🎵23:─1─アメリカはフィリピン独立派20万人以上を虐殺した。1896年~No.55No.56 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 梁啓超「日本人というものは本当に演説が上手い。集まると誰かがスピーチを初めて、皆でそれについてディスカッションする」
 民権運動を経た日本人は、会場や路上などあらゆる場所で集会を開いて自説を演説し、相手を遠慮容赦なく痛打する為に激論を戦わせていた。
 公権力に逮捕され弾圧されても、自説を貫き通す為に殺されようとも意に返さず、激しい演説を止める事はなかった、
 人々は、ロシア帝国などの西洋列強の侵略から如何にして祖国を守るかを激論する中で、民族主義国粋主義に目覚め、軍事力を強化して防衛するという軍国主義を産み出した。
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 1896年 李鴻章は、ニコライ2世の戴冠式に出席する為にロシアに赴き、極秘でロバノフ外相と対日戦に備えて攻守軍事協約を結んだ。
 清国は、ロシア帝国が日本と戦争するとき、ロシア帝国に味方するという密約であった。
 清国とロシア帝国は、日本を滅ぼす為に手を結んだ。
 清国は、日本を滅ぼす為なら満州と朝鮮を犠牲にする事も厭わなかった。
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 中国人は、自分の面子を守る為ならば、4億人中数十万人を犠牲にしても気にはしなかったし、広大な領土の一部を捨てても惜しいとは思わなかった。
 特に、中国人以外の少数民族を虫けらのように扱い、そして虐殺していた。
 儒教価値観の中国は、キリスト教価値観のロシア帝国と同様に人種差別国家であった。
 両国は、神道価値観の日本を差別していた。
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 清国は、和やかに日本との友好を語ったが、内心では日本への復讐に燃えていた。
 中国人は、敵への復讐心を決して忘れず、何年かかっても仕返しする事を誓っていた。
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 国際外交上。抗議せず具体的な対抗手段をとらず黙認する事は、相手の主張を認めた事になる。
 古代から。奪われた土地は、話し合いではなく武力を行使して奪い返した。
 戦争する勇気のない弱小国には、如何なる権利も認められなかった。
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 日露戦争は、こうして回避不能となった。
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 大韓帝国の親露派朝鮮人は、日本を滅ぼす為にロシア帝国に日本の情報を流していた。
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 古賀辰四郎は、政府から30年年間の無料貸与を認められ、事業活動を展開して、尖閣諸島に労働者を送り、かつお節や缶詰の製造、サンゴの採集などを進めた。
日本人漁民は、尖閣諸島に住み、漁業基地として生産活動を始めた。
 尖閣諸島これ以降、日本人地主の土地となった。
 清国は、日本人が尖閣諸島を利用する事について抗議せず、黙認した。
 日本は、尖閣諸島を中国から奪ったわけではない。
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 4月 児玉次長は、英国製の最新海底ケーブル敷設船沖縄丸を就航させ、必要な海底ケーブルを発注し、欧米電報通信会社に頼る事なく日本人技術者のみの敷設を命じた。
 さらに、国産部品による独自の無線電信機開発を依頼した。
 逓信省は、民間企業の協力を得て、日本独自の電波式電信機を開発した。
 欧米諸国以外で、最先端技術である電信機を独自に開発したのは日本だけであった。
 この他国に依存しない自前主義が、軍国日本の強みであった。
 他国の兵器体系に依存して自国技術を持たない軍隊は、自国の軍隊では無く他国の軍隊と名って、他国に支配される。
 自国技術による補給を主軸とする兵站体制を高額の無駄遣いと否定し、安価で他国の兵器を購入して補給すべきであるという者は、自分の利益の為に国家を破壊しようとする裏切り者である。
 大北電信会社は、日本の稚拙な技術では不可能であり、そのうち泣き付いて来るであろうと高を括っていた。
 6月 沖縄丸が到着するや直ぐさま海底ケーブル敷設に取り掛かり、大隅半島と沖縄間の工事を8月には完成させた。
 大北電信社や諸外国の電信会社は、短期間で完成させた日本の技術力に驚愕した。
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 1897年 革命基盤を持たない孫文は、偽名を使って日本に上陸(〜1903年)して頭山満ら右翼の庇護を受けた。
 孫文の支援者は、ハワイと日本にしかいなかった。
 中国人文化人は、日本に留学し、日本で民主主義からマルクス主義までの多くを学び、中国の近代化が急務と痛感して革命運動に賛同した。
 中国の儒教漢字には、近代化に必要な語彙はなく、90%以上を日本生まれの和製漢字に頼らねばならなかった。
 それは、儒教国家朝鮮でも同様であった。
 日本語は、世界でも珍しい、変幻自在の多様性に富んだ情緒的な文字言語である。
 多様性は曖昧さとなって合理的記号化された情感の西洋語では表現できず、日本人の排他性閉鎖性として批判の対象となった。
 日本の国際化の為には、民族言語の日本語を捨て、国際語である欧米語を公用語として取り入れるべきとの議論が絶えず起きている。
 日本政府は、清国の要請で孫文と革命派の動向を監視した。
 軍部と軍国主義者は、国防の観点から、清国を弱体させるか、清国にかわって親日的新政府を樹立する為に、孫文を庇った。
 右翼・右派の国粋主義者らは、「強者を挫き、弱者を助ける」の義侠心から独立暴動に参加して、多くの犠牲者を出した。
 日本人は、中国の将来を期待して彼等を助けた。
 中国人は、朝鮮人同様に本心は反日で、日本を利用して革命を成功させようとしただけである。
 後日。軍部も右翼も、彼等の魂胆を看破して彼等への支援を放棄した。それは、朝鮮開化派への支援放棄も同じ理由からであった。
 中国改革派も朝鮮開化派も、日本を逆恨みし、反日の本性を現し反日テロを繰り返して軍国日本を破滅的戦争へと追い込んで行った。
 日本陸軍は、沖縄と台湾間の海底ケーブルは竣工し、7月迄には支線を含む全区間を完成させた。
 海底ケーブル敷設は西洋以外では日本が初めてであり、長距離海底ケーブル回線を独力で完成させた日本の技術力は西洋の脅威とされた。
 欧米列強は、日本の高度な技術力を敵にする事は危険と見なして、日本との不平等条約を解消する方向に動き始めた。
 国際外交において、他国を当てにせず、自力で問題を解決するのが常識であった。
 中国と朝鮮は、その自主独力の自助努力という気概がなかった為に亡国の道を転げ落ちていった。
 軍部は、対露戦略から陸上通信網と海底ケーブル網の完成を急いだ。
 この情報網は、戦略的及び技術的に、世界戦史上初の画期的なものであった。
 参謀本部は、対露戦に備えてウラジオストック本願寺別院を建立し、僧侶の中に諜報部員を潜り込ませ、布教を名目としてシベリア、満州、蒙古を探索させた。
 そして、各地でロシア帝国から独立を目指し人間を集めてゲリラ組織を育成した。
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 キリスト教会は、キリスト教を広げる為に地元の伝統的「神懸かり信仰」を野蛮な未開宗教と攻撃し、普遍的な「隣人愛信仰」で中国人に洗礼して信者を増やしていった。
 中国の各地で、キリスト教会と土着の民間宗教による宗教対立が頻発し、宗教対立が西洋列強の侵略の口実となっていた。
 宗教系秘密結社は、民族宗教を守る為に、キリスト教への敵意を?き立てていた。
 儒教学者らも、攘夷論で、白人の侵略から祖国を守るべきであると扇動していた。
 山東省曹州で。中国人暴徒は、カトリック教会を襲撃し、ドイツ人神父2名を殺害して、教会での略奪行為を行った。
 ドイツ帝国は、ドイツ人神父殺害に対する懲罰を名目として山東省に派兵し、膠州湾を軍事占領して、中国人暴徒からキリスト教会と中国人キリスト教徒を救出した。
 清国は、ドイツ帝国と独清条約を結び、膠州湾の租借と山東省に於ける鉄道敷設権及び鉱山採掘権を与えた。
 ドイツ帝国は、膠州湾を足掛かりとして、支配権を山東省全体に広げた。
 外国に寸土でも租借地を与える事は、植民地化の始まりであった。
 明治期の日本は、国際常識の現実を熟知していた為に、大使館や公使館など国際条約で認められていた土地以外は外国人に与えなかったし、金が欲しいからといって外国資本に売らなかった。
 2月27日 ハワイ政府は、日本人移民670名中458名の上陸を拒否した。
 3月 ルーズベルト「もし、私に手立てがあれば……私は明日にもハワイを併合し、星条旗を島中に立てたい。我々は、日本の新しい戦艦二隻がイギリスを離れる前に行動を起こすべきだ。我々はニカラグア運河を早く完成させ、多くの軍艦を造り、その大半を太平洋に配置したい。私は、日本の脅威をひしひしと感じています」(マハンへの手紙)
 新聞王ハーストは、大統領の意を受け、反日キャンペーンを展開した。
 人種差別のアメリカは、反日感情を募らせた。
 セオドア・ルーズベルトは、日本の台頭を許さない為に「対日戦争のための戦争計画」策定を開始した。
 6月16日 ハワイ共和国は、アメリカと合併条約を結んだ。
 6月21日 大隈重信首相兼外相と星亨駐米公使は、正論を持って激しく抗議した。
 アメリカは、日本とは友好関係にあると安心していただけに、星亨公使の最後通牒か宣戦布告に近い文言がある外交文書に困惑した。
 マッキンリー大統領は、スペインとの戦争を控えていた為に、日米の関係悪化を避ける為に冷静に対処した。
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 1898年 日本政府は、沖縄を領土化する為に徴兵令を施行し、その見返りとして本土並みの権利を与えた。
 一部の清国派は、沖縄を日本から独立させ中国領にするべく大陸に亡命して活動を続けた。
 大阪朝日新聞 1899年「琉球人福州に寄食す」
 幸地朝常(中国名・尚徳宏)は李鴻章に書簡を送った。「生きて日本国の属人と為るを願はす、死して日本国の属鬼と為るを願はす」
 ロシア帝国は、山東省をドイツ帝国に奪われても、清国は祖国防衛の戦争を避け平和的な話し合いで解決すると見るや、満州占領の為に軍隊を派遣した。
 ロシア軍は、13隻の大艦隊と2万5,000人の大部隊を遼東半島に派遣し、旅順を軍事占領した。
 満州遠征部隊は、清国側の抗議を無視し、地元の抵抗を武力で排除して土地を略奪して鉄道建設を行った。
 旅順は、東アジア地域で最強最大の軍港都市に変貌していった。
 清国は、軍隊を派遣せず、領土が奪われていくのを傍観していた。
 反日派中国人は、むしろ日本への復讐戦の為にロシア軍を利用すべく満州を放棄しようとしていた。
 朝鮮も、目の前のロシア帝国の侵略に備えるのではなく、日本叩きの為にロシア軍の軍事力を頼ろうとしていた。
 日本のみが、ロシア帝国の領土拡大に恐怖した。
 6月 大隈重信の進歩党と板垣退助自由党が合同して憲政党を組織して、初の政党内閣が誕生した。第一次大隈内閣であり、隈板内閣と呼ばれた。
 政治指導で、中央官庁のポストが憲政党の党員で独占された。
 野心的な人間は、より高級官職を得る為に猟官運動を行った。
 8月 日本政界は、高級官僚になろうとする党人に賄賂ををばらまく政商の暗躍で、大混乱していた。
 9月 西太后を担いだ保守派は、戊戌の変法に対してクーデターを起こして光緒帝を幽閉した。
 科挙官僚の康有為と梁啓超は、日本に亡命した。
 日本の右翼支援者は、中国近代化の為には改革派の大同団結しかないとして、国際的に知名度を上げている孫文と中国に強力な地盤を持つ康有為らの会談を計画した。
 皇帝派である康有為らは、清王朝下での近代化を目指す立場から謀反人孫文との会談を拒否した。
 右翼支援者は、明治維新を成し遂げた経験から、西洋の植民地とならず祖国を救済する為には小異を捨て大同で協力すべきと説得に努めたが、全て失敗した。
 それでも絶望せず、多くの留学生を受け入れて、中国の革命と近代化の為に西欧思想を教えた。
 右翼支援者は、西欧列強の侵略に対抗する為に大アジア主義を掲げ、時代の潮流に逆行する清国の近代化を捨て、中国に民主主義という新時代を到来させるべく孫文三民主義を全面的に支援した。
 華南の秘密結社天地会(イギリスは三合会と呼んでいた)は、利益を拡大する為に孫文の革命派を支援し、影響下にある南部14省に革命運動への参加を命じた。
 孫文の革命暴動は、後に軍閥化する漢族将軍の参加が得られなかった為に、全て失敗して国内外を逃げ回った。
 11月 第二次山縣有朋内閣が成立した。
 山県首相は、政党内閣による猟官制の弊害を訴え、中国の科挙に近い高等文官試験を導入した。
 試験に合格した者を、党人系官僚を中央官庁から排除し、勅任官(各省の局長級)に据えた。
 日本式官僚の誕生である。
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 1898年 米西戦争(英独代理戦争)。
 ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、世界戦略からスペインを支持した。
 イギリスは、対ドイツ政策からアメリカの勢力拡大を支持した。
 スペインは征服者として、植民地キューバを支配し、インディオの男すべてを虐殺して、女を強姦して混血児・メスティソを生ませてキューバ人とした。
 スペインは、キューバ人を奴隷の如く使役して搾取し、貧困生活を強いていた。
 キリスト教会は、信者であるキューバ人に絶対神の摂理を諭し、絶対神への信仰からで領主の圧政に従い堪え忍ぶように説いた。
 キューバ人は、スペイン支配に不満を抱き各地で暴動を起こした。
 スペインは、植民地支配を維持する為に独立派を弾圧し、各地で虐殺を行った。
 死を覚悟したキューバ人の独立運動は、市民の支持を得て、スペインを圧倒し始めた。 アメリカは、スペインの力が衰弱し始めたの確認し、キューバ保護領とする為にキューバ問題に介入して、スペインに戦争を仕掛けた。
 イギリスは、スペインを国際市場から追放して独占を強固にす為に、かっての敵国であるアメリカを支援した。
 スペインには、アメリカと戦う理由はなく、戦争する意思もなかった。戦争を回避する為に、アメリカが要求する条件を出来うる限り受け入れて譲歩に譲歩を続けていた。
 香港に停泊させていた太平洋艦隊を、スペイン領フィリピン攻略に出動させた。
 アメリカ軍は、戦意のないスペイン軍を敗走させて、数日でフィリピンを制圧した。
 味方した2万人以上のフィリピン独立派を弾圧し、植民地支配を確立する為に反対派20万人以上を餓死や病死に追い遣った。女子供も、容赦なく虐殺した。
 サマール島虐殺事件。アメリカ軍は、アメリカ軍将兵38名が待ち伏せで殺された報復として、サマール島とレイテ島の全住民数万人を皆殺しにした。
 「捕虜にはするな。弾丸は、捕虜の食わせるコメより安い」
 フィリピン革命軍リカルテ司令官は、アメリカ軍に抵抗する為に日本軍に武器弾薬の支援を要請した。
 川上操六参謀長は、「同じアジアの民として、困ったときには助け合う、武士は相身互いだ」として、アメリカのフィリピン独立派への武器取り締まり要請を欺いて武器弾薬を融通した。
 日本から武器弾薬を積んだ運搬船は、途中で台風に遭って沈没した。
 アメリカは、フィリピン人に対して公用語は英語とするが、協力者以外には文字を教えない愚民化政策を行った。
 フィリピンの公用語は、スペイン語から英語にかわった。
 フィリピン人の青少年は、アメリカ化・国際化の為に学校で英語を話し、母国語のタガログ語を話す事を嫌った。
 英語を自由に話せる者は植民地支配に協力して裕福層となり、英語を話せない者は奴隷の如く差別されて貧困層となった。
 タガログ語と共に受け継いできた民族文化は、社会に出て利益が得られないとして姿を消した。
 固有の民族言語を失った民族は、歴史や文化や宗教を失い、社会や経済など全ての面で発展から見捨てられ、発展途上国として極貧状態で苦しんでいる。
 民族語を捨て、公用語を西洋語にした国で先進国になった国は存在しない。
 フィヒテ「ドイツ語を失わない限り、ドイツ民族は滅びない」
 キリスト教会は、隣人愛の布教活動を行いつつ、伝統的な民族文化や風習や土着宗教を野蛮として捨てさせた。
 アメリカの寛容さとは、協力者に対してであって、反対派には向けられる事は決してなかった。


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