受けていた農村部の住民は、読み書きなどの教育を制限され、重税下で貧しい生活を強いられていたであろうと推察します。ポーランド人らの恨みを買うのを恐れた三帝国政府は、併合地にオーストリア人の地方官を派遣して直接統治するのではなく、中世以来の封建領主であるポーランド人貴族や大地主を利用して間接統治したと考えました。
 建国早々のポーランド軍が多数の兵士を徴兵するのは、権利を要求する都市住民ではなく、従順な地方住民を強制徴兵したであろうと、勝手に考えました。それでも、地方出身兵士が、ワルシャワから派遣されて来た見ず知らずの優秀な将校を信じ、安心して命を預けるでしょうか。殺されるかも分からない敵陣に向かって、都会出身の良家の子息将校の命令で突撃できるでしょうか。支配者に虐げれらてきた個性豊かな貧困層の彼等が、没個性的な日本人の様に御上の命令に従順に従う程の「お人好し」であったのか。むしろ、無学で貧しい彼等がもし従うとすれば、代々領主として目の前にいた封建領主の貴族や大地主ではないかと考えました。
 日本の百姓でさえ、明治維新の時、京都に居る天皇の命令より、封建領主である大名や大庄屋らの言葉を信用しました。山村僻地の百姓で、天皇を知らない者もいたと言います。
 新生ポーランドが、王制ではなく共和制を採用した以上、封建体制国家ではありません。ただ、その国民、特に地方都市の住民や農村部の農民が封建領主であった貴族を信用したのではないかと考えて、封建体制下としたまでです。事実、王家はなくなりましたが、貴族は存在して社会の指導的立場にいた事は確かです。
 1919年当時の新生ポーランドは、1939年のドイツ軍侵攻に抵抗したポーランド共和国に比べて、旧勢力・封建勢力の力を借りなければならないほど、その地盤が脆弱であったろうと考えます。
 決して、戦間期ポーランドが封建体制国家とは言いません。封建体質が、近代化しきれていない国民の心に染みついていたであろうと、私は考えるだけです。
 日本でも、曲がりなりにも封建体質が払拭できたのは、明治10年の西南戦争で不平士族の反乱が敗北してからだと思います。それでも、不平士族による政府要人の暗殺は続きましたが。長年染みついた封建体質が、生半可では拭いきれないのは何れの国でも同じだと思います。
 この推論が間違いで、ポーランドは速やかに国民国家として近代化を成し遂げ、中世以来の封建体質を捨て切れたというのなら、私の完敗です。
2,「出典はありますか?」
 私が、多く取り上げているのは、公式に公表されている年表上の出来事だけです。
 年表を核とし、極一般に市販されている俗物的書物を参考にして、個人的見解・私論で肉付けしているにすぎません。よって、世に出ることなく埋もれていたい事実を掘り起こしたとか、新しい資料で新説を見出したとか言う、高度な次元の話しではありません。
 私の身分では、そうした資料や研究論文を手に取る事も、見る事も、知る機会もありません。英語はおろか、如何なる外国語も話せないし理解できません。国際人になる気はなく、外国人と話したいとも思わないので、外国語を身に付ける気も毛頭ありませんが。
 正史ではなく、外史としての、浅はかにも「詭弁を弄した恣意的な私的俗説」です。底が見えるほどの、薄っぺらなものにすぎません。
 残念ながら。木造の安アパートな為に、参考にした書籍・資料を全て保管するだけの広さもなければ、積み上げては床が抜ける恐れがあって大半を廃棄して、利用した書籍の多くはすでに手許にはありませ。よって、どの書籍の何ページに関連した記事があったとは、今や知るよしもありません。
 安定した生活をしている専門家でもなく、老後の心配をしながら高い薬代を払い、食生活を切り詰めている、一人侘びしい老後を迎えようとしている独身男です。安月給から、資料の収拾と保管よりも、うらぶれたみすぼらしい生活空間の保全を優先しました。
 よって、3の「とありますが、論拠となる資料はありますか?」にも答えようがありません。
 身内のいない独身男が資料を保管しても、人に看取られる事もなく孤独死や無縁死し、異臭を放ってようやく気付かれて腐乱した肉体か破骨化した屍体が発見され、引き取るあてのない遺留品が残るだけです。無縁仏として集団墓地に捨てられる様に放り込まれた後、ゴミとなった遺品の処分代を誰が出してくれるのでしょうか?
 他人様に迷惑をかけない為にも、生きているうちから身辺整理に心がけて、読み終わった書籍や資料は惜しげもなく捨てています。
 それが、独り身の孤独な人間の死に向かう作法と心得るからです。
4,「だが、ポーランド軍も反共産主義反ユダヤ主義から、報復として、各地でユダヤ人や反ポーランド派への虐殺を繰り返していた。」
 ポーランドに、反ユダヤ主義があり、ユダヤ人虐殺である「ポグロム」が多発したのは事実です。
 戦後、ホロコーストから生還したユダヤ人を殺害した事件がありました。それを以て、ポーランド人の残虐性を告発するつもりは毛頭ありません。
 日本的に言えば、「罪を憎んで、人を憎まず」ですし、「良いポーランド人もいたし、悪いポーランド人もいた」というだけの事です。それを、深く考える気は毛頭ありません。
 私の興味は、個人の恣意的意志ではなく、人の集合体としての不可解な歴史だからです。
 譬えて言うなら、森や平原や大河を眺めているのであって、一本の木や草でもなく、河の淀みや川底の小石ではないのですから。
 つまり、そうした事実が年表上にあったと言う事だけです。
 それ以上の事は、その事を専門に事細かく研究している専門家に任せます。
 私は、正規の教育を受けた専門家ではありません。また、そうあろうとも思いません。
5,「また、ソ連やドイツの行っていた虐殺と同等に語られるほどの巨大な規模でその『虐殺』とやらは行われていたのでしょうか?」
 ソ連とドイツが行った虐殺は、一党独裁体制が国家政策の一環として、公的組織を合法的に総動員して行った国家犯罪である。
 確固たる信念を持った独裁者と、信奉する主義主張を実現しようとする政党による、合作事業である。彼等は、支持者による反対派への選挙妨害や中立派取り込みの情報操作などの非合法活動があっても、合法政党として議会民主主義に基づく総選挙で第一党に選ばれた。当時のソ連もドイツも、現在の中国や北朝鮮とは違って、反対政党などの複数政党と熾烈な選挙戦を勝ち抜いて政権与党になっている。つまり、どんな危険性を秘めていたとしても、彼等を選んだのは紛れもない国民である。ある時点までは、国民は選挙権を持った主権者である。
 レーニントロッキースターリンら指導者とロシア共産党は、人民を暴力と死の恐怖で地獄の淵に追い遣り、救いのない絶望感を植え付けた。そして、共産主義を信奉する事で、絶望的境遇から脱出して天国の様な安らぎが得られると甘い言葉を囁いた。労働者の天国を信じた人民は、共産党に忠誠を誓い、独裁者の声を絶対神の啓示の様に信じ、非人道的行為を楽園のような共産主義の実現として確信した。人畜無害な人間を凶悪犯罪者に洗脳する手段を完成させたのは、マルクス主義であった。共産主義の虐殺は、〜イズム絶対主義から、人種や民族に関係なく自国民でさえ容赦しなかった。共産主義による犠牲者は、6,000万人以上とされている。
 ヒトラーとナチ党は、アーリア人ゲルマン民族による第三帝国の建設と栄光を訴えて第一党になった。侵略戦争大義を、民族の生活圏確保としている。国民全体が、ヒトラーの唱えたナチズムを受け入れたわけではなかった。共産主義が国際主義であったのに対して、ナチズムは民族主義の段階に留まっていた。そもそも、ヨーロッパ世界はゲルマン民族の大移動で発展したといっても過言ではない。ヨーロッパ系白人は、例外なくゲルマン民族のある部族の子孫かその同盟者である。ユダヤ民族は、彼等からすれば異民族である。それは事実である。民族主義者が周辺から異質な要素を排除しようとするのは、人類史・世界史・大陸史ではよく見られる現象である。ゆえに、大都市では人種・民族ごとに居住区を形成し、寄り添いながら生活していた。大陸の都市は、例外なく、異人種・異民族が融合せず、モザイク的に棲み分けている。ナチス・ドイツが、排除しようとしたのはユダヤ人やジプシー(ロマ人)やスラブ人などの非アーリア人種だけであった。ドイツ政府は、キリスト教会や貴族階級を排除する事なく彼等を受け入れた為に、ゆえに国民に対して虐殺を行わなかった。反ユダヤ主義による犠牲者は、約600万人とされている。
 新生ポーランドでは、1921年の民主的憲法によってピウスツキが大統領となった。必ずしも全国民の総意によるものでもなく、独立運動の指導者としての便宜的に大統領に就任しただけである。国内の混乱は続いていた。封建領主・貴族やキリスト教会などの保守層は、大土地所有者として隠然たる影響力を持っていた。都市部の資本家は、自由な交易を有利に行う為に、資金を各方面の利用できる相手にばらまいていた。独立運動を戦った同志も、自分が信ずる政治信条を実現する為に独自の政党を組織し、議会内の主導権を得ようと暗躍していた。ピウスツキ大統領は、国内の混乱を落ち着かせる為に、26年にクーデターを起こし、憲法を改定して独裁体制を敷いた。この時から、ポーランドは独裁体制に移行した。ポーランド軍が行ったユダヤ人虐殺は、独裁体制以前の出来事であった。
 ポーランド軍は、1919〜20年の2年間で、ウクライナの占領地で虐殺と略奪の自由を3日だけ許可した。その犠牲者は、死者数百人で、負傷者は数千人とされている。
 ヨーロッパ戦史では、勝利者が敵国の占領地で虐殺と略奪行為を行い、敗戦国の住人を奴隷として人身売買した事は、罪どころか常識とされている。それは、国民皆兵以前の中世における傭兵戦争の伝統を引き継いでいるからである。契約兵士である傭兵は、国民ではないだけに忠誠心も愛国心も祖国愛もなく、単なる無法者集団である、報酬の高い方に靡いて、裏切りや寝返りを平然と行った。軟弱でひ弱な契約主と見下すや、反旗を翻し、契約主とその家族を全員殺害して、領主の地位を簒奪した。領民は、新たな領主を無条件で受け入れて税金を納め、旧領主の一家を虐殺するか領土から追放した。キリスト教会は、宗教的権威で新領主の正統性を認めた。
 そこには、日本的な命を絆として共有する家族意識はなく、金による利益優先の契約的仲間・友人が存在するのみである。
 人間の欲を自由に追求する社会では、人殺しは金儲けになるスポーツであり、娯楽であった。それゆえに、ヨーロッパは戦争が絶えず、虐殺もたびたび起きていた。その為に、どうしても戦争のルールを創り合意する必要があった。それでも、彼等はルールは破られる為にあると嘯いていた。そうして生まれたのが、マルクス主義とナチズムである。
 ゆえに、ポーランド人のユダヤ人虐殺は個人的なものであり、ヨーロッパ世界では珍しい事ではなかった。戦後、ホロコーストから生還した隣人のユダヤ人を殺害する事件が起きていた。
6,「スケールがあまりに異なる2つの罪を取り上げて同列に語ることでスケールの大きなほうの罪を恣意的に相対化するというのは詭弁術における正当化法のひとつで、まさか
よろしくお願いいたします。今回はそういうことではないだろうとは思いますが、念のため。」
 ソ連とドイツは、国家の意思で虐殺を行い、国民や人民はそれに否応なく引き摺られてていった。ポーランドは、国家の意思ではなく、個人の自由意志で虐殺を行った。ポーランド人による虐殺とソ連やドイツの虐殺は、異質である以上は同列に扱う気は毛頭ありません。ソ連とドイツの虐殺は政策としての国家犯罪であり、ポーランド人の虐殺は私怨による個人犯罪であります。
 そして、ポーランド人の虐殺行為はポーランド人だけの特異な行為ではなく、キリスト教文明のヨーロッパ世界に内在する切除しがたい病巣である。
 ソ連とドイツの国家犯罪は、人類の責任として、時代を超えても、歴史として永遠に糾弾されるべきです。ポーランド人の個人犯罪は、それとは別次元として、人が自分の心に潜む悪心を問うべき問題である。
 だが、こうした虐殺行為が起きたのは事実であり、数十年の間に限られた地域で起きた事は、何らかの影響があったとしても間違いではないと思います。
 人の営みが続き、世代間の意識が受け継がれ、人が感情を持つ不安定な生物である以上はこの宿命から逃れる事は出来ない。
クィンティリアヌス「歴史が記述されるのは、物語る為であり、証明する為ではない」(『弁論術教程』)

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