🎻17:─1─世界各国の地図は、竹島と尖閣諸島と北方領土を日本の領土と明記した。中国共産党も、再三にわたり尖閣諸島を日本領であると認めた。1952年 ~No.62No.63No.64 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本政府は、昭和天皇の希望もあって、アジアで最初にイスラエルとの国交を結んだ。
 昭和天皇は、世界経済を支配しアメリカ政治に強力な影響力を持つユダヤ人との関係を重視していた。
 だが。ユダヤ人は、ヒトラーと同盟を組んだヒロヒトを殺したいほどに憎んでいた。
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 1952年 中国共産党は、日本国内で天皇制度を打倒して暴力的共産革命を実行する為に、日本共産党と連携して北京郊外に「馬列学院」を開設した。
 日本から密入国した日本人マルクス主義者と洗脳した日本軍兵士捕虜など1,500人以上に対して、共産革命教育を施した
 革命工作員となった彼らは、1958年から、日本に帰国して政界、官界、財界、学会、マスコミ、市民団体に潜り込んだ。
 中国共産党は、彼らに革命資金と武器を提供していた。
 在日米軍情報部は、中国共産党の魔の手が日本国内に広がりつつあるとして警戒した。
 3月20日 アメリカ上院は、サンフランシスコ講和条約の批准を承認し、次に北方領土等の日本領土を日本の了解もアメリカ議会の同意もなくソ連に引き渡す事を決めたヤルタ極東密約を否定する付帯決議を可決した。
 4月28日 対日平和条約発効。約7年に及んだ連合国の日本占領は終わった。
 だが、沖縄、尖閣諸島小笠原諸島、南西諸島はアメリカの施政下に置かれた。
 比嘉秀平「当時は日本に沖縄の潜在主権があるから、いつかは日本に帰れるという安心感があっあから、祖国の独立を喜ぶ事の方が大きかった」
 全国で、A級戦犯を含む全ての戦犯の放免及び釈放運動が沸き起こった。
 日本弁護士連合会は、「戦犯の放免勧告に関する意見書」を提出した。
 宗教界も、例外なく戦犯の放免と処刑された戦犯の慰霊を求めた。
 国民の草の根運動によって、総人口8,585万人中約4,000万人が賛成して署名した。
 戦犯の釈放は、東京裁判に代表者を送った各国政府の過半数が賛成すれば可能であると、サンフランシスコ対日講和条約第11条で定められていた。
 日本政府は、民意に従い、いらざる反感や誤解を招かないように、慎重に所定の正規な手続きに従い交渉を続けた。
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 5月 中国共産党は、日本国内に協力者を作り増やす為に多くの左翼・左派のマルクス主義者日本人を招いた。
 彼らは、国益を無視し、日本政府の中国訪問の中止依頼を無視して訪中し、帰国後は中国礼賛講演や毛沢東中国共産党を讃える書籍の出版を行った。
 政治家による最初の中国訪問団は帆足計、高良とみ、宮腰喜助らで、モスクワ経由で北京入りした。
 文化人や学者らの第一陣は、翌53年に訪中したロシア文学者の米川正夫であった。帰国後、中国共産党が期待した以上の内容の『目覚めた獅子』を出版した。
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 6月11日 昭和天皇は、朝鮮戦争と東西冷戦下で独立した日本はどう進むべきか情報得る為に、来日したイギリスのアレキサンダー防大臣を引見して意見を聞いた。
 イギリス外務省文書6月12日付け「天皇は王室の近況を尋ねた後、国際情勢について質問してきた。中国、ソ連マレー半島ベトナム、エジプトなどに関する天皇の問いに、我々は然るべき回答を行った。式部官長によると、天皇は国際情勢に非常な関心を抱いているが、現在の憲法下では政府から情報が入らず、自分の意見を言う事もできないという」
 昭和天皇は、軍部が天皇の権威を悪用し天皇の名戦争を拡大したという戦前の苦い経験から、二度と日本を誤った道に進まないようにする為に国際情勢の情報と意見を見識ある外国人要人から直に聞いた。
 最も警戒したのは、国体を破壊し天皇制度を打倒しようとする、中国共産党ソ連から共産主義が日本に浸透してくる事であった。
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 7月 スターリンは、クレムリン医師団陰謀事件をデッチ上げて国際的ユダヤ人医師数十人を公開処刑し、多くの関係者を非人道的拷問にかけて偽の自白を強要して、暗黒の人民裁判で処刑した。反ユダヤ政策として、200万人以上のユダヤ人をシベリアなどの流刑地に追放する事を決定し。ソ連領内から、ユダヤ色の一掃を命じた。共産主義者は、ユダヤ民族の歴史、宗教、文化、言語の破壊を徹底して行った。
 弾圧を逃れる道は、非ユダヤ人と混血化し、民族を捨てて同化を拒否するユダヤ人を、たとえそれが家族・身内であっても警察当局に密告する事であった。
 大陸は、曖昧を好む日本とは違って、白黒をはっきりとさて敗れた者を反逆社として容赦なく弾圧した。よって、大虐殺は珍しくなかった。
 ソビエト百科辞典「(シオニズムとは)反動体制……階級闘争を否定し、無産階級のあらゆる闘争からユダヤ人労働者大衆を離反させようとする」
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 10月2日(〜13日) 北京でアジア・太平洋地域平和会議が開催され、対日全面講和・朝鮮即時停戦などが決議され、アジア・太平洋地域平和連絡委員会(議長・宋慶齢)を設置した。
 日本から、社会心理学者の南博、部落解放活動家の松本浩一郎、マルクス主義者の西園寺公一らが参加していた。
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 11月 パール判事は、来日して広島を訪れた。
 原爆慰霊碑の内容を知るや、原爆を投下された日本が反省し謝罪している事に激怒した。
 パールは、思いを詩と残した。
 詩碑は、広島の本照寺、東京の靖国神社、京都の霊山護国寺にある。
 11月1日 中国共産党は、日本への謀略を続けるべく工作員を密航させる為に秘密基地を浙江省舟山群島に設置した。
 日本と大陸を隔てる海は、古代から国防の役に立ってはいないばかりか、日本を無防備にしていた。
 中国共産党は、好きな海岸から工作員を日本に上陸させていた。
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 1953年 アイゼンハワー大統領は、ルーズベルトスターリンに日本領の一部を与えるというヤルタ協定を含むあらゆる秘密協定を破棄する旨を言明した。
 極東コミンフォルムは、共産主義革命をアジアに広めるべく、北京に幾つかの人民学校や専門機関を設置して革命家の育成を行った。
 日本人マルクス主義者は、暴力的共産主義革命を日本で成功さ天皇制度を打倒する為に、中国に留学して、北京の教育機関共産主義革命を学んだ。
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 1月8日 中国共産党の中央機関紙・人民日報は、尖閣諸島魚釣島と呼び、同様に日本領沖縄群島の一部である事を認めた。 
 アメリカに対して、尖閣諸島先島諸島を含む琉球群島を日本に復帰させるように抗議した。
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 2月 長崎県平戸の海岸で、2,000丁の拳銃を密輸しようとした事件が発覚した。
 極東コミンフォルムは、日本国内でも武装蜂起を諦めてはいなかった。
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 3月 共産主義的膨張政策を推進していたスターリンが死亡した。共産主義者は、活動方針を転換した。
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 5月 出光興業の日章丸事件
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 6月 日本の皇太子明仁今上天皇)は、昭和天皇の名代でエリザベス女王戴冠式に出席した。
 イギリスの新聞各社は、泰緬鉄道建設における日本軍のイギリス人捕虜虐待を記事にして、訪英中の皇太子の目の前で昭和天皇の戦争責任を追及した。世論は、反日で沸騰した。
 日本軍の捕虜となって虐待を受けたイギリス人元兵士は、日本の裁判所に対して、日本政府と天皇を相手に戦後賠償を要求する裁判を起こした。日本の人権派は、彼らに協力した。
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 7月27日 板門店で休戦協定が調印された。
 北朝鮮では壮絶な権力闘争が起きて、金日成一族に逆らう者は家族もろともに虐殺された。
 例外なく共産主義政権下では、権力者同士の内紛が多発し、血に塗られた路線闘争がつきものであった。
 そこには、平和で、穏やかな生活は無かった。
 北朝鮮は、数百万人の自国の人民を犠牲にした。
 金日成「反乱が起きたら全部殺せ。餓死者は死なせておけばよい。私には2,100万人全員の朝鮮人民が必要なのではなく、100万人の党員がいればよい」
 アメリカの親ソ政策すよって、西欧諸国は海外の利権を全て失い、共産主義勢力は貧困諸国に蔓延した。原爆は、共産主義の蔓延を抑制する効果はなかった。
 現代では、旧宗主国はかっての植民地の住民を安い労働者として大量に受け入れた為に、仕事を奪われた国民は人種差別的移民反対運動を起こした。各地で移民者に対する暴行事件を引き起こして、治安は悪化し、社会秩序は崩壊した。
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 8月 昭和天皇は、吉田首相に対して、全ての戦犯を保釈するよう希望した。
 日本の国会は、全会一致で「戦犯受刑者の赦免に関する決議」を行い、戦犯遺族にも遺族年金が下りる様に「遺族援護法」を改正した。
 日本政府は、戦犯として処刑された全ての日本人の名誉を回復した。
 日本共産党と左翼・左派が、刑務所に収監されているA級戦犯とB・C級戦犯を釈放する事に、反対したかどうかは不明である。
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 9月 周恩来首相は、訪中した平和擁護日本委員会の太山郁夫会長に、「日本軍国主義の対外侵略の罪行は、中国人民や極東の各国人民に巨大な損害をもたらしただけでなく、さらに、日本の人民にも空前の災害をもたらしました」
 歴史の全般を知る日本の左翼・左派マルクス主義者は、日本を平和国家に改造する為に、善良な日本人と軍国主義者、国家主義者、民族主義者そして天皇信奉者を切り離して論ずる事を全面的に支持した。
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 1954年 哲学者柳田謙十郎は、中国訪問し、中国共産党に洗脳されて帰国して、『わが真実への旅』を出版した。
 「日本では共産主義と言って目の敵にしているが、大人も子供も男も女も皆こんなにも幸福になって暮らしているのに一体どこが悪いというのだろうか。共産主義の悪口をいい、共産主義を恐れている日本国民の方がどれだけ生活が苦しく不安定で不幸でいるかわからないではないか、真に世の中というものはおかしなものである」
 長江下流域で100年に1度の大洪水が発生したが、犠牲者数は甚大であったろうが不明である。
 中国共産党は、日本とは違って、被災地救済には消極的で、人口が多いだけに被災者が生きようが死のうが関心がなかった。 
 中国紅十字会代表李徳全は、人的交流促進の為に訪日した。
 その後、学会や業界の数多くの団体が来日して、日本側の指導者から市民まで多方面に渡って積極的に交流を深めた。
 友好交流の裏の実態は、中国共産党の対日謀略による情報収集と工作支援者の拡大であった。
 革新政治家や進歩派文化人の多くは、反体制を標榜していただけに知らず知らずに共産主義陣営の諜報網に組み込まれた。
 ジョン・フォスター・ダレスは、ベトナムの独立紛争に手を焼いているフランスに、原爆の提供を申し込んだ。
 ブラウン対教育委員会裁判。アメリカ連邦最高裁は、憲法の精神に基づき、公立学校での人種差別は違憲であるとの判決を下した。
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 中国共産党政府は、サラミ・スライシング戦略として、中印国境のインド領ジャンム・カシミール州のアクサイチン高原に多くの中国人を移住させて、時間を掛けて中国系住民を増やし、中国系住民の生命財産を守る為と称して62年に軍隊を派遣してアクサイチン高原を奪って中国領に編入した。
 さらに。06年頃から、アルナチャルプラデシュ州に大量の移民を送り込み、地元住民から土地を高額で購入して我が物の様に所有して入れいる。
 同様の中国人移住による領土拡大は、ベトナムラオスミャンマー、ロシアでの周辺諸国でも例外なく起きている。
 中華思想に於いて、古代から、中国人が住む土地は全て中国の土地と認識されていた。
 中国の領土拡大は、最初は平和的に中国人移民が温和しく入植し、多数派となった所で軍隊を派遣して軍事力で略奪した。
 中国人は、日本人とは違って、自分の痛みや苦しみのみにこだわり、他人と痛みや苦しみを共感する事は決してない。
 手に入れたいと思った相手の土地は、面子に賭けて如何なる手段を使っても奪い、そこに先祖代々すんでいた住民を奴隷とするか追い出すかあるいは皆殺しにした。
 中国の歴史とは、そうした歴史である。
 江戸時代までの日本は、漢籍などから中国の空恐ろしい実態を知っていたがゆえに、交易をしてもそれ以上の付き合いを避け、仏教僧や極一部の知識人以外の中国人を国内に受け入れようとはなかった。
 日本の平和は、中国を拒絶する事で得られていた。
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 3月 第五福竜丸事件。アメリカは、3月〜5月にかけてビキニ環礁で水爆実験を計6回行った。実験期間中、日本の漁船は延べ約1,000隻、乗務員約2万人が周辺海域で操業していた。
 吉田内閣は、アメリカとMSA協定を結ぶ。
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 7月1日 自衛隊の観閲式。
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 10月 遼寧人民出版社の台湾地図は、尖閣諸島を台湾の一部ではなく日本領としている。


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