🎻16:─1─ヤルタ・ポツダム体制に変わってサンフランシスコ体制が始まり、ヤルタ合意とポツダム宣言は破棄された。1951年~No.55No.56No.57 @ 

 
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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 マッカーサー「太平洋においてアメリカが過去100年間に犯した最大の政治的過ちは、共産主義者を中国において強大にさせた事だと私は考える」
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 日本が目指した国家像は、戦前と戦後では異なる。
 明治から昭和初期までは、ロシアと清国=中国、ソ連中国共産党などの共産主義勢力の侵略から天皇制度と自主独立を護る為に武装する発展志向型国家であった。
 戦後は、国連・サンフランシスコ体制と日米安保条約下でアメリカに楯突かない隷属国として規制志向型国家に改造された。
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 日本の国際化を志望する知識人は、日本の独立よりアメリカへの併合を望み、日本語を廃止して英語にすべきであると力説していた。
 久米正雄は、「日本米州論」を発表した。「講和なんぞして、独立するよりは、もつと踏み込んで、米国と合邦し、米国の一州となる方が、よっぽど幸福ではないか」
 天皇制度を廃止して、アメリカへの併合を望む日本人が、知識人を中心に存在していた。
 その姿は、日韓併合時を推進した朝鮮の一進会に似ている。
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 1951(〜52)年 毛沢東は、建国直後から続いている党と政府内の汚職・浪費を取り締まるべく三反五反運動を展開し、社会の風紀粛清の為に違反者を見付けしだい処刑するか追放した。
 三反とは、汚職、浪費、官僚主義の三害。
 五反とは、贈賄、脱税、国有資産盗用、原料や手間の誤魔化し、国家経済情報のインサイダー行為の五毒。
 中国は、古来、法治による社会ではなく、血縁による人脈のコネで動いている社会である為に、腐敗堕落が消え社会が公明正大となり規則、条例が行き渡り平等、公平になる事はあり得なかった。
 「上に政策あれば、下に対策あり」
 中国人は面子に拘る為に、表面的な発言や行動と内面の気持ちは異なる。
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 1951年 トルーマンは、吉田茂首相に日本独立・講和条約締結の条件として再軍備憲法改正を求めた。
 アメリカは、アジアに於ける自由と民主主義を守る為には日本の再軍備が必要であると判断していた。
 バチカンは、日本独自の価値観と日本国民の愛国心から靖国神社参拝を許す通達を、再度、日本の信徒に出した。
 吉田茂首相は、主権回復の為の日米交渉を開始し、最大の懸案は沖縄問題であった。
 ダレス国務省顧問は、吉田首相に対して、沖縄・奄美・小笠原など太平洋上にある日本領とされる島嶼群を日本から切り離し、国連の信託統治領とする事を要求した。
 アメリカ軍は、沖縄の絶対確保と自由使用の為に、沖縄の主権放棄を強要した。
 マッカーサーは、沖縄人は日本人ではない以上、沖縄を日本から切り離すべきであると、不寛容に拒否した。
 「沖縄諸島を日本から完全に切り離さない、如何なる取り決めにも絶対に反対する」
 吉田首相は、アメリカはそれらの島嶼群をグアムや東サモアの様に領土化しようとしていると判断し、昭和天皇の意を理解し主権回復と引き換えに沖縄を犠牲にしない事を最低条件として、アメリカ軍基地を置くがそれは租借であるというバーミューダ方式を提案し、信託統治領案を拒否した。
 ダレスは、戦勝国アメリカ国民を納得させる為に、沖縄を自治領とするべく日本からの完全分離を譲らなかった。
 アメリカは、戦争に勝つ事によって領土を拡大してきた以上、日本からも領土を獲得しようとした。
 吉田首相は、国際通念として、敗戦国の日本が沖縄を分離して信託統治領提案を受諾する覚悟で、沖縄県民の日本国籍確保した上で期限付き租借の条件を申し込んだ。
 ダレスは、信託統治領案を引っ込めて吉田提案を受け入れた。
 アメリカは、初めて領土拡大を断念した。
 敗戦国が戦勝国に対して賠償金の支払いと領土の割譲を行うのが、世界の常識である。
 戦勝国アメリカの「沖縄割譲」要求は、世界史において不当要求ではなかった。
 ダレス特使は、政治的配慮から、沖縄の主権を日本に残す事に同意した。
 吉田首相は、沖縄と本土を一体とし、平和条約締結後も日米安保の為に国内にアメリカ軍を常時駐留させる事を認めた。
 アメリカ軍は、軍事戦略上から日本本土に軍事基地を確保して駐留できるのであればとして、態度を軟化させた。
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 台湾の国民党政府は、『反共抗俄掛図』(俄とはロシア)という地図を作製して中国領土を示した。
 中国領は、儒教中華思想華夷秩序を根拠として、清朝最大版図と朝鮮及び琉球などの属国をも含まれていた。
 中国共産党政府は、53年の教科書『現代中国簡史』に中国の潜在的領土を掲載した。
 中国の潜在的領土は、『反共抗俄掛図』より広く、北はロシア帝国に奪われた外モンゴル沿海州、シベリア、南はビルマ、タイ、マレーシア、インドネシアカンボジアなども含まれていた。
 領海は、北の渤海から南の南シナ海までが含まれていたが、当然の事ながら東シナ海の東半分と日本近海は省かれていた。
 日本は、アジアで唯一、属国としての定期朝貢と臣礼儀式を行わなかった蛮族として、何れの地図でも中国領土の外に置かれ、中華文明・文化圏には含まれてはいなかった。
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 バスター・ジャングル作戦。アメリカ国防総省ロスアラモス国立研究所は、ネバダ核実験場で6,500人の兵士を動員して核実験を行い、多くの被爆者を出した。
 同様の非人道作戦として、グリーンハウス作戦、レンジャー作戦、バスター・ジャングル作戦、タンブラー・スナッパー作戦が実施された。
 華北旱魃に襲われ、53年には被害が拡大した。淮河松花江などの河川が氾濫した。
 1月26日 来日中のアメリ使節団スタッフ会議。
 ダレス「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を獲得する。
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 2月2日 アメリカは、日米協力協定案を提示した。「日本領域内におけるアメリカ軍の駐屯を日本は要請し、合衆国は同意する」
 2月10日 昭和天皇とダレスの会見。ダレスは、講和条約成立への支援を要請した。
 昭和天皇は、「言わんとする事は十分に了解している」
 2月23日 日本共産党臨時中央指導部は第4回全国協議会で、極東コミンフォルムからの指示で武装闘争方針を決定した。
 過激派によるテロは、朝鮮戦争停戦協定調印される53年12月迄、日本全国で多発した。
 日本国民は、過激派によるテロで共産主義による変革に絶望して、雰囲気的な日本共産党支持者は左派社会党支持に移っていった。
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 春 ソ連は、日本赤化工作を行う為に、内務省(DVD)のシバエフ大佐を外務省顧問として日本に送り込み日本共産党を指導して
 シバエフ大佐は、4月30日の第二回統一地方選挙に介入し、5月1日のメーデーにおける全国デモを支援した。
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 4月11日 トルーマンは、マッカーサーが要請した原爆は、人命を虫ケラの様に無視する中国・共産主義者には効果はないと断念した。そして、反共産主義で徹底抗戦を主張するマッカーサーを停戦交渉に邪魔になるとして解任した。
 イギリスは、日本を野放しにする事に危機感を抱き、沖縄の主権放棄を含み厳しい和平条約草案を日米両政府に提案した。
 ワシントンの対日強硬派は、イギリス草案に同調した。
 吉田茂首相とダレス特使は、尖閣諸島を含む沖縄の潜在的主権を残す形での平和条件文を作成した。
 昭和天皇には政治的発言権が認められていなかった為に、沖縄が受けた苦難の歴史を思い国土の一部に留まれることを祈り、残った後に本土復帰まで辿るであろう茨の道を耐え忍んでくれるように祈るしかなかった。
 4月18日 ダレス、リッジウェイ、吉田の3者会談。
 吉田茂首相は、日米安全保障条約に署名する事を嫌って全権代表就任に拒否し、サンフランシスコ講和会議には前首相の幣原喜重郎参議院議長の佐藤尚武を代理として派遣しようとした。
 アレン・ダレスは、日本が国際連合国軍占領から独立して主権を回復する記念すべき国際会議に、日本の首相が出席しなければ今後の国際的立場が悪くなる忠告し、調印式への出席を促す私書を送った。
 だが、吉田首相は頑なに出席を拒否した。
 4月19日 吉田首相は、昭和天皇に拝謁し、全権団を率いる事に同意した。
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 6月26日 天皇メッセージは、当時の共産主義勢力による戦争拡大という国際情勢を正確に理解した上で為されたものである。
 敗戦国日本は、イデオロギー戦争の真っ只中で、国家存亡の危機にあった。
 占領下にあった日本で、日本を救い将来への道を切り開く事ができたのは昭和天皇しか存在しなかった。
 ゆえに。左翼・左派のマルクス主義者は、昭和天皇の戦争責任を追及し、日本の心棒でる天皇制度を崩壊させる事に躍起となっていた。
 いずれにせよ、昭和天皇が口頭で伝えた希望的提案のメッセージが日本を救った。
 反天皇派日本人は、日本を共産主義化できなかった逆恨みから、天皇メッセージは自分が助かりたい為に沖縄県民を犠牲にした悪辣な犯罪行為と非難した。
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 小泉信三「全面講和を主張する事は日本の独立に反対する事になるが、それでいいのか」
 東大の南原繁総長と左翼・左派の進歩派文化人達は、単独講和に反対する社会党の主張に同調し、岩波書店朝日新聞で全面講和運動を展開していた。
 アメリカ占領下で利益を得ていた者達も、日本が独立すると金儲けが出来ないとして単独講和に猛反対した。
 ソ連中国共産党は、日本が独立すると戦前の様な反共産主義国家として再建されると恐れて、独立させない為に全面講和派を影で支援した。
 学会、ソ連共産主義諸国が参加する全面講和が行われるまで独立は延期するべきであると主張した。
 マルクス主義色に染まった東大や各大学でも、学生達に、戦前の軍国主義を復活させる危険がある単独講和は避けるべきであると教えていた。
 7月7日 サンフランシスコ講和会議。
 7月12日 アレン・ダレスは、国務省の駐日政治顧問のウィリアム・シーボルトに警告の手紙を送った。
 「もし吉田がサンフランシスコに来なければ、連合諸国に苦々しい印象を与える事になるだろう」
 さらに、吉田本人に対しても催促の手紙を送った。
 「アメリカ側は、国務長官をはじめ超党派の有力メンバーを代表団に任命する」
 国内で。左翼・左派のマルクス主義者は、ソ連共産主義諸国が承認しないアメリカ・資本主義諸国だけの片面講和には猛反対していた。
 7月19日 昭和天皇は、連合軍による占領を終わらせ自主独立を回復させる為に、参内した吉田首相にサンフランシスコ行きを説得した。
 吉田首相は、講和会議出席を決めた。
 7月29日 参議院外務委員会。吉田首相は、日本の安全を駐留米軍に任せるという昭和天皇の意向に逆らって、「私は軍事基地は貸したくない」と答弁した。
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 8月 韓国政府は、アチソン国務長官宛てに日本に竹島を放棄させる様に要求する書簡を出した。
 ディーン・ラスク国務次官補は、「竹島は1905年以降、島根県の管轄下にあり、韓国から過去に領土権の主張はなされいない」と書面で回答した。
 世界各国の地図では、竹島は日本の領土とされている。
 アメリカ上院司法委員会国内治安小委員会は、カナダ国連代表のノーマンを「アジアの共産主義化を企てた共産主義者」と批判した。
 カナダ外務省は、ノーマンはソ連のスパイではないとして、ニュージーランド高等弁務官、エジプト大使に昇進させた。
 ノーマンは、1957年4月にカイロで自殺した。
 8月15日 吉田茂靖国神社を参拝したが、GHQはバチカンの忠告に従って黙認していた。
 アメリカ政府も、如何なる国も、日本の首相が靖国神社公式参拝する事を当然の事として反対しなかった。
 8月13日 中国共産党政府は、毛沢東主席の承認を得て「政務規定9月3日為抗日戦争勝利記念日通達」を行った。
 「毎年9月3日に、全国人民は、我が国の軍民による8年間の偉大なる抗日戦争、およびソ連軍の東北解放支援にもよる抗日戦争勝利、という光栄なる歴史を紀年する」
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 9月7日 サンフランシスコ講和条約に於ける吉田茂の演説「この条約は寛大なものではあるが、領土の処分では奄美黄島、琉球諸島、小笠原群島が国際連合信託統治下に置かれ、北方領土は一方的にソ連に占領されたままである。財産についても日本はこの条約によって全領土の45%をその資源と共に喪失し、莫大な在外資産を日本から取り去る。
 しかも戦争の為に何の損害も受けなかった国までが、日本人の個人財産を接収する権利が与えられる。
 しかし、日本は条約を受諾した以上は、誠意を以て、これが義務を履行せんとする決意である」
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 吉田茂首相は、受諾演説を英語で行う予定にしていたが、アチソン国務長官の助言と白洲次郎の進言で日本語で行った。
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 9月8日 サンフランシスコで平和条約が調印された。
 サンフランシスコ講和条約の正文は、英語、フランス語、スペイン語で書かれ、独立が求められた当事国の日本に対して日本語版は準正文扱いとされた。
 フィリピン代表は同条約に署名したが、フィリピン国会は80億ドル以上の賠償を求めて条約の批准を拒否した。
 フィリピンにおける日本人の死亡は、52万人であった。
 中国での日本人死亡は、71万人であった。
 フィリピン人の死亡は、総人口の16人に1人にあたる111万人と言われている。
 日本軍がマニラを非武装都市として撤退せず徹底抗戦した為に、マニラ市民10万人以上が日本軍の無謀な作戦に巻き込まれて犠牲となった。
 日本軍兵士は、撤退するにおいてフィリピン人を虐殺したといわれている。
 戦後。B級C級戦犯として、元日本人兵士17名が処刑された。
 フィリピンは、昭和天皇を戦犯として裁き処分する事を求めた。
 ロムロ元外相「人口に比してアジアで最も大なる惨禍を受けた国」
 ジョン・ロチャ「赦しの前提は悔恨だが、過去の真実にきちんと向き合おうとしない日本人、政治家は多い」
 ビルマとインドは、賠償支払いが曖昧であるとして会議を欠席した。
 インドネシア代表は、400万人の人的被害と数十億ドルの物的被害を公表した。
 ベトナムは、44〜45年にかけて、日本軍によって200万人が餓死に追い込まれたと訴えた。
 アメリカ軍は、条約第3条に基づき沖縄を含む南西諸島を信託統治した。
 尖閣諸島を日本領とし、射爆場として使用する事にした。
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 サンフランシスコ講和条約
 第一条 日本と連合国の戦争状態はこの条約の発効で終了する。
 第11条 東京裁判ですでに判決が下りている人は、刑期の継続を実行する、ただし、関係国が許せば免責される。
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 サンフランシスコ講和会議。国際法的に戦争状態が終結し、国際連合による占領期間が終了して日本の主権が回復した。
 ソ連中国共産党政府は、日本との戦争状態を継続し、サンフランシスコ条約に署名しなかった。
 日本の外務官僚は、サンフランシスコ条約調印後に吉田茂首相が行う受諾演説として英文の予定原稿を用意した。
 白洲次郎は、さもしい官僚根性を一喝して、原稿を日本文に替えさせた。「講和会議で、俺たちはようやく戦勝国と同等の立場になれるんだろう。その晴れのに日の演説原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿が何処の世界に居るんだ!」日本は独立し自主権を回復した以上は、日本人は日本人としての誇りを持ち、さもしい根性で戦勝国に機嫌をつかって英語で話さず、日本人として日本語で堂々とやれば良いじゃないか。
 吉田茂首相が読み上げたスピーチ原稿は、アメリカ代表団のウィリアム・J・シーボルトの事前チェックを受け、連合国に都合の悪い文言は全て削られ書き直しさせられていた。
 アメリカは、占領下の日本に名ばかりの講和条約で見せ掛けの独立を与えたが、本心は日本を半永久的に属国とする事であった。
 こうした宗主国と属国という日米関係は、公然の秘密とされ、口に出さなくても誰もが知っている事実であった。 
 現実的に、交戦権と武装の放棄を謳った日本国憲法アメリカによる懲罰的押しつけ憲法であり、片務的日米安保条約は日本はアメリカの保護監視下に置かれるという約束であった。
 占領下にあった日本は、表向きには自主独立を回復したように装いながら、本質的には自発的に隷属関係を受け入れた。
 矢部安治「日本の政治家がどんな公約をかかげ、選挙に勝利しようと、『どこかの別の場所』ですでに決まっている方針から外れるような政策は、いっさいおこなえない」
 「いま私たち普通の市民として見ているオモテの社会と、その背後に存在するウラの社会とが、かなり異なった世界だということ」(『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』)
 如何なる日米交渉においても、日本の主張が通ってアメリカから譲歩を勝ち取る事はなく、アメリカが許容する範囲で妥協して貰うだけである。 
 全ての案件で主導権を持っているのはアメリカであり、決断するのは日本ではなくアメリカである。
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 国務長官顧問のダレスは、領土不拡大の原則に従い、千島列島をソ連の領土とするヤルタ協定を拒否する旨を明言した。
 アメリカ上院は、ヤルタ協定を求めない事を条件にサンフランシスコ条約を批准した。
 日本は、千島列島の返還要求を放棄したが、北方領土は放棄しなかった。
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 日米安保条約交渉時。特使ダレスは、戦犯国家日本を守る事を嫌うトルーマン大統領に対して、「我々は勝者として駐留の権利を主張するが、日本防衛の義務は負わない」と伝えた。
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 東西冷戦によって、ヤルタ・ポツダム体制は崩壊しサンフランシスコ体制が始まり、ヤルタ合意とポツダム宣言は破棄された。
 西側陣営はサンフランシスコ体制を採用し、東側陣営はヤルタ・ポツダム体制を堅持した。
 日本の平和問題懇談会や日教組などを母胎とする護憲派市民団体は、日本の自主独立と再軍備を認めたサンフランシスコ体制を否定し、戦犯国・日本への懲罰と自衛力否定の再軍備阻止というヤルタ・ポツダム体制を肯定した。
 護憲派市民団体は、憲法第九条に基づく反戦平和運動としてヤルタ・ポツダム体制への回帰を求め、日米安保条約の破棄と自衛権行使を目的とした自衛隊の解体を主張した。
 ソ連中国共産党は、反米反サンフランシスコ体制として反天皇反日的日本人を支援した。
 学校教育に携わる反天皇反日的日本人は、平和的文化国家建設を隠れ蓑にして、冷静な総合判断できない視野狭窄の大衆インテリを増産して社会の第一線へと送り出し、思慮分別なき自己中心的価値観で古き良き日本らしさを徹底して破壊していった。
 ソ連と東欧社会主義諸国の解体で東西冷戦が終結するや、世界的なヤルタ・ポツダム体制は崩壊した。
 だが。中国共産党政府、北朝鮮、韓国、そして日本国内など極東世界では、以前としてヤルタ・ポツダム体制の残骸が残っている。
 日本領北方領土を武力で不法占拠しているロシアも、ヤルタ・ポツダム体制を根拠としている。
 日本国憲法とは、日本から自衛権を剥奪し、二度と自主独立国として立ち上がらせないという、ヤルタ・ポツダム体制の強い意志による日本封じ込めの鎖である。
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 アメリ国務省とGHQは、日本が独立した後に、日本が反米陣営に走って基地をソ連軍に貸す恐れがあると危惧し、日本を縛り付けるべく日米安保条約を日本側に押し付けた。
 アメリカは、日本の再軍備を認めたが、自主独立国としての軍事力ではなく、専守防衛としての自衛力であって、日本の周辺でアメリカ軍と共同作戦ができる攻撃的軍事力ではなかった。
 自衛隊は、アメリカ軍の下請け部隊として、兵站輸送路の確保及び兵站基地の警備といった後方支援戦力のみ充実に力を入れた。
 アメリカ軍は、後方基地である日本を守る事を約束した。
 日本は、個別自衛権として日本国内にあるアメリカ軍基地を守っていたが、集団的自衛権が規制されていた為に戦場から帰還してくるアメリカ軍が公海上で敵の攻撃を受けても助けには行けなかった。
 アメリカは、日本に国外でも戦えるような攻撃的戦闘能力を許す気はなかった。
 アメリカ軍の兵站基地を守る自衛隊を攻撃する事は、アメリカに対する戦争行為とされた。
 日本への攻撃を考える国は、日本国内にあるアメリカ軍の兵站基地を日本から取り除く必要があった。
 反日勢力が、日本国内で反アメリカ軍基地闘争を煽っているのはその為である。
 アメリカ軍基地があると攻撃される危険があるのではなく、アメリカ軍があるから攻撃されないのである。
 さらに重要なのは、アメリカ軍が安全に帰還できるようにする集団的自衛権を行使できるかであった。
 アメリカが占領憲法として日本に押しつけて第九条は、アメリカ支配から独立した自立国としての自衛権を制限したのであって、アメリカに協力する戦闘行為を禁止したわけではない。
 アメリカが書いた平和憲法の真の目的は、「アメリカに有利、日本に不利」であった。
 日本の護憲団体とは、アメリカの利益・国益の為に日本の利益・国益を抑制する団体である。 
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 セイロン(現スリランカ)代表ジャヤワルダナ蔵相「私は、前大戦中の色々な出来事を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者達の中には、最愛の祖国を解放される事を希望して、日本に協力した者がいたのである」
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 ディソン(フィリピン歴史研究家)「1941年12月8日に、私の目の前でアメリカ軍のクラーク飛行場が日本軍の爆撃によって破壊されたのは大きな驚きでした。……それよりも更に大きな衝撃だったのは、1942年にバターンの戦闘に敗れたアメリカ兵の捕虜達が両手を上げ、アメリカ兵よりずっと小さい体の日本兵に銃剣を突き付けられているところを見た時でした。私は直ぐにはその光景を信じる事が出来ませんでした。しかしこの時こそ、フィリピン人が民族主義に目覚めたとても重要な時だったと思います。フィリピン人は初めて、自分達アジア人が白人を打ち負かす事が出来るのだと言う事に気がつきました。私自身がそう感じ、周りの大人達もそういっているのを聞きました」
 日本軍は、白人と華僑・華人以外のアジア人に勇気と希望を与えた。
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*日本は、戦争犯罪国家として、アジア諸国と交戦国への賠償をおこなった。
 中国と韓国は、更なる不当な額の賠償金を幾度も要求し、日本が応じなければ裁判を起こして日本からむしり取る事を考えていた。
 日本は、誠意を持って好戦した全ての国に対して賠償を完了した。
・中国(国民政府) ‥ 2,000万ドル分の日本軍軍事施設。中国共産党政府は、独自に賠償を要求した。
 日本側は、返還請求権があるにもかかわず、満州や上海など中国に残した全ての資産を放棄して中国側に譲渡した。
 国民党政府が発表した犠牲者数は、438万人。
 1985年の抗日勝利40周年記念会での、公式発表は2,100万人。
 2000年 中国の公式発表は3,500万人で、日本とのトラブルが発生するたびに犠牲者数は増加している。
 日本は巨額な資金提供を行っても、中国は決して感謝しないどころかさらなるカネを要求した。
 儒教は、上位者は下位者から取るモノには感謝しない。
 中国人は、自分は世界優秀で日本人よりも格上にあると確信している。 
・韓国  ‥ 10年間に3億ドル無償供与、2億ドル借款、民間信用供与の3億ドル。
 日本が朝鮮半島に残してきた公的資産と民間資産の返還要求権を、放棄した。
 北朝鮮に対しては、賠償を拒否した。
 日本と韓国は、直接、戦った事はない。
 日本政府は、従軍慰安婦(20万人)と戦時労働(約200万人)の強制連行を認め、36年間の植民地支配時に実行した弾圧による犠牲者数十万人への謝罪を行った。
 日本からの資金で、韓国経済は急成長した。
 日本がなければ、現在の韓国経済は有り得なかった。
 韓国人は、儒教感覚から、日本人に対して対等での友好関係を持っているとは限らない。
ベトナム  ‥ 5年間に3,900万ドル、5年払い借款750万ドル、無償借款3,750万ドル。
ラオス  ‥ 2年間に277万7,777ドルの生産物と役務の無償供与。
カンボジア  ‥ 3年間に416万6,666ドルの生産物と役務の無償供与。
・タイ   ‥ 5年間に1,500万ドルの経済援助、8年間に2,666万666ドルの無償供与。
ビルマ  ‥ 12年間に2億㌦の生産物と役務の提供、1億4,000万ドルの無償供与。
・マレーシア  ‥ 816万6,675ドルの生産物と役務の無償供与。
シンガポール ‥ 816万5,575ドルの生産物と役務の無償供与。
 反日派華僑は、数万人の中国人ゲリラ(便衣隊)とその支援者が日本軍によって虐殺が起きたと証言した。
 ゲリラやスパイやテロリストの処刑が、戦争犯罪とされた。
・フィリピン  ‥ 20年間に5億ドルの生産物と役務の提供、2億5,000ドルの借款。…日本軍による住民虐殺を訴えた。
 キリノ大統領は、日本が要求を拒否した事への報復としてモンチンルパで日本人戦犯14名を処刑し、なおも拒否すればさらに処刑を行うと脅した。
 反日の急先鋒として、昭和天皇を戦犯として処分する事を要求していた。
インドネシア ‥ 12年間に2億2,308ドルの生産物と役務の提供、4億㌦の借款。
ミクロネシア ‥ 500万ドルの無償供与。
・インド  ‥ 900万ドル支払い。
・オランダ  ‥ 1,000万ドル。
 日本人元兵士を最も多く戦犯として処刑した。
 日本は東南アジア諸国に対して賠償を行ったが、その金は地元の再建資金として使われる事は少なく、大半が建設を受注したアメリカなどの欧米諸国の企業とその仲介をした地元の華僑・華人らの懐に消えた。
  ‥   ‥   ‥   
 敗戦国日本は、イタリア、トルコなど連合軍に参加した全ての国と地域に対して、復興途上で国家財政の苦しい中で戦争責任として、賠償もしくは謝罪を行った。
 戦争賠償には、日本軍と直接戦ったかは関係なかった。
 日本人は、世界一、すぐに罪を認めて謝罪する気弱な民族である。
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 占領時代において、占領軍兵士による傷害事件での被害者は3,012人で殺人事件の被害者は2,536人にのぼった。
 強姦や暴行などの事件は、全国で2万件とされているが、報復を恐れて泣き寝入りした者もいて実数は10人以上で、2,000人以上が殺害されたと言われている。
 料金の踏み倒しなどの不法行為に至っては、されに不明である。
 さらに、占領軍の示唆により、全国で連合国軍兵士向けて慰安婦1,000人以上を提供した。慰安婦になった女性は、商売女性はもちろん、戦争未亡人や戦災孤児とな少女らであった。彼女らの犠牲で、連合国兵士による性犯罪は激減した。左翼などの革新団体は、慰安婦にされた日本人女性を無視して、性犯罪を防止してくれた占領軍に感謝した。
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 9月15日 昭和天皇は、吉田茂首相から、サンフランシスコ講和条約の経過と条約の内容についての説明を聞いた。
 イギリス外務省文書9月20日付け「昨日、吉田首相と会った際、講和条約に対する天皇の態度が話題に上った。……天皇は条約内容が彼自身にとって予想以上に寛大だった事に同意した。一方で天皇は明治大帝の孫の時代に、海外の領土を全て失った事は大変な苦痛だと語った。吉田首相は天皇に、今更そんな事をこぼす時期ではないろ述べたという」
 昭和天皇は、GHQの占領から解放されて、国體、天皇制度、日本皇室の危機が去った事に安堵して、つい、敬愛し帝王学の手本としてきた明治天皇の偉業の証である海外領土を失った事への寂寥感と悔悟の念でつい本音が出てしまった。
 駐日イギリス代表部幹部は、昭和天皇の本意を吉田茂との会話で聞き出して、本国の外務省に報告した。
 吉田茂は、戦前の秘密主義体質が国際世論の誤解を招き、敵意を生み、戦争へと追い込まれた苦い経験を反省し、国際世論の理解を得る為にできうる限りオープンにする事に努めた。
 政治家としてやるべき事の、第一は国體(日本皇室、天皇制度)を守る事、第二は国家の再建、第三に国民生活の回復で、その為にはソ連中国共産党などの共産主義勢力の浸透を食い止める事であった。
 軍事力保持が憲法で禁止されている日本は、ソ連中国共産党政府の侵略から天皇と国土と国民を守る為には日米安保は必要不可欠であり、そしてイギリスとバチカンと強固な絆を築く必要があった。
 その為に、昭和天皇の本音をそれとなく、アメリカ、イギリスの2ヶ国とバチカンには知らせたが、それ以外の国には打ち明けなかった。
 とくに、ソ連中国共産党政府など反天皇反日共産主義勢力に漏れる事を警戒した。
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 10月 野坂や徳田ら一部の党員は、第五回全国協議会を開催して「日本共産党の当面の要求─新しい綱領」を採択した。現代の日本共産党は、平和路線をとる立場から、武装闘争を容認する決定を規約違反で正規のものではないと否定している。
「日本の解放と民主的変革を、平和な手段によって達成しうると考えるのは間違いである」「我々の軍事的目標は、労働者と農民のパルチザン部隊の総反抗と、これと結合した、労働者階級の武装蜂起によって、敵の兵力を打ち倒す事である」
 同決議は、非合法雑誌に掲載された。
 反天皇反日・反米を叫ぶ左翼・左派の学生及ぶ市民団体は、朝鮮戦争に出動する国連軍の後方を攪乱する様に各地で火炎ビン闘争を開始した。
 国民は、反天皇反日・反米を主張する共産主義勢力の人民戦争万能論や暴力革命唯一論に恐怖を感じ、武装闘争路線を採用した共産党への支持を捨てた。
 1949年の総選挙による日本共産党の得票数は298万4,000票であったが、52年の選挙による革新派の得票数は89万6,000票に激減した。その後も、都市部以外での得票数は減少し続け、支持者は生産現場に無縁な高度教育を受けた知的エリート層にとどまった。
 左翼・左派のマルクス主義者は、戦後の混乱と不安と不満が解消された結果と分析し、反天皇反日反米路線を武闘破壊から教育創世に大転換して、軍事方針を極左冒険主義と総括して完全否定した。
 国際派知的エリートは、戦前の祖国防衛教育を受けた軍国世代による共産主義革命を諦め、既存の権力に敵意を抱き体制の打倒を志す若い世代による社会変革を期待し、小中学校で反天皇反日の戦後平和教育に力を入れた。
 スターリン毛沢東も、判断能力のない子供を共産党への盲従的忠誠を誓う機械的革命闘士に仕立てる為に、イズム的偏狭教育に力を入れていた。それが、共産主義圏諸国で行われた純然科学による非人間的洗脳教育である。
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 吉田茂アメリカが日本から(軍隊を)引き上げると言い出すときが必ず来る、その時が日米の知恵比べだよ」
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 11月 シバエフ大佐に代わってコテルニコフ大佐が日本に来て、積極的対日工作を継続した。
 ウィーンで開催された第二回世界平和評議会は、朝鮮戦争でのアメリカ非難や日本再軍備反対を熱っぽく激論した。





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