🎵10:─1─樺太・北千島交換条約。西南戦争。琉球の先島群島支配。グラント元大統領の助言に従い琉球王国を沖縄県に編入した。1875年~No.20 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 明治新政府は、成人の定義として、勤労・納税・兵役の義務が発生する年齢を20歳と定めて、太政官布告を行った。
 成人した者に権利を与えるが、同時に責任と義務を要求した。
 国民として責任と義務を果たさない者には、成人としての権利を与えないと宣言した。
 成人でない者は子供であり大人の見識がない未熟者である以上、重要な判断が求められる政治に関与する事を一切許さなかった。
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 3000年前 先島群島は、台湾やポリネシア文化の影響を強く受けていたが、南九州の縄文人奄美・沖縄を経て移り住んだ。
 琉球王国とは、沖縄諸島慶良間諸島)を中心とした先島諸島八重山諸島宮古諸島尖閣諸島)と奄美群島を領土としていた。
 琉球王朝は、中華思想に基づく華夷秩序を採用し、奄美人を北夷、先島人を南夷と差別して重税を課していた。
 1500年に中山王は、八重山石垣島の叛乱討伐軍を派遣して鎮圧した。
 『球陽』「当島(八重山諸島)は、洪武年間、為五御本国轄地(管轄する土地)」
 当時。沖縄は三山時代の動乱期で統一王朝が成立していなかった為に、八重山諸島は臣下として朝貢を行ってはいなかった。
 八重山は洪武年間(明の年号。1368〜1398年)以来、御本国へ毎年入貢していた。ところがオヤケアカハチホンガワラ(遠弥計赤蜂と保武川の両人)は、傲慢で野心を抱き、老人を騙し幼き者を馬鹿にし、とうとう王家への謀叛を企て、3年の間、朝貢しなかった。琉球王府に忠実な宮古の島の仲宗根豊見親はアカハチに協力しなかったので、アカハチは宮古島を攻めようとした。この事が中山(沖縄本島尚真王)に聞こえたので、王は軍勢を派遣し、仲宗根豊見親に先導されて八重山を攻めた。アカハチも奮戦したが、官軍が勝利し、アカハチは捕らえられて誅された」
 琉球王朝は、中華世界を統治する中華皇帝の承認を得た正規の官軍であり、反逆者は琉球王はおろか中華皇帝に弓引く賊軍であった。
 これ以降。八重山群島は、琉球王朝の過酷な支配を受け、悪名高い人頭税という重税を課せられた。
 1535年に奄美大島で反乱。
 『中山世鑑』「嘉靖(明の年号)14年の頃より北夷の大島が反乱を起こしたと通報があった王(第二尚氏)は激怒して、……これを征伐しようと自ら3軍の大将 として五十余艘の大船を仕立て、同16年丁酉2月13日に出帆した。……逆徒達は一戦も交えずに皆頭を下げて降参してしまった。……意外に一戦にも及ばなかったことは、すなわち王の聖徳に感じてのことであろうか、『舜(中国の聖王)が宮廷で舞えば、苗民(西戎の祖先)も帰順した』故事と同じであると、群臣は万歳の寿ぎを奉った」
 琉球王朝首里城に造った「守礼門」は、李氏朝鮮王朝同様に宗主国・中華皇帝に対する「礼」であって、支配下八重山諸島奄美群島の島民に対してではなかった。
 李氏朝鮮王朝の小中華思想琉球王朝中華思想の違いは、属国・属領を持ち朝貢を受けていたかどうかである。
 李氏朝鮮王朝と琉球王朝との大きな違いは、李氏朝鮮王朝は文官優位・武官蔑視の武芸を嫌う文弱にあったのに対して、琉球王朝は空手や琉球武芸などが盛んな尚武の気風があった。
 琉球王国は、階級社会として、琉球の王族、貴族、士族(サムレー)、中国渡来人、庶民、八重山人、奄美大島人のピラミッドを形成していた。
 琉球王国を支配していたのは、中国皇帝の代理である中国人渡来人であった。
 琉球王朝の既得権層は、士族(サムレー)であった。
 中国人渡来人と有力士族(サムレー)は、中華帝国の士大夫・読書人階級として、中華帝国との朝貢貿易での利益と先島群島などからの上納金でわりかし裕福な生活を送っていた。
 後に。沖縄本島人である中国人渡来人や士族(サムレー)達は、既得権益を守る為に琉球処分に激しく抵抗し、愛国的救国運動として清国軍を沖縄に引き入れて日本を軍事力で追い出そうとした。
 現代の沖縄独立論を主張するウチナーンチュ(沖縄人)独立派は、中国と通じていた反日琉球人の流れを組んでいる。
 八重山諸島の島民達は、琉球王朝の過酷な支配から脱出する為に沖縄処分を歓迎し、アメリカや清国が提案した「沖縄の独立・先島群島を中国領」という「分島・増約案」に猛反対した。
 ウチナーンチュ独立派は、琉球の独立を守れるのなら差別する先島群島を中国に譲渡するのも厭わなかった。
 沖縄本島には、日本本土への嫌悪感と中国への親近感が残っている。
 八重山諸島は、その逆で、中国への拒否感と日本本土への憧憬が強い。
 読み書きできるのは王族や貴族そして中国系琉球人で、識字率は10%以下であった。
 90%の琉球人は、大半が農民で6公4民であった。
 江戸時代の日本の識字率は、男性は50%で、女性は25%であった。
 同じ頃のイギリスの識字率は、男性で25%で、女性で12%であった。
 琉球の文化は、朝鮮同様に中華文化の亜流としての宮廷文化であった。
 儒教的価値観から、非中国系琉球人は下層民として貧しい生活を強要され、中国系琉球人の為に使役されていた。
 アメリカは、北部太平洋海域を支配する為にハワイ王国と互恵条約を結ぶ。
 ハワイに居住するアメリカ人は、ハワイ王国アメリカに併合するべく陰謀をめぐらしていた。
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 1875(明治8)年 明治初期。大久保利通など下級武士出身の政府高官らは、借金苦が如何に人を卑屈にするかを骨身で知っているだけに、如何に苦しくとも外国借款への依存を強める事に反対した。
 新政府は、国家存亡の危機をはらむ外債募集には消極的であったが、安定した税収を持たなかった為に2度外債を募集した。  
 国家歳出約6,900万円の時代に、1,488万円の外債の償還は財政を圧迫していた。大久保利通内務卿と大隈重信大蔵卿は、連名で外債償却に関する建白書を提出した。
 大久保内務卿は、国内重視の殖産興業政策を推進するために内務省内に勧業寮を設置し、民族資本の保護育成の為に官主導で政府貿易を強引に行った。
 国家はもちろん日本製品自体の対外信用度が低かった為に、日本産業の経済競争力はなかった。
 国家発展に欠かせない外貨を獲得する為に、海外市場で販売できる国産品を官主導で選び出して輸出した。
 海上輸送を欧米系商船会社に頼っていた為に、輸出量を増やしても法外な運搬費を請求されて収入は激減していた。
 貿易立国として発展する為にも海運振興は欠かせないとして、日本郵船や三菱商船に競争力を付けさせるべく強権的な保護政策を行った。
 日本は、国際競争力を持った貿易立国になる為に、官民総出で取り組んだ。
 この時から日本は官僚専制国家となり、在野の民権派は官僚政治打倒の為に政党を結成して反官僚運動を展開した。
 民権派無政府主義者は、諸悪の根源を日本国皇帝明治天皇にあるとして暗殺を企てた。
 三条実美太政大臣は、琉球を早期に近代化する為に、東京府内で販売されている新聞や雑誌を国費で琉球に送った。
 1月 明治政府は、琉球藩官吏・池城親方、与那覇ら親方、幸地親雲上など10名を東京に召請して今後の琉球方策を通達した。
 1、藩主は謝恩の為に上京する事。
 2、清国年号を廃して明治年号を使用する事。
 廃藩置県布告に基づき、日本が定めた祝祭日を実施し、清国の祭日を採用しない事。
 3、琉球王朝時代の法律を廃止し、日本の近代法令を適用させる事。
 4、藩内行政機構を、儒教的中国風から近代的日本式に改革する亊。
 5、留学生10余名を内地に派遣する事。
 親中派の上流階層と頑固党の中国からの渡来人の子孫である久米36姓は、琉球を清国に合併させるべく清国に救援を要請した。
 親日派開化党の下層民は、琉球の近代化には、同じ海洋民の祖先を持ち言語や文化や宗教の下層で繋がりの深い日本への帰属を希望した。
 中華世界の酷薄をする者は、人間重視の日本と人間軽視の清国の狭間で不安定に独立を保つよりも、むしろ日本に吸収してもらい日本の一部として生きる事こそ幸せであると確信していた。
 国際情勢に明るい者は、巨大国の清国の報恩を忘れて弱小国の日本に走る事は琉球の滅亡につながると憂慮して、琉球と中国の架け橋になるべく奔走していた。
 3月 大久保利通内務卿は、与那原と池城両親方に、清国との関係を含む国際情勢を説明し、琉球を日本領土として近代化する事こそ最善であると説明し、琉球藩を外国の侵略から防衛する為に兵営を設置すると通達した。
 事実上の、首里城明け渡し要求であった。
 日本は、清国が琉球を領有の為に軍隊を派遣してくる事を恐れていた。
 4月8日 与那原と池城は、琉球を中国領にしようとする支那党の圧力に押されて、国防目的の兵営設置案を拒否した。
 琉球王府は、藩主・尚泰王は病気であると嘘の報告を行い、王弟・尚弼を台湾事件解決の謝恩使として東京に送った。
 実力者・大久保利通内務卿の面子は潰れた。
 5月 樺太・千島交換条約
 樺太アイヌ(エンチゥ)は、日本に見捨てられた。
 日本は、ロシア帝国の侵略に備える為に、北海道の開発と防衛強化を急いだ。
 ロシア領となった樺太では、人種差別主義者ロシア人の恐怖統治で貧困に追い込まれ餓死や凍死などで、樺太アイヌ人の人口は半減したといわれている。
 樺太アイヌは、ロシア人の奴隷として生き残る事が許された。
 西太后は、同治帝の後を継いだが光緒帝が幼かった為に東太后と共に摂政となった。世にいう垂簾政治の始まりである。
 日本政府は、琉球を自国領とするべく、琉球王朝に対して清国との朝貢冊封関係の廃止を命じ、琉球の困惑を無視して琉球藩とする事を強要した。
 清国政府は、国内体制の引き締めに力を入れていて、対日問題どころではなかった
 7月 大久保利通内務卿は、怒りを静め、琉球問題を冷静に処理するべく松田道之内務大丞を説得の為に派遣した。
 だが。支那党は、尚泰王は病気であるとして松田と直接面談させず、尚弼に代聴させて取り次いだ。
 明治政府を代表してきている松田内務大丞は、面目を失った。
 久米村の中国系琉球人は、松田大丞に対して、清国への朝貢使派遣と清国年号使用継続を陳情した。
 朝貢は臣下として冊封を受けるためで有り、中国式年号使用は中国の法に従う証しである以上、それを認める事は清国の琉球統治権を承認する事になる。
 如何に琉球人がそれを望んでも、日本は国防上の理由から認めるわけには行かなかった。
 琉球が日本にとって海上輸送網の要衝である、清国が琉球を領土とする事は日本の生命線を握られる事を意味する。
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 1876年 大久保利通内務卿らは、国内の不平士族の反乱への対応で忙殺され琉球問題どころではなかった。
 アメリカは、小笠原諸島の領有を諦め、日本領とすることに同意した。 
 日朝修好条規の締結。
 5月10日 藩主・尚泰王は、清国皇帝への忠誠と日本国とも良好関係を維持べく、与那原と富川両親方を上京させた。
 5月28日 大久保利通内務卿は、琉球が求める現状維持の要請を拒絶し、予告通りに熊本鎮台分遣隊2個中隊を那覇に派遣した。 
 その結果。九州の不平士族への抑えが弱体化した。
 10月24日・25日 神風連の乱
 10月27日〜11月14日 宮崎車之助の秋月の乱
 10月28日〜12月8日 前原一誠萩の乱
 10月29日 思案橋事件。
 萩の乱の発生を電文で知った永岡久茂ら旧会津藩士他14名は、東京・思案橋から千葉に向けて出航しようとしていた所を検挙された。
 12月 支那党は、日本国内の内乱を好機と捉え、幸地親方朝常を密使として清国に送り軍隊の派遣を要請した。
 だが、清国は動かなかった。
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 1877年 江藤淳「官軍側の戦備と軍資は圧倒的であり、最初から薩軍に歯の立つ余地はまったくなかった。西郷は、その事実に思いを致さなかったのか、いや、思いを致しはしたが、にもかかわず立たなければならぬと思ったのか」(『南洲残影』)
 2月 西南戦争西郷隆盛(西郷神社)は、道義を捨て、西洋を賛美した欧化政策は亡国の道であるとの危機感から、命を投げ出して政府に反省を促す為に反乱を起こしたが、志を遂げる事なく敗死した。
 明治政府は、戦争を行う為に、財政能力を無視して4,000万円以上の不換紙幣を増発した。
 市場に流通する紙幣の急増で通貨価値は下落し、軍需優先で生活物資を徴用した為に物価高騰を招いた。
 財政を健全化するべく貧しい者からも税収を取り立てた為に、各地で租税反対運動が多発した。
 民権派は、政府打倒の為に租税反対運動を指導して社会不安を煽った。
 政府軍・西郷軍両軍合わせての死傷者は、約3万5,000人にすぎない。
 清国は、日本が内戦で混乱しているのを好機ととらえて、属国・琉球から締め出された事に抗議するべく日本に公使を送った。
 日本政府は、琉球の一部である宮古島が日本領である以上は琉球も日本領であるとして、清国の抗議を拒絶した。
 清国としては、宮古島を日本領と認めた手前、琉球統治権を認めても領有権は認めないという面子で引き下がった。
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 中国の福建省南東部の港湾都市アモイでコレラが発生し、1,000人以上が死亡した。
 日本政府は、国内にコレラを入れない為に、異国船が入港するか横浜港などで防疫体制を敷き、外国船や外国人への検疫を実施しようとした。
 アメリカは日本の水際での予防措置を受け入れたが、イギリスなど大半の国は自国民の治療を日本で行う為に拒否した。
 パークス「イギリス臣民は、イギリスの法に従うのみ」
 西洋諸国は、治外法権を理由にして、感染地である中国から非難してきた自国民を横浜や神戸などに無条件で上陸させた為に、コレラも日本に上陸した。
 日本政府は、不平等条約に妨げられて、コレラが発生している横浜や神戸などを隔離できなかった為に、コレラは日本全国に蔓延した。
 12万2,353人がコレラに感染し、6,817人が死亡した。
 日本人の衛生観念の高さから、コレラ騒ぎは下火となった。
 感染地帯の中国から避難してくる外国人がいる以上は、何時、またコレラが日本に流行する恐れがあった。
 5月17日 アメリカ元大統領グラント将軍は、東回りで世界一周の歴訪の旅に向かうために、蒸気戦艦インディアナ号に乗船してフィラデルフィア港を出港した
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 8月 大久保利通は、国内産業を保護し、国内市場を成熟をさせる為に、外国製品の出展を断り国内製品だけを展示する第一回内国勧業博覧会を東京・上野で開催した。
 国家は、脆弱な民間資本では殖産興業は進まないとして、官誘導奨励の積極的経済振興政策を打ち出した。
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 1878年 支那党は、清国からの援軍を期待して、浄土真宗門徒373名を捕縛して、数名の僧侶を処刑するなど、日本仏教への宗教弾圧を行った。
 ロシア軍は、バルカン半島を侵略して、オスマン帝国軍を破り、セルビア/モンテネグロ保護国とした。
 ロシア帝国は、領土を広げる為の侵略戦争を繰り返し、日本や中国や朝鮮にも侵略の手を伸ばし始めていた。
 5月14日 大久保利通内務卿が暗殺された。
 7月25日 日本は、アメリカとの間で、不平等条約を結んだ西洋諸国の合意が得られる事を条件として関税自主権に関する条約を結んだ。吉田・エヴァーツ条約。
 イギリスなどの反対で、同条約は施行されなかった。
 8月23日 竹橋事件。竹橋付近に駐屯していた近衛兵部隊は、兵役制度や西南戦争の行賞に対する不満から武装反乱事件を起こした。
 伊藤博文は、憲法を創るに当たって、軍隊が叛乱を起こす恐れがある事を懸念した。
 そして。人徳なき野心家が政治家となって政府を支配し、私利私欲で軍隊を使って国益を私物化する事は国家の滅亡につながると警戒した。
 日本を簒奪者から救う為には、超法規的に、軍隊を政府から切り離して天皇の直属機関と定めるのが理想と判断した。
 此処に「天皇統帥権」と言う発想が生まれた。
 軍隊に命令を出せるのは、大元帥である天皇のみとなった。
 日本は、伝統的に強いリーダーシップを持った独裁者の出現を警戒し、政府と軍隊の重しとして神聖不可侵の神の裔・天皇を置いた。
 祭祀王・天皇に、政治的責任が及ばないように、恣意的に権力を行使できないように憲法で権限を拘束した。
 実際に軍隊をコントロールしたのは政府であるが、その政府の予算審議決定する権限を有していたのは帝国議会であった。
 帝国議会が暴走しないように、国民から選ばれる衆議院貴族院の二院制とした。
 そして帝国議会を監督する為に、合議機関として枢密院を設置した。
 明治維新の元老達が、政府や軍隊に睨みをきかせていた。
 元老の他には、首相経験者の重臣が控えていた。
 政府決定に対する幾重にも設けられた合議機関で、国家を運営していた。
 大日本帝国憲法は、合議の上にも合議を重ねるという無責任なシビリアン・コントロールであった。
 そには、責任者が存在しない。
 10月 在京の清国公使・何如璋は、大久保利通内務卿がいなくなった事で日本への恫喝が可能と判断して、琉球問題に関して無礼な行為があるという抗議書簡を寺島宗則外務卿に送った。
 「琉球は独立国であって、旧体制を存続させ、かつ、清国への朝貢を認めるように」
 寺島外務卿は、上位者として日本を見下す清国の文言に激怒し、小国とはいえ自主独立国の名誉と明治天皇の尊厳を守る為に「無礼」という表現の撤回を迫った。
 だが。内容に不満があっいても外交書簡である以上は、外交儀礼に従って受理した。
 日本は国際法を遵守し、現代の韓国のように国書を郵便局で送り返し様な非礼はしなかった。
 12月 在京の与那原と富川両親方は、対琉球強硬派の大久保利通内務卿が暗殺された事で日本の琉球政策が変更されると考え、在京のイギリス・アメリカ・オランダ格公使に「現状維持」への支援を要請した。
 日本政府は、対清国戦略から一歩も引く事はできないとして、これ以上の譲歩は不可能でると判断し、琉球に滞在する全ての使節に帰国を命じた。
 一種の最後通告に等しかったが、清国と戦争するほどの軍事力も国力もなかった為に、琉球に対する恫喝でしかなかった。
 清国は、遊牧民満州族征服王朝であるせいか、陸地には関心があったが、海上には興味が無かった。
 つまり、陸続きの朝鮮やベトナムに対しては軍事力を行使しても、海の向こうの琉球に軍隊を派遣するか気はなかった。
 琉球王府は、清国から見捨てられたにもかかわらず、清国と日本への伝統的両従体制の維持を求めた嘆願を繰り返すばかりであった。
 日本政府は、沖縄政策案を可決し、廃藩置県強行を決定した。
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 1879(明治12)年 福島安正は、清国事情として支那人に関する報告書『隣邦兵備論』を提出した。
 「清国の一大弱点は、公然たる賄賂の横行であり、これが百害の根源をなしている。しかし、清国人はそれを少しも反省していない。上は皇帝、大臣より、下は一兵卒まで、官品の横領、横流しを平然と行い、贈収賄をやらない者は一人もいない。
 これは清国のみならず太古より変わらない歴代支那の不治の病である。このような国は、日本が共に手を取ってゆける相手ではありえない」
 1月26日 松田道之内務大書記官は、処分官として琉球に赴き藩王代理の尚弼に首里城明け渡しを要求した。
 琉球王府は、拒否した。
 3月 四国でコレラが発生し、神戸や大阪でも感染者が続出した。
 日本政府は、中国からコレラが入り込むのを防ぐ為に「コレラ病予防仮規則」を公布した。
 日本で蔓延する疫病の大半が、中国からのもたであった。
 中国人は昔から公衆衛生がない為に、世界で大流行した死亡率の高い疫病のほとんどが中国が発生源となっていた。
 日本は、中国発の疫病による最大の被害者であった。
 日本政府は、このまま琉球の振る舞いを放置しては、欧米列強が乗り出して植民地としなくとも保護領とする恐れが出始めた為に、強硬手段に出る事に決した。
 李鴻章は、最終的に琉球王国を清国領に組み込む為に、沖縄諸島三分割案を提示した。
 1、宮古島石垣島は清国領。
 2,沖縄本島琉球王国として独立させる。
 3,奄美以北は日本領とする。
 清国は、本気で琉球を独立させる意思はなかった。
 日本は、世界への航路を確保する為に琉球を自国領に必要があった。
 日本政府は、琉球は国土の一部であるとし、琉球の領有を守る為ならば清国との戦争も辞さないという覚悟で毅然と主権を主張した。
 3月27日 松田道之は、随員官吏32名、警官160名、陸軍兵士400名以上を従え、武力的威圧の以て廃藩置県を通達し首里城明け渡しを命じた。
 琉球王府は、抵抗せずすんなりと首里城を明け渡した。
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 4月 第二回琉球処分。明治政府は、数百年間、中国の属国として朝貢貿易を行っていた琉球王国琉球藩沖縄県として正式な日本領土とした。
 日本政府は、廃藩置県を断行して、沖縄藩を廃止して沖縄県を設置した。
 儒教的教養人である親中国派琉球人は、日本への帰属に反対を表明し、中国への編入を希望して清国に救援を求めた。
 清国は、琉球の宗主権を主張して、日本の横暴に抗議した。
 日本は、沖縄を日本領として守る為に軍隊を派遣した。
 琉球は、日本領となり中国領にならなかっただけに、中国の内戦に巻き込まれ生き地獄を味わう事がなかった。
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 琉球は、歴史的に日本の固有の領土ではなく、歴代王朝は日本ではなく中国の影響下にあった。当然、琉球人は日本民族の一員ではなかった。
 本土人=日本人の、沖縄県民=琉球人への軽蔑と差別の元凶はここににある。
 琉球人の一部は、本土人=日本人の横暴から反日として宗主国中国への併合を希望して、地下抵抗運動を行っていた。   
 清国は、アジアの平和と安定を保証する王者として日本の横暴に激怒し、懲罰戦を計画して対日戦用の北洋艦隊の充実を急いだ。
 清国は、アジアでは最強の軍事力を保持する植民地帝国であった。
 当時の日本には、仮想敵国中国に対抗するだけの軍事力はなかった。
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 4月4日 琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ、初代沖縄県令として宮内省御用掛の旧佐賀藩主・鍋島直彬が起用された。
 王統の支配は終わった。
 5月 日本政府は、あらためて旧琉球尚泰の上京を命じた。
 支那党は、病気を理由にして上京を拒否した。
 内務省は、医師を派遣して健康状態を調べて上京を再度命じた。
 5月27日 尚泰王は、随員100余名と共に上京して、明治天皇に拝謁した。
 明治天皇は、尚泰王らを篤く歓待した。
 琉球の王族は、日本の華族とされた。
 しかし、琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。
 外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の領有権が確定した。
 現代中国の中国国防大学戦略研究所長の金一南少将は「尖閣諸島の領有問題や東シナ海のガス田開発に絡めて、琉球処分そのものが無効であって、琉球は中国の領土である」と主張した。
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 6月21日 アメリカ元大統領グラントは、世界歴訪の旅の途中で日本に立ち寄り、乗船するリッチモンド号は長崎港に入港した。
 グラントは、日本を訪問するに清国に立ち寄り、共親王李鴻章などの要人と会談した。 清国政府は、太平天国の乱で荒廃した国内の立て直しと軍隊の近代化に専念したい為に、日本と外交問題となっている琉球帰属問題に対しての仲裁を依頼した。
 大国清国の保守層は、曖昧を好む小国日本とは違って2000年の重みを持つ儒教価値観で凝り固まり、蛮族の西洋を好まず近代化に猛反対していた。
 中国帝国の2000年来の属国であった朝鮮も同様に、儒教価値観からキリスト教価値観による近代化への変革を嫌い、西欧化した日本を自立心が欠如した信念なき未開人と軽蔑していた。
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 7月 中国系琉球人である蔡大鼎は、北洋軍閥として海軍力を強化しつつある李鴻章に救援を依頼した。
 清国総理の李鴻章は、朝鮮問題で日本との対立を強めていた。
 7月3日 グラント元大統領が乗船するリッチモンド号は、砲艦アシュロット号とモノンガヒラ号を従えて横浜港に入港した。
 寺島宗則外務卿は、水際での防疫には諸外国の協力は欠かせないとして、各国公使にその旨を伝えた。
 各国公使は、日本側の申し込みを受け入れて協力を約束した。
 7月4日午後1時半 アメリカ独立103年目の記念日。明治天皇は、グラント夫妻とビンガム公使、随行艦艦長3名、ジョン・ヤング記者ら一行と謁見した。
 「私達が迎え入れられた部屋は、実に質素であった。天井は木製。壁には自然の風景が描かれ、品の良い調度品が少しばかり置かれているだけった。そこには、何処の宮廷でも感じられた虚栄の欠片も見出せなかった」
 「皇帝はまだ青年だった。細身ですらっとした身体で、背丈は一般の日本人よりも高かったが、我々の感覚からすれば平均的な背の高さだった。彼の口元はハプスブルグ家の血統を感じさせた」
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 8月10日 明治天皇は、グラント元大統領と私的に歓談し、国家を指導する者として国内外問題について意見を聞いた。
 グラント元大統領は、リンカーン大統領が南北戦争で示した強力な中央集権的政府と国内産業育成のアメリカ型保護経済こそが、発展途上の前近代的国家日本には相応しいと考えていた。
 発展途上にある日本では、民主主義的民度が成熟するまで、予算や政策に関して議会に強い立法権限を与えず、行政府である政府が不退転の決意の下で国家を指導すべきであると話した。
 琉球の帰属問題に関しては、戦争よりも話し合いで平和的に解決すべきであるが、「漁夫の利」を狙っている西欧列強の介入を警戒すべきであると忠告した。
 外国からの借金である、西欧諸国政府からの紐付き借款や国際金融資本の条件付き投資は、帝国主義時代においては国家財政どころか国家そのものの存続すら危うくすると警告した。
 その実例として、スエズ運河建設における多額の借款を受けたエジプトの政情不安や国内混乱を話した。
 7月11日 ドイツの蒸気船ヘスペリア号が、中国から横浜港に入港したが、日本との約束に従って避病港に指定された長浦港(横須賀)に碇泊した。
 ドイツ領事館は、日本との約束に従って、隔離されたヘスペリア号の感染者の有無を調べる為に軍医を派遣した。
 ドイツ領事館は、ドイツ乗船客が一刻も早い上陸を希望した為に、診察を簡略化し、同船の隔離処置解除と横浜港への回航を要求した。
 ドイツ側は、日本側の正式回答を待たず、日本海軍に妨害されない様にするべく戦艦ウルフ号を護衛に派遣し、ヘスペリア号を横浜に入港させ、乗船客を上陸させた。
 イギリスのパークス公使は、特権的領事裁量権を拡大解釈して、ドイツ領事の決定を指示した。
 日本政府は、不平等条約に縛られながらも文書や口頭で抗議を繰り返したが、すべたが徒労に終わった。 
 当然の結果としてコレラが大発生し、全国で16万2,637人が感染し、10万5,786人が病死した。
 グラント元大統領は、ドイツ帝国の行為は自主独立国家の主権を踏みにじる国際法無視の不法行為で、ドイツ戦艦が撃沈されても文句は言えないと語った。
 日本は、非常な国際外交で、自主独立国家としての権利を獲得する為絶望的苦闘を繰り返していた。
 9月3日 グラント元大統領一行は、サンフランシスコに向け横浜港を出港した。
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 井上馨外相「西暦700年代より南島の朝貢を受け、日本が之を管治した。琉球国王は日本の後胤(こういん)である。明や清との朝貢冊封は虚礼だった」
 日本は、北は千島列島・北方領土から南は沖縄・先島諸島までを日本領で有り、アイヌ琉球人も全て日本人であると認めさせた。
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 1880年 山県有朋参謀本部長は、清国の軍備強化やロシア帝国と清国のイリ紛争などの東アジアの緊迫した情勢を踏まえて、明治天皇に対して海岸防衛の必要性を説く意見書を上奏した。
 「兵備がなくば国家の独立は叶わない、条約や万国公法があるといっても、それは強者に対しては大義名分を与え、弱者に対しては同情を買う為の口実を与えるものに過ぎない」
 日本は、琉球の帰属を定めた日清協約を提案したが、清国は承認しても調印を拒否した。
 清国は、アヘン戦争アロー号事件などで言われるままに条約や協定に調印して失敗して経験から、調印すると琉球を失うと恐れて調印を拒絶したのである。 
 アメリカで鉄道大建設時代。独占的企業が財閥へと成長し始める。黒人差別の再強化。中国人の苦力の移住が急増して、社会問題化した。
 3月 李鴻章は、中国系琉球人の訴えを受け、琉球を清国領とするべく世界一周の旅を続ける前アメリカ大統領ユリシーズ・S・グラントに仲介を要請して、日本側に琉球三分割案を提案した。
 日本政府は、沖縄をめぐって清国と戦うだけの軍事力がない為に、沖縄から宮古八重山群島を割譲して清国領とする見返りに列強並みの最恵国待遇を要求した。世にいう、「三分割案」である。
 8月 アメリカ前大統領グラント将軍が来日し、明治天皇に謁見して、南北戦争勝利の個人的体験から近代的自主独立国家の要諦を説明した。   
 第一に、外国の借款を受けて債務国になると、債権国の理不尽な内政干渉を受ける危険がある事。安定した国家運営を行うなら、外債への依存を最小限に食い止め、必要な資金は内国債で調達すべき事。無計画な外債の発行は、亡国の道であると。
 第二に、代議政治は、国民教育が充分に普及するまで待つ事。国民が国民として国家への責任と義務を自覚して成熟する前に、見様見真似で民主的議会制を導入する事は有害である。
 第三に、軍隊の統帥権は、国家の存亡に関係する最重要な大権であるだけに、議会の決定に左右されない天皇が掌握する事。兵馬の権は、党利党略で分別無き衆愚政治に陥りやすい無責任な議会に与えてはならない。
 グラント前大統領は、欧州列強の狡猾な外交に用心し、金融支配を目論んでいる国際金融資本に警戒する様に忠告した。
 貪欲な欧州列強の植民地戦略は、アジアの諸勢力を利用して憎悪を掻き立て、内紛を拡大させ、流血の混乱の中で死の恐怖によりアジア諸民族を奴隷化する事である、と。  
 明治天皇は、忠告に従い、国家に不利益をもたらす危険のある外債募集を自粛する様に希望した。
 明治政府は、明治天皇の示唆に従って、如何に財政が困窮しても、安易に国際金融市場に対して外債の引受を要請しなかった。
 国家整備の資金を国外に求めなかったかわりに、重税を課した為に生活苦に喘ぐ庶民は民権派を支持して新税反対運動を始めた。
 日本の植民地化に失敗した欧米列強は、日本と清国を戦わせる為に台湾問題や琉球帰属問題等で両国の対立関係を煽り、戦争への危機を演出する事で両国に大量の武器を売った。
 国際金融資本も、支配する新聞雑誌を利用して、両国の戦争は不可避とする国際世論を醸しだし、両国政府に戦費を外債で調達する様に助言を強めた。清国は、その誘いに乗った。
 11月20日 琉球王府官吏・林成功は、清国に琉球王国復古を直接訴える為に北京に向かう途中の天津で琉球列島三分割案が成立したとの情報をえ、北京に到着するや日本を呪って自決した。
 辞世の句「一死なお社稷の存するを期す」
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 1881(明治14)年 明治政府は、西南戦争における戦費調達の為に4,000万円以上の不換紙幣を増発した。
 この結果、通貨価値の下落と物価高騰が発生して、日本は激しいインフレに襲われていた。大隈重信大蔵卿は、インフレ対策として、外貨を稼ぐ為に輸出を促進するべく国内産業の保護奨励策を行い、正貨不足解消する為に5,000万円に上る大規模な外債募集を提案した。
 松方正義内務卿ら外債導入消極派は、外債を積極的に導入しようとする大隈案に反対し、政変を起こして大隈大蔵卿を解任した。
 松方内務卿は、大蔵卿を兼任してインフレを克服する為に強権的緊縮財政を行った。
 明治政府は、首都・東京を敵国軍艦の攻撃から守る為に「東京湾海防計画」を立案し、浦賀水道に大砲を備えた要塞島を3つ造る事にした。
 第1海堡、千葉県富津岬沖、明治14年に起工し明治23年に完成。
 第2海堡、第1海堡の先水路の中央、明治22年に起工し大正3年に完成。
 第3海堡、横須賀市観音崎沖、明治25年に起工し大正10年に完成。
 首都が攻撃される時は、戦争は敗北を意味した。
 戦争に敗北しても、首都を最後の最後まで守るが独立国家における国防の常識であった。
 日本全国が敵の侵略で占領されても首都と国家元首を守り通す、如何なる犠牲を払っても死守する、それが国民に課せられた最重要任務であった。
 2月 日本政府は、沖縄問題の解決目途かたたいなかったが、欧米列強の干渉を恐れて、旧琉球尚泰に40万石相当の大大名格としての家禄を与えて優遇した。
 同時に。琉球士族にもそれ相当の待遇を与えて懐柔を図った。
 支那党を親中国派琉球人は、既得権を守る為に猛反対し、日本側の施政を妨害した。
 日本政府は、清国側の支配が広がるのを恐れて、中間派と親中国派の士族367人に金禄を設け、財政?にも拘わらず無禄士族授産金8万円を下賜した。
 県令・鍋島直彬は、標準語であるを日本語の普及の為に那覇に会話伝習所を開設した。
 琉球語を守ろうとする琉球人は、日本語を拒否した為に、後年、日本語を話せない琉球人は日本人から馬鹿にされ差別された。
 6月 近代的教育を広める為に、那覇師範学校と中学校を開校し、全島に小学校や分校を設置した。
 支那党らは、夷狄の学問に反対し、儒教的保守派の協力を得て国学朱子学を守るべく教育運動を行った。
 沖縄を豊かにするには、サトウキビによる単一作物ではなく他の農作物栽培を加えた多種化が必要であるとして支度金を支給したが、伝統農法に拘る琉球人農民の猛反対にあって農業改革は進まなかった。
 やむなく、琉球処分以来混乱している黒糖製造業の為に7万円の再建資金を出した
 12月 李鴻章は、沖縄を日本領とし宮古八重山群島を清国領とする日本側の分島解約案提案を承認する意向を伝えた。
 日本側は、さらなる譲歩として、琉球王国を独立国として残す為に「琉球王子尚典の清国籍への転籍を認めて宮古八重山群島を領有させる」案を検討した。
 冨川親方は、日本の分島解約案に反対して清国に亡命し、北京の総理衙門に駆け込み奄美5島を含む琉球諸島全面返還を嘆願した。
 世界情勢に明るい琉球人は、財力や軍事力などの国力が貧弱な日本の領土になるよりも、世界大帝国の清国に付いた方が豊かになると判断して、清国に保護を求めていた。
 沖縄問題は、支那党の中国系琉球人らによる激しい反対運動で暗礁に乗り上げた。
 那覇に中学校を開校したが、儒教の丸暗記教育しか受けて来なかった秀才は、近代教育としての理科、算数、物理が理解できず、技術や体育という身体を動かす事にも反発した。
 だが、儒教教育によって教養は中国系琉球人や支配階級に独占され、叛乱・暴動を防ぐ目的で琉球庶民には読み書きが禁止されていた。
 保守派は、儒教的価値観から、身分低い貧しい家庭の子供に読み書き算盤を教えるという義務教育に猛反対した。
 日本政府は、琉球の反対を押し切って、義務教育の普及と同時に農地解放と地租改正を断交した。
 保守派は、標準語の日本語を拒否し、琉球方言に拘り、県内の公文書から地方議会の議事録まで琉球語混じりとして妨害した。
 沖縄県政は、日本党(白党)、独立党(黒党)、支那党の三派に分裂し混乱した。
 その頃、清国の衰退による混乱を避けて国外に逃げだした中国人難民と、沖縄で新たな産業を興すそうと意欲に燃えた日本人一旗上げ組と、西南戦争に敗れて逃げてきた殺気立った薩摩旧士族など、多くの移民が移り住んだ為に大混乱となっていた。
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