🎵31:─1─日英同盟。ドッガーバンク事件。青函連絡船「東海丸」遭難事件。無線電信機。1902年~No.74No.75No.76 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 サミュエル・ハンチントン「戦争の原因は、イデオロギーの違いや持てる者と持たざる者の格差ではなく、ライフスタイルの違いにある」
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 西洋社会は、キリスト教価値観を世界に広めようという神聖な狂気で侵略戦争を始めた。
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 伊藤博文山県有朋ら日本の指導者達は、領土拡大或いは植民地拡大における帝国主義的市場分割の時代に、小国日本が如何に生き残り自主独立を守るかを日夜考えていた。
 そして、日露戦争が起きた。
 日露戦争は日本の自衛戦争
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 福沢諭吉は、自立した国際人になる事を主張したが、日本を捨てるような野放図の西欧化や猿真似的な西洋礼賛には猛反対した。
 国民の気風として、愛国心や報国心を抱かねば国の未来はないと青年に訴えた。
 中江兆民は、西欧の帝国主義から日本を守る為には国民の意思を強化して、「大陸に覇を唱えろ」と訴えた。
 明治の男児は、「長いものに巻かれろ」や「よらば大樹の陰」を卑怯・未練を日本男児の恥じと嫌い、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」的に負けを覚悟で戦うこそ男子の本懐としていた。
 中江兆民「死を恐れずに戦え、負けたら反省すればいいじゃないか」
 日本にとって、大陸は敵であった。
 大陸の敵から日本を如何にして守るかを、真剣に考え、平和的な話し合いで守れなければ戦争をしても守ろうとした。
 日本は、戦争を覚悟していた。
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 1902年 宮古八重山地方に残っていた、離島民を苦しめていた人頭税が廃止された。
 琉球王朝時代。農民に対する租税は、5公5民もしくは6公4民の本土とは違って8公2民の重税であった。
 アメリカへの日本人移民は増加して、1900年の自主規制以前の1万人代に回復していた。
 ロシア帝国共産主義革命家(大半が非ロシア系ユダヤ人)は、ロシア国内の反ユダヤ主義(アンティ・セミニズム)に反発し、ロシア帝国を打倒する為に明治天皇と日本軍を支援した。
 日本陸軍諜報部は、天皇と日本をロシア帝国の侵略から守る為に、レーニン共産主義活動家に資金援助を行った。
 多民族国家ロシア帝国は、伝統的に領土を拡大する為に南下政策を行い、南のオスマン・トルコ帝国と東の中国・朝鮮・日本に軍隊を派遣していた。
 ロシア帝国領内では、ツァーリズムとキリスト教支配に反発する異教徒の暴動と、スラブ人やウクライナ人らによるポグロムに反発するユダヤ共産主義者の革命運動で、治安は悪化していた。
 帝国主義による植民地戦争は、上流階級や資本家に莫大な富をもたらしたが、国家財政を圧迫した。
 下層階級は、兵士として植民地戦争に狩り出されても恩恵にあずかる事なく、格差社会の底辺層として悲惨な生活を運命付けられていた。
 諸外国軍は、兵士の不満を解消する為に、勝利した報酬として日数を決めて戦場での強奪や強姦を黙認した。
 戦時国際法が遵守されるのは、国際法を制定したキリスト教白人世界のみの事であって、それ以外では適用されなかった。
 天皇制度国家日本は、近代的文明国として、国際法を一字一句間違いなく墨守する事に全力を尽くしていた。
 当時の日本軍は、如何なる国の軍隊よりも捕虜を手厚く保護した。
 サムライは、日本の将棋の様に「昨日の敵は、今日の友」とした。
 特に、勇猛果敢に戦った味方を多く殺した敵を優れた軍人として遇した。
 日本国内でも、家族や親族を殺したかも知れない敵兵士捕虜を、出来る限りの面倒を見ていた。
 日本人兵士が捕虜となる事は恥としたが、敵国兵士が戦いに敗れて捕虜になっても軽蔑する事なく親しみを込めて面倒を見た。
 明治天皇は、国際社会への責任としてそれを望んだ。
 皇后は、国際赤十字活動として、敵味方に関係なく全ての負傷者を手厚く看護した。
 敵兵士捕虜を軽蔑し虐待し危害を加える者は、天皇に対する反逆者とされた。
 アメリカ軍は、アギナルド軍を撃破してフィリピンを鎮圧した。
 1月 ウィーン日本公使館にいた牧野伸顕オーストリア公使は、地元新聞のポリチェッシュ・コレスポンデンツ紙を買収し、「黄禍論」の反日親露世論を覆し日本支持に変える為に広報外交(パブリック・ディプロマシー)を開始した。
 牧野伸顕「私が外交官として常に感じていた事は、任地の新聞業者に出来るだけ接触して土地の情報を聞き、この方面の人達と懇意にする事がいかに必要であるかという事であった」
 「戦争に宣伝は付きものである」
 1月30日 日英同盟。日本は、ロシア帝国との戦争に備えてイギリスと第一次日英協約を結ぶ。世にいう、日英同盟の成立である。
 日本は、中国・満州や朝鮮を領土化して侵出してくるロシア帝国から祖国を守る為に、イギリスと同盟関係を結んだのであり、アメリカとの戦争は望んではいなかった。
 さらに。発展途上の小国日本が、欧米列強との戦争を覚悟してまで中国に領土を拡大する意志もなかった。
 両国は攻守同盟として、対戦国が一国なら中立を維持するが、複数国になれば味方して参戦する義務を約した。
 セオドア・ルーズベルトは、事前に日英協約の対象はロシア帝国であって、アメリカは対象外であるとの説明を受けていた。
 ヘイ国務長官は、ロシア帝国満州侵略は門戸開放政策に反すると非難した。
 アイルランド系報道機関は、同協約に敵対する国名が明記してい事から、アメリカも対象に含まれると判断し、最悪、日本とイギリス連合軍と戦う羽目におちいると警鐘を鳴らした。
 反英派は、イギリスとの友好関係を深めつっあるが長続きするとは限らない以上、ロシア帝国との関係を修復すべきであると訴えた。 
 アイルランド人のユージーン・シュミッツは、組合労働者党の支援を受けてサンフランシスコ市長に当選した。
 アイルランドアメリカ人は、反英感情からイギリスと同盟を組んだ日本を敵視し、日本人移民反対運動を盛り上げ、排日法案の成立を支持した。
 サンフランシスコ市政を支配した労働組合は、無計画な人事を行って市政を混乱させ、労働者の敵である資本家への攻撃を強めて財政を破綻させ、市庁内で賄賂と横領を常態化させ、公共事業における利権絡みの不正が蔓延り、全米一腐敗した街となった。
 アメリカ議会下院は、ニカラグア運河建設法案を可決した。
 パナマ派は、ニカラグアのモモトンボ火山の噴火を天恵として、火山国のニカラグアは運河建設に適さずパナマが最適であるとの世論を形成した。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、運河建設で莫大な富を得る国際金融資本の意向を受けて、パナマ運河建設案を支持してニカラグア案を退けた。
 ニカラグアのセラヤ大統領は、自国内に運河を通す為に、アメリカとの提携を諦めて、ドイツ帝国と横断鉄道建設に合意し、運河建設を日本に持ちかけた。
 3月 教皇レオ十三世は、共産主義者によるテロが横行する現状から、暴力革命の危険を訴える教皇書簡を発表した。
 「世界中の利益になるという餌をちらつかせてまず人々を引き付け、それから仲間に引きずり込む。約束と脅迫を使い分けて意のままに政府を篭絡する」
 6月 アメリカ議会は、パナマ地峡ルートで運河を建設する利権を4,000万ドルでニュー・パナマ運河会社から購入するという、ウォーカー委員会の提案を承認した。
 6月28日 セオドア・ルーズベルト大統領は、太平洋の海軍力を充実させる目的で、パナマ運河建設のフランス開発事業を継続させる法案に署名した。
 イギリスは、アメリカ主導によるパナマ運河建設には反対しなかった。
 七つの海を支配した大海軍国家イギリス帝国の時代は終焉を迎え、新たな海軍大国アメリカの誕生である。
 ヘイ国務長官は、コロンビア領土にパナマ運河を建設する為に、ワシントンのコロンビア公使と条約を結んだ。
 コロンビア上院は、条約を否決した。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、パナマをコロンビアからを切り離し、新たな独立国家とする事を命じた。
 7月 日本政府は、アメリカ人ローズヒル無人島・南鳥島アメリカ名マーカス島)に上陸する為に出航したという情報を得るや、アメリカに取られない為に迅速な行動をとった。
 外務省通信課長石井菊次郎は、南鳥島が日本領であという文書を持たち、巡洋艦「笠輭」に乗船して急行した。 
 ローズヒルは、公文書のみの抗議であれば居座るつもりであったが、軍艦の出現に態度を軟化させて帰国した。
 日本海軍陸戦隊は、南鳥島に上陸し、調査して帰国した。
 現代日本とは違って、当時の日本は自国領土を守る為に目に見えた行動をとっていた。
 ワシントンは、マーカス島の領有を断念して、日本の南鳥島領有を承認した。
 アメリカは、中国市場への参入の為に太平洋上の島々を領有し、その邪魔をし始めたのが軍国日本であった。
 優秀人種を自認する白人にとって、アメリカが日本の軍事力に屈した瞬間であり、屈辱であった。
 日本政府は、台湾島民を日本国籍編入した。
 7サンフランシスコール紙(7月29日)「日本軍艦、ローズヒルに対し非抵抗を促す文書を持って現地に向かう」
 日本海軍は、アメリカが西太平洋に進出し始めていると警戒した。
 7月4日 セオドア・ルーズベルト大統領は、1899年から続いたフィリピン鎮圧戦の終結宣言を行った。
 アメリカ軍は、12万6,000人を動員した。戦死者は、4,234人。負傷者は、2,800人。病死者は、数千人。
 戦費は、6億ドル以上。
 フィリピン側の被害は、兵士の戦死が2万人以上で、民間人の餓死よ病死が20万人以上と言われている。
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 1903年 人類館事件。琉球人は、アイヌ人を差罰していた。
 「沖縄人は同じ日本人なのに、アイヌ民族そのほかと同列に扱うとは何事か」
 アメリカは、フランスが失敗したパナマ運河建設に乗り出し、コロンビア政府とヘイ=エラン条約を締結した。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、同条約で、「運河を建設し、それを支配する事」を認めさせた。
 コロンビア議会は、同条約は屈辱的あるとして批准を拒否した。
 コロンビア国民は、大国アメリカの横暴に反発した。
 パナマ人独立派は、コロンビアとアメリカの関係が険悪した事を利用して、コロンビアから独立する為にアメリカに軍事支援を要請した。
 新パナマ運河会社のフランス人フィリップ・ビュノー・ヴァリラは、ルーズベルト大統領とヘイ国務長官に、運河建設の為にパナマ独立への支援を要請した。
 ルーズベルトは、アメリカ大陸の影響力を強化するというモンロー主義政策から、パナマが独立を宣言したら支援の為に48時間以内に軍艦と部隊を派遣すると約束した。
 ペトリアナ号座礁事件。オーストリア南東部のメルボルン沖でペトリアナ号が座礁し、船長夫妻と9人の白人は救助されたが、支那人水夫27人は沈没寸前の船上に取り残された。
 2日後。通りかかった日本船は、支那人水夫27人を救助して香港に無事に送り届けた。
 5月9日 ヘイ国務長官、高平駐米大使に、対露交渉での日米英交渉の必要を認めずと回答した。
 6月 ロシア帝国陸軍大臣クロパトキン大将が、敵前視察の為に日本を訪問した。
 日本国内は、大国ロシア帝国との戦争は勝てないという恐露病が蔓延して、開戦反対意見が起きた。
 軍部は、ロシア帝国満州を南下して朝鮮に侵出してくる事は明らかである以上、戦争は避けられないとの決意をのもとに準備を進めた。
 10月 参謀本部次長田村怡与造少将は、対ロシア作戦計画の遂行中に過労で急死した。48歳の若い死であった。
 ロシア帝国との戦争が避けられない以上、新たな参謀次長を選ぶ必要があったが重責を担える人材がいなかった。
 児玉源太郎は、内務大臣兼台湾総督であったが、ロシア帝国との戦争に勝つ為に虚栄心を捨て、二階級降下して参謀次長に就任した。
 メッケル「児玉こそ日本最高の参謀であり、100年に一度の軍略家である」
 「児玉がいる限り日本は必ず勝つ」
 当時の軍人は、自分の才能・能力を正確に理解して高位の役職を望まず、命じられた作戦を寸分の狂いもなく実行した。
 その謙虚さが、日本を勝利に導いた。
 メッケル「如何なる新兵器が発明され、銃、火砲の改良があっても最後の勝利の決定者は精神力である。武器にこだわり精神力を軽視すれば、必ず敗北する」
 「健兵とは疾風の如く進軍して行く健脚の歩兵であり、いかなる辛苦にも堪え得る精神力と黙々として任務を果たす犠牲的な精神の持ち主である。ドイツはこの健兵主義で、ナポレオンのフランス軍を破ったのだ」
 現代日本は、戦前日本以上に「メッケルの精神」を受け継いでいない以上、日本の戦史を論ずる資格は無い。
 10月28日 青函連絡船「東海丸」沈没事件。乗客乗員104人を乗せた東海丸は、強風で荒れている海でロシア貨物船「プログレス号」と衝突した。
 東海丸船長久田佐助は、船体が傾き出すや沈没の危険有りと判断し、即座に総員退船を命じた。
 久田船長は陣頭に立って、乗務員に救命ボートの準備をさせ、自ら乗客を誘導して救命ボートに乗せた。
 何時でも脱出できる様に、乗客・乗員全員を5隻の救命ボートに移乗させた。
 海は、依然として強風で荒れていた。
 荒れた海に救命ボートを降ろすと二次被害が起きる危険があると判断するも、このまま無駄に時間を浪費してはいつ船が沈没するか分からない。
 久田船長は、救命ボートを降ろして、一人船に残り、プログレス号や近くの沿岸に遭難と救助を求める非常汽笛を鳴らした。
 久田船長は、東海丸が沈没するまで非常汽笛を鳴らし続け、船と運命を共にして殉職した。
 非常汽笛を聞き付けて引き換えしたプログレス号は、直ちに救命ボートを捜し遭難者の救助にあたったが、数隻の救命ボートは強風に煽られて転覆し57名を助けたが、47名は死亡した。
 自己犠牲として乗客を救った久田佐助船長の行為は、乗客の安全を守るという船長の責任を全うした、船乗りの鑑としてイギリスでも紹介された。
 久田佐助「船長たる者は万一の場合は決死の覚悟がなければならぬ、従って自分が乗った船が遭難して100人中99人助かったとしても、帰らぬものと思え」
 11月3日フランス人フィリップ・ブノー・ヴァリラは、アメリカから全面支援の約束を取り付けてパナマ独立派を組織していた。
 パナマ独立派は、コロン市庁舎前での独立を宣言しパナマ人を中心とした正統政府が成立するまで臨時政府で国家運営を行った。、
 パナマ独立軍は、アメリカ軍の支援を受けながら、パナマに駐屯していたコロンビア守備隊を監禁した。
 アメリカは、ただちにパナマ共和国を承認し、コロンビアの反撃に備える為に軍艦9隻と部隊を派遣した。
 コロンビアは、アメリカの砲艦外交に屈して独立を認めた。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、「力こそ正義」政策と軍事力による「棍棒外交」を行った。日本脅威論者であったが、政治家として公の場で反日という本心を明かさなかった。
 マハンへの手紙「もし私に手立てがあるなら……私は明日にもハワイを併合し、星条旗を島の中に立てたい。我々は、日本の新しい戦艦二隻がイギリスを離れる前に行動を起こすべきだ。我々はニカラグア運河を早急に完成させ、12隻の軍艦を建造し、その半分を大平洋に配置したい。私は、日本の脅威を現実のものとして感じている」
 11月5日 アメリカは、コロンビアの軍事介入を牽制する為に、パナマ共和国を承認した。
 11月18日 ビューノ=ヴァリラは、パナマ特命全権大使としてワシントンに赴き、運河建設と運河地帯の永久租借に関する条約を締結した。
 ビューノ=ヴァリラは、条約の詳しい内容を本国に知らせず、政府の承認を得ず独断で調印した。
 アメリカは、パナマ運河の建設権、運河地帯の所有権、運河の永久使用・占有・支配の諸権利を手に入れた。
 そして、パナマキューバやドミニカに次いで保護国とした。
 パナマ政府は、アメリカの裏切りに激怒したが、戦争をしてまで名誉を守る国力がなかった為にパナマ運河条約を受け入れた。
 ドイツは、海運業を充実する為に建艦計画を発表した。
 イギリスは、ドイツ海軍の増強で海上覇権が脅かされるとして警戒した。
 第一次世界大戦の目に見えない前哨戦芽は、この時から始まった。
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 朝鮮は、国家を日本の侵略から守る為に、沿岸の二カ所をロシア海軍基地に提供する事に同意した。
 日本は、自国の安全を確保する為に朝鮮問題を解決する必要があった。
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 1904(〜05)年 明治天皇の御製 「はりがねの たよりのみこそ またれれ いくさのにはを おもひやらるにも」
 小国日本が、日露戦争で、大国ロシア帝国に勝利した。
 日露戦争は、世界戦史上はじめての情報通信戦であった。
 非白人非キリスト教徒の日本人が、白人キリスト教徒はかなわず勝つという白人不敗神話を破り、絶対不変と思われた世界常識を覆した為に、世界史・人類史は新たな時代に突入した。
 アメリカの海軍長官の諮問機関である海軍将官会議は、「1年2艦政策を基本とした戦艦48隻を基幹とする艦艇を1920年までに完成させる」という建艦計画を、海軍長官に提出した。
 フィリピンのルーク・ライト民政長官は、日本国内で活動しているフィリピン独立派を調査する為にF・S・ケアンズを派遣した。
 アメリカ軍は、日本軍とフィリピン民族派が手を組む事を警戒していた。
 ハワイ準州カリフォルニア州反日派は、今にも日本軍が攻めてくると恐怖し、本国の人種差別主義者に支援を要請した。
 アメリカ労働総同盟(AFL)は、日本人移民のさらなる削減を求める決議を行い、連邦議会に法律の成立を要請した。
 だが。植民地支配反対の理想主義者やロシア帝国内でのユダヤ人迫害に反対する人権主義者は、一人でロシア帝国と戦っている軍国日本を支持していた。
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 気候風土からサトウキビ栽培以外の農産物がなく、日本に向けて黒糖生産して輸出していた。
 農民は、農地解放で自分の土地を手に入れたが、サトウキビ栽培に固守して転作には消極的であった。
 日本に安い台湾産やキューバ産の良質な白糖が輸入されるや、沖縄産の黒糖は市場から閉め出された。
 沖縄農民は、本土から来た高利貸しから金を借りてサトウキビを栽培していた為に、黒糖が売れなくなるや農地は抵当として奪われた。 
 没落農民は、標準語が話せなかった為に、本土に渡る事を諦めてアメリカや東南アジアに移住していった。
 だが、白人社会は宗教的人種差別から、非白人移住者に対して激しい迫害を加えていた。
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 2月 セオドア・ルーズベルト大統領は、フィリピン民政長官として実績を上げているウィリアム・タフトをワシントンに呼び戻して陸軍長官に任命し、引き続きフィリピン統治に関与させた。
 アメリカにとっての日本との境界線は、フィリピンと日本領台湾を隔てるバシー海峡であった。
 アメリカは、イギリスと、同じ英語を話すアングロ・サクソンという共通性の上に良好な関係を維持していた。
 イギリスは、大艦隊を建設しながら大海軍国家に成長し始めたドイツ帝国に対抗する為に、太平洋では日本と、大西洋ではアメリカとの協力関係を築いていた。
 アメリカ海軍にとって、イギリス海軍極東アジア制海権を日本に委譲して主力艦隊をインドに退いた以上は、否が応でもバルチック艦隊を撃破した世界一流の日本海軍と対峙せざるを得なくなった。
 カリフォルニアの人種差別主義者とアイルランドアメリカ人は、日本人移民排斥運動を活発化させていた。
 セオドア・ルーズベルト「カリフォルニアの馬鹿野郎連中、特にサンフランシスコの連中は無茶苦茶な日本人蔑視を行っている。もし日本と戦争する事にでもなったら、そのツケを払わされるのは国全体だという事を分かっているのか」
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 ロシア帝国は、アジアへの平和な進出を望み、日本との戦争を回避しようとしていたわけではない。
 ロシア軍首脳部は、日本軍を撃破して勝利し、日本領の一部(千島列島・北方領土・北海道・対馬)を割譲させる為には、1.5倍の兵力が必要であり、兵力増強が完了するまでには2年の年月がかかると分析していた。
 ロシア海軍軍令部編纂「1904、5年露日海戦史」
 ロシア外務省も、極東アジアでのロシアの絶対優位権を確立する為には、日本海軍の全艦隊を撃滅し艦隊保有権を剥奪させる事が重要であり、アジア制覇の為に朝鮮半島を占領して対日戦用軍事基地を建設する必要があると。
 朝鮮の親露派は、反日として、古代からの宿敵日本を滅ぼす為にロシアの対日戦略に全面的に協力していた。
 ロシアの外交は、平和の為ではなく戦争の為に行われていた。
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 小国で劣勢な日本が、大国で優勢なロシアに勝て祖国を守るには、ロシアが戦争準備を完了する前に、先制攻撃による宣戦布告で戦争の主導権を取り、全ての戦闘で攻勢的に優位を保ち続ける必要があった。
 日本陸軍の歩兵の総兵力は、ロシア陸軍の約9%に過ぎなかった。
 軍事力に劣る日本軍の勝機は、誰が非難しようとも、騙し討ち的奇襲攻撃しか他に方法がなかった。
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 伊藤博文ら対露宥和派は、日本の経済力と軍事力では超大国ロシアには勝てない事が分かっていた為に、戦争を回避する為にあらゆる手を尽くしていた。
 それを拒否したのは、ロシアであった。
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 2月4日 御前会議で、ロシア帝国との開戦が決定された。
 明治天皇は、世界的強大軍事帝国であるロシア帝国との戦争には反対であったが、政府が統帥部と協議して決定した以上は裁可せざるを得なかった。
 夜。明治天皇は、昭憲皇后に、勝てる望みが薄いロシア帝国との戦争を決断し国交を断絶した事について、「これは朕の志ではないがやむを得ない」心の内を吐露された。
 そして、「四方の海みなはらからと思う世に など波風のたちさわぐらむ」と詠まれた。
 御製は、開戦前に平和愛好の精神で詠まれたのではなく、国交断絶し宣戦布告を決めた後に詠まれた御歌である。
 この時間的関係は、前帝室編修官・渡辺幾治郎が昭和11年に出版した『明治天皇と軍事』の中で明らかにした。
 昭和13年に、『明治天皇と軍事』は新訂増捕版として陸軍士官学校文庫に加えられ、天皇の気持ちを知る為の必読の書とされた。
 昭和16年6月に、『明治天皇の聖徳 軍事』の新題名で出版され、誰でもが買って読む事ができた。
 軍人はおろか国民も、「四方の海」の御製が開戦という御英断を下した後の御歌である事を知っていた。
 其れを、平和愛好の精神と読むか、甚大な被害を出す戦争への開戦決意と読むか、それは御製を読む個人の自由であった。
 日本の短詩である和歌や俳句は、長詩の様な作詩家のくどい説明を省いた簡潔明瞭さゆえに、読む人間の心情や感性に左右されて解釈される。
 つまりは、どう解釈しようとも決まり事がない為に個人の自由で勝手であった。
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 伊藤博文は、広報外交として、中立国アメリカの世論を味方に付け、セオドア・ルーズベルト大統領に時期が来たら講和の仲介を依頼する為に金子堅太郎をアメリカに派遣した。
 世界では、声を大にして言わねば分かって貰いない事を熟知していた。
 正しい事は言わなくとも何時かは分かって貰えるという、甘い考えは持っていなかった。
 自国に不利になる事、国益を損なう事が起きないように、一歩の引かず、配慮せず、相手にはったりをかけたり威嚇したりあらゆる手段を繰り出した。
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 ロシア皇帝ニコライ2世は、満州と朝鮮に於ける対日戦の準備が整うまでの二年間は、外交で日本を騙して宥めようと考えていた。
 日露戦争は、避けられない戦争であった。
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 明治天皇は、伊藤博文に「この戦争は勝てるのか」と聴いた。
 伊藤博文は、「その目処は立ちませんが、緒戦で六分四分に持ち込んでヨーロッパの適当な国に講和を」求め、勝てなかったら「臣博文は一兵卒になって朝鮮半島に屍を晒す覚悟であります」と奉答した。
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 2月5日 日本は、皇国の興廃の為に、超大国ロシア帝国に対して乾坤一擲の勝負を賭けるべく、動員令を下した。
 2月6日 モスクワの駐露公使は、ロシア帝国に対して対露交渉の打ち切りを通告した。
 ロシア帝国は、清国領満州全土に戒厳令を布告し、駐屯しているロシア軍に日本軍の攻撃を警戒する様に命じた。
 連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、全艦隊に出撃命令を下した。
 だが。大国意識の強いロシア軍は、弱小国日本からの攻撃はないと高を括って油断していた。
 清国は、対日戦略から、ロシア帝国による満州支配を黙認した。
 日本陸軍は、韓国国内の陸上電信・電話線を切断した。
 日本海軍は、砲艦愛宕の陸戦隊を馬山浦に上陸させ馬山の電信局を占拠させ、釜山の陸軍守備隊に依頼して釜山の電信局を占拠させた。
 日本軍は、韓国国内の通信網を占領し、韓国とロシア・清国間の連絡を遮断した。
 京城の在韓ロシア公使館と仁川碇泊中のロシア海軍巡洋艦ワリヤーグ・砲艦コレーツは、外部との情報連絡が途絶した。
 芝罘(チーフー)のロシア総領事は、旅順・芝罘間の海底ケーブルが切断された為に、陸上通信で旅順と連絡を取り合った。
 日本海軍は、デンマーク大北電信会社が設置したウラジオストック・長崎間の海底ケーブルを遮断し、ケーブルを引き上げて韓国と日本間の仮設軍用水底線に再利用した。
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 小国が大国と戦って勝つ為には、宣戦布告前に、少数精鋭で油断している敵の大軍に対して奇襲攻撃をするしかない。
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 2月8日 砲艦コレーツは、半島における日本軍の不穏な動きと韓国政府の状況を旅順の極東総督・太平洋艦隊司令部に報せる為に出航した。
 日本海軍の連合艦隊は、仁川沖で待ち構え、出航して来たロシア軍艦と交戦した。
 仁川沖海戦である。
 国際社会は、日本は騙し討ちや不意打ちを卑怯な国と認識した。
 日本軍は、早くから情報・通信ネットワークの重要性を認識し、軍・官・民一体となって自国産製品による国産無線電信機を短期間で開発し、大急ぎで配備した。
 弱小民族資本の日本には、時間的ゆとりも金銭的余裕もなかった。
 島国に生きてきた日本民族は、絶体絶命の切羽詰まった状況に追い込まれないと動けないという、優柔不断の民族的欠点があった。
 明治の日本人は、弱小国であるとの自覚を持ち、大国に対する臆する事なき不屈の精神を養うと共に、欧米の科学技術力を盲目的に礼賛せず独自開発と自力生産に徹していた。
 日本が持っていた強みとは、物事に諦めず前に進む人材と困難を自分の知恵と技能で乗り越えて行こうとする現場の職人芸「匠」であった。
 昔の日本人は、現代の日本人とは違って、全ての国民が軍事力で国を守るという危機感を強く持っていた。
 現代日本の政治家や官僚や経済界には、国防意識が希薄な為に、親善・友好の証しとして防衛機密技術が中国など反日周辺諸国に流出していても関心がなかった。
 事実。国防に転用可能な最新技術が中国軍関係企業に流れている。
 現代日本人は、昔の日本人ほど歴史に興味があい為に、口で言うほどに歴史を教訓として学ぼうという気持ちがなく、理想的発言と現実的行動が伴わない。
 明治時代の日本人は、欧米列強の植民地になる危険を回避する為に、理の通らない要求には武器を持って抵抗した。彼らは、国を守る為なら戦争を覚悟していた。
 現代の日本人は、戦争を避け平和を維持する為に、損を承知で相手の言い分を受け入れ譲歩している。
 日本軍は、無線通信以外の陸上・海底電信設備を占拠・破壊して、ロシア軍の通信手段を遮断した。
 為に。ロシア軍は、情報が得られず部隊運用が出来ず、日本軍の後手に回って各戦線で敗北した。
 日本海軍は、制海権を確保し、指定された港湾に兵員や物資を陸揚げした。
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 内村鑑三は、キリスト教徒として戦争廃止論を唱えた。
 弱小国日本に比べて、ロシア帝国の軍事力は10倍以上あってとうてい勝てる相手ではない。
 負ければ日本はロシア帝国に植民地される、勝てば日本は傲慢になって侵略戦争を始める。
 だが。戦争が始まるや、弟子が兵役を忌避しようとやむしろ戦争に行く様に諭した。
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 清国は、ロシア帝国との対日秘密協定から軍事支援したかったが、日英同盟で断念した。
 大韓帝国内の親露派朝鮮人は、日本軍の情報をロシア軍に知らせていた。
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 「有能な参謀は教育で作る事ができるが、優秀な指揮官は戦場でしか生まれない」
 日本軍の指揮官は、総じて、ロシア軍指揮官よりも優れていた。
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 2月10日 日露戦争(〜05年) 日本は、ロシア帝国に対して宣戦布告した。
 欧米諸国は、日本とロシアの両軍司令部に観戦武官を送り込み、日本軍兵士の英雄的な献身と闘争心と団結心に讃辞を送った。
 日本は、僅かな兵力でロシア軍と朝鮮の義兵軍と戦い、苦戦の連続であったが、夥しい犠牲を払って何と連戦連勝を続けた。
 極東総督アレクセーエフは、旅順が包囲される前にウラジオストクに脱出し、ウラジオ艦隊に日本と朝鮮・満州間の補給路を攻撃するように命じた。
 清国は、日露戦争が勃発すれば、日本への復讐としてロシア帝国に味方して日本を攻撃しようと考えていたが、日英同盟成立で断念した。
 清国とロシア帝国は、日本と朝鮮を分割して領土とする密約があったものと考えられる。
 2月24日 第一回旅順口閉塞作戦。
 2月26日 パナマ臨時政府代表のヴィリアは、ヘイ国務長官と、アメリカに有利なパナマ運河建設に関する条約を結んだ。
 パナマ正統政府は、11月に外交団をワシントンに送ったが、国際法的に臨時政府との条約は有効とされて変更は不可能となっていた。
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 4月12日 金子堅太郎は、ユニバーシティ・クラブでの演説で、旅順港外で機雷に接触して沈没した戦艦ペトロパブロフスクととも戦死した司令官マカロフ大将に対して冥福を祈った。
 サムライは武士道精神で、敵の大将の死に対して敬意を持って手向けの言葉を贈った。
 「なんぞ追悼の情ににたえん。然りといえども提督は、露帝の命を奉じて職(おも)に閫外(こんがい)に就き、一朝君国の為に斃れ武人の本分を全うせるものにして、敵味方の区別なく均しく其の忠君愛国の事蹟を景慕(けいぼ)し、其の名声は永く露国の海軍歴史に赫々(かくかく)として輝くべし」
 アメリカ人はおろか世界中の人々が、日本人の卓越した語学力による自己主張もさる事ながら、武士道における精神性の高さに感動し大反響を呼んだ。
 欧米人は、日本武士道がキリスト教価値観に匹敵する普遍性を持った規範である事を認め、日本人を文明を持たない野蛮人である事を再認識した。
 アメリカ人は、卑怯な振る舞いをせずフェアプレー精神で、正々堂々と戦う日本人を見直した。
 イギリスにおいては、伊藤博文の娘婿である末松謙澄が広報外交を行っていた。
 日本は、ロシア帝国の侵略に対する自衛の戦いである事、ロシア人兵士は国際法に則って人道的に処遇している事、フランス領インドシナを占領する意思がない事、白人のキリスト教文化とは異なる伝統的な文化、道徳、知性を持っている事、などを分かりやすく書いた論文を、イギリスやフランスの有力新聞に掲載した。
 伊藤博文は、日本を守り、勝つ為にあらゆる手段を講じていた。
 欧米各国は、伊藤博文らの忠君愛国の深さに感心し、次第に日本贔屓に傾いた。
 4月30日・5月1日 鴨緑江渡河作戦。日本軍4万2,500人中死傷者933人。ロシア軍1万6,000人中死傷者1,758人。
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 5月9日 アメリカは、パナマ運河の建設を開始した。
 5月25日・26日 金州・南山の戦い。日本軍3万6,400人中死傷者4,387人。ロシア軍1万5,000人中死傷者1,336人。
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 6月15日 常陸丸事件。輸送船「常陸丸」「佐渡丸」は、玄界灘ロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊の攻撃を受けた。
 ウラジオ艦隊は、最初は脅しとして空砲を発射し拿捕しようとしたが、「常陸丸」が全速力で遁走を図ったので実弾発射に切り替えた。
 一発が「常陸丸」の機関部に命中して速度が減速した所を、近接射撃で砲弾約100発を打ち込まれ、戦死者が続出して機関は破裂し、ついに第三甲板から出火した。
 イギリス人船長ジョン・キャンベル、機関長ジェームズ・ヒュー・グラス、運転士サミュエル・ジョゼ・ビショップは、相次いで敵弾して倒れた。
 後備近衛歩兵第一連隊長須知源次郎中佐は、軍旗奉焼と旗竿の破壊を命じた直後に砲弾が命中して負傷し、運命を悟って切腹して果てた。
 残る将校達も、切腹か拳銃で自決するか海中に飛び込んで自裁して、須知に殉じた
 「常陸丸」は、三度目の一斉射撃を受けて沈没した。
 戦死者は、陸軍958人、海軍3人、乗組員130人のの総計1,091人であった。
 漂流していた約147人は、「土佐丸」に救助された。
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 7月 セオドア・ルーズベルトは、大統領再選において250万票差で圧勝した。
 だが、黒人隔離政策を支持する南部諸州では敗北した。
 南部民主党は、人種差別勢力の復活の為に活動を拡大していた。後年、理想主義者であり人種差別主義者でもあるウッドロウ・ウィルソンを大統領にする事に成功した。
 タフト陸軍長官は、フィリピンにおける啓蒙活動の成果として、1900年頃の武断統治に比べて穏やかになりつっあるが、フィリピン人に自治を任すまでには時間がかかると報告した。
 セオドア・ルーズベルト大統領は、家族とともにセントルイス博覧会を見学し、金閣寺を模した日本館を見学し、フィリピン人保護区展示場を見て回った。もし日本と対峙したとき、フィリピンは当てに出来ない事を痛感した。
 アメリカの人種差別主義者は、非白人種であり文化度の低いフィリピン人が大挙して移住してくる事に恐怖した。
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 ポーランド独立派のユエフ・ピウスツキ将軍は、ロシア帝国の支配から独立する為の軍事援助を日本から得る為に、来日した。
 「日本とポーランドが手を携えてロシアと戦おう」
 ポーランド独立派は、日本軍の支援で武装蜂起する見返りとして、「東部ロシア及びシベリアの鉄道・橋梁を破壊し」満州への増援を妨害すると提案した。
 日本政府と軍部は、ポーランド独立派からの提案を協議したが諸事情を理由にして断った。
 フィンランドなども、ロシア帝国と戦う日本の勝利に期待する国家と民族が多数存在していた。
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 ウラジオ艦隊は、2月9日からゲリラ的に通商破壊戦として、神出鬼没に日本近海に現れて日本軍輸送船を攻撃していた。
 2月11日 津軽半島沖で、名護浦丸を撃沈。
 7月20日 太平洋に遠征し、東京湾口から静岡にかけて5隻を撃沈して、数隻を拿捕した。
 日本は島国として海に囲まれているだけに、攻撃されやすく防衛しづらい地理的条件に合った。
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 8月10日 黄海海戦日本海連合艦隊対旅順艦隊。
 8月14日 蔚山沖海戦。日本海軍第二艦隊対ウラジオ艦隊。 
 日本海軍は、沈没した敵艦リューリック号から放り出されたロシア人水兵達を救助して帰還した。
 欧米の新聞は、「日本の武士道の鑑」と讃えた。
 日本軍は、勇敢に戦った敵兵には敬意を持って接し、捕虜となった彼らを国際法にもとずいて収容した。
 欧米諸国は、観戦武官を派遣して両軍の軍事行動を見学していた。
 8月24日(05年1月5日) 旅順攻防戦。日本軍戦死者1万6,000人。ロシア軍戦死者1万5,000人、捕虜5万8,000人。
 8月25日(〜9月4日) 遼陽会戦。日本軍13万4,500人中死傷者2万3,500人。ロシア軍22万4,600人中死傷者約2万人。
 日本陸軍の東西両砲兵工廠における砲弾製造能力は、日産300発がやっとであった。
 300発とは、砲兵一個中隊が連射すると10分で消費する量であった。
 日本軍は、大砲や機関銃などの武器でロシア軍に劣ってはいなかったが、深刻な砲弾不足に悩まされていた。
 イギリスは、同盟を結んで好意的な行動を取っていたが、戦時中は援軍はもちろん弾薬の売却は御子会わなかった。
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 10月8日(〜17日) 沙河会戦。日本軍15万人対ロシア軍19万人。
 10月21日深夜・22日未明 ドッガーバンク事件(ハル事件・北海事件)。バルチック艦隊が極東へ向かう途中で、北海のドッガーバンクで非武装のイギリス漁船団「にわとり艦隊」40〜50隻を日本海軍の工作船と見誤って攻撃し、多数の死傷者をだした事件である。
 バルチック艦隊は、海上を漂流する犠牲者を救助しようともせず立ち去った。
 知らせを聞いたイギリス世論は、トラファルガー海戦記念日に発生した事件であるだけに激高して、バルチック艦隊に対して激しく抗議した。
 国王エドワード7世は、報告書の余白に「最も卑怯な暴行事件である」と書き加えた。
 東京市長尾崎行雄は、ハル市で死亡した漁師の葬儀が行われた日に弔電が送った。
 駐英日本公使の林董は、ドッガーバンクでの事件に日本人はまったく関与していないと公式に声明を出した。
 バルチック艦隊は、ドーバー海峡をそ知らぬふりで通過した。
 イギリス海軍は、巡洋艦隊を出撃させ、スペインのビーゴ港まで追尾させた。
 イギリス政府は、スペイン政府に対して、バルチック艦隊へ石炭はおろか真水さえも供給するなら中立違反と考えるとの警告を送り、ロシア帝国との関係に緊張が走った。
 フランス政府も、バルチック艦隊の蛮行に対する国際世論の風当たりの強さから、好意的な支援を控えた。
 10月23日 明治天皇は、満州の戦場から帰国した陸軍大将伏見宮貞愛親王を、セントルイス博覧会に出席させる為にアメリカに派遣した。
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 11月8日 セオドア・ルーズベルト米大統領は再選された。
 11月14日 伏見宮親王は、ワシントンに到着し、翌日にセオドア・ルーズベルト大統領と接見して明治天皇の言葉を伝えた。
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 アメリカ軍当局は、米英日連合軍と露独仏連合軍による東アジアでの戦争を想定した図上演習を繰り返した。
 ホワイト・ハウスは、国家安全保障のカラー計画の為に、戦争を想定した演習結果を待っていた。
 現実に即した条件下で、考えられる限りの想定と起きないかもしれない事情を加えて、あらゆる対策を立てるのが真のリーダーであった。
 自分に都合の悪い事から目を逸し行動を起こさない者は、公衆の面前、公の場から身を退き、人里離れた不毛な土地で、他人と接触を断って一人孤独に生きるべきである。
 対日戦演習は、日露戦争の結果を加えながら行われた。
 特に。日本海海戦で、世界第二位のロシア艦隊を完全勝利で破った弱小海軍の日本艦隊に脅威を抱いた。
 世界第三位のアメリカ海軍では、世界第三位に躍り出た日本海軍に単独では勝利できるか疑問視され、日英同盟で世界第一位のイギリス海軍と連合されては敗北は避けられないとの結論に達した。
 ワシントンは、日本をアジア地域おける仮想敵国と認め、日英同盟アメリカの安全を脅かす存在であると分析した。
 アメリカ軍は、自衛的安全保障として、イギリス、日本、ドイツ帝国などの仮想敵に対する戦争計画を立案した。
 これが「オレンジ計画」であるが、自衛権を持つ国家の当然の権利であり、非難するに値しない事である。
 戦争を想定した国防計画は、自主独立国の当然の権利である。
 言い換えれば、自力による国防計画を持たず独自の防衛力を持たない国は、植民地か、保護国もしくは属国である。
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 2017年9月6日 産経ニュース「【浪速風】日本が誇るべき歴史 未来技術遺産に選ばれた明治の技術者の「坂の上の雲」(9月6日)
 日本海海戦戦没者を悼んで行われた洋上慰霊式=平成29年5月、博多湾
 対馬海峡に現れたロシアのバルチック艦隊を発見した哨戒艦信濃丸」は「敵艦見ゆ」と打電した。東郷平八郎が指揮する連合艦隊の旗艦「三笠」からは「直ちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」。日本海海戦はこの有名な電文によって火蓋を切った。
 ▼「三六式無線電信機」は海軍技師の木村駿吉が開発した。艦船用の無線は80海里(約150キロ)の通信能力が求められた。二高教授から転じた木村は寝食を忘れて従来の無線機の改良に取り組み、世界最高の性能を完成させた。明治36(1903)年に海軍に採用されたので三六式。翌年、日露戦争が開戦した。
 ▼日本海海戦を勝利に導いた参謀の秋山真之は「無線電信機の武功抜群なりしに就(つ)いては、小生等の深く貴下に感謝する所に御座候」と木村に書簡を送った。明治の技術者が目指した「坂の上の雲」が、重要科学技術史資料(未来技術遺産)に選ばれた。これも日本が誇るべき歴史である。」



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日露戦争と世界史に登場した日本

日露戦争と世界史に登場した日本