🎵14:15:─1─ベルリン条約。清仏戦争。日本の尖閣諸島占有。長崎中国海軍水兵暴動事件。ノルマント号事件。1882年~No.28No.29No.30 @ ② 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 1882年 明治新政府は、明治10年 新政府に対する不満分子による内乱に備えて軍隊を創設したが、西南戦争終結でその役目を終え、敵国・ロシアの侵略と仮想敵国・清国(中国)の軍事圧力に対抗する為の専守防衛切り替えた。
 朝鮮の守旧派(親清国派)は、清国と組んで朝鮮半島から日本を追い出すために壬午軍乱を起こした。
 日本は、自国の安全の為には日本列島に匕首の如く突き付けられている朝鮮が、親日になるか、さもなくば独立国として中立を保ってくれる事を願っていた。
 清国が軍事力を増強して属国・朝鮮の支配を強める事は、ロシアから国土を守ろうとする国防戦略に対する脅威であった。
 陸軍主流派の山県有朋長州閥は、対馬事件でロシアの軍事占領と租借権要求を目の当たりにしただけに、朝鮮内部の権力闘争による親清国派や親ロシア派の勢力拡大に危機感を募らせ、陸軍を外征可能にする軍制改革を急いだ。
 天皇主義者や軍国主義者は、対馬事件や北辺紛争からロシアの日本侵略に恐怖感を抱いていた。
 軍制改革として、ロシア陸軍に対抗する為にドイツ陸軍を参考にすべく、参謀将校メッケルを軍事顧問として招聘し、将来陸軍を指揮して外征する優秀な将校達に付け焼き刃的にドイツ語教育を行った。
 土佐出身の農商務大臣谷干城(陸軍中将)ら非長州閥の非主流派は、ロシアや清国に対する危機感が薄かった為に、元寇撃退のように侵略されたら国内の海岸線で撃退すれば良いいいとして、国費を外征軍備拡張整備では民生安定の社会基盤整備に使うべきであるとそして反対した。
 山県有朋は、「攻撃こそ最良の防衛」戦略から、陸軍を外征軍備拡張整備派で独占する為に内政優先派を中枢から追放もしくは地方部隊へ左遷した。
 軍部は、敵を国内に引き込んで撃破するという消極的専守防衛戦略から、敵を国土の外で殲滅するという積極的専守防衛戦略に方針を転換した。
 軍国日本の戦争犯罪である、大陸進攻戦略が採用された。
 追放された将官等は、自由民権運動に参加して政界入りし、軍功を立てて華族になった者は貴族院議員となり、外征軍隊改編を急ぐ山県有朋に猛反対して抵抗した。
 大江志乃夫「陸軍を追われた専守防衛派の将軍達は、山県等の外征軍隊建設派に対し、国民の耳に届く政治の場で公然と批判を開始したのである」(『日本の参謀本部』)
 山県有朋は、明治22年に陸軍統制の為に反主流派の兵学研究会・月曜会を解散を命じた。
 アメリカは、カリフォルニア州に於ける中国人排斥運動の盛り上がりに押されて、支那人移民排斥法を成立させた。
 明治政府は、これ以上の国際資本との軋轢を避ける為に、海底ケーブルを海岸に陸揚げして陸上線と接続する権利(陸揚権)を認めた新免許状を大北電信会社に与えた。
 だが、陸揚の制限が無かった事が後になって大問題となった。
 何時の時代でも、現代においても、こうした国際契約において、日本の詰めは甘かった。
 国際通信接続問題は、日本を苦しめ、完全に解決したのは昭和44年であった。
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 1883(〜85)年 清仏戦争
 フランスは、植民地としたインドシナ半島で、アヘン公社を設立して華僑に経営を任せた。
 華僑は、人頭税などの徴税業務も請け負い、不正蓄財を行う為に税以外に法外な手数料を要求した。
 ベトナム人は、中国人とは違ってアヘン吸入をしなかった為に、アヘン公社の収益は思ったほど上がらなかった。
 ベトナム人は、アヘンや人身売買する華僑の無法ぶりを訴えた。
 フランス政庁は、華僑の嘆願を受けて、言う事を聞かないベトナム人を懲らしめる為に軍隊を派遣して攻撃を加えた。
 フランス軍は、華僑の手引きでベトナム人を虐殺し、捕らえたベトナム人は見せしめにギロチン刑にかけた。
 華僑は、植民地経済を取り仕切って暴利を得、首を切断されるベトナム人を見ながら美酒に酔いしれた。
 フランス総督「一機の飛行機は、一個師団より有効だ」
 華僑は、東南アジア各地でアヘンと人身売買で大金を得るや、無学な地元民から二束三文で農地を買い込み、拒否すれば植民地軍や犯罪組織の協力を得て暴力で農園を奪った。
 東南アジア経済を支配する華僑は、日本商社の進出を恐れ、石油や鉱山を支配するユダヤ系国際資本と協力でして日本資本の締め出しを行った。
 フランスは、徹底して愚民化政策を行い、従わない者には暴力と死の恐怖を叩き込んだ。
 人種差別の強いフランス人は、非白人で非キリスト教徒のベトナム人を人間以下の家畜として扱った。
 よって、白人キリスト教徒は、家畜と見なした非白人異教徒を殺しても罪悪感を持つ事はなかった。
 それが、当時の世界常識であった。
 古賀辰四郎は、無人尖閣諸島の本格調査を行い、翌85年に借用願いを提出した。
 清国は、日本への侵略に備え、琉球帰属問題に圧力をかけるべく、台湾を省と格上げして支配を確立した。
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 タウンゼント「『右の頬を打つ様な者には、左の頬も向けなさい』とイエスは説いた。
 しかし、中国人が相手では全く通じない。
 左の頬を出されて、『あ、可哀想な事をした』と反省するどころか『えっ、左まで出すの?それじゃ』と思いっきりぶん殴るのが中国人である。
 『どうして宣教師は気付かないのか』と、領事館員は嘆いていた。
 こういう卑屈な姿勢が、かえって中国人を甘やかす事になる。
 お陰で、文明国家では当然の権利である外国人の権利を平気で踏みにじる。
 『宣教師が甘やかすお陰で、我々民間まで仕事を目茶苦茶にされ、面目丸つぶれだ』と、民間には怒りの声が絶えない」(『暗黒大陸 中国の真実』)
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 1884年頃 沖縄県在住の実業家・古賀辰四郎氏は、台湾に向かう途中で尖閣諸島を発見し、探検隊を派遣して無人島である事を確認した。
 尖閣諸島近海が有力な漁場であるとの報告をぺるや、島の有効活用法を模索した。
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 1885(明治18)年 政府は、伊勢神宮国家神道の最高位聖地として、東京より伊勢宗廟に達する路線」を国道9号線として指定した。
 東京〜伊勢神宮間の国道9号線は、国家の最重要道路として大正期に国道1号線に指定された。
 戦後。国家神道の廃止に伴い、国道一号線は四日市付近で切り離され大阪方面に付け替えられた。
 四日市から伊勢神宮までの旧国道一号線は、国道23号線に名称が変わった。
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 1885年 ベルリン会議。参加14ヶ国は、アフリカの民族、言語、文化、風習などの地域共同体に関係なく、集団を分断する国境線を緯度・経度、川や山などで線引きした。
 アフリカ諸国は、国内に幾つのも対立要素を内包した為に、国民統合は困難で、社会は安定せず対立が絶えなくなった。 
 分裂させて、内部対立を煽って、間接統治する。
 ベルリン条約「(非キリスト教非白人の)第三世界の国々は海岸線を(条約締結国が)取れば、その内陸もその国のもの(植民地もしくは領土)になる」
 国際法にける「無主地先占」の原則では、何れの国にも属さない無主の土地を、他の国に先んじて支配する事によって自国の領土とできるとされている。
 日本政府は、尖閣諸島の現地調査を行い、尖閣諸島無人島であり、清国゠中国の支配が及んでいないことを確認したが、さらに慎重に聞き取り調査を続けた。
 清国は、尖閣諸島はもちろん台湾も化外の地であるとみなしていた。
 1月28日 日本の第一回ハワイ移民が始まる。
 4月 イギリス艦隊は、朝鮮半島をおさえる為に、朝鮮半島南端の巨文島を軍事占領した。
 ロシア帝国は、イギリスに抗議し、退去しなければ対抗処置として朝鮮の一部を占領して軍事基地を建設すると脅した。
 イギリスは、ロシア帝国の抗議を無視して砲台建設を進めた。
 朝鮮は、自国内で起きた問題であるが自力で解決せず、茫然自失として傍観していた。
 日本は、対岸の火事ではなく自国の安全を脅かす一大事件と認識し、如何なる対策もとらない朝鮮の無能さに恐怖した。
 清国は、2年後、朝鮮の宗主国として仲介し、ロシア帝国から朝鮮を占領しないとの宣言を引き出し、イギリス艦隊を撤退させた。
 朝鮮は、自国の事であったがなす術がなく、みっともなく茫然と立ち尽くすだけであった。
 朝鮮国民の中から、自国が外国勢力の植民地にされる恐れがあるという危機感から、日本の支援を受けて国を守ろうとする親日派が生まれた。
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 朝鮮王国の腐敗堕落による無能と無責任が、日本に戦争の悲劇をもたらした。
 朝鮮の存在が、東アジアにおける戦乱の原因であった。
 朝鮮の悲惨は、朝鮮人自身の問題であって日本には関係がない。
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 12月22日 第1次伊藤博文内閣(〜1888年4月30日)
 外務大臣井上馨
 内務大臣…山縣有朋
 陸軍大臣大山巌
 海軍大臣西郷従道
 司法大臣…山田顕義
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 1886年 清国は、日本との戦争に備えて、ドイツで建造された最新鋭にして世界最強の巨大鋼鉄戦艦「定遠」「鎮遠」を北洋艦隊に配備した。
 日本政府は、清国艦隊の増強に危機感を覚えて、海軍強化の為に向こう3年間1,700億円の建艦公債を発効した。
 清国海軍に於いて「遠」は日本を意味し、「定遠」とは軍事力で日本を平定する事であり、「鎮定」は軍事力で日本を鎮圧する事であった。
 つまり。中国は、日本に対して軍事的圧力を加え、隙あれば日本を攻撃する意思を持っていた。
 日本と中国は、仮想敵国同士であって友好国同士ではなかった。
 中国はアヘン戦争で敗れたとは言え、欧米列強が「眠れる獅子」と恐れる世界的植民地帝国であった。
 日本は、中国に比べて弱小国で、中国に対抗できる軍事力はなかった。
 国防意識の強かった日本人は、清国の侵略から祖国日本を守る為に競って建艦公債を購入した。
 日本海軍は、劣勢な海軍力を強化する為に海軍拡張計画を発動して、イギリス造船所に軍艦建造を依頼した。
 伊藤正徳「日本の海軍を大ならしめた偉大なる対抗目標であり、春秋の筆法でいえば、この二艦が日本の連合艦隊を結成せしめた」(『大海軍を想う』)
 8月1日 定遠鎮遠を含4隻の北洋艦隊は、日本に公式通告もなく、艦艇の修理を目的として長崎に入港した。
 小国日本には、清国海軍の横暴を阻止するだけの海軍力はなく、中国艦隊の行動に恐怖し、中国軍水兵を刺激しない為に腫れ物を触るように怯えていた。
 中国軍は、アジア一の軍事力を見せ付け、好き勝手な行動をとっていた。
 8月13日 500人以上の中国海軍水兵達は、長崎市内に上陸して、大国の傲慢から日本人を見下し、飲食店で酒を飲み店内で暴れ、街中に繰り出して辺り構わず唾を吐き放尿し、女性を見掛ければ発情した動物のように追いかけ回し、男に絡んで悪態を付き、遊郭に上がり込んで客に乱暴し遊女を奪い合って大乱闘になった。
 中国海軍水兵達は、非暴力無抵抗で温和しい日本人に対して更なる牙を見せ、幾つかの焦点に乱入して物品や金銭を略奪し、抵抗する日本人を袋叩きにした。
 中国海軍水兵の一部には、最初から暴れる事を目的で刀などの武器を持っていた。
 中国人は、大国意識から日本人を軽蔑し、規律がない無法者の様に日本の法律やルールを無視して暴れ回った。
 北洋艦隊の丁汝昌提督等は、水兵達の騒動を鎮める事なく放置し、鎮圧に出るか、見過ごすか、日本側の出方を注視していた。
 巡査は、市民からの急報を受けて騒ぎを静めるべく、官棒のみの軽装備で現場に急行した。
 中国海軍水兵達は、駆けつけた銃剣を持たない巡査を取り囲んで袋叩きにした。
 長崎警察署は、中国軍人の暴動と判断し、暴力で鎮圧するべく帯刀した警察官の一隊を派遣した。
 日本人警察隊と中国海軍水兵達は、お互いに抜刀しての大乱闘となり、両方に多くの負傷者が出た。
 警察隊は、幾人かの中国海軍水兵を逮捕して拘留した。
 中国海軍水兵約200人が、警察署の門前に集合して、即時釈放を求めて騒ぎ始めた。
 警察署は、中国側の横暴に屈して釈放する事は日本の国権を損ねるとして、警備を厳重にして対峙した。
 丁汝昌提督は、これ以上の暴動は避けるべく中国海軍水兵達に帰投を命じた。 
 8月14日 長崎県日下義男知事は、清国長崎領事館に、艦隊水兵の集団上陸の禁止を訴える書簡を送り、仮に上陸する場合は監督士官の同行を要請した。
 中国側は、日本側が主権を守る為に激しい抗議をせず、事勿れ主義的に穏便に事態を収拾しようとしている弱腰を見て取り、要請一切を無視した。
 日本軍は、国内の治安は警察が取り締まるべきとの建前から鎮圧出動せず、北洋艦隊が動くかどうかを注視していた。
 仮に、北洋艦隊が自衛行動を宣言して実力行使しても、日本軍にはそれを阻止する軍事力はなかった。
 8月15日 北洋艦隊の水兵300人以上が、こん棒などの武器を持ち、殺気立って市内に上陸した。
 中国海軍水兵の一団が、交番を取り囲み、挑発するかのように、唾を吐いたり放尿したりの狼藉を働き、巡査に注意された事に逆上して居合わせた巡査達を袋叩きにして一人を殺害し二人を大けがさせた。
 市民達は、13日に続いての暴虐に激怒して中国海軍水兵達に殴りかかって大乱闘となった。
 日本警察は、国内の治安維持として巡査隊を派遣した。
 中国海軍水兵達はこん棒や刀剣を振り回して、武器を持たない市民達を襲っていた。
 日本人巡査は、市民達を守る為に抜刀して反撃した。
 中国海軍水兵の暴動は、双方に被害を出して沈静化した。
 日本人側の巡査2名死亡、市民を含む29名が重軽傷。
 中国海軍水兵4名死亡、46名が負傷。
 日本人は大国意識で横暴を極める中国人に対して怒り、日本全国で反中ナショナリズムが燃え上がり、民族主義者及び軍国主義者は中国への報復を誓った。
 8月18日 東京日日新聞大和国十津川郷にては、支那水兵が長崎に於いて巡査を侮辱し、殺害し、非常な暴行をなしたりと聞くや、土民の憤慨大方なだず。殊に諸新聞に支那の方には、その談判中に是非曲直を?倒せんと試むるがごとしと記載するを見て、いっそう憤怒の念をまし、もし万一の事あらば、直ちに蹶起して国家のために尽くすべしとて、有志の人々相集まりて、連判同盟をなすもの213人あり」
 日本世論は、中国への敵愾心を増殖させ、中国との平和ではなく戦争を望み、中国軍を殲滅する為に日本軍事の増強を求めた。
 日本と清国の戦争は、不可避となった。
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 福沢諭吉「長崎の市中に於て当時同港碇泊支那艦隊の水兵等が上陸して酒を飲み酩酊の際、巡査に取押へられたるを事の起りと為し、中一日を隔てて同15日の夜には、上陸の支那水兵数百名、市中を横行して市民に妨害を加へ、一方は支那水兵、一方は日本巡査市民の間に、遂に一場の攻防の戦闘を開き、双方共に多数の死傷あり、数時間の間に至り、支那水兵皆其軍艦に引揚げたるを以て、事始めて鎮定したり」(『長崎事件平穏に落着す』)
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 10月24日 ノルマント号事件。和歌山の紀州沖でイギリス船籍ノルマント号が座礁した。
 白人船長は、白人乗客のみを救命艇に乗せて助けたが、日本人乗客25名を見捨てた溺死させた。
 不平等条約領事裁判権によって、外国人の犯罪に対する裁判は領事館が持っていた。
 イギリス領事は、日本人乗客の救助義務を放棄した船長と船員全員を無罪とした。
 国際社会は、宗教的人種差別で動いていた。
 日本は、不当判決と激怒したが条約を尊重して涙を呑み、世界基準である国際法を重視して、冷静に不平等条約改正の為に国家上げてくそ真面目に正規の交渉に取り組んだ。
 大泊貞清県知事は、清国が沖縄に軍艦を派遣してくるという情報を得るや、政府に対して対策10項目を提案した。
 日本政府は、北洋艦隊が軍艦9隻を派遣したという情報を得るや沖縄県庁に指示を出した。
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 地質学者で評論家の志賀重昂は、帆船で南洋諸島を探検して旅行記『南洋時事』を出版し、西欧列強による植民地化が進み、日本もその危険性があると警鐘を鳴らした。
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 イギリスは、インドに続いてビルマにおいても、「ディバイド・アンド・ルール」という高度な植民地政策を行った。
 それに比べて、日本の朝鮮支配は幼稚であった。
 ビルマには、大小135の民族が住んでいて、ビルマ族が全人口の6割以上を占め、次にチン族、カチン族、シャン族、カレン族など7つの主要な少数民族がいる。
 1752年頃から続いてきた独立国家ビルマ王国は、イギリス領インドに併合され、その1州となって地図上から消滅した。
 ティボー・ミン国王と王妃は、インド皇帝に刃向かった犯罪者として、インドのゴア州ムンバイの南に近いラトナギリに死ぬまで幽閉された。
 ビルマ王家の復活とナショナリズムによる内戦を防止する目的で、全ての王子と重立った王族を処刑するか奴隷として売り飛ばした。
 ビルマ王家を根絶やしにする為に、全ての王女をイギリス兵に陵辱されてから、インド人の身分低い将兵や下級官吏に与えた。
 歴史の古いビルマ民族の王朝文化を、徹底的に破戒した。
 ビルマ人の民族的心の支えなっているマンダレー王宮は、植民地支配の象徴として監獄に改修され、ビルマ人に民族独立への絶望感と無気力を植え付けた。
 ビルマ人による民族独立運動ビルマ王家再興を阻止する為に、王国時代の支配層や知識人から地方の有力者まで数万人を処刑した。
イギリスによる植民地化政策で、永い歴史を持って受け継がれた来た栄誉ある王統は消滅した。
 イギリス軍は、ビルマ人がイギリス人を殺せば報復として、たとえイギリス人に非があろうとも問答無用で、イギリス人一人につきビルマ人百人を処刑すると定めた。
 キリスト教徒白人は、宗教的選民主義から、非キリスト教徒非白人を人間以下の獣と軽蔑していた。
 イギリスは、最下層の農奴となったビルマ人の憎悪がイギリス人ではなく、裏切り者のキリスト教の洗礼を受けた改宗ビルマ人に向くよう彼等に特権を与えて植民地ビルマの管理を任せた。
 植民地政策の大原則は、民族の歴史・文化・伝統・習慣を抹殺する為に、公用語は西洋語で公的な機関での民族語・部族語の使用を一切禁止し、民族語・部族語は私的に家庭や地域での使用を認めた。
 西洋語の話せない者は、官吏、警官、軍人など採用しなかった。
 英語が許されていたのは、イギリスに媚びへつらう裏切り者の改宗ビルマ人だけであった。
 事実。地球上にあった名もなき民族語や部族語は、国際化の波によって消滅した。
 上流階級の改宗ビルマ人は、富を得る為に、同胞である99%の下層階級ビルマ人から暴力を振るって搾取した。
 植民地支配は、貧富の格差の増大で、社会不満が増殖され、犯罪件数が激増する事で完成した。
 宗教戦争の経験から、性急な仏教弾圧はビルマ人の根深い恨みを買うとして、ビルマキリスト教化は控えた。
 だが、民族宗教を放置する事は民族独立運動の原因になるとして、ビルマ人の団結心を破壊するべく、多民族・多宗教・多言語で内部対立を煽る為のインド化政策を実施した。
 イギリスは、民族浄化の目的で、インド人や華僑などのビルマ語を話せない60万人以上の非ビルマ人を移住さ、多民族国家とした。
 宗教による民族的統一性を崩壊させる為に、国教である仏教と敵対させる為に儒教イスラム教、ヒンドゥー教シーク教などの宗教を広めさ、多文化社会に改造した。
 各宗教や各民族が平和に共存しない様に対立を煽り、敵対して暴力事件が起きる様に仕向けた。
 特に、ビルマ仏教徒とインド系イスラム教徒は激しく対立させた。
 仏教寺院の聖地に、異教徒が土足で入り込んで自分達の教会や寺院を建て排他的布教活動を始めた。
 仏教で平穏な宗教生活を送っていたビルマに、突如として陰惨な宗教対立が出現した。
 キリスト教会は、他の宗教宗派の様な対立を煽る様な攻撃的布教活動をせず、温和な布教活動と貧困者救済でビルマ人に好印象を与えた。
 各地の植民地で、キリスト教を激しく非難する者は少なく、先祖からの伝統的民族宗教を捨てて改宗する者が増えた。
 一神教キリスト教は、国家と民族をキリスト教化する為に、地球上にあった多くの多神教民族宗教を消滅させた。
 ファーニバル(イギリスの歴史家)「首都ラングーンの人口の61%がインド人と支那人で、36%がビルマ人であった」
 宗教対立として、1937年頃に、イスラム教徒インド人と仏教徒ビルマ人による大衝突があり、双方合わせて3,000人以上が死亡した。
 山岳に住んでいたカチン族やモン族などの少数民族を植民地支配に利用する為に、山から平地に強制移住させ、キリスト教に改宗し、イギリスに忠誠を誓わせて政治と軍事の権限とを与え、反逆者への武器使用と逮捕拷問を認めた。
 西洋の近代的生活に魅了され少数民族は、軍人や警察官に任命されるや他人を意のままに支配する欲望に目覚めて治安維持を担当し、かっての支配者であったビルマ人農民らを弾圧し、時には殺害した。
 少数の協力者で大多数の敵対者を「死と暴力」の恐怖で支配するというのが、世界の常識であった。
 イギリスは、ビルマ人愚民化政策として、民族の団結を阻む為に統一言語を禁止し、教育を受ける権利を認めなかった。
 植民地支配の為に、統一言語による民族教育を受けさせなかなかった。
 教育を行う事は叛乱の原因となる為に行わないのが、国際的常識であった。
 新たな支配階級となった裏切り者ビルマ人とカレン族などは、イギリス人に国際人として認めてもらうべく、キリスト教に改宗し、イギリス式高等教育を受けて英語を話した。
 民族語しか話せないビルマ人は、イギリスの過酷な植民地支配をによって悲惨な生活に追い込まれ、読み書きなどの教育を受ける権利を禁止された。
 キリスト教会は、ビルマ人に聖書を読み聞かせたが、叛逆する恐れのない信頼できる敬虔なビルマ人信者だけに英語の聖書を与えた。
 イギリスは、ビルマの富と資源を搾取する為に、インド人商人(印華)と中国人商人(華人・華僑)を利用した。
 中国人商人とインド人商人は、商売敵として激しく対立し、ビルマ人を奴隷の如く酷使して利益を得て、豪華で贅沢な生活を満喫していた。
 インド人商人は民族宗教を大事にしたが、中国人商人は金儲けの為に宗教を利用した。
 中国人商人は、ユダヤ人商人と似て金融・経済を支配して財を築いた。
 インド人商人は、インドから中東やアフリカとの交易で財を成した。
 近代の植民地政策は、協調性を持った同化ではなく差別を伴う悪意に満ちた異化であった。
 世界史の事実として、異民族に対する同化政策が成功した例はない。
 植民地抵抗運動とは、普遍宗教と民族中心宗教による宗教対立でもあった。
 世界史の事実として、多民族多宗教国家構想とは元首の正統性と民族の統一性と民族宗教の精神的権威を崩壊させようとする陰謀に過ぎない。
 歴史的真実として、多民族多宗教を掲げる者は国家と民族と民族宗教を敵に売る不心得者として疑うべきである。
 西洋が世界中に広めた近代化とは、こうした近代化である。
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 隣国タイ王国は、西洋の植民地化にならない為に、一部の自国領をイギリスとフランスに割譲し、少数の国民を西洋人の奴隷に差し出し、非暴力で独立を守った。
 唯一、日本だけが国土と国民を武力で以て守り、西洋の植民地にもならず自主独立を暴力で守った。
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 1887年 勅令「官吏服務紀律」
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 1888年 後藤象二朗は、ロシア帝国シベリア鉄道建設は軍隊の輸送力増強の為でり、日本に向けて南下しようとしている現れである危機感を煽った。
 現代の日本史は、シベリア鉄道は軍隊だけではなくヒトやモノの輸送網の整備で、シベリア開発に欠かせない鉄道であり、純然たる軍事鉄道ではないと否定している。つまり、ロシア帝国は、日本侵略の意図はなく、アヘン戦争を起こした宿敵イギリスに対抗しようとしていただけであると説明している。
 メッケル少佐は、帰国する土産として日本刀を持ち帰った。
 ドイツのゾーリンゲンは、日本刀の切れ味を研究してナイフに生かした。
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 1889年 サー・ヒュー・コータッチ『キプリングの日本発見』「この細やかな人情と風土がやがてアメリカの植民地にされてしまう」
 旧暦8月1日 徳川家康が入府した記念として、上野公園で「東京貝市300年記念式典」が開催あれた。
 東京市民は、薩長がのさばる明治維新を嫌い、江戸時代の徳川幕府を懐かしんだ。 



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